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教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行

葬儀を考える─意義について

葬儀を考える─意義について

灘 上 智 生

(1)はじめに
 私は現在、横浜の中区にあります善行寺の副住職をしております。善行寺は、葬儀・法要中心の典型的な都市型寺院と言えると思います。このような自己紹介でいまから九年前の第二回教化学研究発表大会で「葬儀の現状を通して、お寺離れの実情を追う」という発表をさせていただきました。当時は、檀信徒の中でも通夜・葬儀を行わず火葬しお骨にして、四十九日忌で埋葬する檀信徒がぼつぼつ出てきましたと述べていますが、昨年は葬儀の約三割が通夜・葬儀を行わず、四十九日忌の際に寺の本堂で葬儀を行い、法号を授与し、埋葬をしました。近年、都心では二〜三割が直葬と言われておりますが、菩提寺を持った檀信徒も通夜・葬儀という儀式を行わなくなってきているという現状があります。檀信徒の方が亡くなったという連絡を受けた際、「通夜・葬儀はやらずお骨にし、四十九日忌の時に法号をもらい埋葬します。」と言われると、「葬儀は大切なので是非行いましょう。」とは言いにくいのです。通夜・葬儀を行うには、費用がかかるため、寺としては四十九日忌に本堂で葬儀・法号授与という形式になってしまいます。
 ですから今回は、生前に檀信徒の方に「葬儀をやりたくないのですが……」と言われたら、どのように答えるかを、自分なりに考えるための基本的な前提を提示しますので、そこから自分の納得のいく答えを導き出して頂きたいと思います。

(2)葬儀とは
 葬儀とは、辞書で調べますと、「死体・遺骨を墓所などに埋葬する儀式のこと」と出ています。
 葬という字は、死体を上と下から草で隠して見えなくする意味です。二十〜四万年前の旧石器時代中期の古人類であるネアンデルタール人は、死者の埋葬をしていました。中国の三礼の『礼記』(周末から秦・漢時代)には、「葬とは蔵なり。蔵は人の見るを得ざらんと欲するなり」とあります。また、インドでは、古くから水葬・火葬・土葬・鳥葬が行われていたことが、『釈氏要覧』(宋)に記されています。日本においても、『伊勢物語』『古事記伝』などに「はふり」すなわち葬るという記述があります。葬るとは、放棄するという意味であり、死体を遺棄するということです。そこには今までともに生きてきた最愛の人が、自分たちとは異なる遺体へと変容し、その場に直面した際には恐怖感・嫌悪感が存在したのではないでしょうか。その状況を克服するために、葬儀という儀式が発達していったと考えられます。
 歴史的に葬儀を見ていきますと、平安時代半ばまでは天皇家や貴族・高僧などごく一部を除いて、遺骨に対して全く関心を払うことなく、遺骸を放置していたのですが、十二世紀以降火葬骨を霊場に運ぶようになり、江戸時代になりますと、墓を造って骨を納め、定期的に墓参りを行うようになります。つまり、時代を経るにつれて、葬儀が庶民の為に行われるようになったわけです。
 現代人の状況に則して言えば、葬儀とは、死という結果の事実だけではなく、死に臨んでいる病者の看取りから、通夜・葬儀そして埋葬に至る物理的、心理的プロセスの総体を意味するのだと思います。
 葬儀は、死者の尊厳を守り、近親者と死別して喪失感情を持つことへの対処として生まれてきたものと考えるなら、最愛の人が亡くなったという「二人称の死」を本質としているのです。
 葬儀無用とする人たちが現にいることは確かです。今年(平成二十二年)、『葬式は、要らない』(島田裕巳著)が二十九万部のベストセラーとなっており、この本を受け入れて、歓迎した読者がいるのも事実です。皆さんは、この本を読みましたでしょうか? 私は、売上に貢献するのは癪でしたが、買ってしまいました。この本の主張は、葬儀は贅沢であるということであり、葬儀を一人称のものと考えているからです。確かに、今後葬儀は、やる・やらないの選択から、やるにしても従来の仏式ではなく、ほかの方法でという選択も増えてくるでしょう。しかし、そのことと葬儀の必要性は別問題であり、葬儀の必要性が減少したのではなく、葬儀の在り方が変わってきたということだと思います。
 葬儀は死者の成仏を祈ると共に、固有の死者に遺族が向き合う場であり、大切な営みなのです。

(3)日蓮宗における葬儀の考え方
 仏教における葬儀について説いている経典に『浄飯王般涅槃経』があり、そこには、同族の人により、浄飯王の遺体を香汁で洗い、布でくるみ棺に収め、散華・焼香を行った。釈尊は、手に香炉を持って、葬所に棺を引導し、そして香薪を積み、棺をその上において、火を放ち荼毘に付し、収骨し遺骨を金函に盛り、塔を建てて供養したことが説かれています。また『涅槃経』には、釈尊が入滅の際に、頭を北に向け、顔を西に向けて臥したと説かれています。
 葬儀における法要儀式の体系を比較的早い時期に作り上げたのは禅宗と言われており、葬儀の勤め方を体系づけた『禅苑清規』(宋)の中に、高僧と修行中に亡くなった僧についての葬儀の勤め方が書かれています。この禅宗の作法が日本の禅宗で行われるようになり、『禅苑清規』が改訂され『小叢林清規』が著され、これが仏教各宗の葬儀に影響を与えました。
 日蓮宗の葬儀について見てみますと、日蓮聖人ご入滅時の、日興上人による『宗祖御遷化記録』に葬列の描写は書かれていますが、どのような法式で執り行われたかは記録されていません。現在行われている葬儀の法式の基礎は、優陀那日輝上人の『充洽園礼誦儀記』『葬儀用文集』などによります。
 現在行われている在家の葬儀について順を追って見てみますと、
①枕経
 新寂霊の枕元で営む読経のことで、遺体は北枕に安置し、顔は白布で覆います。枕辺には、卓を置き卓上には香炉・燭台・しきみの一本花を挿した華瓶・枕団子・枕飯・水などを備えます。また、読経のための鈴、木鉦を用意します。式次第は、勧請・開経偈・読経・唱題・宝塔偈・回向・四誓が一般的です。遺体を安置するのは、仏壇を安置した部屋が望ましい。なぜならば枕経の前に御本尊に法味を捧げた後、枕経を勤めるのが本義だからです。様々な作法は、釈尊の涅槃になぞらえようとする、仏教徒の心の表れです。
②湯灌
 納棺に先立って遺体を洗浴することを言います。湯灌の時には、参集全員が僧侶と共に唱題するのが望ましい。
③納棺
 遺体を棺に納めることを言います。納棺に際しては、経帷子を着せ、数珠を左手首にかけて手を胸に組ませ、手甲・脚絆・足袋・草履・六道銭を入れた頭陀袋・杖などを身に持たせ、生前の愛用品なども納めることが行われている。このような副葬品は、葬儀を死出の旅立ちと見なしている表れです。
④通夜
 葬式の前夜に、死者の冥福を祈るため、家族・近親・縁故の人たちが集まり、祭壇を祭り、供物、香華を備えて読経唱題(特に定まった法式はない)によって供養をし、また説法を聴き、あるいは故人の思い出を語るなどして夜を過ごすことです。
⑤葬儀
 葬儀は故人を心安く霊山浄土へ旅立たせる厳粛な儀式です。日蓮宗の定めた祭壇形式はありませんが、祭壇後方に御本尊を奉掲することが大切です。式次第は、宗定法要式をご参考いただきたいのですが、大正十年発行の日蓮宗法要式の葬式の項目の最初に、「葬儀は人生の三大礼中の第一なれば最も慇懃丁重に行い芥爾にも粗忽不謹慎の行為あるべからず」と書かれております。葬儀を執り行うには、それぐらい大変なことであるという覚悟が必要ということです。導師は儀式の主導者であり、死者の案内者と言えるでしょう。
 本宗の法式をもって葬儀をあげる人は、日蓮の弟子檀那等であることが第一条件ですから、僧侶は檀信徒に対して、日頃つとめて唱題読誦を勧めなければなりません。日蓮宗の葬儀において、死者の成仏は本仏の大慈悲と妙法の経力と被葬送者の信心とが相依って実現するのです。
 なお、葬儀・告別式と一緒にされていることがありますが、葬儀と告別式は異なります。葬儀は故人を霊山浄土に送る儀式、告別式は無宗教で執り行う故人に別れを告げる式のことです。
⑥出棺
 葬儀が終わり、僧侶が退席すると、棺を式場の中央に安置し、蓋を取り、棺に一膳飯・枕団子などを入れ、生花で飾り、蓋を閉じて、くぎ打ちをします。その間、僧侶は自我偈、唱題で回向します。
⑦荼毘
 火葬場の読経は、自我偈転読、唱題であって、特に定まった式次第はありません。回向は、葬儀回向文を用います。
⑧骨揚げ
 お骨拾いは、二人が一組になってお骨を拾い上げ、渡し箸で骨壷に入れます。特に定まった式次第はありませんが、参列者全員で唱題しつつお骨を拾うことが望ましいと思います。

(4)葬儀の変遷
 以前の葬儀は、共同体が運営をし、家族を死者の弔いに専念させましたが、現在では地域共同体の力が衰え、一般には家族が主催者として担う形態になっており、地域共同体に代わる葬祭業者がボランティアではなくビジネスとしてサポートするようになりました。そこでは、遺族はサービスの消費者となり、高度経済成長期には葬儀は大型化し、会葬者を多く集めるイベントのようになってしまいました。儀礼としても、死者を弔う宗教儀礼の葬儀が軽視され、社会儀礼としての告別式が幅を利かせるようになりました。その傾向は、バブル景気まで続きました。
 バブルがはじけると、不況が続き、経済格差が拡大し、貧困層が増加しました。一方、社会儀礼の必要性に疑問符をつけるといった葬儀に対する意識の変化が加わり、葬儀が小型化しています。その結果、親族のみで行う「家族葬」と呼ばれる葬儀形態の他に、「直ちょく葬そう」という火葬のみの葬儀が増えており、都心の火葬の二〜三割が直葬と言われています。直葬という名の死体処理は、死者に向き合う機会を奪うものであり、その重要性を放棄することと言えるでしょう。

(5)今後の葬儀を考える
 現代の葬儀は、死者を供養するための形式は整えているものの、遺族の心を慰める部分をその中に組み込んでいるとは言い切れないと思います。今日の葬儀の視点として「グリーフ(死別の悲嘆)」が提起されています。これに対しては、葬儀だけが解決するものではありません。日頃から、積極的に檀信徒やそのほかの協同者を求め、皆の不安を真剣に聴くように努めなければなりません。その行いを通して、関わる人々は、寺を信頼して自らの死後を託すようになるのではないでしょうか。そのような信頼関係を築くことにより、本当の死者の供養とグリーフケアが可能になると思います。
 日常においては、良き相談相手としてお付き合いをし、死亡直後には駆けつけて枕経をあげて看取るように努めましょう。この枕経をあげる時は、死亡直後ということもあり遺族は動揺しています。その時に一緒にいて悲しみを共有することは重要です。また、納棺の時もできれば僧侶は立ち合うべきでしょう。納棺をすることによって、遺族に死の事実を強制的に納得させるのであるから、その場には僧侶の存在が必要なのは言うまでもありません。昔は、僧侶は枕経、納棺、通夜、葬儀、火葬というプロセスを通し、死者や遺族にずっと付き合っていたのです。
 今後、葬儀は多様化を一層進めるでしょう。現在の葬儀の小型化が不況による現象であれば、いずれは元に戻るでしょう。しかし、この変化が、葬儀に対する意識変化によるものならば戻りはせず、ますます葬儀が軽視される傾向が強まると考えられます。現状を受け止め、今私たちに何ができるのか考えることのできるギリギリの時に来ているのではないでしょうか。

(6)あなたは丁寧な葬儀を行っていますか?
 近年、地域によっては、初七日を葬儀の中に組み込んで行うような、簡略化が見られます。これは、葬儀社にとっては会場の片づけが早くできるなど効率的で、僧侶にとっても早く自坊に帰れるなど時間の短縮・楽ができ、遺族にとっても式が早く済み早く自宅に帰ることができるといった、一見すると葬儀にかかわるすべての人にとって効率的で、良いことのように思われます。しかし実際は、故人の冥福を祈る十分な時間が無く、遺族にとっても死別の悲嘆に向き合うことの妨げることになっているのです。私たち僧侶は、現代の効率第一という価値観に流されることなく、丁寧な葬儀を心掛けなければならないのです。
 以下、チェックリストを参考に御自身の行っている葬儀を振り返って下さい。
   □故人の人柄をよく知っている
   □枕経を行っている
   □納棺に立ち会っている
   □通夜の後、法話をしている
   □法号の意味を説明している
   □葬儀には本尊を掲げている
   □火葬場へ同行している
   □お骨揚げを待っている間、遺族と会話をしている
   □お骨あげのお経をしている
   □中陰忌(初七日から四十九日忌)の法要をしている
   □埋葬の時、墓前で読経している
 葬式仏教とは、葬儀しかしないといった仏教を揶揄する言葉ではなく、社会が仏教を信頼して葬儀を任してくれたのだと考え、私たち僧侶は慇懃丁重に葬式仏教を実践しましょう。
 

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