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教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行

日蓮聖人の賢王思想㈡

日蓮聖人の賢王思想㈡

石 川 修 道

㈠ 仏教と戦争
 戦争はどのようにして起こるのか、世の中は全て話し合いで解決できれば問題は起こらない。両者に言い分があり、両者に信ずる正義がそれぞれ有る。その正義がぶつかり譲歩できない時は、外交交渉や訴訟して裁判で勝負が決する。勝者は喜び、敗者は恨みが残り、次の紛争の種となる。中世には決闘という型で問題を解決し、国家と国家の問題解決は「戦争」という解決方法を人類は採用してきた。自然界の生存競争は現在も「喰うか喰われるか」の鉄則に支配されている。その原理から、国際問題の現在を見れば日本が望む「北方四島」返還交渉は、ロシア側から観れば、「戦争で失ったモノは、戦争で勝って取り戻してみろ」が、ロシアの基本姿勢である。
 釈尊は苦悩からの解脱を求めて出家した。当時のインド社会は、「自性」を持つ苦が存在し、それに触れると「苦」と感ずると考えた。釈尊は、苦が苦という自性を持って、この世に存在するものではない。「無自性」だからこそ、様々に変化して存在拡大してゆく。だから、苦が苦悩となる人もいれば、その苦が苦と感じない人もいるのである。その人の立場、環境により苦の見方が変るのである。それと同じ意味で、戦争そのものに「自性」を認めることは出来ないと仏教は考える。どんな戦争でも、戦争そのものが善であるとか、悪であるとか判ずる自性を持っていないのである。結果的に善き結果をもたらす戦争は善と考え、悪い結果をもたらす戦争は悪いと人間は判断する。ある視点から見れば、戦争は有ってはならないものであると共に、他の視点から見ればなくてはならないものである。
 仏教は「無自性」の戦争そのものを、善とも悪とも定めない。戦争はある目的を遂行するための手段であり、戦争の本体は戦争の背後にある。戦争を起こす原因は、転輪聖王や国家でもない。人間の貪・瞋・痴の三毒など人間そのものに原因がある。
 大般若理趣分によると

「たとひ所摂の一切の有情を殺害するも、これに依て地獄に堕ちず」

と、殺害、戦争を認める仏教の一面もある。一株の草が薬草にもなり毒草にもなる。毒として使えば毒となり、薬として使えば薬になる。同じく仏の大慈悲に「摂受と折伏」行の二面性がある。
 如来が如来として現われる場合と、如来が転輪聖王の最高位たる「金輪聖王」として現われる場合がある。人間の機根が浅く、仏陀の徳性を「徳」として理解出来ない末世の衆生を救済するために、仏陀は徳の外に折伏の武器を執って金輪聖王として現われ戦争する時もある。貪瞋痴の煩悩の人的象徴たる魔王と対決するには、武器が必要となる。金輪聖王は七宝を持つ。㈠金輪宝、㈡白衆宝、㈢紺馬宝、㈣神珠宝、㈤玉女宝、㈥居士宝、㈦主兵宝。魔王と戦い勝つために、金も使い、女も使い、宝石も使い、兵隊も使うのである。転輪聖王(金輪)の作はたらき用として現われる戦争は、利益・権力の為の争いでなく、仏の徳を布く準備工作のための戦争である。田に種を植える前の耕作である。衆生に徳を植える手段として、金で苦労させ、女で苦労させなければ仏の智恵に目覚めない人々が娑婆世界にはいるのである。金輪聖王が折伏の武器を執るのは、人類に戦争の悲惨さを与えることでなく、歪んだものを真っ直ぐに直すための積極的手段である。
 釈尊在世の時代、共和国の眦ビ舎シャ離リーに住む維摩居士は仏教を保護した。釈尊はインド社会のカースト・四姓(僧侶、貴族、平民、賤民)を打破する自由主義・平等主義であったが、国家維持するには君主制を認めており、理想的大帝を仏典に説き、国王の徳、即ち王道を説いた経典は多い。心地観経、大薩遮尼犍子経、金光明経、正法正論品、勝光王経など、その他無数である。心地観経では大帝の十徳、大薩遮尼犍子経は「有信、有力、有思」の三大徳を説く。涅槃経は、有徳王が覚徳比丘を守るため、武器を執って戦う様を記している。日本仏教では平安朝以来、天皇を説明する場合に金輪聖王として説明している。
 智恵の低い国民を統括するには、徳ばかりでは駄目で、武器も要れば法律も必要で、税金の徴収も必要である。国民が人間として理想的であれば、武器や法律も必要でなく、娑婆が楽土となり、天皇は金輪聖王でなく、如来として出生されると日本仏教は考えた。
 日本仏教は初めから皇室の外護の下に、鎮護国家の宗教として成立した。皇室と国家の幸福を祈る勅願寺である。天平十三年(七四一)の詔により、全国に国分僧寺(金光明護国光寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)が国毎に建立され、僧寺に僧二十人尼寺に尼十人が置かれた。中央に総国分寺として奈良東大寺があり、「華厳経」の蓮華蔵世界を見做ったものである。国家は仏教の教義を指導原理とし、護国思想を持つ「法華経」「金光明経」「仁王経」が尊重された。正法護持即ち仏教による正しい政治を目指した。そして天皇は仏教的観点から金輪聖王に擬なぞらえられた。天皇が如来として出現する社会情勢でなく、悪法が蔓はびこ延り、謗法充満の時代、賢王は金輪聖王として折伏すべく時代要請がある。武器の執持は全て悪でない。その必要を仏教は認め、慈悲の一面としている。
 日蓮聖人は開目抄に、人類が本来の人間性(仏種・仏性)を見失い、彷さまよい徨えることを「此れ皆、本尊に迷へり。」①と一喝する。

「例せば三皇巳前に父(種)をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごとし。寿量品をし(知)らざる諸宗の者ハ蓄ニ同ジ。不知恩の者なり……子の父をし(知)らざるがごとし。伝教大師は(諸宗ハ)但有愛闕厳義。天台法華宗具厳愛義」②

と、「厳と愛」の二義は完成した宗教に必需とした。厳愛とは「折伏と摂受」のことである。更に宗祖は涅槃経を引用し、護持正法の者は

「刀剣弓箭ヲ持シ・非法ノ悪人ヲ降伏ス」③

 これにより「金剛不壊身」を得るとする。そして「一子の重病を灸やいとせざるべしや。」④と、厳の「灸やいと」も慈悲の一分なるを認めている。

㈡ 権力と戦争
 人間は生まれながら「生きる権利」、意志・行動の「自由の権利」、社会的に「平等に扱われる権利、つまり基本的人権を有している。民主的社会はその権利を尊重する。それは自他に対する「権力」でもある。そのように人間は本来「権力的存在」である。
 人間の歴史は「平和の時代」以上に、「戦争の歴史」であった。戦争と破壊を繰り返しながら、人類文明は発展してきた。協調、友愛の関係は歴史を見れば永続せず、ちょっとした小さな出来事で信頼関係は対立し、衝突・戦争に発展してきた。それと同じように、個々の権力、国家の権力は消滅することはない。仏教の「煩悩」と同じである。人類は闘争や統合を繰り返し、強い集団ほど「生き残れる」原理から、集団には強いリーダーが必要となり、個人的権力は集約されて、「集団的権力」となり、統治的形態として「政治的権力」が「国家権力」「主権国家」となった。個人的・国家的「権力」は普遍的で、地球上に人類が存在している以上、すべてのものに内在する特質がある。であるから「権力」の源はエネルギーであり、生命力でもある。
 「権力」それ自体、有害とも無害とも言えず、善とも悪とも言えない。薬は毒にもクスリにもなる。「戦争」自体も、善とか悪と言えない。社会の歴史的変化、動態には現状維持的な平和より、破壊と創造を伴う「戦争」の方が、より革新的発展を遂げる場合がある。
 仏教に於ける転輪聖王の闘争とはこれであろう。戦争を勧めている訳ではない。正法たる法華経が全否定される時の防衛的戦闘であり、「賢王」の折伏である。
 動物は生命保存の食料が安定していれば、満たされると考えられる。厄介なことに人間は、それだけでは満足せず、欲求不満の毒素を内部に蓄積させる。それを仏教では「煩悩」と呼ぶ。その不満を統合するのが「国家権力」であり、それを利用して戦争という破局へ向って行く。国家は権力基盤を強固にするため「仮想敵国」を設け、国民の目を外へ向けさせる。侵略的国家にとって、一時的平和が実現すると、戦争における自己保存の攻撃性を失うこととなり、国家生命の脅威となる。
 もし世界国家が誕生し、平和が保証されたら戦争は無くなるだろうか。国家の指導者はどの位満足するか。「戦争のない平和」に反対勢力が結成され、テロ行為や世界内乱が発生するに違いない。人間の持つ根源的邪性が、それを許さないだろう。仏教の言う「元品の無明」である。人間は、どんな「権力」に対しても、より新しい「権力」がそれに挑むことになる。世界各国の文明が持つ固有の権力は、一方的に自己主張すると衝突する危機になる。国家権力の底流に、人種、民族、宗教、経済が相互に衝突し、すべてを粉砕する。
 全宇宙の根源はエネルギーの流れであり、地球の全生物もその流れの中で生きている。各種のエネルギーは相互に対立したり、破壊したり、同調し流れてゆく。その中で不断の闘争が「元品の無明」の表れであり、統一同調、融合するは「元品の法性」の表れと考えられる。三千万人の犠牲を出した第二次世界大戦、世界大恐慌のあとに、それを上回る巨大なカストロフ(大災害)が待ち受けているかも知れない。それは人間に組み込まれた邪悪な遺伝子システムの攻撃衝動・不安定性である。その不安定性を克服し、攻撃抑制するには、人間に内在する融合能力と、外部よりの絶対的統一力を持した「賢王」の存在を、日蓮聖人は確信的想定しているのである。本仏の「因行果徳」より発露される慈悲(摂受と折伏)である。開目抄に言う

「(諸宗ハ)但有愛闕厳義。天台法華宗具厳愛義」⑤

である。「厳」の折伏を現ずる賢王(転輪聖王)が、世界が真に一つになるための「参戦せざるを得ない」。「前代未門の大闘諍」(撰時抄)は、世直しのため必然的プロセスと日蓮聖人は歴史の未来観察するのである。
 ユダヤ教、キリスト教は、世界平和建設のため「世界最終戦」(ハルマゲドン)を経て、神とイエス・キリストは地上に降臨し、「千年王国」は建設されると述べる。日蓮思想の末法克服観と同一性がある。
 日蓮聖人の賢王思想は、法華経本門の三妙(本因・本果・本国土妙)、三大秘法(本尊・題目・戒壇)から導き出された思想である。洋の東西を問わず、思想・文化・宗教・経済・軍事等の世界統一性を計るには、一人の力強き指リーダー導者の再来・再誕が必需であることを示唆している。それが日蓮聖人の「賢王思想」である。

㈢ 法華経の調伏思想
 調伏とは「調御降伏」の義である。「調トハ調和、伏トハ制伏」で、嘉祥大師は「柔ナル者ハ法ヲ以テ之ヲ調ヘ、剛ナル者ハ勢ヲ以テ之ヲ伏ス」(無量義経疏)と言う。真言祈祷では、「息災・増益・愛敬・調伏」を四種法と称する。仏十号の一つ「調御丈夫」は、その一面である。大丈夫の力を以て(伏)、一切衆生の身口意の三業を調整(調)制御し大涅槃を得さしむのである。「調御丈夫」(PプルシャuRuSA dダムヤーamya sシャラディārathi)の中に摂受・折伏の二義が存している。
 法華経信解品と涌出品に「調伏」、安楽行品と妙音菩薩品に「降伏」を説く。

「富める長者の子のこころざし劣なるを知って、(仏は)小を楽う者なりと知しめして、方便力をもってその心を調伏して、いまし大智を教えたもう。」(信解品)
「阿逸多(弥勒)よ…汝等昔よりいまだ見ざるところの者は、我れ(仏)この娑婆世界において阿耨多羅三藐三菩提を得おわって、この諸の(地涌)菩薩を教化示導し、その心を調伏して道の意を発さしめたり。」(従地涌出品)
「強力の転輪聖王の威勢を以って諸国を降伏せんと浴せんに、しかも諸の小王その命に順わざらん。ときに転輪聖王、種々の兵を起こして往いて討伐するに……賢聖の軍、五陰魔・煩悩魔・死魔と共に戦うに、大功徳あって三毒を滅す。」(安楽行品)
「浄華宿王智仏、世尊を問訊したもう。小病、小悩、起居転利にして安楽に行じたもうや否いなや。四大調和なりや否いなや。……衆生は度し易しや否や。貪欲・瞋恚・愚痴・嫉妬・慳慢多きことなしや否や。父母に孝せず。沙門を敬わず……。世尊よ、衆生はよく諸の魔怨を降伏するや否いなや。」(妙音菩薩品)

 漢字の調伏・降伏は、原語ではそれぞれ違う。信解品の「調伏」はサンスクリット dダマヤamaya・調整、屈伏させる義。涌出品の「調伏」は、pパリパーチタaripacita・菩薩の教えによって成熟させるの義。安楽行品の「降伏」は、nニルジュヤーiljya・武力によって討伐するの義。妙音菩薩品の「降伏」は、nニハタihata-mマーラāra Pプラティratyaアルティカrthika・魔怨を破壊するの義である。法華経は調伏・降伏への課程で別の同義表現をする。「調柔」「柔伏」から「信伏」へ導く表現である。
 分別功徳品に

「若しまた禁戒を持たもって、清浄にして欠漏なく……若しまた忍辱を行じて、調◎柔◎の地に住し、たとい諸の悪来り加うとも、その心傾動せざらん。」

 信解品に

「(仏ハ)富める長者の子のこころざし劣なるを知って、方便力を以てその心を柔◎伏◎して、しかして後にいまし、一切の財宝を付するが如し。」

 このように法華経は衆生の心を調整し、信解・信伏に入らしむる。寿量品では「また種々の方便を以て微妙の法を説いて、よく衆生をして歓喜の心を発さしめき」と、心の調整に「歓よろこび喜心」の必要を説く。そして信受・信伏へ到達するのである。
 

「衆生すでに信伏し、質直にして意こころ柔軟に、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず、時に我れ及び衆僧ともに霊鷲山に出ず」(寿量品)

 

「増上慢の四衆……この人を軽賎してために不軽の名を作なせし者、その(不軽菩薩の)大神通力、楽説弁力、大善寂力を得たるを見、その所説を聞いてみな信伏随従す。」(不軽菩薩品)

 寿量品、不軽品では「失心狂児」と「増上慢の四衆」が「毒気深入し悶乱、地に宛えん転てん」し、不軽菩薩を「軽賎した罪」により、仏法僧と縁なく千劫阿鼻地獄に落ち大苦悩を受くる人々の心の調整(調伏)によって「信伏」へ導き、大悟に至らしめるのである。力による降伏でなく、自己の罪業による大苦悩からの脱却を舞台内容としている。
 真言の空海「秘蔵記」には

「調伏ノ法ハ、黒月ノ日中ト亦夜半トヲ取リテ起首セヨ。……若シ急速ナラバ白黒ヲ論ゼズ、其ノ火曜星宿等尤モ吉シ。行者ノ面ヲ南方ニ蹲そん踞きょスベシ。右ノ足ヲ以テ左足ノ上ヲ踏ム。即チ自身法界ニ遍ジテ、青黒色ノ三角ノ曼荼羅トナル。我身ハ一法界ナリ、我口ハ爐ノ口ナリ。我レ降三世忿怒尊トナリテ眷属圍繞セリト観ズベシ。」

 実慧の「口決」には、調伏の四種を説く

「一ニハ摂せっ化け降伏、人非人等ヲ調伏ス。二ニハ除難降伏、王難怨おん讎しゅう等ヲ除ク。三ニハ無む名みょう降伏、仏法中ノ苦悩ヲ抜去ス。四ニハ悉地降伏、諸ノ邪法ノ障碍ヲ除ク。」

とあり、相手以上のエネルギー(法力)を以って、敵を降伏するのである。法華経は祈りによる降伏と忍苦の二面を説く。正法の弘通者は「如来の衣・座・室の弘教三軌によって迫害を忍苦、そこに「変化の人の衛護」が有るべきと、諸天の守護を説く。

「若し人あって不善の心を以て……仏を毀キ罵メせん。その罪なお軽し。若し人ひとつの悪言を以て在家出家の法華経を読誦する者を毀キ.シせん。その罪はなはだ重し……。この経を説かば、如来の室に入り、如来の衣を著キ、しかも如来の座に坐すべし。大慈悲を室とし、柔和忍辱を衣とし、諸法の空を座とす。……人あって悪口し罵り、刀杖瓦石を加うとも、仏を念ずるが故に忍ぶべし。……すなわち変化の人を遣わして、これがために衛護と作さん。」(法師品)

 

「悪鬼その身に入って、我れを罵め詈り毀き辱にくせん。我等仏を敬信して、まさに忍辱の鎧を著きるべし。この経を説かんがための故に、この諸の難事を忍ばん。我れ身命を愛せず。ただ無上道を惜しむ。」(勧持品)

「人あり来きたって難問せんと欲せば、諸天昼夜に常に法のための故に、しかも之これを衛護す。……天の諸の童子もつて給使をなさん。刀杖も加えず毒も害すること能わじ。若し人悪み罵らば、口すなわち閉塞せん。」(安楽行品)

「善男子、汝よく(中略)この経を受持読誦し思惟し、他人のために説けり……汝いますでに能く諸の魔賊を破し、生死の軍を壊えし、諸余の怨敵みな悉く摧滅せり。善男子、百千の諸仏神通力を以て共に汝を守護したもう。」(薬王菩薩本事品)

「あるいは王難の苦に遭うて刑せらるるに臨んで寿終わらんと欲せんに、彼の観音の力を念ぜば刀ついで段々に壊れなん。」(観世音菩薩品)

「(薬王、勇施、毘沙門、持国、十羅刹鬼子母)の五番善神は、法華経を読誦し受持せん者(法師)を擁護せんがために陀羅尼を説かん。……もし我が呪に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破れて七分になること阿梨樹の枝の如くならん。」(陀羅尼品)

「この経典を受持することあらん者は、我(普賢)まさに守護して、その衰患を除き安穏なることを得せしめ……諸人を悩ます者みな便りを得ざらん。」(普賢菩薩品)

 現実的には、法華経は迫害に対する救助を経文の中で、カモフラージュ(陰影)している。敵対者の言語による「罵詈」ならば、「忍辱の鎧」(勧持品)を着して我慢・忍苦できるが、本気に刀で攻められたら鎧を着ても殺傷される。杖で攻撃されて頭部を狙われれば、撲殺される。現実には正法弘教者の外げ護ご集団、又は法華経に説かれる諸天の守護・防御の反撃があり、敵がひるむ事がなければ持経者の生存は有り得ない。法師品・勧持品に言う悪世の謗法者「悪口・刀杖・瓦石を加える者」に対しても、勇気を持ち慈悲精神で布教し、その攻撃に対して防御・反撃し、身の安全を用心すべきである。それが勧持品の「仏を敬信するが故に、この諸悪を忍ばん」「我不愛身命、但惜無上道」の本当の意味であろう。でなければ、如来の「依・座・室」、「忍辱の衣」で、本当の刀杖の攻撃に対して防護できる筈がない。

㈣ 法華経における転輪聖王
 転輪聖王は法華経の序品、方便品、化城喩品、提婆品、安楽行品、法師功徳品、薬王菩薩品、妙音菩薩品に登場する。釈尊の説法を随喜聴聞する人王であり、娑婆世界の「万億国の転輪聖王の至れる。合掌し敬心をもって具足の道を聞きたてまつらんと欲す」(方便品)と、多国に転輪聖王が存在する。化城喩品では、大通智勝仏が出家する前の人王であった時、十六王子あり、父の覚さとり悟を得るを見て諸子は玩具を捨て仏所に参詣し、「世雄両足尊、大慈悲の力を以って苦悩の衆生を度したまえ」と出家を求め、父の転輪聖王がそれを「聴ゆるす許」のである。提婆品では女性の持つ五つの障さわりにより女は「梵天王、帝釈、魔王、転輪聖王、仏身」には転身できないと言う。五障とは「貪・瞋・痴・業障・生障」とも、「煩悩障・業障・生障・法障・所知障」とも言われる。安楽行品では、力による調伏・降伏の転輪聖王を描く。

「強力の転輪聖王の威勢を以って、諸国を降伏せんと欲せんに。しかも諸の小国その命に順したがわざらん。ときに転輪王種々の兵を起こして往ゆいて討伐するに、王兵衆の戦うに功ある者を見て、即ち大歓喜し功に随って賞賜し、あるいは田宅・聚落・城邑を与え……諸の魔王あえて順伏せず、如来の賢聖の諸の諸将これと共に戦うに(中略)賢聖の軍、五陰魔・煩悩魔・死魔と共に戦うに、大功徳あって三毒を滅す。……文殊師利、この法華経はこれ諸の如来の第一の説、諸経の中において最もこれ甚深なり。末後に賜し与すること、彼の強力の王の久しく護れる明珠を、今すなわち之これを与うるが如し。」

 その転輪聖王も、浄華宿王智仏の国より娑婆世界に来た妙音菩薩の変化身であると妙音菩薩品は説く。

「華徳よ。この妙音菩薩はよく娑婆世界の諸の衆生を救護する者なり。この妙音菩薩はかくの如く種々に変化し身を現じて、この娑婆国土に在って諸の衆生のためにこの経典を説く。
「(妙音菩薩ハ)……あるいは転輪聖王の身を現じ……地獄・餓鬼・畜生および諸の難処みなよく救済す。」

 この妙音菩薩は、東方世界の浄華宿王智如来が居住する浄光荘厳国より娑婆世界に来往した。「娑婆世界は高下不平にして、土石・諸山・穢え悪あく充満せり」であるが、「彼の国(娑婆)を軽かろしめて、もしは仏・菩薩および国土に下劣の想おもいを生ずることなかれ」と、娑婆浄化のため「諸相具足して那な羅ら延えんの堅固の身の如く」して娑婆に来往した。妙音菩薩は「浄光荘厳国」に生まれ、その国の統領は「浄華宿王智如来」であり、妙音自身は四万二千由旬の「光明殊妙」身である。妙音菩薩品の前に説かれた薬王菩薩品は、対告衆が「宿王華菩薩」で、登場人物のボサツは一切衆生喜見菩薩(薬王菩薩)と「日月浄明徳仏」である。つまり「浄光・宿王・光明・日月」の字の如く、法華経流通文では日・月・星宿の三光を菩薩に擬して説かれている。一切喜見菩薩も妙音菩薩も修行で得た利益は同じ「現一切色身三味」である。釈尊より本化菩薩へ「妙法」の付嘱は嘱果品で終了するが、「仏法と舎利骨」の付嘱は薬王品でなされた。
 薬王品で日月浄明徳仏が一切衆生喜見菩薩に嘱累する。

「我れ仏法をもって汝に嘱累す。……諸の宝樹、宝台及び給侍の諸天を汝に付す。我が滅度の後、所有の舎利また汝に付嘱す。」

と、㈠仏法、㈡諸天及び宝樹、㈢舎利骨を付嘱(相続)するのである。そして一切喜見菩薩(薬王)が「火滅巳後、収取舎利」の句を宣する。妙音菩薩の三十四変化身に「転輪聖王身」が有るが、観世音菩薩は三十三変化身に転輪聖王は無く、「小王身」として変身するとある。地上の王が転輪聖王、三十三天の王が帝釈天、三界では梵天が王である。

㈤ 本門「三妙思想」と賢王
 転輪聖王(Cチャクラakra-Vバルティンartin)は、〈須しょ弥み四州即ち全世界を、戦車の車輪を転がし、戦車を駆って諸王を平定・統制する覇王、正義によって世界を統治する理想的君主である。〉この王は身に三十二相を具備し、即位の時、天より輪宝を感得し、その輪宝を転がし四方を威伏するから転輪王といい、また空中を飛行するので飛行皇帝とも言う。その輪宝に金・銀・銅・鉄の四種あり、金輪王は須弥四州を統領し、銀輪王は東西南の三州をを領し、銅輪王は東南の二州を、鉄輪王は南閻浮提の一州を統領する。その四州(全世界)の中央金輪の上に立つのが須弥山の高山であり、妙高・妙光・安明・善積と訳される。周囲に九山八海があり、頂上に帝釈天、半腹は四天王の住所となっている。
 日蓮聖人は、大曼荼羅本尊に最初「南無四輪王等」(文永十一年一二七四・妙満寺蔵)、「無量世界四輪王等」(同・藻原寺蔵)と勧請し、「転輪聖王」と明記して勧請されるのは建治二年(一二七六)卯月の本圀寺蔵本尊が初見である。それ以降は「転輪聖王」となる。「天照・八幡」の二神が題目の脇または下に安定的に勧請されるのも建治二年からである。この年の三月十六日に師匠の道善坊が死去し、七月に報恩抄を論考する熟慮がこの時期である。宗祖の内証の深化を報恩抄に一分を窺うかがい知れる。それは「三大秘法」の開示と「されば花は根にかへり、眞味は土にとどまる」⑥の「土中眞味」の未来出生である。報恩抄に「本門の教主釈尊を本尊とすべし。二には本門の戒壇。三には一閻提に南無妙法連華経と唱ふべし。」⑦と、三秘を開示するも、僧形としての日蓮は「本門の本尊と題目」を鮮明に開示し、「本門の戒壇」は未来成就として「時のしからしむ」⑧「時期」を期するのである。その本門戒壇という思想・文化・経済・軍事の「世界統一」は、宗教者(僧形)の作業のみでは不可能で、世間法としての政治的統一法の確立が必需である。そこに至る行為には、世俗的権威・権力を有する「賢王」(観心本尊抄に言う賢王↓転輪聖王)の出現と実践が待望される。世界統一の時期到来には、世界が報恩抄に言う「根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れなが(長)し。」の法華経の久遠性・全ての存在価値の永遠性。それを実証確信する思想・科学の高度発展がなければならない。この状態を開目抄は

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。……爾前迹門の十界の因果を打やぶて、本門の十界の因果をと(説)き顕す。此即本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備そなわりて、真十界互具。一念三千なるべし。」⑨

と言う。即ち本因たる現在象に未来性の本果・理念が合一し現実化するのである。仏の久遠性が実証されると、内在する衆生(九界)の久遠性が顕在する。これが「本因本果」である。
 法華経は最も救済できない人々は「地獄・餓鬼・畜生」の三悪道ではなく、知識有るインテリ層・声聞縁覚の人と説く。理論で判っても徹底した信仰に至らぬ人・理屈を付けて決けつ定じょうしない人が不作仏であるのを、開目抄に

「華厳乃至般若・大日経は二乗作仏を隠のみならず、久遠実成を説かくさせ給へり。此等の経々に二の失とがあり。一には……迹門の一念三千をかくせり。二には……本門久遠をかくせり。此等の二の大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり。」⑩

と説く。方便品の「諸法実相」は迹門の一念三千を開示し、「諸仏智恵甚深無量」は

「此経文に諸仏者十方三世一切諸仏……智恵とは……諸法実相・十如果成の法体也。其法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり。釈云実相深理本有妙法蓮華経といへり。」⑪

と言い、二乗作仏を可能にせしめる法体は、「本有妙法」とする。この妙法蓮華経に余経に含有されない十の特徴があり「本門十妙」(法華玄義巻七)と言う。涌出品と寿量品に説かれている。
 法華経迹門は、九界所具の仏性を解って、己心の仏性を証する従因至果の「一乗因果」であるに対し、本門は仏界所具の九界は、本仏所具の一衆生と信じ、九界の法則を菩薩化して実践行法とするゆえ、従果向因の「一乗因果」となる。本仏己心から見た十界、本仏果上の一念三千である。理性所具の一念三千が迹門である。
 日蓮聖人は、法華経の優位性「十妙」の中から基本理念を三に抽出したのが、法華経「本門の三妙」思想である。本因妙、本果妙、本国土妙の三妙である。法華経寿量品に説かれる「我」(釈尊)の一字に、本因・本果・本国土の三妙を具し、「始成正覚を破り、発迹顕本」した「我」(釈尊)は法身のみならず。五百億塵点劫の智恵を表する報身も久遠と顕本され、慈悲の応身も久遠となり、「一身即三身」となる。この報身・応身の顕本は諸経に絶えてない所である。

本門十妙
 ├涌出品
 │ ├本説法妙(地涌菩薩は我が所化として大道を発しき)
 │ └本眷属妙(下方の空中に在って妙法を説く)
 └寿量品
   ├本因妙 (我本行菩薩道、寿命今なお尽きず)
   ├本果妙 (我成仏巳来、甚大久遠)
   ├本国土妙(本時の娑婆世界)
   ├本感応妙(諸根の利鈍を感ずる)
   ├本寿命妙(名字不同、年紀大小)
   ├本利益妙(方便を以て歓喜の心を発さしむ)
   ├本神通妙(六或示現)
   └本涅槃妙(実の滅度に非ざれども、当に涅槃を取るべし)

 法華経寿量品の「我」は本因・本果・本国土の三妙を有し、教法の譬喩として「是好良薬」と表される。
 寿量品の「我実成仏以来甚大久遠」を法華玄義巻七は、本果妙と釈し。「我本行菩薩道、所成寿命今猶未尽」を本因妙と釈し、「我常在此娑婆世界」を本国土妙と釈している。釈尊が過去五百億塵点の昔に、あらゆる存在の永遠性・十界常住の妙教を信行し、證得した国土が本国土妙である。妙法を事相化した「本時ノ娑婆世界」は「三災ヲ離レ四劫ヲ出デタル常住ノ浄土」(本尊抄)であり、この理想実現のために、釈尊は滅後の布教する専任の菩薩を必要とし、神力品を説くのである。神力品はその初めより十神力を示し、特に咸皆帰命の「合掌して娑婆世界に向って、南無釈迦牟尼仏」と唱え(本果妙)。遙散諸仏の「華・香・瓔珞の珍◎宝◎を散じて娑婆世界を浄め」(本因妙)。珍宝とは、「妙法蓮華・教菩薩法」である。「諸仏十方より来きたり、宝帳となって十方世界は一仏土と通なる」(本国土妙)と示し、末法・五逆謗法の機根衆は「能持是経者」の本化菩薩の唱導せる信行を信じ、不惜身命の行を修して、「十方世界・通一仏土」の四海帰命の予言的浄土を確信へ高た揚かめるのである。
 末法悪世の人々を救う教法は、釈迦牟尼仏(本果妙)、妙法蓮華経(本因妙)、娑婆世界(本国土妙)の三要素のある「一乗因果」であるとするのが、日蓮聖人の宗教である。

                            三学
        ┌我実成仏己来───本果妙──本門本尊(定)┐
壽量品の三妙思想┼我本行菩薩道───本因妙──本門題目(恵)┼久遠の教行
        └我常在此娑婆世界─本国土妙─本門戒壇(戒)┘
神力品
 ┌咸皆帰命(本果妙)──南無釈迦牟尼仏 ┐
 ├遥散諸仏(本因妙)──珍宝妙物皆共遥散┼妙法蓮華教菩薩法┐
 └通一仏土(本国土妙)─十方世界通一仏土┘        │
 ┌─────────────妙法五字───────────┘
 │           ┌自在神力(用)─本門戒壇(戒)┐
 └如来一切所有之法(名)┼秘要之蔵(体)─本門本尊(定)┼皆応此経宣示顕説(教)
             └甚深之事(宗)─本門題目(恵)┘

 妙法とは、あらゆる存在の実相を言う。その妙法が活躍し、本有の「因果」を表する運動の比喩が「蓮華」である。久遠以来の一妙たる妙法が作用に随って三つに機能する。即ち寿量品の三妙に活動し、仏教の仏身論を発展させ、法身(無始無終)、報身(無始有終)、応身(有始有終)に本在的「久遠」性価値を認知し、その本仏の智恵と慈悲が宇宙法界に充満していくのが「本門の題目」である。妙法五字が宇宙法界を照らし、あるがままの宇宙でなく、あるべき宇宙に浄化されたのが真の実相であり、この本門・本有の実相が「本門の本尊」である。「釈尊因行果徳」が「妙法五字に具足」するとは、「あるべき実相」と一如した仏陀の普遍性を言う。この娑婆世界に住する人間は、差異があって認識できる差別化された相対世界に住している。この差別秩序のまま仏体に融合・同化する。地獄は地獄のまま仏体に融合・同化していく妙相が「本門の戒壇」である。
 寿量品は救済の要法が「妙法」とは明示せず「是好良薬」と比喩表現する。その妙法が神力品の地涌菩薩に付属されると、より具体的内容に法体が説示される。妙法五字は本仏の「一切の所有の仏法」であり、「一切の神力・秘蔵・甚深の実践法」と説かれる。神力品で付属を受けた上行菩薩は、「日月ノ光明ノ能ク諸ノ幽冥ヲ除クガ如ク」弘教し、「無量ノ菩薩ヲシテ、畢竟シテ一乗ニ住セシメ」る。そして上行菩薩は、十方世界を「通達無礙」にして「通一仏土」という「本国土妙」を実現すべきと予言している。政治、経済、軍事、宗教、倫理、文化が各国により個性を持ち、相対した差別秩序のまま全統一体の一部に同化融化することである。それを可能にするのは、「如来一切ノ所有ノ法、自在神力、秘要ノ蔵、甚深ノ事」の四句要法の妙法、妙力によるものである。

㈥ 大闘争と「賢王」出現
 法華経は人間の全すべての苦悩を解決する扉を有している。法華経本門・寿量品の三妙思想(本因・本果、本国土妙)が、その扉であると述べ、更に仏滅後、「従地涌出者」の上行等の菩薩大衆が「妙法蓮華・教菩薩法」を弘教する事が予言されている。涌出・神力品の予言通り、地涌の本化菩薩・上行が日蓮聖人として再誕し妙法を弘教したこと自体、「皆是真実」の法華経の実証性を証明したことになった。発迹顕本した寿量品の本仏は、自ら予言した本化の上行菩薩が現実に再誕したことにより、自らの実在(久遠実成)を証明したのである。本化の上行菩薩が本国土の日本に登場し、法華経を色読(実体験)しつつ、菩薩位の立場から法華経を実証した。その予言された聖者が今度は、激動の末法の最終を予知したのが日蓮思想の特徴である。それらは、
㈠元寇・蒙古襲来。㈡内乱・自界叛逆。㈢前代未門の大闘争。㈣賢王の出現。㈤本門の戒壇建立。
であり、特に㈢、㈣、㈤が末法の最終に関している。撰時抄に

「彼々の国の悪王・悪比丘をせめらるるならば、前代未聞の大闘争一閻浮提に起るべし。……その時、日月所照の一切衆生(中略)皆頭を地につけ、掌を合はせて南無妙法蓮華経と唱ふべし。」⑫

と、末法の終末に「前代未聞の大闘争」を想定している。勧心本尊抄には、

「釈尊初発心弟子也……但(法華経)八品之間来還。如是高貴大菩薩約束三仏受持之、末法初可不出歟。此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王、行摂受時成僧弘持正法」⑬

と、本化菩薩が金輪聖王と変化身して「賢王」」となって未来再生を期している。報恩抄に

「一には日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。所いわ謂ゆる宝塔の中の釈迦多宝、外の諸仏並に上行等の四菩薩、脇士となるべし。二には本門の戒壇。」⑭
「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までも流るべし。日本国の一切衆生の盲目を開ける功徳あり。」⑮

 三大秘法抄に

「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三秘蜜の法をたもちて、有徳王覚徳比丘のその乃むかし往を、末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきものか。時を待つべきのみ、事の戒法と申すは之これなり。」⑯

と、「万年の外ほか未来」に向けて妙法流布を実践し、一国の王臣が本門の法華経に帰依した後、涅槃経の本生譚たる正法弘布の覚徳比丘を護るため、有徳王と臣下が身命を惜しまず邪教の徒を亡ぼした。しかし有徳王等は殉教し、有徳王は阿あ閦しゅく仏の弟子となり、今の釈迦牟尼仏として金剛身を成じた。そのモデルが「末法濁悪の未来」に再現されると、宗祖は予知している。撰時抄に言う「前代未聞の大闘諍」に、報恩抄の「覚徳比丘を護る有徳王」の不惜身命が重層する事を暗示している。日本が法華経の国になっても、他の国々は法華経化していない。有徳王の護持正法の誓願は、国家に不惜身命の精進を要求する。でなければ、「本門の事の戒壇」は建立されないと教示している。不惜国家の誓願がなければ、世界的戒壇は成就しない。国家の成仏はないのである。本門の戒壇実現は荘厳国土の理想であり、これにより本門題目、本門本尊も具現することとなる。

 日蓮聖人が師・道善坊への報恩を述べた報恩抄の「されば花は根にかへり、真味は土にとどまる」の語は、師への言メッセージ葉だけでなく、地涌菩薩として自己再生(賢王出現)への誓願でもある。地涌菩薩は娑婆世界での本門本尊・本門題目を実践開示した。任務遂行の後、下方虚空の本地へ帰還本土して、末世最終に再生する願行の宣誓である。本門戒壇(仏国土建設)熟成への潜伏期間が「花は根に帰り、真味は土にとどまる」ことであり、「土中真味」は地涌菩薩の二度目の再誕の意を含み、日蓮聖人の未来予知の言葉でもある。


①開目抄 五七八頁
②右 同 五七八〜九頁
③右 同 六〇八頁
④右 同 六〇八頁
⑤右 同 五七九頁
⑥報恩抄 一二四九頁
⑦右 同 一二四八頁
⑧右 同 一二四九頁
⑨開目抄 五五二頁
⑩右 同 五五二頁
⑪四条金吾殿御書 六三五頁
⑫撰時抄 一〇〇八頁
⑬観心本尊抄 七一九頁
⑭報恩抄 一二四八頁
⑮右 同 一二四八〜九頁
⑯三大秘法妙 一八六四頁
 

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