教化学研究2 現代宗教研究第45号別冊 2011年03月 発行
本門の戒壇には理と事があるのか
本門の戒壇には理と事があるのか
① 顧みられない「本門の戒壇」
日蓮宗が末法修行の目標たる三つの重要なる教えとして掲げる「三大秘法」。だがそのひとつ「本門の本尊」は万民が帰依すべき唯一の本尊でありながら形式が多々あってよくわかりにくく、更に「本門の戒壇」に至っては、分かりにくいどころかその存在そのものが等閑視されているに等しい状況である。
日蓮宗の具体的行動の基となるべき「三大秘法」。だが現状の理解の仕方では、その内容が正しく機能せず、引いては日蓮宗の具体的目的が不明確な状況になっているのではないだろうか。
「本門の本尊」が分かりにくい。その原因は本来、佛と法の両面を備えた本尊として大聖人がお示し下さった大曼荼羅を法本尊だとし、あたかも本尊に佛本尊と法本尊の2種があるかのようにしたことが根本原因だといえよう。
同様なことは「本門の戒壇」にもいえよう。大聖人の説明がそもそも少ないから分かりにくいのは勿論だが、それ以上に戒壇を等閑視させる原因はそもそも具体的な場所、施設であるべき戒壇を事壇、理壇に分ける考えにあるのではないだろうか。
② 大聖人の戒壇は実体ある戒壇
たしかに戒壇が言及されているのは
「天台・伝教はこれを宣べて、本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字とはこれを残したまう」法華行者値難事 七九八
「問て云く、如来滅後二千余年に、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法とは何物ぞや。答て曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。」法華取要抄 八一五
「一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。」報恩抄 一二四八
の三か所のみであり、しかもなんの説明がない以上、大聖人の戒壇は何もわからいない、何も断言できないのが実情である。
だが伝教大師への大聖人の評価からそれは充分に推測できるのではないだろうか。
「伝教大師宗々の人師の異執をすてゝ専経文を前として責させ給しかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人並弘法大師等せめをとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺皆叡山の末寺となりぬ。」開目抄 五四一
「其上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒せめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給のみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏滅後一千八百余年が間身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始る。されば伝教大師は其功を論ずれば龍樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝てをはします聖人なり。されば日本国の当世の東寺・薗城・七大寺・諸国の八宗・浄土・禅宗・律等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。かの漢土九国の諸僧等は円定円慧は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒にをいては弟子とならぬ者もありけん。この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者外道なり悪人なり。」撰時抄 一〇一五
「されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立させ給ぬ。されば内証は同けれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超させ給たり。」報恩抄 一二四七
例えば理戒壇に立つ藤井日達上人は「建物で成功しなかったのは天台宗の迹門の戒壇。伝教大師の所から失敗しております。」(天鼓要文集 三三五)と、事戒壇の間違いを大師の実例に観ていられるようだが、大聖人においては叡山に戒壇を建立したことこそが、大師への評価の最大ポイントとされているのである。
ここまで大師を讃えながら、実は具体的な戒壇建立は反対するのが大聖人の本意だったとは、まず言えまい。
また公場対決の実現化しそうだった際の
「所詮、真言禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ、是非を決せしめば、日本国一同に日蓮が弟子檀那とならん。我が弟子等の出家は主上上皇の師となり、在家は左右の臣下に列ならん。はたまた一閻浮提皆この法門を仰がん。幸甚々々」諸人御返事 一四七九
と述べられた大聖人の御言葉は、
「像法の末八百年に相当つて伝教大師和国に託生して華厳宗等の六宗の邪義を糾明するのみにあらず。しかのみならず南岳(天台もいまだ弘めたまわざる円頓の戒壇を叡山に建立す。日本一州の学者一人も残らず大師の門弟となる。」曽谷入道殿許御書 九〇〇
「故に教大師像法の末に出現して、法花経の迹門戒定慧の三が内、其の中円頓戒壇を叡山に建立し給し時、二百五十戒忽に捨畢。随て又鑑真が末の南都七大寺一十四人三百余人も加判して大乗の人となり、一国挙て小律儀を捨畢。」下山御消息 一三一七
と讃える大師の事績の正当なる継承、再生を期するものだったと言っても言い過ぎではないであろう。
立正安国論をライフワークとされた大聖人なのであるから、当然それは安国論の幕府採用を目指すものであり、採用の暁には新しい戒壇の建立も視野に入っていたと言えるのではないだろうか。
もとより戒壇とは受戒の場所のこと。大聖人にとってもそれは自明のことであり、ことさらに事戒壇、理戒壇とわける考えは大聖人にはなかったと観るほうが自然なことであろう。
③ 形なければ全てなくなる
松崎檀林祖常寂日耀上人の「本尊抄講談」、陣門智秀日覚上人の「発心共轍」、要法寺広蔵日辰上人の「到彼岸記」、本能寺中興金剛院日承上人「五段抄」等々と理戒壇が殊更に主張されだしたのは天文法難以後。戒壇建立などと具体的に言い出せなくなった事情は確かに理解できることである。
事情は現代でも変わらない。戦前の日蓮宗と国家との関係、創価学会のこと等々と具体的な戒壇論になると難しい問題が多々ある。
そんな中にあっては理・事の二つの戒壇があるという考え方はまことに都合がいいと言えるだろう。そしてメインになるのは語りやすいもの、実現しやすいものに流れるのは致し方ないものである。
例えば日蓮宗小事典、あるいは宗義大綱読本。いずれも中心となるのは理の戒壇がメインといえよう。今の日蓮宗の戒壇は形よりも心の在り方を重視するともいえる。
だがいかに心が大事だといっても形なくば、もともこもなくなることもよくあること。戒律より信仰を重視した日本佛教界が、しばしば世俗以上に堕落した状況に陥ってきた歴史しかり。さらに卑近な例は現代の葬儀事情にもみることができる。
無宗教や直葬が勢力を徐々に増してきている背景には、弔うこと自体を無意味とする考え方と同時に、弔う気持ちはあっても心が大事で形は二の次という考え方もあるといえよう。
仏教儀式はおろかお経そのものすら形式でしかない、心、思いこそあれば亡き人に通じると考える人が増えれば増えるほど葬儀の簡素化、無宗教化は加速していくことであろう。形に意義を見いだせないものは存在自体に消滅の危険性がはらまれるのである。
信仰者の内証に戒壇を求める理の戒壇も、具体的なものが何もないゆえに却って日々の生活の中に埋没し、意識されることすらなくなり、遂には顧みられることもなくなっているのではないだろうか。
④ 形からはいる信仰
読本によれば、「四海帰妙の暁に建立されるべき事相荘厳の戒壇の建立が我々の生涯かけた願業でなければならない」(一〇七)と事の戒壇は遥か未来の理想として述べられている。
たしかにその通りであろう。だが、だからこそまず理の戒壇が浸透していくことこそ大事だとして、具体的な戒壇建立を先に先にと未来の彼方へ追いやることとなってしまうと却って問題である。
先にみてきた大聖人が評価する伝教大師のやり方、それはまず戒壇があること。そこから全国の僧侶が弟子となり、さらに各出家の信徒も弟子化することで、日本一同に天台の門下となる状況である。
これは個々の民衆の内面性よりもまず形から入ってくることに重点がおかれたものと言えよう。
安国論をまず幕府の真の実力者に送った大聖人も、まずトップを抑える戦略、形から入っていく信仰を想定していたと言えるはずである。
全世界の宗教で現在、最も力強く広まっている宗教といえばイスラム教であるが、その原動力の一つはまず形を大事とし、儀式そのものに重要な意義を持たせている点にある。
プロテスタント的なキリスト教が高度な宗教のように錯覚してしまう現代日本では、宗教は形式よりも内証が大事と思いこみやすい。だが、大聖人は形からはいることの重要性もすでに看破されていたのである。
⑤ 五百年過ぎてからの戒壇
茂田井教亨先生が「平安時代や鎌倉時代ではない。日蓮聖人が今出られたらどうされるかという問題である」(報恩抄講賛 四一九)と指摘されるように、いかに大聖人の戒壇が(従来通りの)具体的戒壇だからと言って、鎌倉時代と同様な方法論を現代にもってくることは、確かに無理なことである。
なによりも当時は仏教の世界観を皆が共有していた世界。その中で
「漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ、僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は釈迦の仏法をば失べからず。三衣を身にまとひ、一鉢を頚にかけ、八万法蔵を胸にうかべ、十二部経を口にずう(誦)せん僧侶が彼の仏法を失うべし。」(撰時抄 一〇五〇)
と佛教者みずから獅子身中の虫として正法を犯していく邪智法謗の世だったのである。
しかるに現代は佛教の世界観が共通認識でなくなった世界。正しい教えが何かも知らない無知悪人の世といえよう。
「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。」(開目抄六〇六)
のごとく布教方法も大転換した時代である。
平安時代の戒壇をそのまま持ってくれば、それだけで多くの問題が起きてしまうことは火を見るよりも明らかであろう。
と言っても理戒壇に逃げ込むことも、戒壇そのもの意義を喪失する道である。
戒壇とはあくまでも形あるものという大前提のもと、無智悪人の世でいかに実現すべきかを模索していくことこそ、
日蓮大聖人の跡を継ぐべき我々の務めと言えよう。