ホーム > 刊行物 > 現代宗教研究 > 現代宗教研究第40号 > 曹洞宗の戦時教学—聖典の不敬字句問題と皇道仏教を中心に

刊行物

PDF版をダウンロードする

現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

曹洞宗の戦時教学—聖典の不敬字句問題と皇道仏教を中心に

 

曹洞宗の戦時教学−聖典の不敬字句問題と皇道仏教を中心に
 
講師(曹洞宗人権擁護推進本部員) 工 藤 英 勝  
 
 この度の平成十六年度第十五回の法華経・日蓮聖人・日蓮教団論研究セミナーにおかれましては、宗教者と平和、戦争の問題、なかんずく皇道仏教という非常に重いテーマで、このような研究集会を催される、その日蓮宗様の良識と勇気に対しまして、心より敬意を申し上げる次第でございます。そのような大変な機会、ご縁に、ささやかなるお手伝いをさせて頂くことを、大変光栄に思っております。よろしくどうぞお願い致します。
 私のテーマと致しましては、レジュメの方にもございますように、曹洞宗の戦時教学、サブタイトルと致しまして、聖典の不敬字句問題と皇道仏教を中心に、という風に設定をさせて頂きましたが、このテーマでお話をさせて頂くことにつきまして、聊か私自身、戸惑いがあるわけでございます。といいますのは、私、曹洞宗の中において、曹洞宗人権擁護推進本部員という公職に就いてはおりますけれども、個人的に教団、曹洞宗教団と戦争の問題について、或いは植民地の布教伝道について、個人的に色々研究をしてきたわけで、色々な場面で、学会であるとか、様々な研修会で、その断片断片については、曹洞宗内でささやかな問題提起をしてきたわけでございますけれども、この曹洞宗の戦時教学という非常に大きなテーマで、それも皇道仏教という風なことに収斂、集中させての体系的なお話というのは、実は曹洞宗でも、した経験がないのでございます。曹洞宗でもしたことのない、ある意味では曹洞宗の恥部に属するようなことを、このような日蓮宗様の所で、果たしてお話をしていいものかどうか、ということを、大変戸惑いもあるわけでございますけれども、このような機会に恵まれたこと、それから、自分の今までの調査研究というものをもう一度振り返って、また、日蓮宗様から、色々な良い刺激を受けまして、私の研究にこれから役立てていきたいと思いますので、どうかご批評ご鞭撻賜りますよう、よろしくお願いを申し上げます。
 それで、さっそくでございますけれども、私の方の話の趣旨と言いますのは、本日配らせて頂きましたレジュメの中の、五の講演要旨という所にあるのが、要するにこれから九十分お話しようとする骨子、筋でございます。私は皇道仏教と言われるものを、ある特定の、それを提唱した人物であるとか、或いは、特定の仏教宗派の事象に限定しないで、特に十五年戦争、満州事変以降の十五年戦争期における、戦時教学の一環として把握すべきではないか、と考えているものでございます。近代日本国家と宗教者、或いはその集まりである宗団の関係が非常にこう象徴的に現れてくる、対外侵略戦争への自発的な協力、或いは天皇絶対主義への同化、極限として出てきました皇道仏教は、日蓮宗だけの特別な事象ではございませんで、ある意味では当時の伝統仏教教団の特殊性を超えて、まあほぼ全ての仏教教団、宗団において見い出された共有思想ではないかという風に考えております。この度のこの問題提起におきましては、曹洞宗のことに限定致しまして、曹洞宗の皇道仏教を広く戦時教学の典型として扱わさせて頂いて、そして皇道仏教、いきなり皇道仏教になるのではなくて、その歴史の過程がございますので、そのプロセスというものを、満州事変の直後から、当時の日本精神運動やそれから一九三五年以降、聖典の不敬字句削除問題、これは日蓮宗にも浄土真宗にも共通の事象がございますけれども、まあそういった具体的な動向からこの皇道仏教になっていく過程を、もう一度振り返って、それはただ単に、過去の戦前の問題ではなくして、現今の状況が、ある意味では皇道仏教化するような歴史過程と決して無関係ではない、かなり一九三〇年代の動向と現在が非常に酷似しているんじゃないかという風な、そういう危機感も持っておりますので、過去の問題を、単なる過去の問題、過去の歴史の問題ではなくて、現代、それから未来に向けて、宗教者、宗教集団が、どのように生きていくのか、活動していくのかという問題意識を持って、その調査や研究の一端をお話をさせて頂ければと思います。以上が、私のお話したいこと、骨子、あらすじでございますので、あとはこれだけ、という風なことなんでございますが、それだけでは裏付けもなければ繋ぎもない、ということでございますので、このレジュメの次の頁から、今日お話することについての、大体の、これは原稿そのものではございませんけれども、資料も最低限盛り込みながら、これからお話しようとすること、一応まとめてまいりましたので、それを中心にお話をさせて頂きたいと思います。
 午後にお話を頂きます山内小夜子先生におかれましては、真宗大谷派の非常に詳細な資料をご提示を頂いたり、或いは日蓮宗の方では、千頁にも及ぶこのような、非常に緻密な学術的な価値さえある大変な資料を提示して頂いているわけでございますけれども、私の場合は、そのような資料を今回は出しておりません。それは、講演要旨のところどころに、括弧に入って※印の一とか二という所がございますが、まあそこに、本来であれば裏付けとなる、証拠となる資料を載せるべき所でありますけれども、まあコピーをしただけでも、大変な分量がございます、その一部なんですけども、一応裏付けとなる資料を持っては来たのですけれども、この資料を全部またコピーをしてお渡ししてもですね、資料倒れになってしまうということを思いまして、私については具体的な資料の提示というのは、この要旨の中で引用しております元のものだけに留めて、話の筋を中心に発表をさせて頂きたい、という風に思っております。
 それでは私は、日蓮宗さんのことについても、浄土真宗さんのことについても、よく存じ上げませんので、曹洞宗のことに限定をさせて、皇道仏教、或いは戦時教学という風なことについて話をさせて頂きたいという風に思います。これは、日蓮宗さんの資料の中でも取り上げられている方でありますけれども、市川白弦さんという方がいらっしゃいます。もう既に亡くなられましたけれども、臨済宗の出身の方で、花園大学の教授をなさっていた方でございますけれども、その市川白弦さんの著作集が出ておりますが、市川白弦著作集の第三巻の、『仏教の戦争責任』、これは最近復刊になったものでありますけれども、このはしがきにこういう言葉がございます。「書くということは、いつわるということでもある。告白は時としてはきざな詩と真実である。だからといって無言のままでことが済むとは限るまい」という書き出しがございます。これは曹洞宗における戦争責任なんかの問題においても、取組みについても、考える上で非常に示唆的であります。何故示唆的なのかという風なことでございますけれども、歴史を記録し、そしてそれに対して現時点での一定程度の評価を下すということは、その評価はさておいて、往々にして明らかに表明されたことの裏側や、表明されなかったことの方が重要であるということもあるのではないかという風に考えております。曹洞宗で出されている『海外開教伝道史回収について』、というブックレットでございますけれども、一九九二年の十一月に表明をされた、戦争責任に関する、曹洞宗の宗務総長の懺謝文、というのが、最初の所に載っております。この懺謝文につきまして、九二年当時のことでありますけれども、私はその当時は直接宗務行政の方には携わっておりませんでしたけれども、その時も、そして現在も、この懺謝文に関しては、宗内外から、よくぞここまでやったという風な、そういう励ましの言葉、賛成の、そういうような応援の言葉があると同時に、色々な意見があったわけであります。私は、戦争責任の問題や、教団の戦争協力、というような言葉が適切かどうか分かりませんけれども、ただ強制されて渋々協力したというようなレベルでは私はないと思いまして、まあ自発的に、むしろ積極的に、やらなくてもいいようなことまで政府の先取りをしてやっているという風な面が、少なくとも曹洞宗にはございますので、九二年に発表された戦争責任についての宗務総長の公式の反省文というか懺謝文については、私は個人的な色々な調査や研究の中からちょっと頭を傾げた経験がございますし、現在でも、この宗門の唯一の公式の戦争責任表明については、全否定するつもりはありませんが、これは一つのメルクマール、道標ではあると思いますけれども、全面的に賛同するという風なものではございません。何故そうかということについてでございますが、九二年当時の懺謝文の、具体的な中身はちょっとコピーはできませんけれども、大体こういうことがこの懺謝文の中には書かれてございます。曹洞宗宗務庁が、一九八〇年、ですから昭和に換算しますと五十五年でしょうか、一九八〇年十一月に発行した『曹洞宗海外開教伝道史』は、民族差別による差別表現や、国策、皇民化政策荷担の事実への省改なき
表現などに代表される誤った歴史認識、すなわち皇国史観によって執筆されている。このような執筆姿勢は、明治以降、太平洋戦争終結までの植民地侵略の戦争協力の責任をまったく感じていなかったことを反証している。仏教を国策に隷属させたことや、人間も国家も民族も縁起的な相互依存性の関係であるにも関わらず、一方が他の尊厳性やアイデンティティーを犯してきたという二重の過ちを公式に認める。この出版物、つまり『曹洞宗海外開教伝道史』の回収と廃棄処分に際して、曹洞宗は教団の組織としての戦争責任の事実を認め、この事実に対して謝罪を表明し、二度とこの誤りを繰り返さないということを誓うものである、と。文章そのままではございませんけれども、曹洞宗が九二年に表明を致しました、唯一と言ってもいいと思いますが、この戦争責任告発、戦争責任表明の問題点、二つ大きくあるのではないか、という風に私は考えております。まず第一は、曹洞宗が九二年に出しました戦争責任についての懺謝文については、懺謝文のその意図・目的に関わらず、『曹洞宗海外開教伝道史』なる問題の書籍を、単に回収して、そして廃棄処分をするという文脈で考えるならば、これは過去の歴史の証拠隠滅と、それに伴う教団の戦争責任の回避に帰着してしまうのではないか。要するにこの戦争の問題を、一つの問題書籍、或いはその問題書籍の中の表現の問題という風に、歴史自体を極めて小さなものとして、或いは非常に浅いレベルでの危機管理のようなことで証拠を封印してしまうということだけで終わってしまうとしたら、これは歴史に対しての、真摯な認識、取組みとは言えないのではないかということを、私はこの懺謝文が出された当時、宗内の小さな研究集会で発表した経験がございます。残念ながら、その危惧・杞憂というものは現実のものとなりまして、曹洞宗の戦争責任、歴史認識に関する取組みについては、この懺謝文、問題書籍の回収が一定程度進んだ段階で、それ以降の取組みが全くなされておりません。ということになってしまうと、ただ問題の書籍を回収してそれを廃棄処分、焼却処分したということであれば、それに代わる歴史の事実、海外開教という美名の下で、あの侵略と一体化したという風なことが、具体的にどういう風な宗門・曹洞宗の個人や集団が関わっていたのかという、具体的な歴史事実そのものがですね、消去されて、つまり、何に立ち返って反省をしたらいいのか、自身が分からなくなってしまう、そういう風な状況で今、曹洞宗がおります。まあ私は色々個人的な場面で、これはおかしいという風なことを、色んな所で申し上げてくるんでございますが、反発があればいい方なんでありますけれども、反発すらないというのは非常に困るわけであります。そんなこと言ったらお前大変なことになるぞ、というぐらいにですね、反応が返ってくるのであればですね、やり甲斐もあるわけでありますけれども、こと戦争責任の問題だけではなくて、曹洞宗の近代仏教史や現代仏教における役割であるとか、そういったことについてですね、議論するというか、そういった仲間もですね、非常に限られております。
どうも、曹洞宗の宗学や、教学というのは江戸時代でどうも終わってるみたいで、曹洞宗の全書というものは江戸時代までは収録されておりますけれども、明治以降は、あってもなきが如しのような形であります。私達が一番身近に濃厚な影響を受けておりますのは、近現代の宗門の歴史でありますけれども、近代・現代に近づけば近づくほど資料自体がなくなっているという状況であります。江戸時代までは文化財として大切に保管をしておりますけれども、特に明治以降の歴史については、第一次資料自体が非常に少なくなっている。これは後で聞いたことでありますけれども、曹洞宗の宗務庁という教団の本部がございますけれども、何度か移転をしていく中で、恐らく、歴史的な第一次資料については、新しい所に収納できないからということで、大量に焼却処分をしてしまったということもございますので、そういう風な一次資料自体が曹洞宗の場合は、収集がかなり難しい状況になっております。それと併せて考えますと、問題の書籍と言っても、それは海外開教を伝道したという歴史的な事実がございますから、それにどのように教団や個々人の伝道師・布教師が関わったか、ということについては、きちんと検証されるべきではありますが、その根拠となるものがどんどんなくなっているということで、歴史自体が、特に近代現代については分からなくなっているという風なことが、お恥ずかしいことでございますが、曹洞宗の現状でございます。第二の問題点としましては、この懺謝文の中にあります、その前提としている人間・国家・民族性という、これは非常に複雑な現実と歴史でございますけれども、それをあまりに自明視、単純化しすぎているのではないかという風なことがあります。先程申し上げましたように、第一の問題点につきましては、私は、ある所で、個人の論文の中で、教団のこういう取組みということに対して批判的な見解を公にしておりますので、ここではあえて繰り返しませんけれども、歴史の批判と克服という作業については、単なる問題書籍の回収廃棄で終わるということではなくて、海外開教という名における植民地布教の実態、一体何をしたのか、何をしなかったのかという風なですね、実態の解明によってその歴史の再評価がされるということだと私は考えているわけでありますが、その肝心要の資料自体がですね、なくなってしまうということになると、何をもって反省の材料とするのかということ自体が分からなくなってしまっている。結局は歴史の問題を、一書籍の問題や、或いは表現の問題、差別表現の問題だけに、非常に小さく扱ってしまうというのは、これは私は歴史の無視、或いは軽視に繋がっていくのではないかという風に思っておりますが、いくら声を大にしても宗門では耳を傾けてくれる人がいないわけで、こういう場でお話をするしかないわけでございますけれども、まず、第一の問題点はそういうことでございます。それから、人であるとか、国家・民族性という、非常に複雑な問題を、曹洞宗の懺謝文では余りにも単純化しているのではないかと、いう風なことでございますが、これは曹洞宗とも深い関係がございます宗教社会学者井桁碧さんが、宗内の研究集会で発表なさった内容でありますが、「仏教と『国家』−近代国家の成立に関して−」という論考がございます。その中で井桁さんは、この『曹洞宗海外開教伝道史』の回収と、その前提としての曹洞宗の戦争責任表明について、研究者として概ね好意的な評価をされていますけれども、ただ戦争責任の根拠と射程について、かなり甘いのではないかという批判を展開されております。またこの懺謝文の中に提示されている人、人間、民族、国家の縁起性、それぞれが相互依存性を持つというような、この表明につ
いても、「仏教の縁起思想はありとあらゆる現象を他との相互依存の相において見るであろう。だが国家と民族とを全く無前提に、全く同等の存在、現象として並列すべきではない」ということで、民族や国家というですね、社会的な関係を単純な要素として自明視しているということによって、却って仏教にとって、統治機構であるとか国家とは何かというようなですね問い返しが非常に欠落をしているのではないか。民族のアイデンティティーという風なものに単純化する傾向があり、必ずしも、民族性と国家というものは同一の存在ではなくて、場合によったら相反する動きを持つ場合もございますから、民族と国家というものをですね、単純にイコールにしてしまうような非常にラフで雑な論法というのは、まあ社会的にはちょっと通らないのではないかという風な批判も頂いているわけであります。懺謝文ではまあ非常に強い調子で、近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観であるとか、皇民化政策荷担の事実、などという風に最大級の批判を展開しているわけでありますけれども、残念ながら過去の、そして現在も続く政治と宗教の関係について、政教関係については現在の教団もあまり自覚的ではないのではないかと、そういう風に井桁さんも述べておられるのですが、私もそのように受け止めております。曹洞宗は、皇国史観・皇民化政策という批判の対象について、今でも、有効な批判の根拠を持っておらず、イデオロギーのスタンスは、戦前戦中と、それから戦後の現代等ではですね、全く逆でありながら、その立っている地盤というのは、相も変わらぬ世法追随に終始しているのではないかと、いう風な疑問を持つわけであります。分かりやすく言えば、社会主義がもてはやされれば俄かコミュニストになり、或いは国家社会主義が支配的な世相になりますと、一転してウルトラファシストに変身をし、そして平和や人権思想が社会共有の前提になりますと、いきなり今までファシストであった人が、過激な平和主義者になるなど、一貫性と主体性のない思想と行動が、今でもございます。過去の問題ではなくて、今でもございます。一貫してるというのは何かというと、ある意味では長い物に巻かれろ式の、市川さんも仰っておりますけれども、随処に従となる行動原理だけではないかと、そういう感じも持つわけであります。宗教者としての信仰に立った主体性があるのかどうかと、なんだかんだ言いながら、世相や支配的な思想に追随しているだけではないかという疑念を、少なくとも曹洞宗の場合、曹洞宗の内部にいる者として、その疑念というものをまだ払拭できないでおります。
 こういったところが枕になりまして、いよいよ皇道仏教の問題に入ります前に、戦時教学というですね、この概念について申し上げたい、という風に思います。この度のセミナーにおける中心テーマであります皇道仏教ということに述べることについて、発表する前提と致しまして、皇道仏教というと、何か特殊な領域、ある意味では非常に狂信的なですね、仏教者の狂信思想という風なものにされがちでありますけれども、私はそういう風に、皇道仏教というのを非常に狭い問題として扱うべきではないと、或いはそういう風に切り捨てるべきものではないと。過去の問題として、第三者的に眺めるべきではない。いや皇道仏教というのは、現在でもそのような雰囲気、思想というものが、少なくとも曹洞宗の場合は生きているのではないかと、そういった感じも持っております。ですから、皇道仏教というのを極めて厳密に狭く定義すればいくらでも狭くなるわけでございますけれども、あえて広く、戦時教学の典型・一環として扱っていきたいというのが、私の基本的なものの見方でございます。つまり、この前提と言いますのは、皇道仏教を単なる固有名詞としてではなく、一般名詞として扱いたいということを意味しております。具体的に言いますと、皇道仏教を、ある特定の提唱者・主唱者、例えば日蓮宗様の方では当然研究の対象となって出てくるでございましょうけれども、皇道仏教行道会本部の高佐貫長氏や、或いは特定の宗派の事象、戦時教学で言いますと、浄土真宗本願寺派の戦時教学指導本部のようにですね、ある特定の個人ですとか集団の問題という風なことに限定することを敢えてしないで、それ自身が皇道仏教と自ら称するかどうかは一切関わりなく、特に十五年戦争時における戦時教学の一環、或いは典型として皇道仏教を扱うべきではないかと、いう風に考えておるわけであります。その理由としましては、これはただ単に過去の問題、過去の歴史認識をどうするかという問題よりも、今後予想される、宗教者や宗教教団の社会との関係、或いは政治との関係、ということを見渡していく以上、やはり、日本宗教の戦争責任が共通する歴史問題として、将来に向けての正念場だと私は思っておりますので、戦争の罪や責任というものを、ある特定の個人や、個人の周辺の組織にのみ限定するのは、ある意味では、戦争責任の実質的な免罪・免責にあたるのではないかという風に思います。宗外から色々なことに関して問題提起をされた場合に、それを個人の責任にして逃げてしまうという場合が往々にしてあるわけですね。色々なことで問題化された場合に、それは宗門の全体の問題ではなくて、特定の個人の問題でしょと、極めてこの個人的な問題にしてしまうという風なことでは戦争責任の問題、これは集団、全体の問題とやっぱり受け止めなければいけないと思います。ですから、この戦時教学ということについて、色んな人が色んな定義をされておるわけでございますが、私は、ちょっとこなれないわけでありますけれども、こういう風に定義、概念規定をしております。「戦争推進の目的または戦時国家体制の維持を目的とする宗学と教学を、ここでは戦時教学と定義する」とありまして、具体的には、戦時といいますのは、単に戦争の期間、有事という時間的な概念ではございません。自国の戦争を聖戦と評価し、戦死者を英霊顕彰する戦時目的に適合する教学体系、という風なことであります。ですから、仮に戦時下であっても反戦傾向を有する教学は、当然戦時教学ではないわけでありますし、逆に、戦争推進とは没交渉の純粋教学、或いは純学理的な宗学であっても、それ自身が歴史的な文脈の中において、結果的に戦争推進に協力・寄与する時、これは例え純学問的な教学や宗学であっても、戦時教学の責任の一端がある、という風に私は受け止めております。参考までに申し上げますと、井上卓治氏は、『近代日本の宗教と国家−その超克の諸相−』の中で、様々な戦時教学の定義について触れて、結論として私の定義を引用して、「広義に把握しているが、私見では戦時教学の清算、しかも完全な清算、これが現在においても宗教界に求められている重要な課題であるとの見地からすれば、工藤の定義によるべきであろう」という風に述べてある、これは参考までに申し上げたいと思います。私は、戦時教学とか皇道仏教というものを狭く特定の個人や組織の問題としてではなくて、現在の我々にももしかしたら共通するものがあるのではないかという風に、極めて広く解釈をしていきたいと考えております。
 さて、本題の方に入ってまいりたいと思いますが、皇道禅、或いは曹洞宗の皇道仏教なるものは、どういうスタイルを取っているのかということでございますが、体系的な曹洞宗における皇道仏教の教義学なるものは存在しませんけれども、幾つかの典型をサンプルとして紹介をしていきたいと思いますが、その前に、日本の伝統仏教教団は、ある一時期においては、例えば日蓮宗も真宗もそれから曹洞宗も立教開宗期にはかなり先鋭化しておりますけれども、政治権力との敵対・対立、或いは緊張関係にあったということは確かではございますけれども、その集団によって色々な濃淡があると思いますけれども、曹洞宗に限って言えば、歴史過程の教団史の大半は政治権力との妥協のみならず、それ以上に、自発的な同化、或いは積極的に封建体制下においては政治権力機構の下請け機関になることも辞さなかったという風な歴史がございます。社会や経済関係が激変をし、それにつれて政治システムが根本から揺らぎまして、いくつもの統治権力が交代に交代を繰り返しても、仏教者と仏教教団は、その度ごとに、随処に主となり、実質は随処に従となりと言った方がいいでしょうけれども、存続し続けてきたのではないかと。このことは、一般に指摘されるように、仏教が社会性や時代に適合性を持ってなかったということではなく、逆説的な意味では、むしろ敏感に時代や社会の流れを計測して、それに適応してきたということを私は考えるわけであります。けっして仏教は非社会的な宗教でもなければ非歴史的な宗教でもない、非常にしたたかに権力者との政治権力との社会との距離を計測をして、本能的にどうすれば生き残れるかという風なことを考えてきたと、他の宗団のことは分かりませんけれども、曹洞宗の場合は、歴史を見てまいりますと、そういうことが言えると思います。曹洞宗を開いた道元禅師の教えにだけ従って宗門の運営展開がされてきたわけでは、残念ながらございません。そういう風に非常に、時代や歴史・社会との関係を鋭敏にかぎ分けて、これが宗教的な観点、信仰、仏教的な観点からいいか悪いかということは置いておきましてもですね、相当に社会との歴史を意識して今まで歩んできたわけだろうと思います。それの一つの象徴が
この戦時教学、或いは皇道仏教ということで考えておりますが、皇道仏教は、先程も申し上げましたように、ある特殊な現象ではなくて、戦時教学の一つの典型、或いは極限の現象であるということでありますけれども、皇道仏教はもはや皇道の仏教ではなく、皇道イコール仏教として、仏教と皇道の主客が完全に逆転して、皇道が主で、仏教はその皇道を実現するための手段になってしまったと、ここ辺りが皇道仏教の歩んだ極限、という風なことになるんではないかと思います。その皇道仏教の中で様々な仏教用語や仏教思想が語られていても、その実態というのは、天皇絶対化による聖戦・英霊顕彰・自己犠牲賛美のイデオロギーを内実とするものと言ってよいのではないかと、いう風に思います。曹洞宗の皇道仏教、或いは皇道禅への転向も、十五年戦争の勃発と共に急転直下、今までは正しい曹洞宗の教えで、今日から皇道仏教になりますよという風な形で急転直下始まったわけではありません。その皇道仏教に辿り着くまでの前史や、既成事実の積み重ねがあって、いわば自然な形で曹洞宗に関しては皇道仏教化していった、という風なことと思います。その歴史過程を見てまいりますと、現在の社会の動きや、或いはこの曹洞宗内部の動き、水面下の色々な動きをそれで感じることは、皇道仏教化していく、同じように再現することはないにしても、かなりの部分で一九三〇年代と共通しているものがあるんではないかという風にさえ感じられるわけでありますけれども、ここで言っている転向というのは、以前の思想や信条・信仰というものを全部否定をして全く新たな信仰主義に飛躍するというよりも、今まで覆い隠されてきた信念の中核が顕わになった、とも受け取られる、そういう意味での転向でございます。
 皇道仏教の前提やその前史は次の所で述べると致しまして、ここでは非常にはっきりとした事例を紹介したいと思います。それは、市川白弦氏なども非常に注目をしている、何度も引用されている人物でありますが、曹洞宗の澤木興道という、禅匠、坐禅の実践家、後には大本山総持寺の指導者、或いは駒沢大学の教授、坐禅指導の専任の教授になった方でございますけれども、この人が、『生死のあきらめ方』にある、「念彼天皇力。念彼軍旗力」ですか、この絶叫がございます。その該当個所を引用すると、次のようになります。「つまりこの五尺の身体だけが我がものではなく、この我がもの、この五尺の身体を超越して、この五尺の身体で以って、天地同根、万物一体の理を体得する。つまり言うと、この五尺の身体で宇宙の真理を体得し、この五尺の身体で神仏と一体になる。だから、涅槃経には悉有仏性と言い、阿含経には無我と言う。これを観音経には、念彼観音力と言い、杉本中佐はこれを念彼天皇力と言う。かの天皇の力を念ずれば、生死を離れ、幸不幸を超越して戦をする…[中略]…我が日本の軍隊にすれば、軍旗の下に水火も厭わん。軍旗の下に命も物の数ではないと言う、その境地である。衲はそれで念彼軍旗力と言う。この軍旗の下に身を捨てる。これ実に無我である。又これが職域では、どの職域でも職域奉公となる。どの職でも念彼天皇力。念彼観音力。この意味を体得すれば、どの職務にあっても、どの仕事をしても、みなこれ職域奉公となる。即ちみなこれ生死透脱でなければならん。そこに一切衆生、悉有仏性が現前する」という風にございまして、これは敗戦に相当近くなっている昭和十九年五月の「禅の死生観」という特集にある、『大法輪』のエッセイというか論説でございます。今読んだ所に杉本中佐というのが出てまいりますが、この人は、杉本五郎という方だそうで、この人については市川白弦氏が、『軍神杉本五郎の禅』などで、詳しく述べられておりますけれども、杉本氏は、彼の参禅の師山崎益洲とともに皇道禅や天皇宗を提唱したことで有名であります。これになぞらえて澤木興道は、念彼天皇力に加えて念彼軍旗力という風に言ったわけでありますけれども、この澤木興道の念彼天皇力をですね、皇道仏教・皇道禅の典型と見ることについては、市川白弦氏なども何度も引用されていることで分かります。澤木興道のこの論説でありますけれども、一体仏教として何を言いたいかがさっぱり分からないわけでありまして、仏教的には全く意味不明な文言でありますけれども、法華経の観世音菩薩普門品にある念彼観音力をもじって念彼天皇力・念彼軍旗力として、神仏と一体となった宇宙の真理にまで持ち上げております。戦時下、それもかなり追い詰められた状況の中での時代背景があったとしても、この狂信的な文章というのは、澤木興道一人の特異な現象ではなくて、こういった前提というか、宗門の一つの体質というのが、もう既に前提として戦時方針の中で言われているようなことであります。念彼天皇力とか念彼軍旗力というのは澤木氏が言ってることでありますけれども、そう言っても別に不思議ではない、或いは、澤木興道のこのような論説や発言というものが、当時の社会の中、曹洞宗の中で浮き上がってしまわないほどコンセンサスが得られているという風なことがございます。
 私が曹洞宗の十五年戦争下、特に太平洋戦争期の公文書の資料集を作っている段階で出てきたものでありますが、一九四三年、これは澤木氏の論説の前年になりますけれども、一九四三年十一月、戦局の激化に呼応して、戦時協力態勢の強化を、曹洞宗戦力増強教化錬成動員の指標としてまとめて、当時の曹洞宗宗務院の山田教学部長によってその大綱解説が、曹洞宗報に発表をされております。それの図解をそのまま載せましたけれども、要するに左の戦力増強、右の興聖護国、全てこれに収斂をさせる、集中をさせる、そのような戦時教学方針、というものがあるわけですから、そういった前提がありますから、澤木氏のこのような発言というものも、少なくとも教団の方針や国の方針に逆らうというようなものではなかったわけですね。ただ戦時下のヒステリックな反応という風なことだけではなくて、太平洋戦争開戦以前、一九四一年(昭和十六年)の四月に宗教団体法が施行になる時に、日蓮宗も真宗もそうだと思いますが、それぞれの宗団の宗制が大幅に宗教団体法に準拠した改訂をされていると思いますが、曹洞宗でも宗教団体法準拠の新宗制が出されております。その第一章の総則の第三条に、「興聖護国の大義を宣揚し以て宝祚の無窮を祝祷し聖化の太平を祈念するを開宗の本旨とす」。宗制を明治以降見てまいりますと、こんな言葉は未だ嘗てなかった言葉でありますけれども、この一九四一年、この時点で突如としてこの文言が登場したわけでございます。これは各教団においてもそうだと思いますが、宗制と言われますものは、基本的にそれぞれの議会、うちでは宗議会と言いますが、宗議会によって議決をされる、制定をされる、そして内局が責任をもって施行をするというようなことでございますけれども、実はこの文言は、当時の宗議会の議決を経ていないで、内局が当時の文部省に持ち込んで、ある意味では宗制違反の状態で、この文言を付け加えたという風な経緯がございます。戦後になりましてこの部分は削除されておりますので、ここあたりの曹洞宗の宗制制定・改訂のいきさつについても大変問題のある所でございますが、いずれにしても、太平洋戦争前に、戦時体制を整えるという風なことにおいて、興聖護国の大義であるとか、宝祚の無窮、聖化の太平祈念という風な文言が宗団の方針として、これが開宗の本旨ということであれば、曹洞宗の信仰や教義の根本に関わることとして挿入をされているという風なことでございますし、第二章の教義の宣布及び儀式の執行の所において、国家報效の大義を実践せしむるを其の目的とす、これも今までの宗制にはなかった文言が、国家報效という形でつけ加えられております。宗門の運営の大綱というのがこの宗制に求められますので、太平洋戦争開戦以前にこのような戦時体制は、宗制上はほぼ終えていたということであります。そういった流れに乗って澤木興道氏の発言もあるわけなんです。皇道仏教というものが、いきなり発生したのではなくて、徐々に徐々に変わっていく中で、気付いたら皇道仏教がですね、仏教を捨てて、もう皇道だけでいいというような形になって、いわば仏教否定にまでですねのめりこんでいくと、気付いた時にはそうなっているという状況でございます。ウルトラファシストのような発言をしていた人が、一九四五年の八月十五日を境目にして、その数日後には、今度は平和の仏教なんだということをですね、今までウルトラファシストであった人が平和な仏教でないといけないなんて言い始めるわけですから、ここあたりが、節操がないというのか、信念がないというのか、そこら辺りはですね、思想に殉ずるということであればですね、その良し悪しは別にして、その人物の評価ができるわけでありますが、時世の状態によって主義主張を変えていくといったようなことが、少なくとも曹洞宗の中枢の人間、教育や運営の責任を持ってる人間の中では、ごく当たり前のようになされていた、その人達の戦争責任、思想責任、信仰責任というものは、ほぼ免罪をされて、免責をされて、同じような状態で戦後の日本の教団が、曹洞宗教団が作られているという風な状況でございます。
 曹洞宗の皇道禅や皇道仏教については、以上でございますけれども、別にこう体系的なですね、日蓮宗で言われるようなこの皇道仏教についての教義・布教方針というものがあるわけではないわけなんですが、澤木興道の念彼天皇力や念彼軍旗力に行き着くまでの前提としてですね、どのような契機があったのかということをちょっと考えてまいりたいと思います。曹洞宗がある意味で狂信的とも思える、非常に極端な、仏教を捨てて皇道を取るという風な皇道仏教にまで行き着いてしまうのは、その直接的な契機としましては、これは曹洞宗だけではなくて他の教団にもあったという風に伺っておりますが、それぞれの宗派の、或いは宗祖の聖典の不敬字句の削除の問題を取り上げたいと思います。それから、直接的な契機ではありませんけれども、皇道仏教に帰着する間接的な背景や前史と致しまして、一九三一年(昭和六年)以降の、満州事変から始まる、いわゆる日本精神運動、という、一種の国策に乗じた思想運動がございます。どうもこれに仏教が色々な面にですね、関わっていると。曹洞宗もそうでありますが、伝統仏教教団もですね、この日本精神運動や、或いは仏教復興という風な名の下で、最終的にはですね、皇道仏教の下地を仏教教団自らが作ってしまったのではないかという仮説を、私は持っております。確かに当時の政府や軍部にですね強制されたという面も、私は否定はしません。しかしながら、ただ当時の政府や軍部に強制されただけではなくて、強制もされていないことを先取りするような形で、積極的に、自発的にやってしまってるという面があります。その下地作りをしたのが、これは一九四一年(昭和十六年)のパールハーバーから始まるんではなくて、もうかなり以前から、少なくとも満州事変以降、急速に曹洞宗の場合は戦時教学についてのですね、下地作りを行っているんではないかということがあります。日本精神運動と仏教との関わりについては、幾つかの学会でも発表しておりますけれども、要点を申し上げますと、この日本精神という言葉でありますけれども、これは一九三一年の満州事変から、当時の日本社会で流行語になった言葉でございます。非常に国粋主義的、或いは国家主義的な標語、スローガンでございます。一世を風靡する言葉になったわけですね。以前は、尊皇攘夷であるとか大和魂とか忠君愛国などのようなナショナリズムのスローガンであったものが、これはたぶんヘーゲル哲学の影響だろうという風に言われておりますが、精神という言葉が、非常に新しい、非常に近代的な現代的な響きを持っていたので、非常にスマートで洗練された表現であるということで、満州事変以降からですね、急速に日本の思想界で流行する言葉になっていきます。昭和八年から昭和十年にかけて、新潮社から『日本精神講座』という全十二巻が刊行されて、その巻頭の標語にですね、
「日本精神に還れ!!」、クォーテーションマークが二つもついておりますけれども、その中の一節にこういう文言があります。「日本は国際連盟脱退を機会として、欧米追随の時代から完全に離れた。日本は今後、独自の道を正しく、勇敢に歩むべきだ。それは日本精神に還ることだ。日本を知れ、祖国に還れ、これ現下最も痛切に響く声だ。日本の皇道意識の下に日本学を創建すべき時代は来た。かくして始めて真の日本を発見することが出来る」という風にありまして、今までの日本はインチキだったということでしょうかね。こういう風なですね、絶叫調の日本思想の運動というものが展開をされていきます。その当時の日本の社会や思想界や宗教界がこの日本精神運動に一体化していたということでは必ずしもありませんけれども、満州事変以後、非常時という風に強調されましたけれども、日本の国際連盟脱退、国際的な孤立に際して高揚された日本精神運動というのは、当時の知識人、和辻哲郎、津田左右吉などにはですね、この日本精神運動に対して、リベラルな立場から、右翼的・反動的・保守的な性格、非常に抑圧的な響きを持つ偏狭的な国粋主義ではないかという風な評価もあったわけですね。しかしながら国家権力を背景にした思想キャンペーンとして、次第にこの日本精神というこの標語が正体を顕わにしていきます。日本精神の思想性は非常に曖昧、かつ独断的であるわけでありますが、初期のこの日本精神運動は、前に紹介した新潮社の「日本精神に還れ」の標語にもありますように、皇道というものを至上の権威とすることからも分かりますように、天皇や神道的な秩序を理想とし、ということになりますと、仏教は外来の思想宗教ということで、当初は仏教は排斥の対象になっていたわけであります。神道や神の国に還れという風なことでございますので、仏教はやはり外来の宗教でありますから、仏教が入ってきたことによって日本思想、日本精神は曖昧になった、或いはくらまされたということで、一時期は仏教排撃の気風さえ出てきたわけですね。そうしますと当時の仏教者・仏教教団は、そのままにしておくことはできない、ということで、このような排仏的な日本精神運動に対しまして、いや仏教こそ日本精神の真髄であるという風なですね、逆のキャンペーンを展開をしていきます。秋田雨雀などのですね、コミュニストの立場からの反宗教運動への反動も手伝って、一九三〇年代からですね、一時期仏教がかなり流行するんですね。仏教復興とも言われておりますけれども、日本精神運動は当初は仏教を排撃する排仏的な傾向が強かったんですが、そのうち仏教こそ日本精神の成果であるという風なですね、仏教復興というものが日本精神運動の中に取り込まれるようになってきました。それに対して、我が曹洞宗の宗学者・教学者はどういう風にスタンスを取ったのかということで、当時の宗学者、駒澤大学教授だった衛藤即応氏の言動をちょっとチェックをしてまいりたいと思いますが、その前に、当時ヘーゲル哲学の研究者で、後にヘーゲル論と仏教哲学との融合を構想したとされます紀平正美という方があります。この紀平さんは、一九三二年から一九四三年まで国民精神文化研究所の所員として、非常に国粋主義的な日本精神というものを宣揚・鼓吹をした人で有名であります。紀平氏は、満州事変から始まる十五年戦争における国粋イデオロギーの形成に隠然たる影響力を持っていたと、いう風なことであります。紀平氏は讀賣新聞に、一九三四年一月七日から十三日にわたって、確か五回にわたって「日本精神」と題する論説を発表したわけでありますけれども、この紀平氏の日本精神論は非常に復古主義的で、ある意味では非常に排仏的傾向が強いものであったわけであります。それに対して、色々な人が反応していますが、曹洞宗の場合は、当時駒澤大学の教授であった衛藤氏が教学新聞だったと思いますが、「日本精神について」ということで紀平氏の日本精神論を読んで色んな疑義を呈しておりますし、それから駒澤大学の講演録の中では、「神社崇拝と仏教」という題目で講演をしております。この「神社崇拝と仏教」という講演録は、この題名から、一九三〇年代でございますので、かなりやばい論文ではないかということで、衛藤即応氏
のいろんな著作集・講演録の中では全部カットされているものであります。「神社崇拝と仏教」という題名で講演したものが、まともな内容を持っているとは思えないのでカットされたんだろうと思うのですが、よく見てみると、限界はありますけども、衛藤氏はかなりまともなことを言ってる感じが致します。この衛藤氏は、日本精神運動の事実上の中心問題として、神社と仏教との関係というものが日本精神運動の中では一番肝心な問題だということに着目をして、仏教の学的信仰的な立場から、非常に国粋主義的な復古主義的な日本精神主義に対して批判的な見解を、新聞の論説であるとか講演で表明をしています。この衛藤の論文によれば、日本精神運動、特に紀平氏の日本精神論に対して、九つの問題点を指摘をしています。まず第一点は、古神道中心の復古主義であるということ、第二点は、非常に排外的な気分が顕著である、三としては、これは仏教に関わることですが、排仏的な傾向を持つということ、それから四、復古懐旧の退嬰主義に陥っているということ、五、衛藤氏も一時期ドイツ留学の経験がありますから、ドイツ文化哲学を焼き直しただけの机上の日本精神論であるということ、六、日本精神論の不統一と一面性、七番目、偏狭な国粋主義、八、不敬・不謹慎な言辞を弄しているということ、九、総じて思想的な鎖国主義ではないか、という風なですね、復古主義的なこの日本精神運動というものに対して、全面的な批判ということではございませんけども、批判を展開をしております。次にこの衛藤氏は、当時の比較宗教学の宗教類型論に基づいて、神社崇拝と仏教の根本問題を論じておりまして、衛藤が論拠とするのは民族宗教対世界宗教ということの対比であります。日本精神運動がその根拠としている神道、神ながらの道は、民族宗教に類似した宗教という風に表現をしております。この神道がですね、当時、日本の国内に留まらず、日本の植民地に侵略と一体化して出ていったという風なことでございますから、それを民族的宗教と規定してしまうと非常に大きな問題になったんでしょうから、類似したと、微妙なニュアンス、言い回しをしておりますけれども、非宣伝の民族本位の宗教であるということ、それに対して仏教を、人間本位の世界的宗教、包容的自覚の宗教であるという風に規定をしております。神社崇拝と仏教信仰との間に、信仰的学的に明確に一線を画する、という風な見解を打ち出しているわけでありますが、当時の国家神道の軍国的な性格
を捨象したこの神道論には非常に限界や甘さを感じますけれども、当時の非常に狂信的な天皇一元論、国家神道一元の主張の雰囲気の中にあっては、穏健な、リベラルな仏教学者としては、ある意味ではぎりぎりの抵抗であったのではないかと、いうことであります。しかしながら反戦思想とか、反戦教学とは衛藤の場合は言えないでしょうけれども、一定程度の距離は置いてるわけであります。しかしながら、この衛藤の、ある意味ではリベラルな、仏教と社会、仏教と神道、仏教と日本精神とのギリギリの所で、仏教と日本精神との違いというものを明確に打ち出した衛藤でありますけれども、翌年にはこの日本精神運動批判は、衛藤自らの手において事実上撤回されるということになってしまいました。これについても私は幾つかの論文で発表しておりますが、結果を申し上げますと、衛藤即応は、「仏教復興と道元禅師」、これは『大法輪』という仏教雑誌に掲載されているわけでありますが、この日本精神と仏教との関係に再び触れて、日本仏教と日本精神との関係を、「幼少なる日本精神」を養育した「糟糠の妻」「賢夫人」に喩えております。先に紹介した「神社崇拝と仏教」においては、仏教をあくまで主体とし、日本精神を従属的に捉えていたわけでございますが、当時の文脈の中では、夫婦が同列の存在ではなくて、夫が主であって妻が従であるという了解事項から言いますと、夫が日本精神で妻が仏教、というようなことで表現をしておりますけれども、主客の主・従の関係が、翌年の衛藤の「仏教復古と道元禅師」においては逆転をする、ということになります。日本精神が主である、仏教が従であるという風な関係性になっていくわけでありますので、衛藤即応の、かなりリベラルなですね、当時の狂信的な皇道仏教についてのですね、かかる動向については距離を置いたかなり批判的な視点をですね、翌年自らの論文の中で事実上撤回されて、皇道と仏教の関係が主客逆転されてしまう、という風なことになります。
このことについて市川白弦氏は、代表的な論文の『日本ファシズム下の宗教』にある「仏教に於ける戦争体験」の中で、この日本精神と仏教との問題をかなりの頁を割いて論評をされております。そして当時の日本精神と仏教問題について、その類型化を試みて、鈴木大拙、今東光、中野松堂、市川白弦らの日本精神運動批判以外は、総じて日本精神運動擁護論、或いは賛成論であります。大乗仏教は水のように自性なく、その置かれた環境に従う、だから日本精神とは矛盾しないんだという考え方。日本仏教は完全に皇道・日本精神と一体化している。皇道は夫、仏教は妻、これは先程の衛藤即応氏の論考そのものですね。それから日本精神は種、仏教は肥料である。日本精神の真髄はマコト、仏教の無我の精神がマコトを培養。どうもこのマコトというのはよく分かりませんですね。六番目、王法仏法一如、仏教の真俗二諦によって日本を完全にした、それが仏教であるというんですね。日本精神は君道の神道と臣道の儒教・仏教から成る、などの、いろんな類型、パターンが紹介をされております。先程見ましたように、衛藤即応氏は日本精神を未熟な夫、仏教を賢夫人に喩えたわけでありますけれども、衛藤即応氏の日本精神論に対するリベラルな批判、或いは一定程度の距離を保とうとするこの論法は、色々な紆余曲折、懐疑や批判を経過しつつも、最終的には、皇道は夫、仏教は妻と見る、仏教の日本精神従属論に帰着することになってしまったわけであります。市川白弦氏の詳細な調査によれば、当時の仏教者の、仏教学者の大半がこの論調に同調してると、いうことであります。ということになりますとやっぱり仏教は、皇道の手段でしかないと、いう風な皇道仏教思想に転落するのはそれほど難しくはないという風なことになってしまいますから、澤木興道というとんでもない人が出てですね、皇道仏教をいきなり言い始めたということではなくて、曹洞宗の場合は、色々な紆余曲折はありながら、その下地作りは教団組織としても、或いは宗学者としてもですね、非常に地道にやってしまった結果が、澤木興道のあのような絶叫調の発言・論説になってしまったという風に認識をしております。
 それから、もう一つ大きな問題と致しまして、曹洞宗が皇道仏教化するには幾つかの徴候がありますが、それは聖典の不敬削除の問題が確認をされております。このことは曹洞宗だけの特異な現象ではありませんで、日蓮宗にも、或いは浄土真宗にも、他の宗派、宗教にもかなり共通する問題ではないか、という風に思います。日蓮宗や浄土真宗の場合も、この不敬字句の問題については色々、論文・論考・検証などがあるわけなんですが、曹洞宗はどうかということについては、あまり有名ではないわけでありますけれども、あることはきちんとあるわけでございます。で、曹洞宗の不敬字句削除の通達と、それに対する宗内外の反響をちょっと、資料を基にみてまいりたいと思います。アンダーラインを引いた所でありますが、これは、昭和十一年二月一日発行の『宗報』にあるわけでありますが、「両山貫首及管長ニ対スル尊称誤用ニ関スル諭達」ということでありますが、「両山貫首及管長ヲ称スルニ猊下ノ尊称ヲ用ヰ又両山貫首及管長ノ末派寺院ノ法筵ニ臨マルル際ハ御親臨御親修及拝謁ナル言葉ヲ用ヰ来レルモ此字句ハ往々ニシテ誤ラレル懼アリ」「御臨場御修行拝問等ト改称シ其ノ他特ニ宮府ニ於テ使用セラルル敬語ニ類スルカ如キ語句ヲ廃止シ不敬ニ亘ラサル様注意スヘシ」、それから第二点は「面山師ノ得度作法中ノ国王モ汝ヨリ尊カラス父母モ汝ヨリ云々ノ二句其他仏経祖録中往々ニシテ前後ノ文意ヲ載断シ唯タ文字ノ表面ニノミ拘泥スレハ或ハ不敬ニ亘ルカノ如キ文字少ナカラサル」とありまして、一番最後の所には「右掲ケタル二句ハ各自ニ於テ削除シテ作法スヘシ」という風な通達が出されております。要するに、昭和十一年二月一日の諭達には、大本山監修及び曹洞宗管長の敬語として当時、まあ現代でも使われているわけですが、御親臨御親修拝謁、という尊称、そういう敬語とですね、それから猊下、何故猊下が問題になるかというと、天皇陛下の陛下と非常に似ているからだ、ということなんですが、ちょっと嘘みたいな話ですが、新聞でこの仏教教団が猊下という言葉を使っているのはとんでもないというキャンペーンが張られてますね、それに対する反応なんですね。嘘みたいな話ですが、本当なんです。この猊下がですね、皇室への敬語と混同し、不敬の恐れがあるということ、また僧侶の出家得度作法にある、王法よりも仏法を尊重する、我々が生きる視線・指針というのは仏法でありますから、王法よりも仏法を優先するというのはごく当たり前のことなんでありますが、この文言も極めて不敬の恐れがあるということで、削除若しくは言い換えを指示しているわけなんですが、ただこの措置に対してですね、当時の宗教業界紙であります「教学新聞」は、非常に懐疑的な見解をこのように記しております。一々文言は読みませんけれどもですね、一番下の所にありますが、教学新聞では一〇七七号で報じておりまして、不敬の恐れがあるため、禁止または削除を指示しているはずの猊下が、この諭達の文章では平気で使われておるんですね。これは七頁の諭達の本文の下から四行目ですか、終わりのほうの部分ですね、「得度作法ハ近ク管長猊下ノ御意志ヲ体シテ」、猊下というのは不敬に当たるから注意しなさいと言っているわけです、公文書が。にも関わらず、ここで猊下という言葉を使ってるわけですね。で、これがおかしいんじゃないかということでですね、「教学新聞」で突かれて、当時の谷口部長が、何かわけのわからん弁明をしております。ということは、曹洞宗がこのような不敬に当たる文言を注意、或いは削除、言い換えをしろというような公文書を出しているわけですけれども、まったく公文書としての体をなしていないんですね、慌てて出された通達であるという風なことが分かります。「教学新聞」もしつこくですね、この問題に食い込んできまして、こういう風な、公文書の体をなしていない諭達を出した裏の事情を暴露するわけですね。それは、「教学新聞」の一〇八一号の中のアンダーラインを引いた所でありますが、色々その時代の動きがあって、曹洞宗もまたその流れに乗って、従来慣習上使用していた所謂不敬に類する辞句の使用を禁止する意図を有していたところへ、過般駒澤大学に於て鈴木管長臨場のもとに挙行された新年祝賀式の際、偶々二松学舎教授、駒澤大学の非常勤講師をしていた、同学講師橘純一氏が「管長猊下御親臨」、多分式典でそういう風な読み上げがあったんでしょうね、その辞句を問題化したため、急遽これが禁止諭達を発したものである、という風に報じております。こういう変な諭達を慌てて出したというのは、その直接的な引き金を引いたのが、駒澤大学の新年祝賀会における二松学舎の橘純一講師が、管長猊下御親臨、猊下は陛下に対して不敬であるし、御親臨なんてのは皇室だけで使う言葉であって、一仏教教団の管長等であってもですね、御親臨だとか猊下なんて言葉は不敬に当たるのではないかと、いうことをその式典場で糾弾をしたわけであります。天皇皇室への不敬字句であるというような問題提起に対して、宗門はオーバーリアクションをして、わけのわからん諭達まで出してしまったということであります。
 実はこれで終わらないんで、この不敬字句問題は後日談があって、仏教側が逆襲をしております。二松学舎というのは、国文学或いは漢文学の専門の学校でございますけれども、直接橘純一氏をやっつけるということはできなかったのでありますが、仏教教団が目を付けたのは何かと言うと、文部省検定の漢文教科書にどうも不敬に当たる言葉がある、ということをですね、仏教教団がこぞって告発をしてですね、その漢文教科書にある不敬字句を告発して、その文言を削除させる、これは文部省に申し入れをして文部省もこれを不敬であると認めて、仏教教団が不敬字句を教科書から削除させたというような運動がございました。これが結果的にはですね、不敬イデオロギーというものを固定化、絶対化させるということになりますから、ただ単に仏教教団が当時の国策や政府の或いは軍部の圧力に屈したという風な視点はですね、半分はあっても、半分は違うんではないかなというのが、私の感想であります。このような曹洞宗の不敬字句の削除の動向といいますのは、先の「教学新聞」の中で指摘されていますように、当時の浄土真宗や日蓮宗における不敬字句の問題とは、まあ必ずしも同一線上には考えられないと思います。しかしながら、仏教教団が自らの根拠と主体性をですね、当時の軍国主義、ファシズム、或いは皇道に委ねた点では、実質的に不敬字句を削除したという風なことは、皇道仏教の前提や先駆と言えるのではないかな、という風に考えております。ですから、皇道仏教というのはある日突然、それが始まるのではなくて、徐々に徐々にその既成事実や雰囲気が作られて、気付いた時にはもう、仏教が従、そして軍部であるとか皇道が主になってしまうという風なことで、この危険性は私は、現在同じように再現することはないにしても、かなり似たような雰囲気があるという風に認識をしております。
 最後のまとめでございますけれども、この皇道仏教の問題といいますのは、必ずしも十五年戦争下の仏教教団の特異な反応ではないという風に私は考えております。戦争と仏教との関係であるとか、政治と宗教との関係が、少なくとも曹洞宗の場合は非常に曖昧な現今、そして政治体制が急速に戦争という名の構造的暴力行使の既成事実化と正当化に躍起になっている今日は、ある意味では一九三〇年代の状況と酷似しているのではないかという風に認識をしております。偏狭なナショナリズムと、日本文化優位論の台頭、それに迎合した安直な仏教復興ですね、何年かに一度くらいはですね、もう一度仏教を見直そう、仏教復興だ、ルネッサンスだなんていうかけ声がありますけれども、ちょっと危険ではないかと思います。仏教を復興するという機運自体は悪いとは思いませんけれども、こういった雰囲気が、過去の道を歩んでいくということになりはしまいかということで、安直な仏教復興の動きというのは、クエスチョンマークをつけているわけでございます。今回のセミナーで頂いた要綱にございますように、我々宗教者にとって望ましい未来というものを切り開いていくためにも、曹洞宗として真摯に歴史から多くの教訓を学ばせて頂きたいと思っております。日蓮宗様、或いは真宗様においてはですね、大変勇気のある資料集であるとか、色々な研究の蓄積や積み重ねがあって大変勇気づけられましたので、なかなか宗門の中で同じような議論をできる仲間は少ないわけでありますけれども、もう一度、平和と戦争の問題、それから過去の問題を現在の問題として共有するという視点において、微力ながら、取組みを再開したいと思っておりますので、今日は貴重な勉強の機会を頂戴致しましたことに感謝を申し上げたいと思います。大変雑駁で、恐らく主催された現宗研の方々にしてみれば、こんな話を聞くつもりじゃなかったという風なことかも知れませんが、精一杯お話をさせて頂きましたので、それに免じてどうかご容赦頂きたいと思います。それでは非常に長い間、九十分ではございますが、ご清聴頂きましたことに感謝を申し上げ、なおかつ、日蓮宗様の更なる仏法興隆の祈念を致しまして、私の拙い発表の締めくくりの言葉とさせて頂きます。ご清聴感謝致します、ありがとうございました。
 

PDF版をダウンロードする