現代宗教研究第40号 2006年03月 発行
真宗大谷派における戦死者儀礼の変遷
真宗大谷派における戦死者儀礼の変遷
講師(真宗大谷派教学研究所研究員) 山 内 小 夜 子
一.はじめに
真宗大谷派教学研究所の研究員をしております山内小夜子と申します。よろしくお願い致します。私は、研究所で教団の歴史を研究していますが、「真宗と国家」という資料集を作っております。明治期以降、真宗大谷派教団が国家とどのような関わりであったのか、そういうテーマの資料を資料集としてまとめて発行するという仕事をしております。
今日は、その作業の中で読んできた資料を紹介しながら、真宗大谷派における戦死者の儀礼の変遷について報告をしたいと思います。
戦死者儀礼と申しましても、この戦死者といいますのは、特に明治期以降の近代国民国家が発動した戦争による、戦場での戦没者の追弔・追悼の儀式のことを申します。今日の報告は、私の研究所が発行しております雑誌『教化研究 特集・非戦−国家の祭祀を問う』一三三号に論文を掲載しております。ご覧いただければと思います。
第十五回日蓮教団論研究セミナーに参加させていただき、非常に緊張しております。最初、依頼を受けました時に、真宗における「皇道真宗」ということについて報告をしていただけないでしょうか、とそういうご依頼でした。私の力量にはちょっと余りましたので、今回は、「皇道真宗」というこテーマについて具体的な内容には入ることができません。
大谷派において「皇道真宗」という用語が、いつ頃から使われていたのか調べてまいりました。
大谷派の立法機関として、宗議会という議会があります。一九四二年(昭和一七)の宗議会で宗務総長が、「宗団の戦時思想対策」に対する質問に答える形で、「皇道宗教」(注1)という用語を使用しています。
翌年の一九四三年(昭和一八年)三月に開催された第二十四回宗議会は、「決戦宗議会」と称されました。そこで、「皇道真宗としての報恩奉公の道の確立」が主な議題となりました。「皇道真宗」という用語が活字で表現されたのは、この記事が最初と思われます。
その宗議会において、更に質問が出されています。ある議員から、宗務総長の言う「皇道真宗」についてて、
「皇道真宗と総長は言はれるが、その内容について昨年右は真宗そのものの中に皇道性を見ていくという建前か、又は皇道の中に真宗そのものを見ていくと言ふ建前かと聞いたところ、皇道の中に真宗精神を生じていくという建前といはれたがその内容を明確にされたい」(注2)
と質問します。
宗務総長は答えて、
「皇道真宗の用語を使ふ事についての、私の考えとして、我々国民としてこの有難い国に生活する以上、皇道を離れてはいけない。この考えが誤れば、日本の宗教として立つ価値がない。真宗教義上色々疑義があった様に聞いてゐる。今日時代教学の研究をし、それを闡明にし、その理念を根本的にはっきりさせねばならんと考へる。又歴代法主の御消息の中にも誤解を招く事なしとしないので、この際改むべきは改め、皇国日本としての臣民道にぴったり副ったものたるべきで、親鸞聖人の言われる教義には国体に背くことは無いと考へるのでこの言葉を用いさせていただいている。」(注3)
用語の研究はしていないが、このような理念の上で用いているという返事をしています。質問の返答には、なっていないような答弁です。真宗大谷派におきましては、「皇道宗教」・「皇道真宗」という用語は、一九四二年から一九四三年頃、宗派の機関誌に用語として登場してくる。しかし、その用語の意味の確認を議会で論議しているというような状態です。質問議員の言葉の中に、「建前として」という言葉がありますが、ある意味、「皇道真宗」という用語自体は定着していない、宗派としてあまり使われなかった用語としてあります。
しかし、「皇道真宗」という用語はあまり使われませんでしたけれども、午前の工藤先生のご報告にありましたように、戦争遂行のための目的もしくは戦時国家体制を支え維持することを目的とする宗学・仏教教学を戦時教学と呼ぶ、という定義をされましたけれども、そういう観点から見ますと、「皇道真宗」という用語は、一九四二年以降になって、宗派の機関誌『真宗』に登場し始めるということでありますけれども、その教義自体はもっと早い時期から実態としてあったことを、資料を通して考えられます。
二、真宗大谷派における近代史の検証について
今回は、幾つかの史料で確認しながら、真宗大谷派教団が、戦争をどのように意味づけし、戦争による戦死者をどのように処遇、つまり追弔・追悼してきたのかということを中心にご報告していきたいと思っております。
私どもの教団では、今から十七年前になりますか、一九八七年(昭和六二)四月に春の法要の期間中に勤められてきた「戦没者追弔会」を、「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改めました。
それは、一九三七年(昭和一二)の日中戦争から、ちょうど五十年目の節目の年を迎えるということが一つ。もう一つは、真宗大谷派が推進している信仰運動、真宗同朋会運動と申しますが、その中で実現した「宗憲」の改正。「宗憲」とは宗派の憲法に相当するものですが、その「宗憲」の改正に伴い、「宗憲」の趣旨に沿った法会のありかたを考えようということで、「全戦没者追弔法会」と改称され、法会が勤められることになりました。
一九八七年、戦争が始まって五十年目という節目の年に、これまでの宗門の歴史をつぶさに見極め、従来の戦没者追弔会を、新宗憲に相応しい法会に改めんとすることを期して企図されたわけであります。同時に、宗門の近代史の検証のために、明治期以降の宗門機関紙の復刻を計画しました。これは、既に復刻が全部完了し、概説論文を収録した「別冊」も発刊されました。つまり、教団の過去の歴史に学び、自らのありかたを、真宗の教法に基づいた姿に回復すべく、具体的な歩みを始めようということです。十八年前、そういう願いをもって、法会が始まり、近代史の検証が始まったのです。
この法要において、古賀制二宗務総長は、参詣者を前に、
「宗門の戦争責任の問題を真正面からとらえ、人を人でなくしてしまう戦争を゛聖戦=cd=ba39を呼び、聖人の仰せになきことを仰せとして語った罪を懺悔し、同朋社会の顕現へ向け、具体的な一歩を歩み出す」(注4)と、「非戦の誓い」を内外に表明しました。
その後、一九九〇年に勤められた同法要において、門首継承者により「表白」がされました。「表白」では、
「(略)一つには過去の罪障を懺悔し、二つには現在の遇法を慶喜よろこび、三つには将来に同朋社会の実現を期したいと存じます。
第一に、過去の罪障を懺悔するというは、過ぐる大戦においてわれらの宗門が、戦争という悪に荷担し、それを『聖戦』と呼び、宗祖の『まったくおおせにてなきことをも、おおせとのみもうす』罪を犯したことであります。
今更あらためて全戦没者の悲しみを憶念しつつ、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懺悔いたします」(注5)と表明しました。
一つには過去の罪障を懺悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の実現を期したいという内容です。宗門として、戦争協力に対する罪を告白し懺悔したわけです。
つまり、一九四五年に敗戦を迎え、四十五年という時間を経て表明されたものがこの「表白」であったわけです。
同じような戦争を経験したドイツの宗教界において、プロテスタント教会の戦争罪責告白、「シュトゥットガルト宣言」が出されたのが、一九四五年、敗戦の年の十月であることを考えますと、まことに遅い表明であったという印象を持たざるを得ません。
その表明の遅さの理由の究明が、実は、戦争責任と戦後責任をも明らかにするものではないかと思われます。日本の仏教教団、とりわけ真宗大谷派教団の戦争協力の実態については、一九八〇年代に入って、ようやく歴史研究や、各教区での歴史の掘り起こしが少しずつ進んでいるという状況です。とはいえ、多くの歴史研究者の指摘にもありますように、戦争に対する認識や戦争に協力した責任に関わる、責任主体として、課題的にその研究に取り組む姿勢はまだ途上と言うしかなく、僧侶、門徒や信徒全体で共有した歴史認識とはなっていないという現状があります。
先程申しました真宗大谷派の機関紙復刻に際し、その中心となられた柏原祐泉氏は、次のように語っておられます。
「われわれは、近代の宗門から、ただ『負』の歴史をのみあげつらうことを慎しむべきである。しかし、『負』と『正』の事実さえ、不明確なのが現状ではあるまいか。われわれは、謙虚に、着実に、具体的に、そして恒常的に、近代のわが宗門の歩みを自省することを忘れてはならないとおもう」
という言葉を述べておられます。自分自身の自己確認のために、自虐ではなくて自省、自らを省みるという姿勢が大事だろうということと受け止めております。
真宗大谷派において、明治期以降、どのように国家の戦争を意味づけ、戦争による戦死者をどう追弔・追悼してきたのか。戦死者の儀礼の変遷を辿り、宗門の歩んだ足跡を確認することから始めたいと思います。
三、「戦死者」について
戦死者、戦没者ということについて思いますのは、明治期以降の戦争は、それ以前の戦争、つまり江戸時代の戦いくさと違う所があるように思います。明治期以前の戦は、武士・士族達の職業であり生業であり、戦死はそのことによる死でありました。 明治期以降の国民国家による戦死は、徴兵制により徴兵された一般の国民の死、つまり庶民の死、となったわけです。明治政府は、戦争の遂行のために、その戦死者の処遇として、国営の追悼施設として、靖国神社を創建しています。そして一般の庶民の戦死者を、「英霊」として合祀し、「神」として祀っています。
戦前の尋常小学校『修身教科書巻四』に掲載されている教材の中に、靖国神社という教材があります。最後は次のような言葉であります。
「君のため国のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭りをするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、こゝにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません」(注6)
巻四というと、小学校四年生くらいの子どもたちが学んだ教材です。ここに、靖国神社の役割が表現されていると思います。戦死を顕彰し、残された者は、その戦死者に習って尽くさなければなりませんということです。戦死という死を、見習うべき死であると表現されております。また、顕彰することによって、遺族の悲しみや悲憤を一方に収斂し、逆に戦意を高揚していくエネルギーに転化されてきたんではないかという、そういう指摘もなされています。(注7)
それでは、私どもの宗門が勤めてきた戦死者儀礼とは一体どういうものであったのでしょうか。国民の戦死、庶民の戦死の儀礼というものが、いつ頃どういう形で始まってきたのでしょうか。
儀式とは、何かを表現する場ならば、何を表現し、どういうメッセージを、その場は発信していたのでしょうか。そして一九四五年以降、敗戦後において、どういう形で引き継がれ、現在に至っているのでしょうか。戦前と戦後の連続と非連続とを確かめておきたい、と思います。
戦後日本の社会において、戦死者の儀礼については、いわゆる靖国神社問題に代表される、政治的な領域の中で論議されることが非常に多かったかと思われます。その影響もあってか、戦争で亡くなられた戦死者の方々に対しての儀礼の在り方や、国家による追悼の是非について、きちんと考え論議してきたそういう経験を、私どもの教団ではほとんど持っておりません。
そういう意味において、一九八七年に、「戦没者追弔会」を「全戦没者追弔法会」と改称し、戦没者の追弔・追悼について考えていく、それに続く取り組みは、戦死者の儀礼の在り方とその課題を論議していく、小さな契機となっていく可能性を拓くものになるのではないかと思っております。
現在、日本では、自衛隊がイラクに派兵され、滞在が継続延長されようとしております。過去の戦争で亡くなられた方々の問題だけではなくて、こんなことは本当はあってはならないことですけれども、新たな戦死者の処遇をも視野に入れた政府レベルでの論議も登場しております。
このような時期に、あらためて過去の戦死者儀礼の在り方と、それがもっていた問題を学ぶことを通して、現在の私たちの課題を確かめたいと思います。
四、「酬徳会」
そういう問題意識を持って、私ども真宗大谷派の歴史を振り返ります時に、見過ごしてはならない儀式があります。「酬徳会しゅうとくえ」という儀式です。「酬」は「むくいる」という意味です。つまり、徳に報いる法会という名称の儀式があります。これは、一八九二年(明治二五)に新しく創設された儀式です。
皆様のお手元の資料の十頁を開いてください。『本山報告第八十一號附録』とあります。この『本山報告』とは、真宗大谷派の機関紙です。そこに、「酬徳會彙報」の中に、当時の法主の「垂示」があります。
「歴朝の聖恩と道俗の護持とに縁よりて以て法運の隆昌を致せり 是を以特ことに酬徳の法会を開き毎歳之を執行し以て 歴朝の聖恩に奉答し古今道俗の功績を表彰せんとす これしかしながら世風の変遷に鑑み由て以て仁義を興し忠孝を励まし俗諦相順の教旨を明にせんと欲するところなれは門末一同予か意を体し彌王法を本とし仁義を先とし内心に深く他力真実の信心をたくはへ真俗相資けて以て一宗の繁盛を冀図すへし」(注8)
新しく始めたられた法要では、天皇の恩に感謝しそれに報い、宗派の功績にあった者を表彰する、つまり誉めるという儀式です。
これは、「本宗俗諦門の教旨なれば特に之を儀式に表して厳重の法要を修し」(注9)とありますように、真宗における俗諦門を表現する儀式として始まりました。
当時、真俗二諦は宗義とされ、宗教的領域と世俗的領域を分けて、それぞれに真理(諦)を立てると解釈され、明治期以降は、現世においては天皇の忠良なる臣民となり(俗諦)、来世に極楽浄土に往生する(真諦)という使われ方をしたわけです。真諦俗諦は車の両輪、鳥の翼の両翼、というような形で使われました。
私たちの宗門の中心の儀式は、「報恩講」という儀式です。この親鸞聖人のご恩に報いるという意味の「報恩講」という儀式は、「真諦」を主とする儀式、そして酬徳会は、俗諦を表す儀式として、この二本立てで「二諦相依り」の宗義を教え導くための儀式として始められたわけです。
酬徳会は、東本願寺の本堂本尊前に歴朝天皇の「尊儀」を奉安し、大師堂の右手余間には「表徳記」と呼ばれる二箱の法名記が安置されました。上下二巻の上巻には歴代の天皇の法名(諱)、下巻には教団に功績があった僧侶・門徒の法名を記しました。
当初、法名記には、例えば「石山合戦」のおり勲功をたてたとする人の後世の者が嘆願書を寄せ、それが認められたら法名記に記入されるという形でありました。
しかし、一八九四年(明治二七)に日清戦争が勃発し、多数の戦死者が生じはじめると事情は一転するわけです。
五、酬徳会と日清戦争
日清戦争という、国民が初めて経験する外国との戦争に対する心構えを、法主は僧侶・門徒に向けて、「御直命」として次のように示しました。資料の一頁です。
大谷派では、戦争の度に、その戦争がどういう戦争か、戦争にあたる心構えを、「御直命」・「諭達」・「垂示」・「親教」という文書で、僧侶や門信徒に示しました。
一八九四年(明治二七)八月十三日、本月十日午前八時大寝殿において法主は「御直命」を、裏方(法主の妻)は「親示」をくだされた記事があります。
直命では、
「今度清国と戦端を開き已に宣戦の詔勅も公布に相成りたる次第実に国家の一大事(略)殊に本宗は王法為本の宗義なれば此教旨を体し一身を国家になげうち忠勤を尽くさねばならぬ。併し兵役にあたらぬ者は命を捨ツル必要もなきゆえ其かわりには奮つて軍資を献納し又は在外の兵士を慰労し造次顛沛にも国家の一大事という事を忘れぬよう」(注10)
と命じたわけです。つまり、兵役に当たる者は命を捨てて頑張りなさい、兵役に当たらない者は軍資金をこぞって献納し兵士を慰労しなさいと、そういうことを命じたわけです。
一八九四年(明治二七)八月一一日には、当派の門徒で兵役に従う者に三折名号を授与するとともに、戦死者は酬徳会の「表徳記」に加えることにしました。日清戦争で亡くなられた方々を、戦争の二年前に新しく始まった酬徳会、その酬徳会の法名記に、戦死者の名前を書き加えていくいうことが始まるわけです。
法名記には、宗門に功績のある僧侶、門信徒の名前が記帳されているわけですが、その法名記に戦死者の名前が書き加えられ、それを供えた形で法要が勤まるということになっていくわけです。つまり、戦死という、国のための死というものが、宗門の功績という形で表彰されるべき死、として意味づけされ、法要が勤められた、そういう歴史があるわけです。
日清戦争において、法主の直命でもって、僧侶や門信徒に対して、一身を国家になげうちて忠勤を尽くすよう命じ、戦死を宗門に功績あるとして酬徳会の法名記に記載し、表彰し、顕彰しました。
更には、その軍隊の階級により下士官以上は院号法名、下士官以下は法名を無冥加(無償)で下付しました。
この酬徳会は、実は戦後も勤められておりました。この酬徳会、一八九二年(明治二十五)に始まり、一〇六年後の一九九八年に廃止されました。廃止された後は、師主知識の恩徳を奉讃する師徳奉讃法要という形に改められて勤められています。 日本国家の一番最初の対外戦争である日清戦争。その戦争に宗派がどう対応したのか、その戦争での戦死者をどのように処遇したのか。
日清戦争の時の事例が、一九四五年まで、ほぼ同じ形で踏襲され継続されていきました。
日清戦争は、東アジアにおける帝国主義の政治的な争点であった朝鮮半島を巡って日本と清国が覇権を競った戦争であったわけです。日清戦争に勝利した日本は、台湾を「割譲」し、植民地にしました。そういう、植民地支配への道を歩みだした戦争だったわけです。戦争が終わった後、戦争で亡くなられた方々は、法名記に加えられ、酬徳会の際にその法名記を大師堂(現在の御影堂)の右手余間において儀式を勤めました。その酬徳会とは別の、戦死者の儀礼がはじまります。
六、日清戦争
日清戦争の翌年、一八九五年(明治二八)十月二十五日より三日間にわたり、「征清軍隊死亡者追弔法要」(注11)という法要が、また二十九日には、「祝捷奉告式」(注12)という、戦争に勝ったことを奉告する儀式が行われています。
この「征清軍隊死亡者追弔法要」が、本山東本願寺で行われた戦死者を追悼する一番最初の戦死者儀礼です。この時に決められた式次第が、本山での戦死者儀礼の式次第として、以降準じて勤められていくことになります。
この征清軍隊死亡者追弔法要には、近在の府県から戦死者の遺族約五百名が参列し、お斎や茶菓の接待を受け、本山で用意した特別席で儀式に参拝、焼香。そのご遺族を前に、法主は次のようなお言葉を語られるわけです。
「本日は征清軍追弔の法会を営なむこと実に此度の戦死に付てはさそかし愁傷に思ふてあらふか。併し乍ら、よくよく思ひいめくらして見れは、此世一生の間は有為転変の娑婆なれは、如何なるはけしき無常の嵐にさそはれ、如何なる病患に逢て死するやも計り難い。然るに、生れ難き人間の生をうけ、特にこの皇国に生れ、名誉の戦死を遂て、名を海外に輝かせしことは、実に喜はねはならぬこと。されは遺族の輩、今生に於てはいよいよ御国の為めには身命を惜ます、報国尽忠の誠を抽て、未来に取りては己か計ひを捨て、偏に彌陀他力の本願にすかり奉り、生きては皇国の良民と云はれ、死しては安養浄土の華の台に往生を遂るやう、現当二世愈々心得ちかひなく、我門徒の輩は法義相続を大切に致せ」(注13)
このような言葉をご遺族に語られた訳です。名誉の戦死を喜び、益々国の為に尽くし、生きている間は国の良き民として、死んでからは浄土の蓮の花の上に往生するようにと、語られたわけです。
翌二十七日には軍の関係者をはじめ、近衛公爵、九鬼枢密院顧問、控訴院の院長等が約百名余りが参列しております。
一〇月二九日、本堂で挙行された「祝捷奉告式」は、日清戦争の勝利を祝う戦捷祝賀式で、山階宮殿下を始め華族四〇余名、陸軍武官二〇余名、地方長官、裁判所判事、警察署長、府議市議等一五〇余名、浄土真宗本願寺派門跡をはじめとする各派本山住職三〇余名が参加、食事や能楽を楽しみました。また、奉告式の後、大学寮で組織された軍楽隊の演奏により、本堂前にて「君が代」と軍歌二曲が演奏されたりしています。
このような形で、戦争の意義を直命・教書によって教え、戦死された方々を戦没者追弔法要でもって追弔し、戦没者遺族に対してはこのような言葉を述べたと、そういう歴史があります。
七、日露戦争
資料の二頁目は、日清戦争から十年後の日露戦争の時に語ったご法主の「直命」、寺務総長の「親示」です。一九〇四年(明治三十七)に始まる日露戦争は、直接的には朝鮮半島の支配権を巡る日本とロシア両国の対立によって引き起こされた戦争です。その戦争に際し、この戦争の意味と僧侶や門信徒の心構えについて説いたものです。「親示」の方の資料を読みたいと思います。
「今般満韓保全の問題に起因し露国と交戦の端を啓き竟に本日を以宣戦の大詔を煥発し給へり(略)本宗門徒にありては予て教示する処の二諦相依の宗義に遵ひ朝家の為め国民の為め御念仏候べしとの祖訓を服膺し専心一途報国の忠誠を抽んで奮て軍気の振興を希図しその事に軍役に従ふものは速に他力本願を信して平生業成の安心に住し身命を国家に致し勇往邁進以て国威を海外に発揚し内外一致同心戮力海岳の天恩に奉答すべし」(注14)
日清戦争時と同じような内容の親示を出しているわけです。
そして、この日露戦争が終わった後、一九〇六年(明治三十九)四月二十三日、日露戦争で亡くなられた戦死者の儀式が、本山東本願寺で勤められています。
名称は、「明治三十七年八年役戦病死者追弔法会」(注15)です。法会には、遺族が三二〇〇人も参列し、来賓には岩倉具視、久邇宮などの華族、第四師団の参謀長、また京都府の知事、地方裁判所長、各市内の警察署長、市の議員、京阪新聞社員、陸軍の将校、軍医など三百名余りが参列したということです。更に、京都近辺の軍隊の大津歩兵第九連隊、深草の歩兵第三十四連隊、伏見の工兵第四大隊およそ千人余りが参拝したという記録が残っております。
このような形で、日清、日露、シベリア出兵、満洲事変、日中戦争、そして一九四一年以降のアジア・太平洋戦争と続く戦争の毎の宗門の対応を示す資料が、四頁以降のものです。時間の関係で、詳しく申せません。割愛させていただきます。
八、日中戦争
一九三七年(昭和十二)、日中戦争が始まった時に出された資料の六頁です。日中戦争は、実に宣戦布告のない戦争であり、当時「支那事変」と言っていました。
一九三七年の七月七日、北京郊外の廬溝橋で日中両軍が衝突して日中全面戦争が始まっていくわけです。当初、近衛文麿内閣は、戦争不拡大の方針をとりましたが、現地の軍部はこれを聞き入れず、首都南京を占領し、戦線は華中から華南にも広がっていきました。これに対して、中国で大きな抵抗、抗日の動きがあるわけです。戦争が泥沼化していくという、そういう時期のものです。
資料六頁の「親言」(一九三七年九月一七日付)を見ていきます。
「抑々世尊一代の教説は成就衆生浄仏国土の顕現に結帰し、仏陀大悲の方便は摂受折伏の妙用に至極す。今や皇軍は折伏の利剣を執つて起つ、固より平和建設の方便なり、国民よろしく奮然蕨起して忠誠公に奉じ和協心を一つにし其の目的の貫徹に邁進すべし」(注16)
とあります。つまり日本の軍隊は、「折伏の利剣」を執って起った皇軍であると、仏教の言葉を使って戦争の意味を語っています。
日中戦争が一段落した後、一九三九年(昭和十四)四月に、この戦争で亡くなられた方々の追弔法要が行われています。「支那事変戦没者追弔法要」の後、「軍用動物追弔法要」として「支那事変戦没軍馬(軍用犬・軍用鳩)追弔読経」が勤められました。この法要は非常に大掛かりなもので、日本全国から沢山の方が集まりました。(注17)
また、「軍用動物追弔法要」では、軍用犬五十頭、軍馬六十頭、軍用の鳩二百羽がですね、京都駅の前に勢揃いし、烏丸通りを北進して、大師堂前に整列し、法要に参列しています。
この戦没者追弔法要に際しては、拓務大臣、十六師団の師団長、京都府の知事、市長、更に内閣総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、松井石根大将等の方々から、供物が届けられています。
九、太平洋戦争
一九四一年(昭和一六)十二月八日、日本はハワイ真珠湾とマレー半島コタバルに奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ、イギリスと交戦状況に入ったわけです。太平洋戦争が始まった直後に、「教書」が出されます。
この「教書」は、当時は「挺身殉国の教書」と言われました。資料の七頁を読みます。
「伏して惟るに 陛下大詔を民庶に下して米国及英国に宣戦を布告したまひ速に之を討ちて 祖宗の遠猷を恢弘せんことを宣示したまへり方に是億兆一心曠古の 天業を翼賛し以て 宸襟を安んじ奉るの秋なり(略)予曩に教書を発示し宗門の緇素をして挺身殉国の精神を昂揚せしめたり今や 天歩愈々艱難にして皇国の安危はこの秋に在り須く金剛不壊の信心に住し堅正にして却かず勇猛精進すべきなり」(注18)
と、「挺身殉国の精神」を強調しました。
この戦争で亡くなられた戦死者の法要は、一九四三年(昭和一六)四月に勤まっています。「大東亜戦争戦没者追悼法要」という法要です。厳如上人の五十回忌法要と同時に勤められました。その法会には、ハワイ空襲の際、「威勲」を示した中佐の妻を始め、「武勲輝く殉国勇士」の遺族千余名が参拝しました。同時に「誉れの母」の顕彰式、また、出征した住職の代務として寺を守り、「挺身奉公の誠を捧げる」寺族婦人の表彰式が行われました。つまり、戦場がついに銃後まで及び、銃後を護っている人たちへの表彰、顕彰が強調されました。
本山での戦死者儀礼とは別に、各地方の師団や連隊などの主催する、若しくは各教区主催の戦死者の儀礼に、法主や連枝(法主の兄弟)が導師、つまり儀式執行者として出向しています。
以上のように、戦争の度毎に、戦争の意義と心構えを僧侶や門信徒等に、「直命」・「諭達」・「垂示」・「教書」などの文書で示しているわけです。その内容は、政府の方針とは違わず、一言でまとめるならば、戦争の遂行のため、その身を国に尽くしなさい」という教えを説いていったわけです。
戦後に勤められた戦死者の儀礼は戦死者の遺族を中心に勤められ、その会場には来賓として、皇族や華族、政府の高官、軍関係者の参列があり、あたかも、政府主催の儀式と見まがうばかりの様相でありました。
このように、日清戦争以降の真宗大谷派宗門が勤めてきた戦死者儀礼は、このような形であったわけです。
名称につきましては、戦争の毎にその戦争の名称を冠した法要が勤まり、一九四五年八月の敗戦まで、基本的な形式・内容というものは変更なく継続されております。このような戦死者儀礼と並行して、新たに始まった法要があります。
十、報国法要
それは、一九三七年(昭和十二)に始まった報国法要です。この年、戦争中の戦時体制確立のために、政府は、国民精神総動員強化週間という週間を設けております。その国民精神総動員強化週間の中の十月十六日に、「報国法要」(注19)が勤められています。
この儀式も、一九三七年に始められた新しい儀式ですが、戦死者儀礼ではありません。しかし、宗門を挙げて、国策に従い、尽忠報国、国に報いるという姿勢を表明する、宗門の姿勢を儀式で表明するものでありました。国策としての戦争を、相対化することも否定することもなく、ある意味で支え、戦争で亡くなられた方々の死というものを、「赤誠」の表現として受け入れていく土壌を作るものとなりました。
当日は秋雨のため参詣が気遣われたが、満堂立錐の余地がなかったと報告されています。報国法要に引き続き、大寝殿にて遙拝式が行われ、勅使門に向かって遙かに宮城を拝して最敬礼の後、法主の時局親言朗読、教学部長訓示と続き、万歳三唱で式を閉じています。
十一、戦後の戦死者儀礼−連続と非連続
以上のような形で、一九四五年の敗戦を迎えるわけです。それでは、戦前と戦後とは違っているのか、同じだったのか。つまり、戦前と戦後の連続と非連続について考えてみたいと思います。資料の八頁を見てください。一九四六年(昭和二一)一月、敗戦の翌年一月の『真宗』誌です。これは敗戦の年十一月の報恩講の「教示」です。
「(略)真に世間は虚仮不実で何もかもあてにならぬと知られては、愈々求むべきは出離の大事、唯たのむべきは阿弥陀如来、信心決定して参るべきは安養の浄土である。(略)よく艱苦に耐え、窮乏をも忍び、道義を実践し、一段と生産に努力して平和日本の建設を念願せられてこそ、今年の報恩講に逢い奉れる所詮というものである」。(注20)
敗戦という国の大転換期を迎えて、世間は実に虚仮であると、不実であるというわけです。そして最後に、「生産に努力して、平和日本の建設を念願せられてこそ、今年の報恩講にあい奉れる所詮というものである」と。
つまり、一九四五年の敗戦を転機として、戦中の教化やその内容がどうであったのか検証されないまま、そのまま「平和日本の建設」へとスライドしているという、そういう宗派の実状があります。
十二、世界平和促進大会
一九四五年、戦後の戦死者の儀礼について報告したいと思います。
真宗大谷派では、戦死者のみの追悼儀礼は、勤められていません。一九五一年(昭和二十六)年、日本と連合国側はサンフランシスコ講和条約を結び、戦争状態の終了を宣言すると同時に、日本とアメリカは日米安全保障条約という条約を締結します。日本の独立と、米国を柱とする安全保障の枠組みがこの時に確立するわけです。
この翌年、一九五二年(昭和二十七)四月に大谷派において、戦後七年目にして、戦死者儀礼を再開しています。一九四五年からこの間、戦死者の追弔・追悼の儀礼は勤められていません。
靖国神社には、およそ二四〇万人の戦没者が祀られています。その八十五%に当たる、二二三万七百人余りが、アジア・太平洋戦争、つまり、一九四一年以降、一九四五年までの四年間で亡くなられた方々です。
と同時に、三一〇万人とも言われる日本の戦死者、広島や長崎の原爆で、若しくは都市空襲で、引き揚げの途上で、学童疎開の先で亡くなられた人たち。更に、日本の侵略戦争により亡くなられたアジア各国の二千万人とも三千五〇〇万人ともいわれる戦死者を出して、この戦争は終わったわけです。戦死者の圧倒的な数字の前に、戦争の大義、正当性というものも意味を持たず、その数の前にほんとに言葉を失ってしまいそうな、そういう思いが致します。
さて、戦後、占領軍の支配下におかれた日本では、公の形で戦没者の儀礼というものは行えませんでした。
大谷派では、一九四九年四月、中興の祖と言われる蓮如上人の四五〇回忌の法要が勤まります。この法要の際に「世界平和促進大会」を開き、「世界平和に対する大谷派の声明書」(注21)が出され、いかなる戦争にも「今後は参加協力するのあやまちを犯さない」ことを、表明しました。
この大会では、鈴木大拙氏や、占領軍のバーンズ大佐、また総司令部の宗教顧問シーマンス博士の三名が講演をしています。
バーンズ大佐は、民主主義と共産主義との境界線にある日本において、真宗大谷派教団が民主主義勢力の一員として、共産主義の挑戦に応ずるようにという内容の講演をしています。つまり、この占領下で行われた蓮如上人のご遠忌、そしてご遠忌の中で行われた世界平和促進大会、その大会は、当時の世界勢力地図の西側・東側という色分けの、特に西側の文脈で語られる平和であったわけです。敗戦七年後に日本は独立し、戦後の歩みを始めるわけですが、その方向性を、法要の中でバーンズ氏、またシーマンス博士が示していく講演をしたわけです。
十三、戦死者儀礼の再開
さて、時間がなくなりましたが、戦後始められた戦死者の儀礼について報告いたします。
一九五二年(昭和二七)四月、真宗大谷派は戦死者儀礼を再開します。
「戦歿者追悼法要」は春の法要期間中の一一日〜一二日の二日に渡って行われ、議事堂で「慰安の夕べ」が開催されるなど、遺家族を対象としたものでした。
法要にあたり内務局長が、
「ともすれば忘れ勝ちな戦死者の追弔、傷痍軍人や遺家族の慰安については、凡ゆる機会を通じて実行して頂く」とし、「国民たるもの、結帰する所は永遠の平和を希い争いを避け度いと云う一点に於ては些かの変りもないと信じ度いのであります。この決意と信念を仏祖の御前に心から宣明し度いと云う念願こそ御法要を勤修する心構え」(注22)と、その主旨を語っています。
戦後の復興の忙しさと、戦争はこりごりという時代の空気が感じられますが、しかし、この「戦歿者」とは、「今次の戦争に於ける百数十万の戦歿者」であり、日本国民の戦死者、とりわけ戦場で死んだ軍人・兵士のことを指し、アジア・太平洋地域の被害国の受難者は含まれていません。
一九五二年(昭和二十七)以降は毎年、春の法要期間中に勤められています。
再開された戦死者の儀礼について調べてみますと、まず気付いたのは名称が一定しないということです。
戦没者追悼法要、戦没者追弔法要、戦没者追悼会、戦死者追悼会、戦没者追悼会、そして、一九八七年に全戦没者追弔法会、と改称されていく。
戦没者、戦死者、追悼、追弔、法要、法会と、一定しない名称をもって勤められてきたということです。
追悼という言葉は、悼み悲しむという意味があると聞いています。追弔という言葉は、弔うと、死者の霊を慰め、死者の遺族を見舞う、そういった意味があります。 今年戦後六十年を迎えますが、真宗大谷派宗門で勤めてまいりました戦死者の儀礼は、名称は一定しておりません。それは、その儀式の持つ意味が変わってきたことが原因なのか、それとも、その儀式の持つ意義そのものが不明確であり、そのことが名称の不統一として表れているのか。あらためて、どういう形式と意義を持つ儀礼なのかということは、儀礼の名乗り、名称に表現されるのではないかということが思われます。
十四、最後に
最後に、これまでみた資料を通して考えられますことは、真宗大谷派においては、明治期以降敗戦まで勤められてきた戦死者の儀礼は、真俗二諦の宗義を教化する場としてありました。宗教的領域と世俗的な領域とを分けて、それぞれに真理(諦)があり、現世においては天皇の忠良なる臣民となり、来世に極楽浄土に往生する、という使われ方をしてきたわけです。それは、日清戦争の際の法主の「直命」のように、「本宗は王法為本の宗義なれば此教旨を体し一身を国家になげうち忠勤を尽くさねばならない」、などと露骨に表現されることは多くはありませんけれども、趣旨は大差なく、戦死を否定せず肯定していくものとしてあり、時には勧め、称賛し、後に残された者が見習うべきものであり、更に仏法にかなっていると教えました。
また、戦後に再開された戦死者の儀礼も、形式・内容・対象・参詣者など、戦前を継続した連続したものでありました。
戦死者の儀礼が、我が国の礎となられた「尊い犠牲者」としての追悼としてあるのならば、それは戦前の戦死者儀礼と同じ質を持つものと言わなければならないのではないでしょうか。
戦争であれ、我が国の再建であれ、人道復興支援であれ、平和の創造であれ、国や政府への貢献が基準とされる追悼というものは、大きな問題が残るのではないかと思われます。
戦争の被害者であっても、戦争の加担者であっても、若しくはその両方であっても、戦争で殺し殺された、理不尽で不条理な悲しい死を死なれた、死なされた、そういう方々であると思います。戦争で亡くなられたことを、例え追悼という文脈であっても、「尊い犠牲」と称賛することは、むしろ国の礎や平和のための犠牲ということが注目され強調されるのではないかと思われます。その犠牲が模範のように扱われることがあっても、一体どうしてそういう犠牲が生じたのか、その原因究明への取組みがおろそかになってしまうのではないかと思います。かつての「朝家の御為、国民の為」が、国際社会での人道支援なり、国際社会での国益となった時、そのための犠牲は称賛されるべき死なのでしょうか。決してそうではなく、どんな名目であれ、国民に生命を差し出させるような国家のありようそのものが根底から問われなければならないのではないかということを思います。
この戦死者の儀礼につきまして、私たちより一世代の上の先輩たちが、既に各教区において様々な取組みを、また各寺院におきましても様々な取組みが進められています。
大谷派山陽教区では、広島の原爆の経験を後世に伝えるために非核非戦法要を、また、長崎教区では「原爆法要(非核・非戦法要)」を、三条教区、小松教区では、「全戦争犠牲者追悼法要」を、また、大聖寺教区では「戦争犠牲者追悼法要」が勤められています。
一九九〇年に門主が全戦没者追弔法会において、戦争責任に対する懺悔を「表白」したわけですが、その五年後、一九九五年、敗戦五十年の年に、宗議会・参議会の名で「不戦決議」(注23)を表明しました。資料の一番最後の頁になるかと思います。その中で
「私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、仏法の名を借りて、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言い知れぬ苦難を強いたことを、深く懺悔するものであります。この懺悔の思念を旨として、私たちは、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに不戦の誓いを表明するものであります。」
そういう誓いを表明したわけでありますが、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまない、という部分が大切かと思います。繰り返し繰り返し確かめ、決意し、表明していく、そういう場としての法要(法会)、その場の創造というものが待たれるのではないかということを思います。
以上、真宗大谷派教団による戦死者儀礼の変遷について報告をさせていただきました。私たちは、国のための死を肯定するような宗教的な政治空間というものを、儀式としてもう二度と作り出さないように、細心の注意というものを払わなくてはならないのではないかということを、改めて感じます。今回、こういう機会を与えていただきまして、ありがとうございました。
また、今回配布された資料の中にある、日蓮宗宗務総監をされておりました西川景文先生の文章を、非常に深い感銘をもって読ませていただきました。「先づ懺悔せよ」という題で書かれたものです。一九四八年(昭和二十三)十二月八日に書かれた言葉です。日本の仏教界の中で、相当早い時期に、その罪責を語られた言葉ではないかと思います。「罪の自覚なき所に宗教はない。懺悔の心なき所に神仏は顕はれ給わぬ」。そういう言葉、本当に身を刻むような言葉を読ませていただき、学ばせていただきました。非常に不十分な報告ですが、これで研究発表を終わらせていただきます。ご清聴どうもありがとうございました。
注1 『真宗』一九四二年(昭和一七)七月号。「第二十二回宗議会通常会議事概要」に「(大谷総長)日本には日本の宗教があり、満洲支那には夫々の国の宗教が必要であり。万国各々その処を得せしめる宗教でなければならぬ。故に日本には日本国民たるの範疇を出でない、よりよき日本国民を作り上げる皇道宗教でなければならぬ。この意味で真宗の時代教化も改むべきは充分改めねばならない。」とある。
注2 『真宗』一九四三年(昭和一八)六月号
注3 注2と同じ。
注4 『真宗』一九八七年(昭和六二)五月号
注5 『春の法要』パンフレット 一九九〇年四月
注6 『尋常小学校修身巻四』一九三七年(昭和一二)文部省発行
注7 菱木政晴著『非戦と仏教』白澤社 二〇〇五年一月三〇日
注8 『本山報告第八十一号付録』一八九二年(明治二五)三月二〇日。収録に際しカタカナを平仮名に改めた。
注9 注8と同じ。
注10 『本山事務報告』一八九四年(明治二七)八月一三日。収録に際しカタカナを平仮名に改めた。
注11 『本山事務報告』一八九五年(明治二八)八月二五日
注12 『本山事務報告』一八九五年(明治二八)九月二七日
注13 『本山事務報告』一八九五年(明治二八)一〇月三一日。収録に際し句点を付した。
注14 『宗報』一九〇四年(明治三八)三月二〇日。収録に際しカタカナを平仮名に改めた。
注15 「明治三十七八年役」とは日露戦争のこと。『宗報』一九〇五年(明治三九)五月二五日
注16 『真宗』号外 一九三七年(昭和一二)一〇月一二日
注17 一日目は、京都、大阪、長浜、大垣、高山、岐阜、桑名、名古屋、岡崎、東京、山形、仙台、北海、奥羽、三条、高田、富山、高岡各教区から遺族の参拝があった。二日目は、七尾、金沢、小松、大聖寺、福井、神戸、高松、四日市、鹿児島、熊本、久留米、長崎各教区と朝鮮、「満洲」からも遺族が参拝した。弔辞は、文部大臣、厚生大臣、拓務大臣、第十六師団長、第四師団長、第三師団長、第九師団長、京都府知事、京都市長、舞鶴要港部司令官、京都華僑連合会長から届けられた。弔電は、参謀総長、軍司令部総長、内閣総理大臣、陸軍大臣、海軍大臣、教育総監、松井内閣参議、北支派遣軍指揮官、第十一師団長、中部防衛司令官、石川、神奈川、千葉、兵庫、岡山、福井、山形、秋田、香川、佐賀各県知事、金沢刑務所長、大阪朝日新聞社長、京都華僑連合会長から届けられた。供物は、拓務大臣、第十六師団長、京都府知事、京都市長、軍人後援会石川支部長、舞鶴要港部司令官、京都華僑連合会長から届けられた。
注18 『真宗』一九四二年(昭和一七)一月号。収録に際しカタカナを平仮名に改めた。
注19 『真宗』号外一九三七年(昭和一二)一〇月一二日。「立教開宗以来はじめての特別法要」と称されたこの法要は、真宗各派が協定し、本願寺派、高田派、興正寺派、仏光寺派、木辺派の各本山で同日同時間に執行された。
注20 『真宗』一九四六年(昭和二一)一月号
注21 『真宗』一九四九年(昭和二四)五月号 声明の内容は「人類相互の殺害と闘争とを余儀なくされる戦争には、如何なる理由の下に於いても、今後は参加協力するのあやまちを犯さないことを、教団中興の祖蓮如上人の四百五十回忌法要執修のこの機会に、広く中外に宣言すると共に、平和擁護のための国民運動と、世界平和団体の活動に対して、積極的にあらゆる努力を尽す決意のあることを表明(略)」
注22 『真宗』一九五二年(昭和二七)三月号「春の法要」内務局長・金倉儀一