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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

末法の導師は何故日蓮大聖人でなければならないのか

 

教化学研究集会講演
 
末法の導師は何故日蓮大聖人でなければならないのか
 
(立正大学仏教学部教授) 庵 谷 行 亨  
 
 ご紹介いただきました立正大学の庵谷でございます。普段は学生諸君に話していますので、どうしても専門的なことをお話することが多いのですが、今日は、地元の所長さんのご要請がございまして、前回に引き続き、できるだけ、各ご寺院の、布教の現場で役に立つようなお話をするようにということでございます。前回もそうだったのですけれども、非常に、所長さんが熱心でございまして、繰り返し、私共の所に電話がございました。前回は、私共の静岡まで来ていただきました。今回は大阪で会いまして、やはり色々お話をさせていただきました。
 そのようなことで、本日の会が設定されるまでには、所長さん始め関係の皆さんが大変ご尽力くださったのでございます。それに応えて、私共も努力しなければいけない。或いは今日ご聴聞いただく皆様も、それぞれの成果をお持ち帰りくださいまして、各所長さん方が念願となさっております、それぞれのご寺院の事情の中で、布教に役立てていただきたいと思う次第でございます。
 先ほど、参加者の名簿を拝見したのですが、もう既に、学が成った方も大勢おられて、今更と、いう風にお思いになる事も多いと思いますけれども、そういう趣旨でございますので、比較的噛み砕きながらお話を申し上げますので、少しくどいとお思いになる方もいらっしゃるかも知れませんけれども、その辺はご容赦いただきたいと思います。
 それから、現宗研さんのほうで、色々ご配慮くださいまして、お手元に冊子が四冊届いていると思います。これは、かつて私が、山喜房仏書林という出版社から公刊したものでございます。今回の講義で、皆様方にとってお役に立てばということで、ご配慮くださったのであります。書籍というものは、買う時は大変高いのですけれども、それを、ほんとうに有効に利用すると安いものになります。今回は、贈呈になっておりますけれども、これを有効にご利用いただくとありがたいと思います。
 大学の授業でこの本をテキストとして利用している科目もございますので、もしかすると、私の授業をお受けになった方は、お持ちになっている方もおられるかも知れません。日蓮大聖人の教えに関する基本的な事柄を、あまり解説は加えておりませんが、項目のような形で挙げております。皆様方が、日蓮大聖人の教えに関するいろいろな知識をお持ちになりますと、それに順次書き加えて、自分自身の、日蓮大聖人の教え、即ち日蓮大聖人教学というものを体系づけてください。そのお役に立てば何よりと思っております。
 今日、お話申し上げることは、この本に関係することもあります。本を見ていただいたほうがより分かりやすいということも多々ございます。ただし、本日は、資料をご用意致しておりますので、そちらに従いまして、お話を進めさせていただきます。話の内容のことに関しまして、具体的には、或いは体系的には、こちらの本をご覧いただくと、更にご理解いただけると思います。
 それでは、お手元にございます、六枚綴りの資料をご覧になってください。
 最初に、一枚目をご覧になってください。末法の導師は何故日蓮大聖人でなければならないのか、というテーマでございます。私共日蓮宗は、祖師信仰、という風に言われますけれども、お祖師様、日蓮大聖人に対する信仰が非常に強い、ということがあります。
 各宗派でも、それぞれ祖師は崇められるのは当たり前なのですけれども、類したものとしては、弘法大師空海です。お大師様と言って、そのお寺に所属している檀信徒のみならず、地域の人達も含めた信仰を集めることがございます。
 そういう風に、特に、日蓮大聖人は、お祖師様ということで、長い伝統の中で、信仰されてまいりました。今日は、そういう人々の信仰の形態についてお話するのではありません。どうして、そのように敬われるのか。即ち、私共は末法の導師という風に申し上げているのですけれども、どうして末法の導師という風に、日蓮大聖人が呼ばれるのかということについてお話を申し上げるのでございます。
 少し固いお話をしますが、日蓮宗宗憲というものがございます。日蓮宗の最も基本となる定めでございますが、この中に、日蓮大聖人のことを規定しております。これをまずご紹介したいと思います。日蓮宗宗憲の第一章第一条にこのような条文があります。日蓮宗は、久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を、末法に弘通することを付嘱された、本化上行菩薩の応現日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する仏教正統の宗団である。これが、日蓮宗宗憲の第一条でございます。この中で本日のお話に関することは、本化上行菩薩の応現日蓮聖人が、という部分です。日蓮大聖人のことを、本化上行菩薩の応現という風に宗憲では規定している、ということが分かります。その表現が宗門においてどういう意味があるのかということにお答えするのが、今日の私の役割なのでございます。
 そのことをお話するために、一頁の一です。釈尊と日蓮大聖人とはどのような関係にあるのでしょうか、これがまず第一点です。項目だけ申します。第二点、法華経に説かれている末法の導師とはどのような方をいうのでしょうか。最初は釈尊と日蓮大聖人。二番目は、法華経の中に説かれている導師とはどのような方なのか、ということです。そして三番目は二枚目の三、日蓮大聖人は、末法の導師としてのご自覚をどのようにお持ちになり、どのようにそれを表明されたのでしょうか、です。二番目は法華経の中でどう説かれているか、三番目は、日蓮大聖人は、この法華経の教えの中の末法の導師を、どのようにお受け止めになったのでしょうか、ということです。四番目は五頁目です。日蓮大聖人は何故尊いのでしょうか、ということが、最後になります。
 日蓮大聖人は、法華経に説かれている末法の導師としての生涯を送られた。そういう日蓮大聖人のお姿をたどることによって、日蓮大聖人が尊い方だということが、私達に理解されるのですけれども、その集約を四の所でしています。
 これらのことは、殆どは、先ほど冒頭で申し述べました、所長さんが提示された質問事項なのです。前回もそうだったのですが、所長さんの提示された質問事項をこのようにまとめたのです。これに従って、お話を進めます。
 それでは一番、釈尊と日蓮大聖人とは、どのような関係にあるのでしょうか、ということについてでございます。そこに二つの項目が挙げてあります。
 1、は釈尊。釈尊は久遠の教主。2、日蓮大聖人。日蓮大聖人は、釈尊の命によって、釈尊のご意思を実現する末法の導師、ということです。
 簡単に説明します。釈尊と日蓮大聖人との関係です。日蓮大聖人はどういう位置づけにあるか、というお話をしているのですが、釈尊と日蓮大聖人との関係は縦の関係です。横ではなく縦の関係。釈尊が上で日蓮大聖人が下です。上下関係でいえば、そういう形になります。釈尊が、日蓮大聖人に対して、付属したという形になっているわけです。そして、日蓮大聖人が釈尊に対して、信仰を捧げます。
 法華経の教えの中で、付属ということが説かれます。地涌の菩薩は法華経の中に説かれている菩薩です。地涌の菩薩のリーダーが上行菩薩です。釈尊の教えが地涌の菩薩、特に上行菩薩を中心に付属されていく、ということが法華経で説かれます。日蓮大聖人は、この地涌の菩薩の中心の菩薩である上行菩薩としての自覚をお持ちになりました。自覚者です。それで分かりますように、釈尊から地涌の菩薩へ、地涌の菩薩の中心は上行菩薩、上行菩薩の自覚者が日蓮大聖人、ということになります。法華経の教えの中では、仏様が地涌の菩薩に付属なさいます。付属とは委嘱する、お願いする、委託する、ということです。
 何をどういう風に委託したのか。一つは、仏様が入滅された後の、末法という時代における教えの弘通。これを弘教といいます。末法時の弘教、仏様が入滅された後の末法時に出現して法を弘める。そしてもう一つが、その法です。末法の大法、題目、南無妙法蓮華経の五字七字です。即ち、法を弘めるということと、その弘める法は題目である、ということを、お釈迦様が地涌の菩薩、特に上行菩薩を中心とした菩薩方に付属なさるということがあります。これが付属の内容です。
 整理しますと、釈尊から上行菩薩、その上行菩薩の自覚者日蓮大聖人、という形をとっている、ということをまず基本に考えてください。これが釈尊と日蓮大聖人とはどのような関係にあるのでしょうか、ということの解答です。
 図式を単純化します。釈尊、上行菩薩、そして上行菩薩の自覚者日蓮大聖人、こういう形になります。上行菩薩の自覚者日蓮大聖人が末法の導師になります。そしてその末法の導師の教えを受けるのは、人々です。仏教では衆生と言っています。釈尊の教えが人々に伝わって、人々が救い取られていく。そのいわば仲介として、導師がおられる。釈尊から人々への間を仲介する導師は、釈尊から付属を受けた、委嘱を受けた、命令を受けた、菩薩なのです。法華経の教えの中にそう説かれているのです。日蓮大聖人がお受け止めになった法華経の救済の構図は、釈尊から上行菩薩の自覚者である末法の導師へ、そしてその末法の導師から人々へ、という系譜になっているのです。
 他の宗派の場合には、仏様の教えが人々を導く。その救いの教えを人々に伝えていく役割を祖師方がしていきます。教えが、仏様から人々へ伝わり、人々が救われていくというのが一般の経典に説かれる道筋です。仏様が、法を説いて人々を導きます。祖師方は、このお経にはこうあります、仏様がこういう風に教えを説いておられます、という風に説きます。例えば阿弥陀様という仏様がおられて、南無阿弥陀仏と称えることによって救われると説いておられます、ということを説明します。仏様から人々へという体系の中に、仏様の教えそのものとして、祖師方が入ることはないのです。仏様の教えを紹介するという形になります。
 それに対して、こちらの構図は、仏様から人々の間に、末法の導師としての上行菩薩の自覚者日蓮大聖人が介在する。
 他の祖師方は、弘法大師を除いて、人間の祖師なのです。人間の祖師と言うと何か誤解があるかも知れませんけれど、まさしく歴史上に登場した人物です。
 それに対して日蓮大聖人の場合には、単なる歴史上の人物ではなくて、法華経の中に説き入れられている上行菩薩としてお生きになった。即ち、法華経の菩薩ですね。法華経の中の菩薩としての人間です。
 法華経の中に説かれている仏様にしても菩薩方にしても、客観的に冷めた目で見ると、架空でしょうと、或いは物語でしょうということになります。小説でも、そこに出てくる人物は、いわば架空です。
 法華経というのは経典です。仏様がお説きになったものです。そのお説きになったものが、現実の世界に生きていなければいけない。仏様の教えを現実社会に生かす者が必要なわけです。それが、上行菩薩を中心とした地涌の菩薩である、ということが法華経には説かれているのです。だからそこのところが、まず基本的に、他の祖師方と日蓮大聖人とは違うのだということを、認識していただきたいと思うのです。
 弘法大師は別だと言ったのは、日蓮大聖人と同じという意味ではなくて、違う特色がある。弘法大師は入滅したとは言いません。入定にゅうじょうなさったというのです。定に入るというのです。つまり、弘法大師は仏様になられたと考えているのです。これは真言宗の信仰です。弘法大師は仏になられたのだと言っている。だから南無遍照金剛と言う。ですから真言宗の信徒は仏様として崇めている。日蓮宗では、日蓮大聖人のことを仏様としては崇めていません。だから、そこは違います。
 日蓮大聖人系諸教団の中には、日蓮大聖人が仏様だと考えている教団もありますが、日蓮宗ではそういう風には言っておりません。では何と言っているのかというと、お釈迦様から正式に命令を受けた、或いは委嘱を受けた、委嘱を受けるということは印可です、ハンコをもらったということですね、印可を受けた菩薩としての生涯をお送りになった末法の導師と言っている。それは他の祖師方とは違います。
 そういうことですから、何故、日蓮大聖人滅後に、祖師信仰と言われることが、特に江戸時代に隆盛して、そして大勢の方がお参りするようになったかということも分かるのです。それは、数々の難にお遭いになって、そして命を賭けて法をお弘めになった。難を、不思議の力によって免れて、そして六十年のご生涯をお過ごしになった。そういうことがあるので、その、日蓮大聖人のご功徳をいただきたいということで、厄除けの祖師と言って、信仰が広く弘まることになりました。
 それで、一の所は、だいたい、ご了解いただけると思うのです。教学的なことを余り言ってはいけないのですが、言葉だけ話しておきますから、もしお手元の参考資料を後日ご覧になることがあったら、参考にしてください。
 これを、内相承ないそうじょうと言っています。これは、釈尊への直参じきさんです。日蓮大聖人が釈尊に直参されるのです。日蓮大聖人が歴史上の人物、僧侶として個人的に直参するのではなくて、本化ほんげ上行菩薩として直参される。これを内相承と言っています。これは日蓮大聖人の宗教的自覚の世界を表しています。これは専門用語ですからあまり詳しいことは申しませんけれど、こういうことも教学上では言うということだけご紹介しておきます。
 それでは、二に入ります。法華経に説かれている末法の導師とは、どのような方をいうのでしょうか、とあります。ここにかなりの紙面を費やしておりますけれども、ここでは、大きく二つのことを説明しています。それは法華経にはどう説かれているか、ということです。法華経の第十五章従地涌出品、それから、法華経の第二十一章如来神力品、この二つの所でその説明をしています。
 この項目は、まさしく法華経の内容そのものです。法華経の内容が、どのようなものなのかということが分からないと、なかなか理解し難いことがあります。法華経は全部で二十八章ございます。専門用語では二十八品と申します。品ほんとは品物の品という字を書きます。分かりやすいから、章と言います。
 その法華経二十八章の中の第十五章と第二十一章、この二つを理解すると分かる。何故、日蓮大聖人が末法の導師と言われるようになったのか、何故、そのことが法華経によって裏付けられるのかということが分かるのです。
 それでは、1の(1)を見てください。法華経における従地涌出品第十五の位置付けです。そこに、久遠の釈尊を明かすさきがけである、と説明してあります。このことは、法華経全体の内容を思い出してください。法華経には大きく二つのテーマがある、と古来から言われているのです。二つのテーマとは、二乗作仏にじょうさぶつと久遠実成くおんじつじょうです。この二つが法華経の二大テーマ、二大思想と言われるものです。
 これは、今日のテーマではありませんから、簡単に言います。二乗作仏は平等ということです。平等思想です。全ての者が仏様であります、全ての者は仏様になります、ということです。これが二乗作仏。法華経の前半の教えです。後半は久遠実成。こちらは仏様ご自身のことです。仏様ご自身が久遠である、仏様の久遠、ということが説かれています。久遠とは永遠ということです。仏様が永遠であるということはどういうことでしょうか。仏様は何時の時代でも、どこにおいても、永遠に私達をお救いくださるということです。久遠実成ということは、仏様は永遠に私達を救ってくださる、ということを意味します。
 私達は、今ここに生きていると自覚しています。私達がここにいると同じように、過去の人もいたのです。過去の人の時代もあったのです。そして、恐らく、この地球や宇宙が続く限りは、皆様の子孫、人類の未来があるでしょう。そうすると、過去の人も仏様によって救われた、我々も救われる、未来の人達も救われていく。その救いを実現することができる仏様は、久遠の命を持った仏様、永遠の仏様です。永遠の仏様こそがまさしく、真実の救い主、人々をお救いくださる方であるということがここで明らかになる。
 ですから、全てのものは平等であり、全てのものが救われるということは、この法華経で説かれる二大テーマであると言ってよいと思います。そして今これからご紹介しようとするのは、これに関連することです。
 皆様が普段、一番お読みになるお経は何ですか。それを考えてください。一番お読みになるお経、そこにこのことが説かれているのです。一番お読みになるのは恐らくお自我偈と仰るでしょう。お自我偈というのは如来寿量品の偈頌げじゅ部分です。偈頌というのは詩です、詩文です。自我得仏来と五文字でできています。
 お自我偈は如来寿量品第十六です。法華経前半の中心は方便品第二。皆様がお経をお読みになる時には、方便品と寿量品をお読みになることが多いでしょう。これが、その理由ですね。
 三品経ということを仰るでしょう。方便品と寿量品に加えて神力品第二十一。方便品第二、寿量品第十六、神力品第二十一、これを三品経と言って、日蓮宗では重要視して読みます。
 神力品に説かれていることは何か、それが今日のテーマに関係します。今日の冒頭に申し上げた、地涌の菩薩とか、或いは、仏様から委嘱を受けた、その中心の菩薩である上行菩薩、そういうことが説かれているのが神力品第二十一。だから、神力品は、日蓮大聖人が末法の導師として立ち上がっていかれる、その最も重要な所なのです。ご寺院で僧侶の法要をなさる時に、これを読むのは、まさしく日蓮大聖人のお弟子として、地涌の菩薩の一類として生きてこられた、その徳を称えたりするために、この神力品を読むのです。ですから、その三つが、日蓮宗では重視しているお経ということになります。
 神力品の話をするための前段階として、久遠実成ということをお話したのです。その久遠実成の、また前段階として、従地涌出品のお話を致します。
 二の一、地涌の菩薩が説かれている従地涌出品は、法華経の中でどういう位置付けがあるのか、ということをお話します。
 今、法華経の二大テーマのうちの一つが、久遠の仏様だと言った。その久遠の釈尊は第十六章で明かされるのです。その第十六章の前が第十五章です。
 二の一の(1)です。久遠教化の弟子を明かす段です。久遠の釈尊を明かす先駆けとして、久遠教化の弟子を明かす、ということになります。
 久遠教化というのは、久遠の過去に教え導かれた弟子がいる、ということです。久遠の弟子がいるということは、久遠の過去に教化したということです。久遠の過去に教化したということは、久遠の過去に教化できる師がいたということになります。そういうことがこの第十五章で説かれています。
 久遠の弟子がいるということは、その弟子を教化する、久遠の師がいるということがなければ、話が繋がらないわけです。今、ここでご紹介しています、従地涌出品第十五には久遠の弟子ということだけしか説いてありません。久遠の師の話はその次の第十六章にあります。そうすると、久遠の弟子ということが説かれているということは、暗に、久遠の師がいるということを示していることになる。だから、先駆けという風に言っているのです。その内容の詳しいことはその後に出てまいります。
 (2)です。従地涌出品第十五の内容です。ここは大きく二つに分かれます。前半は、久遠の釈尊の教えを説き示す幕開けになる。説法をなさっている場所は宝塔の中です。そして二仏が並んでおられます。これを二仏並坐にぶつびょうざと言います。そのうちの向かって左側がお釈迦様です。向かって右側が多宝如来です。このお釈迦様が、この十五、十六、そして第二十二章まで、この状況で説法されています。十五章の説法の中で二つのことがある。前半が久遠の釈尊の教えを説き示す幕開けです。空中で仏様が説法なさっているのを、大勢の聴衆が聞いているのです。聞いてる人達も皆空中に浮かんでいるのです。そういう状況の中で地面から菩薩方が涌き上がってきたのです。これが第十五章の始まりです。地面から涌き上がってくるから、地涌の菩薩と称するのです。本日の冒頭で申し上げた、この地涌の菩薩の最も中心になる方が上行菩薩です。その上行菩薩の自覚者として日蓮大聖人は生きられた。その始まりが、この第十五章なのです。
 その次、後半です。後半は、弟子の久遠を明かして、教主である釈尊の久遠性を暗に示す。地面から菩薩達が現れた。その菩薩達は非常に体格がよくて、立派なものを身に着けている。仏様は老比丘です。老というのはご高齢ということですね。比丘というのは男性の出家者です。だから、枯れ木のようなお姿の仏様です。それに対して、お弟子さん達は背も高くて体格も立派で、身に着けているものも立派なものです。そういう立派な姿の菩薩方が地面から出てきたのです。それを見て、説法を聞いていた人達が疑問に思います。その菩薩方は仏様に対して馴れ馴れしいのです。仏様の回りを三回廻ります。右繞三匝うにょうさんそうと言って、これは挨拶です。仏様を讃歎して挨拶をします。仏様、元気にしておられましたか、この娑婆世界の人達は仏様に何か迷惑をかけませんでしたかと。
 みんなが疑問に思って、仏様に質問します。それに対して仏様は、この菩薩方は、私が久遠の過去に教化した菩薩です、とお答えになった。それが今先ほどご紹介したことです。そうするとまた皆が驚いた。おかしな話だと。王子が出家なさり、そして苦行をなさり、その苦行を捨てて、菩提樹の下で悟りをお開きになった。その悟りの内容、教えを、遊行ゆぎょうして人々に説かれた。そして今日に至った。そういう仏様なのです。仏様が、どこでどういうことを誰にお話になったかみんなは分かっている。ところが、このような菩薩は自分たちは見たことがない。このような菩薩を、仏様が教化なさっている場面に出会ったこともない。だからこれはおかしな話だ。仏様の仰っていることは意味が分からない。こう言って、みんなが疑問を持ちます。その疑問を受けて、次に説き明かされたのが、如来寿量品です。
 先ほどご紹介した、法華経の二大テーマ、その後半は久遠実成だと言いました。皆様が普段一番お読みになるお自我偈です。この如来寿量品第十六で仏様は自身の久遠をお示しになった。お自我偈は自我得仏来で始まります。我仏を得てよりこのかた、と読みます。我とは仏様、仏を得てとは成仏した。即ち、先ほど久遠実成と言いました、実成です。真実に仏になった。成道した。自分が仏になってよりこのかた、計り知れない時間が経っている。こう仰った。これは偈頌の部分です。その前の長行じょうごうといわれる散文の部分、文章部分の所に詳しい内容が説かれています。その中に、仏様は、実は自分は永遠の過去から仏であると仰る。ですから、十五章で久遠の弟子がいる、と仰った。十六章では、私が久遠の師であると仰った。だから、まず久遠の弟子を明かし、久遠の自身を明かしているわけなのです。
 そういう設定になっていますから、第十五は、まだ仏様自身の久遠は説いていませんけれども、弟子の久遠を明かして、教主である釈尊の久遠を暗に明かしていることになるわけです。これは順序が逆になっています。普通は、私は永遠の仏です、と仰って、だから久遠の弟子がいるのですと、仰れば話が分るのです。ところが、逆に、久遠の弟子がいるのです、と仰ったから、みんなが疑問に思ったのです。それは、恐らく説法の手段ですね。みんなが疑問を持つことによって、関心を深めて、とても理解できないという所で、自身が久遠の仏だということをお明かしになる。
 久遠の仏ということは、分からないのです。分からないと言ったら身も蓋もないのですけれども、分からないのです。私達は有限の世界に生きていますから、いつ生まれた、今何歳になった、という話は分かるでしょう。私は永遠に生きていますと隣の人が言ったらどうします、信じますか。隣の人はおかしくなったという事になりますよね。永遠の存在というのは我々には理解できないのです。だから仏様は逆転の手段でお説きになった。
 寿量品の冒頭に仏様は、汝等當信解とお説きになっています。汝たちまさに信解すべしと。信がなければこのことは分からないということを、念を押してから、実は私は久遠であると仰った。仏様の久遠ということは、それは、信の世界です。皆様が普段、お勤めのときに、南無久遠実成と毎朝勧請なさっているでしょう。それは久遠の仏様を信じているということでしょう。信じているということがなければ、永遠の救いは成り立たないのです。
 久遠の仏を信じるということは、もう頭を通り越しているのです。我々は、科学の世界に生きていますから、説明して、なるほど分かったという時は分かるのですけれども、説明を乗り越えているものは分からないのです。
 我々の理解には限度があるのです。どのような科学者、どのような偉大な人が、どのようなことを言っても、すべて限度があるのです。我々の知識は我々の環境の中で考えているだけなのですから。我々人類が蓄積してきた全ての英知を総動員させても限度があるのです。
 アスベストの話、皆様よくニュースで聞くでしょう。どうしてこんなことになるのか考えてください。人間に知識があって、そういうことをしたらこうなるから駄目だと、最初からわかっていれば、やらなかったでしょう。数々の公害問題もそうです。それは、その時は一所懸命やったのです。ところがそこに限界があるのです。最初からそこに原因が見えていれば対処したのです。原因を見ることができない。そこに人間の限界があるのです。
 これが、仏様の言う不可思議世界です。不可思議世界は妙なのです。妙なる世界なのです。これはもう人知を超えています。人知を超える世界は信解する以外にはありません。信解する。これが久遠実成の世界なのです。
 次に(3)に入ります。地涌の菩薩。釈尊の久遠教化の弟子である。これは先ほど申し上げました。久遠教化の弟子、これを本弟子と称しています。仏様には、沢山のお弟子がいます。皆様もよくご存知のように、例えば、舎利仏・目連・阿難。或いは何々菩薩とかですね。ところが、それらの大勢のお弟子方の中でも、ほんとうの弟子を本弟子といいます。どうして本弟子と言えるのかというと、本とは久遠という意味です。他のお弟子方は久遠の弟子ではないのです。この地涌の菩薩方こそが本当の弟子である、ということになります。
 その次、(4)上首四菩薩。地面から涌き上がってきた無数の菩薩、その菩薩方の上首、上首とはリーダーです、中心の人達、それが四菩薩です。上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩の四菩薩です。
 法華経の神力品には、上行等の菩薩摩訶薩と何回も出てまいります。だから、この四菩薩のトップは、上行菩薩だということが分かります。仏様から付属を受けた地涌の菩薩の最高責任者です。最も責任のある最も中心の菩薩は上行菩薩です。
 この四菩薩は仏様の久遠の弟子のトップですから、仏様をご本尊としてお祀りする時にはその脇士となります。それが一尊四士といわれる姿です。四菩薩を脇士にされているお姿を見ると久遠の仏様だと分かるのです。
 四菩薩は仏様から付属を受けた、最も法華経を世に弘める責任を担った菩薩方であるということになります。そして、ご本尊をお祀りする時には、仏様の左右の脇士になられる方です。
 その次、(5)です。地涌の菩薩の涌出の理由です。どうして地涌の菩薩が涌き出てきたのか。少し難しいことを言って申し訳ないのですが、中国の天台大師がお書きになった『法華文句』に、前三後三の六釈といわれるものがあります。これを止召ししょうの六義とも言っています。止三召三とも言っています。止めるに三あり、召すに三あり。
 何を止めるのかというと、迹化しゃっけの菩薩を止めるに三つの理由があります。本化の菩薩を招くのに三つの義があります。地面から菩薩が涌き上がります。なぜ涌き上がったのかというと、本化の菩薩を涌き上がらせなければならない理由が三つある。
 仏様の面前には大勢の菩薩がいるわけです。大勢の菩薩がいるのに、その菩薩に付属しないで、なぜ本化の菩薩を涌き上がらせるのかというと、面前の菩薩は迹化の菩薩ですから付属できない。迹化の菩薩とは迹門の仏様の教化を受けた菩薩です。本化の菩薩は本門の仏様の教化を受けた菩薩です。本門の仏様とは久遠の仏様です、久遠の釈尊です。久遠の釈尊の教化を受けた菩薩が地涌の菩薩。ところが、迹門の菩薩は、簡単に言うと、無常の仏様のお弟子です。無常とは、常ならずということですから、生まれて死んでいく。無常とは永遠ではないということです。本門の仏様は永遠の仏で、これを久遠本仏と言うことがあります。迹化の菩薩は迹門の仏様の教化、無常の仏様の教化を受けた。だから、迹化の菩薩方にはこの任は耐ええないのです。この任とは、仏様の滅後に、この法華経のお題目南無妙法蓮華経を弘めることです。
 そのことを、次の所を見てください、説明しています。これは天台大師の解釈です。他の菩薩では不可であることの理由です。他の菩薩にはそれぞれの国土において任務があります。それぞれの菩薩方は、それぞれの国土でやることがあります。仏教では、それぞれの仏様はそれぞれの場所で法を弘めるそれぞれの世界の教主だと言っているのです。お釈迦様はこの娑婆世界の教主だと説いてあります。娑婆世界とは我々が住んでいるここです。他の菩薩方はそれぞれの国に任務がある。他の菩薩はこの娑婆世界とのご縁が薄い。他の菩薩に付属すると本化の菩薩を召し出だすことができない。本化を召し出すことができないと、釈尊の本地、釈尊ご自身が久遠であることも開顕できない。こういう理由を挙げています。
 その次は、召三、即ち本化地涌を召し出だす三つの理由、地涌の菩薩でなければならない理由です。地涌の菩薩は釈尊の久遠教化の弟子であるから、即ち本弟子であるから、釈尊のご本懐の教え、即ち本法を付属する。本法とは久遠の法です。久遠の弟子だから久遠の法を付属するというのです。なぜ、釈尊のご本懐の教えだと、久遠の弟子に付属しなければいけないのか。他の菩薩方では任に耐えない。なぜ任に耐えないのかというと、その任務が大変だからです。なぜ任務が大変なのかというと、地涌の菩薩が引き受けるのは如来滅後だからです。滅後とは仏様が入滅された後です。肉体を持った仏様はもういないのです。肉体を持った仏様がいないとどうなるかというと、段々、仏様の教えが軽んじられていく。段々と軽視されて、修行する人がいなくなる。悟りを開く人もいなくなる。段々、仏教が形式化していく。例えばお経を読む人はいるかも知れない。それから修行をする人もいるかもしれない。建物を建てる人もいるかも知れない。それは皆、形でしょう。仏教の本質は悟り、救いです。お経を読むことが目的ではなくて、お経を読んで、仏様の救いにあずかる。お経を読んで仏様の真意を知るのです。立派なお寺が建つかも知れない。立派なお寺は何のために建つのですか。正しい教えを弘めるためです。教えを弘めるためにお寺を建てるのです。形式化していく。そしてついには、悟りを開く人はいなくなる。修行をする人はいなくなる。ただ教えのみが残るのです。教のみが残る、そういう時代になってしまう。
 如来の滅後は段々段々悪くなるのです。悪世と言っています。悪い世なのです。悪い世の中というのは、そこにいる人達が悪いからそうなるのです。悪機です。機とは、人々という風に理解していただければよいと思います。悪い人々です。悪い人々が存在する。仏様が入滅されると段々人々が仏様の教えを信じない。そういう人達が増えてくる。そういう時代だから、迹化の菩薩方にはとても任に耐えない。だから、仏様の本弟子でなければ、如来滅後の法華経の弘通はとても耐えられない、ということがあるわけです。
 地涌の菩薩はこの娑婆世界とのご縁が深い。これは何故かというと、地涌の菩薩は釈尊の本弟子です。釈尊は、先ほども申しましたように、この娑婆世界の教主です。娑婆世界の教主の本弟子なのですから、この地涌の菩薩方はまさしく、娑婆世界で釈尊滅後に法を弘めることができる。
 釈尊が永遠なら、釈尊が法を弘めればよいのに、なぜ地涌に任せるのかと仰るかも知れません。釈尊は永遠仏なのですが、肉体を持ってお生まれになったのです。肉体は滅するのです。永遠の仏はまします。どういう風にましますのかというと、あらゆる姿をもってまします。皆様一人ひとりも、久遠の仏様の顕現、現れ、建物もそうですし、自然の移り変わりもそうですし、或いは、仏像で象徴的に表すこともあります。あらゆるものが仏様として現れます。しかし、姿かたちを持ったものは無常です。全て生じるものは滅していく。そういう姿をもって仏様は存在しているのです。だから、絶対的な、永遠に存在する仏として、姿を持っておられるわけではありません。久遠の仏様は、久遠の法をお説きになり、その法を付属する。地涌の菩薩に付属なさって、そして肉体を滅せられる。肉体を滅せられても、仏様は永遠に生き続けて人々をお救い下さる。こういうことになるわけです。だから、付属ということが必要になってくるわけです。
 その次です。地涌の菩薩を召し出すことによって、釈尊の本地、即ち久遠実成を開顕することができる。これは久遠のお弟子ということを媒介として、仏様自身が実は久遠だということを如来寿量品でお説きになる。このことを言っているわけです。これが『文句』の解釈です。
 その次が、2、になります。如来神力品第二十一に説かれている地涌の菩薩です。第十五章は、地涌の菩薩が現れた、そのうちの四人がリーダー、仏様の本弟子であり、仏様の入滅された後に仏様の教えを弘めることになる、という説明をしました。
 (1)法華経における如来神力品第二十一の位置づけ。久遠の釈尊の教えを未来永劫に弘める。ここが大事な所です。地涌の菩薩が折角涌き出ても、仏様からきちんと委嘱を受けて、要するに印可状ですね、証明書をもらって、そして仏様と約束を交わして、実際、如来滅後に出現してきて、その約束を履行するということがなければなりません。それが、神力品の付属の儀です。
 儀とは、儀式のことです。この神力品の付属の儀式に日蓮大聖人の出発があるのです。日蓮大聖人が立ち上がったのです。この社会に立ち上がった。その立ち上がった原点はこの付属の儀にあると思っていただいてもよいと思います。どういう風に付属したか。概略は二つのことがあるのです。一つは教え、教法です。それから、一つは人師です。仏様は地涌の菩薩に何を付属したのか。
 神力品に要法ということが出てきます。皆様普段お読みになります神力品の中に、以要言之如来一切所有之法とありますね。要を以ってこれを言わば、如来一切所有之法とか甚深之事と出てきますでしょう。要を以ってとは、要(かなめ)です。付属の法は要法です。一つは要法です。
 そして、誰に付属したのか。これが地涌の菩薩。その中心が上行菩薩。これも先ほど申しました。
 この、要法の法華経とは、即ち、これが、今日は資料に入れていませんけれども、如来寿量品で説かれている良薬、大良薬ですね。毒を飲んで苦しんでいる子供たちを救うために、父のお医者さんが、自分の子供を救うために与えたその薬。即ち、これが大良薬です。上行菩薩の自覚者として立ったのが日蓮大聖人。これは先ほども申しました。こういう構図になるのです。
 日蓮大聖人は、釈尊から付属された上行菩薩としての自覚に立って、題目を弘めていかれたのです。この付属の儀に、題目の信仰、それから日蓮大聖人の信仰、要するに、日蓮大聖人のあるべき姿、どう生きていくかということが決したと言ってよいと思います。
 そのことを更に詳しく、(2)で項目を挙げて説明しています。地涌の菩薩の誓い。まず地涌の菩薩が誓います。何を誓うのかというと、仏様が入滅された後に、妙法蓮華経の題目を弘めることです。滅後弘教の誓い、これが神力品の最初です。すると、釈尊が十種類の神力を現します。神通力です。神通力とは不思議の力です。お経にはよく神通力の話が出てきます。仏様が舌を梵天までおつけになったとか、それから、咳払い、指を弾く、そういう十種類の不思議な事を現された。これが仏様の神通力です。
 なぜ神通力を現されたのかというと、またこれも解釈があるのですけれど、これから仏様が、仏様入滅後の法華経の弘通と、それによって人々が救われていく、法華経の救いを地涌の菩薩を通して実現する、その先瑞です。これからとても大切な喜ばしいことが起こりますよという前触れです。先瑞というのは、素晴らしいことが起きる前兆です。
 そして、要法が説かれます。先ほど少しご紹介した要法です。四句要法と言われています。四つの句で法華経全体を集約する。一代聖教、釈尊の全ての教え、言葉を換えれば一切経です。釈尊の全ての教えが法華経に集約され、法華経の教えが寿量品に集約され、寿量品の教えが題目に集約される。この題目が要法の法華経です。四つの句で要法を示された。これを、天台大師が地涌の菩薩への結要付属と解釈したのです。
 結要とは要に結ぶということ。結要の付属とは法華経を要に結んで付属した、ということです。
 法華経信仰には色々ある。日蓮大聖人も天台法華宗から出発なさった。鎌倉仏教の祖師方は殆どが天台宗から出発なさいました。天台宗の法華仏教と日蓮大聖人の法華仏教とはどう違うのですか、という質問が出ます。天台宗の法華仏教はどちらかと言えば、法華経の法華仏教です。法華経は一部八巻二十八品です。部経と言います。法華経二十八章はご存知ですね。法華経二十八章の法華経を信仰したわけです。これに対して日蓮大聖人は要法の法華経信仰をしたわけです。そこに、天台法華と日蓮法華との違いが生じています。法華経全体を釈尊の教えとして受け止めるか、題目を釈尊の中心の教えとして受け止めるかの違いです。日蓮大聖人は題目に法華経全体があると考える。これが、日蓮大聖人の要法の法華経信仰ということです。これが結要付属の要法です。
 その次に別付属と書いてあります。これは別して付属したということです。別は特別とか分けるという意味ですから、特別の菩薩のみということです。特別の菩薩とは何かというと、それは地涌の菩薩です。
 それで分かりますように、神力品は、上行等の地涌の菩薩に、題目南無妙法蓮華経五字七字を付属した、ということが示されている。その付属の所に、日蓮大聖人が題目を受持し、上行菩薩の自覚をもってお立ちになる。そこに原点がある。
 ですから日蓮大聖人の宗教は、法華経二十八章の中では、どちらかと言えば神力品でお立ちになったと言ってよいくらいです。ただしそういうことを強く言うと問題が生じる。法華経はあくまでも寿量品が中心である。寿量品を通して神力品を見る。寿量品を通して方便品を見る。寿量品を通した神力品によって日蓮大聖人はお立ちになった。何故そういう念を押すのかというと、神力品だけを言うと、教主の久遠釈尊の影が薄くなる。上行菩薩こそが最も大切な人だというと、日蓮大聖人だけが前に出てきて、お釈迦様がどっかへ行ってしまうという宗教になってしまいます。そういう問題が生じます。あくまでも、今日、冒頭で申しましたように、お釈迦様が上、日蓮大聖人はその下というのが日蓮宗の信仰なのです。
 神力品は、日蓮大聖人が立ち上がる重要なところなのですけれども、それはあくまでも寿量品を媒介として受け止めなければならない。即ち、久遠釈尊の意志を受けて、地涌の菩薩の自覚を持って日蓮大聖人はお立ちになった、ということです。
 それでは、次に(3)です。地涌の菩薩に付属することの理由。これは、日蓮大聖人がご遺文にしばしばお挙げになっていることですが、天台・妙楽・道暹の解釈をそこに挙げています。これを見ると感心するのです。いつ見ても感激を新たにするのです。
 天台大師は「地涌の菩薩は釈尊の弟子であるがゆえに釈尊の法を弘める」と言っているのです。これは、弟子が師匠の法を弘める。これは普通です。即ち、師弟関係で説明していることが分かります。別に仏教の世界でなくとも、茶道でも、華道でも、師匠が伝授して、お弟子さんがそれをやっていく。師の法を弟子が弘めるのは普通のことです。
 その次、妙楽大師。「地涌の菩薩は釈尊の子であるゆえに父の法を弘める」です。これは、仏の子。子が父の法を弘める。これは父子関係で話をしている。これは更に深いと私は思うのです。何故かというと、父子ですから。師弟は深いご縁をもって師弟となります。ところが親子は気付いたら親子なのです。これは何かのご縁を持っているのです。宿縁。この世で親子になるということは、まさしく、よほどの深い縁です。宿縁とは過去世の縁です。過去世に深いご縁を持たないと親子にはなれない。だから、父の法を子供が弘めると言ったのは、やはり深いと思うのです。法を弘める菩薩は仏様の子供なのだ、という解釈は深いと思うのです。
 その次を見てください。「久遠の法であるがゆえに久遠の菩薩に付属する」。これもすごいです。久遠の法なのだから、久遠の菩薩が弘めると言ったのです。これは視点が久遠ということにあります。久遠の法と久遠の人。これは教えの本質をついていると思うのです。何故かというと、ただ単に、父の教えを弘めるとか、師の法を弘めると言うのではないのです。久遠の法を久遠の菩薩が弘めると言っているのです。やはりこれは深いですよ。久遠の法を弘めることができるのは、久遠の弟子だけなのです。
 時代が推移していくと、教えの解釈も深まる。典型的なこれは例だと思うのです。私達の時代に色々な解釈をします。法華経の教え、日蓮大聖人の教え。その理解が先師と同じでは駄目なのです。先師がこう言っているというだけではなくて、先師が仰っていることを更に咀嚼して、私は更にこう思いますということを言わないと、人類は前に進みません。
 もしかすると最初に言い出した人は、別のことを考えていたのかも知れないのです。しかし次の人が更にそれを深める、次の人が更にそれを深める、という風にして、発展させていく。そこに人類の未来が拓けていくのだと思うのです。
 小説を皆様がお読みになる。小学生の時に読んだ、中学生の時に読んだ、それぞれで感銘が違います。今読んだらその時に感じなかったことを感じる。それは自分の深まりの道です。もしかすると、小説を書いた本人は意図しなかったことがあるかもしれない。意図しなかったことを、読む人が汲み取って読んでいくと、著者の意図したもの以上の作品として受け取るかも知れないのです。そういう風に、人間は進んでいくことが必要だと思います。
 これはその典型的な例ではないかなと思うのです。その解釈が良いか悪いかということは大勢の人が歴史の中で判断すればよいのです。その中で、これは後退しているとか、進んでいるとか、ということが出てくる。客観的な歴史の審判を受ければよいと思うのです。
 (4)上行菩薩の使命。そういう風に、仏様から付属を受けた上行菩薩にはどういう使命があるのか。ここに挙げておきました。付属された法。即ちそれが要法の法華経であり、題目の五字七字です。
 付属された活動。何をしなさいと言われたのか。それは滅後末法における題目の受持弘通です。即ち、お題目を唱え、お題目を弘める。そして、お題目の精神で生きて、お題目の精神に立脚した平和な世界を実現しましょうということです。
 それをいつやるのか。付属されたことを実現する時。それが滅後末法。先ほども出てきましたけれども、仏様の教えを受け止めようとしない人達、悪機です。その人々に法を弘める。
 付属されたことによる責任。それは、釈尊との約束を履行していかなければいけない。そして、滅後末法における題目五字七字の受持弘通。先ほどと同じです。末法の導師としての使命を実現する。この使命の実現のことは、次の三です。そちらでお話をすることになります。
 まとめますと、空中の宝塔の中の仏様と上行菩薩は約束したのです。仏様が入滅された後に出現して、その約束を果たす。そこに日蓮大聖人が、上行菩薩の自覚を持ってお立ちになられたということをご紹介したわけです。
 三に、日蓮大聖人は、末法の導師としてのご自覚をどのようにお持ちになり、どのようにそれを表明されたのでしょうか。1、が日蓮大聖人の自覚。これについて十の項目を立てています。2、が日蓮大聖人の上行菩薩としての自覚の表明。
 それでは1、のどのように自覚を持ち、どのように表明されたのか、ということです。最初に、どのように自覚なさったのか。日蓮大聖人の自覚。ここに十の項目を挙げています。これは皆様方も普段お聞きになることが多いと思います。
 (1)仏子。先ほども仏子という言葉を板書したのですが、仏の子供ということです。それぞれ信仰者として、例えば仏教信仰者として、或いは法華経信仰者として、自身をどのように位置づけるか、ということです。皆様方もそれぞれの意味を込めて、自身を法華経の教えの中に位置づけるということをなさっていると思うのです。これは簡単に言えば法華経の信仰者とか、或いは法華経の受持者とか、或いは日蓮宗の教師、即ち仏様の教えを受け持ちそれを他の人に弘める役割を担う者、それぞれの意味を込めて、自身を受け止めておられると思います。ここに挙げましたのは、一般的なことから、日蓮大聖人のまさしく自覚の世界に至るまでの、様々な事柄を十の項目に分けたわけでございます。
 仏子。仏様の子供としての自覚ということです。これは、先ほども少し申し上げたのですけれども、父子の結縁ということです。父子の結縁は、父が仏様です。そして子が自分ということです。日蓮大聖人は仏様の子供としての自覚をもたれていた。
 これは別に日蓮大聖人だけではなくて、私達一人ひとりが、仏様の子供という自覚を持ってどう生きるかということ。分かりやすくいうと、例えば、仏性という言葉があります。仏性は仏の性ということで、全ての人々は、仏様の子供であるとか、仏様になる可能性があるとか、という言い方をしています。これは理念的な表現です。それに対して、父子の結縁とは、親子関係ということです。父が仏様ですから、その子は仏様の子、即ち仏の種をこうむった者。仏の子とは仏種をこうむった者という意味です。
 日蓮大聖人の教学には仏種という言葉が出てきます。仏性というのは、一般的な仏教の言葉です。仏種というともっと現実的、具体的な意味合いを持ってきます。何故かというと、種ですから。種というのは物です。物質的な概念を持っています。種は地面に蒔いて、芽が出て、成長して、花が咲くとか、実がなるということになります。そういう、植物の生育に例えているわけです。非常に具体性を持つ。即ち、仏の種を持つ子供です。
 私達も仏である。より具体的です。その仏の種をいついただいたのか。それは、過去世の結縁です。久遠の教化を受けた地涌の菩薩は、久遠の結縁をしている仏の子であるということになる。全ての人々は、仏様の子供として結縁しているということです。
 仏様と結縁しているしていないということは、自身の自覚の問題ですから、私は仏様の子ではありませんと思う人もいるし、また、私は仏様の子供ですという人もいる。それぞれの自覚の問題です。私達の立場では、私達の心の持ちようの問題なのです。それに対して、仏様の視点から見れば、どのように人々が考えようと、どのように人々が言おうと、全ての人々は仏様の子供なのです。そういう風に、仏様は、遍く、いつの時代でも、どのような人々でも、平等に慈悲の心をかけ慈悲の手を差し伸べてくださっている。
 そして特に、その中に病気の者がいたら、仏である親は、より深い慈悲の心をもってその子供を憐れみ、治そうとしてくださる。治療してくださるのです。その治療が仏様の深い慈愛、いつもよりも更に深い慈愛がそこにかけられる。
 末法の衆生。我々です。末法に生まれた私達は、こういう悪世に巡り合っていますから、どうしても、仏様のほうに背を向けがちな生き方をしているわけです。そういう人間にこそ、仏様は、強い慈悲の光を放って、人々をお救いくださる。その、より深い仏様の慈悲の光、慈悲の手、それが題目の教えである。
 ですから、仏性というのは一般的な言葉で、仏子というとより具体的です。仏種をいただいたかいただかないかという、その所に私達の宗教的な自覚があると考えてよいと思います。
 日蓮大聖人は、仏種はお題目だとお考えになっているのです。一切の人々は久遠の過去世から下種結縁をしているとお受け取りになったのです。私達は、自覚する自覚しないに関わらず、永遠の過去から題目の仏種という結縁をいただいていた。そういう存在なのです。そういう存在でありながら、末法の我々はそのことを忘れてしまっている。忘失してしまっている。仏様の目から見れば、哀れなる人間の姿。これを寿量品では、長行、つまり散文の所で、失本心者しつぽんしんしゃと説かれている。本心を失える者。本心を失うというのは、自身を忘れてしまうことです。仏様の子でありながら、仏様の子である自身を見失ってしまった、ということです。そういう存在なのです。そういう我々のために、仏様は要法の題目の慈悲の薬を私達に与えてくださった。それによって救われていく。それが末法における題目の信仰です。このように、父子ということには、自分たちが信仰をどう受け止めるかということがあると思います。
 その次は(2)の法師です。法師とは、仏様の教えを実践する者です。五種法師行の実践者です。お経にはしばしば、受持読誦解説書写という言葉がでてきます。五種類の、法師が行うべき行であるから、五種法師行といいます。法師とは、仏様の教えを受け持って実践し、他にも弘める者という意味です。
 受持は受け持つ、仏様の教えを受け持つ。読は読む。誦は諳んじて読む、暗誦することです。暗記していて、お経本を見なくても読めることが誦です。誦経です。お経本を見ながら読むのは読経です。そして書写、書き写すことです。今は、印刷が簡単にできる時代になってきましたから、あまり書写ということを言いませんけれども、書写行というのは、仏様の教えを残すということですから、大変深い意義があったわけです。仏様が如何に偉大な教えをお説きになっても、その教えを、見る人、目にすること、勉強する人、手に取ること、それができなかったら、なかなか伝わっていきません。
 インドに生まれた仏様は一人です。一人のやることは限られています。皆様も自分の生涯を、足跡をたどってみてください。どのくらいのことができたでしょう。出会った人も、それは大変な数かも知れませんけれど、限られています。そうすると、それを無限化していくものは何かというと、やはり文字なのです。経典があれば、その経典が他の国の言葉に訳される。それがまた更に翻訳される。そうすると、言語を超えることができます。国を超えることができます。そして、ある一定の時代を経ても、次の時代になっても、次々に、それがあれば、また勉強する人、信仰する人がでてくるわけです。それですから、書写というのは非常に深い意義があったと思います。
 これを法師のなすべき五つの行と言う。五種法師行。読んだり、解説したり、書写したりすることは、自身の行だけではない。自身も行なのですけれども、自身だけではない。これを自行化他にわたると言っているのです。自行というのは自らの行。化他というのは他を化すです。他の人にとっても利益をもたらすという意味です。それが、自行化他にわたる修行。即ち自他にわたって利益をもたらすという意味です。
 それを行うのが法師です。法華経の中にも法師品とありますように、如来滅後の仏教信仰者のなすべきこと、あるべき姿を説いたものです。
 (3)が如来使。これは如来の使いという意味です。如来に遣わされた者。即ち仏様から派遣された者です。どこどこへ行ってどういう風にしなさい、と命令された者です。それから如来の事じを行ずる者。仏様のなすべきことをなす者。即ち、仏様から命じられて、仏様のなすべきことをなす者。これが如来の使いです。使いはあくまで使いなのです。使いは命令した本体と同じではないですね。その本体の意志を体現していく人ですから、人格は別です。生命的個体は別です。ところが、なすべきことはまさしく本体の命令されたことがらです。如来使は仏様の意図を汲んで実践していきます。これが、如来に遣わされ、如来の事を行ずる者、如来使です。これも法華経の中に説かれています。
 (4)は受持者。先ほども受持ということが出てまいりました。三業ごうにわたる信受念持者です。三業は身体と口と意こころです。身体で法華経を受け持つこと。口で受け持つこと。意は心で受け持つこと。信受念持とありますが、『大智度論』で、信のゆえに受け、念のゆえに持つというのです。受けるということと持つということの二つの言葉で成り立っているのです。受けることは持つことでなければならないのです。受けるということは、どちらかと言えば瞬間的な行為です。持つというのは持続するということです。持続は困難なことです。人間というのは瞬間だけですよね。日記の話もよくありますけれども、三日間も日記を書いたらよいほうですね。最初、決意してその日書いたらもう次の日は忘れているというのがだいたいです。だから、持続するということは如何に困難か。それは念ですね。まさしく、仏様の教えを受け持ち、仏様の教えで生きるということです。
 日蓮大聖人も、火のような信心、水のような信心と仰っています。受けるということは、火のような信心ですね。興奮して、頑張らなければいけない、と思って、仏様の教えに耳を傾けたり、実践しようと誓ったりするけれども、それを、次の日も次の日も、何年も何年も持続するということは、なかなか困難なことが多いのです。ですから、念力によって持つといっているわけです。
 身業というのは、からだで法華経を実践するということで、これを専門用語で色読しきどくと言っています。色は、見たり聞いたり、臭いをかいだり、味わったり、触ったりすることのできるものをいいます。日蓮大聖人の色読は身体で読むということです。法華経の教えを、私達が勉強する時は、目で読んだり、口で読んだり、文字を追いかけたりしますけれども、この法華経の教えを、自身のからだで読むということです。ですから、色読とは簡単に言えば、実践するということです。仏様の教えを実践するということです。
 日常生活の中で、頭で分かることは多いのです。道理ですね。理は入るのです。理は入るのですけれども行うことは難しい。或いは瞬間的には行えるけれども持続することは難しい。こういう現状だと思うのです。
 日蓮大聖人はまさしく法華経の中に身をおいて生きられた。身をもって法華経を色読されたのです。法華経実践者です。
 口業は口で法華経を持つ。これは唱題です。唱題は唱題目です。題目を唱える。題目を唱えるということは口での行為になります。そして、実践も唱題も、どこからくるかというと、それは意業です。心の行い。これが信心。信心からくるのです。
 法華経の信心を持ち、法華経の題目を唱え、そして法華経の教えを実践していく。法華経を身に滞して生きていく。それが身口意の三業の受持です。これは、それぞれが別のものではない。日蓮大聖人は一念三千と仰った。言葉を換えれば、立正安国です。或いは、お題目の信仰。これだけではありません。全てのものに繋がっている。ですから、お題目を唱え、社会の、世界の全ての人達の永遠の安らぎと、平和な社会の実現を願う。その実践のために身を挺していくのです。そのようなこと全ては、三業にわたって法華経を信仰していくことに通じているのです。
 その次に、法華経を全身全霊でいただく者とあります。仏意ぶっちの頂受です。頂受とはいただくということです。仏様の御意みこころをいただく。それが全身全霊で生きていくということだと思います。
 その次です。(5)に行者です。皆様もよくお聞きになると思いますけれども、法華経の行者日蓮。そういう本をお書きになった方もおられます。有名な言葉です。日蓮大聖人は、法華経の行者ということを何度も仰います。現在私達が知ることのできる日蓮大聖人の御文章の中で一番早いのは『守護国家論』の中に出てきます。日蓮大聖人ご自身が、自身の体験を経て法華経の行者という言葉をお使いになったのは、伊豆流罪中の『教機時国鈔』が初出になります。まさしく自身の信仰実践を通して、法華経の行者と仰った。
 『教機時国鈔』は日蓮大聖人が伊豆に流罪されている時にお書きになった御文章です。それが何を意味するのかというと、法華経には、法華経を信仰する者は難に値うと説かれている。これは後で出てまいります。難に値うと説かれている如く、日蓮大聖人も法華経を信仰して難にお値いになった。だから、難に値うという経文を身で読んだ、つまり色読したということです。そこで、自らはまさしく法華経を信仰している者であるという、法華経の行者ということをそこにお書きになったと思われるのでございます。その行者とは、如説によせつの法華経の行者です。これを如説修行者と申します。仏様の教えの通りに法華経を修行する。如説は、説の如くという意味です。説の如くというのは、仏様の教えの通り。この場合は、法華経の教えの通りに修行する者を如説修行者というわけです。
 修行でも信仰でも、我々の行為はどこから出てくるかというと、自分の心から出てきます。それには自分の価値基準があります。自分の体験、自分の価値観、自分の人生観、それに照らし合わせて、あらゆることを瞬間的に判断して行動をしたり物を言ったりする。いろいろな基準があり、みな千差万別です。恐らくロボットを一つの基準で大量生産したら、みな同じことを言って同じ行動をするかもしれません。人間は千差万別ですから、いろいろな考え方があって、いろいろなことを言います。百人いれば百人とも違うことを言います。
 皆様も、色々な組織に入っておられると思うのですけれども、誰かが提案すると、賛成する人は三分の一です。反対する人が三分の一います。どうでもよいという人が三分の一いますね。それが、だいたい、社会の状況かなと思うのです。そういう中で生きているのです。ということは、誰かがこうだと言っても、誰もが賛成ということはまずないのです。百パーセントはない。みな違うのです。
 説の如くといった時、これは法華経を基準にしているのです。法華経を基準にして修行しないと、法華経の信仰になりません。自分の価値観で、これが修行だと思うからこうしているといった場合は、それはその人の修行なのです。その人がいくらその人の判断で修行しても、それはその人の信仰です。私はこう思いますといって信仰していたら、それはその人の信仰なのです。
 もちろん、百パーセント法華経の信仰だと言える人もいないのです。何故かというと、それを言えるのは仏様だけです。仏様や日蓮大聖人が教示なさることなのですから。判断するのは我々ではないのです。我々には判断できない。我々は判断を受けるほうです。だから百パーセントはないのです。
 如何に仏様の御意思、お心に従うことができるだろうかと、そのお心をたずね、たずねながら判断すること、それしかない。それが、より仏様のお心に近づくことではないかと思うのです。
 我々は常に限界の中に生きている。その中で、より正しいと思われるものを求める必要があります。説の如く、仏様のお心の如く、如何に判断するか。ですから、この場合の行も、仏様のお心に従った、法華経の教えに従った修行をするということになります。それを、仏様の教えの通りに修行すると言っているのです。
 仏様の教えは何かということを、常に私達はたずねていないと、自分たちはよいと思っていても、突拍子もないことをして、突拍子もないことを言っていることになります。もしかすると仏様が、どこかから見ておられて、お前もっと真面目にやらないといかんぞ、と仰っているかも知れません。それは、常に仏様を背中に背負うこと、常に仏様が自分を見ておられることを意識することです。自分の言うことなすことの全部を、仏様や日蓮大聖人が見ておられる。それに対して恥ずかしくないことができるだろうかということです。我々は、そういう状況の中で生きているのです。
 (6)難に値う者。値難者。これは先ほど、後から出てきますと申し上げたことなのです。仏様が入滅された後、如来滅後の法華経の信仰と値難の必然性。
 これはお経の予言なのです。経の予言は仏様の予言です。この法華経を如来滅後に修行する者は難に値う。日蓮大聖人がよくお引きになるのは法師品です。それから安楽行品、見宝塔品、常不軽菩薩品、それから勧持品。こういうお経をよくお引きになります。これは言うまでもなく、如来滅後に法華経を弘める者は数々の難に値うということです。
 日蓮大聖人が一番意識なさったのは、恐らく勧持品だと思います。日蓮大聖人は勧持品の二十行の偈を読んだと仰っています。勧持品にも偈頌があって、その中に、法華経を信仰し弘める者は、数々の難に値う、ある時は悪口を言われると説かれています。悪口罵詈とあります。それから追い出される。遠離於塔寺。塔寺を遠離せられるとあります。お寺から追い出されるということです。そして、杖木瓦石、木や杖で殴られる、石や瓦を投げつけられるという意味です。そして、しばしば擯出せられる。擯出ひんずいとは、排斥ということです。その最たるものが島流しです。そういう難に値うと説かれています。そして、三類の強敵が出現する。三種類の強い敵。法華経の布教を阻む、妨げる敵がある。数々の人々が妨げる。いろいろな迫害を受けるということが説いてあります。
 難に値うことは法華経の色読である。身体で読むことである。勧持品の色読です。日蓮大聖人が意識なさったのは、先ほど勧持品と言いましたけれども、勧持品の中でも數數見擯出さくさくけんひんずいという経文です。しばしば擯出せられると訓み下しています。
 日蓮大聖人は、數數とはしばしばなりとお書きになっています。しばしばなりとなぜ敢えて仰ったのかというと、一度ではないということです。複数だということです。しばしばとは複数ということです。ご自身は、公的な権力によって、伊豆の流罪、それから佐渡の流罪と、二度にわたって流罪になられましたから、それで、日蓮は數數の二字を読んだと申されたのです。しばしばの二字を読んだということは、複数にわたって迫害されると書いてある通りになった、ということです。擯出は追い出すです。見という字は、普通は見ると読む字ですけれども、これを受身で用いて何々せられんと読みます。経典の漢字の研究をなさっている方によると、見るという字を受身で使うというのは珍しい例だそうです。
 勧持品の色読によって、日蓮大聖人はまさしく自身は経文に予言された人、色読した人間だという風にお考えになりました。
 難に値うことは法華経信仰者の証あかしである。法華経を信仰する者は難に値う。だから、難に値うということは法華経の信仰者であることの証である。
 難に値うことは滅罪である。そこに、値難滅罪と書いてあります。滅罪とは罪を滅するということです。罪を滅するということは、それでは罪があるのですかということになります。これは宿罪という問題です。宿罪は過去世の罪です。過去世の罪というのは宗教的自覚なのです。
 皆様も考えてみてください。ここに至るまでにどんな悪いことしてきたか、どんな罪を犯したか。思い当たることがあるかも知れませんね。いや私は清廉潔白です、悪いことは何もしていませんと仰る方もあるでしょう。
 そこで、悪いこととか良いこととか何を基準に言うのだと、また問題が発生するでしょう。良い悪いというのは我々の価値基準です。今の日本の人々が常識だとか、良いとか悪いとか言っていることが、他の国でも通用するかというと、わかりません。他の国の民族は文化の違いがあります。だいたい人類共通して、今の時代に常識であることは、人を殺してはいけないとか、人を傷つけてはならないとか、人に迷惑をかけてはならないとか、そういうような原則的なものでしょうか。そういうことは今の時代の人類に共通かも知れない。過去の時代は分かりません。
 我々自身の生活の中でも、何が善で何が悪なのかということがあります。日蓮大聖人は法華経の信仰に善を見ておられたから、それを基準に善悪を考えます。その基準は、世間法とは違います。世間法と違うというのは、世間法を飲み込んだ、世間法を超越した、世間法を包括したような価値基準で、日蓮大聖人は仰っているのです。
 宿罪というのは過去世の罪。これは宗教的な意識なのです。宗教的な罪意識です。これは自身がどう自覚するかということなのです。自分が今日こうして生きているには、過去世の色々な人達のお世話になったとか、人間に限らず、植物とか、他の動物をも含めた、色々なものの犠牲の上に私達の生が成り立っているということを知ることです。そういうところまで広げて認識する。
 先ほど平等思想といいましたけれど、平等というのは人間だけのことではない。、一切のあらゆるもの、存在するもの全てが平等に存在していると考えています。皆様が普段お読みになっている方便品の諸法実相です。諸法実相とはなにかと突き詰めると、それは自分を含めて一切のものがあるべくしてある、存在すべくして存在している、それぞれが意味を持って存在している、それぞれがお互いに深い関連を持って存在している、そういう存在の仕方をしている、だからそれぞれが有意義な存在で、それぞれがそれぞれを輝かせながら生きているということです。その諸法実相に法華経の平等性が説かれているのです。
 それを、人間とか、人格、そういうものに当てはめると、二乗作仏という言葉になるのです。二乗作仏というのは単に二乗が仏になるというのではありません。二乗が仏になるのですけれども、二乗だけが仏になるのではないのです。二乗も仏になるのです。二乗は縁覚と声聞です。二乗は自分の利益を考えるのです。自分の利益ばかりを考えるから、大乗の人から嫌われたのです。法華経は、そういう自分の利益だけを考える人でも仏になると言ったのです。ましてや人の利益を考える人は仏になるに決まっているのです。嫌われる人でも仏になれるということは、嫌われない人は当然です。即ち、誰でも仏になれるということの代表例に、二乗が当てられたのです。二乗作仏というのは二乗だけが仏になるのではなくて、誰もが仏になるということです。だから二乗作仏は平等思想だとお話したのです。
 それを広く森羅万象に敷衍すれば諸法実相ということです。
 我々は人様に迷惑をかけてはいけない。でも迷惑をかけない人は一人もいません。生まれてくる時に両親に心配をかけます。生まれてくる子供のことを案じない父母はいません。どんな子供が生まれてくるかな、無事に生まれてくるかな、と心配する。親だけではないですよ、親戚の人もみな心配する。近所の人も心配するでしょう。そういう風にみんなの愛情に包まれて生まれてくるのでしょう。大勢の人が心をかけてくれて自分が誕生するのです。誕生しても自分でご飯を食べた人はいません。自分で走り回った人はいません。最低でも十ヶ月とか、一年かかるでしょう、立ち上がるまで。その間誰が面倒をみてくれるのか。自分で布団敷いて寝ている赤ん坊はいないですよ。誰がするのです。みんな親がしたり、家族がしたりするではないですか。それによって、ようやく育てられる。にもかかわらず、自分で大きくなったような顔をしている。みんなそういう風に、親や家族に育てられているのです。みんな恩がある。恩をこうむって今日にきてる。
 世の中で一番ものの入る袋、それは胃袋です。生涯、どのくらいのものを胃袋に収めるのでしょうか。大量のものが入るのではありませんか。お昼ご飯を召し上がったでしょう。そして夕ご飯を召し上がる、朝ご飯を召し上がる、それはどこからきてどこへいってしまうのですか。大量のものですよ。すべて諸法実相の命でしょう。命を頂いてる。それを考えたらやはり、私達の存在は、他の命を犠牲にしなければ成り立っていない。そういう中で我々は生かされているという考えに立ったら、諸法実相の価値観に立ったら、我々もやはりこういうことに対して懺さん悔げしなければいけない。野菜さんごめんなさい、野菜さんの命をもらって生きています、ということにならざるを得ない。
 そういうことを申し上げるのは、法華経は草木成仏だからです。これも法華経の重要法門です。人間だけが仏になるのではないのです。草も木も、それから国土も仏になる。国土というと土とか建物ですね。国土成仏。全てのものが仏になる。お互いが生かしあっている存在です。その中で、何かの命のために何かの命が犠牲になる。それは人間だけではなくて、自然界がそうなっています。
 そういう中で生きているわけですから、それに対する感謝の気持ちを持つ必要があります。これを懺悔というのです。仏教では懺悔(さんげ)、キリスト教では懺悔(ざんげ)と言っています。平安時代の人達は一所懸命懺悔した。懺悔の法要をした。人間中心的なものの考え方をしてしまうと、人間だけの価値観で考えてしまいますと、そういう罪の意識を持たなくなってしまうから、段々と懺悔しなくなるのですね。
 法華経は一名、懺悔経とも言われているのです。法華経の法師功徳品では六根清浄、結経の普賢菩薩行法経では懺悔を説いている。ですから、平安時代などは法華経が一所懸命信仰されていた。懺悔滅罪して、後生の救いを祈る。
 法華経は現世安穏後生善処です。生きている間も守ってください、死んだ後もよいところにお願いしますと、こういう風に仏様に祈ったのです。平安時代は現安後善の祈りです。
 こういう営みは全てのものに命があるという原則のもとでなされているのです。それが罪意識ということです。
 最も根源的な罪意識は何かというと謗法ほうぼうの罪です。日蓮大聖人は、善のうちの善は法華経の信仰だと仰っていると申しましたように、最も深い罪は正法の誹謗です。普通、謗法と言っています。謗法とは法を謗ることです。正法を誹謗することが最も深い罪だと日蓮大聖人はお考えになっている。法を謗ることは色々あります。法を謗ることは色々あるけれども、正法を謗ることはその中でも最たる罪であると仰った。
 だから日蓮大聖人の宿罪意識は何かというと、自分は過去世において、法華経を誹謗し、法華経の行者を誹謗したと仰っているのです。その罪が現在にあって、現在、法華経の信仰をすることによって、その罪を滅するのだとお考えになったのです。これが値難ちなん滅罪です。難に値あうことによって過去世の法華経誹謗の罪を滅するとお考えになっていたのです。それは、極めて宗教的罪意識です。
 キリスト教でも原罪ということを仰います。人間が人間として生きている限り持つ罪、それは人間の根源的な罪です。人間は、何しろ、欲望の塊ですから。人間の持つ根元的な罪、その欲望の塊が人間存在です。それを否定したら人間存在は有り得ない。人間は生きてる限り、食糧をとったりしなければ生きていけない。それは人間存在の根源的なものです。それがある限り罪を犯してしまう。それは、人間の根源的な罪です。
 日蓮大聖人が仰っているのはそういうことだけではなくて、法の前の罪なのです。私達は、過去世において仏様の教えを謗ってきた。仏様の正しい教えを弘めている人を謗ってきたという罪を背負っていると仰っている。これは宗教的罪意識なのです。
 私はそんなことはしていませんと思う人もいるかも知れませんけれども、そういう自分なのだと自己認識することができるということが、その人の宗教的人格だと思います。それを通して私達は、法華経の実践によってその罪を滅していく。それを値難滅罪といいます。
 その次に、難に値うことは救い。これは値難得証です。このことは法華経に予言されています。難に値うことは救いを得ることである、証を得ることである。証とは、正しい信仰者であることの証です。証とは救いを得ることです。難に値うことが救い。値難成仏です。難に値うことが成仏だ、という考え方です。
 (7)、常不軽菩薩の跡を紹継する者。これを紹継不軽跡と呼んでいます。常不軽菩薩の法華経弘通の行軌を追慕し追体験する。常不軽菩薩品は法華経の第二十章です。その中に、常不軽菩薩という菩薩が人々を礼拝らいはいして回るという話が出てきます。これを人間礼拝と称しています。全ての人々は仏様になる尊い存在です。だから貴方を敬います。こう言って回った。常不軽菩薩は威音王仏の世に出現し、法華経の二十四字を弘通して難にあったというのです。威音王仏という仏様の居られる世に出てきて、人々を礼拝した。その礼拝の言葉が、貴方たちは菩薩の修行をなさって、仏になられる方ですから、私は貴方を敬いますというのです。お経文で二十四字あるために、日蓮大聖人はこれを二十四字の実践と仰った。それに対して、自分は、釈迦牟尼仏の世に出現して、法華経の五字七字を弘めて難に値った。即ち、常不軽菩薩は威音王仏の御世の二十四字、自身は釈迦牟尼仏の御世の五字七字、という風に比較なさって、同じく、法華経を修行するゆえに難に値ったというのです。難に値うことによって、真に法華経を実践した、ということを仰る。これが、常不軽菩薩の跡を追う者、跡を慕って生きる者、ということでございます。
 この常不軽菩薩の値難の所に、先ほど申しました、値難滅罪ということが出てくるのです。常不軽菩薩が難に値うことによって罪を滅して仏様に生まれると出てくる。
 常不軽菩薩は釈迦牟尼仏の前生です。釈迦牟尼仏が、ある時、常不軽菩薩としてお現れになって、難に値う修行をなさった。これが、常不軽菩薩の礼拝行です。
 礼拝という言葉は仏教では礼拝(らいはい)、キリスト教では礼拝(れいはい)と読みます。同じ字を書きますけれど、読み方が違うので注意してください。懺悔(さんげ)と懺悔(ざんげ)の違い、礼拝(らいはい)と礼拝(れいはい)の違いでございます。
 こういう風に、法華経を実践することは難に値うことである。その具体的な実践をした、法華経の常不軽菩薩品第二十の常不軽菩薩の行動を、日蓮大聖人は、自らの法華経実践、難に値う修行の範となさった、模範となさった。
 これを、古来より、教学上、折伏行と称しているのです。何故これを古来より先師が折伏と解釈したのかというと、それは、意志を貫徹するということです。常不軽菩薩は、礼拝をすることによって難を受けた、悪口も言われました。勧持品と同じです。杖で殴られかけたりするのです。それを逃げて、また遠くから同じように相手を礼拝するということを繰り返します。相手がするなと言っても、その相手の意志を無視して、自分の信念、即ち全ての人は仏様なのだという信念を貫徹した。そこに強盛な信心がある。これが日蓮大聖人の受けとめられた折伏ということです。
 折伏という言葉にはいろいろな意味がある。非常に強い、強烈な印象を持つかも知れませんけれど、相手を殴ることを言うのではありません。難に耐えて自分の信心を貫徹する。
 法華経には幾つもの行が説いてあります。何故これを折伏と言っているかというと、その前に安楽行品が説かれてるのです。安楽行品の弘教、法の弘め方に対して、常不軽菩薩品を折伏と言っているのです。安楽行品は文字通り安楽な行です。どういう風な安楽な行をするのかというと、人々から批判をされない所で法を説いたらよいでしょう、自分が何か道に迷いそうな所はやめて、なるべく誘惑されない所でやったらどうですか、人の悪口を言うと怒られるから、人の悪口を言わないようにしたらどうですか、そういうようにして、自分の身の置き所、心の置き所、それから、話の仕方、布教の仕方、それを相手と摩擦の起きないようなやり方をしたらどうですかというのが安楽行です。そういう安楽行に比べれば、常不軽菩薩の修行は難に値うことですから厳しい。両者を比較すれば、安楽行品は摂受の行である。摂受の行というのは相手を受け容れた弘教の仕方です。常不軽菩薩は折伏の行であると古来より解釈をしてきたのでございます。
 日蓮大聖人が、常不軽菩薩の跡を慕うと仰ったのは、そういう意味での折伏という視点にお立ちになった、ということがいえるのでございます。
 摂受なのか折伏なのかと言った時には、対比の問題ですから、何と何を対比するかによって違いが生じるのです。
 これは天台の教学です。天台教学では、法華経は摂受の経であり涅槃経は折伏の経であると言っているのです。常不軽菩薩品は折伏だと言ったではないかという問題がおこります。涅槃経は、執持刀杖と説きます。執持というのは持つ、刀杖は刀、刀を持て、護法のためには執持刀杖です。護法とは法を護るです。法を護るためには武力を持つことがあるとか、法を護るためには断命根。断だんは断つ、命みょうは命です。法を護るためには殺人もやむなしという風なことが説いてある。それに比べて法華経は怒られたら逃げていって、遠くから礼拝をくり返す。涅槃経のような強硬な弘教に比べて法華経は摂受になります。このように何と対比するかによって、どちらが折伏でありどちらが摂受であるということは違いが生じます。
 それでは次に(8)です。本化地涌の菩薩。釈尊のご在世に、滅後における法華経弘通の付属を受けた者。先ほどご紹介した神力品の付属です。無始久遠、無始とは始めがない、永遠という意味です。始めのない久遠の過去の世に、釈尊から下種を被った者。先ほども申しました、久遠教化の弟子、久遠の本弟子という意味です。釈尊の本弟子です。これらのことは法華経の中に説かれている。法華経に説かれている菩薩、それが本化地涌の菩薩です。
 (9)です。本化の菩薩には四人の代表者がいて、そのうちの最も代表となるのが上行菩薩、これを本化上行といいます。本化とは、先ほど申しました、久遠の過去世の教化を受けた者、久遠の過去世に仏様に導かれた者、ということです。上行菩薩はその最高責任者でございます。
 そのことは神力品に、上行等の菩薩摩訶薩と説かれています。上行菩薩は六万恒河沙の菩薩の代表です。六万恒河沙とはガンジス川の砂の数の六万倍です。無数の菩薩が涌き出てきたのです。その上位が四菩薩、その中でも最上位が上行菩薩ということです。
 その次の(10)、末法の導師。釈尊から、滅後における法華経、即ち題目五字七字弘通の付属を受けた本化地涌の菩薩の最高責任者である本化上行菩薩。滅後末法に、題目五字七字を受持弘通する本化上行菩薩の自覚者である日蓮大聖人。末法の導師は、法華経の教えの中には、上行菩薩を中心とした本化地涌の菩薩であるとあります。その教説の通りに、要法の題目五字七字を受持弘通して、上行菩薩の自覚にお立ちになった日蓮大聖人。日蓮大聖人は、社会の中において実際に行動なさった。歴史的事実です。日蓮大聖人が法華経の題目五字七字を受け持ち人々に弘めたということは歴史的事実ですね。
 歴史的事実と分かるかというと、それは日蓮大聖人がお書きになった文章が、現在でも残っていますから、それを見たら一目瞭然です。日蓮大聖人の文章のご真蹟が残っていて、現在、国の重要文化財や国宝に指定されているとなれば、客観的にみても、日蓮大聖人の歴史的事実が認定されます。私達自身が、鎌倉時代に戻って、再現し体験することはできませんけれども、その文章を見れば明らかでしょう。そうしたら、仏様の教え、法華経の教えに説かれている上行菩薩と、歴史的事実として出現した日蓮大聖人の上行菩薩としてのお仕事の、両者を合わせ考えると、まさしく末法の導師とは、上行菩薩の自覚者としての日蓮大聖人のことになります。
 その次が2、日蓮大聖人の上行菩薩としてのご自覚の表明です。先ほどは自覚の世界について考えましたが、今度は表明について考えます。どのようにそのことを対外的に仰ったのか。
 (1)は日蓮の名乗り。日蓮大聖人が日蓮と名乗ったのは、建長五、六年頃といわれています。立教開宗の頃です。その日蓮という名前は、自分でお付けになった。それまでは蓮長と仰っていました。
 日蓮というお名前はどこからきているのかというと、日の字は如来神力品の如日月光明です。経文にはその後に斯人行世間 能滅衆生闇とあります。その日の字をおとりになった。日月の光明とは、日は太陽、月はお月様、光明は光です。日月の光明は、太陽の光とお月様の光です。お経文に斯人行世間とあります。この人世間に行じて。能滅衆生闇。よく衆生の闇を滅す。衆生は人々です。人々の心の闇、人々の心の苦しみを滅す。太陽の光は世の中を明るく照らします。そのように地涌の菩薩が人々の心の闇を滅する。その日の字です。日蓮大聖人の日の字は太陽です。
 蓮の字は、従地涌出品第十五の如蓮華在水です。不染世間法 如蓮華在水 とお経に説かれている。世間の法に染まらざること蓮華の水に在るが如しです。蓮華は蓮の華です。蓮の華は泥水の中に咲く。泥水とは濁った水です。泥田の中に蓮の華は咲くのです。その泥田を世間法。世間法とは我々の煩悩の世界です。その中で育ちながら、その泥には染まらない。清浄な花を咲かせます。世間の中に在りつつ世間を超出しているということです、世間の中に在りつつということが重要なのです。世間の中に在りつつ世間を超出しています。だから導師です。人間の中にありながら人間を導く存在です。そのことを蓮華で示しているのです。日蓮の蓮の字は、蓮華であります。
 日月も蓮華も共に地涌の菩薩を譬えたものです。そうすると、日蓮と名前をお付けになったということは、その時点で、地涌の菩薩としての自覚をその中に込められたと推測されるのです。日蓮大聖人自身がその自覚の世界を明確にお書きになった御文章が現存しないから、推測するしかないのです。
 (2)御遺文上の表記。これは私の論文の資料を挙げたのです。後で見てください。『大崎学報』の百五十三号に、「日蓮聖人の上行自覚について」という論文を書いています。その論文の中に使っている資料を挙げています。それほど詳しいお話はしません。概略のみお話しします。日蓮大聖人が、上行菩薩の自覚をどういう風にご表明になったか。資料の四頁から、年代順に日蓮大聖人の遺文を挙げています。これは、遺文全部ではありません。御真蹟が現存しているとか、直弟子の写本があるとか、信頼できる遺文だけです。
 最初は、文永八年の、佐渡に流される直前、新潟県の寺泊でお書きになった『寺泊御書』のご文章の中に、勧持品で誓願した八十万億の菩薩になぞらえる表記があります。「八十万億の菩薩の代官として申す」と仰っている。これは勧持品の菩薩の誓願です。地涌の菩薩ではありません。どのような苦しいことがあっても頑張りますと誓った、その菩薩の代官としてということです。これは難に値った身としてお書きになっていることが分かります。
 文永九年には『開目抄』。『開目抄』は有名な御遺文です。法華経の行者ということを繰り返し繰り返し仰っています。法華経の行者としての強いご自覚の中でお書きになりました。上行菩薩云々ということはお書きになっていません。ただし、現在、信仰的会通えつうでは、『開目抄』を人開顕の書と称して、日蓮大聖人が上行菩薩のご自覚をお示しになったものだとしています。しかし、『開目抄』の中にはそういうような文章はありません。信仰的な解釈です。法華経の行者日蓮とは即ち、上行菩薩の自覚を示したものだと解釈しているのでございます。
 それから三大誓願の、我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん、と仰ったのは、末法の導師としての徳をお示しになったと解釈されています。
 文永十年の『観心本尊抄』は地涌の菩薩についての言及が最も多いのですが、四菩薩のことをお書きになっていることが多いのです。上行菩薩に特化した記載はありません。
 現在知られているご遺文の中で、明確に上行菩薩の五字弘通ということをお書きになったのは文永十一年の『法華取要抄』です。『法華取要抄』には上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字とありますので、明確に、文章の上で上行菩薩に五字が付属されたということをお書きになっています。そしてその年の大曼荼羅ご本尊にそのことが書かれています。千葉県の妙本寺に所蔵されている大曼荼羅ご本尊に「後の五百歳の時、上行菩薩世に出現して始めてこれを弘宣す」とお書きになっています。上行菩薩が世に出現して、初めて弘めるとあります。しかもそれは後五百歳とお書きになっている。末法の始めに題目を弘めて難に値う。それは日蓮大聖人をおいて他に誰がいますか。こういうことであれば、当然、上行菩薩の自覚者として、日蓮大聖人はおられたということになります。
 この後、上行菩薩のことがしばしば出てきます。特に、身延にご入山以降になりますと、上行菩薩の題目の受持弘通ということは普通に文章に出てきます。中には、上行菩薩を客観的にお示しになることもあります。客観的とは、地涌の菩薩が法華経の行者を守護するというふうに守護をする主体として上行菩薩をお書きになることもあります。
 3、日蓮大聖人における法華経実践と上行菩薩のご自覚。どのように日蓮大聖人が法華経を実践し、そして上行菩薩の自覚を深めていかれたかということのまとめです。
 (1)文永八年の法難と色読の完遂。これは文永八年の龍口斬首の危機と佐渡流罪です。これが數數見擯出の経文の色読です。
 (2)難に値うことは法華経の行者の証。値難得証。これも先ほど申しました。法華経所説の行者。真の法華経の行者です。
 (3)上行菩薩としてのご自覚。釈尊から付属を受けた者の使命としてお立ちになった。末法に題目五字七字を弘通する。
 (4)末法の導師。まとめです。真の法華経の行者とは、法華経を弘通し難に値う者。真の法華経の行者とは、究極的には、釈尊から付属を受けた本化上行菩薩である。本化上行菩薩は釈尊から付属された末法の導師である。日蓮大聖人は法華経を弘通し難に値った。日蓮大聖人は法華経に証明された真の法華経の行者である。日蓮大聖人は釈尊から付属された本化上行菩薩の自覚に立たれた。日蓮大聖人は、本化上行菩薩が釈尊から付属された法華経の要法である題目五字七字を弘通された。まとめのまとめ。真の法華経の行者であり、本化上行菩薩の自覚に立ち、本化上行菩薩が釈尊から付属された法華経の要法である題目五字七字を弘通された日蓮大聖人は、末法の導師である。こういう結論に達します。
 これが、何故、日蓮大聖人は末法の導師であるかという問いに対する最終的な結論です。
 四は、何故尊いのかということについての、簡単な説明をしています。
 1、は法華経所説の行者。先ほど出てきたことのおさらいです。如説の行者。値難の行者。真実の行者。
 2、釈尊付属の菩薩。法華経の付属を受けた菩薩。
 法華経の教説を拝すれば、本化上行菩薩こそがリーダーの中のリーダーであることがわかります。
 3、釈尊の誓願の継承者。釈尊の誓願、慈悲の継承。これは忍難慈勝ということです。難を忍び慈悲の勝れたることおそれをもいだきぬべし、とご遺文に述べられています。これは対比されている言葉です。法華経を頭で理解することは天台・伝教には自分は足元にも及ばない。しかし、法華経を実践すること、忍難です、法華経を実践して人々のために尽くすということについては、天台・伝教も自分には恐れを抱くであろうと。要するに、法華経の実践、慈悲の実践においては自分は天台・伝教よりも勝れるとお考えになった。これが『報恩抄』の「日蓮が慈悲広大ならば」につながるのです。
 4、三徳具足の聖者。末法の導師でございます。三大誓願にみえる柱・眼目・大船の徳を有った導師です。『開目抄』です。
 5、法華経の真実の証明者。本化菩薩の出現は、そのことを予言した法華経の教えが真実であることを証明したことになる。
 6、釈尊の真実の顕彰と実現。真実の顕彰と真実の実現ということを説いています。日蓮大聖人は何をなさったのか。それは釈尊の真実を顕彰なさった。その顕彰の内容は資料を見てください。釈尊の本壊、釈尊の真実性、釈尊の本事、釈尊の永遠性、救いの絶対性。
 真実を顕彰し、それを実現なさった。法華経へ捨身、功徳の体現、法華経に予言された人、末法の導師として使命を完遂、題目五字七字の救いを実践、立正安国を実現するために努力された。本時の娑婆世界という救いの世界を教示され、日蓮大聖人の究極の宗旨である三大秘法をお示しになりました。
 これが、釈尊の真実の顕彰と実現ということであったと思われるのでございます。
 以上が、今回、課題として与えられたことに対する、私なりの理解の説明でございます。このあと質問の時間がございますので、皆様からご意見等を頂戴できれば幸いでございます。これで私のお話は終わりにさせていただきます。お題目をご唱和下さい。南無妙法蓮華経。ありがとうございました。
 

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