現代宗教研究第40号 2006年03月 発行
超国家主義と法華経—北一輝を例に
超国家主義と法華経−北一輝を例に
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 大 西 英 充
ただ今、ご紹介に与かりました大西でございます。お会式の時期であろうかと思いますが、その中で、これだけの方にお集まりいただいて大変ありがとうございます。研究発表と申しましても実はまだ全然、結論を出せるほどの段階ではございませんで、本当に研究というか、興味の端緒についた所ですので、今日はよく言えば問題提起、悪く言えばとりあえずこれだけのことはやりましたというアリバイ作り程度のことをお話できればと思っております。
その前に、そうですね、関心のもちどころは、私、学生時代からずっと関心を持っていたのですけれども、私の場合は龍谷大学を出ておりまして、龍大は、西本願寺の宗門校ですが、皆がそうではないのですが、特に本願寺教団は靖国問題とかに非常に興味を持っていて、中にはかなり敵対的な意識を持って活発な活動をしている人達もおりまして、そういう人達が突出しているのですね。真宗のお坊さんなのですけれども、政治がかった面とかありまして、龍谷大学の真宗学の研究室はそういう人達の牙城になっているのですね。
そこで、そういう人達との交流を通じて、私はその人達に賛同していたわけではないのですけれども、近代日本における仏教、或いは宗教と国家の関わりみたいなことにずっと関心を持っていまして、私の場合は、哲学科でしたので、やはりそういう思想面、思想史の方面に関心を持ったのですね。
それで、色々と自分なりに本を読んだり人の話を聞いたりしているうちに、日蓮信者、日蓮門下もしくは法華経の信者と、ここでは超国家主義と表現しましたけれども、いわゆる戦前の、右翼的な国家主義の運動ですね、今日で言うといわゆる右翼の活動家に法華経信者が多い。おやと思いまして、右翼なんだから国家神道だろう、なんで法華経なのか、そういう所から私の関心は始まりました。
それで戦前のそういう右翼、国家主義運動の指導者で、やはり第一に名前が挙がるのが、この北一輝という人物であろうと。北一輝については、私もこの頃色々と本を読んだりしたのですけれど、一様に誤解と言いますか、極めてスキャンダラスな人生を歩んだ方ですから、やむを得ないところもあるのですが、そういう面ばかりが取り沙汰されています。そこで色々調べているうちに、いやいやちょっとこの人は、まあ確かにこういう捉え方もできるでしょうけれど、そればかりじゃないぞと、いう風に思うようになってきまして、そのあたりのことを今日ちょっと、お話できればと思います。
ですので、私の今日の発表は、何も私自身の独創でもなんでもなくて、屋上屋を重ねると言いますか、人の言ったことを上塗りする程度です。ただここに、私なりの問題の捉え方というものを感じていただければ幸いです。
その前に、九月に行われました中央教研について、はじめに、その中央教研の反省としました。皆さん、参加されて、それぞれの思い方が色々あると思いますけども、私、ちょっと今日は、問題提起のご本人でいらっしゃる伊藤主任がいらっしゃらないのですけれども、正直申しまして、ああ、やっぱりなという感じが致しまして、戦争と平和という問題を取り上げると、どうしても、特に昭和の戦争ですね、結局あれが自衛のためであったとか、いや侵略であったとか、どうしてもそういう風な議論になってしまうのですね。私は、ちょっと待てと思いまして、自衛か侵略かといえば、それはもう捉え方によってどうとでも言えるというのが私の立場でございます。自衛と言うべき面もあったでしょうし、やられた側から見れば、侵略と言いたくもなるでしょうし。
それで、今日のレジュメの最初に、昭和期の戦争は果たして戦争だったのか、という書き方をしました。これはですね、紛れもなく戦争だったのですけれど、私がここで、ここでと言いますか中央教研のあの場でより問題にせねばならなかったのは、戦争の評価とか、戦争をどうして避けられなかったのかという問題よりも、そもそもその戦争に突入していった当時の社会の流れ、そういうものにもっと重点を置くべきではなかったかなと、いわゆる時流に流されたとか、時流に迎合した、或いは時流がそうだったからやむを得ないというような発言が多く出ましたが、ではその時流とは何かと、それをもっと突き詰めなきゃいけないんじゃないか。でなければ、ご自分の立場での問題とか、大曼荼羅、御遺文削除、不敬問題というものも見えてこないと思うのです。
さらに戦争イコール抑圧とは限らないわけで、例えば日露戦争の時には、非戦論、つまり戦争に反対という声も、社会主義者の幸徳秋水とか、キリスト教の内村鑑三、歌人の与謝野晶子等から出されていて、この人達も、平民新聞などのメディアをちゃんと持っていて、弾圧等も受けたようですが、曲りなりにもそこそこの言論の自由というのはあったんですね。明治時代にはそれだけの許容性というべきものが、国家挙げての戦争をしながらも、その異論を挟む余地みたいなのもあったわけです。
ところが、昭和のあの時代に至っては、天皇制ファシズムと、今日言われるような政治社会体制になってしまって、反戦平和なんてことを口にしようものなら、思想犯に問われて、拘束されてしまうような時代だったわけです。そういう背景を、まずは解明する必要があるのではないか。そのような、社会が何ゆえにファッショ化したのかという問題にたどり着くためには、やはり日本の、明治維新から始まる近代そのものを論じなければならない。明治時代の発端から、話を埋めていかなきゃならないんじゃないかと思います。
では明治維新とは、どういう変革であったか、それは従来までの旧態依然とした封建体制を変革して、日本を欧米と並びうるような、近代国家、近代的な国民国家にした一種の革命でありましたが、その方法ですね、皆さん事前にお配りしたコピーをお読みになったと思いますが、だいたい私の、日本の近代化に対する見方というのは、レジュメに書いてある通り、その線で賛同しております。このコピーの文章を書いたのは、こちらに原本がありますが、渡辺京二さんという、九州在住の、主に近代史の研究をしている在野の研究家で、私、面識はないのですが、近代史の分野で卓見を披露されている方なのですが、中央の論壇とか学界では、何故か今一つマイナーな方なんですね。ですが日本の近代史を研究するためには、渡辺京二さんの仕事は、決して無視してはいけないと思います。
その渡辺氏によれば、皆さんコピーをお読みいただいたということを前提にお話しますが、明治維新とは、資本制の導入であった、資本制度を導入することで富国強兵を図ろうとした、それが新しい国家権力によって上からなされた、いわば上からの革命である、さらにそれに伴って国民生活に変容を及ぼしたわけですね。それまでの封建社会の中で、いわばそれぞれのムラの中で、おらがムラという言い方がありますが、その中で生活していた人々の、その生活基盤そのものを変えてしまうような、そういう変革でありました。
そしてそれは明治政府への大変な反感、抵抗という形で現れまして、その流れの中で、例えば西郷隆盛の西南戦争も起こりましたし、明治十七年に農民が大反乱を起こした秩父事件というのもありましたけど、当時この秩父事件のときに、参加者が口々に「徳川の世に戻すぞ」ということを言っている、或いは「天朝様に敵対するから加勢しろ」天朝様というのは天皇のことですが、この場合は明治政府と言ったほうがいいでしょうか。つまり明治政府を倒して、徳川の時代に戻すんだと、それだけ当時の人々が徳川時代というものに対する憧憬といいますか、その頃の生活こそが、自分達の暮らす場であるという意識を強く持っていた。
又、中央教研の時に、伊藤主任から皆さんにお配りした分厚い資料の中に、昔の宗報のコピーが入っていましたけれども、確か昭和二十四年の一月十五日号だと思います。冒頭に掲げられた文章の中で、あの文章をお書きになったのは当時の管長さんではないかと思いますが、書かれた方のお祖母さんがよく、徳川期時分のほうが良かったねと言っていたという回顧談が入っていて、徳川時代のほうが今よりは良かったということを、お書きになった方のお祖母さんがよく仰っていた。やはりそういうことも、年寄りの単なる懐古趣味と言ってはいけないと思うんですね。
やはり、近代社会にどうしても馴染めない人達というのが、当時の日本人、さらに今に至ってもいるんじゃないかと思うんです。
とは言うものの、明治政府の方針としまして、そんなことに囚われていたんじゃ日本の近代化は図れない、近代化できなければ欧米列強に飲み込まれて、他のアジア諸地域のように植民地化されてしまうかも知れない、明治政府や、明治政府を支える人達は、ものすごいそういう危機感を持っていたと思われます。
そこで、考え出されたのが、天皇の下での国民の統合、天皇の下で、いわゆる日本国民という意識を作っていく、日本人というのは、すべて天皇の赤子であって天皇からの恩恵でもって様々な権利を享受している、という形で国民意識、国民としての権利意識を育てようとしたわけです。
ただそうすることによって導入された資本制システムの進展とか浸透というものが、近代日本人にどういう影響を与えたかということですね。
それで、昭和期のファシズム、これから順次お話していきますが、これがどのように確立されて、天皇の下で確立された、天皇中心の明治国家体制が単純に発展したものではなく、むしろそれが変質していったものであろうと、それがドイツやイタリアと異なる日本のファシズムの特徴そのものを形作ることになったと思います。
これにつきましては、既に政治学や社会学の方面で、戦間期ファシズムの研究として、一つのテーマ、分野として確立していますが、たいがい社会アノミー理論という、社会学の理論ですが、それによって説明は可能であるとされています。このアノミーといいますのは、世の中の従来のこう規範とか常識というものが通用しなくなってきて、それにより人々が動揺を示すようになってきて、それに伴う社会の様々な混乱、そういう一連の動きをアノミーというんですね。
そのアノミーの結果、人々の不安感からいわゆるファシズムと呼ばれる超統制的、超独裁的な国家体制が生じたというのがファシズム論の定説となっております。
また話がちょっと前後しますけれども、そもそも近代化とはどういうものであったかと言いますと、これも渡辺さんの著書に沿った説明でありますけれども、結局日本の近代の歴史というものは、国民国家の基盤となる、近代市民社会のシステムとルール、いわゆる公共性が、当時の一般的な生活国民の、常識、倫理観としての伝統的な共同性、これを溶解して近代市民社会のシステムの中に収奪していく過程であったという風に私は考えます。
それまで日本の国民は、いわゆるムラ社会の中で生きてきて、あまり個人というもの、自我というものを考える必要がなかったわけですね。なんとなくムラの社会で、ムラの慣習に従って生きておればよかった。
ところが、近代市民社会というのは、いわゆる経済社会です。ここにおいては、やはり個人個人というものの理解といいますか、いわゆる個人というものを社会の基礎としなければ、そういう市民社会のシステムというものは成立しないわけです。又、それがなければ、資本主義というのは発展しないのですね。
ところが、そのような社会システムに日本国民はすぐに馴染むことができずに、先ほど言いましたように、明治政府への抵抗というものが、様々な形で現れた。
そこで、こういう人達を国民国家に纏め上げるために考え出されたのが、天皇の下での統合、日本を天皇を頂点とする家族国家、つまり国民にムラとかイエの延長として、国家をイメージさせることによって、国民としての統合を図ろうとした、いわゆる家族国家ですね。そこにおいては、天皇と国民の関係は、親子の関係にアナロジー、類似されたわけです。つまり天皇というのはお前ら国民にとって親みたいな存在なんだよ、お前達が親孝行すれば親が慈愛でもって子供に接する、子供を育むように、天皇陛下に忠義を尽くせば、天皇陛下も国民に権利という形で恩恵を与えると、そのように近代のシステムを、当時の日本人に理解させようとしたのが、明治政府の指導者達です。
ここにおいて、近代の天皇、明治天皇以降の日本近代の天皇というのは、それまでになかった、二つの性格を課せられる存在となりました。一つが立憲君主、西欧近代的な立憲君主、これは帝国憲法で具現化されました。もう一つがアジア伝統的な家父長的君主。先ほど言いました家族国家観はこれに基づいているわけですね。具体的には教育勅語によって具現化されます。
教育勅語というのは、お読みになれば分かりますけれども、家族道徳に基づいて説かれています。要はそういう日本に伝統的な儒教に基づく家族像、実際教育勅語を考えた人は儒学者なんです。元田永孚などの儒学を学んでいた人によって、実は書かれたのですね。日本人の中に根付いていた儒教的な道徳観念を取り込んで、天皇というものを国民に意識させ、そうすることによって、日本国民という意識を持たせて、それによって欧米と同じような近代国家を築き上げようとしたのですね。
そのようにして明治政府によって作り出された近代国家ですが、ただその近代のシステムやルールが、日本国民の間に根付いてきた伝統的な共同性というものを収奪していく過程において、その市民社会的な現実、資本主義のシステムが進展していく真っ只中に結局、日本国民は巻き込まれていきました。
それによって、始めの頃はそういうことを感ずることもなかったんですが、だんだん資本主義のシステムが社会に浸透するにつれて、やはり国民の中に違和感が広がっていったのですね。先ほど申しました、徳川期時分のほうが良かったね、というような考えもそこから生まれてきたのでしょう。
そのような、かつてあった伝統的な暮らしにおける安定感への欲求、やっぱり昔のほうが良かったな、という考えですね。それは当然、進展しつつあった、資本主義や市民社会的なシステムやルールに対する不安とか違和感の表明にもなってきたわけです。これが、やがて戦争における民族的一体感を形成させる元になったと私は考えます。それが今日言われているところの天皇制ファシズムの正体であったのではないかと思います。
この天皇制ファシズムの形成過程において表れた国家主義の運動、まさに今日これからテーマとする北一輝などがそうですが、そういった人々の運動とかそれを支えた思想が一種の社会主義的、反資本的な性格を伴ったのも、そのような背景があってのことでしょう。
そういう資本制、資本主義システムに伴う近代市民社会の完成に近づくことによる伝統的な共同性、かつてのムラ社会に育まれた、様々な常識とか道徳観、そういうものが解体されていく、その過程において、国民個々の、かつてあったムラ共同体での安住感への欲求を呼び起こして、それがやがて、異質排除の空気を醸し出していって、すべてを天皇の下に帰一することによって自分達は日本国民として一体であるという意識を作っていった、つまりファシズムの背景にあるのは、やはり現実社会に対する不安感、それが極端な同族意識、仲間意識を呼び起こして、それに異を唱える人達に対する排除の姿勢を生んでいった、その過程で御遺文削除とか大曼荼羅不敬問題とかいう現象も起きていったのではないかと考えます。
また中央教研の話に戻りますが、そもそも天皇本尊論などというものはもう明治時代に唱えられていたわけですね。明治四十四年に清水梁山師によって。それに対する批判、それは宗義の歪曲ではないかという批判も同じ頃に清水龍山師によって唱えられてきました。
ところがそれが、昭和期に入る頃になると、天皇本尊論のほうが突出してきて、宗門全体を覆うような形にだんだんなっていくわけですね。それで、清水龍山師のような批判者は、なかなか声を上げることができなくなってきた。清水龍山師という方も立正大学の学長まで務められた方ですから立派な教学者で、決して民間の、いわゆる反体制活動家みたいな人ではありませんでした。そういう人ですら、弾圧の対象といいますか、なかなか声を上げにくい。従来自由に喋っていたことなのに、それすらできなくなっていったという、そういう風潮の背景には、今説明した、資本主義システムの進展に伴う、日本人の暮らしの変容があり、それに対する違和感、反発、不安感、それが過去への憧憬を呼び起こし、さらに天皇の下での日本人の団結、それによる仲間意識、そこから異分子を排除しようという風潮が生じてきたのではないかと私は考えております。
その過程で発生した超国家主義ですが、これは明治時代の公認国家主義、明治政府によって作られた、天皇の下での国民統合という、要は天皇のシンボル的機能を調和させることによって作られた国家主義思想とは、全然性格が異ります。
この超国家主義、英語でUltra Nationarismといいますが、極端な国家主義ですね、天皇制ファシズムと言い換えてもいいと思いますが、大正時代の中頃から芽生えてきたものと思われます。
大正時代の中頃というのは、ちょうどこの資本主義のシステムが国民生活の中に浸透していって、今説明してきたような国民の中に不安感といったものが徐々に表面化しつつあった頃です。
ここにおいて、こういう国民の不安感というものを真正面から受け止めて、これを政治運動、社会変革運動に結び付けるべきではないか、と考える人達が当然出てきたわけであります。後の昭和維新運動、国家改造運動の担い手となっていった、北一輝とか、大川周明とか、そういう人達ですが、その人達がまずどういうことを行ったかというと、明治政府によって作り出された、天皇のシンボル的機能のよみ替えということを行ったのですね。
明治政府は天皇を、先ほど言いました立憲君主であると同時に、ある意味で家父長的君主であるという風に位置づけて、国民統合、国民国家を作る求心力として、いわば利用していました。
ところがそれが、資本主義の進展に伴うところから表出してきた国民の不安感、やがてその国民から天皇というのは、自分達の生活を守ってくれる守護神ではないかというようなイメージが出てきたわけです。それで、そのようなイメージを具現化させたのが、まさに、そういう北一輝を始めとする、超国家主義運動の指導者達でありました。そこにおいて天皇は、現状維持のシンボルから、体制変革のシンボルへと位置づけが変わっていったのです。
そして今日の、ようやく本題に入りますが、北一輝という人物についてですが、まず北一輝が法華経の信仰に入るまでのことを説明しますと、最初に北一輝が書いた本格的な著作『国体論及び純正社会主義』ですが、この中で北は、今申しましたような、明治政府によって作られた国体論、明治政府による国家主義というものを否定したのです。
つまり、天皇の権威というものは、そんな記紀神話のような神がかり的なものに求められるべきではなく、日本を古代律令国家として成立させた、大化の改新を範とするべきであるということを言っています。つまり大化の改新によって日本は、当時の超大国であった唐の国を手本として、国家体制を形作っていった、その大化の改新を成し遂げた中大兄皇子、後の天智天皇こそが、日本人が真に崇めるべき天皇であるという風な独自の国家観、国体論を主張しております。
更に、北一輝はその天皇につきましても、立憲君主的な天皇、これを拡大解釈して天皇機関説を展開します。つまり天皇というのは国家を合理的に運営するための一つの役職に過ぎないんだという考え方ですね。それと同時に、家父長的な君主という天皇観、それに基づく家族国家観を援用しまして、明治維新によって成立した国民国家というのは、国民が平等にその国家を形作っている、一つの共同体であると、共同体だからこれは、即ち国民平等の社会主義国家なのだと、非常にそういうアクロバティックと言いますか、驚くべき視点を提起するわけです。
北においては、明治維新というのは法理論上の社会主義革命である。つまり、明治政府によって体系づけられた法律によって、日本人が等しく国民としての権利を有する、この等しく国民としての権利を有するという部分を、北は最大限に拡大解釈しまして、だから社会主義なんだと言ってしまうのです。それによって成立した天皇をもその一員とする国民国家、北の言葉で言えば公民国家、公の民、公民国家という言い方をしているのですが、この公民国家こそが、天皇をも広い意味での国民の一人であるとする国民の共同体であって、それこそが、万人平等の社会主義の実現体である。北においては、明治維新というのは、これはもう社会主義革命なんですね。
この北の背景にありますのは、遠大な人類史的な視点でして、北によれば、人類の歴史というのは、偏局的社会主義、偏局的個人主義、そして純正社会主義という順で、変遷していくという風に考えます。偏局的というのは偏ってるという意味です。
偏局的社会主義というのは、これは社会主義という言葉にあまり囚われないでいただきたいのですが、要するに、古代中世的な、ムラ社会、古代中世においては国民は、氏族社会に基づくムラとか、部族に属する生活しかできなかった。そこにおいては個人という観念がなかったというのです。
やがてそこから、経済システムの変化などによって個人という観念が生まれて、やがて西欧近代的な個人主義の考えが表れてきた。そこにおいては、社会の実態というのは個々人である。個々人が、寄り集まって、契約を結んで社会を作るという社会システムの世の中になった。これが、西欧的な近代社会であると考えます。
ただ、北は、ここにも偏局的という言葉を当てはめて、つまり、かつて古代中世の時代にあった部族社会のようなムラ社会も、これは人間の存在のあり方としては偏っている。といって西欧近代的な個人主義というのも、これまた、人間のあり方としては偏っていると、それで、その両者を、統合して、更に高い段階で一つにまとめた状態こそが、真の人類のあるべき姿であると、そのように北は捉えたのであります。
実はこれは、哲学を勉強した方はすぐに分かるかもしれませんが、あのヘーゲルの国家観ですね。ヘーゲルも実は人類の歴史というのをこのように捉えていて、そういう社会と国家の統合性、社会と個人の統合された国家というものを止揚的な人間のあり方としたわけです。
もちろんこのように理論化したのは、北一輝の独創であるのですけれども、このような人間観、人間というものを単なる個人ではなく、社会や世界と一体化したものであるという考え方というのは、実は日本人に伝統的なものでして、そもそも日本人の仏教の捉え方、これは私、日蓮聖人もこういう面がたぶんにあったと思いますし、他の宗派、例えば親鸞聖人なども、それほどかけ離れた考え方はしていないと思います。
宗教的な言い方をすれば、よく宮沢賢治も言っていますが、大宇宙と、大宇宙の生命観と一体化するみたいなことを、宮沢賢治は言っていますけれども、結局北もそういう捉え方と離れてはいないのです。
そしてこの背景には、日本というアジアの、東洋の一国家において、如何に西欧的な近代化というものを自らのものとして消化しきるか、そういう伝統と近代とのせめぎあい、葛藤、そしてその融合というものが、問題としてあったわけです。
そしてこの問題意識は、一個人のものではなくて、当時の日本人なら誰もが思い描き、また悩んだものであります。例えば日本の代表的な哲学者である西田幾多郎とか、独自の倫理学を唱えた和辻哲郎、或いは民俗学の創始者となった柳田國男、そういった人達も実は、日本における近代化と、日本古来の歴史、伝統、そういったものと如何につじつまといいますか、無理なく融合させるかという課題のもとに、それぞれの思想的な営みを行った人達だと私は思います。
北一輝も、先ほども言いましたように、非常にこう、スキャンダルな捉え方をされることが多いのですが、少なくとも、その思想家として歩み始めた時点では、西田幾多郎とか和辻哲郎、柳田國男といった人達と、同じ思想史の延長線上に位置づけられる人物であると言っても、間違いではないと思います。つまり近代日本の知識人が取り組むべきテーマと取り組んだ思想家であったと思います。
そのように、近代と伝統が融合した人間のあり方というものを、例えば、西田幾多郎なら、絶対矛盾の自己同一、という表現で表そうとし、和辻哲郎は間柄的存在という人間のあり方を提唱しました。柳田國男は、民俗学という方法を用いて、近代の日本、日本人が近代化を遂げながら、真に守るべきもの、日本らしさというものを追求しようとしました。
そういう、人間の理想的なあり方を、北一輝の場合は純正社会主義と呼んだのです。従って、北においては、社会主義というのは、あくまでも理念としての人間のあり方を説いたものなのです。
そのように自己の思想を構築した北一輝でありますけれども、実際面においては、その頃の北は、非常に穏健でございまして、先述のように、もう日本は、法理論上は社会主義国になったのだから、では経済上の社会主義を達成すれば事足りると、それが北の、明治維新の総仕上げ、という風に捉えていたのですね。
第二の維新革命、第二革命が必要であると、ただ北はその方法としては、穏健な経済改革を唱えたに、この時点では過ぎなかったのです。
方法論的にも、選挙運動を重点的に行うことによって、議会政治を発展させて、その議会政治を通じて、今風に言うならば構造改革を起こそうとしたわけですね。
ところが、そのような穏健な改革を唱えたに過ぎない北にも、明治政府によって弾圧、取締りの手が及んできました。それによって、日本での変革、革命に展望を抱きにくくなった北は、たまたま、中国で清朝打倒の烽火が上がった辛亥革命、これに期待をします。日本の革命はさて置いて、中国でちょうど新しい国家を作ろうという革命運動、だったらその勢いに乗じて、その余波を日本にも及ぼすという形で、日本の革命運動、新しい革命運動を起こそうじゃないか、ということで北は辛亥革命に参加したのであります。
そのように革命によって強大化された中国、その中国の影響で第二の維新革命を成し遂げた日本、この両国が連携して、アジアの盟主となって欧米列強に対抗していくという、そういうアジア解放、アジア主義の考え方を持つに至りました。その体験をもとに書かれたのが、北の二番目の著書である『支那革命外史』という本です。
この本には、法華経の影響が随所に見られます。
この『支那革命外史』は、当初は日本政府要人への建白書として書かれたのですが、その中で北一輝は、この『支那革命外史』は、「大正安国論」である、つまり『立正安国論』を鎌倉幕府に献上して国家諌暁をしようとした日蓮聖人に自分をなぞらえてしまっているのです。随所に、法華経への言及が見られて、ちょうど北一輝が、法華経信仰に入った時期とも相俟って、法華経の影響が最も色濃く出ているのがこの『支那革命外史』です。
年代的に言えば、一九一六(大正五)年の一月から北は法華経を唱え始めたと言われております。ちょうど『支那革命外史』の執筆中です。
そういう北を、法華経信仰に導きましたのは、永福(えいふく)寅造、ながふく寅造と読むのでしょうか、ちょっと分からないのですけれども、そういう人物だといわれています。
北は、この人をお経の先生と言って慕っていたようでして、一九二〇(大正九)年に上海から日本に帰ってきた際には、真っ先にこの永福寅造を訪ねております。
この永福については私も色々調べたのですが、詳しいことはほとんど分かっておりません。当時、大正時代の中頃、東京の今の青山辺りに住んでいたらしいこと、強い霊感の持ち主で、柳田國男などにも注目されていたらしいこと、などは分かっております。柳田國男も民俗学の立場で、民間信仰研究のテーマとしてこの永福に着目していたらしいんですね。いわゆる巷の拝み屋のような人物だったと思います。ただその巷の拝み屋であったであろうこの永福寅造と北がどのように結びついたかということは、よく分かっておりません。
このように法華経信仰に入っていった北ですが、この頃の有名なエピソードとして、法華経を、当時の皇太子、後の昭和天皇に献上したりしているのですね。それが、大正九年三月のことですが、勿論一介の活動家に過ぎなかった北が、そんな皇太子に接近できるわけがありません。仲介をした人物がおるわけでありまして、その仲介をした人物が小笠原長生海軍中将であります。
この小笠原については、ちょっと皆さん思い出していただきたいのですが、皇道仏教行道会の問題ですね。行道会が宗義擁護連盟と対立して、この両者がいったん手打ちをしましたね。その時に、行道会と擁護連盟の仲を取り持ったのがこの小笠原長生なのです。海軍中将で子爵、爵位を持っております。この大正時代の頃には、東宮御学問所という、皇族方が初等教育を受ける学校ですね、皇居の中にあった学校、そこの先生をしていた方です。
北一輝は、この小笠原長生と非常に仲が良くて、またこの小笠原も法華経信者なのですね。示し合わせたように法華経の信者でございます。この縁でもって、当時の皇太子、後の昭和天皇に法華経を献上することに成功したのであります。
つまり、北にとっては、当時天皇というのは変革のシンボルであったわけですから、なんとかして皇族を自分の革命運動に引き込もうという策略もあったとは思いますが、その精神的な支えを、やはり法華経に求めたということは、こういうエピソードからも見て取れます。
この法華経の献上に対しては、宮内省から正式に受領証が出ておりますので、ちゃんと献上がなされたのであろう、ということは確認できます。
そのように法華経信仰に入った北でありますけれども、辛亥革命の経験を抜きに、北の法華経信仰の度合いの深さというのは語れないと思います。この革命によって、北は結局挫折するのですね。
辛亥革命の後、中国は清朝の専制政治を倒して中華民国という、アジアで最初の共和国を作ることに成功したのですが、その成果は、中国のその当時の保守勢力、軍閥等によって簒奪されて、必ずしも北が願っていた方向には、革命はいきませんでした。また辛亥革命の一番の指導者であった孫文自身が亡くなる時に、革命未だ成らずという言葉を遺言として遺していますね。
と同時に、日本政府は、北自身が本来、その革命、変革すべきだと考えていた祖国日本も、この中国の革命と連携するどころか、イギリスやフランス、アメリカなどに倣って、ますます帝国主義路線を歩もうとしていました。それと、先ほどから説明してまいりました資本主義の浸透に伴う、国民の不安感の増大、それによって国民の中に広まりつつあった天皇幻想、つまり天皇をこの不安感から救ってくれる守護神として捉えるという、そういう国民意識の広がり、そこから北は非常にこう、一種のニヒリズムに陥っていくのですね。中国の革命に期待したけれども駄目、従って、その余波をかって日本でも何とかと思ったけれど、それもどうも望みなし、その絶望の中で北一輝は、敢えて、日本における革命の具体的な計画プランとして、『日本改造法案大綱』という革命綱領を書くわけです。
そこにおいて北は、クーデターと軍事独裁による国家改造を唱えだしたのです。初期の頃は、議会政治による平和革命思想を唱えたのに、この頃には、そんなものは捨て去って、単純に軍事クーデターと独裁権力によって、いわば、強力な権力によって上から革命を行うという方針に変換したわけです。
その、現状に対する絶望感の中で、北が現実の革命勢力として頼ったのは、軍隊でした。そのことが後の二・二六事件に繋がっていく、北と青年将校、軍人との繋がりに結びついていくのですが、この過程において北は、ますます法華経信仰にのめりこんでいって、それは、非常に呪術的な色彩を強めていって、やがてその法華経を唱えているうちに神がかり的境地に陥って、そういう神のお告げがあったというようなことを日記に記したりするのです。その日記が今日、『霊告日記』という形で出版されていますが、そういうこともありましたので、従来この北の法華経信仰というものは、ともすれば思想的な理論構築を放棄した、退廃的とか否定的に称されがちだったのですけれども、この北が法華経信仰にのめりこむに至ったニヒリズム、北がその当時の日本の歩みと共に感じるようになった時代のニヒリズムに着目して考察すべきであろうと思われます。
何故なら、その当時の北の置かれていた立場、哲学的にいえば北の実存ですね。その実存が、正に『改造法案』を書かせた動機となるわけですが、これは今日にまで続く日中関係の難しさとも関わってくる問題だと私は思います。
当時の日本と中国が非常に微妙な、難しい関係におかれていた。そういう難しい問題に北は、自分自身の人生を重ね合わせてしまった。そこから抜け出す唯一の手段として、北は法華経の動機、法華経信仰にのめり込んでいったということが、言えるのではないでしょうか。特に『支那革命外史』の中にあるニヒリスティックな表現は、北の祖国日本に対する絶望からきたものと思われまして、また更に時期から見て、北の法華経信仰の根底に終生、巣食い続けたものと思われます。
この北の、日本や中国に対する絶望感、そこから発するニヒリズムを、法華経の地涌の菩薩等の具体的記述に仮託して、自分自身を表現すると共に、自分の置かれた立場というものを正当化しているという、ある意味、信仰者としては純粋な方向に向かったと言えるかも知れませんけれども、傍から見れば、非常に狂信的な方向に向かってしまったのですね。
ただ、北が法華経信仰にのめり込んでいった、この思想遍歴、これは、近代の日本の歴史、近代の日本人の歩みの難しさを表すものではないか。かつて久野収という、もう亡くなりましたが、哲学者がいまして、北一輝の思想的な営みを、近代日本人の原哲学というべきものがそこにはあると久野収氏は評しましたが、それは正に、当時の北が陥っていった絶望感、それが近代日本のアポリアにそのまま重なり合った、そういう意味で確かに、北の当時の生き方、法華経信仰にのめり込んでいった思想は近代日本人の原哲学、と言えるかも知れませんが、ただ北の場合は、それを普遍的な理論へと、つまり今日、語られるような哲学みたいな形に昇華させることなく、自分自身の主観の中で、より至高なもの、高いレベルのものへと自己同一化させることによって保っていかざるを得なかった、その営みこそが、法華経の読誦だったのではないかと思われます。
そのより至高なもの、それは法華経の中に出てくる、具体的に言えば地涌の菩薩、特に上行菩薩、北は『支那革命外史』でも自分を上行菩薩に重ね合わせる記述を何度もしておりますし、また中国の革命も、まさに、この地涌の菩薩の出現と捉えてそのように書いております。
だいたい法華経の信者というのは、石原莞爾などもそうですが、社会の動きや世界の歴史というものを法華経の記述にそのままオーバーラップさせて語ってしまう、これこそが、法華経の予言通りであるみたいな言い方をする傾向があると思うのですが、北もまた、そういう意味で、紛うことなき法華経の信者ではありました。
この北を、近代日本における法華経信仰の一形態としてみるとき、そのような歴史観、歴史の流れと法華経の記述とを重ね合わせてしまう、そういう経文の読み込み方というのは、正に、近代の日本というものが抱えていた困難さの一種の現れではなかったかと、私は思います。
北の歴史観、これは当初の『国体論及び純正社会主義』の頃から見られるのですが、北は天則、天に則る、天則という言葉を使っているのですね。北の歴史観というのは結局、この世の中というものは、人間の知恵、人智ではどうすることもできない、天の動きによって最初から決まっているんだと、こういう宿命論的なところがありまして、実は、これもヘーゲルの歴史哲学なのです。
ただ、北の場合は、そういう天則という一種の歴史哲学というものを、それを哲学として、理論的に発展させることをせずに、ただただ、法華経の信仰を通じて、自分自身の内面に引き込もうという形で、特に表現することなく、自分の中で昇華しようと努めていった、そういう、姿勢が晩年の北一輝には見られます。
そのように、北の法華経信仰というものを捉える時に、近代におけるその法華経というものが果たした役割といいますか、近代日本人が法華経というお経をどのように解釈しようとしていたか、その一つの例なのではないかと私は考えております。
甚だ発表のような発表ではないような、最後のほうも支離滅裂になってしまって皆さんも大変お聞き苦しかったと思います。
最後に一つだけ、まとめ的なものですが、熱心な法華経信者であった北一輝でありますが、実は、北一輝は他にイスラム教にもかなり関心を寄せていたのですね。
これは今までの北一輝の研究の中では余り論じられてこなかったところです。最近関心を寄せられ始めました。
明治から昭和二十年代にかけて活躍した日本人のムスリムで、有賀文八郎という人がいるのですが、この人は日本におけるイスラム運動の先駆者であるといわれてます。
北はこの有賀文八郎と、実は仲が良かったのですね。それが辛亥革命の時期、北が法華経信仰に入り始めた時期と重なっているのですが、当時、有賀文八郎は、イスラム信仰の傍ら実業家として成功していまして、辛亥革命の孫文等にも資金援助を行っていました。勿論革命の資金援助を行うわけですから、それなりの金額を出したと思われます。そんな外国人の革命家のためにぽんと大枚を払うとも思えませんから、それは北一輝を通じてそういう支援が行われたのでしょう。ということは、その有賀と北一輝は、それだけ親しくしていたということですね。
『支那革命外史』や『日本改造法案』には、法華経や日蓮に関する記述と共に、イスラムへの言及も散見されます。
そのような視点から見れば、今申し述べてきた北一輝の法華経信仰を、個人的な信仰としてと同時に、文明史論的な、つまり西欧近代との対決というところから、いわば精神的な拠り所、日本と中国が欧米列強、西欧の近代化文明と対決していくことによって、新たな世界を作らねばならない、そういう対極軸の一つの拠り所として、仏教、特に法華経、或いはイスラム教というものを捉えていたということも言えるかも知れません。
雑駁な発表で大変恐縮ですけれども、とりあえずこんなところで、まとめとさせていただきます。どうもありがとうございました。