ホーム > 刊行物 > 現代宗教研究 > 現代宗教研究第40号 > 法華系新宗教教団について

刊行物

PDF版をダウンロードする

現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

法華系新宗教教団について

 

 
法華系新宗教教団について
 
(新宗教新聞社編集長) 廣 橋  隆  
 
 おはようございます。ご紹介頂きました廣橋隆と申します。大学を卒業してすぐに、新宗教新聞の記者となりました。ご覧になったことがないかも知れませんが、(現宗研でちゃんととっております。)ああ、そうですか、ありがとうございます。今日たまたま最新号を持ってきたのですが、まだ届いてないと思いますのでご覧下さい。こういう新聞を作らせていただいております。この新聞は、財団法人の新日本宗教団体連合会が発行の母体となっています。いわゆる新宗教のあつまりなのですが、新宗教というのは非常に定義が難しい。宗教学の先生方の世界でも、各人各様でばらばらにやっているので、学問的な統一した用語ではないという風に考えていらっしゃる方も多いということです。
 その新しい宗教団体の連合会でございますが、戦後の憲法で、信教の自由が無条件で規定されたことによって、新しい宗教団体が、多数誕生し、そういう新しい教団の集まりを作ろうと結成されたものです。宗教同士いがみあったり足の引っ張り合いをしたりして、争いの種になることが多い、そういうことを超越、超克して、戦後の新しい日本の社会を作っていこうと、平和な国家の建設のために寄与すべきじゃないかとの考え方をお持ちの方々が集まった。この代表的なリーダーがPL、パーフェクトリバティー教団の御木徳近さん、一九八三年に亡くなられておりますけども、それと立正佼成会の開祖である庭野日敬さん、この二人を中心にできました。戦争中は宗教統制下にあって、仏教、伝統仏教でも十三宗、二十八派しか認可されなかった。それまで十三宗五十六派あったのが二十八派に統合されたといったほうがいいかも知れません、そういう形で、宗教統制があった。新しい宗教概念、或いは宗教観念、悟りだとか新しい経典解釈があったとしても、それは、大手を振って宗教活動ができなかった。宗教団体法という法律のもとに監督官庁の許可を得て、宗教法人にならないと、宗教活動ができなかった。ですから未だに、宗教法人の認証を得ないと一丁前じゃないという変な誤解があったりしますね。オウム真理教なんかでも、宗教法人の認証を得ようと闇雲に走ったっていう経緯があるんですが、未だにそういう、戦前戦中の宗教統制の残滓があると思うのです。
 戦前・戦中の統制下に新しい宗教教団が何かを始める場合には、伝統的なその教団なりに軒先を借りた。伝統仏教の、一教会なり、布教所としての活動。或いは、神道の十三派、国家神道となった神社神道以外の、教祖によって唱えられた神道。教祖神道十三派が、戦時中、終戦までに公認されています。最後の公認が天理教です、その前が金光教、扶桑教、黒住教、御嶽教、禊教、色々ございます、十三教団。日本の新宗教の教団の多くの場合、そういった公認宗教の看板を借りています。本体の教団よりも大きくなっていく。それが軍部の目に触って、国家転覆の思想を持ってるとかいって弾圧された。そういうような教義を説いてたわけじゃないんですけども、超国家主義といいましょうか、軍国主義の中における思想統制は厳しいものがありました。権力にとってわけのわからない、国家統制によらない教団の集団が登場しますと、管理する側は弾圧したわけです。
 そういう新しい宗教団体が、戦後の憲法二十条によって「政教分離」と「信教の自由」が定められて、宗教法人とならなくても宗教活動ができるようになって、多くの新宗教教団が誕生した。何も終戦直後の精神的な混乱、ヒステリー状況の中で神懸かりが増えたわけではないです。その新宗教の誕生の契機というのは宗教行政、宗教制度が非常に大きな要因であると思います。明治期に新しい宗教が起きてきます、これは天理教や金光教もそうなんですけども、これは江戸末期の幕藩政治が疲弊してきた。そういう中で、その幕藩政治に支えられた寺檀制度が批判にさらされていったということがあるんではないかという気がします。寺院には寺請制度によって、寺の経営が安定し、なおかつ寺領を持ってらっしゃるお寺が多かった。これは戦後の農地解放でお寺さんが全部手放しちゃってるんで、今の世代ではそういうことは享受されてないわけですが、そういうなかで、伝統仏教、寺院に対する批判がかなりあって、それが江戸末期から廃仏毀釈運動というのが起きることになるのではないかと思うのです。そういうところから、新しい宗教が生まれてくる。この時期は神道の形を借りて生まれてきたのではないかと思います。
 こういう江戸末期、更に敗戦後の日本の宗教の、新しい宗教の興亡というのは社会変革と一致した形で、そして宗教制度の変化に呼応してきたんじゃないんだろうかと思います。前置きが大変長くなって申し訳ないのですが、靖国神社問題を含めて、今の時代、宗教と政治の在り方というのが非常に混乱している中で、まず考えていただく問題ではないかという風に思ってお話させていただきました。
 そういう新しい宗教団体関連の新聞で仕事をしてみないかというご紹介がありまして、団塊の世代の一番最後で、どうしようかなと思ってるうちに、まあ二〜三年、そこで腰掛けて、好きな本読んでりゃいいと思って入社したのですが、とうとう三十年居座ってしまいました。以前、現宗研でお話をさせていただいた時に申し上げたのですが、私は熱心な日蓮宗檀家の家に育っておりまして、幼稚園の時から「無上甚深微妙の法は」と祖母に覚えさせられた。小学校に入る頃、方便品などを覚えさせられた、というか、呪文のように唱えていた。小学校に入りましたら、鉄棒で「無上甚深…」なんてやっていたら、隣にいる出会ったばっかりの同級生が、「それ僕も知ってるよー」なんて言われて、二人でやっておったら、その同級生がどういうわけだか、今の神奈川県の宗務所長の平塚上人で、そんなご縁があったりしました。横浜の善行寺の檀家の家に育ったのです。最初に取材に行かせていただいたのが、今日のテーマにもあります妙智會教団の式典だった。でそのうち立正佼成会。ちょっと調子が違うんですけれど。それは経は訓読でした。訓読は聞いたことがないことはない。唱えていることはだいたい分かる、ということですんなりと入ってしまった。それで居着いちゃったのかなあとも思っております。
 本日、レジュメをご用意させていただきました。霊友会の誕生と西田無学というように、法華経による先祖供養、総戒名と過去帳と書いてございますが、これは寺門興隆の二月号か三月号に書かせていただきましたので、ここでは時間の都合で割愛させていただきます。霊友会の発足は久保角太郎さんとお兄さんの奥さんの小谷喜美さん。小谷さんは初代会長になるわけですが、その二人によって創立された教団です。法華経による先祖供養という一つのキーワードで、新しい宗教運動が起きた。大正末期のことですが、これは久保・小谷のオリジナルではなくて、西田無学、西田利蔵という鶴見あたりに住んでいた法華行者がおりました。彼が自分で上行菩薩と自任するぐらいお寺・墓地を回って、戒名を書き取って供養していた。そういう行をした方で、そこで法華経と先祖供養というものが結び付いた。西田無学によって開発された。それを久保さんが導入し、小谷喜美というお兄さんの奥さんの霊能力のきざしを見て、厚木山に入れて能力開発をした。その結果、霊友会が生まれたのでした。この西田無学という人を調べましたら、本門仏立講の信者だった形跡がある。ということは近世以降の法華経系新宗教教団、先祖供養教団等含めて、その源流は本門仏立講にあると言っていいのではないかとの指摘もあります。
 霊友会系教団群の動向と書いてありますか。霊友会系の分派とひとまとめにしていますが、明治末期から大正にかけての新宗教運動、仏教における、特に法華経系における新宗教運動は、京都と四国の何派っていうんでしょうか、日蓮宗の中でも久遠派の系列、その系統の影響が大きいんではないかなと思われるんですけれども、西田無学という人は仏立講にいきついた。そこで開発されたのが総戒名なんですね。霊友会系の教団に入信しますと、まず総戒名を受ける。右側に御主人の家族、そして左側に奥さんの家族、ご夫婦の家のご先祖を祀る、という行為をするんです。これは、非常にユニークな行為ですが、私は核家族時代の到来を予見した宗教装置だろうと思うんです。日蓮宗ですとご本尊のお題目があって、私の家にはお祖師様があって各位牌がある。そういう形式ではなく、この霊友会の教団のいわゆる総戒名、その下に過去帳を置く。過去帳には全ての先祖の戒名を集めるだけ集める。その戒名もお金の多寡によって決まるというわけではなく平等にやっている。西田無学も久保角太郎も、お金の多寡によって、財産の多寡によって戒名が決まるというのはおかしいんじゃないか、ということを言っている。ところが、法華経と総戒名という字、決まり切った形式的な戒名による平等感というんでしょうか、そういうことが説かれていく特徴があると思います。
 もう一つ、新宗教は民衆宗教とか大衆教化という色彩があって、それによって組織拡大していくというようになると思うのですが、この霊友会系の特徴は、「おたすき」をかけることにもあると思います。白い木綿のたすきにお題目があって、後ろに教菩薩法仏所と書いてある。教団によっては教団名を書く、立正佼成会なら立正佼成会本部、或いは霊友会本部。前には自分の名前を書く。これは統一した体裁です。たすきをかける意味は何かというと、野良作業をしていても、どんな格好をしていても、おたすきをかけることによって正装したことになる、ということで、晴れ着を着なくても、法衣を着ることをせずとも、白い木綿に南無妙法蓮華経と書かれたたすきをかけることによって、仏前に出られる。そこに行って、供養、法要ができる、という形をとっていったわけです。
 霊友会系教団に限らず、新宗教教団の大きな特徴がどこにあるかを、ある何人かの研究者と専門家が言っているのですが、一つは、秘儀の大衆化です。これについては、日蓮宗、或いは浄土真宗の場合には、かなりそういう色彩を持っていることはあると思いますが。まずお経を唱えることは、多くの場合聖職者、僧侶にのみ許されていた行為だろうということです。それを大衆に読ませる。そして、「貴方も先祖供養ができます」ということになる。これは霊友会の幹部で、後に正義会という教団、今は館山に本部がありますけど、有力支部の分立の一番最後に正義会という教団があって、この山口義一さんという創始者、霊友会の支部長だったのですが、その方に直接お話を聞いたのは二十五年くらい前になります。大正末期から昭和初期にかけて、霊友会の布教というのは、面白いように信者が入ってきたということを仰っていました。それはなぜかというと、「貴方も先祖供養ができるんだ、お坊さんに任せることはないんだ、貴方やりなさい」と言うと、「えっ、自分でやっていいんですか」と言われる。それは何故か。これは明治四十五年、そして大正十五年過ぎている頃、江戸期から五、六十年経っても、お寺のお坊さんにだけ任せておけばいいとか、お寺のお坊さんにしかできない死者儀礼だった。それが、誰でもできるんだよ、と大衆化されたことが受け入れられている。そして霊友会が爆発的に信者を増やしていったんだ、ということを山口さんが仰っておられました。これは実感として、「すいすい信者を導いた」という言い方をされています。そういう時代があったんだろうと思っているわけです。そういう意味で死者儀礼に限らず真言宗系の教団で、例えば護摩を焚くという行為も、新宗教では大衆的に行われているわけです。
 もう一つの新宗教の特徴としては、信者即布教師ということだと思います。多くの宗教の場合、布教の主体は仏教においては僧侶であり、神道においては神職による、或いは、江戸末期の伊勢神宮には御師がいた。伊勢神宮の御師の役目は、種籾の伝幡という農耕文化を支えた一面があったようですけれど。それはちょっと余談ですので触れませんが、そういう専門家、もっといえばキリスト教の牧師、神父に布教伝道の使命が任されていた。
 これが霊友会の場合には、自分は救われた、更に自分がもっと救われて幸になるためには他の人も自分の結ばれた教えに繋げていきなさい、それが功徳なんだ、と教えを説くわけです。そうなると、信者はそこで入教と共に即布教師になっていく。これが新宗教の特徴である。それも在家主義という所に繋がっていくんだろうと思うわけです。そういう意味で、霊友会は仏教系の新宗教として、特徴的な新機軸を打ち出して、発展していったわけです。
 霊友会はその後、色々に分派教団が生まれるわけです。これは法華経教団の宿命かなと思っています。初期に分派して組織的に大きなものは立正佼成会、その半年前に思親会という教団があります。これは伊勢原に本部がありますが、昭和十三年に分かれます。立正佼成会も昭和十三年、思親会の井戸清行さんという、岡山県出身の方がいらっしゃるのですが、建設会社の社員だった方ですが、霊友会に結ばれて、法華経の行者として信者を集めていた。それが姿勢の違いという所から分立して東京の王子に本部を作るのです。それから立正佼成会という教団ができあがりました。はじめは大日本立正成正会という名前です。庭野日敬氏が、長沼妙佼という人を霊友会に導いた。彼は霊友会で修業しているうちに法華経の教学にすごく興味と関心を持った。それで、法華経の教学的な側面をずっと追求していた所、小谷喜美さんからそんな勉強すんじゃない、と言われたんです。そこで自分はこれを学んでいきたいということを支部長さんに相談したら、「じゃあ庭野さんそれ自分で独自にやったほうがいい」ということで独立をすることになった。長沼妙佼さんと二人で今の中野の近くに立正佼成会をたてるわけです。庭野日敬さんは霊友会に繋がる前に、姓名判断や気学などを非常に勉強していて、その姓名判断、気学というものを使いながら、法華経の教団を運営していく。霊的な指導として長沼妙佼さんの霊示を忠実に実践して、修行をする。
 霊友会系教団の特徴として、その新宗教の成功の背景には霊能者、教祖と組織者の存在が指摘されています。卓越した霊能者と、組織を拡大していくための指導者が、うまくペアーとなったときに教団が大きくなっていくということが言われています。霊友会の場合には、教祖小谷喜美。創始者は久保角太郎でも霊的な指導者としての教祖は小谷喜美と言っていいと思います。組織者は小谷角太郎という位置付けがなされます。立正佼成会の場合にも、その霊的な指導者で、教祖的役割を長沼妙佼氏がとっていた。そして組織者として庭野日敬という機能が働いたという分析ですね。東京の中野、杉並を中心に活動していた教団が一挙に全国に展開していった背景は、戦時中の疎開じゃないかとの指摘があります。故郷に戻って行く中で人についていった。また、戦後の混乱期の人口移動で広がった。戦前に宗教活動をしていた都市型の新宗教教団は、この時期に全国組織として成長していった。、
 霊友会系教団の中でも多くの教団は、昭和二十四年から二十五年にかけて有力支部が独立して教団形成をしていくことになる。これがレジュメに書いてあります妙智會、仏所護念会、大慧会、妙道会、正義会。この頃の教団の正式名称は、全て後ろに教団と付いております。妙智會教団、仏所護念会教団、大慧会教団、妙道会教団、正義会教団と。もとは有力支部の御旗支部という、いわゆる導き数、或いは信者数にかなり大きな支部、数千、数万単位の支部長だった。妙智會では宮本ミツさん、仏所護念会では関口嘉一夫妻、大慧会は石倉保助夫妻、妙道会は佐原忠次郎夫妻というように、ご夫婦で教団活動を始めることになった。ここでは女性の方が霊能者ということです。妙智會の場合は、ご主人が終戦直後に亡くなっています。独立する前に亡くなっていまして、娘さんのお婿さんで現会長の宮本丈靖さんという方がいた。この宮本ミツ会主・創始者と宮本丈靖さんとのペアで、丈靖さんが組織者として能力を発揮した。これで教団が成立していく様式が見えます。仏所護念会ももちろん関口トミノさんという霊能者を開祖にしている。大慧会教団も石倉マツヱさんという奥様が霊能者でした。そして妙道会も俊江さんが普師さまとあがめられています。
 これらが何故分派・独立したかと言いますと、久保角太郎さんは昭和十九年に亡くなり、戦後復興の中の新宗教教団の急成長で、小谷喜美さんのワンマン体制が続いてしまった。かなり個性的な一面があり、更に言えば赤い羽根募金の横領事件があった。赤い羽根募金のお金が金庫の中に残っていた。残っていたというときれいな言い方なんですけど、そういう事件があった。もう一つ事件があった。久保角太郎さんの長男の久保継成さんを小谷喜美さんが引き取って、教団の後継者として育成していくのですが、その継成さんの家庭教師だった方が金庫の中に麻薬があると密告をして、捜索したら麻薬が出てきちゃった。そういった事件とスキャンダルの中で、教団に嫌気がさして有力支部長が離脱をして、新しい教団形成をしていった、という図式です。
 小谷喜美さんの強烈なカリスマ性と指導力は卓越したものがあったと思うのですが、独善的な指導に入っていった時の様子は、鬼気、狂気にせまるものがあった。私が宮本ミツさんから直接伺ったお話だと、支部長らが揃っている所で、「ミツ!」とやるんです。「ミツ、何をしている!」それで、「すみません、申し訳ありません」と謝まって頭を下げると、ばーっと火箸が飛んできたというんです。「火箸が飛んできて、ぼーっとしている他の人にばしっと当たるんだよ」とそんな冗談ともつかぬ話を伺ったことがあります。
 亡くなって二十年近く経つ大慧会の石倉保助さんがこのような指導を受けた、という話を聞いた覚えがあります。大阪で第六支部の支部長だった頃、すぐ来い、と小谷会長から電報が来た。夫婦で何だろう、と夜行列車に乗って本部に着くと、小谷喜美さんが「石倉、何しに来た」とこう言うのだそうです。「電報をいただきましたのでまいりました」というと、「何しに来た!何も用がないならとっとと帰れ!」ということがあったと聞いた。私なんか、何て人なんだろう、と思うのですが。これは法華経系教団の修業する人の心のすごさがわかる。石倉さんはこう言ってました。「帰りがけに反省した、電報をもらってすぐ来いと言われて、ただぼーっと列車に乗ってしまった、会長が何のために私を呼んだのかということを掌握していなかった、そういうことも考えずに私達夫婦がぼーっとしていたことを会長は怒っているんだ、申し訳ございませんでした」と、そういうことを手紙に書いたと。これが霊友会の幹部の修業の一環なんだ、ということを伺った。そういう体験をしてきた方々による教団が分離してから、それぞれがその特徴を継ぎながら、それぞれの教団の違いを積み上げてきていることが言えるんじゃないかなと思っております。
 立正佼成会と妙智會が地理的にも近いので、ある青年に聞いたことがあるんです。「立正佼成会と妙智會はどう違うの」と。そしたらその青年曰く、「会長先生が違います」と言うんです。ということは、その会長のパーソナリティーだろう、それに違いない、と理解しているわけです。霊友会が今、実は内紛中です。一応決着はついたことになるのですが。久保継成さんが二代会長になって、資料の年表が二つ出ていますが「いのちを育みつづけて・沿革」となっていますが、霊友会の麻布にある本部の霊友会教団のホームページの沿革です。久保継成さんは創始者久保角太郎さんの長男なのですが、今は霊友会に籍がございません。別に、「在家仏教こころの会」を作っています。そこのホームページがこちらです。久保継成さん曰く、ご自分のお父さんの久保角太郎さんも会長職をやっていない、理事長だった。ということで理事長に就きます。その後理事長も退いてしまいます。ところが、もう一回自分が会長をやり直すという話になるのですが、それも幹部さんが受け付けない、ということで裁判になり、とうとう久保継成さんが霊友会を出ることになってしまったんです。
 さて、ここで立正佼成会が編み出した法座という手法に注目してみたいと思います。これは信徒さん方が円座になって、そこで悩みを語り合う集団カウンセリングの手法です。話を聞いて、お互いの経験を交換しあって解決策を探す。そのような集団カウンセリングが機能している。都市化、核家族化の中で「おばあちゃんの知恵」がここで得られる。子育てから始まり、嫁姑の問題などが語られ、問題解決がされていく。
 妙智會は先程も申しましたように、宮本ミツさんと、その長女のお婿さんの宮本丈靖理事長さんとのペアで三十数年なさってきた。宮本ミツさんが亡くなって、宮本丈靖さんがそのあとの会長に就任します。この宮本ミツさんの指導と宮本丈靖さんの指導というのは、かなり霊友会の小谷のラインに近いものがあったと思われます。宮本ミツさんの説法というのは非常に洒脱で、自分のお兄さんに導かれて霊友会の話を聞きに行くんですけども、宮本ミツさん自身が久保角太郎の法華経を説く姿に感動して入信していく。霊友会の匂いを濃くお持ちの方だったと思います。それから、青年部が七面山に行くと、足早にタッタッタと行くのが霊友会の特徴なんです。この妙智會も非常に早いです。
 さらに、妙智會の特徴は徹底した懺悔と忍善を説いていることです。妙智會は現在変化してきている。信者層が宮本丈靖会長になってから入れ替わってきている。宮本ミツさんを知らない信者というのがかなり増えてきています。亡くなってからもう二十年近くなりますので、そういう時代になってきている。もうひとつ、教団として国際化、世界平和運動に踏み込んでいく。国際的活動というのを広げていくんです。宮本ミツさんが子どもを大事にしなさいと説いていたことから、世界で貧しい子ども達、戦乱に喘ぐ子ども達に何か支援できないかと、ありがとう基金を作って活動をしていく。これが、かなり大きな活動になってきていると思っております。妙智會という名前が、国際的にかなり知られつつあります。どういうわけだか日本の宗教家で、国連の総会で演説をしたのが庭野日敬さんが最初です。軍縮特別総会で、庭野日敬さんは二回演説しています。有名な話が「兵器をとる勇気よりも兵器を捨てる勇気を持て」というようないいお話をしているんです。二〇〇二年に宮本丈靖さんが、国連の子どものための特別総会で演説しているんです。あまり日本の新聞には書かれていませんけれども、日本の宗教にとっては大きな出来事だったんじゃないかなと思っていす。
 最後になりましたが、仏所護念会についてふれて見ようと思いますが、仏所護念会に関する資料があまりないんです。二十年くらい前に出た本で霊友会から立正佼成会、創価学会、妙智會などを扱っている。これが非常に分かりやすく、その教団の成り立ちなどが書かれてるので、いい資料だと思います。大蔵出版という伝統仏教に関する本を中心にしている本屋さんだったのですが、これは新宗教について出された本なので注目したほうがいいだろうと思っているのですが、この中にも仏所護念会は出てこない。色々見たら、こういう本がありました。数少ない資料です。
 仏所護念会教団も昭和二十五年十月に分派独立をして、十一年後に、ご主人の関口嘉一さんが亡くなって、奥さんのトミノさんが会長、そして平成二年にトミノ先生が亡くなって、息子さんの徳高さんに継承されていく。この仏所護念会、他の教団との違いを見ると、身延の講的色彩が強いのじゃないだろうかと思うわけです。これは身延山だけではなく、伊勢神宮にも団体参拝をしてる。伊勢、身延。もう一つ、靖国神社にも肩入れをしている。今、霊友会は色々な内紛があったりして力が削がれていますけども、霊友会と仏所護念会は、英霊にこたえる会という靖国神社国家護持法案を推進し、国家参拝を求めていく集団の会員に名を連ねています。
 更にもっと特徴的なのは、仏所護念会が自民党の支部を教団内に持っていことです。ですから、仏所護念会の会員になると自民党の党員になる、という側面を持っている珍しい教団といえましょう。ところが、問題は自公連立。仏所護念会は党費を凍結して、自公連立を解消しなければ払わない、自民党の候補も応援しない、という姿勢をとった。宗教団体として政党の支部を持ったということも他になく、めずらしいことで、その対応もかなり思い切ったことをしていると思います。かなり政治的な主張を持つ集団と言って良いかもしれません。それに反創価学会の態度もはっきりしている。四月会というのが十年ほど前にできました。あの時は立正佼成会、霊友会、仏所護念会など、七つ、八つの教団しか参画しなかった。反創価学会包囲網を作ろうとした自民党もがっかりしたんだと思いますが、立正佼成会、霊友会は教団としての参加ではなかった。立正佼成会は平和研究所が、霊友会はIIRR(インナートリップイデオローグリサーチセンター)が参与した。仏所護念会は四月会に教団丸ごと入っているのです。そういう所はある意味「政治的に無防備」である、との批評を受けています。
 最後に、数年前、現代宗教研究所でお話させていただいた時にふれた、日蓮宗と新宗教教団、特に法華経系教団とつきあい方をどうしたらいいだろうか、というお話をいただいた時、引き合いに出させていただいたのが、天台宗の在り方でした。その前にここでご紹介したいのが、庭野日敬さんが書いた「私の歴史書」の中の一文です。この本は、立正佼成会の会長だった庭野日敬氏が日本経済新聞に連載し、本になったものです。ちょっと長いですが読ませていただきます。「昭和二十四年、私は身延山にある日蓮宗総本山の久遠寺に、増田日遠師をお訪ねしました。そして、次のような提案をさせてもらったのである。『法華経を宗義としている宗派が手を握り合い、僧俗一体となって、救世利民の大運動を起こそうではありませんか』。当時、身延山の日蓮宗を中心に、日本山妙法寺、法華宗、妙智會、仏所護念会、妙道会、そして立正佼成会も加わって日蓮門下協議会というものが作られていた。私は『身延山のほうから、『本尊統一』『教義の統一』『行法の統一』を打ち出していただきたい』と要望した。これができたら、立正佼成会はその傘下に入ろう、と決意していたのである。われわれ在家の教団が色々な教団に分かれているのではなく、日蓮宗のお寺さんを中心に一つにならなければならない、と考えていたのだった。そのために、まず日蓮門下の統一、それから日本の仏教の団結—それを私は真剣に考えていた。しかし、これは理想に走りすぎた私の勇み足だった。宗教において、統一は言うべくして、それほど困難なものはなかったのである。立正佼成会の身延山参拝が頻繁になったことから身延の町の人たちの入会者が増え、それが誤解されたらしく、私は日蓮宗から一方的に破門されてしまった。だが、それが良かったのだ。もし、この時日蓮宗の門下に入っていれば、宗門という一つの枠の中で小さく固まってしまっていたかも知れない。これが破門のおかげで在家の自由な仏教徒として釈尊のみ心と教えに直参出来たし、その後の宗教協力運動や、世界宗教者平和会議の呼びかけに各宗門を自由に訪れて、話し合うことができたのである」このように書かれている。
 当時の話を聞くと、やはり「新興宗教の親分の庭野さんが何を余計なことを言って」という雰囲気がお山の中にあったようにも伺っています。日蓮宗の年を重ねられたご僧侶の話を聞いていますと、法華経系教団を外護団体と仰るケースがある。外から護る団体という。果たしてそれでいいのだろうか。立正佼成会の場合、日蓮門下というよりも、日蓮聖人は、法華経・お題目を日本に広宣流布した、最初の基底を作った大先輩という感じで、釈尊教団としての色彩というものを自覚しているようなきらいがある。そこで興味あるのが天台宗のありかたです。ここにあるのは今年の天台宗百二十年のスケジュールなんですけど、十数年前には、比叡山開山百二十年の大法要をやった。新宗教教団、法華経系教団も含めて色々声をかけて、比叡山というのは日本仏教の母山ですので、皆さんも仏教教団ですから、この母山で開山のお祝いをしていただきたいので、根本中堂で各教団それぞれの法要をして下さい、という形をとってます。このような形で新宗教教団と有機的な結び付きを持っていくことをやっています。この一覧表を見ただけでも、かなりの教団が参与している。この念法眞教は法華経系教団ではございません。大乗教が出ています。これは法華経系ですが、霊友会系ではなく、名古屋に本部のある教団です。
 本部が名古屋にありますが、明治時代から法華行者の杉山辰子という教祖が開いた法華経系教団ですが、大きな集団になっています。更に、この大乗教から分かれた教団がいくつかございます。岐阜県に真生会。愛知県知立市の法公会。これ等の教団では日蓮宗のお寺であげるお経の順序と全く変わらない。音読をしています。ただ、法華経の経典の解釈をかなり熱心にやっていて、在家の皆さんに分かりやすく三大秘法の教えも説いてます。私も、創価学会の三大秘法の間違いをとくとくと教えていただいて、何だそうだったのかと感じましたので、かなり注目していいだろうと思っています。
 比叡山での法要ですが、孝道教団も霊友会から分かれたといってよい教団です。妙智會、それから日蓮宗。久遠寺午後に、十九日に法要されていますが霊友会、真生会。立正佼成会、という形とでています。ユニークなのは三十日、松緑神道大和山という教団が法要をやることになっているんです。法要といっても神道の教団ですのでお経はあげません。では、何をここでやるのかといいますと、この松緑神道大和山の教主田澤康三郎さんという方が、世界宗教者平和会議にも熱心に参与しておりまして、天台宗の山田猊下とかなり親交を持っていらした。延暦寺の不滅の法灯の灯油を毎年送ってらっしゃる。その縁で、大和山のお祈りをここでなさる。非常にユニークなところですが、天台側もかつては神仏混交だったとかまえているようです。
 お約束の時間を十五分ほど超過してしまっております。まとまりのつかないお話で大変恐縮でございますけども、この辺で終わらせていただくことにいたします。ありがとうございました。
 

 

PDF版をダウンロードする