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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

出家仏教と女性—曹洞宗の事例を中心として

 

出家仏教と女性—曹洞宗の事例を中心として
 
(名古屋工業大学助教授) 川 橋 範 子  
 
 本日はお招きどうもありがとうございます。名古屋工業大学で宗教学を教えております、川橋と申します。曹洞宗の寺族、こちらで言う寺庭婦人をやっております。夫が住職を勤めております、豊田市の霊岩寺という寺に暮らして、寺族をやりながら、大学で宗教学を教えて、いわゆる二足のわらじを履いているわけです。日々工業大学で宗教学を教えておりますと、やはり今の日本の学生が、宗教ボケしてしまっているというか、宗教に対する感性がないんだなと吃驚もさせられるんですが、その反面、全然宗教に関係ない理系の若者の中に、すごく純粋なものというか、何か見るべきものを感じることもありまして、私としては思わず、自分の周りに居る、曹洞宗の若き僧侶達と、自分の学生を比べてしまうわけですね。そうするとですね、これはまあ曹洞宗だけに限ったこととは実は思わないんですけれども、最近の若い僧侶、特に寺院の子弟として生まれた僧侶達に、やはり問題があるんじゃないのかなということがますますはっきり見えてきまして、何故この人達は僧侶をやっているんだろうという、素朴な疑問が湧き上がってくるわけです。今日はそんなところからお話をさせていただきたいと思います。タイトルは、出家仏教と女性で、曹洞宗の事例を中心にということです。私の前に、まず日蓮宗の女性僧侶として小澤さんが、その後に、真宗大谷派の坊守でまた女性僧侶でもある尾畑潤子さんが、こちらでお話をされた。だいたい現代仏教界の中にある、仏教と女性の問題、或いは仏教とジェンダーの問題、それから様々な取り組みということに関しては、お二人のお話の中でも既に出てきたのでお分かりかと思います。実際私も、小澤さん、尾畑さんのお二方と一緒に、10年近く女性と仏教のネットワークを続けています。ですから、宗派は曹洞宗、日蓮宗、真宗とそれぞれ違いますけれども、みな同じゴールに向かって、それぞれの立場から、いろんな提言、活動をしているということ、それはわざわざ今回繰り返すこともないであろうと思います。ですから今日は、今現在のネットワークの活動とかそういうことではなくて、いわゆる真宗によって代表される在家仏教に対して、それ以外の伝統仏教教団は、一応建前上は在家仏教ではない、出家仏教なんですが、しかしそのことがいったい、何の意味を持っているんだろうか、そんなことを、少しでも、皆様と一緒に考える機会になれば、と思っております。
 さてそれで、先ほどちょっと申し上げました、私が日々接している、うちの大学の学生と、それから宗門の若き僧侶との対比なんですけれども、ハンドアウトの一番最後、十枚目を見ていただけますでしょうか。これは、皆様ご存知の、Ayusの会報に、専門委員の立場から書いたものです。(『Ayus』67号)私が書いてみましたのは、結局仏教界で私達は、やたらに人と人の間に区別、をつけたがるということです。例えば男僧と尼僧、それから出家と在家、ですね、それから僧侶と寺族、その他、富める寺と貧しい寺とか、一種のカーストのようなものを作り出していることを批判しています。特にですね、一部の男性僧侶達を見ていると、これ男性僧侶だけじゃなくて富める寺の寺族も同じですが、自分を他の人々から差別化して、特権視することにプライドを持っているように見えてしょうがないということを書きました。私が仰天したのは、たぶんご覧になった方もいると思うんですけど、今年の中外日報の一月一日、お正月号に載った座談会なんですね。これに、三人の僧侶が出席していたわけです。一人は、皆様方日蓮宗の若手の僧侶の方でしたね。後は真宗とそれから真言宗、三人の方の座談会だと思います。その中で、特に若手の僧侶が、寺の跡継ぎである自分は選ばれて寺に生まれたのであると、はっきり座談会で述べていました。したがって能力は二の次であってもよいと思います、と。別のもうちょっと年配の僧侶も、寺に生まれるのは特別なことである、仏縁だ、誰でもそんな縁を得られるわけではない、と一種の選民思想的コメントを披露していました。これに対して、私の友人で駒沢大学の熊本英人さんという助教授は、ここまで出家の意味をねじまげるとは、このままでは済まさんぞと憤っていたわけですが、私も同感です。公の場で、自分は選ばれて寺に生まれたという考えを堂々と披露してしまって、別にそれに対しておかしいと思わなくなっている、その感性の問題です。曹洞宗にもそういう人はたくさんいます。私の夫の周りにも、この人絶対に勘違いしてるんじゃないかなと見えて仕方ない、いわゆる根拠のない自信の上に胡坐をかいている若い僧侶が、残念ながら居るということです。勿論そういう人が全員だとは思いませんけれども、そういうことがある。むしろですね、寺に生まれたという根拠のない自信にすがるのではなくて、では発心して、出家するということはどういう意味なのかということを、まず考えるべきじゃないかと思うんです。特に、自分達は、在家仏教である真宗とは違うと思っているのならば、です。これは真宗の女性からもよく出てくる話なんですが、やはり頭を剃っている僧侶の方が真宗を見下しているという風に、彼女達は言うわけですね。実際に日々の暮らしを見てみますと、真宗も、それ以外の伝統仏教教団も、寺の中の構造というのは殆ど変わらないわけです。その中で、自らが出家仏教だということはいったい、どの程度の重みがあるのだろうかということを考えて、私は寺に住むようになって約十五年なんですが、不思議な違和感を感じて、寺で暮らしてきたというわけです。具体的な事例ですけども、例えば私達がやっております女性と仏教のネットワークに持ち込まれる相談の一つに、臨済宗のように、大変厳しく出家仏教の建前を言う宗派の寺族、若いお嫁さんから、「うちの夫は自分のことを出家だと言っています、でも私と結婚しています、これはいったいどういうことなんでしょう」、というような質問が大真面目に寄せられたりするわけです。或いは、もっと酷い例になりますと、結婚したのに、夫は出家だから自分とは一緒に住めないと言って、自分は別の所に住まわされています、とかですね、そんな話が今でもあるということです。ハンドアウトの二枚目で、私が今言ったような疑問を、大変真剣な形で、書いてくださったのが、三土修平先生です。三土先生は最近靖国問題に関して本を出された方です。三土先生は仏教学者じゃなくて個人的関心から仏教のことを勉強されているのですが、「出家の出身などあるのか」、という問いをここに投げかけています。読みますけども、「お坊さんとの会話の中で仲間のお坊さんへの言及がなされる際、『あの方は在家の出身です』という表現を聞かされることがある。『在家の出身』という言葉があるなら、対概念としての『出家の出身』もあるはずだが、これは全くの形容矛盾だ」。で、本来出家者は、全員が「在家の出身であるはずだ」、ということを書いていらっしゃるわけですね。上から三段目の所にいきまして、「当初私は、『在家の出身』、というのは、そのような本来の出家のあり方を体現している少数の仲間に対する、敬意をこめた言葉かと思っていた。ところが、大概のお坊さんは逆で、『寺院に生まれ育った自分らこそこの業界の主流で、あの人は傍流』という意識で、見下し加減に『在家の出身』と言っているのだと知って、驚いた。出家が家業でありうるはずはなく、その業界なども存在しうるはずがない」と。「僧侶が家庭を持っている現状を踏まえる限り、結果的に親と同じ道を選んで僧侶になるケースが多くなるのはやむをえないが、その場合でも子弟は子弟で、新たに発心して家を出る過程があってこそ、出家と言いうる。その意味で、自らを出家者と呼ぶ以上、寺に生まれようと他の家に生まれようと、等しく『在家の出身』であるとの自覚に立ってい
ただきたい」、という、三土先生からの厳しい仏教界への提言がここにあるわけです。(『仏教タイムス』二〇〇四年五月二十九日号)最近、驕れる若い僧侶のスキャンダルが書き立てられるわけです。特に曹洞宗で、最近恥ずかしかったのは、私が住む愛知県で、僧侶が友達と一緒に、女性をレイプしたという事件があったわけです。ところが、この僧侶は曹洞宗青年会の役員をやっていたんですね。しかしながら、その曹洞宗青年会は、このことについて公に触れようとしませんでした。謝罪文ぐらい出ると思ったんですけれども。そういう若い僧侶を育ててしまったのには、やはりある意味で寺族の責任もあると思うんですね。何故そんな僧侶に自分の息子を育ててしまうのだろうということについて触れたのが、三枚目のハンドアウト、新聞記事のコピーです。これは、ちょうど一年前に曹洞宗の総和会という宗議会議員などの僧侶達の団体の大会で寺族問題について話す機会を得ましたが、その時の講演を中外日報が要約してくれたものです。私はこういう風に述べました。「現在の僧侶子弟、後継者は自分の職業を選び取って
いるように見えない。具体的なビジョンを描けないまま僧侶になっている人が多過ぎるように見える。そのことと寺族が置かれている弱い立場とが関わっているように思えてならない。」(『中外日報』二〇〇四年十二月四日号)僧侶と妻のパートナーシップ、或いは子供を含む寺族の問題が建前としての出家主義とどう関わっているのか、ということを私は問題にしたわけです。これは後で、曹洞宗の宗憲についてお話する時に、ちょっとお話しますけども、結局真宗以外はどこの教団もはっきりと僧侶が結婚して社会生活を営んでよろしいと、つまり寺族或いは寺庭婦人というのは男性僧侶の配偶者であるという風に、堂々とは言えないわけです。戒律の問題がありますから。で、そのために、例えば浄土宗でも曹洞宗でも他の宗派でも、格の高いと言われているお寺には、今でも独身でなければ入れない。なかには、その格の高いお寺の住職になるために、ペーパー離婚にしろ、離婚をして、一応見かけ上は清僧の振りをする僧侶も出てくるわけです。寺族は寺の中に居ながら、本当は自分はここに居てはいけない人間なのではないか、或いは、自分は居ないかのように振舞うことを期待されてる人間なのではないかと思ってしまう。つまり大変弱い立場に置かれていて、自分は寺の中で何をしたらいいのか存在意義を確認できない。やはり自分の弱い立場を守るために、息子に対して過剰な投資というか、過剰な期待を寄せてしまう。息子に対してはもう何も言えないようになってしまう。そのことと、どうも関わっているように見えるわけです。
 私が、日蓮宗の方の取り組みを見て、面白いなと思ったのが、二枚目のハンドアウトです。この新聞記事ですが、今日この時の日蓮宗の寺族の代表者会議に出席なさった方も、いらっしゃるかも知れないですけれども、「石頭なのは僧侶」、とあります。寺庭婦人が活発討論と、でています。分科会のひとつで、寺の陰の力である寺庭婦人に対して思いやりがない、石頭なのは上人方なのではないか、との不満が噴出、という風に書いてありまして、寺庭婦人が声を上げて宗門を変えていかなければ、との熱烈なアピールも行われたという風に書いてあります。(『仏教タイムス』二〇〇四年九月九日号)今まではお寺の中のこういう女性達の運動というと、とにかく真宗、お西とお東両派が際立っていたが、そこに遅ればせながら曹洞宗や日蓮宗などの宗派の女性達が、内部から続々と声を上げていることが表れている、という風に思いました。最近曹洞宗の宗議会の議事録を読んでますと、毎回、宗議会で、殆ど常連のような議員の方々が三人ぐらいずつ、寺族問題についてかなり突っ込んだ質問をするようになってきています。やはり、寺族というものを活用していかなければ、もう宗門は成り立たないであろうということに議員の方々もやっと気が付いた、ということではないかと思います。或いは自分の身の回りに、余りにも寺族に関する理不尽な話が多くて、いろんな相談が持ち込まれるのでこれはどうにかしなければいけないんじゃないかということでしょう。中外日報や仏教タイムスを見ていますと、いろんな宗派の宗議会の質問の要約の所に、女性僧侶のことや寺族規程を見直そうとか、寺族の保護を考えようとか、そういう質問が出てきていますので、これは仏教界に共通している動きだなと多少は喜ばしいと思っているわけです。曹洞宗の話にもどりますと、平成六年に『宗報』で寺族百年の歴史という特集を曹洞宗が取り上げました。ちょうどこの時期曹洞宗の宗議会では、寺族を宗憲の中でどう位置づけるかということが、一つの大きな争点になっていたんですね。つまり、建前では出家仏教ですから、厳密には寺族はいてはいけないわけなので、それまでの宗憲では僧侶の定義の項目はありましたが、その次は急に飛んで檀信徒の定義だったんですね。寺族という項目が無くて抜けていたんです。これを入れなきゃいけませんよということで、どうやって位置づけるのか寺族問題に対する議論や関心が高まっていたわけです。その時にたまたま私や、女性僧侶の方にお声がかかって、それ以来、宗門の仕事にかかわるようになったんです。曹洞宗の宗憲が改訂されたというのは数十年ぶりの出来事だったんですが、どういう風になったのか、というのが一枚目のハンドアウトです。これ曹洞宗宗憲の抜粋です。これは実は、後でお話しする寺族手帳からコピーしてきたのですが、寺族の定義は第八章ですね。第八章の第三十二条に、こういう風にあります。「本宗の宗旨を信奉し、寺院に在住する僧侶以外の者を寺族という」という定義です。これは誰が見ても、不思議な定義ですね。本宗の宗旨を信奉し、寺院に住んでる人で、僧侶ではない人が寺族です。どこにもこれが、配偶者だとは書いてないわけです。殆どの場合女性だということも書いてないわけです。或いは娘だということも書いてないわけですね。或いは僧侶の母だということも。これを載せるか載せないかということでいろいろもめたそうです。例えばこれへの一つの疑問というのは、大地震があってお寺にいろんな人が避難してきたとします。その避難してきた人の中に、熱心な曹洞宗の信者の人がいれば、僧侶ではありませんのでその人は寺族になるわけです。この定義によると。その寺に暮らして居て、住職の世話をし、次の住職候補者を生んで育てて、
いろんな檀家との折衝を任されて、日々、本堂の花が枯れていないか、次の法事におまんじゅうは幾ついるか、いつ本堂に掃除機をかければいいのか、或いは住職のスケジュールを全部管理して、今日は十一時からここの法事で次は別の所で、その間に納骨があって、それに応じていろんなものを用意したり、そういうことをケアしている人はいったい誰なんでしょうか、という話になるわけです。ですからこれは、私が虚偽の出家主義、嘘の出家主義とよんでいるものが生み出した寺族の定義規程だと思うんです。前に月刊住職だかに各宗派の寺族規程の比較がでていたんですけども、殆ど全ての出家教団が、寺族が僧侶の配偶者だということは明記していません。もう一つ、殆ど全ての教団に共通するのが、曹洞宗の寺族規程の中の第一章の二条ですけども、「寺族は住職を補佐し、寺門の興隆、住職の後継者の育成及び檀信徒の教化につとめなければならない」という義務の条項です。ほとんどの宗派に共通してるのは「補佐」って書いてあるところです。例外的にどこかの宗派で、住職と共に、って書いてある所があったんです。私は、この補佐し、っていうのがやっぱり僧侶側のホンネだと思うんです。共に、ではいけないんですよ、宗門の側から見れば。住職の後継者の育成及び檀信徒の教化、ですが、これが、様々な宗派の寺庭婦人或いは寺族に対して行われたアンケートを見ますと、自分が檀信徒の教化に携わっている、という自覚を持っている人というのは、実際に少ないです。お寺で大きな婦人会をもっていて婦人会の長として寺族が頑張っているとか、真宗の場合は坊守でいながら僧籍持っている人も多いので、住職が留守の時にはお通夜ぐらいには行くとか、なんとなく自分も教化にたずさわっていると思える人が結構いますけども、それ以外の宗派では、本当に少ないです。曹洞宗で言えばご詠歌をやっていて、檀家の女性達を組織している場合はなんとなく教化してる、と思えるかもしれませんけども、それはごく一部の恵まれた人達です。寺族、或いは寺庭婦人が、仏法や宗教について、檀家の人に向かって説明する機会というのはほとんど与えられていない、ということが言えると思います。こういう風に言うと必ず出てくる反論というのが、いやいやお掃除も大事な教化です、というものです。それじゃ何故住職の方々は掃除しないのかという疑問もまた必ず出てくるわけですね。これは各宗派に何故か共通している特徴です。
 曹洞宗の、寺族手帳って何なのか、ということがハンドアウトの四枚目にかいてあります。これは、薄い小さい手帳です。仏教タイムスの記事には、「寺族手帳配布、曹洞宗初の試み」とあります。やっと去年、この寺族手帳が配られました。手帳には宗憲のまとめが入っていたり、寺族規程、寺族相談窓口の電話番号、寺族通信教育の流れといった寺族に関する情報が掲載されてます。仏教タイムスの記事には、先の六月の議会で有田総長は、今年四月から、寺族相談窓口の準備室が開設されたことを報告し、「寺族に対する待遇改善の気運が盛り上がってきた」、「宗門機構の構成員であることの自覚」を願うもの、とあります。最後にこの記者の人が、やや皮肉って、「相談窓口と手帳配布によって寺族の待遇改善となるか、寺族の反応が気になるところ」と書いてありますね。(『仏教タイムス』二〇〇四年八月二十六日号)一万六千人の寺族得度者とありますが、これは得度と言っても僧侶の得度とは違うんです。寺族得度という制度は誰もが受けられるのかというと、第三条に寺族は、両大本山、これは総持寺と永平寺です、どちらの貫主でもいいんですけども、に就いて得度を受けることができる、とあります。禅師様によって寺族得度を受けて、絡子をいただくわけです。これ以上は煩雑になるので、余り説明したくないんですけど、合宿のスクーリングをふくむ、寺族通信教育という制度が曹洞宗にはあります。これは他の宗門でも、どちらかというと珍しいみたいですね。一年を三学期に区切って、テキストを自習してレポートを書いて宗務庁に送ります。寺族の通信教育の
添削委員の先生達が(一回だけ、女性が委員になったこともあるそうです。今はどうだかわかりません)レポートを添削して送り返してくるわけですね。レポートを、それぞれ、宗意、行持、教化と経営の三つの分野に対して出すわけですけど、わたしも詳しい内容は忘れました。これを卒業しますと、めでたく准教師、という資格がもらえるんですね。寺族規程に書いてありますね。この准教師というのが曲者でして、法務はできないんです。この准教師を持っているからといって、或いは、寺族得度を受けて絡子を持っているからといって、法務が出来るということにはならないんです。ただ、必要に迫られてやっている方はごくまれですが、いらっしゃいます。で、その寺族得度して准教師取ったからといって、通信教育終わっても法務はできないんですが、何ができるかというと、寺族代表、それから特定代務者というものに必要に応じて申請すればなることができるんです。これがある意味で、他の宗派からは、曹洞宗の寺族の立場が、一見整備されているかのように見える印象を与えています。寺族代表というのは何なのかというとですね、さっき申し上げたように、寺族得度を受け、寺族の通信教育課程を修了し(この通信教育は十八歳以上じゃないと受けられないというのがあるんですけど)准教師に補任された者のうち一人は、(つまりお寺の中に二人准教師がいることがあるわけですが)住職の申請により当該寺院の「寺族代表」となることができるという規程があるんです。寺族代表になると何ができるのかというと、各々の宗教法人の責任役員になることができるわけです。権限、資格を持って。そうすれば、不幸にして住職が突然亡くなっても、ある程度まで身分が保障されるんです。それがさっき言った特定代務者というものなんです。本庁に申請を出して特定代務者となると、一定の期間は、お寺を追い出されるという憂き目には遭わなくても済むということなんですね。但し、先ほども申しましたように、こういう宗制の細かな決まりを、どれぐらいの寺族が知っているかというと、全然知らない人も今でも多いわけです。たとえば九州のように気運が盛り上がっている所では皆さん自分の身を守るために自分で勉強しますけども、全然知らなくて、夫が突然亡くなり、気が付いてみたら、寺族得度もしていません、通信教育も知りませんでした、ましてや責任役員にはなっていませんということで、いわゆる乗っ取りで、お寺を追い出されてしまう、そういう人もいるわけです。その手の相談は、私達のネットワークにも来るわけです。その時に、どうしてそんなに無防備でいたんですか、とやはり言いたくないけど言ってしまうわけですね。どうして貴女ほどの人が、そんなこと知らないでお寺で何十年も暮らしていられたんだと。そうすると、まさかこんなことになるとは思わなかった、という風に、仰るわけです。この寺族代表という制度が、制度としては非常にはっきりと、筋が通るようになっている、ということもあって、実は二、三年前ですけども、私と瀬野美佐さんという宗務庁に勤めている方が、築地本願寺に呼ばれまして、お西の寺族、女性僧侶、教団の男性僧侶の方々の前で、曹洞宗の宗制について説明して欲しいという依頼を受けて説明したところ、いい制度なのでできればお西のほうでも寺族代表制度を整備していきたいと、何人かの委員の方が仰っていました。で、先ほどちょっと出てきました、寺族の相談窓口ですが、これはハンドアウトにあるように、「寺族の相談窓口、受付電話番号、受付日時、宗務庁の執務日、宗務庁が開いている九時半から四時半」、つまり、女性室という看板がある部屋ができたのではなくて、このホットラインが開設されたわけです。相談の電話がかかってきたらそれを受け付けるというようなことなんですけども、どれくらい深刻な相談が来たかというのは、私も最新情報は手にしておりません。ただそれほど活発に電話がかかってくるようではないようです、今のところ。しかし、これができたということは、ないよりはいいとは思います。ただこれが、将来的にホットラインのままで終わるのではなくて、もうちょっと大きいものに発展していってもらいたいと、私達は皆願っているわけです。このホットラインが開設できたのも、心ある宗会議員の方が骨を折ってくださったからです。今の曹洞宗の現状というのはそういうことになっています。
 で、次に時間もなくなってきたんですけども、残りのハンドアウトの、七、八、九を見ていただきたいんですが、これは仏教タイムス社が平成十六年に出しました『現代戒想』という本の中の私のエッセイです。日蓮宗の僧侶の方も書いてらっしゃいますね。私は「現代の戒律と寺族の居場所」ということで、今お話してきたようなことをもうちょっと学問的なトーンでまとめたわけです。七枚目のハンドアウトです。「仏教学者の末木氏は、日本の近代仏教が世俗化を最初から課題として背負い込んでいることを踏まえた上で、世俗化した宗教としてのあり方を問うべきではないかと示唆している」、と書きました。この意味で、現代日本の仏教寺院の殆どが寺院の中に坊守或いは寺庭婦人と呼ばれる寺族女性を抱え込んで発展してきたことは誰の目にも明らかである、と。しかし、僧侶が戒律の問題を論じる時に、寺族のこと、自分の身近にいる女性のことを考えてきたんだろうか、という風に私は提言したわけです。で、その隣の百四十九頁には、真宗以外の宗派が僧侶の妻帯を公認せず黙認のみしていた太政官布告以前の状況は、一三〇年を経た今日、変わったと言い切れるのだろうか、と書きました。で、日蓮宗も、浄土宗、曹洞宗もそうですが、日本の殆ど全ての仏教教団が今や男性僧侶の婚姻を習慣化し、真宗と同様に在家化していることは周知の事実である、と。出家者たる僧侶の妻帯が戒律違反ではなく、僧侶の宗教的アイデンティティと教義上も矛盾しないと明言できる宗派が存在するとは思えない(真宗以外ですね)。仏教諸宗派はこの現実に真剣に向き合うことを避け、表面上は出家主義を標榜しているため、僧侶の配偶者である寺族女性たちは教義上も教団の制度上も本来存在するはずのない集団として、曖昧な位置づけにとどまっている。これがわたしのいう虚偽の出家主義です。更に読みますが、どの仏教教団においても寺族女性たちは、寺院の事実上の運営のための役割分担を課されている。しかし表向きの戒律尊守は現実の寺院生活を裏切ってきた。つまり、虚偽の出家主義というものが、お寺の女性たちを周辺に追いやってきた、それによって男性僧侶が破戒の行為をやっているということをうまく隠蔽してきたんだ、というようなことを書いたんですね。このように、現代の仏教教団の殆どが、僧侶の結婚の意味を深く問うことなく反対に、配偶者の女性たちに曖昧なアイデンティティーと存在理由を押し付けているのである。このことを私はさっき申し上げたわけです。それによって、問題のある徒弟が育っていくのではないかということを。その次の一五一頁に行きまして、しかし存在理由とアイデンティティーを曖昧にされているのは実は寺族だけでなく僧侶も同様なのである、と。
現代において出家主義の建前を教団が標榜することは、僧侶が自己に対して描くアイデンティティーをも混乱させ、自分自身が何者であるのか、突き詰めて考える機会を奪ってしまうことになる。この意味で、僧侶も寺族もともに自分が誰なのかを問われる状況にありながら、その問いに向き合う道を回避してしまっていると言えよう。で、その次なんですが、実は一番言いたいのは、現代の日本仏教界が抱える問題は、僧侶たちが仏教の伝統的なオーソドキシー、正統性ですね、に依拠して、宗教者としての自己の在り方を権威づけたり正当化したりできなくなっていることである、というところです。結婚して車を所有し酒も飲んでいる自己を、それでもなお在家の人々とは違う存在として差別化しなくてはいけない姿が現実なのである。これが今日私が一番最初に言った、自分は選ばれて、寺に生まれてきた、だから能力は関係ないんだ、という根拠のない自信に繋がるわけです。このジレンマにあって出家得度し一定の修行を積んでいるから我々僧侶の集団は在家から峻別されるのだ、と開き直ることも可能であろうが、この論理が世間の目から見てどのように評価されるのかについては、自己内省的な視点が欠落してしまっているのではないか、と書きました。先ほど私が申し上げた駒澤大学の熊本英人さんという、在家から発心して宗門に入った人もこう言っています。つまり、現代の寺院が抱える矛盾とは、家族でありながら家族でない、寺族は家族のはずなんだけど居てはいけない人とされているから、夫婦でありながら対等でないし、宗教的役割分担を持たせながら宗教的意味づけがない、寺院の補佐をやっていながら何の宗教的裏づけ、根拠もない存在なんだと。そして、このような現実に対し何の疑問も持たない僧侶の姿勢に大きな疑問がわく、と述べているわけです。これは曹洞宗の『教化研修』第四十八号に出ています。一五三頁左のほうにいきまして、現行の曹洞宗の宗憲中の寺族の項の定義には、現実の寺族がほとんどの場合僧侶の配偶者であることへの言及が全く見られない。近年このこの定義を見直す声も教団内に聞こえるようである。宗議会議員達が定義を見直したほうがいいんじゃないか、ということをたまに言うわけですね、議会で。しかし、この議論が、寺族の存在の前提となるのは戒律に反する僧侶の婚姻であるという認識なしに、宗義の建前を温存する文言の帳尻あわせに終わってしまえば、意味がないんじゃないかということを私はここで強調しました。一五四頁に書いたことというのは、私は特に真宗教団に対して色々ものが言える立場にないので、今日は特に取り上げないんですけども、在家仏教である真宗には全て問題がなくて素晴らしいということではない、ということをここで書いたわけです。つまり、在家仏教である真宗にはまた別の問題があると。真宗に性差別がないなんてことは言えない、ということは前回の尾畑さんのお話からもお分かりと思います。むしろ真宗の問題というのは、僧侶の妻が自動的に、坊守制度に組み込まれてしまうことによって、却って動きが取れないことである、と。坊守と住職の性別の役割分担が強固になりすぎてしまって、例えばですが坊守以外の人生というのが殆ど選べない、その中にどんどん取り込まれていってしまうということを書いたわけです。その中で、坊守が、例えば不満を感じている場合ですね、どんなことを言われるかというと、こんな素晴らしい教団にいるのになぜ不満なのか、他の宗派の奥さんたちと比べてみなさいと。これは真宗の男性のお坊さんがよく言うらしいんですね。他のお寺の奥さんたちに比べて、貴女たち真宗の坊守は、ちゃんとした妻と認められているんだから、それに対して不平を言うのは貴女たちに信心がないからですよ、というような話になるわけですね。ですから、真宗に問題がないとは私は言っていないわけですね。資料の五と六です。六のほうからご覧いただけますか。六は大きなニュースになりましたね、ご存知だと思いますが、初の女性宗議二人が誕生、つまり大谷派で、女性の宗議会議員が二人初めて当選しました。一人は与党、もう一人は無所属の方です。この埼玉から立候補された旦保立子さんという方は、ひと月くらい前にお会いして私もインタビューしてまいりましたけども、議会というのは何と不思議な所かと仰ってました。まあ女性が二人入ったから、これで終わり、もういいということではいけないだろう。この後、どんどん女性の宗議会議員が出てくる、そういう教団にしていかなくてはいけないということ、それからもう一つはですね、今度は女性達が、この宗議会に出た女性達
をサポートできるような、そういうシステムをどんどん作っていかなくてはいけないんじゃないかということ、が課題として投げかけられているわけですね。これは曹洞宗も、実は昭和二十六年には、尼僧さんの宗議会議員、小島さんという方がいらっしゃいました。しかしその後は、全然そういう方は出ていないということです。もう一つの大きな真宗のニュースは、資料の五、こちらは男性坊守が誕生したというニュースでした。男性坊守というのは何なのかと言うと、女性僧侶、つまり教師資格を持った女性の僧侶の配偶者ですね。男性が、坊守式を今度受けると書いてあります。出家仏教の場合は、尼僧さんは独身の方が多いですから、女性僧侶の配偶者という問題がある意味で見えなくなってしまっているんですが、といっても全員が独身ではありません。私も曹洞宗の女性僧侶の方で、剃髪していて夫も僧侶だという方は実際に何人か会ったことがありますし、年配の方達でそういう方もいるんですけども、あまり表面には出てこないわけですね。しかし、この一見素晴らしいように見えるニュースがそんなに素晴らしいのか。実は、ジェンダーロール役割分担の変換になるのかというと、どうもそうではないのではないか、という風に思います。くわしくはお西の女性たちの判断に譲りますが、つまりこのことが女性僧侶の地位向上に必ずしも直結しないと思うんです。だからこれで終わりじゃないということなんですね、両方のケースとも。女性の宗議会議員が出ました、男性の坊守が出ました、だからもうこれで真宗のジェンダー問題は解決しました、ということではないであろう、ということなんです。真宗の女性たちがすでに気がついているように。
 最後に、申し上げたいのが、いわゆるバックラッシュ(逆風)のことですね。男女共同参画、ジェンダー平等の流れに対して、世間でもご存知のように逆風が吹き起こっているわけですが、宗教界というのは何でも遅れてきますので、少し遅れて逆風が吹いてきたわけです。今のところ、一番はっきり逆風が吹いているのは、ある意味で一番男女共同参画が進んだ真宗じゃないかと思うんです。一番進んだ形になっていった所、今度はその揺り戻し、バックラッシュがおきていると。で、ハンドアウトの記事ですが、大谷派関連のコラムで、最近まで教務所長を務めていたある男性僧侶の方が、坊守問題について考える冊子を、坊守会の後押しで出したということですね。この記事は好意的な書き方をしてありますけども、男女共同参画で寺院にかかわることで信心が明らかになるのだろうかと疑問を投げかける、という内容です。「住職も坊守も、役職の内容は異なっていても、願いは本来同じなのである」、「寺院に住む者の自覚や本質といったものに厳しい視線を注いでいる」と、書いてあります。(『中外日報』二〇〇五年八月三十日号)つまり、坊守は坊守でいい、住職は住職でいい。坊守は女、住職は男、それでいいっていう論旨です。前回、尾畑さんの真宗の女性問題のお話でも批判されていた、寺の中の性別役割分業を肯定すれば信心が明らかになると、それがお念仏だということが言われているわけです。つまりお念仏をしていれば、ジェンダー不平等などの不満は出てこないはずである、ということですよね。このような見方に対して、私たちのネットワークでも真宗のメンバーを中心に、信心が差別の隠蔽に使われてしまっていることへの疑問の声がでています。差別はお念仏をしていればなくなるという見方が、尾畑さんが批判していた、信仰と社会問題をきりはなす考え方なのではないか、と思えるわけです。これはまた世間でのバックラッシュにもつながります。しかし仏教の教えに立ち戻ってみれば、男女の性別に応じてあたかも、人間には本質的な役割があるかのように決め付けて、その職分だけをやっていればいいというような考え方は、元々の教えにはなかったはずだと思うんですが、こういうことが言われてしまう。それから更に私達仏教界の人間が考えなきゃいけないのは、今現在、神道界が右傾化していますが、男女共同参画のようなものは絶対に認めない、という動きが出ています。ですから神道の政治的リーダーのフォーラムなどでは、夫婦別姓はいかんとか、そういう声がありますよね。でも私は、それは別に宗教界で言うことじゃないと思うんですよ、夫婦別姓反対とか。だから、まだそういうことを言い出していない仏教界は救いがあると思います。どうやれば、この仏教界というものが活性化できるのか、構成員にとって(勿論それは僧侶と寺族だけではなくて、その教団を構成している檀信徒等も入れてですけども)生きるのに優しい、息をしやすい、風通しがいい集団になっていくのかということを、男女両方で、特に僧侶の方には、身近にいる女性と向き合って、考えていただきたいな、という風に思い、発言を続けているわけです。
 

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