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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

宗制からみた戦前戦後の日蓮宗—明治から昭和にいたる日蓮宗の成り立ちについて—

 

宗制からみた戦前戦後の日蓮宗
   —明治から昭和にいたる日蓮宗の成り立ちについて—
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 影 山 教 俊  
 これから私が論じようとすることは、大きな意味では日本文化が断絶させられた背景であり、またそれは宗教法人日蓮宗という宗教団体が、その宗教的な権威を支える歴史と伝統を放棄する過程でもある。しかし、その変化の過程がおよそ一四〇年という長い時間にわたって進行したため、現代に生きる私たちの目には、日蓮宗という宗教団体が宗教的な権威を支える歴史と伝統を失っているように見えないのである。
 まことに大づかみではあるが、これからその事実を明らかにしよう。
1 明治期から昭和初期の日蓮宗について
 さて、現在の私たちは、日蓮宗という宗名を名乗っているが、この日蓮宗と名乗る以前の江戸時代までは、日蓮門下の各門流を総称して「日蓮法華宗」といい、天台法華宗と峻別してたのである。
 では、それがなぜ急ぎ日蓮宗と名乗らざるをえなかったのかといえば、明治新政府による宗教弾圧が行われていたからである。ご存じのように、明治維新とは将軍徳川慶喜の大政奉還(慶応三年十月、一八六七年)から明治天皇の王政復古宣言(同年一二月)、江戸幕府の倒壊(慶応四年)を経て、明治新政府の成立にいたる一連の過程である。
 そして、この明治維新の目的はといえば、江戸幕府が築いた幕藩体制の打倒であった。その幕藩体制は、各藩の経済基盤である領地によって維持され、民衆は現代の戸籍法にあたる寺請制度によって管理されていた。そのため、明治新政府は、慶応四年三月十三日(一八六八年)に祭政一致・神祇官再興(天皇・宗教による国家政治)を布告し、同二十八日に神仏分離令(神仏習合を廃止)を発布し、幕藩体制の要であった仏教を排撃した。
 とくに明治四年一月五日(一八七一年)には社寺領上地令が発布され、寺院はその経済的な基盤が奪われるという危機に直面し、つづいて同年四月四日の戸籍法の制定、宗門人別帳、寺請制度が廃止され、今様にいえば急きょ官営から民営化されたため、仏教界は大混乱のさなかであった。
 そこで明治政府は、混乱した仏教界を統制するために一宗一管長制を提示し、日蓮門下はその要請に応える形で、新政府の高官におぼえのよい新居日薩師が管長となり、日蓮法華宗の二字をとって宗名とし、日蓮宗と名乗ったのである。そして、事実上この日蓮門下を日蓮宗として統括しながら、身延山久遠寺、池上本門寺、京都妙顕寺、京都本圀寺、中山法華経寺の間で、世にいう「五山盟約」(明治五年九月、一八七二年)がなされて、五山をもって大本山に定め、この五山の中から管長を選出し、管長は五山の総代として東京に在位し公平に宗務を総括することなど、また五山の住職を決めるときには、法類の中で人選公挙すること、五山会合のときは身延を席首とすることなどが盟約された。これによって、互いに分立する五山始め四十四箇本山の状況を身延中心の共同体制(日蓮宗)へと転換したのである。
 さて、当初このような宗門内の制度は、明治十七年八月二日(一八八四年)の太政官布達(現行の宗教法人)によって公的に認証され、それは現在の宗制に準ずる『宗制・寺法』と呼ばれるものであった。その後『日蓮宗宗規宗則』、あるいは『日蓮宗法令』『日蓮宗法規』を経て、昭和十五年には宗教団体法の施行に伴い『日蓮宗宗制』と名称が変わったが、それは現在と同様に宗制枠によって運営されているのである。
 また、私たちが熟知している現行の宗務院機構も、明治期、戦中、戦後と、その時々の国家体制と宗門体制の関わりの中で、さまざまな改正が重ねられて現在にいたっている。まず、明治中期までは、さきのように五山盟約の実権者である管長を中心とするものであったが、明治三十四年の開催された第一宗会によって立憲管長制へと機構が整備され、さらに宗制に基づく業務の分業体制が形成されたため、この時点でやっと日蓮宗としての体裁が確立されたといえるのである。
 しかし、この明治期から昭和十五年宗教団体法によって統制されるまで、日蓮宗の宗制枠に基づく宗門運営には現代と異なる大きな特徴があった。それは、この時代の宗門が身延を中心とする五山盟約による四十四箇本山の共同体制で運営されており、宗務院の役職任免にも本山の意向が関係していたり、また本山の檀林や学林で一定期間の修学をすれば、本山から僧階が授与され、さらに入寺においては僧階相応の袈裟の色で格付けされた寺院、具体的には素紫の寺院や、茶金の寺院なりへと入寺が許されていたことである。
 つまり、本山のもっていた由緒や故事来歴など、その本山の歴史と伝統によって日蓮宗は支えられていたのであり、宗門はそのような本山の振る舞いを宗制枠に基づく業務の分業体制によって認証する形で機能していたのである。そして、この時代は宗会議員といえども、千葉県本土寺、千葉県弘法寺、京都府妙頂寺、佐賀県光勝寺、新潟県妙宣寺、京都府本満寺、静岡県本覚寺、茨城県久昌寺、千葉県誕生寺、栃木県妙顕寺などの本山の貫首は一級議員として扱われており、各本山の振る舞いがそれなりの権勢を誇っていたことをこの事実からうかがい知ることができるのである。
 また、この時代の修法師の認証について言及すれば、法華経寺の山規に規定された正中山行堂(遠壽院行堂)にて一百日加行した加行僧を、宗門が日蓮宗の修法師として追認する形をとっており、この時代の日蓮宗は宗務行政(機関)としての役割に徹していたのである。
 
2 昭和十五年の宗教団体法成立による日蓮宗の変化について
 ところが、本山に許されていた由緒や故事来歴による振る舞いを、日蓮宗が宗制枠によって追認する形では機能できない事態に立ちいたるのである。
 それは昭和十五年四月一日(一九四〇年)に施行された宗教団体法によって、そういう事態に追い込まれて行くのである。もともと宗教を統制し、天皇制政府の国策に奉仕させるという国政のあり方は、明治新政府の発足以来の基本的な宗教政策であったが、時代は昭和を迎えると日本ファシズム最大の事件である昭和十一年の二・二六事件を境に、大日本帝国軍部の政治的制覇は確立し、日本国は日中戦争をかわきりとして、太平洋戦争へと突入して行ったのである。
 そして、戦時国家総動員体制(昭和十三年の国家総動員法公布)の最中で、この宗教団体法によって「宗教の宣布は即ちこれ皇道(天皇制国家神道)の宣布」というように、日本の諸宗教は強制的に「天皇制国家神道」に従属させられたのである。
 また、翌十六年二月八日(一九四一年)にはこの団体法を追って、日本史上に悪名の高い治安維持改正法が国会で可決され、この恐るべき弾圧法規によって、さきの「天皇制国家神道」を笠に着た宗教弾圧が思いのままに進められるようになった。この時代に国家権力は右手には宗教団体法、左手には治安維持法の剣をたずさえることで、宗教弾圧の体制は完璧になったのである。
 この宗教弾圧の具体的な事実にふれると、昭和十五年四月にこの宗教団体法が公布されると、これまで公認されていた宗教団体は、その法律に従ってこれまでの宗制を「天皇制国家神道」に従属するように改定し、新たに承認を受ける必要に迫られたのである。すでに仏教諸派の教義や聖典に対する政府の干渉は昭和六年頃から始まっており、天皇たちを「僅かの小島の主」と呼び、崇俊天皇を「腹悪しき王」とする日蓮遺文は、ことさら問題が多かったのである。法華宗は、これらの不敬の文言を削除せよという厳命を受けながら、これを拒んだために昭和十六年には当局によって幹部の一斉検挙に遭遇したのである。
 しかし、日蓮宗はこのような弾圧を回避するため、この宗教団体法の公布を受けて、日蓮宗宗務総監平間壽本師は、宗綱審議会を設けて宗教団体法に沿った宗制に定める教義の原案づくりを始め、その六月に開催された第三十六回臨時宗会で、平間内局はさきの宗綱審議会が答申した「日蓮宗教義原案」を基に宗制案を上程し、この議案は特別委員会に付託され、内局の原案が新定宗制として通ったのである。
 さらに宗教団体法によって、共通する宗派間の強制的な合同が行われたため、日蓮宗では昭和十六年正月に三宗派合同の合意を確認し、また他の二宗派もこれに同調し、かくして同年三月に日蓮宗と顕本法華宗と本門宗と合同し、宗教法人日蓮宗が文部大臣の設立許可を受け、新たなる日蓮宗が始まったのである。文部省はこの新定宗制を、三月二十九日に認可している。
 いわゆる、これが三派合同の実体であって、この新体制では旧顕本法華宗と旧本門宗がほとんど無条件で臨んだために、さきに日蓮宗が作成した新定宗制がそのまま採用されたのである。また、この年は日蓮遺文の「不敬字句削除問題」はおおづめを迎えており、当局に重要遺文七十四篇を選び出し、この中の本文削除二〇五か所と目次訂正三か所、計二〇八か所の削除訂正を上申しているが、文部省は内閣情報局の強硬な姿勢を考慮し、未だ不十分として再検討を命じているのである。
 このとき政府は、日米決戦を目前にして、戦時強化の思想統制を断行し、五・一五事件や二・二六事件のイデオロギーとなった日蓮遺文と、その提供者と目された日蓮教団への厳しい締めつけと、体制翼賛の刷新を強要していたのである。
 つまり、日蓮宗はこの弾圧を避けるために、宗教団体法に沿って、新定宗制というと聞こえはいいが、実際には戦時強化の思想統制に従って、「不敬字句削除問題」では抵触する日蓮遺文を自主的に削除するなどして、大政翼賛の刷新に協力したのである。日蓮宗は文部省がさきの新定宗制を認可した三月二十九日に、宗教法人日蓮宗としては存在したが、宗教教団日蓮宗としては、布教教化の活動を放棄したといえる。
 戦後六十年を迎える本年、宗内でも不戦決議や平和宣言などをアピールすべしの声が聞こえているが、宗教者は政治的なアピールを避けて宗教的に応ずるべきである。宗教的にとは、その時代の日蓮宗が弾圧を回避するためとはいえ、日蓮遺文の不敬字句を削除したことは、正法を立て国を安んずるために国家諫暁した宗祖の生き方を否定する大謗法であるから、この謗法を懺悔すべきであると思う。
 論題からはずれるので、これ以上は論及しないが、この宗制の中で特筆すべきことは、戦時下にあって皇国日本・大政翼賛を強要されたといっても、日蓮宗が宗制を変節させ日蓮遺文を削除するなど、布教教化を放棄したことは事実であり、さらに宗門運営においては本末関係の解消が公的に明記されたことである。
 この本末解消の経緯はといえば、戦時体制下の中央集権的な時勢に倣い、昭和十三年三月の日蓮宗は第三十三宗会において「祖廟中心制度」を制定したものの、その時点では大本山・本山をのぞき全国寺院を身延山久遠寺の末寺にすることは出来なかった。しかし、この三派合同によって宗教団体法の下に新たに宗教法人日蓮宗が設立されると、すでに昭和十五年十月には本山会の意向も本末解消を容認していたために、総本山久遠寺をのぞきすべての寺院の寺格が平等になったのである。
 これがなにを意味するかといえば、この解消によってそれまで本山に許されていた由緒や故事来歴、とくにそれまで本山が由緒や故事来歴によって行ってきた、僧侶の養成に始まり、僧階の授与や法類住職の任免権などが、宗制枠に組み入れられて、宗門の行政機関がそれを執行するようになったことである。この時点から、宗務行政(機関)が宗務役職の任免権を握ったのである。
 そして、これによって生じたもっとも大きな痛手は、この本末解消によって、それまで本山と末寺の関係で営まれていた経済基盤が崩壊したことである。本山によっては、その固定資産からの収益や、僅少檀信徒の護持力をもってしても、その維持経営に困難を来たしたばかりではなく、加えて宗教法人法の施行によって、本山の寺有地は各末寺の所有地として、平等の法人格ものとに分割され、所属の檀家と共に独立形体を整えていったことである。
3 戦後の日蓮宗について
 さて、さきの「天皇制国家神道」を笠に着た国家権力による宗教弾圧がまかり通った時代も、昭和二十年八月十五日(一九四五年)のポツダム宣言受諾と共に終局を迎え、悪名高き宗教団体法も廃止され、これに代わって同年十二月八日に宗教法人令(ポツダム勅令)が公布され、政治的、社会的および宗教的な自由が保障されることになったのである。
 しかし、戦後の混乱期にこの自由法令が施行されたために、宗教法人乱立の傾向と、宗教団体本来の目的がはき違えられるなど、宗教の尊厳を穢し、宗教法人として社会の信頼に悪影響を及ぼす結果になった。このため昭和二十六年四月三日(一九五一年)に新たに宗教法人法が公布され、宗教法人令は廃止された。これが現行の宗教法人法である。
 このような状況下で、宗門は昭和二十一年(一九四六年)の小湊宗会直後に「日蓮宗法規」、同二十三年(一九四八年)には「日蓮宗規則」を制定し、同二十四年の第十臨時宗会では「日蓮宗宗制」が制定された。また、同二十五年(一九五〇年)の第十一宗会では宗制特別委員会の答申を得て、弱体化した宗門の結束をより強力なものにするため、祖山中心の宗門体制の確立が提案されている。
 さらに新宗教法人法の施行に伴って、同二十六年第十三宗会では開宗七百年の慶讃年を目して、宗本一体の体制へと大改正が行われ、「開宗七百年慶讃会規程」を含む「日蓮宗宗制」が制定されるにいたったのである。
 いわゆる、これが戦後の宗本一体の体制(祖山中心制度)であり、宗門と祖山とが一体になった新制度である。しかし、この宗本一体の体制は、戦後の宗門的な結束がゆるんだ混乱期を乗り切るための施策であったが、ポツダム勅令によって政治的、社会的、宗教的な自由が保障された社会にあっては、宗門行政が一方的に「身延山を祖山と公称し、祖山の法灯を継承する者を法主、その法主を無問責の象徴的存在」と規定したり、また宗門行政の要である宗務総監制や宗会制度を廃止するなど、戦後の民主化の波に逆行するようなこの体制は改正せざるをえなかった。
 その三年後の同二十九年四月(一九五四年)、管長制、宗会制の復活と共に宗本分離、三権分立の体制へと大幅に改正された。その形式の骨子は現在の「日蓮宗宗制」そのままであり、「日蓮宗宗憲」「日蓮宗規則」「日蓮宗規程」の三種から成り立つものである。
 「宗憲」とは宗門の憲法というべき定めであり、伝統、宗旨、本誓など日蓮宗独特の特色を表現し、宗教団体としての基本的なあり方を明示している。「規則」とは宗教法人法に則る包括法人日蓮宗の定めであり、文部科学省の認証を必要とする。現在の日蓮宗寺院(被包括法人)の寺院規則は「日蓮宗宗制」の定めるところに準拠して、とくに「日蓮宗規則」に準拠して作成し、都道府県知事の認証を受けるようになっている。また「規程」とは「宗憲」に基づく必要事項の具体的な規定である。このように宗制は、宗教団体の和合と興隆とを念願する堅固な信仰に基づいて定められたものであり、僧侶の道念と、信徒の信念とによって遵守すべきもの、とされているのである。
 ところで、この昭和二十九年に宗本一体の体制から民主的な宗制へと改正されたが、それを支える社会背景にはいくつか特筆すべきことがある。それは、さきにのように、戦前の本末解消によって本山と末寺が法人格の上では平等となり、末寺はその法人化を基礎に本山の寺領などを分割して自立していったが、この寺領などが昭和二十二年の農地解放によって雲散霧散してしまったことである。
 これが何を意味するかといえば、明治時代にいたって法制上の宗名を日蓮宗と称するにいたったが、この日蓮宗の権威性は、身延を中心とする五山盟約による四十四箇本山の共同体制で運営され、それは五山盟約によって護られていた各本山の由緒や故事来歴による振る舞いによって支えられていた。しかし、その権威性は、戦前の本末解消と戦後の農地解放などの施策によって、それまで護られてきた各本山の由緒や故事来歴による振る舞いが、完全に断絶してしまったことで失われてしまったのである。
 このような戦後の施策によって、宗教法人法の寺領が解放されたことにより、それまで寺院や僧侶の宗教的な権威性を支えてきた由緒や故事来歴に代わって、檀家数の多少による集金能力、つまり、その寺院の経済性がそれまでの権威性にとって変わったことが指摘できるのである。
 そして、この戦後の農地解放などの施策によって、伝統教団を支えてきた経済的な基盤が失われたばかりではなく、それまで日本の家族社会を守ってきた家族制度を支えた経済基盤(田畑山林・家屋敷)も失われた結果、相続する家が消え、長男の継承する家長としての権威性も消えてしまった。そのため日本の社会は、それまでの大家族の棲み分け、地域社会のつながり、家族のつながりを支えた先祖をまつる「家の宗教」も消えてしまい、檀家自体が檀那寺を支えられなくなり、とくに寺領もなく檀家もない本山はその運営自体に窮する結果となったのである。
 このため日蓮宗は、昭和二十六年の宗本一体の体制から同二十九年の民主的な宗制への改正を通じながら、いち早く包括法人としての宗教法人日蓮宗を組織したのである。そして、各都道府県に登記された日蓮門下の寺院を日蓮宗として包括し、全国の管轄区域(管区)に宗務所を設置し、その管区内(管内)の寺院・教会・結社の統轄を図った。そして、この変化によって、それまでの本山と末寺という由緒や故事来歴による寺院運営から、日蓮宗宗制(日蓮宗宗憲・日蓮宗規則・日蓮宗規程)に基づく法人運営へと大きく転換したのである。
4 現行の行政機関の課題について
 さて、このように戦後の日蓮宗はいち早く宗教法人日蓮宗を組織したため、他の伝統教団と比べると、行政的に整備されて宗門的にも教団としての統制もとれているのである。宗教法人を統轄する文部科学省や県の学事課など所轄庁をして、伝統教団の中では日蓮宗の申請書類がもっとも整っている、と言わしめるほどである。しかし、そこには一つの大きな問題が包含されているのである。
 それは本山の由緒や故事来歴のところで指摘したように、それまでは本末関係によって護られてきた日蓮宗としての権威性(本山の由緒や故事来歴による振る舞い)が崩壊する中で、日蓮宗という行政機関がその権威性をどう継承し、どう維持するか、それまで宗門内の各門流が継承してきた歴史や伝統を、行政機関がどのように継承し維持するかが問われているということである。
 たとえば、日蓮宗の法式作法の要となった『宗定法要式』の制定についていえば、戦前の宗教団体法を背景に、昭和十六年に強制された三派合同(本宗と旧顕本法華宗と旧本門宗との合同)の結果、日蓮宗としては各門流で異なっている法式、作法、声明などの統一制定が要請されたため、三派から選出された十四名の委員によって法式作法が研究協議され、昭和二十年春には『宗定法要式』の草稿が終わったという。
 戦後になってその草稿が、昭和二十四年三月身延の「第十一宗会概要」で、「法要儀式の統一制定並びに普及ということは、今日ほとんど宗門の興論であって、最早研究調査の時期は過ぎ去っております。明後年は立教開宗七百年の大慶典を迎えるのでありますから、そのためにも是非緊急にやる必要があると思うのであります」と、その『宗定法要式』の草稿について、もういまは調査研究する時期ではない、と政治的な肩入れが行われ、当局もそれについて七百年の慶典に際して出版を急ぎたいと述べているのである。このような経緯によって日蓮宗『宗定法要式』は、昭和二十六年に世に送られることになったのである。
 しかし、この『宗定法要式』が制定されたことによって、法式・作法・声明は統一されたが、それまで宗門内の各門流が継承してきた歴史と伝統、本山なりの由緒や故事来歴を支えてきた法式・作法・声明などは伝承ごとは、この段階で跡絶えてしまったのである。宗門的には一度制定してしまえば、それをより所とすればこと足りるかもしれないが、各門流や本山なりが長年かけて形成発展させてきた法式作法(行規行法)などは、宗教的な情操を喚起するための身体技法であり、文献などを通じた学問的な知識と異なり、それらは一度跡絶えてしまうと再興することはとても困難なのである。
 くり返すが、戦前の日蓮宗は、各門流の歴史と伝統、本山なりの由緒や故事来歴の独自性を認めながら、それを日蓮宗が行政的に統轄することで、その宗教団体を代表していたのである。戦後はといえば、戦前の本末解消を引きずりながら、法人法の改正や農地解放などの施策によって、本末関係が解体せざるを得ない状況に立ちいたったため、宗教法人日蓮宗によって、それまでの本山と末寺という由緒や故事来歴による寺院運営から、日蓮宗宗制(日蓮宗宗憲・日蓮宗規則・日蓮宗規程)に基づく法人運営へと転換し、日蓮宗という宗教団体を再構成したのである。
 しかし、この宗教法人日蓮宗という行政機関は、団体の再構成には成功したものの、それまで各門流の歴史と伝統、本山なりの由緒や故事来歴という権威性を支えてきた、宗教的な情操を喚起するための身体技法である法式作法(行規行法)などの伝承ごとを断絶させてしまったのである。
 つまり、日蓮宗は各門流の歴史と伝統、本山なりの由緒や故事来歴という宗教的な権威性を失ったために、行政機関として日蓮宗宗制(日蓮宗宗憲・日蓮宗規則・日蓮宗規程)の文言という行政的な権威性に支えられている存在なのである。
 ここで行政機関の課題にふれれば、それまで各門流の歴史と伝統、本山なりの由緒や故事来歴という宗教的な権威を支えてきた「おこない」、とくに宗教情操を養ってきた法式作法(行規行法)などを継承し、どう伝承するかが問われているのである。
 たとえば、本末解消以前には、各門流の歴史と伝統などの伝承ごとは、門流の本末関係の中で存在したのである。たとえ一山の貫首さまであっても、発心して僧侶になるためには、やはりその門流の貫首さまについて授戒得度して弟子となり、本山に所化として随身し、ときを経て門下の学問所である檀林での一定の修学をへて、素紫なり茶金なりの末寺へと袈裟(僧階)を賜ってくださり、やがてその器量に応じて門流の貫首へと成り上がってきたのである。その意味では、その門流の歴史と伝統は貫首さまの一挙手一投足にあり、その貫首さまが体現していたのである。だから貫首さまの読経や回向を拝聴すれば、たちどころにどこの門流であるか了解できたのである。
 このように各門流の歴史と伝統などの伝承ごとは、行政機関のよりどころとする宗制枠の中身であり、その裏づけなのである。たとえば、僧侶について現行の日蓮宗宗憲(宗制)の規定をみると、日蓮宗宗憲第十一章「僧侶、寺族及び檀信徒」に第七十条「度牒の交付を受けた者は、本宗の僧籍に編入する」「2 本宗の僧籍に編入された者を僧侶といい、これを教師、教師補及び沙弥に分ける」とあり、度牒を受けて僧籍に組み入れられた者が本宗の僧侶であると分かる。
 ところで、度牒とは、律令制における僧尼となる者に所定の手続きをとるように太政官が関係官庁に通達した公文書のことで、簡単にいえば僧尼の証明書のことである。そして、その証明書を発行してもらうは、所定の授戒得度式が行われなければならない。本宗では『宗定法要式』に得度式の行軌が掲載されており、度牒交付をうけるための申請書類をつくる上で、得度式はおよそこの行軌に則って行われているはずである。しかし、その得度式なるものは『宗定法要式』の文言としては存在するが、宗門の歴史と伝統という伝承性が保たれていないのである。
 本末解消したあと三派合同した日蓮宗の儀式法要を統一する目的で編纂された『宗定法要式』が、立教開宗七百年慶讃にあわせ昭和二十六年に宗定として発刊されたものである。そこには各門流の儀軌から応用転載された行軌や文言が存在するが、それらは各門流の歴史と伝統からは切り離されているからである。
 つまり、お経文の読み方や、回向などの符帳、その立ち居振る舞いは、その文言以前に耳で聞き、体で覚えてはじめて意味をもつのである。これが歴史と伝統という伝承ごとの重さであり、師から弟子へと伝えられてきた伝承ごとをたどれば、必ずや宗祖へとつながるという宗教性の出発点でもある。
 このような伝承ごとのあり方からいえば、『宗定法要式』の行軌に則り得度式が行われ度牒交付されても、それはあくまで行政機関が宗制枠によって認証したまでであって、宗教的な権威性が保たれていない。これはほんの一例であるが、日蓮宗規程の中では、とくに教育規程、布教師養成規程、布教規程、修法規程、法式声明規程、叙任規程など、およそ法器養成にかかわる規定が運用されるとき、それが各門流の歴史と伝統という伝承ごとにつながっていなければ宗教的な権威性が保てないのである。
 本年は戦後六十年の節目、また本末解消してから六十五年の歳月が流れている。およそ一二〇年前に五山盟約によって五山はじめ四十四箇本山の共同体制となった日蓮宗には、各門流の伝承ごとが生きていた。いまその伝承ごとは細々とでも生きているのか、それこそ途絶えようとしているのか、急ぎ調査研究すべきの時期にあると思う。そして、宗門の宗教的な権威性を支える伝承ごとを再興するために、然るべき策を講ずるべきであると思う。
 

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