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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

『近代教団史にみられる尼僧たち』—村雲尼公と尼僧法団を中心に—

 

 
『近代教団史にみられる尼僧たち』
   —村雲尼公と尼僧法団を中心に—
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 馬 島 浄 圭  
 はじめに、宗制上から近代日蓮教団女性の動向を読み取ることが非常に困難であることを、お断りしなければならない。まず、女性(尼僧、寺庭婦人、女性信徒を含めて)に関する記述が余りに少ないこと。実際、時代とはいえ教団の女性たちがいかに周辺化され、蚊帳の外に置かれていたかを読み取ることは容易い。しかし、記された記述をもとに彼女たちのストーリーを掘り下げたくても、裏付けとなる資料がほとんど無く立ち往生するしかなかった。従ってここでは『近代日蓮宗年表』から、教団の尼僧たちの動きを追ってみることにした。
 
 日蓮聖人滅後、初めて教団史上で確認される尼僧は瑞龍院日秀で、「慶長一年(一五九六)一月秀吉の姉瑞龍院日秀、本國寺日=cd=63daにつき得度する(日蓮宗年表)」とある。さらに同年、「瑞龍院日秀、嵯峨に善正寺を創建する。後の村雲御所となる(日蓮教団概説)」と記されている。少し遅れて、徳川家康の側室養珠夫人の足跡(一六〇五〜一六五三)が教団史を彩るものの、この後近代・明治一年(一八六八)一一月一二日 九条日尊寂〈六二〉京都村雲瑞龍寺第九世(日蓮宗年表)の名を見るまで尼僧らしき名は記されていない。
 明治元年、神道の国教化を目指した「神仏分離の令」が出されると、各地に廃仏毀釈が巻き起こる。大弾圧に晒された仏教界からは各宗派が協力してことに当ろうという動きが出てきて、体制に順応し権力に追随するかたちで、窮地を乗り切る方針が打ちだされる。
 明治政府の仏教懐柔策として、明治五年(一八七二)四月二五日、「僧侶の肉食妻帯蓄髪勝手たるべし」の太政官布告がなされたことは良く知られているが、翌明治六年一月二二日に、「尼僧の蓄髪・肉食・婚姻・還俗の自由」を布告していることは以外に知られていないかもしれない。
 こうした政府の宗教政策を前に、教団の存亡を賭けた指導者層の緊迫した動向が窺い知れる明治期、一人の尼僧の発願が印象深い。「明治一六年四月 京都山科妙見寺向井智貞尼、比叡山横川定光院の日蓮聖人旧跡を再興する旨発願する。(日蓮宗年表)」と。続く明治一八年九月「京都村雲瑞龍寺日栄、村雲別院を東京日本橋小伝馬町に創建し天拝鬼子母神堂を建立する(日蓮宗教報)」とある。大正八年四月に深見耀宏が、京都松ケ崎涌泉寺において『尼衆修道院』を開設したことと、昭和一四年一一月、『尼僧信行道場』が開かれたこと以外は、この期間すべて村雲瑞龍寺尼公の動きを記すのみである。
 明治三八年七月二日に、京都村雲瑞龍寺門跡内に本部をおいて護国婦人教会が発足すると、全国各地に村雲婦人会支部の名乗りが挙がっていく。宗門唯一の門跡寺院、村雲瑞龍寺尼公の、国策を伝道するような足跡が確認できるのも、昭和一〇年頃までである。昭和一三年四月一日に国家総動員法が布告され国をあげての臨戦体制に突入していくと、尼僧に係わる記述は戦後の昭和二二年(注一)を待たなければならない。
 注一:昭和二二年といえば四月二四日、西川景文が宗務総監に就任し、「この度の敗戦は、反省懺悔の好機会であります・・・」と宗報に所心表明、戦後を印象付けて宗政に臨み、二四年一月一五日付の宗報、「先ず懺悔せよ・・・」の名文句とあわせ読むと非常に考え深いものがある。身延山燈明会事務総長に就任〈昭和二二年五月八日〉した増田宣輪と共に、戦中高佐皇道仏教行道会の本部代表として天皇本尊論の立場から、久遠実成本師釈迦牟尼仏を本尊とする四大本山並び宗門当局関係者を相手取り不敬罪の告訴を提起した当事者その人である。ちなみにこの事件は祖廟中心制度確立問題で対立していた総本山と四大本山(京都本圀寺、妙顕寺、池上本門寺、中山法華経寺)の確執が本尊の解釈問題にまで発展した問題であるという〈内務省警保局編、社会運動の状況一二、昭和一五年〉。本末制度は、日蓮宗・本門宗・顕本法華宗の三派合同が成った昭和一六年三月一一〜一三日に、解体された。
 すなわち西川景文内局下の昭和二二年九月一九日〜二三日に、普通試験合格尼僧の第九期信行道場が身延山で開場されるの記述が見られる。
 日蓮宗宗制・宗本一体の祖山中心体制が施行され、増田宣輪が新たに宗務総監に就任〈昭和二七年四月一日〉し、翌二五年宗教法人日蓮宗が認証されている。
 昭和二六年一〇月に全日本仏教尼僧法団が結成され、翌二七年一〇月二八日梶山智孝、谷川善妙ら有志尼僧が中心となって『日蓮宗尼僧法団』を結成する。この後、村雲尼公に変わる市井の先駆的な尼僧たちの動きが、教団史に添えられる。三一年一〇月一一日に管長増田日遠(旧名宣輪・三二年三月三〇日身延山久遠寺入山)を迎え、身延山本師堂で全国日蓮宗尼僧法団結成大会を開き本格的な活動を開始する。「日蓮聖人の教えを守り本仏釈尊に給仕し、唱題行に徹し、祖山中心正法護持の信念を確立し、行学二道の研修に励み、毎月結集、団員相互の信行増進、尼僧の地位向上に努め、異体同心の宗風宣揚と社会福祉に貢献することを目的としている」(日蓮宗事典)。また団員は信行道場修了の剃髪尼とする。本部は身延山丈六堂内に置き、関東・関西・北陸・九州に支部を持っていた。主な活動として、沖縄激戦地慰霊行脚、ハワイ慰霊行脚、尼衆宗学林再興、尼僧信行道場開設、広島・呉原爆被災者供養、伊勢湾台風三三回忌法要等々。梶山智孝(三一歳で当時の日蓮宗教学部長・馬田行啓(注二)について剃髪得度、昭和一七年立正大学宗学科卒)の傑出した指導力と谷川善妙(昭和二一年尼衆宗学林卒業、立正大学宗学科卒)・花井浄深(大正一四年尼衆宗学林卒業)ら優秀な人材に恵まれ、昭和三〇年代から六〇年代にかけて宗門内外にその存在を誇った。その後、法団は役員の刷新がままならず次第に求心力を弱めて行く。法華真学(昭和二一年尼衆宗学林卒業)団長以下新たな役員体制で身延山祖廟において尼僧法団の再生を誓ったのは、平成一七年九月二七日のことである。
 注二:昭和一三年二月一五日付『日蓮宗教報』〈三二号〉で馬田教学部長、昭和の四箇格言「唯物無間 自由天魔 共産亡国 利己国賊」を提唱し悪思邪想折伏の旗印として掲げ、宗門布教師に国民精神総動員の実を挙げ政府の方針に対応すべく国民思想の堅実強化をはかるため、これを大いに活用されたいと発表。
    当時師は、『国民精神総動員に協力せよ』に始まり『昭和の四箇格言』、『日本精神に立ち還れ』そして『新東亜建設の戦士たれ』と宗門布教師を鼓舞して大陸開教に送り出すなど、掛け声も勇ましい。満州事変が人々の宗教心や信仰心を喚起・培養させるには極めて有効であったとして、ことに出征兵士の家族親戚が、熱心に読経唱題に励んでいることや、前線の将兵が唱題の力によって勇気百倍し、危険を冒して任務を遂行したとか、突撃を敢行した例を挙げ、信仰を高める好機であると宗門人の奮起を促す。今読めば、不殺生戒を第一義とする仏教とは程遠い信仰であるとの見方もできる。全体主義の統制下、挙国一致の聖戦に駆り立てられ、国策に協力し率先して国民の思想善導することが教化だと、門人を煽り立てているのだから、疑いの起きる余地はないだろう。
 他方、本末制度の解体で衰退を余儀なくされた本圀寺と共に、落日の憂き目に遭う村雲瑞龍寺の戦後もまた厳しいものがあった。戦後民主主義を先取りするようにして宗制の改革に取り組む宗門にとって、もはや村雲瑞龍寺への関心はほとんどなくなっていた。全国各地に作られていた村雲婦人会も自然消滅状態で、決まった収入源を持たない瑞龍寺の財政は見る間に干上がる。昭和三五年村雲瑞龍寺、日蓮宗からの恩恵なしを理由に離脱手続きをとるにいたって、瑞龍寺財産不当処分が発覚し、村雲瑞龍寺九条日浄の住職罷免問題にまで発展する。宗務当局との和解成立後、紆余曲折を経て瑞龍寺の近江八幡移転再建中の昭和三七年九月二〇日、瑞龍寺一一世九条日浄は急逝〈六七〉している。時あたかも本圀寺の復興移転問題が宗内抗争に発展しかけ、前任の増田日遠が退き、後任の西川景文が再建に当っていた最中でもある。
 手元にある日蓮宗尼衆宗学林の『尼衆学林だより』〈平成一五年九月一日〉に、瑞龍寺の様変わりを次のように述懐する。《明治維新までは摂家の九条家に一旦入籍入寺していましたが、維新後は「御由緒寺院」に属すも、宗門の宗規に則る「由緒寺院」とは別扱いではありましたが、現在は「日蓮宗由緒寺院」の一つで、「門跡寺院」も「村雲御所」の称号も失われてしまいました。多く先師から「寺門の在り様は歴史と伝統である」と聞かされていた。そこには僧侶としての誇りがあった。「師厳道尊」の響きも「遠く成りにけり」「覆水盆に帰らず」か。悲しいことではあります。》
 実際、京都村雲御所も本圀寺も歴史・伝統の地を売却して、新たな地に名を残すことになり、歴史・伝統を誇って胡座をかいている時代ではなかったにせよ、その代償は小さくはなかった。
 
  まとめ
 明治期より太平洋戦争突入にいたるまで、宗門唯一の皇室につながる門跡寺院として、皇国史観・大東亜共栄圏の国策を補完する露払い的役割を担って、教団史を飾る村雲尼公。
 戦後「英霊に催促されて」、大東亜戦で戦死病没・殉難横死された英霊に対する専心慰霊行脚を実践し、「二度と祖国を戦場にしたくはない」と誓い合う、梶山智孝率いる日蓮宗尼僧法団。
 両者の置かれた時代背景は全く正反対ではあるが、共に宗門の政治的な動きに呼応するようにして、尼僧としての主体性を打ち出している点で、極めて似通っている。
 御門跡という格式で宗門の期待に応えた村雲尼公と、戦争の罪ほろぼしのための慰霊行脚を尼僧の使命と位置づけ模範的に取り組んだ梶山団長、どちらも時代の求めに真摯に忠実であった。
 最後に、教団史に漏れた巷の尼僧たちのユニークな動きを紹介して、この小論の締めくくりとしたい。昭和一二年五月三日第七回「汎太平洋仏教青年大会」が名古屋・建中寺母子寮で開催され、花井浄深、鬼頭浄眼、鳥居恵静、内林浄光ら四人の尼僧が参加する。さらに同年八月には、新興仏教青年同盟の第一回結集が林霊法の自坊・養林寺で開かれ、一五人が結集している。この中に前記四人の尼僧の姿もみられる。いずれも、名古屋市熱田区の当時妙法庵(現在の光耀寺)と呼ばれていた尼寺の尼僧たちで、この頃の妙法庵は、庵主布目慈本の人望もあり、一一人もの若き尼僧を、個性豊かに育くんでいた。その多くが京都松が崎・『尼衆修道院』(昭和一七年四月より昇格し尼衆宗学林となる)に学んで、村雲瑞龍寺の歴史・伝統に浴している。
 

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