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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

原発増設で温暖化対策、という過ち—「環境問題」の落とし穴「省エネを考える日」提起を受けて—

 

原発増設で温暖化対策、という過ち
   —「環境問題」の落とし穴「省エネを考える日」提起を受けて—
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 梅 森 寛 誠  
 六ヶ所村・再処理工場の事実上の試運転といえる、使用済み核燃料を使ったアクティブ試験が迫るこの秋、全国の他宗派・他教団の人たちと、銀座での街宣(署名呼びかけ)及びデモに臨むに当たって利用した都営地下鉄車内で、誰ともなく小さな歓声があがった。見れば『環境・平和・いのち 日蓮宗』という小広告。「スゴイねえ。これって皆、脱原発の意思表示だよね」というような驚きの声を誰かがあげた。それは、宗派教派ごとの衣帯で「いざ出陣」の構えの私たちを後押しするものであり、声の主に皮肉のニュアンスはなかった。当然、一行の視線は私の方に注がれた。私自身車内では初めて目にするものだったが、他教団の友人からほめられて、その広告効果をじかに確かめることができた。そして同時に「どうだ」と胸を張るのではなく、「スローガンはスゴイんだけども」と言いよどみ、複雑な表情を見せる自分があった。
 六ヶ所村・再処理工場が稼動されれば、事故(臨界や爆発の危険は原発の比ではない)がなくとも、原発一年分の放射能を一日で出す。排気筒からクリプトン、トリチウム、ヨウ素等の気体放射能が、海洋放出管からも同様に、膨大な量が日常的に垂れ流される。また、使用済み核燃料を年間八百トン再処理し、取り出される八トンのプルトニウム量(一グラムで一般人の制限値の一・四億人分)は、原爆一千個分に相当する。軍事的担保との疑念を深めさせ、国際的にも核拡散の懸念を増大させる。そして、そのプルトニウム239は半減期が二万四千百年で、無害化するまで十万〜二十万年かかる。高レベル廃棄物の管理は本来、百万年単位あるいはそれ以上の想像を絶する時間を必要とする。
 本宗が掲げた『環境・平和・いのち』、これらがいずれも具体的に脅かされている現実に目を背けつつ、掲げ、語られるのであれば、それは現代と未来社会に対して、あまりに無責任・不誠実な態度と言わざるを得ない。「生命の絶対尊重」を基本理念に「立正安国の実現」を眼目とする信仰運動を目指した、宗門の新運動『立正安国・お題目結縁運動』に於いても、宗祖の行動の原点が現実社会への直視と救済にあった点を意識した上で、強力に引き継がれていくべき課題だと思量する。
 九十一回定期宗会での岩間宗務総長の施政方針挨拶では、環境破壊の問題が取り上げられた。京都議定書が発効し、地球温暖化防止が国際的に求められている。そうした中で、私たちはいかに情報を整理し対応していくべきか、また当然信仰的にもいかなる社会を選択していくべきか、等を、自身が関わり続けている原発問題との関連を交えて、いささか示していきたい。
 
  地球温暖化問題とは
 
 宗務総長・施政方針挨拶は「昨平成十六年は、各種の自然災害が頻発した年でした」で始まっている。そしてこれらは(気象の専門家によれば)「決して単なる偶然ではなく、本年も同じ様な事態が起こる可能性は充分にあると警告」しており、その理由に「吾々人間の日常生活から放出された多量の二酸化炭素が大気中に滞留し、その影響で大気の温暖化をもたらし、気象の配置が変化した為であることを挙げています」と述べ、「これが事実とするならば:温暖化を防ぐことこそが焦眉の急で:吾々のライフスタイルを根本的に考え直さなければなりません。限り無く利便性・快適性・物質的豊かさを求めて膨大な量の化石燃料を燃やし続けて大気を汚し、自然を破壊する現在の様な生活形態を続ける限り、やがて、かけがえのない、この美しい地球が荒廃し、人類存亡にかかわる由々しき事態に発展しかねません」と続ける。
 昨今の異常気象の原因の一つに地球温暖化があることは、今や識者の共通の見解となっている。右の施政方針にも言及される京都議定書は一九九七年京都で開催された「気候変動枠組条約」の第三回締約国会議(COP3)で採択された議定書で、二酸化炭素、メタン、代替フロン等の温室効果ガスの排出を、国・地域ごとに基準を設けて削減することになった。二〇〇八〜一二年の平均で、全体で九〇年比五・二%削減を目標に、EUが八%、米国が七%、日本が六%、等の削減義務が課せられた。最大の排出国米国の離脱でその実効が危ぶまれていたが、ロシアの批准により、二〇〇五年二月発効、法的拘束力をもつものになった。ただ日本の場合、二〇〇三年実績で九〇年比が逆に八%増加、今後一四%削減の達成はかなり厳しい状況である。
 さて、もともと地球の大気には前記の温室効果ガスが覆われ、太陽エネルギーによって暖められた地表から放射される赤外線を吸収し、地球を温室のような生物の生存に適した温度を保つはたらきをしていた。ところが、産業革命以来の人間活動の活発化、化石燃料の大量消費により、温室効果ガス特に二酸化炭素が過剰排出(産業革命以降、約三割も増加)されることになった。地球温暖化は、気温上昇や熱波の増加だけでなく、生態系の撹乱や気候の変化、豪雨・洪水や干ばつ、海面上昇等をもたらし、生命や健康に影響を与える事態を招いている。このまま温暖化が進めば、二一〇〇年には世界の平均気温が一・四〜五・八℃(九〇年比)上昇することが予測される。
 すなわち、その原因の多くが人間活動によるものであることがわかってきているのであれば、施政方針で述べられた通り、ライフスタイルを根本的に考え直すほどの反省が必要になってくる。折しも、第九十一回定期宗会の開催は、京都議定書が採択以来七年ごしに発効した時期に重なったこともあり、敢えて呼びかけることになったものと推測される。もっとも、「環境問題」に関しては、宗門レベルでも九〇年代より中央教研会議等を通じて盛んに論じられ、冒頭の『環境・平和・いのち』の提起とも併せ、議論の蓄積があったことは確認しておきたい。ただこの時は、全般に観念的・抽象的枠を出ず、森林破壊やゴミ問題との関連に於いても、割り箸や卒塔婆等、身近な話題と言いつつ物事が矮小化された論議と化していた印象がある。
 定期宗会時に於いても、伝聞によれば、一議員から「省エネを考える日」を設けてはどうか、との提言があったという。前後の文脈や背景は把握していないが、総長施政方針に呼応する形で提起されたものか。いずれにしても、京都議定書発効年の現宗研・現代社会PJ通年テーマの一つに組み込まれる発端になったようだ。恐らく意図してであろうが、ハードルを可能な限り低く定めた「考える日」という表現は、宗門内に限定した上でも九〇年代に曲がりなりにも論議した次元への逆戻り感が否めない。仮にランクを上げて「実行する日」としても、環境指向が一定程度定着した世間的動向との比較に於いて、「今さら」の感がある。とはいえ「省エネ」自体は、後述するように基本的に正しい方向であることは間違いないし、観念的次元に留まるのでなければ、敢えて異を唱えるものではない。ただその上で、冒頭述べた六ヶ所村の現況と今後について、つまり国策で暴力的に棄民と破壊が進められている情況を見据えながら訴えていく必要を感じる。繰り返せば、省エネは基本的に正しいが、省エネ生活を心掛け節電に励みましょう、だけではどうにもならない。努力目標的もしくはメンタル的な「省エネ」だけでは、決して原発は、まして核燃は、止まらないだろうし、下手をすると電力会社と手を携えて「省エネキャンペーン」を、といった悲惨な情況に陥りかねない。
 
  国の原子力政策との関連では
 
 実際、国は「ベストミックス」と称し、省エネルギー努力の継続の上で、原子力や火力に加え太陽光や風力等の新(自然)エネルギーを活用する姿勢は示す。概ね五年に一度改定される国の原子力研究開発利用に関する長期計画が、本年(二〇〇五年)原子力政策大綱として策定されたが、そこにはこのように結論付ける。
   したがって、我が国としては、省エネルギーを進め、化石エネルギーの効率的利用に努めるとともに、新エネルギーと原子力をそれぞれの特徴を生かしつつ、最大限に活用していく方針、いわゆるベストミックスを採用
  するのが合理的である。(11P)
 原子力政策大綱に於けるこの項(エネルギー安定供給と地球温暖化対策への貢献)では、日本が石油を過度に中東に依存し、今後化石燃料を巡って資源獲得競争が激化する可能性があることから、エネルギー資源の輸入先の多様化によってその安定供給を図っていきたい旨を述べ、「原子力の優位性」につないでいく。次に、地球温暖化問題と京都議定書について記し、「温室効果ガスである二酸化炭素の排出量の少ないエネルギー源を最大限に活用していくことが必要」と導く。そして、太陽光や風力については「エネルギー密度が小さく、経済性や供給安定性に課題が存在する」と断じる。従って原子力発電だ、と「ウラン資源が政情の安定した国々に分散して賦存」「二酸化炭素排出が石油・石炭よりも少ない天然ガスによる発電と比べても一桁小さいこと」を理由にあげ、放射性廃棄物や核燃サイクルに根拠のない楽観的見通しを述べた上で、「長期にわたってエネルギー安定供給と地球温暖化対策に貢献する有力な手段として期待できる」と自賛する。(以上 原子力政策大綱10〜11P)
 うっかり読むと、エネルギー安定供給面で優れた原子力は、二酸化炭素排出面からしても京都議定書が発効した今、新エネルギーの欠点を補い化石エネルギーに替わる、地球温暖化対策に於ける切り札となる、という意図的誤りに誘導される恐れがある。次項でそれらの誤りを一つひとつ指摘していきたいが、前段のエネルギー安定供給面については、ここで簡単に記したい。
 ウランも石油同様、全量輸入だが、こちらは採掘段階から被曝の問題が付きまとう。それ故、ウラン鉱山付近に居住する先住民との間に於ける対立例は数多い。事故・トラブルで数機が共倒れになるケースも過去に何度も経験している。二〇〇二年には、東京電力の不正発覚に伴う点検停止等により、一時期、十七機の全原発が停止する事態にもなった。(「残念ながら」?、当然、停電には至らず) 本年(二〇〇五年)八月のM(マグニチュード)七・二の宮城県沖地震では、耐震設計値を超え、稼動中の東北電力女川原発が三機共自動停止、現在のところ再開の目処はたっていない。かように、原子力が安定供給面で優れているとは、到底言い得ない。
 
  原発と地球温暖化問題
 
 では、迫り来る地球温暖化に対応すべく原発推進が打ち出されたのか。もちろん、そうではない。国策として進められてきたそれに弾みがつくのは、七〇年代のオイルショックだが、当時「石油の次は原子力」というトリックで大衆を操作した。石油なしに原子力が動かないのは明白なはずだが。そして、八〇年代後半、反原発運動が盛んになり、環境問題への世間の関心も徐々に高まりつつある中で、今度は「原発は二酸化炭素を出さないからクリーン」という奇妙な論理を展開するに至った。まずは原発推進ありき(利権的魅力?)で、受け入れさせる理由を、多くは事実に反する論理を交えて、後付けするに過ぎない。地球温暖化との関わりでも、京都議定書を巧みに利用している。ただ、京都議定書をめぐる国際舞台では、原発の新増設による二酸化炭素排出抑制策は相手にされないのが現実のようで、国内向けとは使い分けをしている。
 そうした背景を前置きした上で、以下、原発が二酸化炭素抑制や地球温暖化防止に役立たない旨を述べたい。
 (1)原発も発電システム以外で二酸化炭素排出
 確かに原発は、核分裂反応による発電システムそのものに限っては、二酸化炭素を排出しない。しかし、プラントの建設及び廃炉時はもちろん、ウラン採掘から製錬、転換、濃縮、加工と核燃料の各製造過程で、また放射性廃棄物の後始末の超長期管理に於いて、またそれらの過程に於ける地球規模の輸送等のいずれの場面でも二酸化炭素を排出する。ただ、それでも「発電所建設から廃止までのライフサイクル全体で見ても太陽光や風力と同レベルであり、二酸化炭素排出が石油・石炭よりも少ない天然ガスによる発電と比べても一桁小さいこと」(10P)と、原子力政策大綱は、その優位性に胸を張る。実際は、廃炉と放射性廃棄物の超長期管理こそが曲者なのだが、一般のデータには含まれないことが多い。また、それらを差し引いた上でも、太陽光や風力と同レベルというのは少々乱暴で、概ねこれらの一〜五割増ととらえるべきではある。
 ところで、地球温暖化の全体テーマの中では、発電別の二酸化炭素排出量のみを考慮すればいいわけでないのはもちろんだ。まず、京都議定書で削減が定められた温室効果ガスのうち、確かに二酸化炭素は最大だがすべてではなく、他にメタン、フロン等があることを忘れてはいけない。また、二酸化炭素排出を部門別に見れば、発電はエネルギー転換部門に属する。これは全体の三割程度だ。他に産業部門、運輸部門、民生部門があり、それぞれ大量の二酸化炭素を排出している。すなわち、原発は全体の三割(エネルギー転換部門)中の最大排出の火力を一部代替する、という程度だ。決して火力にとって替わることができないことは、次に述べる。
 (2)原発の発電システムは火力等のバックアップが必要
 また、原発の発電システムの特徴として、需要に合わせた出力調整ができないことがあげられる。安全面でも、核反応を臨界状態で(次の定期検査時まで最低十カ月前後)フル運転することになる。一方、需要は七、八月のピーク時と一月の最小電力時では三倍近くの開きがあり、同様に平日と休日、昼と夜でも明らかに違う。そして原発はそのベースの部分を一貫して担うことになる。ピーク時の電力供給で原発が約二・五割だったものが、最小電力時では定期検査で休ませなければ最小電力を超えてしまう電力会社もある。つまり、原発だけでは需給のバランスがとれず、火力や水力も動かさなくてはならない。実際は、原発での発電量が需要を超えた時のために、いわば電気を棄てるための揚水発電所(需要の小さい時に余った電力で水を汲み上げ、需要の大きな時に水を落として水力発電を行う)でバランスをとる必要が出てくる。二〇〇〇年度の実績によると、原発は設備容量で一九・六%、発電電力量で三四・三%を占める。原発は三割以上の電力を供給しているというが、まず原発が優先利用され、火力や水力は出力調整を行い、低利用率で運用されているわけだ。従って、原発への依存を高めることは、火力・水力の容量、発電も増えることを意味し、それは予測数値にも現れている。ところが原子力政策大綱には「原子力発電がエネルギー安定供給及び地球温暖化対策に引き続き貢献していくことを期待するためには、二〇三〇年以後も総発電電力量の三〇〜四〇%程度か、それ以上の供給割合を原子力発電が担うことを目指すことが適切である」(32P)と、論理矛盾した、もしくは電力需給の実情を隠匿したスローガンを掲げる。
 そして、こうしたことは今世紀に入って図らずも実証されることになった。二〇〇二年の東京電力の不正発覚によって同社の全原発が停止した際、停電には至らなかった。たまたま冷夏でピークが抑えられたことや他電力からの融通もあったにしろ、低出力で待機中の、あるいは休止中の火力のフル回転で供給に支障をきたらさなかったことは、その間の事情を物語っている。それは、二〇〇四年の美浜三号機・死傷事故による一連の点検停止に遭遇した関西電力、二〇〇五年の宮城県沖地震で全三機自動停止した東北電力にも、同様のことが言える。
 逆に言えば、原発は事故停止率(しかも数機まとめてというケース)が高く、実は安定供給面で問題があることに加え、停止の際に即座に大量の電力を供給する態勢を必要とするシステムということになる。これでは、とても二酸化炭素削減や地球温暖化対策はおぼつかない。
 (3)原発はムダ使いを勧め省エネとは共存しない
 最近、電力会社はオール電化住宅や割安深夜電力の売り込みに懸命だが、内実は原発をベースとする供給側の事情によるところが大きい。電力自由化の時代を迎え、競争が熾烈になった面もある。また、二四時間操業の大工場が他社に乗り換えられるなどすれば、原発の発電量が需要を超え、停止せざるを得ない事態も考えられよう。結局、原発の発電システムに合わせれば、たとえ原子力政策大綱が「省エネルギー努力」と記そうと、それは矛盾表現でしかなく、実は構造的にムダ使い奨励の省エネとは全く逆行する方向を目指すことになる。
 ところで、全体のエネルギーの使われ方を見れば、一次エネルギーの約四割が電力生産のために使われているが、それ自体大変ロスの大きい使われ方といえる。実際に利用されるのは約三分の一で、残りの三分の二は廃熱として棄てられる。スイッチ一つで何でも手に入る便利なエネルギーだが、ロス(ムダ使い)が多い。例えば、お湯を沸かすために電熱器(オール電化システムでも)を使うということは、石油や天然ガスを燃やしてその三分の一ほど電力に転換したものを再度熱にもどすムダ使い(非常に効率が悪い)に他ならない。そして、この電力化率が増えている。従って本来、省エネとは、そうしたムダ(効率の悪さ)を改善し、あるいは廃熱(損失エネルギー)をいかに抑えるかがポイントのはずなのである。
 そうした意味に於いて、原発はすべてそれらを妨げるものとして作用する。原発は、熱供給手段が核分裂による利用というだけであって、お湯を沸かし蒸気でタービンを回す形態は、産業革命時の蒸気機関と基本的に変わらない。そしてやはり、その熱エネルギーのうち電力に利用できるのは三分の一で、残り三分の二は温排水として海に棄てられる。また、そこで発電した電力の五〜六%は、原発自身を動かすために発電所内で消費される。さらに、原発の場合、離れた大都市の消費地へ送電されるので、発電量の一〇%近くがロスとなる。結局、発熱エネルギーの三〇%弱しか利用できない電力に過ぎない。しかも、原子力エネルギーは電力しかつくれず、出力調整もできないので、原発を推進すれば必然的に電力化率が高まることになる。それ故の「オール電化住宅」であり「割安深夜電力」という極めてムダ(ロス)の大きい商品が勧められることになる。それは、確かに電力会社にとってオイシイものであったにしろ、これらを放置ないし隠匿した上で「環境にやさしい」とか「省エネ」等の言葉を使うことは、噴飯ものである以上に欺瞞そのものだ。
 一方、火力の分野にこそ今、省エネ技術が効果をあげてきている。一つはコンバインサイクルと呼ばれる、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせた(天然ガスを燃やして放出された高温排ガスで蒸気を作り発電する)やり方だと発電効率を五〇%ぐらいに高められる。また、コージェネレーション(熱電併合)という、発電時の廃熱を冷暖房や給湯に利用するシステムだと、七〇〜八〇%までに高められるという。このほかにも、廃熱を効果的に利用する試みは盛んに進められ実用化されつつある。
 ところが、原発の場合、こうしたコージェネレーション等の廃熱利用がまず不可能である。他の施設からももちろん消費地からも隔離しなければならない点、また微量とはいえ放射能を含む温排水の問題点等、原子力ならではの支障がつきまとい、省エネ技術の進展を妨げている。結局のところ、原発は省エネとは全く対極に位置し、結果的にエネルギー浪費と地球温暖化を促進させる「時代遅れ」の代物といえそうだ。
 (4)原発は廃熱も問題だ
 このように、廃熱を利用できない原発は省エネに逆行する技術であるが、加えて、その廃熱(温排水)自体の熱汚染を問題にしなければならないだろう。温排水に於いて微量放射能が放出し蓄積される問題点は大いに論及されなければならないが、ここでは措く。
 前述の通り、熱出力の三分の二が温排水として環境に棄てられる。昨今問題になっている大都市のヒートアイランド現象、これはエアコンや車から大量に排出される廃熱が局所的に温暖化や気候変動をもたらす現象だが、原発の温排水でもそうした懸念が増大している。原発が出す温排水の量は、一分間で七〇〜一〇〇トンに及ぶ。温度は、周囲の海水より七℃ほど高いとされる。既に、海の「うるみ現象」や生態系の変化、沿岸漁業の悪影響が指摘されている。これらが、地球温暖化や気候変動に直接的に結び付くものかどうかはまだわからない部分もあるが、このままでは懸念される事態も考えられよう。
 二〇〇五年現在五三基稼動する日本では、九千万キロワットもの廃熱を放出している。十年ほど前、国は、二〇三〇年段階で一億キロワットを原子力で、と目標に掲げた。現在その半分にも達していないが、今度の原子力政策大綱にも、その強気の姿勢は崩していない。ほぼ幻想とはいえ、そこで想定される廃熱効果はいかなるものか。降り注ぐ太陽エネルギーを超える密度と量の人工的熱エネルギーが放出されることになる。そして、一カ所に廃熱が集中する原発の性格からもなお、これは憂慮に値する。世界一原発が密集した柏崎刈羽原発七基の原子炉からの廃熱は、一五五〇キロワットに及ぶ。既に様々な局所的気象変化が報告されている。
 その上でなお、原発は「環境にやさしい」「地球温暖化防止対策に」と連呼するのだろうか。
 (5)原発の極め付け、放射能の大問題
 これまで、原発推進政策が地球温暖化防止や省エネにはなり得ないものであることを、原発の本質を占めるところの放射能の大問題については一旦除外して、述べてきた。それでもなお、問題の多いことは理解いただいたとは思うが、やはり放射能や被曝ぬきに原発問題を語るわけにはいかないので、本稿にこれらのあまたの問題に深く論及する意図がないことを断った上で、最後に最小限だけ触れておきたい。
 私は、地球温暖化にとって二酸化炭素増加は好ましくないから、それを(発電システムでは)出さない原発こそ現時点での切り札だ、という考え方をずっと批判してきたが、原発推進論者の多くが放射能の大問題に関して楽観的である点を不可解に感じてきた。例えば原子力政策大綱にも「放射性廃棄物は人間の生活環境への影響を有意なものとすることなく処分できる」(10P)と言い切ってしまっている。願望ではあろうが、事実はそうではない。核科学の研究の進展は、むしろ微量被曝でも(生命にとってしきい値はなく)癌や白血病にかかる可能性が否定できないことが示されている。放射性廃棄物の超長期にわたる安全管理術は、いまだに見出されていない。物事を先送りしつつ、科学や哲学ではなく政治で(カネで)解決しようとしているのが、残念ながら現実だ。それ自体は無害である二酸化炭素と、生命と共存できない放射能と、天秤にかけて、後者を「環境にやさしい」とウソぶく顛倒ぶりには、まじめに反論する気力が失せるほどだが、後者の放射能こそが、原発特有の問題であり、冒頭に掲げた『環境・平和・いのち』いずれも直撃させずにはおかないことを、まずは確認しておきたい。
 さて、まずは過酷事故の危険性をあげなければならない。かつてはそうした懸念について、確率論的な過小評価がなされたことがあるが、一九七九年の米国・スリーマイル島(炉心溶融事故)、八六年の旧ソ連・チェルノブイリ(核暴走事故)の原発事故の事実をもって、完全に崩壊した。いずれも環境に大量の放射能を放出したが、後者では、北半球を中心に地球規模の汚染をもたらし、原子炉の半径三〇キロを永久居住禁止区域にさせた。日本でも九〇年代以降大小様々な事故を繰り返した。九九年の東海村・JCO臨界事故では、二名の作業員の被曝死のみならず、住民への中性子被曝をも余儀なくさせた。「地震の活動期に入った」といわれる今、大地震と過酷事故の重なる『原発震災』の可能性も大いに憂慮される。
 たとえ事故を起こさなくとも、原発の稼動によって放射性物質が蓄積し続けることに留意しなければならない。JCO事故ではわずか一ミリグラムのウランによってあのような事態をもたらしたが、百万キロワット級の原発が一年間稼動すれば約一トン、一基で必然的に原爆一千個分が生み出される。そして、これら膨大な放射性廃棄物を環境から隔離する気の遠くなる永続的管理(少なくとも数万年以上)に対して、誰が責任をもつというのか。
 日常的な放射能放出と被曝も忘れてはならない。原発では常時、濃度規制はあるものの希ガス類をはじめ様々な放射性物質が環境に放出されている。(再処理工場では、それが一日で一年分という) そうした中で働く原発労働者は、当然常時被曝を余儀なくされる。これらの被曝者は既に三九万人に昇っている。癌や白血病での死亡者もかなりの数になっていることが推定されるが、労災認定も極端に少なく、救護策もゼロに近い状態で多くは闇に葬られている。そして、原発の老朽化に伴う大型機器の補修や交換作業の増加で、九〇年代以降、被曝線量もまた増加傾向をたどっている。(一基当たりの年間被曝量は主要国で日本がトップ)
 何度も繰り返すが、こうしたいくつもの放射能故の大問題を不問に付した上で、政府や電力会社が、原発は「環境にやさしい」「地球温暖化対策に」と唱え続け、私たちは「必要悪」と受け入れ続けていくのだろうか。
 
  私たちはどのような選択をすべきか
 
 さて、私自身その発足に関わりまた世話人を務めている『原子力行政を問い直す宗教者の会』(以下『宗教者の会』)では、一九九七年に、「国策」=原子力政策の転換を求める提言 をまとめたが、その中の(4)未来展望(ビジョン)の探求の項目で、次のように記した。
   その上で、エネルギー対策としては、原子力に代表される巨大資本・技術による独占管理体制から、太陽光熱、風力、地熱、バイオ等による地域の小規模分散型の発電(新エネルギー)へ転換をはかるべきである。私たちは、再生可能で公平な自然の恵みに感謝しながら、これを用いることで、自然や人間の分断された関係を修復し、有機的なつながりを取り戻すことができる、と期待している。
   また、私たちはエネルギー消費のあり方自体も問わなければならない。自身の生活のあり方を見直す中で、過剰な物質的欲望から脱し、足ることを知り、自然の前で謙虚でありたい。省エネルギーのそれぞれの推進と努力は今後欠かせない。既に省エネを効果的に実行したり、太陽光発電の導入に独自の助成策を進めている自治体もあらわれている。
   私たちは、これらの動きを踏まえ、さらに市民や各分野の人々と提携を深めていきたい。私たちは、原子力に代表される、国家が人の生死を規定するあり方を敢然と拒否し、また生死を国家によって奪われてきた人々と思いを共有しながら、自然やすべての「いのち」との共生を目指し、互いに支え合い、敬い合う社会の実現に向けて、なお一層の信と力をささげよう。出会うことの決してない遠い将来世代と、今、私たちは確実につながっている。
 この『提言』をまとめた一九九七年とは、COP3会議で京都議定書が採択された年だが、「二酸化炭素削減のために二〇基ほどの原発増設」が語られた時期とも重なる。こうした国の姿勢の不当性・無謀性あるいは非現実性は繰り返さないが、前述の通り、最初から「地球温暖化防止」を真剣に考えていたというよりは、これを原発推進の理由付けにしたのが実態といえる。エネルギー研究開発予算に見る原子力への極端に偏重した(再生可能エネルギーへの冷遇)姿勢、相変わらずの右肩上がりの経済成長路線の追認、エネルギー消費の伸長を前提にした言葉ばかりの(しかも未達成を民生部門∧国民∨に転嫁させようとする)「省エネ」、これらは今日まで何ら変わっていない。
 これに対して、『宗教者の会』では、根本的な転換を求め、宗教者としての思いを盛り込みながらも、あるべき方向性を示してきた。『提言』を提出し、国には「諌曉」を重ねているが、力及ばず、改めさせる所までには至っていない。が、この間、情況は厳しいものがあるものの、この国策の綻びもあらわになりつつあり、私たちの予見の正しさを確信している所でもある。それは、大量生産・大量消費を促す政府のエネルギー需給見通しに対し、市民の立場で(供給者側の設計に基づくものではなく)効率的技術や省エネを想定し、需要者側の適切な消費エネルギーのモデルを試算する試み等で、裏付けられつつもある。
 それによれば、最終エネルギー消費量が一九九〇年比で12%増加した九八年を基準にして、現状推移ケースでの二〇一〇年はさらに12%の伸びを示す。積極的な効率的技術や省エネ行動で消費量を削減した二〇一〇年効率化ケースでは九八年比で2%の減少を示す。なお、両者とも同じ基礎指標量を想定した上での計算。つまり、仮に経済成長路線をとるにしても消費エネルギーの削減は可能、ということがわかる。さらに、得られた最終エネルギー消費量を使って発電電力量を想定すれば、これも大幅に削減できる。そして、その削減分を原発ゼロに適用し自然エネルギーを積極的に導入すると仮定して一次エネルギー供給量を求めれば、二〇一〇年効率化ケース値は、九八年比でマイナス一三%(二〇一〇年現状推移ケースでは同プラス一四%)となる。また、この場合の二酸化炭素排出量は、九八年比でマイナス七%、九〇年比でもマイナス二%を示した。こうした結果から「原子力発電がなくなっても必ずしも電力は不足せず、また二酸化炭素排出量も増加しない方法が存在し、さらには省エネをしても不便な生活に戻るわけではない、ということが分かりました」と結論付ける。(以上「市民のエネルギーシナリオ二〇五〇」より)
 
  本宗宗徒としてどうするか
 
 そこで、前に話題にした宗会での「省エネ」提起の件にもどりたい。具体的データからも積極的な省エネ行動が効果的であることを知った今、九〇年代の宗門内での論議の反省も含め、身近で矮小化されがちな、時に自己満足的な論議は脱する必要があろう。周囲の人々(本宗教師も含め)の行動形態を見ると、いささかハードルが高い気がしないでもないが、最低限「省エネ」生活が義務感ではなく快適であることと「浪費」が痛みと感じられることが基本だとは思う。その上で、私たちの立場として、信仰生活態度と重ねた「信仰運動」として展開させるかたわら、全体のエネルギー事情をも見据え、社会に(企業や行政にも)はたらきかけることが肝要だろうと思う。これらは、他宗門では曹洞宗あたりが早くから積極的に行っているようでもあるので、その経緯や成果や反省等も参考にすべきではあろう。(二番煎じの嫌いはあるので、それなりに独自性を出す工夫は必要になろうが)
 ところで、『宗教者の会』の二〇〇四年の全国集会では、「少欲知足」そして「共生共貧」をキーワードに据えて論議を試みた。この時の声明文を一部引用しよう。
   それでは、原発を必要としない社会とはいかなるものか。仏教経論に示される『少欲知足』=貪らず足るを知る、あるいは、聖書の「貧しいものは幸いである」が想起される。そして、昨今多用されている「共生」という語は、有限な生態環境を考えれば、欲望の肥大化を必然とする「共栄」ではなく、分かち合いとしての「共貧」と重ねられるべきであろう。これによってこそ、一切の生きとし生けるものが、安定を保ちながら、等しく幸福と安穏を得ることができるのだ。
 もちろん「少欲知足」とは、普賢菩薩勧発品のそれである。そこで、やはり法華経はスバラシイ、と言って独り悦に入り、くれぐれも思考を停止させてはいけない。すなわち、それとは裏腹に強欲に物質文明を追い求めた行く末に原発の実相があり(「都市」が「辺境」を、「現代」が「将来」を差別し打ち捨てる)その「罪」を自覚することを抜きに、この言葉をもてあそんではいけない。また、スッタニパータに見るブッダのことば(中村元訳)に「足ることを知り」の後段に「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ」と続く意味を吟味すれば、まずは貪る(財を独り占めする)ことを強く戒めていることに気づくことができよう。その上に「貧」(財を分かち合う)のあり方が求められることになる。そして、人間を含めたこの生態系が(すなわちよく言われるように資源や一次エネルギーが)有限であるならば、これまたよく言われるような欲望を扇動させる「共存共栄」とはつながらないはずだ。むしろ「共生共貧」こそが求められてくる。なお、この語は槌田劭氏の『共生共貧 21世紀を生きる道』(樹心社)の著書に触発されたものではあるが、必ずしも全面的に氏の論旨に賛同するものではない。それはともかく、今後私たちが法華経を読み行ずる中で、いかに「分かち合い」を実現させていくかが、大いに問われることになろう。それこそが真の「温暖化防止対策」「環境にやさしい」であり、「省エネ」のあり方でもあるはずだ。
 
  最後に
 
 自坊の庫裡の屋根には、たまたまだが京都議定書の採択された一九九七年から、三・九二キロワットのミニ太陽光発電を敷設している。東北という日照上のいささかのハンディはあるものの、毎日粛々と発電に励み、電力を供給している。余剰電力は東北電力に売電しているが、二〇〇五年十月現在で累積八九〇六キロワット時の電力を提供できた。夏の需要ピーク時に(当方はエアコンなしに涼風に身を委ねながら)ごく僅かとはいえ、逆に電力を供給する自負と快感は何とも格別で、省エネ意識が自ずから高まることも確かだ。同時に、今さらながらではあるが、自然の恵みへの感謝の念を、そして宗祖が拝した日天子への思いを深めている。立教開宗七五〇年に向かう時期であり、お題目総弘通運動の趣旨からしても、たとえば清澄のハコモノ建立の際に「洋上を昇り来る太陽光を拝みつつ、その恵みを発電という形に現して」というような発想や議論はなかったものか、と九〇年代の「環境問題」議論の渦中でもあったはずなので、なお関心が注がれるところではあるが。ともかくも、二〇〇四年、仏教タイムス記者から太陽光発電についての取材を受けた際は、法華経や宗祖の教義的動機は力説しておいた。(説明不足で一部珍妙な解釈もなされているが)∧週間仏教タイムス二一四二号 二〇〇四・九月九、一六日合併号∨
 ただ私は、こうしたことは手段の一つに過ぎないとは感じている。太陽光発電なり風力発電なり、再生可能な自然エネルギーの供給に、個人であれ協同であれ関わることを通じて見えてくること感じてくることが、何よりも重要だ。エネルギーに関しては、原発とは全く対極にある小規模分散型の発電形態を軸に、人々がつながり合っていくことが期待されるのではないか。実際ドイツや北欧では、政府・NGOレベルで、時には揺り戻しがあるにしても、自然エネルギーを高める方向を(脱原発を)模索し、実績も収めている。これらは、単にエネルギー問題に止まらず、人々の生き方すなわち宗教性というところまで、昇華されていくものと思う。
 従って、本稿で中心的に述べてきた原発問題は、決してエネルギー問題や環境問題に止まるものではない。私に言わせれば「提婆達多」的な役回りをもつ原発というものを、どうとらえ、また克服していくかは、極めて宗教的課題といえる。昨今の異常気象の原因の一つに地球温暖化現象があることは確かだとしても、それへの対応に安易に原発増設で臨むことは、放射能地獄というもう一つの前者とは比較にならない破局の道を用意することに他ならない。強者が弱者を踏み付けない、真の共生の道を、私たちは少々辛くとも歩まなければならないのだ。
 宗門の新運動に於いても、『環境・平和・いのち』の具体的展開が求められよう。そして冒頭述べたように、今、大いなる岐路にある中で、教団としても個人としても、それが公益性をもつことは間違いない。
 
  【参考図書・記事】
   ◇宗報 二〇五号(平成一七年四月号) 日蓮宗
   ◇パンフ『六ヶ所が好きだ』 (花とハーブの里)
   ◇「知恵蔵」二〇〇五  (朝日新聞社)
   ◇「原子力政策大綱」(平成一七年一〇月一一日) 原子力委員会
   ◇ブックレット『このままだと「二〇年後のエネルギー」はこうなる』 高木仁三郎(カタログハウス)
   ◇ブックレット『原発と地球環境』  (原子力資料情報室)
   ◇ブックレット『温暖化防止に原発!?』 (原子力資料情報室)
   ◇真宗ブックレット『いのちを奪う原発』 (東本願寺)
   ◇ブックレット『市民のエネルギーシナリオ二〇五〇』  勝田忠広(原子力資料情報室)
   ◇「原子力撤退への道」−脱原発ロードマップ試案−  (脱原発政策実現全国ネットワーク)
   ◇「原子力市民年鑑」二〇〇五 (原子力資料情報室 編)
   ◇パンフ『原子力政策のパブリック・コメントに意見を寄せよう』(原子力行政を問い直す宗教者の会)
   ◇フォーラム_*12 (原子力行政を問い直す宗教者の会)
   ◇「共生共貧」  21世紀を生きる道  槌田 劭 (樹心社)
   ◇「ブッダのことば」スッタニパータ  中村 元 訳(岩波文庫)
   ◇週刊 仏教タイムス 二一四二号(〇四・九月九、一六日合併号)
 

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