現代宗教研究第40号 2006年03月 発行
第二回宗教と生命倫理シンポジウム「いま、臓器移植法改正問題を考える」を聴聞し
第二回 宗教と生命論理シンポジウム
「いま、臓器移植法改正問題を考える」を聴聞し
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 小 林 貫 誠
「脳死を人の死とするのか」、「臓器移植には本人の意思は不要なのか」—臓器移植法改正をめぐり推進論者と慎重
論者との見解は大きく隔ったままの状況が続いています。脳死・臓器移植は、個々の人生観、死生観に深くかかわる
問題であるという趣旨のもと行われたシンポジウム。
六名のパネリストと共に、島薗進氏のコーディネーターのもとで多くの意見が出され、その中で自分なりの解釈と何人かの医師の意見、そしていくつかの著書をもとに述べさせていただきます。
○脳死移植の状況
一、脳死と植物状態の相違
二十世紀の前半までは、医師たちは呼吸停止・心拍停止・瞳孔散大の「三兆候」によって人間の死と判断してきました。ところが、二十世紀後半に人工呼吸器が発明されると共に、もうひとつの新しい死の判定基準が加わりました。
それが「脳死」です。ではいったい脳死とはどういう状態を指すのでしょう。また、植物状態との違いはどこにあ
るのでしょうか。ここにある定義が示されています。
・脳死状態
脳幹あるいは脳全体が機能を停止しているが人工呼吸器で強制的に呼吸し脳に酸素を送れば、ある一定期間は心臓を動かすことができる状態。
・植物状態
なんとか脳死をまぬがれて自力で呼吸をしていて、胃腸も働いているが、他からの呼びかけや刺激に対して反応しない状態が三カ月から半年以上続いている状態。
つまり、植物状態とは最低の生命維持だけは自力でできるが、いわゆる人間らしい機能(思考力、愛情表現など)は働いていない状況であり、脳死はそれに加えてさらに生命維持機能まで奪われた状態をいうことです。
二、脳死と人工呼吸器
脳死と人工呼吸器は非常に密接な関係があります。人工呼吸器が発達するまでは、脳死になればすぐ心臓死になったので脳死という死の概念がでてきません。ところが脳死になっても人工呼吸器を取り付けることができるようになると、心臓はそのままかなりの期間動き続けられるようになるわけです。作家の加賀乙彦氏の著書に、初めて脳死者に出会ったことをこう述べています。
脳死者に私が初めて出会ったのは一九六〇年だった。ある日、私の担当患者の様態が急変し、ついに呼吸停止した。
私は患者にまたがって自分の手と体重を使って人工呼吸をおこなった。そこにアメリカ留学から帰ったばかりの若い医師が来て、人工呼吸器をつけたらどうかと提案した。咽頭を切開してチューブを挿入し、大きな人工呼吸器が運びこまれた。それから一週間、患者は電動装置によって呼吸を続けた。
患者は脳炎であり、呼吸停止をおこした時点で、すでに延髄の呼吸中枢がおかされていた。いままでの医学の常識からすれば、その時点で家族に死を告げたはずであった。それが人工呼吸器によって強制呼吸をすれば心臓が動き続けるという新しい現象が始まった。患者の危篤を知らされて遠隔地から来た親戚の一人から、いかにもうんざりとした表情で、「先生、こうやっていると生き返るんですか」と質問されて私は絶句した。
(加賀乙彦氏『脳死と臓器移植を考える』より)
遠隔地から来た親戚の「先生、こうやっていると生き返るんですか」という言葉は、脳死の抱えている問題点を象徴しています。実際、非常にドライな考え方をすれば、生き返る保障もないままに一週間ほど命がながらえたとして何かメリットはないかと考えますと、このようなことが挙げられます。
第一は、
・家族が本人の死を受容するための助けになる。特に、突然の事故のため脳死になった場合には、家族はだんだんと衰弱していく過程を見守るうちに徐々に本人の死を受容することができる。
また、その時に立ち会うことができたとして我々教師はその現実を冷静に仏教的に伝えることもできる。
第二は、
・臓器移植です。(本人の意思があっての事)脳死の段階で人工呼吸器をつけ心臓や肝臓の状態を良好に保つ処置をすれば、それらを他人に移植することができる。そういうことが可能なわけです。しかし、患者さんが脳死状態になり、しかも臓器提供を申し込まれた場合、家族の心は複雑に揺れ動きます。「はたして医師の診断は、ほんとうに正しいのだろうか? もしかして奇跡でも起こって助かることがあるのでは?」「臓器を取られても無事に成仏できるだろうか?」などというさまざまな思いが心の中で錯綜することでしょう。
しかし、脳死移植の論理そのものは非常に明快です。一方に臓器移植以外に助かる道のない患者さんがいて、もう一方には、脳は死んでいるが他の臓器はまだ健全な脳死者がいる。そこで、ひとりの脳死者の臓器をそれらの患者さんに移植すれば、ひとりの生命が終わることによって複数の生命を救うことができるということです。それは社会的にも非常に意義のあることで、遺族にとっても肉親の臓器が他の誰かの身体の中で生き続けているということは大きな慰めになると考えます。
しかしどこまでが、仏教でいう布施行であり菩薩行であるという認識の相違が、社会の倫理あるいは治安を大きく左右する結果になりかねません。ただその中で臓器移植の恩恵があることは現実です。
◆臓器移植の恩恵
一九八三年にイギリスで肝臓移植を受けた医師平井国夫氏(一九八八年に脳内出血で死亡)は自分自身の体験をつぎのように述べています。
私自身、移植前に約一年半ベットに縛りつけられ、風呂にも入れず、トイレにも行けないという生活を送りましたが、はたしてそれが人間らしい生活といえるでしょうか。そのような生活を何年続けられても、人間として幸福とはいえないと私は思うのです。
人間、健康なときには、健康であるということをまったく意識しません。毎晩鼻唄など歌いながらお風呂に入って汗を流すことがいかに幸せであるか。まったく考えないでしょう。が、ベットの上で排泄し、それを看護婦さんに頼んで捨ててもらわなければならない人もいます。そうしたときに感じる、あの耐えがたいような気持ちは、経験した人にしかわからないことだと思います。
現在は移植を受けて約八カ月経ちますが、行動上何の制約も受けていませんし、食事制限もありません。充実した生活を送り、日々健康であることの喜びを感じています。
慢性透析患者は一回四時間から七時間の血液透析を週二、三回受けます。またその生活は、厳しい食事制限と多くの合併症、全身倦怠感や末梢神経炎、血圧の変動や骨痛などに悩まされることとなります。それが腎臓を移植した後には行動範囲が拡大し、食事制限も不要となり、さらに妊娠・出産の可能性もでてきます。
このように臓器移植には生命の充実が得られるのです。百歩譲ってその時期が短期間であったとしても、健康感覚、社会生活の充実感には格段の差があります。
確かに医学という学問の場においては、臓器移植もまた完全なものではありません。三十%の人が一年も生きられずに死亡するということも重大な事実です。けれどもたとえ、臓器移植を受けることは助かる見込みが一%しかない賭だとしても、生きたいと願う患者さんはそれに賭けてみると思うのです。
私の場合、このままでは一〇〇%死ぬことがわかっていました。だからたとえ一%の確率しかないといわれても受けたと思います。たとえ一%の望みしかないとしても、それに賭けたいという人がいれば、責任をもって手術してあげるのが医師としての務めだと思うのです。
(中山太郎編著『脳死と臓器移植』より)
不治の病におかされている人の辛さは、それを体験した人でなければわかりません。「たとえ一%の可能性であっても手術に賭けたい。短期間でもいいから充実した生活がしたい」という患者さんの気持ちは誰も無視することはできないでしょう。しかし日本の現状では、これらの人々の望みは容易にかなえられそうにありません。そこで多くの人が移植を受けるために欧米などに行きます。たしかに臓器移植手術は欧米において、日常医療のなかに定着し臓器の移植の件数は膨大な数にのぼっています。(次ページ・表参照)
しかし、それでもどこの国でもドナー(臓器提供者)不足は深刻なのです。そのような状況の中に日本人が割り込むことは好ましくないことは明らかです。どうして欧米では臓器移植が早くから行なわれ、日本ではその実施が遅れているのだろうか。そこで、つぎに欧米における臓器移植の思想的背景について考えてみます。
○臓器移殖の思想的背景
次の三項目について以下にのべます。
イ.心身二元論
ロ.プラグマティズム
ハ.遺体に対するこだわり
イ.心身二元論
欧米の臓器移植の思想的背景としては、心身二元論とプラグマティズムが挙げられます。
心身二元論の端緒をつくった人はフランスの哲学者デカルト(一五九六—一六五〇)です。デカルトは、変わらない実体はふたつあると考えました。ひとつは精神であり、ひとつは物体です。両者ともたしかに存在しています。しかし、その二つのうちでより確かな存在はどちらだろうと考えたときに、デカルトは精神のほうがより確かな存在であると断言しました。普通、私たちは目で見える物体のほうがより確かな存在あると考えがちですが、デカルトは目に見えない精神のほうがより確かな存在であるとしたのです。あの有名な「我思う、ゆえに我あり」という言葉に象徴されているとおりです。つまり、人間は考えることができるからこそ存在しているのであり、その逆ではありません。すべてのものを疑ってもどうしても疑えないものがあるとしたら、そのように疑っている働きそのもの、すなわち精神だけであると考えたわけです。だから、人間は精神的存在(理性的存在)であり、決して肉体的存在ではないのです(これが近代哲学の根本理念です)。
そのように考えると、人間の身体というものは単なる物体にすぎないということになります。肉体はただ精神を容れるための器なのです。それは精巧に仕組まれた機械のようなものと考えてもいいかもしれません。そうすると、その精巧な機械の部品(臓器)が壊れたら、まだ壊れていない部品と交換すればいいわけです。すなわち臓器移植すれば、また機械は動き始めるということです。
デカルトにおける心身二元論のもう一つの特徴は「脳に対する考え方」です。前述したように、デカルトは精神と肉体をまったく別のものと考えたのですが、現実の人間を観察するとどうしても精神と肉体を切り離して考えることができないジレンマに陥ってしまいました。たとえば、悩みがあると食欲がなくなり、胃もチクチクと痛むのはどうしてでしょう。自分の考えが口から言葉となって出てくる事実はどう説明したらいいのでしょう。それは心身二元論では説明できません。そこで、精神と肉体をつなぐ中継点のようなものが必要になりました。考えぬいたすえにデカルトが目をつけたのが、脳髄の中央にある松果腺でした。この松果腺を精神と肉体の中継点にしようとしたのです。その理由は、脳髄の他の部分はすべて対をなしているが、松果腺はただひとつしかないので、すべての心的現象を合一するのにふさわしい場所だと考えたからです。
このように、デカルトが人間の精神作用と関係の深い場所として脳の一部を選んだということは、ヨーロッパ人らしい選択です。ヨーロッパ人は、「人間の精神活動の源は脳にある」と考えるからです。だから、脳が死んだら、もうそれで人間としての価値はないわけです。
ところで、日本人はどうでしょう。日本人の多くは精神ともっとも関係のある場所は心臓だと考えています。日本人は人を殺す時、頭を狙うことは滅多にありません。心臓を狙います。自殺でもそうです。第二次大戦後戦犯となった東条元首相が、医師に心臓の位置に印をつけてもらったうえでピストル自殺を図った話は有名です。これに対して、欧米では口論した時などに「脳を撃つぞ」という言葉が使われるほど、殺人などの場合は脳が狙われます。自殺の場合も口の中にピストルを入れ脳幹部めがけて発射する人が多くいます。脳を生命の源泉と考えているからかもしれません。とにかく、脳死を死とすることに対して欧米人は日本人ほどに抵抗を感じないことは事実です。
ロ.プラグマティズム
臓器移植を支えているもう一つの考え方はプラグマティズムです。プラグマティズムは十九世紀後半にアメリカを中心として起こった思想です。そもそも「プラグマ」とはギリシャ語で「行動」の意味であることからもわかるように、プラグマティズムにおいては観念的な絶対的真理というものはありません。ひとつの命題が真理であるかどうかは、その命題を実行した結果によって判断します。自然科学において、まず実験をし、その結果を確かめながらつぎの実験に進んでいくように、まず行動し、その結果を確かめながらつぎの行動に移っていくという思考方法がプラグマティズムの特徴です。そして、常に社会全体の視点からみた場合の幸福の増進を、重要な測定基準とします。その点では、ベンサムの「最大多数の最大幸福」に象徴される功利主義に似たところがあります。
この考え方にしたがえば、心臓死を死とすることにこだわるよりも、脳死を死としたほうがより多くの人びとを救えることになります。社会全体の幸福の増進を考えた場合、一人の死によって多くの人びとの生命が救われるという結果のほうが重大だからです。
実際、アメリカの医師たちも「まず行動あり」という考え方で臓器移植を推進してきました。移植技術の未熟な頃には多くの失敗を繰り返していましたが、それでも、成功例を世間に広くアピールし、「この元気になった患者を見てください」と訴え続けました。とにかく実績を積み上げ、世間に移植の長所をアピールするわけです。そして、臓器移植法案の成立へと社会を動かしていったのです。
しかし、日本の移植医たちは法律面が整備されない限り脳死移植には踏み切れないという姿勢をとり続けました。そして、ついに一九九七年に臓器移植法が成立したわけです。
この臓器移植法は、移植を待ち望んでいる人びとにとっては朗報でしたし、移植医にとっても長年待ち望んでいた法律でした。しかし、その内容をみてみると、かなり厳しい条件がつけられています。
㈰本人(十五歳以上)が臓器提供の意志を文書で表明していること、㈪家族の承諾があること、㈫複数の医師による脳死判定の実施などの条件です。これでは臓器移植のチャンスはなかなか巡ってこないのではないかといわれています。このように、日本人は諸外国に比べて臓器移植に慎重な態度をとり続けています。なぜ日本人は臓器移植にこれほどまでに慎重なのでしょうか?
ハ.遺体に対するこだわり
日本で臓器移植がなかなか進まない原因として、「遺体に対するこだわり」が考えられます。欧米人の大部分が信仰しているキリスト教では、魂と肉体をはっきりと分けて考えます(デカルトの心身二元論もキリスト教の影響を受けている)。キリスト教信者は死後に存在する「魂の世界」を信じているため、遺体そのものに対するこだわりはあまり強くないようです。アメリカの病院における死体処理の方法も日本とは随分違います。日本の看護婦は遺体に一礼してから丁寧に処置をしていきますが、アメリカでは遺体処理は看護助手の仕事だそうです。そのやり方も日本と比べればかなり乱暴です。肛門から腸内容物が流れ、口腔から血液があふれていても一向に頓着せず、そのままビニールで遺体を包み、死体運搬車に一気に移してしまう人もいるそうです。看護助手にとっては、死んだ人は物体と同じなのです。もちろん看護学級においても死後の処置の実習はありません。
このような死後の処置に関する日本とアメリカの違いは、どちらがいいとか悪いとかという問題ではなく、双方の文化の違いに起因するものといえましょう。
日本人が古来から描いている「あの世」は決して「この世」と異質のものではなく「この世」の延長線上にあるもので、「あの世」と「この世」との間にはお盆やお彼岸などの行事を通して交流があります。また、ご先祖様が自分たちを守ってくださるという信仰も根強く残っています。
したがって、日本人は遺体そのものに非常にこだわる国民なのです。一方、欧米人にとっては、死体は魂がでていった後の脱け殻にすぎないのかもしれません。
戦争の場合でも欧米人は遺体を現地で埋葬してしまう場合が多いそうですが、日本人はなんとかして遺骨や遺品を日本に持ち帰ろうとします。また、事故などの場合でも、日本人は遺体を確認するまでは死を認めようとしません。一九九三年に大韓航空機がソ連の戦闘機に撃墜されたとき、アメリカ人はいち早く身内の死を認めて慰霊祭をおこなおうとしたのですが、日本人は最後まで遺体の確認にこだわって合同慰霊祭を拒否し続けたということです。また、一九八五年八月に日本航空のジャンボ機が群馬県山中に墜落したとき、炎暑の中を血眼になって本人の遺体や遺品を捜し回る遺族の姿は外国人記者には理解できなかったそうです。
日本人の遺体に関するこだわりはしっかりと心の深部にまで根づいているうえに、日本人は五体満足で「あの世」に送りだすことに非常に固執している面があります。その意味では臓器移植は人間の身体を故意に傷つける行為ですから、家族にとっては心の痛むことなのです。
◆臓器移植のための社会的条件
臓器移植の推進のためには、当然、多くのドナーが必要です。そして、そのドナーの大半は頭部外傷者、つまり事故死者です。この事故死者がスムーズにドナーになれることも臓器移植にとって重要なことです。その点では、アメリカでは比較的簡単に事故死者がドナーになりやすいシステムになっています。検死制度が非常に簡素化されているからです。
アメリカには事故死者を分類することを職務とする検死官がいるそうです。彼らは、警察・検察などからは独立しており、死体処理に関しては大きな権限をもっています。連絡を受けて現場に急行した検死官が犯罪の可能性がないと判断すれば、警察や検察を通すことなく、すぐに、死亡確認することができます。ところが日本の場合、異状死体(不自然死または変死した死体)はすべて、まず警察に届けられ、警察官によって検視(検死)されます。そしてその場合、検視が行なわれるのは「心臓死後」という規則になっています。臓器移植と結びつけて考えた場合、一番問題になるのはこの点です。救急センターに運びこまれた頭部外傷者が脳死状態になっても、医師たちは「まず警察に連絡し、心臓死後に検死を受けなければならない」という法律に縛られているため、脳死者を臓器移植に回すことができないのです(ただし、一九九七年の臓器移植法案の成立後は臓器移植する場合に限って脳死を死と認めることになった)。
また、アメリカでは多くの移植コーディネーターが活躍していますが、日本ではまだまだ移植コーディネーターの数が少なく、その歴史も浅いので、いざという場合に家族に対して十分に説明したうえで同意を得ることができない可能性もあります。つまり、臓器移植におけるインフォームド・コンセント不足の可能性があるということです。
一九九三年、大阪千里救急救命センターで脳死状態になった男性の臓器提供(九州大学において心臓死後に肝臓移植)においてもインフォームド・コンセント不足が問題になりました。移植後、その男性の母親は記者に対してつぎのように述べています。
「取るのはよろしいねん。そのときなぜここに書いた時に『おばあさん、皮も取りまっせ。目玉も取りまっせ、腎臓も取りまっせ。みんな取ってしまいまっせ』いうて何でいうてくれはらんかったんかなと思うて。肝臓と腎臓は書いてあったような意識はあるんですけど、その他の臓器は何が何やらわからしませんでした。私ね、頭がもう真っ白になって気が動転しているから、そいで先生のほうからトントントントントンとこうしはったんで「何をしてはるんかなぁ」と……。皮膚まで取られるとは夢にも思うてなかった。葉書大三十六枚もやと聞いたときには、『ワァ! ○○さん、すまなんだなあ』と思うてね。その時はもう下をうつむいてしまいましたわ」
このケースでは、医師のほうは「全臓器提供に同意してもらった」と述べていましたが、息子の死を前にして気が動転している母親、しかも医学にはまったく素人の母親にとっては肝臓・腎臓の提供までは理解できたのですが、「トントントントントン」が全臓器提供を意味していたことなど想像もつかなかったようです。とくに、この母親は皮膚を大量提供してしまったことを非常に後悔しています。「ワァ! ○○さん、すまなんだなあ」という母親の悔恨の気持ちはいつまでも癒されることはないでしょう。結局、医師と母親とのコミュニケーション不足から思いもよらない多くの臓器が提供されたわけですが、このような両者の食い違いを防ぐ意味でも、臓器提供の際のインフォームド・コンセントが非常に重要になってくるわけです。家族が納得するまで何回も説明し、きちんと了解してもらったうえで臓器移植に踏み切らなければ、残された家族に大きな心の傷痕を残すことになるということです。
しかし、このケースにおいても、母親は息子の臓器が誰かの体内で生き続けていることに大きな慰めを見いだし、「そりゃ、嬉しいですわ。もう、飛んでいって抱きしめてあげたいです」と述べています。その意味では、この臓器提供も意義があったわけで、それが臓器移植の大きなメリットでもあります。
日本においても、やがては、欧米のように臓器移植が日常医療のひとつになる日がくるかもしれません。しかし、臓器移植が盛んになると、また、新しい問題が生じてきます。それは深刻なドナー不足です。
◆ドナー不足の果てに
ドナー不足に対して各国はいろいろな法律を整備しています。とくにヨーロッパでは「反対意思表示方式」を採っている国がかなりあります。死者が生前に臓器の摘出に反対する意思を示していなければ、家族の承諾がなくても死体からの臓器摘出が許されるということです。反対意思を示していない場合は無断で臓器を摘出されても文句はいえないわけです。オーストリア、ベルギー、ルクセンブルグ、スペイン、ポルトガル、ポーランドなどでこの方式が採用されています(一九九七年現在)。したがって、そのような国では臓器移植の件数が確実に増加しています。しかし、それでもなお、ドナーは不足していて、多くの患者がドナー出現を待ちきれずに亡くなっているのが現状です。
また、アジアなどではヨーロッパとは違った意味での問題がでてきています。つぎの報告は、台湾でNHKの脳死プロジェクト班が死刑囚に面会した時のものです。
死刑囚に面会するために刑務所に行った。反対側のテーブルに一人の青年が座っていた。「あの人の罪は何か」と尋ねると、通訳は「窃盗罪だ」と答えた。私の顔から血の引くのがわかった。「あなたが全臓器を提供すると聞いたが、それでいいんですね?」と聞くと、「自分の意志で決めました」とのこと。「どういう動機で決心したのか」と聞くと「善の行為で社会に貢献するためです」という答えが返ってきた。私は重ねて尋ねた。「脳死という状態を理解しているか?」相手が一瞬ハッとした表情を見せたのがはっきり見て取れた。それから二言三言つぶやいてから、かすかに、首を横に振った。通訳は「ハイ、それは十分承知しています」と言った。通訳が間違ったことを言ってることは明らかだった。「なぜ、何のために?」なぜ彼は表情を変えたのか、なぜ首を横に振ったのか。悪いことを聞いてしまったのではないか。処刑を前に震える人間を前になんてことを聞いたのか。質問している自分がみじめで情けなかった。
最後に年齢を聞いた。「三一歳」と答えた。がっしりした体で幼く見える顔は逞しく日焼けしていた。刑務所長の話では、この一年余りで、死刑囚からの臓器提供は二二人にのぼるという。私の頭から「窃盗」の言葉が離れなかった。死刑囚の書いた全臓器提供の申出書が公開された。「すごいよ。これで極刑だ」私は意味もなく、ただ何度も何度もそれを確かめた。(NHK脳死プロジェクト編『脳死移植』より)
臓器提供は、原則としては、本人の同意によって行なわれることになっていますが、刑務所のような密室性の高いところで、「過去の罪を償う意味で移植に同意したらどうか」といわれれば、それを断ることは難しいのではないでしょうか。この死刑囚の場合もどことなく不自然さが漂っています。
「窃盗罪」なのに死刑というのも腑に落ちません。
台湾では一九八七年から心臓移植も開始され、一九九〇年には、移植医たちの提案で、それまで心臓を撃っていた処刑方法が頭部射撃方式に変えられました。また、死刑囚の数も「一九八二年、八人。八三年、一六人。八四年、八人。八五年、一人。八六年、一〇人。八七年、六人。八八年、二二人。八九年、六九人。九〇年、七八人」と、増え続けてています。法務大臣は「死刑囚の増加は重大な犯罪を犯す人が多くなっているためです」といったそうですが、これをそのまま信じる人がいるでしょうか。台湾では臓器提供者は称えられ、ある大病院の玄関には、提供者の名前が彫られた金ピカのプレートが並んでいるということです(以上はNHK脳死プロジェクト編『脳死移植』を参照)。
台湾のこのケースは極端な例かもしれませんし、いまでは、このようなことはおこなわれていないと信じています。しかし、このような事実があったということは忘れてはならないでしょう。
このほかにも臓器売買をめぐる黒いうわさも後を絶ちません。インドやフィリピンでは貧しい人びとがお金のために腎臓を売っているといううわさを聞きますし、ブラジルでは、あるグループが移植用の臓器売買を目的として、生後十五日の赤ちゃんをドイツに連れ出そうとして摘発されました(一九九三年)。このグループは二年間にもわたって、ブラジルの貧しい家庭から乳児を一人約二万円で買い取り、子供への移植用に売りさばいていました。乳児の臓器は心臓約八〇〇万円、腎臓約三五〇万円前後で取引され、五〇人以上の乳児が犠牲になったということです。もちろん、乳児の家族には「裕福な家庭に養子に出す」などと嘘をついての犯行でした。
(『朝日新聞』一九九三年八月十四日付)
ブラジルの事件は健康な乳児を臓器移植に利用した例ですが、最近では人為的に障害をもった乳児を産ませ、その臓器を移植に利用しようという提案さえささやかれ始めました。あるドイツの神経学者は「対外受精で胚(受精卵が細胞分裂したもの)を無脳症になるように操作し、それを代理母の子宮に移植し、生まれてきた子供の臓器を病気の人に売る」という提案をしています(レナーテ・クライン編『不妊—今何が行なわれているのかー』より)。
無脳児であったら移植する場合の倫理的抵抗が少ないという発想法から出た提案でしょうけれど、根本のところで「人間の尊厳をまったく認めない」という非常に非倫理的発想法をとっています。
このような臓器移植をめぐる黒いうわさの中で、あくまでも仮定の話であったり、単なる推測にすぎないものもありますから、このようなことを根拠として臓器移植反対を唱えることは短絡的な考え方かもしれません。大部分の臓器移植は善意のもとにおこなわれていることを私たちは忘れてはならないし、現に、再び与えられた生命に感謝して生きている人びとがいるという事実も忘れてはならないでしょう。
以上、臓器移植についてのプラス面・マイナス面を考えてみました。臓器移植は倫理的・社会的・身体的にいろいろな問題を抱えています。だから、その是非について簡単に結論をだすことはできません。しかし、日本においても臓器移植法が成立したのですから、これからは日本でも脳死移植の件数が徐々に増えていくことが予想されます。今後は、厳密な脳死判定、ドナーの生前の意思の確認、家族に対する十分なインフォームド・コンセントなどがきちんと守られているかどうか、一国民として関心を寄せていくことも重要なことではないでしょうか。
参考文献 小松奈美子 『生と死を考える』北樹出版
三井 香児 『脳死がわかる本—脳死と植物状態の違い—』日本メディカルセンター
中島 みち 『見えない死』文藝春秋
加賀 乙彦 『脳死と臓器移植を考える』岩波書店
中山太郎編著『脳死と臓器移植—日本で移植はなぜできないか—』サイマル出版社
デカルト著/落合太郎訳 『方法序説』岩波文庫
W・ジェームス著/舛田啓三郎訳 『プラグマティズム』岩波文庫
荻原 典 『日本人はなぜ脳死・臓器移植を拒むのか』新曜社
NHK脳死プロジェクト 『脳死移植』NHK出版