現代宗教研究第40号 2006年03月 発行
日蓮聖人・小松原法難の刀傷について
日蓮聖人・小松原法難の刀傷について
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 石 川 修 道
文永元年
日蓮聖人三十九歳の文応元年(一二六〇)七月十六日、鎌倉幕府の北条時頼・前執権に立正安国論を献白し、宗教と国家の関係を論じた。幕府の反応は八月二十七日、松葉谷草庵の焼打ちという形で現われた。鎌倉の街中で布教活動の日蓮聖人は、四十歳の弘長元年(一二六一)五月十二日、伊豆へ配流された。彼の地に於いて四恩抄、顕謗法抄等を顕わし、聖寿四十二歳の弘長三年(一二六三)二月二十二日、流罪を赦免された。伊豆に於いて伊東八郎左衛門、江川太郎左衛門、船守弥三郎、仁田の新田五郎重綱(小野寺氏・日目上人実父)などを教化して教線を拡張した。鎌倉に戻った日蓮聖人の宗教活動に感激した鎌倉武士が入信し、また安房国の東條御厨の施陀羅と有縁ある鎌倉在住の非人達も宗祖の教説を聴聞し入信したと考えられる。すでに文応元年八月二十七日の松葉谷焼打ちの法難には、鎌倉在住の非人の核となる人々が、白猿に擬して日蓮聖人を外護げごしている。(注1)この時期の安房国では、念仏信者の地頭・東條景信と法華信者の領家尼御前の領地問題、清澄寺の飼鹿カイシシ問題で両者の対立関係の影響下にあった。高木豊氏は、この両者の対立と日蓮聖人が領家尼を応援指導して、問註(裁判)し、本尊釈尊の手に勝訴の起請文を結び祈願した時期を建長五、六年頃とするが(日蓮—その行動と思想)、時期尚早すぎる。やはり宗祖に鎌倉武士が帰依し、富木、池上、四條氏などの助言意見(訴訟書式、手続等)を参考して問註(裁判)したと、考える方が無理がない。建治三年(一二七七)六月の四條金吾の領地問題の「頼基陳状」には、日蓮聖人は陳状(訴状)の書き手までも「大学の三郎殿か、瀧の太郎殿か、富木殿かに、いとまに随ヒてかかせ、あげさせ給フべし。」と、(注2)配慮し指定している。建長期の宗祖の活動はまだ単独布教が中心で、地頭東條景信を相手に問註(裁判)するには、後方支援が不充分であったろう。その後の布教活動により鎌倉有力武士も入信し、宗祖の社会活動が顕著になり、立正安国論献白と伊豆法難へと連動するのである。
伊豆法難赦免後の日蓮聖人の許に、故郷より聖母重篤の報があり、宗祖は四十三歳の文永元年(一二六四)八月帰郷する。可延定業御書に示される如く、
「されば日蓮悲母ははをいのりて候ヒしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(注3)
と、母(妙蓮)の蘇生と延寿の宗教的体験を経て、宗祖は生国を弘教するのである。
「安房国長狭郡東條花房ノ郷於テ二蓮華寺ニ一対シテ二于浄円房ニ一日蓮阿闍梨註スレ之ヲ。文永元年甲子九月二十二日。」(注4)
文永元年九月二十二日には、花房の蓮華寺に浄円房を訪ね、「当世念仏者無間地獄事」を説いている。宗祖の聖父・貫名重忠(妙日)はすでに正嘉二年(一二五八)二月十四日に歿している(別統)。日蓮聖人は、親と仏法とのえにし(縁)を感激して説く。
「人身をうくる事はまれなり。巳にまれなる人身をうけたり、又あひがたきは仏法、是レ又あへり。同シ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる。結句題目の行者となれり。……不思議の日蓮をうみ出タせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人也。父母となり其ノ子となるも必ス宿習なり。若シ日蓮が法華経・釈迦如来の御使ならば父母あに其故なからんや、例せば妙荘厳王・浄徳夫人・浄蔵・淨眼の如し。釈迦・多宝の二仏、日蓮が父母と変じ給フか。」(注5)
この文永元年という年は、
「文永元年甲子七月四日彗星出テニ東方ニ一余光大体及フニ一国ニ一。此又始 レ世巳来所ノレ無キ凶瑞也。」(注6)
「正嘉元年太歳丁巳 八月二十三日戌亥の刻の大地震と、文永元年太歳甲子七月四日の大彗星。此等は仏滅後二千二百余年の間未だ出現せざる大瑞也。」(注7)
撰時抄には「正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。……天いからせ給ヒていださせ給フところの災難」(注8)曽谷入道殿許御書には「青天眼ヲ瞋ラシテ此ノ国ヲ睨ミ、黄地ハ憤リヲ含ンデ大地ヲ震ハス」(注9)という天変、異常現象の年であった。しかも日蓮一門の東條への入郷は禁止されていた。
「地頭東條左衛門尉景信と申せしもの、極楽寺殿・藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度々の問註ありて、結句ハ合戦起リて候上、極楽寺殿の御方人かたうど理をまげらしかば、東條の郷ふせ(塞)がれて入ル事なし。父母の墓を見ずして数年なり。」(注10)
そして天台密教系の清澄寺、二間寺が東條景信の「飼鹿かいしし狩り」問題を契機にして念仏化を強制される情勢であった。「日蓮が父母等に恩をかほらせたる」領家の尼に日蓮聖人は味方(かたうど)となり、本尊釈迦牟尼如来の手に勝訴の起請文を結び祈願するのである。
「東條景信が悪人として清澄のかいしゝ(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を念仏者の所従にしなんとせしに、日蓮敵をなして領家のかたうど(方人)となり、清澄・二間の二箇の寺、東條が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやう(精誠)の起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけていのりて、一年が内に両寺は東條が手をはなれ候しなり。此事は虚空蔵菩薩もいかでかすてさせ給フべき。」(注11)
日蓮聖人の祈願により領家尼の勝訴。清澄寺・二間寺も安堵され、東條入郷の禁も解かれた。以上が文永元年の情勢である。
小松原法難
同年十一月十一日、浄円房の住する花房蓮華寺で布教された日蓮聖人は、天津領主・工藤左近将監吉隆の請に応じ東條郷の小松原にさしかかった時、事件は起きた。
「今年も十一月十一日、安房国東條ノ松原と申ス大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候て、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものはわづかに三四人也。いるや(矢)はふるあめ(雨)のごとし、うつたち(太刀)はいなづま(雷)のごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候、自身もきられ、打タれ、結句にて候し程に、いかが候けん。うちもらされていままでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさり候へ。」(注12)
申酉(夕五時)の時、宗祖の一行十名計りの集団が、念仏徒・東條景信の一団に襲われた。射る矢は雨の如く、打つ太刀は雷の如く多数の襲撃である。東條景信は鎌倉幕府の北条一門である極楽寺殿・北条重時に属する地頭で、妙法比丘尼御返事にいう領地問題で「合戦」経験の武士である。東條方が狙うのは日蓮聖人の命である。それと一際ひときわ大きく強靭の鏡忍房に集中的に矢が「降る雨の如く」放たれた筈である。伝説によると剛力無双の鏡忍房は若い松を引き抜き、十数人を倒したと言う。またもや射矢が鏡忍房に集中し、日蓮聖人を衛護しつつ「弟子一人は当座に討ち取られ」て討死したのである。「二人は大事のてにて候」と言われる重傷の二人とは、日蓮聖人註画讃によると「乗観房と長英房」である。鎌倉時代、武士のみならず一般人も武器の所有を認められた時代に、僧侶が護身用に刀剣を所持する事は当然あった。日蓮聖人は刀剣に関する知識が深く、弥源太殿御返事には
「御祈祷のために御太刀同ク刀あはせて二ツ送リ給はて候。此太刀はしかるべきかぢ(鍛匠)作クリ 候かと覚へ候。あまくに(天国)、或は鬼きり(切)、或はやつるぎ(八剣)、異朝にはかむしやうばくや(于将莫耶)が剣に爭テかことなるべきや。此を法華経にまいらせ給フ。殿の御もちの時は悪の刀、今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし。」(注13)
さらに行敏訴状御会通には涅槃経金剛身品第五の「善男子、正法ヲ護持スル者ハ五戒ヲ受ケズ、威儀ヲ修セズ、刀剣・弓箭・鉾槊ヲ持ツベシ」の文を受けて、
「為ノニ法華経守護ノ一弓箭兵杖ハ仏法ノ定ムル 法也。例セハ 如シ下国王為ニニ守護ノ一集ムル中刀杖ヲ上」(注14)
の如く、宗祖は正法護持のための刀剣・弓矢・鉾等の武器所持は否定しないのである。松葉ヶ谷草庵には正法護持のため必要な武具は装備されていたと考えられる。それを極楽寺良観は「凶徒ヲ室中ニ集ムル」と訴えたのである。日蓮聖人は臨終に際しての「御遺物配分事」によると、身延期の日蓮聖人は馬を六頭所有している。この数は、合戦時における鎌倉有力武士が合戦馬と、その乗り替え馬の数とほぼ一致する。日蓮聖人は法華経行者の弘通における安全保障の確保認識をシッカリ把えている。弘安二年十月の聖人御難事によると、
「文永十一年甲子十一月十一日、日蓮頭コウベにきずをかほり、左の手を打チをらる。」(注15)
岡宮光長寺蔵の中老僧日法上人筆「御法門御聞書」によると、
「十一月十一日ニハ頭ニ被リレ疵ヲ被レニ左手ヲ打チ折 一……射ラレ 切ラレ 打レ給シ事、矢ハシヲツクカ如ク打刀ハイナヒカリノ如シ」
右同の紙背文書によると、
「数百人ノ念仏者等取リ籠ミ給フ 御弟子一人ハ打タル 、二人大事ノ疵ヲ負ヒ給タリシハ 此ノ時ノ疵也。左ノヒヂヲ打チヲラレ此外アマタ所ニ御疵アリ。」
日蓮聖人註画讃(本圀寺版)には、
「鏡忍房ハ害サレ 、乗観房長英房蒙リ二大疵ヲ一、景信切 ニ尊師ノ左頭 一 欲スルレ 刎ントレ 頸ヲ時刀折レ又有 ニ射疵いきず 一 又打 ニ−折ラレ 左手ヲ一 及加刀杖者ノ難トハ 是也。」
以上の文献によると、日蓮聖人の体には致命傷に至らない矢疵が幾つも有った事が判る。打傷は多数、左肘は骨折、そして頭部に刀傷を受けるのである。
体の諸所に打撲、矢疵を負い、左肘を骨折した日蓮聖人は松原を逃げ惑う。宗祖の天津到着の遅きを察して迎えに向った工藤吉隆と家臣たちは、小松原の戦場に加勢に入った。まさに合戦である。工藤吉隆は敵刃に倒れ、鏡忍房は多勢をなぎ倒しながら致命傷を負い落命した。北浦忠吾、忠内は主人の工藤吉隆をかばい奮戦する。暗闇の中、いずこから現われた若き出家僧が獅子奮迅と闘い、日蓮聖人を守り抜いている。この人々が日蓮聖人の外護げご集団である。宗祖と同じ非人(旃陀羅)層の山窩サンカ出身の修験道山伏系の人々である。紀野一義師は彼等を「道々の人々」と名称している。(注16)鏡忍房の配下に属していたと考えられる。「華経房カキヨウ二神」は尊崇され、本山・藻原寺に祀られている。
小松原法難は旧暦の十一月十一日・申酉の刻。現在の十二月十二日の午後五時頃である。暗闇の合戦で松灯が無ければ相手を認知できない。註画讃を見ると宗祖の弟子は投石で応戦している。外護集団が応戦中、宗祖の周りが空からになった瞬間、東條景信は馬上から宗祖目掛けて太刀を振り下した。日蓮聖人の頭より鮮血迸ほとばしり、槙まきの下に追いつめられた。註画讃では宗祖は中啓で防御している。又は念珠で太刀を受け、念珠の親玉に傷跡ありという。(中山法華経寺宝物)
工藤吉隆討死の報に一族五十騎が馳けつけ、天津の工藤館に宗祖を避難頂いたと註画讃は語る。
「工藤左近丞依リレ被ルニレ 害、一族五十余騎馳来リ、送 ニ元祖ヲ於天津之宿所ニ一療シレ疵ヲ帰ルレ倉ニ。景信ハ者不シテレ 経 ニ時節ヲ一死ス。是ハ十羅刹女ノ責、例セハ 如 三天竺=cd=61b7賓国之檀弥羅王斬ルガニ獅子尊者ノ頭ヲ一、王尋ついで病七日而死」
東條景信
日蓮聖人註画讃によると、馬上の東條景信は両手でしっかり刀柄つかを握り「景信切リニ尊師ノ左頭ヲ一、欲スルレ 刎 レ頸ヲ時刀折レ」とある。一の太刀、二の太刀で宗祖の頭を割る鋭い振り下おろしであった。一の太刀では日蓮聖人は瞬間うしろに下さがり太刀の刀先はさきを躱かわした。しかし太刀の先端「=cd=63d7子ぼうし」が聖人の前頭部を切傷した。これが小湊誕生寺祖師像左頭の刀傷である。槙まきの木に追いつめられ、後うしろに下さがれない聖人に景信の二の太刀が降った。聖人は咄嗟に「しゃがみ込む」姿勢をとり、割頭の太刀を逃れた。だが刃先「=cd=63d7子ぼうし」は聖人の右側頭部を把えていた。大量の出血があり、聖人の法衣、袈裟まで赤く染めた。これが日朗上人の弟子・本浄阿闍梨日澄(形善院1239〜1326)所持の祖師像で大阪の高槻本澄寺「厄除祖師」である。註画讃は日蓮聖人が中啓で景信の太刀を防ぐ様子を描いているが、実際は前述の涅槃経に言う「刀杖」又は「手鉾ほこ」で防御したと考えられる。日蓮聖人より日持上人へ「御遺物配分」された一ツが「手鉾」である。平安・鎌倉時代、非人層の「放免」が所持した武器で「法然上人絵伝」に描かれている。日蓮聖人の外護集団または侍者が持参していたと考えられる。日蓮聖人防御の手鉾と景信の太刀が激しく当り「欲スルレ 刎ントレ 頸ヲ 時刀折」(註画讃)たのであろう。その際、日蓮聖人は東條景信を一喝した。日蓮聖人の頭上に鬼子母神・十羅刹女が現われ景信を鬼形で睨み付けた。驚愕した景信は落馬、気絶し七日後に没したと伝わる。日蓮聖人の大音声は、聞く者の魂を揺さぶる天動地唸の迫力である。「日蓮さきがけしたり、わとうども(我党共)二陣三陣つづきて」と叫び、「日蓮大高声を放チて申ス。あらおもしろや平ノ左衛門がものにくるうを見よ、とのばら(殿原)但今ぞ日本国の柱をたをす」と種々御振舞抄に記される通りである。報恩抄には、東條景信と彼を支持した清澄の住僧、円智房・実城房が鬼子母神・十羅刹女の罰により早死したと述べている。
「(道善房ハ)地頭景信がをそろしといゐ、(中略)円智・実城が上と下とに居て(道善房ヲ)をどせしを、あながち(強)にをそれていとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば後生はいかんがと疑う。但一ひとつの冥加には景信と円智・実城とがさきにゆき(逝)しこそ、一のたすかりとはをもへども、彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失うせぬ」(注17)
四信五品抄には「相州ハ(幕府)流罪シテニ 日蓮ヲ一 百日ノ内ニ遇ヘリニ 兵乱ニ一。経ニ云フ……此人現世得ンニ白癩病ヲ一及至諸悪重病アルヘシ 。……明心○○ト与とハニ円智○○ 一現ニ得 ニ白癩ヲ一。」(注18)
東條家の人々
筆者が東條家子孫の方と東日本橋で会談したのは平成五年十一月である。東條秀隆氏は小柄ながら気迫の有るお方であった。日蓮聖人の清澄立教開宗の時からの法敵である東條景信は、日蓮聖人に「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信」(注19)と言わしめる人物である。
江戸時代、東條家は徳川家旗本として九段の馬場(現・靖国神社)下の神田神保町に住していた。今の専修大学辺りである。大正十二年の関東大震災には深川砂町の下屋敷の家屋に住しており、火災の中を風呂敷に包んだ家系図を持出して避難した。火の粉に穴の開いた風呂敷と共に系図を拝見した。東條家は多田源氏の満仲、頼信、頼義の系統にして新羅三郎義光系である。甲州に来て甲斐源氏となり、武田義清—逸見へんみ清光—武田信義と続く。武田信義の弟が加賀美遠光で、三郎光行—波木井六郎実長と続くのである。つまり波木井家と東條家は親戚一門であるのに驚いた。武田信義と加賀美遠光の兄弟は、後鳥羽院の御宇、平家追討の戦功により「源氏六人衆」の随一と称せられる。信義の兄・武田光長(逸見太郎)系は安房国東條に進出する。信義の次子・忠頼(一条次郎)は甘利・東條・愛會の祖となり、弟の信光は承久の乱(一二二一年)に幕府軍の東山道大将として五万騎を率いて功をなす。その武田忠頼(一条次郎)の子が安房国長狭郡東條に住するのである。それが東條景信の兄・東條高秀である。東條五郎、甘利五郎とも言う。系図には、
東條家は源氏姓、家紋は割菱或は五三桐又は花葵である。系図を見ると源頼朝時代に安房東條郷里二万三千町歩を拝領したとある。源頼朝が歿したのは正治元年一月(一一九九)であり、日蓮聖人生誕二十三年前である。東條景信が宗祖より年長者と考えて、例へば建長五年(一二五三)の立教開宗時に東條景信四十五歳、日蓮聖人三十二歳とすると、十一年後の小松原法難は景信五十六歳、日蓮四十三歳となる。五十六歳の景信が馬上より宗祖を切りつけるには、老齢すぎると見るか、又は合戦の強者つわものと見るかによって判断が分れる。東條高秀と景信を兄弟と見るより、親子と見た方が理解できるのではなかろうか。親の高秀の地頭職を子の東條景信が継承したと考えるべきだろう。嫡男の高秀をさし置いて、弟の景信が地頭職に就任しないだろう。東條高秀を景信の親と考えると、時代的にも源頼朝の活躍期に当り、時代考証が合うのである。
東條家は足利時代、応永二十三年(一四一六)の「上杉禅秀(氏憲)の乱」に参戦、永亨十年(一四三八)の「永亨の乱」に東條頼常は上杉氏憲方で「粉骨振猛、強戦シテ 終ニ撃死」している。そののち、東條秋則は里見義実に滅せられ、没落して本家の甲斐武田家を頼るも武田信玄(晴信)、勝頼が滅び、東條頼行は流浪することになる。東條行長は豊臣秀吉に招され、尼子組に属し勤仕す。徳川家康の代に河内国長野・向田両村千百石を拝領する。次の東條長頼は徳川秀忠の代に御書院番に就き西尾丹後守忠永の組に属す。その後の東條家は旗本として小普請番、御書院番、御小姓組になる。東條景信の兄・高秀系は幕末には東條鉄太郎の弟・千次郎は、幕府軍の長州征伐で客死し、広島県三次の寿正山妙栄寺に埋葬される。鉄太郎の親の代に臨済宗より日蓮宗に改宗したと言われる。寛三郎の代に明治維新を迎え、孫の長太郎は板橋区十条にて医院を開業。そして東條秀隆氏が現在の当主であり、国柱会々員として信仰に励んでいる。
徳川家治(十代)の時代に東條家は大学者を輩出する。天明の大飢饉の前(一七八三)、伊豆大島噴火、ロシア船が国後クナシリ島に来て松前藩に通商を求めた安永七年(一七七八)に上総国埴生郡八幡原(現茂原市八幡原)に生れた大儒者、東條一堂である。一堂の祖は甲斐武田氏の逸見へんみ二郎(武田光長系)、安房国東條郷に住し「東條姓」を名乗った。のち上総国八幡原(現・茂原市)に移り、戸主は代々長兵衛を襲名する。幼名和七郎、通称を文蔵と言う。父の寿庵(通称自得)は九歳の一堂を伴い、本所竪川に医業を開設する。一堂は朱子学が主流の江戸を離れ、古学派の多い京都、古註学派皆川箕園きえんの弘道館に学び、江戸に帰り亀田鵬斉ほうさいに師事し古学を講じた。私塾を神田お玉ヶ池に移し「瑤池ようち塾」とし、門弟三千余人と言われる。その中に烏山うやま新三郎・清河八郎・安積あさか五郎・頼三樹三郎の尊王攘夷派の志士もいた。烏山うやまは吉田松陰の下田事件(密航)に連座して幽囚中に病歿する。明治の仏教学者・福田行誡師も門弟であり、大漢和辞典編纂の諸橋轍次師も影響を受けている。孔子孟子の教えを直接学ぶという研究態度は、当時官学である朱子学を排したことは勇気のいる事だった。学の目的を徳行に置き、自身を律すること厳しかったと言われる。老中阿部正弘も一堂の講莚につらなり、弘前藩、盛岡藩(南部利済・利義と家臣)に一堂の学統が継承された。朱子学に精しい旗本杉浦氏も悦服入門する。お玉ヶ池の「瑤池ようち塾」の隣に千葉周作が北振一刀流の「玄武館」を開き、それ故、一堂の門人には文武両道の達人が多かった。一堂は安政四年(一八五七)七月十三日、八十歳で歿し、本所番場の日蓮宗妙源寺(現・葛飾堀切)に葬られる。一堂の息・方庵(哲夫)は信濃龍岡藩儒者となり、その子・淡斉(保)は龍岡藩々校教授となり、弟の光風(永胤)は学習院・東京帝大の教授となる。その子・卯作氏がカメラ技術にて皇居半蔵門に東條会館を創立する。
一堂の本家は妹のみよ・・が早野から婿を迎え継承し、現当主は東條通世みちよ氏である。
日蓮聖人の刀傷
○一 誕生寺祖師像
平成三年、大本山小湊誕生寺(片桐海石貫主)の祖師像が三重県阿山町の本城仏所において修復された。読経相の全裸形像・像高七九・二cm。両目を大きく見開き、やや開き気味の口元から二本の前歯をのぞかせる。寄木造、玉眼入、彩色、檜材である。五月三十日、中尾 堯師らにより調査された。木地に胡粉を施して白く彩色されているものを剥がすと、小松原法難の刀傷が発見された。祖師像に向って前額部、頭部中心線より少し左側に刀傷の長さ五二__、幅六__の刀傷である。この刀傷は東條景信の太刀を日蓮聖人が、瞬間的に後に下さがり致命傷を逃れた刀傷である。
この時、誕生寺の「生身祖師」から胎内銘文が発見された。誕生寺開山日家上人の弟子・日静師の願文と薬草・五穀・法華経要文である。
「夫□□□日蓮大菩薩於 ニ当国安房東條郡片□□□ 一誕生有 レ之。去ル貞応元年壬午□□□御影像造 レ之、爰刑部ノアサリ日静□十三年立願御影堂作り、尚貞治二年みづのとの卯年三月六日のミうちして、同八月廿九日開眼供養有 レ之、御身ノ内ニ法花経併是好良薬等の甘草等の三種ヲ奉納シテ 為スニ衆病悉除ト一。五穀ハ又為ナリニ 五蔵ノ一生身□諸仏菩薩諸神 皆以 ニ福智の二報 一□□所納者、今又法花経五こくを奉納、此二福万福の父母八方法蔵の種子ナリ 。
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
貞治二年八月廿九日大戈之卯 日静(花押)
(一三六三)
○二 本澄寺祖師像
大阪高槻市上牧の本澄寺「厄除の祖師」像は、像高三四cm、像幅四五cm、奥行三五cm、刀傷の長さ二五__が、右側頭部にある。左手に経巻、右手に払子を持した説法相である。像底より胎内に水晶五輪塔、銅器に舎利石が金糸布に包まれて納められている。
本澄寺は、文明三年(一四七一)権大僧都日順が創建、二世に京都の公家・烏丸カラスマ家の日養が入り塔頭十一房と栄えた。龍興院日陵(一七四五〜一八一九)編の「本圀寺年譜」によると、
「文永元年甲子、弘長四年二月十八日改元 大聖年四十三謂ク去年四十二歳ニシテ 被 レ免セニ伊東ノ謫ヲ一今歳応シ下日澄所ノレ需もとむ割シテニ 吾カ自像ヲ一 為ニニ末代除厄 一与 上之矣。乃チ正月懸ケニ天井ニ九面ノ鏡ヲ一 以テニ所ノレ浮カス 相ヲ一手ヲ自ラ割ス也。割リ成シテ 而后、胎中ニ肉牙一枚自写ノ妙経一部添エ下付属之状 上 以テ賜フニ日澄ニ一 澄頓首再拝シテ 曰ク我カ所願巳ニ満足矣。随テレ身ニ応ニ下広布ノ為ス中本尊ト上 自割猶尊シ矣。況ヤ胎内ニ自写ノ妙経肉牙納テレ之ヲ与乎。除厄猶高シ矣。況ヤ賜 下付 ニ属スル 自像 一章ヲ上
矣。私日斯像安二ス今摂州上牧邑法華山 本澄寺一ニ称二ス除厄像一 是 大聖慰論改テニ形善(坊)ヲ一賜フニ本浄坊 一日澄ハ朗公所 レ名。……八月帰ルニ大聖於房
州ニ一日澄供奉シテ 以令メテ下 天津一密寺主ヲ受戒セ上建ツニ明星山日澄寺ヲ一也。……是ノ(八)月房総之間ニ大疫アリ 衆人請 レ祈、大聖白布書シテニ経題 一投 レ海乗船洩 レ之以送ルニ=cd=63d8鬼 一 又書シテレ荷投シレ井以飲 レ之病者悉愈矣。
十一月浄円義浄道善来訪。于時大聖宿 ニ華房蓮華寺ニ一」(注20)
これによると、本澄寺祖師像は文永元年正月に天井より九鏡を下げ、宗祖自ら彫刻した像と伝える。池上本門寺祖師像より古い事になる。日朗の弟子日澄に授与され、日澄は形善坊より本浄坊(又は大乗坊)と改称したと言う。この資料により日澄は、小松原法難に宗祖に同伴し、真言宗寺院を改宗させ日澄寺を創建したことが判る。聖母の蘇生した八月に疫病が流行し、白布に題目を書き海に流し曳きする祈祷により病魔退散させる。これにより興津の領主・佐久間重貞が宗祖に帰依し、日保日家を出家させ宗祖の弟子となる。本山の興津妙覚寺の「布曳ぬのびききの祖師」の由来である。十一月に浄円房・義浄房・道善房が宗祖を来訪し布教を望む。そこで日蓮聖人は花房蓮華寺に数日宿し、布陣を張る。その情報が東條景信に入っていた事が理解できる。それ故、東條景信は充分に宗祖一行を襲撃する準備ができたのである。
本澄寺祖師像の刀傷は、馬上の東條景信が振り下した太刀を、一瞬体を「しゃがみ込む」姿勢で除けた時の傷跡である。日蓮聖人が立位なら、この刀傷を受けたと同時に、頭は割られた筈である。「日蓮霊場記」によると、この厄除祖師は日朗の弟子・日澄により松葉谷「本浄坊」に安置され、のち総州瀧山の妙階寺に移る。本圀寺年譜には「弘安十年……日澄往キニ総州瀧山ニ一構 ニ一宇 一安スニ弘長文永元中大聖ノ自割除厄ノ祖像ヲ一、擬シニ朗師除厄ノ恩ニ一号スニ妙階寺ト一也上
牧奉安 ハ自此後也 」とある。祖師像は領主由良ゆら民部光弘が越後に転ずるにつき、越後・金剛山妙行寺へ渡る。由良の姓は丹
後国加佐郡の由良に由来する。由良家有縁の牧野承スケ大夫が丹後に祖師像を移すと伝わる。丹後の由良浜は、山椒大夫の話で有名。安寿と厨子王の史跡が残る。丹後の由良一門が総州(千葉県)の領主になっていた事になる。元亀元年(一五七〇)大阪高槻・上牧かんまき法華村の富松兼重(のち牧兼重に改姓)が織田信長に従って出陣し、若狭国小浜おばまの妙行寺にて日蓮自作と伝わる祖師像を感得、上牧かんまき法華村の本澄寺に祀る。江戸時代初め後水尾天皇(一六一一〜二九に在位)の中宮・東福門院が祈願して以来、衆人の信仰を集めた。現在もお会式には「厄除祖師」を御輿みこしに乗せ、左右に大きく振り、信徒が数珠の房で輿に触れ、御利益を得るという日蓮宗「有形文化財」となるべき行事を継承している。関西身延といわれる京・本山妙伝寺には二十三世遠沾院日亨師(のち身延山三十三世・立本寺二十五世)が東福院とその皇女妙荘厳院覚海龍宗の位牌を納めている。位牌厨子の内側に、
「東福門院尊儀トハ 者 人王百九代後水尾院之皇太后宮・源和子。東照大権現宮之孫。台徳院(秀忠)大相国公之息女也。
東福門院尊儀之近侍女ハ高倉之局、法号了種院詠月日真トハ 者、四條正二位前亜三台隆量卿之息女也。了種院ヲ持仏堂ニ奉ルハニ 安置 一 斯尊牌矣。逝去之後遺命ニテ 奉 ニ−納鳥辺野通妙寺 一
妙荘厳院尊儀トハ 者 後水尾院ノ女三之宮。
御母 東福門院源和子也。墳墓在 ニ東山江雲寺 一。斯ノ尊牌モ亦了種院ノ遺命ニテ 奉 ニ収ス通妙寺 一。
當院ノ住持観静院日覚、良仙房日道者ハ 了種院高尼が資=cd=63d9修学之僧也。是故ニ以 ニ此尊牌 一収 ニ此寺ニ一耳。
元禄第二(一六八九)己巳年十一月十日
妙伝寺二十三世
遠沾院日亨 花押 」
と記され、東福門院、了種院(高倉局)・四條家などの人々の信仰が本澄寺祖師に集まった。日澄開基の総州妙階寺は、松葉谷法華堂が大光山本圀土妙寺となり、妙龍院日静(四世)の貞和元年(一三四五)(注21)、光厳天皇(北朝)の命により京都六条揚梅に移遷されると共に移る。比叡山の四院家に附準して法華の四ヶ寺が本圀寺四院家として移転する。九老僧日善開基の上州安中大法寺は勧持院(西大坊)となり、九老日澄開基の総州妙階寺は戒善院(南大坊)となり、九老日行開基の野州浮田天霊寺は松林院(東大坊)となり、九老日範開基の豆州舟田本教寺は持珠院(北大坊)となって京に移る。このように本澄寺「厄除祖師」は、松葉谷——総州妙階寺——越後妙行寺——丹後——若狭国小浜の妙行寺——上牧本澄寺へと不思議な旅を続けた。文永元年正月の宗祖自作の本澄寺「祖師像」は、十ヶ月後の十一月十一日、小松原法難後に「刀傷」を加刻するのである。
○三 本門寺祖師像
池上本門寺の大堂奉安「祖師像」は、昭和三年八月に国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。木彫寄木造り玉眼入りである。像高は二尺八寸三分(86cm)。二尺八寸の像高は、身長一七〇cm位である。六尺(180cm)の身長の人は、像高九十五cm位である。日蓮聖人の実像はどちらに近いのか興味ある。
日蓮聖人七回忌の正応元年(一二八八)六月八日、侍従公日浄と蓮華阿闍梨日持上人が大願主となり、池上宗仲夫妻が大施主となって造立され、康永元年(一三四二)と応永九年(一四〇二)に修理された墨書銘がある。昭和四十年三月二十九日に落成した大堂の記念写真集「本門寺」(昭和四十一年刊)の祖師像は、剥れかけた彩色の下地である白胡粉がきれいに取られ、日蓮聖人の顔色が赤味を帯て現在に至っている。その赤味は漆の色なのであろうか。この論稿に掲載される本門寺祖師像の写真は、それ以前のものであり、まだ胡粉が密着している。
この写真の右側頭部に大きく凹み部分が見い出せる。この部分が正に小松原法難の刀傷である。本澄寺祖師像の刀傷と同一であり、註画讃の刀傷とも一致する。新らしい発見となるであろう。本門寺学頭の市川智康師や中尾 堯教授は別の箇所に注目している。「左右の瞼の様子がわずかに異なり、右目の上にあたる眉間に縦の傷が描かれている。」(注22)これも小松原における傷跡と考えられる。伊藤日定貫主は本門寺復興を昭和三十五年立願され、三十八年棟上、三十九年九月十八日大堂入仏遷座式。僧俗三千五百名が参集する。身延山祖廟に完成奉告を済まされたその日十月二十二日に四大不調にして遷化せらる(七十四歳)。全国各地に大堂建立の勧心巡教の途次に倒れ、壮絶なる心願を成就された。日蓮聖人は安房国における布教活動中に小松原法難に遭遇される。八十世金子日威貫主は昭和四十年三月二十九日の晋山奉告文に「身延は信仰の中枢にして池上は伝道の中心なり。須らく寺観を整へ聖跡を顕彰し布教を盛んにして本化の宗風を宣揚す」と述べ、同四十一年十一月一日〜三日、大堂落慶式を挙げる。本門寺祖師像に小松原法難の刀傷を認めることが出来る。
○四 註画讃祖師像
「日蓮聖人註画讃」は円明院日澄(一四四一〜一五一〇)により撰述された絵詞えことばである。
三島の円明寺を開き、鎌倉妙法寺に隠居、のち伊豆韮山本立寺の開祖となる。字あざなは啓運、本圀寺十世成就院日円の弟子で文明十五年に妙法寺において「法華啓運抄」を浄書する。日澄初撰の「註画讃」は現存せず、天文五年(一五三六)の本圀寺本が現存する最古の写本である。本圀寺本の奥書に
「于時天文五暦丙申初秋ノ候於 ニ若州遠敷おにゆう郡
後瀬山のちせやま山麓長源寺 一註 ニ画之 一訖。
画工洛陽絵所 窪田藤右衛門統泰むねやす
勧発師 安立院権大僧都日政春秋六八」
とあり、若狭国長源寺(福井県小浜市)において絵師窪田統泰むねやすに描かれ、日政が発願主となっている。長源寺開山の日源は、越後蒲原の人で越後本覚寺より若狭に入り建立する。安立院日政は長源寺六世と考えられている。
註画讃第十一の「東條戦難」によると、東條景信一味は、太刀、弓矢、槍、薙刀なぎなたで日蓮一行を襲撃する。景信は馬上から太刀を振り下ろし、日蓮聖人の右頭をかすめ、血がどっと吹き出す。聖人を衛護する僧の左足に矢が刺さっている。武器のない僧は小石を投げて応戦し、工藤吉隆と鏡忍坊は斬られ伏している。乗観坊と長英坊は深傷を受ける。
小松原法難の日蓮聖人右頭部に刀傷が描かれている。但し拡大鏡で宗祖の右側頭部を見ないと確認できない。小松原法難後の鎌倉布教、平左衛門頼綱との対面、召捕り、四条金吾兄弟四人との訣別、龍ノ口、本間邸、塚原三味堂、佐渡流罪の赦免状などの場面に小松原法難の刀傷が描かれている。
天文期は日蓮法華宗にとって多事多難の年である。天文元年(一五三二)には細川晴元が法華宗を援たすけ一向宗徒を対破し、山城湿谷や摂津西岡で戦う。六角定頼・山村正次等と法華宗徒は山科本願寺と戦い、本願寺光教は大阪へ隠れる(尚通記・二水記・経厚記)。京都法華宗の勢力は拡大し、天文二年三月七日には、「雨中に法華宗徒洛中を打回り、中御門・吉田侍徒は同道して見物する。三条京極には一万人計り、そのうち馬上四百騎悉く地下人なり、兵具以下驚目す」(言継記)とある。その反動が天文五年(一五三六)七月に現われる。比叡山徒が洛中法華宗徒を襲った。僧俗討死六万余人、京都は過半数焼失する。(公卿補任・快元僧都記・東寺過去帳)、本圀寺は廿五日炎上、日=cd=63d9は霊仏霊宝を持出し堺・成就寺に避難する。堤左衛門は走り来りて本堂両仏を抱出して自宅に格護する(本圀寺古記)。摂津梶原一乗寺の三世日耀、京都東寺前法華寺十世日時は討死。京都妙覚寺日兆は十九歳にて討死。本圀寺裏門を護ったのは上牧勢であった。いわゆる天文法難である。まさしくこの最中に勧発師日政と画工窪田統泰むねやすは「日蓮聖人註画讃五巻」を完成させるのである。完成は天文五年の初秋となっているから、円明院(啓運)日澄の初版本を書写し始めたのは、一年ぐらい前からであろう。
鎌倉の松葉ヶ谷・法華草堂が伊豆法難後の弘長三年(一二六三)五月、大光山本国土妙寺として創建され、北条幕府滅亡(元弘三年・一三三三)後、都が鎌倉から京都に遷った貞和元年(一三四五)三月、光厳天皇(真実ハ法皇)の勅諚により本圀寺は京都六条揚梅に移る。その時、弘安十年(一二八七)建立の総州妙階寺(本乗坊日澄創立)も四院家の一ツ戒善院(西大坊)となって京に移る。猿畠山法性寺も共に移る。小松原法難の刀傷を刻した祖師像が貞和元年(一三四五)本圀寺の京都移転に同道していない事は、それ以前に越後金剛山妙行寺に祖師像が移ったと考えられる。丹後・若狭小浜の長源寺は康暦二年(一三八〇)越後の安住院日源に開創される。京都本圀寺への上洛の途次が若狭小浜である。そして長源寺で「日蓮聖人註画讃」が描写されたのが天文五年(一五三六)である。画工窪田統泰むねやすが日蓮聖人の頭部に小松原刀傷を繊細に墨入れするのは、彼が妙階寺にあった祖師像を「註画讃」製作現場近くの妙行寺で拝見したからこそ、描くことが出来たのである。だからこそ祖師像と註画讃の傷が一致するのである。この時期の本澄寺住持は三世の大道院日忍(天文十二年四月十三日寂)。天文法難から三十四年後の元亀元年(一五七〇)大阪の上牧かんまき法華村の富松兼重(牧 兼重)が祖師像を若狭小浜より本澄寺に奉安する。
日蓮聖人の避難路と日本馬
弘安五年(一二八二)十月、日蓮聖人は池上宗仲の館にて入滅に際し「御遺物配分事」・御遺物かたみ分けを指示された。註法華経は弁阿闍梨日昭へ、御本尊一体(立像釈尊像)は大国阿闍梨日朗へ分与された。この時、日蓮聖人所有の馬六頭が弟子、檀越へ譲与される。
「御馬一疋、小袖一 佐渡公(日向)
御馬一疋、鞍皆具、御足袋頸帽子 白蓮房(日興)
御馬一疋、小袖一、手鉾 蓮華房(日持)
御馬一疋、小袖一、念珠一連 筑前公(日合)
御馬一疋、小袖 大夫公(日祐)
一貫文、馬一疋鞍皆具、染物 富田四郎太郎」
その外、日蓮聖人の袈裟、衣、帷、銭、小袖、絹布が分与される。珍しい物は、「御太刀」が侍従公智満丸に、「御腹巻」・鎧よろいが伊与公日頂に配分される。日蓮聖人葬送の列には「太刀」を池上宗仲が、「腹巻」は椎地孫四郎が奉持して参列する。その後には瀧王丸が轡くつわをとって「馬」が参列している。波木井殿御報に「(日蓮)いづくにて死ニ候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(沢)にせさせ候べく候。又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候に、いつまでもうし(失)なふまじく候。……かづさ(上総)のもばら殿ノもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候てはをぼつかなくをぼえ候。」(注23)
日蓮聖人に以上の如く「余りにも面白く」と言わしめた「栗かげの馬」(波木井氏進呈)が参列したと考えられる。茂原藻原寺の日蓮聖人御廟の前に、馬の轡くつわを取った舎子とねり「丸家」の墓が建墓されている。日蓮聖人は弘安期に「馬六頭」を所有し、布教・移動に日常的に使用されていた。小松原法難時に日蓮聖人が乗馬されていたかどうかは不明であるが、刀傷を受けた時は下馬していると傷跡から理解できる。宗祖が所有した馬六頭の数は、中世鎌倉時代、名ある武士が合戦と乗り換えに使用する馬数と一致する。源義経が奥州平泉から檀之浦まで馳けつけ合戦するには五・六頭の馬が必要であった。茂原は中世には飼い葉に恵まれ良馬を育てる牧が諸所にあった。現在も南吉田には「馬洗」の地名が残り、弓渡や萱場には牧場がある。
日蓮聖人の葬列什物に太刀と腹巻(鎧よろい)が加っている。宗祖が所持した太刀「数珠丸」と由緒ある「腹巻」であろう。天皇・貴族、上級武士の葬列には、太刀や腹巻が葬列に加っている。その人の出自、家柄を示すのである。宗祖の高貴な出自が考えられる。もともと武士は農民から派生した階層である。この時代、農民も一般人も刀剣を所有しても違法でない。戦いくさとなれば農民は刀剣を持して戦いくさ出向く。豊臣秀吉の天正十六年(一五八八)の「刀狩令」までは、誰もが刀剣武具を所持できた。「論談敵対御書」に松葉ヶ谷と伊豆法難のことを
「相 ニ語ラヒ 無知ノ道俗ヲ一 令ムレ作サニ留難ヲ一。……或ハ晝夜ニ打チニ私宅ヲ一 或ハ加ヘニ杖木ヲ一 或ハ及ブニ刀杖ニ一。……謗法者・邪見者・悪口者・犯禁者等ノ誑言不 レ知ラニ其数ヲ一。終ニ去年五月十二日戌時、念仏者併ニ塗師、厨人、雑人等」(注24)
下山御消息には
「国主の御用ヒなき法師なれば あやまちたりとも科とがあらじとやおもひけん。念仏者並に檀那等、又さるべき人々も同意したるぞと聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押シ寄セて、殺害せんとせしかども、いかがしたりけん。其の夜の害もまぬかれぬ。」(注25)
とあり、立正安国論を北条時頼に上奏して四十日後に、松葉ヶ谷夜討ちは起った。日蓮聖人を「国主の御用ヒなき法師」として、あやまち(犯行)も無罪と思い、念仏者、檀越に塗師、厨人、雑人が加って、夜半に殺害せんと襲ったのである。松葉ヶ谷草庵には、この時代の常識として刀剣、武具が護衛用として常備されていた。弟子、信徒は武具を以て宗祖の殺害を防ぎ、能登房や進士太郎は負傷したと伝わる。
日蓮聖人が乗馬した「栗かげの馬」、東條景信が宗祖を襲撃した時に乗った馬の体高はどの位のものであろうか。それによって東條景信の位置と太刀の振り下す動き・線条が理解できる。源平合戦の時代、武将が騎乗した軍馬の体高は、平家物語や源平盛衰記などの軍記物を参照すれば、次の如くである。
中世において馬の体高は四尺(約121cm)を基準として、その上一寸、二寸、三寸……と表記した。四尺の馬は小馬、四尺五寸(約136cm)の馬を中馬、五尺(約152cm)の馬を大馬と呼んだ。名だたる軍馬は六寸〜八寸(139cm〜145cm)の体高を有し、140cm以上の体高ある馬(上位の中馬)を名馬と呼んだ。馬の体高は胸椎骨の最も高いところ、背峰せみねから垂直に地面まで下した高さであり、後肢の最上部(百会びゃくえ)の高さと同じである。西洋馬のサラブレット・皐月賞、日本ダービー、菊花賞(平成十七年)の三冠馬である「ディープ・インパクト」の体高は160cmである。サラブレットの中では小型である。鎌倉時代の日本馬の速さはアジア大陸を駆け巡った蒙古軍馬と遜色なかった。しかし十二貫(45kg)の鎧兜の重さが速さを遅くした。日本では速さより戦闘能力を重視した。サラブレットが450〜550kgに対し、日本和種(木曽駒、南部駒、御崎馬)は280kg程度である。合戦や連続戦闘、追撃戦は馬を酷使し、戦闘能力が低下するため、馬上の武士は必ず乗替馬を必要とした。一人の騎馬武者は少くとも四、五頭の乗替馬を用意した。この一頭につき口取り、武器武具持ち、糧食持ち、戦場用具持ちが付くから全体で十人前後となる。
東條景信は、馬の体高がおよそ140cmの馬に騎乗して、身長170〜180cmの日蓮聖人に太刀で斬りつけた。瞬間に身をうしろに引くことによって探傷を避けたのが小湊誕生寺の祖師像である。東條景信が片手は手綱たずな、片手持ちで二尺八寸(86cm)の刀長の太刀で宗祖を斬り付けた場合、体を斜めに延すことが出来る。この時の東條景信と日蓮聖人の距離は140cm位である。太刀を両手持ちで日蓮聖人を襲った場合(註画讃)、景信と日蓮聖人は120cmの距離がある。両手持ちで斬った方が致命傷を与えられる。馬上からの太刀を身を沈めて避けたのが、本澄寺、註画讃、本門寺(側頭部)の祖師像である。
小松原法難において頭部裂傷、左肘骨折、射疵、数多あまたの打撲を負った日蓮聖人は、不思議に危機を脱出する。上野殿御返事には、
「抑モ日蓮種々の大難の中には、龍ノ口の頸の座と東條の難にはすぎず。其故は諸難の中には命をすつる程の大難はなきなり。……勧持品に八十萬億那由侘の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり。……不軽菩薩は杖木瓦石と見ヘたれば、杖の字にあひぬ。刀の難をきかず。天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見ヘたれば、是又かけたり。日蓮は刀杖の二字ともにあひぬ。」(注26)
と言い、「命をすつる大難」の当事者・東條景信は報恩抄に「法華経の十羅刹のせめ(責)をかほりてはやく失うせぬ」(注27)と、鬼子母・十羅刹女の責せめを受けて早死したと言う。南条書は「自身もきられ、打たれ、結句にて候し程に、いかが候けん。うちもらされていままでいきへはべり。」(注28)
この「いかが候けん。うちもらされて」に、筆者は現代宗教研究第三十九号『日蓮伝承学より観た「宗祖の謎とき」——消された歴史・日蓮聖人の外護げご集団——』を考察したのである。日蓮聖人の外護集団に、非人層の活躍、特に旃陀羅せんだらや山窩さんか、そしてその出身の山伏系の人々が日蓮聖人を外護していると考えられる。討死した鏡忍坊は彼等を束ねる。頭領であったろう。藻原寺に祀られている華経けきよう房・日徳——小松原にて鏡忍坊と共に獅子奮迅と戦った若き僧二名——は、宗祖の外護集団の一員であった。華経房日徳を一人の僧とみるか、日徳が華経房集団を引率したと考えるか判断が別れる。藻原寺の勧請位置をみると後者と考えられる。茂原の墨田時光(武蔵新曽の領主)は弘安二年身延にて出家、日徳と称したと伝わる。出家前の墨田時光の活躍を後世「日徳」と称賛したものか? 文永七年、清澄の浄顕房・義浄房へ与えた「善無畏三藏抄」には、「日蓮を日本第一の智者」となさしめた虚空蔵菩薩、師道善房の報恩に
「此恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉んと欲す。……(道善ハ)日蓮が教訓を用ふべき人にあらず。然れども、文永元年十一月十四日西條華房の僧房にして見参に入し時、」(注29)
とあり、小松原法難後三日目に裂傷の日蓮聖人が華房に道善房を訪ねている。日蓮教団にとり大打撃の法難に宗祖は安全な場所に身を隠し、治療に専念した筈である。むしろ浄顕、義浄房が道善房を案内して日蓮聖人の安否を尋ねるべきである。善無畏抄の「十一月十四日華房訪問」説は疑問である。
この法難より一年一ヶ月後に、日蓮聖人は「根本大師門人、日蓮」として清澄で法華題目抄を著している。
「文永三年丙寅正月六日於 ニ清澄寺 一末時書シ畢ヌ。」
この時期には東條景信が歿し、地頭勢力が半減した事を新尼御前御返事に「(日蓮ハ)安房ノ国東條ノ郡に始て此の正法を弘通し始メたり。随て地頭敵かたきとなる。彼等すでに半分ほろびて今半分あり」(注30) の状況になっていた。
日蓮聖人伝承によると、小松原法難後、宗祖は天津の工藤館にて治療、小湊岩高山にて老婆よりの綿帽子にて傷を愈し、勝浦名木なぎの寂光寺に避難され七日の説法をされた。現在、県指定天然記念物の椎の大樹がある。当地の有力者の拠点であった。名木を北上し長南氏の館(本詮寺)に十四日間逗留し長南一族と村民を教化する。小松原に同道した下野阿闍梨日忍が本詮寺を開創する。この地から笠森観音〜茂原斉藤兼綱邸までは、本詮寺近くに定住する山窩・非人の「道々の人々」が外護したと考えられる。藻原、中山の富木館を拠点として宗祖は、文永二年〜四年迄、房総、茨城、栃木、福島まで布教に歩かれる。福島日偉師は「茨城の教線を行く・上巻」にて
「鏡忍坊はもと後鳥羽天皇父子御三代に仕えた北面の武士である。鏡忍坊の故郷は今の福島県、奥州白河で白河八郎と言った。……常陸の稲田は親鸞教団の本陣である。建長六、七年頃、親鸞の長男善鸞は或本では第三子の慈信とも云ったとある。高田派専修寺で発見された「慈信房義絶状」は、この事情を語る。この事件の前後に出て来る人物—新鸞教団の弟子—教忍房は日蓮の教化を受けて転向し、鏡忍房と宗祖から一字改名を賜はる。……教忍房は親鸞が稲田を去り京に帰る頃入信、三十五から三十八歳の年代である。親鸞より二十五歳若い。小松原法難は日蓮聖人四十三歳。殉難した鏡忍房は六十八歳。」(取意)
と述べている。福島師は何の資料に依ったか不明であるが、興味ある指摘である。宗祖自身の身替りとなり殉難された鏡忍房の故郷が奥州白河ならば、日蓮聖人は必ず訪れる筈である。その途次に巡教されたのが、下野国(栃木)である。日蓮聖人の弟子、日目上人の両親、新田重綱と母・尼蓮阿の本貫地は下野国下都賀郡小野寺である。栃木宇都宮妙正寺は宗祖が宇都宮公綱の姉(妙正)を教化し、小松原法難の翌年、文永二年(一二六五)に開創される。宗祖の檀越・秋本太郎左衛門勝光は宇都宮家の一族であり、宇都宮景綱も秋本氏も共に蒙古来襲に際し九州博多に出陣している。下野に宗祖と同行した摩訶一阿闍梨日印は、君島備中守平綱胤の母を教化し、同じ文永二年に妙金寺を建立する。栃木には文永二年日蓮聖人が教化した跡を弟子が法華堂を建立している。塩谷郡藤原の清隆寺は、同じ文永二年下野阿闍梨日忍により建立され、宗祖の腰掛石が護持されている。下都賀の上田寺も開基は宗祖、日忍により建立される。佐野の本山、妙顕寺と妙音寺は美濃阿闍梨天目によって建立される。更に伝承によると那須黒羽くろばねの大関公の姫の因縁消滅に宗祖が祈願すると、大石の中から金毛九尾きんもうきゆうび稲荷が顕現したと言う日蓮聖人の「数珠割石」の霊跡が残っている。以上の如く、小松原法難後の文永二年から文永四年迄は、日蓮聖人の布教活動は不明であるが、以上の伝承される各地に巡教されるのである。そして文永五年、蒙古来襲の動きを察して、日蓮聖人は鎌倉に房られるのである。
(注1)拙論「日蓮聖人の外護集団」現代宗教研究第三十九号を参照
(注2)四條金吾殿御返事 一三六三頁
(注3)可延定業御書 八六二頁
(注4)当世念仏者無間地獄事 三一一頁
(注5)寂日房御書 一六六九頁
(注6)安国論御勘由来 四二三頁
(注7)呵責謗法滅罪抄 七八五頁
(注8)撰時抄 一〇一九、一〇四九頁
(注9)曽谷入道殿許御書 九〇〇頁
(注10)妙法比丘尼御返事 一五六二頁
(注11)清澄寺大衆中 一一三五頁
(注12)南條兵衛七郎殿御書 三二六−七頁
(注13)弥源太殿御返事 八〇六頁
(注14)行敏訴状御会通 五〇〇頁
(注15)聖人御難事 一六七三頁
(注16)紀野一義著「日蓮」
(注17)報恩抄 一二三九−四〇頁
(注18)四信五品抄 一二九九頁
(注19)種々御振舞御書 九七三頁
(注20)本圀寺年譜・日蓮教学研究所紀要第十七号所収十八頁
(注21)貞和元年の天皇は光明天皇で、光厳は法皇である。
(注22)中尾 堯著「日蓮」九二頁
(注23)波木井殿御報 一九二四頁
(注24)論談敵対御書 二七四頁
(注25)下山御消息 一三三〇頁
(注26)上野殿御書 一六三五頁
(注27)報恩抄 一二四〇頁
(注28)南条兵衛七郎殿御書 三二六頁
(注29)善悪畏三蔵抄 四七四頁
(注30)新尼御前御返事 八六八頁