現代宗教研究第40号 2006年03月 発行
お題目を唱える際の心のあり方
お題目を唱える際の心のあり方
(山梨県法光寺住職) 龍 澤 泰 孝
お題目三遍ご一緒にお願い致します。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。よろしくお願い致します。大会の題目は、お題目を唱える際の心のあり方とありますけれども、今日ここでは、心得という風にさせていただきましたが、よろしくお願い致します。今回の資料は、綴じたものが一つと、一枚のものがございます。その先に、一枚目のほうでお話をさせていただきたいんですが、実は、今年、六月に、私のお寺の物置の整理をしている時に、室住一妙先生の遺品が見つかりました。これです、これ回していただけますか、見ていただいて、それにですね、室住一妙先生は昭和五十八年の一月の二十四日に遷化なさっておりますので、二十二年前に、昭和八十年とこう書いてありますね、それと私びっくりしましたのは、今年、整理をしようと思って開けた今年は、昭和で数えますと八十年なんですね。これは何か、深い意味を持っているものなのではないかと私自身が考えまして、今、見ていただいてますが、杉の箱の中にですね、半紙がこう折り畳んで入っておりまして、その半紙の表面に、シャープペンシルで、「コノセツナイトキ」と書いてありますね、「昭和八十年、今すぐと仏と成るとき」と、こう書いてありました。これを見て、改めて、仏となるとはどういうことなのか、ということを考えざるを得ない心境になりまして、例えば室住先生がいつもいっておられましたのは、「皆の衆遠慮はいらんいますぐと、仏と成れよ、仏と成せよ」と、絶えず叱咤激励してくださったんですけども、その法恩に多少でも報いたいと思って、今日発表をさせていただくことになりました。仏となる、成仏、というのは、解脱、煩悩の縛を解き、菩提の障を脱るるをいう、これは本化聖典大辞林ですけども、四苦八苦等の全てのとらわれ、縛られているところを超越するという意味では、ほどけた状態、全ての縛がほどけた状態、それを仏というんだ、と聞いたことがありますけれども、意味合いはそういうことだろうと思います。それこそが、真に安穏の境地、安らかで穏やかな境地であり、時間や空間に、時や場所に左右されない、ゆるぎない幸の境地とも言っていいんではないかと私は考えているんです。譬喩品では、「如来は已に三界の火宅を離れて寂然として閑居し林野に安処せり」、また寿量品では、「衆生劫つきて大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」、そういう所を読ませて、拝読させていただいて、改めて、檀信徒の方々や私自身も、共に仏となるという、法華経の受持、お題目を唱える際の心得、心のあり方というものを考えようと思ったわけです。一頁目にまいります。これは室住一妙先生の、お題目を唱え、歩むことの意義、即身成仏・立正安国・娑婆即寂光。「釈尊の因行果徳の二法は、妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」日蓮聖人遺文『観心本尊抄』故に、これを意に、意は心、心に念じ、口に唱え、身に持つところ、自然に赤子の乳をふくんで成長するように、重病の者、良薬を服して本来の面目、健全な正常にかえるように、みんな誰でも仏となります。ただ飲むか飲まぬか、信ずるかどうかによります。この我々が信じ行する姿を、本門の三大秘法と称します。すなわち、本門の題目、五字七字を唱え奉ること、本門の本尊、南無妙法蓮華経を、久遠本仏のご生命と信じ奉ること、本門の戒壇、この妙法を信行に、生活に持ちふるまうところ、それ如来寿量品の三大事とも申され、日蓮大聖人の本仏よりご相承になった内証でございます。一人持って、その身そのまま、即身に成仏する秘法、一国に施して立正安国となる大秘法、全世界・宇宙に及ぼして娑婆即寂光となる大秘法でございます。室住一妙先生著、日蓮聖人の教義より。お題目を唱える際の心得、日蓮聖人が佐渡へ流罪となる前の日に、日朗上人に与えられた『土籠御書』には、このように記載されております。「法華経を余人の読み候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず。心はよめども身によまず。色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。」この文からも判るように、法華経を読む、お題目を唱えるということは、口にも心にも、身にも共に読む、つまり身・口・意の三業に受け持つことが大切なのであります。その結果として、現世安穏、臨終正念、後生善処へと繋がっていくのであります。二頁目にまいります。お題目を唱える際の心得。これは、種、熟、脱の三益を踏まえまして考えたものであります。南無妙法蓮華経の下に、身口意三業受持、それによって、現世安穏、臨終正念、後生善処を得ることができる、さきほどの文章の意味合いです。一番目に、お題目を唱える際に、仏と成り、仏と成す、二乗作仏、一仏乗の、衆生は必ず仏となれるんだということを、ほんとに切実に、僕らに教えてくれているわけですから、仏となり、また他をも共に仏となす、そのことに意を集中してお題目を唱えることが、まず第一に肝要なことであろうと思います。三頁に、①が載っておりますが、仏と成り、仏と成す、法華経の教えの最も大きな特徴の一つが、我々凡夫も仏の子であり、仏と成ることの出来る存在であること(二乗作仏も同様の意味)を教えております。又、法華経の中心如来寿量品には、本仏さまのお心が、いつも我々衆生が法華経の教え、無上道に入って、すぐに仏身を得ることだけを願っていると教えています。従って自ら仏と成ると共に他をも仏と成すという信仰信念を持続することが、先ず最も肝要な心の在り方であります。ここで一言、お断りしておかなければならないのは、今日発表さしていただいているのは、ご信者さんや私共のような初心の者にとっての考え方であります。そういう意味で捉えていただければと思います。二乗作仏とは、声聞・縁覚は、自分の悟りを強く求め過ぎて、他を救う心が薄い為、仏にはなれないと叱られていたが、
法華経の教えに来てようやく成仏することを許された。そればかりでなく、法華経の教えでは、悪人も女人も法華経の教えを信じ歩む者は、誰もが仏の境地に至ることが出来ることを教えてくださっている。それを信じて疑うことなく、ひたすらにお題目を唱え歩むことが最も肝心要なことがらであります。②に行きます。②は、永遠の生命に生きる、久遠実成と書きましたが、これを具体的な、我々の生き方に合わせて考えてみますと、この世でお釈迦様の仲間、日蓮様の仲間、と成った人は、未来の世にも、お釈迦様、日蓮様、ご先祖様(法華経お題目の信仰を真心込めて行ったご先祖様方は間違いなく、お釈迦様日蓮様のおられる霊山浄土に行っておられるのであります)ご先祖様方がおられる霊山浄土へと行くことが出来るのであります。これこそが分断の生死から変約の生死に大転換するこの上なく尊い幸せな、永遠に向上を続けることの出来る、無上道、つまり仏の道を歩む生き方であります。今の二乗作仏と久遠実成は、法華経信仰の一番の礎でありますので、当然皆様ご存知で、持っておられることだと思います。その上で、三番にまいりますが、善い事を進んで行い、悪い事はすぐに改め、誰にも親切にする、そういう心でお題目を唱え歩む。これは、七佛通戒偈の基本でありましょうけれども、善いことを進んで行う、悪いとわかったことはすぐに改める、誰にでも親切にする、そしてそのような心でお題目を唱えていく、それが仏様の共通した心の在り方です。これが七佛通戒偈ですね。元・身延山短期大学の学頭を務められた、室住一妙先生は、仏様とはどういう生き方を言うのですか、という質問に答えて、以下のようなお答えをなさっておられます。善い事を進んで行い、悪いとわかったらすぐに改める、誰にも親切にする、そういう心でお題目を唱えて行く、それ以外に仏様の生き方があるでしょうか、あったら教えてください。と言われたことを伝え聞いております。七佛通戒偈、これは当然皆さん分かっていることでありますけれども、釈尊以前の過去世において説法なされた六仏と釈尊とを合わせた七仏に共通して禁戒の根本とした偈、「諸々の悪を作すこと莫く、諸の善を奉行し、自ら其の意を浄くする、是れ諸仏の教えなり」、これは日蓮宗の電子聖典からですが、善の中の最上の善が、自ら仏と成り、仏と成す道であり、それはお釈迦様日蓮様ご先祖様方と仲間となって生きていく道であります。その道は現世安穏であり、臨終正念であり、後生善処である、と、私は信じております。今生きている現世を心安らかで穏やかに生きていられると共に、臨終も正しい気持ちで落ち着いて迎えることが出来、後生もお釈迦様、日蓮様、ご先祖様のおられる霊山浄土に往くことが出来るという無上道であります。四番に移ります。人間同士が尊び合い拝み合って生きる、与え合い助け合って生きる、質素で正直に生きる。これは常不軽菩薩品の言葉ですが、「私は汝らを深く敬う。心の中で軽んずるようなことはしません。何故かといえば、汝らはみな菩薩の道を行じて、まさに仏になることができるからである」、不軽菩薩はそう言って誰彼なく礼拝して歩いたのであります。すると、人々の中には、怒りを生じて悪口したり罵ったり、杖や木や瓦や石を持ってこの人を迫害しますが、決して怒らず、遠く逃げ去っては、また礼拝を繰り返すのです。人々はあだ名して常不軽と名付けました。その不軽菩薩が命終わろうとする時、法華経の偈文を聞いてたちまち寿命も延び、六根清浄を得、また広く人々を教化しました。以上、日蓮聖人の教義を参照致しました。現代社会には、殺人、盗み、嘘が横行しております。それに対して末法の世の為に説かれたといわれる法華経の教えには、相手の仏性を拝むこと、与え合うこと、質素で正直に生きること、等が説かれております。殺してはならない、盗んではならない、嘘をついてはならない、という五戒に基づいた禁止事項と共に、それらを止揚した拝み合い、与え合い、質素で正直に生きることがそれらを積極的に克服し、超越するための大切な要件であると思われます。㈭、素直に聞く、真面目に考える、真剣に行う。三慧、聞思修。現代的に言うならば、情報の収集、整理分析、正しい情報に基づく実践とも言えよう。この素直に真面目に真剣にという言葉は、故・室住一妙先生が大学の講義、学生の指導、自らの求道生活においても絶えずお使いになられた言葉で、人生をよりよく生きる上において必要不可欠の基本的態度と考えられます。六番目、貪らず、瞋らず、愚痴らず。心身を苦しめる三つの毒、貪瞋痴は自らを苦しめるばかりでなく、回りの人々をも苦しめる害毒であるから、心に思うことを、自ら抑制しなければならない。三毒とは、善根に害毒を与える三つの煩悩のことで、貪瞋痴をいい三不善根とも称する。『観心本尊抄』に「瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴かは畜生」と、人界所具の余界を説示される中に、その意味を述べられている。『開目抄』には貪瞋痴の三毒は仏の種となるべし、等と釈されている。以上、日蓮宗電子聖典より。七番目は、自分自身を生きる主体とせよ、その自分を真理と一体化せよ。自灯明、法灯明、これは自帰依・法帰依とも表すようでありますけれども、自らが判断し、自らが歩む、その自分は真理真実を愛し尊びそれと一体となって歩む、それが成仏の姿であろうと思います。一応ここまで、種の説明をしてきたわけですけれども、日蓮聖人は、『四信五品鈔』におきまして、これは身延から下総の富木常忍に与えた書でありますけれども、富木常忍が自ら書かれたという、末代法華行者位用心書とありますけれども、まさに、我々に教えてくれるものは非常に大きいと思います。その中に、末代初心の行者の修行方法、ひたすらに南無妙法蓮華経とお題目を唱えることが大切である、初心の行者は助縁の法を修行するとかえってそれに紛れてしまい、正しい修行の業法を妨げてしまうことになるのを恐れるものである。」「初心の行者が、兼ねて五度を修行することは、正業の信行を妨げることになるのである。」「初心の行者は題目のみを唱えて信行すれば利益は弘く多いが、他の雑行を交えると利益は全く失われてしまうということである。」「初心の者の戒は経をたもつだけでよいのであり、修行が進んで上の段階に至った者については、さらに持戒をすすめているのである。修行の進んだ後の段階の立場で、初心の者の立場を疑問視してはならない。」とこのようにございますので、こういう考え方を