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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

陸軍将官の日蓮宗信仰とその行動への影響の実例—岡田資と四天王延孝—

 

陸軍将官の日蓮宗信仰とその行動への影響の実例
   —岡田資と四王天延孝—
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 坂 輪 宣 政  
 本年、ちょうど終戦よりちょうど六十年ということになりまして、当時の人々の信仰というものについて多少、調べてみたいと考えていましたところ、たまたま、この二人の人物が、著書を書いたり、或いは講演などしていまして、その内容が多少たどれるということで、この二人の人物について多少調べてみました。実はこの二人共、元々の家の宗旨は日蓮宗でなく、別の宗派ですが、後に、個人として、日蓮宗の信仰に近づいていった人物であります。まず、この岡田資という方でありますが、この人は、大岡昇平のノンフィクション小説『ながい旅』という本で、ある程度知られている人物であります。先祖は鳥取藩の、藩の医者でありましたが、陸軍に入りまして、このように略歴として書いてありますが、文字通りその陸軍の中の第一線で、専門用語というか、役職をだんだん上がっていき、最後には東海軍の、軍管区の司令官となりまして、B29の搭乗員の処刑をしましたために、これが戦後、処刑、つまり無差別爆撃をしたための処刑であったのですが、殺人とされまして、B級戦犯として死刑判決を受け、絞首刑となってしまいます。この岡田資が、最初に日蓮宗に触れたというのは、陸軍の士官学校を卒業した年のことであります。当時、彼は、著書にはごく簡単には書いてありますが、色々と迷いがあったということであります。即ち、軍人である自身の生死、また或いは、場合によっては自分が部下に対して死ぬであろう、或いはかなり死ぬかもしれないという危険な命令をくださねばならない、そのようなことに対して、自分自身としての意志が確立されていない、そういうことを迷っていた時期であります。その時、たまたま、路上で説法していた戸谷好道という、本多日生門下の僧でありますが、この人の説教を聞き、その路上での説教が機会となって、次第に日蓮宗の信仰に入っていきます。そしてその後に、最初は堀之内の妙法寺、そして池上の本門寺で念珠を買い、三十歳頃からは服装の如何を問わずその念珠を衣嚢や袖などに入れ、いつも持ち歩き、若者に話しかける時などにも用いたといいます。そして、戦中、戦況の悪い時、戦地で危険な時などにも念珠を持って唱題していたと、後に述べております。この、岡田資が最も有名でありますのは、戦後、戦犯として裁判を受けた、その時の、裁判の時の態度、姿勢が、大変明確で、前向きであり、
これを安土の法難の時の論戦のように例えまして、自ら法戦と呼び、毒箭、即ち毒矢の例えにたとえまして、即ち毒矢が刺さった時には、とりあえず考えずに抜く、それの例えと同じように考えまして、本人と致しましては、不本意な、不法な裁判である、そのように考えたのではあるのですが、即ち戦わなくてはいけない、その裁判が不法であるとか、そのようなことをぐずぐず言っていても仕方がない、というような考え方から、前向きに戦う、そして自分の言いたいこと、正しいと考えていることは、確実に主張する。場合によっては死刑になるということも、その前の事例から分かっておりましたが、自分の生死というものも既に達観している、そのようなことから様々な、巣鴨の戦犯刑務所の中の人々とのふれあいがあり、或いは書状などからも、その姿勢というものがかなり、注目されていたわけであります。その後に、遺著、即ち『毒箭』、或いは『巣鴨の十三階段』などの書を遺しておりますが、その抜粋と致しまして、このように仏教というものについて、或いは日蓮聖人のご遺文などをかなり引用しまして、相当勉強した様子が窺われます。ただし、これは、日蓮宗の信仰というものを他の囚人に強制するというのではなく、その人、その人の様子を見て、その人にとって良いようにアドバイスをしたり、導いたりしていた様子が、後の人々の証言でありますとか、書き残したものなどから窺えます。その信仰の様子と致しましては、かなり在家仏教に近い思考であったのだろうと思われます。その抜粋をレジュメの下の所に、一と書いて三つ挙げてありますが、居士仏教、生産事業との合体、学校の重視など、これからの仏教というものも、このように変わっていったほうが良いのではないか、というように岡田が色々と考えて、遺著にそれを記してありますので、そこから幾つかを抜粋してみました。そして、次の裏側になりますが、もう一人、四王天延孝という人物がありまして、この人も最初は曹洞宗が家の宗教でありましたが、後に次第に、日蓮聖人への鑚仰というものを強めていく様子があり、若い時に、キリスト教に、洗礼を受けて入信しているにも関わらず、日蓮宗について色々と講演をしたり、お経を上げたりして関わっている様子がありまして、多少興味深い点があります。この人物は、元々は工兵、つまり技術等を専門とする所でございますので、電信或いは、航空機などに深く関わりまして、航空機の、日本航空協会の理事、或いは電信関係の役職などを歴任しております。そしてもう一つ、変わったことと致しまして、ユダヤ問題、ユダヤ人に関する問題というものを非常に、まあ執拗に、講演或いは著書などを書いて追及した人物であります。その内容と致しましては、ユダヤ教のシオンの議定書、或いは、フリーメーソンなど、様々なものを捉えて、ユダヤの陰謀というものが、そういうものがある、と信じておりまして、その陰謀に日本が巻き込まれる、日本が侵略される、そのような危惧をいつも持っていました。あらゆる、国際連盟、或いは世界の銀行などがユダヤ人の影響下にあるということを言って、更に共産主義などにもユダヤ人が関わっていて、それが日本を侵そうとしている、そのように、今から見ますと完全な妄想であり、ナチスドイツのユダヤ人に対する宣伝というものを鵜呑みにしてしまった部分もあり、丸々殆ど信じてますので、現在からみるととんでもない人物だったということも分かります。シベリア時代に、白系ロシア人からかなり吹き込まれたともいわれています。しかしながら、この四王天という人物は、日蓮聖人が国を守った、或いは、その日蓮聖人の信仰というものが、国体に合致するものである、そのような意見を述べており、そのような観点から、日蓮宗に対しても様々に関わっていたと思われます。多少、面白いというか変わった点としては、昭和十年の十月に、日蓮宗管長、当時神保日慈師の満州巡講に同行したということがあります。この巡講につきましては、本人の著書では、夏、八月に、身延山での日蓮宗の講習会で講演をした折りに、身延山の望月日謙師から相談を受け、かなり自分でお膳立てをした、そのように述べております。同年五月に、谷中瑞輪寺で神保師が満州国国祷会を親修したこととも関連があるのでしょう。そして、神保師につきまして各地を回り、或いは満州国の皇帝に拝謁したりもしております。それから多少変わった所では、二・二六事件の時にも、皇道派との関係を疑われて、一時逮捕されるかもしれないということがありました。また昭和十七年には、翼賛の総選挙で東京五区から立候補して当選し、代議士となります。そして戦後には戦犯として逮捕されますが、不起訴となっております。この四王天という人物の、日蓮宗、或いは日蓮聖人に関する部分につきまして見ますと、国体について、国体を護る、その上で有効である、そのような観点が時折見られます。その彼の国家意識というものが、宗教というものが、国体を護持する、共産主義、ユダヤなど外国からの脅威を防ぐ、そのような観点から有用である、そのように考えている様子が、日蓮宗への関心、或いは信仰に窺われます。時折、かなり、観音経に深く信仰を置いておりまして、観音経についての引用、或いは写経などの事例もあります。さて、このように、二人の人物の資料が残っておりますので取り上げましたが、当時の日本の国家に関する意識、そのようなものからも考えまして、岡田資のほうは、個人の信仰として、つまり個人の内面としての信仰、安心、そのようなものに留まっているわけでありますが、逆に四王天のように、日本、個人というよりも日本国家、民族、そのような観点から近づいている、そのような人物もあったことが分かります。対照的な、信仰に対する姿勢でありますが、当時の日本に、いくらかなりとも影響を与えていた日蓮宗の信仰の事例として、この二人を取り上げてみました。終わります。ご静聴ありがとうございました。
 
  岡田 資 略歴
 
明治二十三年     鳥取県に生まれる
明治四十四年     陸軍士官学校(23期)卒 この年、戸谷好道師を識る。
大正十一年十一月   陸軍大学校(34期)卒
昭和五年六月     秩父宮付武官(〜八年八月)
昭和十年三月     大佐、歩兵八十連隊長
昭和十二年三月    第四師団参謀長
昭和十三年七月    少将 歩兵第八旅団長 武漢攻略に従軍。
昭和十四年十月    戦車学校長
昭和十五年九月    相模造兵廠長
昭和十六年三月    陸軍中将
昭和十七年九月    戦車第二師団長
昭和十八年十二月   東海軍需管理部長
昭和二十年二月    第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官
昭和二十年五月    名古屋空襲の際に捕虜にしたB29搭乗員二十七名を、略式軍律裁判で処刑する。
昭和二十三年五月   捕虜処刑の責任を問われ、B級戦犯として逮捕・起訴され、死刑判決を受ける。
昭和二十四年九月   巣鴨プリズンにて絞首刑。
 
  四王天延孝 略歴
 
明治十二年      群馬県前橋市で生まれる
明治三十二年     義和団事件で北支に従軍する。
大正三年       第一次世界大戦中、欧州で観戦武官として従軍。
大正九年       ハルピン・ウラジオの特務機関に幹部として勤務。(〜十一年)
大正十三年      国際連盟の国連軍事委員会日本陸軍代表委員を務める。(〜昭和二年)
昭和元年       第一回アマチュア世界無線会議に日本代表として出席する。
昭和三年       上原勇作元帥より、ユダヤ問題について公の場で意見を公表することを控えるよう勧告され、拒否したため退役させられる。
昭和五年八月     別府で「国難の種々相」と題して、日蓮聖人の他国侵逼難・自界叛逆難について講演する。(現代の自界難は革命・自壊と捉える)
昭和五年冬から翌年春 往来のあった小野錬雄師(日蓮宗の僧侶で少年審判所に勤務)に、マルクスの著作を翻訳・解説する。
昭和七年三月     佐渡へ渡り、塚原参詣をする。「塚原に於ける日蓮上人の窮迫状況とその旺盛なる無上道顕現の熱烈なる気魂を敬仰し得た」
昭和九年二月     東京で田中智学とともに講演を行う。
昭和九年四月十六日  小湊誕生寺での明治天皇尊影奉安式に参列し、講演を行う。
昭和十年八月     身延山での日蓮宗門の講習会において、二日間講演を行う。
昭和十年十月一日から十九日 日蓮宗管長神保日慈師の満州巡講に同行する。夏に身延山の望月日謙師から相談を受けて、準備に協力したとする。旅順二百三高地などの古戦場で回向し、各地で講演をも行う。機上からの国祷など、各地で読経する。満州国皇帝溥儀に拝謁し、神戸湊川神社からの「楠公自筆の法華経」を献上する。
昭和十一年      二・二六事件に関連して、一時検察の捜査対象となる。
昭和十二年      「神風号」の東京ーロンドン間の飛行の出発の際、「如風於空中 一切無障碍」を叫び続けて見送る。
昭和十七年五月    翼賛総選挙で東京五区から出馬し、七万票余でトップ当選する。
昭和二十年      戦犯として逮捕される。後、不起訴・釈放となる。
昭和三十二年     没。
 

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