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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

和書・注法華経に引用の大乗本生心地観経と霊仙三蔵の生涯

 

和書・注法華経に引用の大乗本生心地観経と霊仙三蔵の生涯
 
(大阪府観世音寺住職) 三 谷 祥 祁  
 
 三谷祥祁でございます。よろしくお願い致します。
 二年前、滋賀県へ、平清盛の佛舎利相承の系譜を見に伺ったことがございます。その時出会った郷土史研究家の林清一郎さまが、私を醒井の山の麓へご案内下さいました。そこには、中国から運んだ木材があり、千年は大丈夫といわれる建築中のお堂がございました。
 こちらは霊仙記念堂です。中国で大乗本生心地観経を翻訳した霊仙三蔵さんにここへ帰ってきて頂くのです、と言われました。お経も霊仙も初めて聞く名前でした。数ヶ月後、日蓮宗電子聖典を見ておりました時に、大乗本生心地観経は日蓮聖人のご遺文の心地観経であることに気がつきまして、私はあわてて林さまへ連絡を取りましたが、林さまは、ご高齢のため惜しくもお亡くなりになっておられたのでございます。もっと詳しくお聞きすればよかった。自分には関係のない話だと思っておりましたことが悔やまれました。林さまが言い含めるように、霊仙、大乗本生心地観経、霊仙、大乗本生心地観経、と語ってみえた思い出の声に押されまして、私は自分で調べる決心を致しました。長文の為読ませて頂きます。
 八〇四年、奈良興福寺の霊仙は慈薀上人の法相髄脳をかかえて最澄上人空海上人と共に唐へ渡りました。最澄上人は八カ月後、空海上人は二年後に帰っています。
 今年、平成十七年七月二目、醒井の霊仙記念堂で天台宗曼殊院御門跡様により霊仙三蔵のお像の開眼供養が行われ、霊仙は超宗派の祖として一二〇〇年ぶりに故郷へ帰って来られたのでございました。
 八〇四年、霊仙は唐長安でインド出身の般若と出会い、中国佛教やインド語悉曇の修得に没頭し、七年の歳月を経ます。宮殿の書庫から獅子国セイロン献上の貝多羅樹の梵経の束が発見されましたことにより、長安の醴泉寺が翻経道場になり霊仙は参加します。漢語に不得意な般若をお助けして、般若が読む梵文を霊仙が筆記し翻訳し、僧八名の中心となりまして、八一一年、大乗本生心地観経一部八巻十三品、見事、完成を致しました。
 その頃の日本は、唐から帰りました最澄上人の天台宗は既に公認され、空海上人は東大寺の別当、長岡京乙訓寺の別当にあり、日蓮聖人ご生誕四一一年前のことでございました。
 翻訳の大功労者霊仙は憲宗皇帝より三蔵の位を賜り、皇帝の政に関与する内供奉十禅師に抜擢されました。鎮護国家の大秘法大元師法も修得致します。このような優能な霊仙を皇帝は手放す筈はなく、日本へ帰りたいと、帰国を願い出ましても、もはや叶わぬ夢でございました。後、心地観経はお弟子貞素が海を渡り来て、淳和天皇に奉上し、大元師法は入唐した京小栗栖の常暁上人に付属され将来しています。
 心地観経翻訳十年の後、憲宗皇帝は佛教排斥の宦官にあえなく倒れ、霊仙は五台山へ逃れて行かれるのでした。
 大本山清澄寺様をご再興されました円仁上人が、八三八年延暦寺未決三十条解決の為入唐し、天台山への許可が下りず、幸運にも五台山へ参詣されました為にご霊跡を発見します。霊仙はすでに亡くなっておられました。その非凡さ故に日本に帰ることのできなかった霊仙の栄光と無念、七言詩の永訣の板書きを読み、五台山(ウォタイシャン)の土となった孤高の僧に慟哭し、円仁上人は落涙拭いつつ入唐求法巡礼行記に書き留められました。
 不思議なことに心地観経は霊仙の翻譯にもかかわらず般若三蔵譯として世に出典しています。それは何故でしょう。
 国譯一切経の序文は心地観経について、お釈迦さまが霊鷲山で説かれたお経であり、大般若、法華の名が読まれ、華厳、涅槃等等を想起する多様な内容であると総括しています。私から見る心地観経の最大の特徴は報恩品が経典の四分の一を占めていることでございます。経典には父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三賓の恩、是の如き四恩は一切衆生平等に荷負するとございます。これは、身分、財力、など貧富の差を超えて、いかなる人も、等しく四恩のおかげを得て生まれてきた、そしていかなる人も等しく四恩のおかげを受けて生きていくという平等思想に立っております。恩を知り恩に報いる知恩報恩は、人間の道徳・倫理・心の行儀に繋がるものでございます。
 私は四恩を報恩の立場から解釈して見ました。父母の恩とは、ご先祖を敬い、家族、父、母を大切にする心です。衆生の恩とは、誕生以来お世話になった方々への感謝の心、広域に至る人々との友好の心です。国王の恩とは、国を司る力、国の幸い、国の恵をもたらす力、国主、国政、経済、国土を愛する心です。三賓の恩とは、久遠実成本師釈迦牟尼佛、法華経教義を遵守する僧、大曼荼羅ご本尊を崇拝する心でございます。
 この三賓の恩は民族、文化、思想、宗教などによって違ってくるでしょう。大正時代、山口県仙崎の海のそばで暮らした夭折の童謡詩人、金子みすゞさんは、みんなちがってみんないいという詩を書いています。大らかな心で相手を思いやる、いかなる人も等しくと語りき四恩は、生活習慣、文化、宗教など違った人、世界のみんなに繋がる心です。人間はそれぞれ違った人も同じよろこびや同じかなしみを持っています。四恩から、歴史、文化、生命、鎮魂、慰霊、感謝、いのり、発展、福祉、希望、等等語り尽くせない共通の話題と運命を感じることができるでしょう。ゆたかな心を秘める四恩を引いて、さまざまな違った人と多くのことを語ること、分かりあうこと、分からなくても思いやること、それによって平和を感じる心、それが異文化コミュニケーションです。
 多くの女性の心を魅了した韓国ドラマ、冬のソナタのヨンさまこと、ぺ・ヨンジュンさんは、ファンは私の家族です、家族のみなさまこんにちは。とあいさつをしています。本当にそうです。地球家族、地球一家を考えなければ恒久の平和も人間の存在も、木も花も生物も、星のかなたに遠ざかるでしょう。人間の条件とは、人が殺し合うことなど絶対しないと言うことです。
 日本は知恩報恩思想で社会の構成と秩序を保っていたとも言えるでしょう。
 心地観経には不幸の歴史があり、報恩品が国体の護持として戦争に利用され、純粋に道を説く思想家は捕らわれの身となりました。多くのいのちの犠牲と敗戦の結果、戦争は過ちだったと気づくのです。食べること生きることでみんな必死でした。知恩報恩は賢者の棚でほこりをかぶり、心を語る人を失った戦後教育は道徳に蓋を置いたまま国土の復興と、経済成長まっしぐらでした。そのころ生まれた子供達は、現在百万とも数えるニートの親としての歴史を感じます。
 父母の愛、みんなのお蔭、日本の未来を考える、佛さまを敬う心、そんなの知らない、関係ない、夢がない、目的がない、そうではありません。多いに関係があるのです。
 自分というものは親が好き勝手に生んでくれたのではない。自分はこの世にご恩がえしをする為に、自分が選んだここに、親の力をお借りして生まれて来たのです。気づいたときが出発です。恩を知り恩に報いる知恩報恩、道徳、情操の尊さを思い、志高く語り続ける人になって下さいと祈ります。
 日蓮聖人は、我が国佛教界唯一人、法華三部経に現机る佛恩と共に心地観経の報恩と平等思想にご注目され、数々の啓蒙を生み出されました。
 四恩抄、女人成仏抄、開目抄、報恩抄、あまたのご文章にご恩の大義を説き、立正安国論には報恩品の他国侵逼、自界叛逆を下地とされ、円仁上人の入唐巡礼記も示しておられます。
 大正二年、滋賀県石山寺から、唐長安で翻譯の大乗本生心地観経が発見されました。心地観経は般若三蔵譯とばかり思っていた佛教界は騒然となりました。憲宗皇帝の御製序あり=cd=61b7賓国沙門般若宣梵文日本国沙門霊仙筆受并譯語と銘記あり、霊仙三蔵の異国での業績が確証されたのでございます。日蓮聖人がご傾注された心地観経の真実は、一一〇〇年ぶりに光を放ったのでございました。
 ある目私も素晴らしい発見をしました。ご遺文には見えない大切なことがあるような気が致しまして、日蓮聖人の注法華経を見ておりました。すると、定本注法華経、同じく、最要文注法華経信偈品の行間に、心地観経偈云八巻般若三蔵譯霊仙筆受のご文章が見つかり、お筆の文字を拾うことができました。日蓮聖人が霊仙を承知しておられたのです。感無量でございました。叡山横川の源信上人は一条要決巻下に心地観経霊仙筆受と書いておりますので、日蓮聖人は一条要決を書写されたりしてみえますから、霊仙のことをお知りになられたのでございましよう。
 宮内庁には天台宗慈円上人の兄弟関係とされる慶政上人が自坊法華山寺へ納めるため宋へ行き買い求めた宋版一切経がございます。又、同じく宮内庁書陵部に平安中期、羅生門のそばの左寺に伝わった小野道風の筆ではないかとされる心地観経墨跡の一巻があり、般若譯でございます。ただこの宋版経は、般若三蔵等譯となっています。霊仙の筆記と翻譯の功績、霊仙の生涯は、等という一つの文字に隠されてしまい、心地観経は漢語に不得意だった般若譯として日本へ渡来したのです。
 何故そうなったのでしょう。
 宋高僧伝唐醴泉寺般若傳を読みました。心地観経の翻譯の記録があるのですが霊仙の名前が出ておりません。翻譯当時、霊仙は異国の旅の学問僧であり、般若は中国佛教界翻訳作業の重鎮となっていたことなどからして、八十才近き著名な般若に冠を与えたのではないかと私は思っています。
 滋賀県の林清一郎さまのご冥福を祈り、霊仙三蔵入唐一二〇〇年報恩記念として発表させていただきました。
 西暦二〇〇五年十一月二十九目、大阪府堺市観世音寺三谷祥祁
 ご静聴ありがとうございました。
 

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