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現代宗教研究第40号 2006年03月 発行

一天四海皆帰妙法の秘策

 

一天四海皆帰妙法の秘策
 
(愛知県泉竜寺住職) 服 部 即 明  
 
 失礼致します。三回目になるかと思いますが、不軽菩薩の行を広めることによりまして、実践することによりまして日蓮宗の大飛躍をしようではないか、という意味の発表をさせていただいております。ただ今の梅森上人のご発表に、もう少し具体的に、そして実効性のある策を申し述べたいと思うわけでございます。その前に、十月、身延山で日蓮宗教学発表大会がございました。その時に、申し込みをしたんですけれども、もう締め切ったということで、発表ができませんでしたので、その発表を兼ねましてちょっとお話させていただきます。日蓮聖人のお花押でございますが、これは模写でございますが、あまり正確とは申せないような気が致します。しかし、だいたい概略は、お分かりいただけるかなというように思っております。これが、定説としましては、これがバン字ですね、バン、それから、後期はボロンジと、いう風に言われておりますが、誠におかしいな、というのが実感でございます。これは江戸時代の、先師の書かれたものの中に、これは妙字であるというものがございます。それから、立正安国会の片岡居士ですかね、妙字説を、六老僧の花押から詳しく論じて妙に違いない、ということを発表されております。ただ、残念なことに、後期のご花押については、言及した人がございません。謎、といってもいいだろうと、いう風に思っております。私はこのご花押の後期の母字が、何であるかということは昨年まで棚上げにしてまいりました。しかし今年になりまして、後期のご花押が、素直に、見れば、不の字であろうという風に思ったのでございます。これは何の証拠もございません。文証もございません。けれども、弘安元年の六月頃から日蓮聖人はご花押を、後期に変更していらっしゃいます。で、「法華経の修行の肝心は、不軽品にて候」と、お示しになった崇峻天皇御書が、約半年前ですね、半年前お書きになりました御書に、法華経の修行の肝心は不軽品にて候と、お書きになっている。そして半年経ちますと、この妙の字から女へんの所が、不の字に替えられております。まあはっきりとした文証はございませんけれども、推定ができるような状況でございます。弘安元年というのは、非常に問題が多かった年でございまして、色々、日蓮聖人の身辺に変化がございました。そういったことを考えますと、妙の字が、ただ法華経をいただいて、法華経にあって、この上ない歓喜を得たと、いうような、感激の表現から、ただ、感激してるだけでは駄目なんだ、実践をそこへ加えていかなければいけないんだという意味が、そういう意図が、その不の字に込められたのではないか、というように思うのでございます。これは不軽菩薩の不である、という風に、私は考えております。まあ従来の、日蓮宗の先師方が、言い伝えていらっしゃいましたことが、案外間違いが多い、ということで私は、勧学院へ論文を出しておりますが、三年経っても、これが、認定をされません。日蓮宗の根本から変えようという、試みというものは、そう簡単には受け入れられるものではない、そう思っております。しかし、教化学においては、教学の論議よりも、実践が問題でございますから、この実践に即して、日蓮宗は変わっていかなければいけないんじゃないか、という風に考えております。色々、古い考え方を改めて、そして、新しい飛躍をしなければいけないんじゃないか、ということを思います。竹内上人の、対話を重視しようではないか、というようなご発言も、そういうことに非常に重要な意味を持つのではないだろうか、という風に思っているのでございます。日蓮宗ばっかりじゃなくって、創価学会とか、ああいう信徒集団も含めまして、日蓮系の修行は、口唱の題目でございました。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、数多く唱えれば、成仏につながるんだ、これがこれまでの主張でございました、現在もそれが続いております。総弘通運動も、その線で進められてまいりました。いい加減にこの辺で、実践のほうへ、変えていかなければ日蓮宗の未来はないだろうと、いう風に思うのでございます。何が実践か、不軽菩薩の行であろうと思うわけでございます。ただ今石川上人からご質問がありましたね、迫害を受けた時にどうするんだ。これはもう信仰以外にないだろうと思う。たとえ殺されましても、あとから、あの時に日蓮聖人の弟子を殺害したことは、大きな犯罪であった、これは世界的に改めなければいけないんじゃないか、というような動きが必ず出てくる筈だ、これが信仰であろうという風に思うのでございます。そして世の中が改革されていくんだ、ガンジーさんがインドの独立を指導いたしまして、映画を見ましたが、イギリス軍の殺戮に向かって、何の抵抗もせずに身を投げ出していった、あのインド人たちの勇気ですね、あれが不軽菩薩の行であろうという風に思うのでございます。あまりそういうこと申し上げておりますと、施策の提案ができなくなってまいりますので、施策の提案をさせていただきます。人を認め合う、これが、不軽菩薩の二十四字でございます。人のいい所を認める、不軽菩薩は誰彼なしに仏性を認めていったわけですけれど、私たちにはそれは困難なことのように思うのです。殺人者を、殺人者の仏性を認めて拝んでいく、こんなことはできませんね。泥棒の仏性を拝んで、どうぞどうぞというわけにはいかないと思います。ですから、いい点を見付けて、これを顕彰していったらどうでしょう。個人同士でもできます、家族内でも、それから一寺院の檀信徒の中でも、自分以外の人のいい点を認め合っていく、顕賞していく、各寺院がそれを競い合ったらどうでしょうか、教区で、或いは日蓮宗門として、或いは門下連合として、というように輪をだんだん広げながらいく。そしてキリスト教の人であろうと、イスラム教の人であろうと、宗派、宗教に限らず、それから無信仰の人にも、いい行いがあれば、あなたのやってらっしゃることは、これは法華経の行です。これこそ法華経の行です、とほめていったらどうでしょう。それが、これからの宗門のあるべき道ではないでしょうか。そしてほめた以上は、ほめた人の、お話を聞いていく、発表をしてもらう、というようなことをしていけば、世界にこのいい行いが広まって、そしてそれをほめているのは、法華経を知ってる人がほめてるんだ、じゃあ法華経というのは何なんだ、という風に法華経への関心が高まっていくんじゃないでしょうか。それこそが弘宣流布じゃないでしょうか。そういう風に、思っております。ですから、まず日蓮宗の中でそういう体制を作り上げること、そして、門下の連合会にそれを広めていくこと、そして仏教界全体に広めていく、そういうような、顕賞運動とでも申しましょうか、不軽菩薩の行を敷衍した、そういったものが、今後必要なのではないかという風に思うのでございます。宗門、現宗研というような、重要なポストがそういうことに携わってまとめていただけるならば、幸いかなと思うのでございます。どうも失礼しました。
 

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