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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

「江戸から現代をみる—『あかね空』永代寺僧西周の役どころ」

 

第三十九回中央教化研究会議
平成十八年九月六日(水)・七日(木)
講演「江戸から現代をみる
—『あかね空』永代寺僧西周の役どころ」
(時代小説家) 山 本 一 力  
 どうも初めまして。
 今日は本当に朝こちらへ伺う前に、さあ男の子が生まれればいいなと、そればかりを願いながら参りまして、本当にこの素晴らしい日に皆さんの前でこうしてお話をさせていただけるこの巡り合わせに、心から、自分の中に湧き上がる喜びを噛みしめております。
 私は、今、ご紹介をいただきましたように、昭和二十三年の生まれです。生まれましたのは高知県高知市で、十四歳、中学三年になるまで、高知で育ちました。私が生まれた昭和二十三年、その手前の昭和二十年の八月の十五日に、日本は、終戦を迎えます。それから、まだ僅か三年ぐらいしか過ぎていなかった、その時代に生まれて、物心がついた、五、六歳の頃、仮に六歳として、昭和の二十九年、世の中はまだまだ、本当に貧しい時代で、日本がどこに行こうとしているのか、どういう国になろうとしているのか、まだ、定かには見えていない時代だったと、記憶をしております。東京のような都会と異なり、高知は、今でもそうなんですが、自然は豊かです。十四歳で東京に出て来た時に、空の色が本当に違うことに、子供ながらに、驚いた記憶はあります。でも子供にとって、自然が豊かであるなどということは、何にも楽しいことでもなんでもない、そんなこと分かりはしません。自然なんてのは、大人になって、わけが分かるようになって、色んなものを、噛み締めた後で、ああ、自然っていいもんだなあ、と言って、しみじみできるものであって、どこ見渡しても自然しかないような中に、暮らしている人間には、そんなことはありがたくもなんともない、あって当たり前だったんです。でも、その、物がなくて、自然だけが豊かだった、そういう中で育って、私は中学の三年で、高知から東京へ出て来ました。まだ思春期の入口と言いましょうか、これから、わけが分かっていくような頃、そんな子供ながらに、空の色が違うんだなというのは、ものすごく強く思いました。私は、小学校の頃に、祖母を、高知で亡くしました。お婆ちゃんは、踊りのお師匠さんで、子供の頃はそれも分からなかったんですが、日本舞踊の、大変に、名のある師匠で、お弟子さんは、花柳界の芸者さんばかりが弟子という、そういう、山村流という、これは関西のほうの日本舞踊の流儀なんですが、それの師匠だったんです。田舎なもんですから、踊りの師匠が、亡くなった葬式というのは、郷里の高知新聞も、大きく報じたような、そういう人でした。そんなことは、小学校の子供には、何にも分かりゃしません。お袋が、家庭の事情で先に東京に出て行って、私が高知に一人残って、結果的には、後を追いかけて東京に出て来たんですが、その高知に一人で残っていた、一年足らずの時、ここで私は、自分の人生の、ものすごく大きな、一つの転機を迎えました。あの頃のことを、思い出しても、今でも、胸の動悸が激しくなります。それは何だったかというと、いきなり自分の祖母の葬儀の日の模様を思い出したんです。高知に西国八十八箇所の札所の一つであります、安楽寺というお寺が、高知の市内にあります。祖母の葬儀は、その安楽寺で執り行われました。人がいっぱい来てて、自分の思い返している絵でも、人の列がざーっと連なっていたのを一気に思い出したんです。ただ自分が怖くなったのは、その模様ではなかったんです。その後、霊柩車で高知の筆山(ひつざん)という所にあった火葬場へ祖母が運ばれて行って、焼き場で、つまり、荼毘に付されたわけです。生まれて初めて、子供ながらに、焼き場で、お骨になって出て来た婆ちゃんと対面をして、お骨を拾うというのを、その時にやったんです。まだ小学生でして、お骨を拾った時に、どうこうということは、全然、意識にありませんでした。お袋と妹が東京へ先に出て行って、高知で、一人残っていた、その時に、本当にある日突然なんですが、その祖母が、お骨になって、焼き場の釜から出てきた、そのシーンを思い出したんです。身体が、本当に芯から震えました。死ぬということが、いきなり目の前に出て来たんです。婆ちゃんは、焼き場でお骨になった。俺も、ああなるんだと思ったんです。いつなるか分からない。でも、あのお骨になることから、俺は逃げられないんだ。人は、誰もそれから逃げることができない。試験勉強がやだとか、何がやだとかと言って、そこから逃げることはできる。でも、死ということからは、誰も逃げられない。逃げられない自分は、やがて、あの釜の中で焼かれて、骨になるんだ。その時いったい俺はどうなってんだろう。それを思うと、もう本当に寝られなくなって、特にその時にはお袋も妹もいないで、他人の家に居候していたもんですから、そこの家の人にも相談できずに、もう朝までがたがた震えて、夜明けを迎えました。その日のことは忘れられません。学校行って、親友にそのことを話したんですが、アホかお前は、と言われて終わりです。私が怖くなったことは、私の親友は、想像ができなかった。結局、この怖さというのは、人と共有はできない、俺は自分の中で、ただ一人怖がっているしかできないんだと思うと、もっと怖くなって、もう、どうにも勉強なんかもする気も起きなくなって、ただただ、ああ、俺もいつかは死ぬんだ、俺もいつか、お婆ちゃんみたいになるんだ。そのことに、打ち震えたんです。もう、友達に話してもどうにもなんなくて、中学三年の一学期だったんですが、学校の担任にそのことを話をしました。あの時代の担任というのは、その手前で起きてた、太平洋戦争を経験してきた大人です。そうか、お前それが怖くなったか。先生は、私の怖さを、まともに受け止めてくれたんです。でも、それは俺ではどうにもできねえ。その先生は、高知に五台山という小さな山があります。
そこの五台山の上には、五台山竹林寺というお寺があって、これは高知でも名刹だと言われているお寺で、たまたま、そこのお寺と担任とが、仲が良かったが故に、一回、五台山行って来い、五台山行って、坊さんに、お前の怖いというのをちょっと話して来い、俺では何にもできんけども、坊さんやったら話を聞いてくれるやろ。そう言って、先生から、五台山竹林寺のご住持を紹介してもらって、お寺へ行きました。今年で私は五十八になりますが、過ごしてきた五十八年の中で、お寺のお坊さんと、まともに向き合って話をしたというのは、その時が初めてでした。五台山のご住持は、私の話を真正面から、しっかり聞いてくれました。大人になってから分かったことですが、五台山のご住持というのは、大変に位の高い方だったんだそうです。そんなこと、中学三年生、知りはしません。ただ坊さんに話ができたという、それだけのことだったんですが、ニキビ面の小僧が、話をすることを、そのご住持は、目を逸らさずに、馬鹿にもせずに、正座をされて、真っ直ぐに聞いてくだすったんです。聞き終わった後で言われたことは、怖いやろなあ、儂も死ぬのは怖い。ぼそっと言われたんです。ああ、こんなお寺のお坊さんでも死ぬっていうことは怖いっていう、そういう思いがあるんだというのが分かって、すごく気が楽になりました。でも、楽にはなったんですが、死ぬということの怖さは全然消えませんでした。それから、幾らも時間を置かずに、私は東京に出て来ることになりました。昭和三十七年の五月の下旬、小さなボストンバッグを一つ持って、東京の渋谷区富ヶ谷という所にある読売新聞の専売所へ、高知から出て来たんです。お袋と妹はそこに住み込んでいて、新聞配達と、お袋は新聞配達の人の飯をこさえる賄いで、そこに住み込んでいました。妹は小学生だったんですが、そこで新聞配達をやっていた。私は、そこへ追いかけて行って、やっぱり新聞配達をやることで、中学を転校して行くという、そういう段取りで、高知から東京へ出て来ることになりました。あの時代のことですから、丸一日以上、高知から出て来るのにかかります。本州へ渡って、京都の辺りで朝を迎えて、あとは急行列車が、ずーっと東海道を走って、東京へ出て来て、その日の午後二時過ぎだったと思いますが、東京へ着くという、そういう列車で、中学三年生が一人上京して来ました。窓の外を見ていて、色んな風景が移り変わって行きます。田舎の風景になることもあれば、町中の光景が車窓に展開されることになる。見ていると、遠くのほうに、煙突が、立ってるんです。私は煙突を見ると、怖くて目を伏せたんです。それは、高知の焼き場の煙突を思い出して、高い煙突の、あの上から煙になって、婆ちゃんは骨になったんだ。そう思うと、もう煙突を見るのがいやだったんです。ですから、風景見ていながら、遠くのほうにでも煙突が見えると、目を伏せて、こうして、そんなことを繰り返しながら、東京へ出て来ました。渋谷区の富ヶ谷という所は、私鉄の小田急線の駅で、新宿から南新宿、参宮橋、代々木八幡の順の、三番目の駅になります。生まれて初めて、東京へ出て来て、新宿から小田急線に乗り換えて降りた駅で、読売新聞の専売所を訪ねて、そこの新聞屋さんに行って、着いたのが、もう夕方で、夕刊が配られていた、そんな時間です。今日は、一日ゆっくりしてていいよ、明日の朝から、と言われて。翌朝になると午前四時に、じゃーんとベルが鳴って叩き起こされるんです。その頃は、今は銀座のプランタンというデパートになってるんですが、そこが読売新聞の本社でした。あの頃は銀座で、新聞を印刷していました。そこで出来上がった新聞を、トラックで渋谷まで運んで来て、朝の四時に、どーんと、お店の前に新聞が落とされる。で、その新聞を自分達で受け取って、配達区域へ走って行って、そこから新聞配達を始める。
これが、東京へ着いた、二日目の朝から、その暮らしが、いきなり始まったんです。そこへ住み込みですから、これはもう逃げようがありません。朝、どれだけ眠くても、ベルで叩き起こされて、住んでいる所に新聞が来るんですから、それを配りに行かないことには、一日が始まらない。東京へ出て来て、まだ二日目の朝、配達区域へ、その先輩と一緒に連れて行かれました。配っておりましたのは、渋谷区の大山町という所と、西原という所です。これは、今でも、渋谷区の中では屈指のと言いましょうか、都内でも指折りの高級住宅地です。町が、坂の中に町ができていて、もう、あの時代は、敷地が、一個の家が、三百坪、四百坪というような、桁違いの大きさのお屋敷が、坂の途中にぞろぞろ建っているというような、そういうお屋敷町でした。私が配達を受け持つことになったのは、そういう場所でした。先輩に連れられて、そこの大山と西原を配って行きます。配っている途中で、そんなお屋敷町のど真ん中に、いきなり高い煙突が出て来ちゃったんです。えっ、と思ったら、これはもう正真正銘の焼き場だったんです。代々幡斎場というのが、今でも渋谷区の西原にあります。あれだけ煙突を見るのが怖くて、高知から出て来る時に、煙突を遠くに見ると目を伏せて出て来て、東京へ着いた、その翌日の、まだ人が動いていない朝、よりにもよって焼き場の中へ新聞を配ることになったんです。人は、もう、どうにも逃げられない環境に叩き込まれちゃうと、後は、それを捨てて、どこかへ行ってしまうか、さもなければ、自分を順応させて、知らず知らずのうちに馴れて行くか、この二つしかやりようがありません。どっちにしても、ただ、口で嫌だ嫌だと言ってるだけということは、許されないんです。自分の人生の中で、色んな時に色んな巡り合わせということを、今振り返って思うことがあります。五台山の竹林寺のご住持から話を聞いたのも、巡り合わせの一つでしょう。それを延長線上に、あんなに怖かった焼き場に、毎日、新聞を配りに行くという、とんでもない荒療治の中に叩き込まれたというのも、これ以上の巡り合わせはないと思います。そこから私の東京の暮らしが始まったんです。東京へ移って来たのが、朝の四時から新聞を配るという、そんな暮らし。五月の下旬は、夏至へ向かって、毎朝が早くなっていきます。夜明けが段々段々早くなっていく、そういう時期に新聞配達を始められて、私は本当に良かったと思います。少しずつ日が延びていく中で、配達を続けていきましたから、あんなに怖かった焼き場が、もう、ただの施設というぐらいに、自分の気持ちの中で、あっという間に変わっていったんです。で、夏が過ぎて、秋を迎えて、冬が来ます。冬になると、東京の夜明けは、午前六時でも、まだ星が出ていたりします。その焼き場を配りに行った時間というのは、朝の五時半ぐらいですから、真っ暗です。もしも、真冬からあの焼き場の配達を始めていたら、私は怖くて、気味悪くて、きっともたなかったでしょう。長い助走期間の、夏を迎える、梅雨を過ぎて、毎朝が早くなっていくという、そういう助走期間が手前にあったが故に、次第に、夜明けが遅くなってきた冬を迎えても、もう、心の準備ができていて、その焼き場の配達を続けることができました。よく人は一人では生きていけないとか、人の情けを分かって生きていくのが幸せであるとか、そういう言い伝えのような、また箴言と言ってもいいことを口にします。私は中学三年の、高知から東京へ出て来た、新聞配達の最初の年に、人は一人で生きていけないんだということ、人の情けの中で、自分が気付かない所で、人から情けを示されて生きていくんだということを、幸いにも、中学三年の暮らしの中で、実感することができました。焼き場が冬を迎えると、落ち葉が、その敷地の中に舞い散ってたりもします。まだ暗い夜明け前の焼き場を、その焼き場の中に住んでいる従業員の人の宿舎に新聞を配っていたんですが、そこの焼き場の人達が、夜明け前の、あの玉砂利を掃除をしていたんです。落ち葉を掃いていました。配達に、たったったっと、その玉砂利踏んで、木造の住宅に新聞を投げ込んで、焼き場から出て行こうとしている、中三の小僧を見つけたその従業員の人が、
ちょっと待ちなさい、と言って、これでも食べなさいって、朝のまだ夜明けの前に、饅頭をくれました。私は未だに酒が飲めません。でも、甘いものが大好きです。特に小僧のそんな頃、朝の四時から新聞配達をしていて、腹減ってます。家に帰らないと、専売所に帰らないと、朝飯は食えません。空きっ腹の時にもらった饅頭っていうのは、本当に旨かった。走りながら、それ食って、配達しました。次の朝、同じようにその焼き場に行くと、同じように掃除をしていた、そこの人が、またお菓子をくれたんです。今度は落雁くれました。そこはもう焼き場ですから、幾らでもお供えありますから、毎朝くれます。それ食べて、本当に、ああ、これ旨いな、っていうのを思いながら、向こうもその焼き場の方は、別段それを私にくれてどうこうしようっていう、そんな気なんかありゃしません。朝早くから配達をしている子供が大変だろうな、ということで、お菓子をくれたんでしょう。でももらった時は、その甘さというものが、本当に自分の中の身体に染み込んでいきました。新聞の集金に行くと、そこの焼き場の従業員の家のおかみさんが、ある時は、熱いお茶をくれたり、また、甘いココアをいれてくれたり、そういう風な心遣いを示してくれました。学問で、人の情けということは、絶対にこれは、学べません。そんなこと、口でどれだけ書物を繙いていって、人の情けがああだらこうだらそんなこと書いてあっても、それは単なる知識としてしか、きっと吸収できないでしょう。でも、相対の人間が、しかもその、示してくれる人が、何か見返りを求めてのことではなしに、ただ相手のために、良かれと思って示してくれる好意というのは、それが大人であれ子供であれ、胸の中に染み込んでいきます。もしも私があの新聞配達の、代々幡斎場の、あの焼き場の配達というのが、自分の中であの新聞配達の四年間の中になかったら、きっと、冬を迎えた時に、挫けて、嫌になってたかも知れない。もっと手前のことから言えば、あれだけ死ぬということに怯えて焼き場という存在そのものが怖かった自分が、そのまんま、あの新聞配達の代々幡斎場ということを体験しなかったら、怯える心だけを、自分の中で、ただただ募らせていって、きっと、気持ちの上でめげていたと思います。そこから逃げようとしても、逃げられない環境というのは、考えてみれば、人生の中で幾つもあります。嫌になれば、簡単に逃避をしていけば物事は済むということは、今の時代、色んなことがそんなこと満ちています。しかし、それとは逆に、どれだけ辛くともそこからは逃げられないんだよ、物事を片付けないことには、先に行けないんだよということを、学問ではなしに、実体験として、そのことを教わっていたら、それと、真正面から向き合う力を、相手から授けられていくと、私は信じています。時間が少し前後しますが、その新聞配達を始めた中学三年の、まだ梅雨時のことです。高知から東京へ出て来て、新聞を配って、東京の中学へ通っていました。でも、毎朝四時に起きて、学校行ったら、どうしても眠くなります。東京と高知とでは、全く環境が違います。もう、何かものを言うと、クラスの仲間に笑われるのではないか。また、笑われるということが実際にあったりして、どんどんどんどん学校へ行くのが嫌になったんです。そうじゃなくても身体が眠くて仕方がありませんから、新聞を配って帰ってきて、五月が六月に入って、梅雨になって毎朝雨が降るようになる。もう、うっとうしい雨空の中を配達して帰ってきて、身体が朝からへとへとにくたびれてて、飯を食った後もう、学校行くのが嫌になって、行ったって楽しくありませんから、もういいや、このまま寝てよう。一日休んだら、二日目は、もっと学校行くのが嫌になる。三日も続けると、もう本当に行きたくなくなります。そんなことで、新聞配達は、そこに住み込んでいますから辞められませんが、学校行くことは、行かなきゃ行かないで、誰かに文句を言われるわけでもありませんし、学校の仲間が、学校へ行こうよ、と呼びに来るわけでもありませんでしたから、どんどんどんどん、ずるずると、休むようになったんです。ずる休みを始めて一週間ぐらいが過ぎた時、まだ梅雨が終わってない、そんな時期に夕刊を配って、夕方の新聞の専売所に戻って来たら、中学の担任が、専売所の前で待っていたんです。当時、初めて中三を担任したという、若い女性の先生でした。「山本君ちょっと外歩こう」って言われて、富永先生とおっしゃるんですが、先生と一緒に、夕暮れの、梅雨の雨が降っている町を一緒に歩きました。私は新聞配達の、合羽を着て帽子を被ってて、ゴム長を履いていますから、そのまんま歩けます。富永先生は、スーツ姿だったんですが、傘を差しておられて、その傘が小さくて、雨がいっぱい肩に落ちていた、その姿をはっきり覚えています。その先生が、一緒に町を歩きながら、「新聞配達が大変なのは、先生にも分かります。朝の四時に起きるというのがどんだけ大変なのか、先生も、今朝起きてみて分かった。学校へ来て、眠いのも分かる。でも、辛いからといって、そのことから逃げる癖をつけては、駄目よ。しんどいことは、自分の力で乗り越えて行くっていうことを、今やっておかなければ、中学三年で物事から逃げようという癖をつけちゃったら、一生、山本君は何か嫌なことがあったら、そこから逃げるような、そういう人生を送るようになるよ、それだけは止めなさい。学校に来て、眠かったら寝ていていい。机に突っ伏して寝なさい。寝ているのを、他の先生が文句を言ったり、クラスの仲間が笑ったりしたら、それは先生が注意をします。
他の先生にも、山本君が寝ていても起こさないようにと頼んどく。学校を出て来て、眠かったら寝ていい。でも、学校へ行かないということは止めなさい。学校に休むという、そこから逃げだそうという癖をつけちゃ駄目。」先生にそのことを教えられて、わざわざ雨降りの中を、そのことを言うために出て来てくれたんだと思ったら、嬉しくて、ああ、明日から学校行こう、という気になりました。きっと人は、自分が抱えている悩みだとか、苦しいことを、誰でもいい、一人でもいいから、本当にそのことを分かち合って分かってくれる人が、いてくれさえすれば、そのことから逃げずに済むな、というのを、今この年になって、昔を振り返ってみて思います。死ぬという、誰も逃げられない、逃げられないが故に怖くて仕方がないことを、ちゃんと聞いてくれた上で、そのことに説教めいたことを一言も言わずに、私も怖いと言ってくれた、あのご住持。私が中学三年生という、その年を考えてお答えになった言葉でしょう。まだ、この若い子に、説教をしても分からないとご判断されたのかも知れない。何か説教めいたことを言うよりは、私も怖いと言って、その怖さを共に抱え持つことで、私の怖さが軽減できればと、ご判断されたのかも知れません。中学の担任は、私が学校へ行きたくないという気持ちを分かってくれました。何故行きたくないのかも、先生なりに理解をされたんでしょう。朝の四時に起きるということが、子供にとって、どれほど眠たいことなのかということも、先生は分かってくれた。分かってくれた方の言葉ですから、返されると、ものすごく、自分の気持ちの中に響いてきます。そうやって相手のことを理解しようという、そういう、何かしてやるということではなしに、一緒になって荷物を抱え持とうという、その姿勢を相手の中に感じた時には、重たい荷物を抱えている者は、ふっと心を開くことができるのかも知れません。私のお袋は若くしてというのが合っているのか分かりませんが、六十の半ばを過ぎた所で、心筋梗塞の発作を、二度起こして、結局、そのまま亡くなりました。住んでいた都営住宅の集会所で、棺を祭壇に飾り、近所にありました尼寺の庵主様が、読経に来てくれて、お袋は、私が新聞を配っていた代々幡斎場でお骨になりました。私が新聞を配っていた頃とは、全くもう、斎場の中は違っていました。新聞を配っていた従業員の住宅は取り壊されて、そこは休憩所に、鉄筋建ての立派な建物に変わっていました。お袋の、お骨になるまでの間、私の、何の血縁でもない、言ってみれば、全くの赤の他人であった、その新聞専売所のおかみさんが、一緒に焼き場までついてきてくれて、何か言うわけでもなしに、ただただ泣いてくれました。お袋の思い出がどうだとかこうだとか、そんなこと言うわけじゃありません。そんなことは、今そこで口にすることではなかったのかも知れない。でも、そのおかみさんの中にも、新聞専売所で過ごしていた四年間、お袋が飯をこさえていたその姿は、色んな形で残っていたんでしょう。私も、そこの新聞を配っていて、人の情けということを、本当に、毎朝もらったお菓子だとか、真冬の、お茶一杯をいただいた、そのことから、自分の身体の中に取り込むことができた、その焼き場で、お袋のお骨を拾いながら、過ぎ去った時間のことを思い返していました。焼き場まで一緒についてきてくれた、尼寺の庵主様は、お骨を拾いながら、そこの前で、ずっと読経してくださいました。それからずーっと時間が過ぎて、私の、高知に残っていたお袋の弟になるんですが、私の叔父が、やはり、亡くなってそのお弔いに東京から出向いたことがあります。その家は、先ほどお話を申し上げた、五台山竹林寺の檀家だったんです。ですから、お弔いには、竹林寺のご住持が読経に出てきてくれました。私がお話を、中学三年の時にお話を聞いてもらったご住持とは勿論、代は何代か違っていました。でも、そのご住持が、叔父の弔いの場で、みんなが焼香終わって、ご住持に向かって座っていた時に、お話をしてくれたこと、「亡くなった(浅野茂というのが、叔父の名前です)この浅野さんは、今亡くなって、暗い所を、心細そうに歩いているかも知れない。でも、後に残っている貴方がたが、亡くなった人を忘れずに、
毎日、その人のことを思って、お線香をあげ、お灯明をあげ、お祈りをしていれば、浅野さんが歩いていく道が照らされます。心細かった暗い道が明るくなります。浅野さんがちゃんと歩いて行けるように、残された貴方がたが、この方のことを忘れずにお参りをしてあげてください。」そういう趣旨のお話をされました。私はそういうお話を聞いたことがなかったんです、一度も。もう、自分が死んだ後どうなるかっていう、その怖さは、中学の時に感じたその怖さは、大人になっていく時間の経過の中で、どこか薄らいでいました。死ぬということへの怖さは、今でも変わりません。自分が死んだらどんな所に行くんだろうなと、思う怖さは全く同じです。しかしながら、もう、寝られなくなるような、心臓がせり上がってくるような、あの、身が引きつるような恐怖感というのは、身体の中から湧き上がってくることは、ありません。しかしどんな所へ死んだ後行くんだろう。その答えは、全く自分では分かりません。そう思っていた時に、ご住持のお話を聞いていて、ああ、そういうことなんだ、人が亡くなるというのは、そういうことなんだ。後に残されている者が、何を考えればいいか、何をすればいいか、そのことは、こういうことなんだ。大きな教えをいただいたように、叔父の葬儀の時に、私は強く実感しました。更に時間が過ぎて、私は、仕事を、物書きになる手前、ビデオの制作会社をやっておりました。会社の舵取りがまずくて、もう、どうにもならなくて、会社が倒産せざるを得なかった。その時、私の家内が、ずっと親しくしていただいている芝のお寺さんにご相談をしたり、また、そこのご住持からお話を伺うということもありました。お寺さんが、何かをしてくれるとか、くれないとか、そういうことを期待して、何かを求めてお寺さんにどうこうということではありません。その時も、家内の、既になくなっている親父さんに、この先どうしていけばいいのか、家内と一緒に道を歩いて行く時にどうすればいいのか、それが分からなくて、お墓にお参りをして、自分なりに問いかけてみたりもしました。私のお袋のお墓は、その新宿の尼寺にあります。そこへもお参りをして、お袋に問うたということもあります。でも、自分一人の中には、答えはなかなかそんなものは出てきやしません。悩みを抱えて墓参りに行った時に、墓に向かって、何かを語りかけた所で、それは、今その場で、抱え持っていることを、ただ、吐き出すだけです。そのことで、自分の気持ちが軽くなるとか、そういうことではありませんでした。でも、行った先で、そのお寺で、お寺の方に、お会いできて、一言二言でも、お話をすることで、ようこそ「よくお参りにいらっしゃいましたね」と、その一声を掛けていただいたことが、すーっと自分の胸の内に抱えていた、重たい悩みを解きほぐしてくれたということは何度もありました。いろんな文明が進んでいって、世の中の動きは、本当にすさまじいテンポで、前に前に進んでいます。でも私は、こういう、科学が、文明がどんどんどんどん先へ先へ行く時代であればこそ、自分の力ではどうにもできない、神仏の力というものを、強く感じてなりません。己一人が、何かをしていられるなんてことは、本当に、たかが知れているんだというものを、本当に毎日痛感します。物事を無理矢理、宗教にくっつけて考えるなどということを、私はするわけではありません。それほど自分が、信心深い人間だとも思っておりません。思ってはおりませんが、しかし、今まで辿ってきた自分の人生を考えて、振り返ってみた時に、これは、神様の力、仏の力が働いていない限り、絶対にそんなことはあり得ないだろうと思うことは、今も、毎日、経験します。自分で思い込んでいることなのかも知れません。が、それを分かりやすい言葉で説いてくださるのは、お寺に行けば、そこのお寺のご住持です。
私の菩提寺のご住持、もうほんとに高齢です。でも、そのご住持を見ていると、ああ、こういう人がご住持であれば、人は、やはり、本堂に入り、ご本尊の前に行けば頭を垂れるんだなと、強く思います。何か、口で言うわけではありません。もうその方が、身体から発しておられることが、既に、宗教の源である気がしてなりません。今、お孫さんが、そのご住持のあとを追っておられるそうです。何かを言われるわけでもなしに、もう、ずっと、その自分の祖父がやってきていることを見ていて、それを自分の中に取り込んで、大事にしているんでしょう。そこのお寺に行って、私の家内の亡くなった親父さん、名前を喜八郎と言います、喜ぶ八郎と書きます。私が物書きになろうとして、新人賞に応募を重ね、様々なことをやって、何とかかんとかともう祈る思いで、必ず自分の力で背負った借金を返していくんだと、それだけは信念として持って、何度も何度も、家内と一緒に、亡くなった親父さんのお墓に参り、そこにお参りをして自分で原稿を書いて、出版社への新人賞に応募を続けました。一九九七年に、文藝春秋が、発行しております、オール読物という、月刊の小説誌の新人賞をいただくことができました。それで、プロの作家としての土俵に上がることができました。新人賞いただいて分かったことは、それはゴールじゃなしに、本当にここがスタート地点だったんだということを、もう、身体の芯から痛感しました。新人賞をゴールと考えて、応募を続ける人も、世の中にたくさんいらっしゃる。それはそれで考え方ですから、どうこう言うことじゃありません。もう新人賞いただけばいいや、世の中に数多ある新人賞をいただいてきた新人作家と言われる方々、もう軽く千人を超えているでしょう。でも、その人々の中で、本当にプロの作家として、今、残っている物書きは、驚くほど少ない数です。結局、新人賞いただいてからプロの作家になっていく道のりが、一番険しかったんです。私は、そこを、そのハードルを越えるのに、二年かかりました。新人賞いただいた後、受賞後第一作というものをオール読物が掲載してくれることで、初めて、それを作家として、文藝春秋が認めるということになります。その新人賞をいただいた後の受賞後第一作が出るまでに二年かかりました。二年目に掲載された、私の本当の意味のプロの作家としての出発地点となった小説の題名は、損料屋喜八郎始末控えといいます。これは、私の家内の亡くなった親父さん、喜八郎の名前を、題名に使いました。あざといことを考えて、何かをやろうと思ったわけでも何でもありません。主人公としての名前に、私は、亡くなった親父さんの喜八郎の名前以外に、何も考えませんでした。この名前を使った小説を書こう。その時には、亡くなった親父さんに後押しを頼もうだなんて気も全くありませんでした。後になって気付いた時に、私の物書きの出発点というのは、損料屋喜八郎始末控え、女房の亡くなった親父さんの名前が小説の出発点でした。文藝春秋の次に、うちで小説を書いてみませんか、と言われたのが、講談社です。講談社は、小説現代という、小説雑誌を出しております。そこで、私は、じゃあこういう話を書きたい、自分で思いっきりアイデアを練って、考えに考えたシリーズの小説の題名は、深川黄表紙掛取り帖といいます。これはどういう話かというと、今でいう所の、広告宣伝を請け負う、いわば広告代理店のような仕事を、あの時代にやる人達がいてもいいんじゃないかと思って、それを主人公に用いて、お話を、連作を書いてきています。これは今でも書いております。損料屋喜八郎も、もちろん今でも書いております。で、その二番目になった、深川黄表紙掛取り帖、これの主人公の名前は、蔵秀(ぞうしゅう)といいます。私は、蔵秀という名前は、広告宣伝をやる人間ですから、売上げが伸びて収入が増える、増収につながればいいやという所から、自分で考えた、主人公の名前だったんです。ところが、本当にところがなんですが、当てた漢字、蔵秀という当てた漢字は、ゾウは、蔵という字を当てました。シュウは、優秀の秀、ヒデという字を当てました。それで蔵秀と読みます。全く、何も考えずに、蔵秀という名前を、自分が好きで使ってきておりました。直木賞をいただいた後、単行本にまとまる時に、ゲラが出てきて、それを読んで、その時初めて気付いたんです。私の亡くなった親父は、山本謙蔵といいます。ケンゾウは、ごんべんに兼ねるという字を書く謙に、ゾウは蔵です。死んだお袋の名前は、秀子といいます。今申し上げた、優秀のシュウに、子供の子です。全く意識をせずに、私は、親父とお袋の名前を主人公の漢字に当てておりました。こんなことは、あざとく何かしてやろうと思って、やれることではありません。もう一つ、極めつけとも言ってもいいことがあります。私が新人賞をいただいて、その喜八郎の原稿を書いて、なかなか掲載してもらえずに、あがきにあがいていた時、新人賞は通っていますから、作家という名前は、
言ってもいいんでしょうが、どこにもまだ原作が掲載されておりませんから、世の中の人に、私は小説書いていますなどと、恥ずかしくて言えるものじゃありません。書いてる原稿を、編集者は、読んでくれてはいましたが、全くの、まだどうなるかも分からない新人の原稿を、そういつまでも、丁寧に編集者は読んではいられません。少なくとも、他の担当している作家さんは、全員が直木賞クラスの作家さんですから、私の書いていく原稿は、もう言ってみれば、手が空いている時に読むというようなことだったんだと思います。その時に、私が書く原稿を、隅々まで、懸命に読んでてくれたのは、一人は家内です。女房は原稿が仕上がると一番最初に読んで、面白い、頑張ろう頑張ろうと言って、背中を押し続けてくれた。もう一人は、私の、横浜に住んでいた叔父貴です。大変に信心深い叔父で、先ほど最初に申し上げた、私の祖母は、子供を、その横浜の伯父貴、要という名前ですが、これが長男です。お袋が長女で、長崎にいる叔母が次女、高知にあと、次男、三男、全部で五人の子供を、祖母は授かっていました。一番最初に亡くなったのが、私のお袋でした。兄弟の中で、なんで秀子が最初に欠けるんだと、泣いて、般若心経を唱えてくれたのが、この要の伯父貴です。次に亡くなったのは、高知の次男、そのあとが三男、残ったのは長崎にいる、もう今や認知症の叔母と、横浜にいた長男の伯父貴の二人だけが残って、その伯父貴がいつも言ってたのは、俺が兄弟全員を看取ることになるのかな、ということを、よく言ってました。その伯父貴とは、まだ私も、新人賞はいただいても小説もまだどうなるか分からないような頃に、高知の叔父貴の葬儀には、車に乗って、列車も、飛行機も、交通費が大変でしたから、車に家族と伯父貴が乗っけて、高知まで車で走って行くというようなことも続けていました。その時ずーっとその伯父貴は、私の小説を読んで、ここはこうしたがいいんじゃないか、ああしたがいいんじゃないか、様々なヒントをくれて、しかも昔のことをよく分かっておりましたので、言葉遣いのことや何かも、大事なヒントをくれたりしていました。伯父貴が生きている時に、単行本の損料屋喜八郎始末控えが本になりました。本当に喜んでくれて、横浜の近所の書店で、買って、大騒ぎをしてくれてました。この伯父が、私の二作目のあかね空が単行本になった年は、単行本になったのは十月です、伯父はその同じ年の十二月の八日に世を去りました。単行本は、なったのは見てくれていたのかも知れない。ただもうその時には、伯父とは、ちょっと往き来が途絶えておりましたので、あかね空の単行本を、伯父が見てくれたかどうか、これは分からず仕舞いでした。単行本が出て、二ヵ月ぐらいが過ぎた十二月、横浜の伯父の家から訃報が届きました。亡くなったと言われて、もう呆然として、家族全員で伯父の所へお弔いに行きました。今時流行りの、セレモニーホールという所で葬儀が執り行われて、音楽がかかっている。もう、いたたまれなくなるような、そんな葬式だったんです。私の長男、今、中三ですがその時はまだ小学生でした。その要伯父を、本当のお爺ちゃんだと思ってなついておりましたので、その葬式の在り方に、ものすごく胸を痛めました。要のお爺ちゃんあんな送り方をされて、本当に可哀想だと、まだ小学生の小僧がそのことを嘆いたものです。私はその時に、要の伯父貴に、あかね空が、ようやっと単行本になった、原稿を書いてた時には伯父貴は何度も、あかね空の原稿は読んでくれてました。あの原稿が、ようやっと単行本になった。一緒に作った本を、世の中でいっぱい売れるように頑張ります。セレモニーホールの伯父貴にそのことを、私は、その音楽が鳴ってる祭壇に向かって、胸の内でそのことを語りかけて、家に帰ったんです。帰ったその時に、本当に、その斎場から帰った日に、日本文学振興会から、あかね空が第百二十六回の直木賞の候補に決まりました、という速達をいただきました。こんなこと、仕組もうとしても、できることではありません。私は、世の中へ出て行くきっかけとなった、損料屋喜八郎始末控えを、女房の親父さんの名前で、世に出すことができた。二作目の小説は、考えてもみなかった、自分で全く想像していなかった、自分の親父とお袋の名前を、主人公に使っていた。こうして皆さんの前で、お話をさせていただけるのも、私が、直木賞をいただいたからです。直木賞いただいたが故に、皆さんと、こうして名前を知っていただくチャンスもあった。その、直木賞をいただくきっかけになったのは、お袋が死んだ時に、何でお前が最初にと言って嘆いた、要伯父の葬儀のその日に、知らせを受けたんです。人の生きていく道筋というのが、どういう風なレールが敷かれているのか、そんなこと分かりゃしません。分からないが故に、人生でしょう。分かっていたら、ゴールが見えていたら、人は、一生懸命やろうなどという気にはなりません。分からないが故に、一生懸命やります。しかし、一生懸命やった人も、やらなかった人も、同じだということであるのなら、人は、絶対に一生懸命なんかやりません。プルデンシャル生命保険という、保険会社があります。これは、アメリカの外資系の保険会社です。
ここは、殆ど広告宣伝にお金を使わない会社です。宣伝費に使うお金は、営業マンの収入に回したほうがいいというのが、はっきりした考えでやっています。ものすごく分かりやすい。一生懸命汗を流す人間に、手厚く報いるために、お金を使う。こんな分かりやすい話はない。が、それだけじゃありません。この保険会社がやっていることの一つは、社会の奉仕活動です。自分ところの名前を前に打ち出せとは言わないんです。そんなことはどうでもいい。世の中全体がうまくいくことの、手伝いができることで、自分の会社の保険生命の在り方と、軌を一にする活動であるんなら、使えるお金は使いましょう、そういう考え方をしている会社です。この保険会社の、昔から古くある言い伝えというのが、会社に行けば社長室に、額に飾られています、一生懸命やっても、やらなくても、同じだったら、人は頑張らない。そう書いてあるんです。正しくその通りです。ともすれば、人は、人に説教垂れていく時に、ものすごく建前を前に前に押し出していって、結果として、わけが分からない話をしたりします。でも聞きたいほうは、そんなきれい事じゃありません。人生が、きれい事で済むわけがない。人生というのは、もっとどろどろどろどろした、嫌なものもいっぱいある、いいことなんかほんの少しかも知れない。もう嫌なことがいっぱいつながる中に、一生懸命でもやっていたら、どんなに嫌なことがあっても、一生懸命やり続けていたら、必ず見ている人はいるよ、そのことを信じていくということが、人生です。文藝春秋という雑誌で、三国志が連載されています。これは新しい切り口の三国志で、その第一回目の中で、象徴的なシーンから、物語は始まっていました。それは役人と商人が、ある所で出会って、商人が役人に賄賂を渡そうとします。「いいじゃないですか、誰も見てないんだから、受け取ってくださいよ。」こう言って、商人は、役人を抱き込もうとする。言われた役人は、背筋を張って、「貴方何を馬鹿なことを言ってる。見てない、誰も見てないなどと、何故そんなことが言える。今、二人がやっているこの会話を、貴方は見ている。私も見てる。天は見てる。地も見てる。四つも見てるぞ、何故誰も見てないなどと言える。四つも見られている所で、なされる悪事が、分からないわけがないだろう。」こう言って、商人を追い返している。私は、本当に、これが、人が生きていく上の大事な指針の一つなんだということを、そのことから教わりました。今、力があるからといって、お金があるからといって、何でもできると、勘違いをした人が、勘違いをした振る舞いに及んだ結果どうなったか、去年から今年にかけて、いろいろな例を見てきました。もう、世の中、全て自分が動かしていると思っていた男が、あっという間に表舞台から消え去りました。何人もいます。その中の一人は、誰の人前に出る時でも、Tシャツでネクタイを締めないということを、自分の値打ちであるかの如くに言っていた男です。ある人の紹介といいましょうか、義理で、その人物と会わなければいけないということに、一回なったことがあります。その人物の傘下にある会社が吸収されるんで、吸収される会社と、私も昔、関わりを持っていたことがありましたので、一回会ってくれよと言われたんですが、私は全然興味がありませんでしたし、顔を合わすことはしましたけども、口もききませんでした。その吸収された会社が、そこのグループになるという御披露目の会を、ニューオータニの一番大きな宴会場で催して、盛大なパーティをやりました。それにも呼ばれて、私も行かざるを得なく、その時ですら、その男はTシャツにスニーカーという無礼な格好で、来賓の前に立っていました。もう、その姿を見ただけで、私は虫酸が走るほどに腹が立った。世の中、全て自分が動かしていると思ったかも知れない。ところが、小賢しくもその男は自分の裁判が始まったら、上着を着てネクタイを締めて、公判に臨んでいる。結局、小賢しいことをする人間、志のない人間は、状況さえ変わった時には、どうとでも、卑しいことをするんです。もしも公判に、あのTシャツの姿で臨んでいたら、私は、また違う思いを抱いたかも知れない。しかし、あれほど、誰の前に居ても、自分はTシャツで押し通すと公言していた男が、ひとたび官憲の手に落ちたあとは、恭順の意を示すかの如く、背広にネクタイの姿で社会に出てくる。そのことを、マスコミは糾弾しない、ただただ、こうだった、ああだったと垂れ流しのような報道をする。これが、今の世の中の一面であることは確かです。じゃあ、違う角度の所は何か。私は、確信しています。
今の時代ほど、宗教家が求められていることは、絶対にありません。断言します。声高にものを言う必要はありません。生き方そのものが、人に対しての教えであります。私が子供の頃、中学の三年生だった時、私に教えを説いてくれた中学の教師は、戦争を体験してきていました。人が生きる死ぬということを、目の当たりに見てきた人物です。死ぬということは、絵空事でもなければ、空想事でもない、もう手を伸ばしたら、届く所に死があったんです。そういう苛烈な中を生きてきた人間です。その人達が、我々に、ものを教えてくれました。教わる子供達も、横着なことを思う前に、大人の言うことをしっかりと聞いていました。何でもできるなどという、思い上がりは皆無でした。人間というのは弱い生き物なんだよということを、学校の先生からも、社会からも、地域社会の大人からも教わっていました。人は、一人じゃ生きていけないんだよということを、教わりながら、生きてきました。今、自分流という嫌な言葉が、世の中を跋扈しています。ナンバーワンよりもオンリーワンなどという、クソみたいな言葉が、世の中を一人歩きしています。そういうことを、大人がぬけぬけ言うが故に、子供が勘違いをします。そうじゃありません。人は一人じゃ生きていけません。結婚をして、子供を授かって、子供を育てて、初めて分かることが、きっとあります。子供を欲しくても授からない人に向かって、子供を生めというのは、これは酷かも知れない。しかし、大人が勝手に自己規制を敷いて、これを言っちゃいけない、あれを言っちゃいけないということを決めて、そのかたっぽできれい事の世の中全て平等だの、人は皆、一緒だのと、そういうまやかしを言って、世の中を甘くしていくということをしてはなりません。やはり、人が生きていく上においては、死というものが必ず来るんだぞということを、みんながもっと真正面から見ていけば、死の怖さを、自分が身体の中に取り込んだら、どんな人間でも、そこに神の助け、仏の助け、仏の慈悲というものを、感ずるはずです。人ひとりが、生きていくことは、大変なんだよ、一人だけでは生きていられないんだよということを、人はきっと分かるようになります。そうなる時代が来るように、世の中を導いてくださるのが、宗教家でしょう。そうなれば、きっと、世の中に潤いが生まれます。人は、一人では生きていけないんだよという、一番簡単な弁えを、自分の中にできれば、その後の、生き方が、人生が、潤いに満ちた豊かなものになると、私は信じております。是非、そういう時代をできるように、皆さんの力で、世の中を導いてください。ありがとうございました。
 

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