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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

『願い』—臨床(布教・伝道)の現場に聞く—

 

特別発表
『願い』 —臨床(布教・伝道)の現場に聞く—
(札幌市安楽寺衆徒・浄土真宗本願寺派布教使・女性教誨師) 山 口 依 乗  
○はじめに
 ようこそ、お集まり下さいました、朝十時半から、皆様とご一緒させていただきまして、様々な発表をお伺いさせていただきました。自力聖道門、他力浄土門と違いはございますけれども、仏法を考慮していく、その弛まぬ努力と申しますか、力を、推進力を、そういうものを実感として感じさせていただきまして、尊いことだなと喜ばせていただきました。
 本日私は、札幌からまいりましたけれども、北海道でございます。私も父も母も、北海道の帯広という所で生まれました。ですから道産子ですね。
 日高山脈を越えまして、そして、十勝平野、アイヌの方の言葉では、「シアンルル」(大平原)というそうでございます。遠く西には日高山脈を見まして、東のほうを見ますと、地平線が見える、そういう広い所で育ちましたものですから、のんびり育ちました。
 実は私はお寺には住まいを致しておりませんし、それから寺族でもございません。母が真宗の寺院の娘でございまして、在家に嫁ぎました。ですから父はサラリーマンでございます。身体があまり丈夫ではなかったので、母の実家のお寺に預けられていることも多くございましたし、あとお寺の保育園や幼稚園で、のの様に手を合わせるという習慣がいつの頃からか身についておりました。
 生まれたところがお念仏の家です。母の結婚の時の条件が、お念仏を喜んでくださっている方の所になら行く、と言ったそうです。お見合い致しまして、縁がありまして、こういう私が生まれたわけですけども、ですからいつからお念仏を申していたのか、分からないです。きっと、母のお腹に宿った時から数えまして、もう五十四年になりますけど、ずっと、そういう生活を知らないうちにしてきたのではないかと思う、そういうご縁ですね。仏法に会う、というのはどこか強いご縁がなければ、「ご縁」と申しますとやはり、「仏様の縁」、だからご縁というのではないかなと思います。縁があったと言えばただの縁ですね。ご縁を賜りましたともうしますと、仏法を聞かせていただくご縁を賜りましたということですね。この度も、こうして皆様とお会いさせていただくご縁を賜りまして、ほんとに嬉しいことです。
 改めてご挨拶を申し上げます。「イャンタルフェ…。」
 イャンタルフェ、これは、北海道の先住の民族、アイヌの方たちの言葉です。知らない人に初めて会った時にイャンタルフェと申しますが、和文に直訳しますと「こんにちは、はじめまして」ですけれど、本当は「あなたの心に、そっと触れさせてください。」という意味です。「イャンタルフェ…。あなたの心に、そっと触れさせてください。」あなたに申し上げます。
 ネイティブの北海道の人々は、生活に必要なものだけを採取して、自然とともに生活していた人達です。文字を持たない文化でありました。その人達の、ほんとに優しい精神的な生活、守ってきた原始林や大地が今も残っておりますけど、その上に私たちの祖先、五代前くらい前の人達が移住して、今の私の生活があるということを、常に、忘れないでいたいなと思っております。
○聞くということ
 子供のころアイヌの方たちの叙情詩や物語を、図書館から借りてきては、民族説話ですね、それを読んでおりました。十一、二歳のころです。そのアイヌの方たちの説話の中で活躍するのが、だいたい十三歳ぐらいの女の子ですからワクワクして読みました。
 少女が、大切な両親や家族、村人たちを救うために、黒岳の山頂まで道なき山を、険しい山を登っていって、そこから黒百合の根を持って帰ってくるとか、石狩と十勝のアイヌ、そこに争いが起きた、そうすると石狩のアイヌの人、十勝のアイヌの人、その中から十三歳の女の子が一人ずつ選ばれて、それで、日勝峠、今の日勝峠からちょっと北のほうに、狩勝峠という、石狩と十勝の境の峠があります。そこへ民族全員が集まりまして、この十三歳の女の子二人の論議を、みんなで聞く、全員が聞く。そして、全員が一致して、そうだそうしようね、と決めたことに従う。というのが、アイヌの方たちがする論議、「チャランケ」である。ということもそのころに知りました。
 ある有名な「チャランケ」に、石狩の十三歳の少女が、集まってきた全員の人達に語りかけました。「私達は、それぞれ、石狩川の水を飲む。十勝の人は、十勝川の水を飲む。十勝川はやがて太平洋にそそぎ、石狩川はやがて日本海にそそぐ。けれども、その源は同じ、石狩岳ではありませんか。同じ山から二つの川が流れ出た。だから、私達は、ひとつの、ひとりのお母さんの両の乳房の乳を飲んで育った兄弟姉妹ではありませんか。だから、もう争うことは止めましょう。」如何でしょうか、そういう語りかけをするのですね。この言葉に全員が一致して頷く、それ以降石狩と十勝のアイヌの人々には争いがなかったと聞いております。
 私は、仏法も、色々な手立てが違って、色々なご縁で、様々な道があって、その道を、辿って、頂上を目指すわけです、涅槃を目指すわけですけれども、その人、その人に合ったご縁によって歩いていくのだなと思います。
 私などは行を行ぜよと言われても、こういう修行をしなさいと言われても、できないものでございます。いつのまにか、知らないうちにお陰様でお念仏によって、「そうだった、どの人も、他人はこの世に一人もいないな。」という実感をもてるまでお育ていただいてきたなと存じます。そういうふうに喜んでいるわけです。
 臨床の現場は、受刑者の方、被収容者と申しますが、刑務所におかれる受刑者の方。或いは相談室でカウンセリングをお受けになるクライアントの方。それから、お寺にお聴聞に来られる門信徒の方々。様々な人々がおられます。そのかたの上に現に今、法がはたらいて、涅槃へ、法自らが導きつつあるなあということを聞かせていただく場です。自分が聞かせていただいているなぁということを強く感じます。
 今日も、左様でございました。今も、左様でございます。こうしてお話をさせていただきますけれども、仏法のお話をさせていただくということは、私が、法を聞かせていただくこと、と受け取らせていただいております。
○教誨について
 本日は現宗研の伊藤様のほうから、リクエストが何点かございました。その一点について、まず、お断りさせていただかなくてはならないと思います。「男女共同参画について、お聞かせいただきたい」そういうリクエストがまずございました。
 浄土真宗の本願寺派では、今、各教区に働きかけまして、女性がどれぐらい、活躍している場があるか、それを調査している段階でございます。それで来年の二月に、その数字と申しますか、趨勢がデジタル化されて、発表になるようでございますので、私は只今はお答えできるものを何も持ち合わせておりません。
 私が教誨師として、教誨の場で女性の方がどれぐらいおられるかな、ということをまず、手作業で調べさせていただきました。本願寺派の矯正教化連盟の会員の名簿を見ますと、女性の教誨師は全国に七名いる、ということがわかりました。
 年に一度、教誨師と特殊面接委員の研修会というのがございまして、今年は、九月の二十七日、二十八日と京都でございました。そこで今年のテーマは「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」本年から施行になりました。法律の名前が長いので「新法」と呼ばせていただきますが、「新法」を学ぶということでございました。
 「新法」の眼目は、いわゆる、社会復帰を重点に目指す、教育的処遇をするというところにあります。刑事罰、罰則で拘束する、或いは作業に従事させる、ということではなく、教育をする日、お勉強する日を増やしましょう、ということです。教誨師や特志面接委員がどのようなサポートを出来るのかが話し合われました。
 私は教誨師を、長年してまいりましたわけではありません。本願寺派では女性が教誨師に任用されて実際に施設へ行くようになりましてから、まだ三年しか経っておりません、ですから、まだ私は三年目の新米です。その中で、教育的処遇日に教誨が他の科目とバッティングするようになりまして、他の教科にも出たいが、教誨も受けたいという方のリクエストにどのようにお答えするかが当面の課題となっているところです。
 今までどおり、教誨の日には本来は作業に従事しているべき所を休ませていただいて、仏教クラブに被収容者の方々が出て来てくださるよう、施設側と話し合っているところです。
 札幌には札幌刑務所と、刑務支所がございまして、私がまいらせていただくのは支所のほうで、女性の受刑者の方の所でございます。毎月一度、そこでグループワークセッションと個人教誨をおこなっております。
○教誨の実際と私の思い
 倶楽部の皆さんと一緒にお勤め(読経)を致しまして、日ごろ私が感じていること、ひと月の間にこんなことがありました、急に木の葉が落ちてきましたけれどやっぱり無常を感じますね、とか、日常、ほんとに実感としている所をお話させていただきます。そして、「どうですか、この所のご生活は如何ですか」などディスカッションをしながら、最後には、仏教讃歌を歌い、お別れをいたします。時間は四十分くらいです。
 私は、女性の受刑者のところに、必ずしも女性が行かなくてはならないと思っていません。男性の教誨師の方でも十分お勤めは勤まる。心的援助はできるものと存じます。
 けれどもやはり、心だけではなくて女性の身というものがある、これを浄土真宗では特殊、特殊の機といいます、特殊の機、「普遍の法と特殊の機」と申します。女性には女性の世界があるね、女性にしか分からない身がある、その身の所にこちらの心を寄せて、共感と受容と申しますけれども、どこで共感をする所の接点を見出していくかという、そこが男性の教誨師さんの場合には、こうであろうな、という予想はついても、非常に難しいこともあるのではないでしょうかね。ぴったり寄り添っていけない。ですから、女性の施設、刑務支所、或いはこちらの関東では栃木刑務所がございますね。女性の施設に、やはり、女性の僧侶の方が、積極的に心的援助に参画していただければ嬉しいな、と思っております。これは何宗の僧侶であっても構わない、仏法の僧が、女性僧が行っていただけたら私は嬉しいなと感じております。
○個人教誨での体験
 こういうことがございました。いつも、グループワークで参加してくださる方ではなくて、急に個人教誨の依頼がございました。私はどういう方がどういう理由で教誨をうけたいのか、ということを予めお聞きいたしません。出合った所が、もうそこが、全てですね。ですから、お聞きしません。グループの中の、お一人が残られることもあれば、まったく初めてお目に掛かることもある。その日は、初めての方でございました。
 そうですねえ、白髪もたくさんおありになって、六十代後半くらいにお見受け致しました。お部屋に入ってこられた時にも、目が真っ赤に泣き腫れて。強く、白いハンカチを握り締めた手が、ぶるぶると震えておられる。どうぞそこにお座りくださいと申しました。刑務官の方が、お念珠を手渡されました。じーっと、お念珠を見ておられて、「これは」と、「これは、どのようにして使ったらよろしいんですか。」と聞かれるのです。もう随分お年の方ですが、お念珠を使ったことがないと…。「じゃあね、浄土真宗ではこうして、親指と人差し指の間に挟んで、房をこう垂らしてね、このようにして、礼拝して下さい。」その時に、女性ですから、手に触れて、差し上げることができます。がたがた震えておられる、その手をぎゅっと、握り締めてあげることができます。何の言葉も交わさなくても、「大丈夫よ」言葉にして言わなくてもいいですね。「大丈夫よ」と伝えられる。
 「ではこれから、私がお勤めさせていただきますけど、どういう理由で貴女がここにお座りになっていられるのですか、お聞きしてもよいですか。」と私は彼女に聞きました。「夕べ遅くに知らせが参りました。おとついに、私の母が亡くなりまして、今、実家で、今この時に、母の葬式がつとまっております。それで、私は帰ることができませんので、どうかここで一緒に、母の葬式をつとめてください。」たどたどしく、もう、息を吐くのがやっと、すすり上げておられる所から、ようやくお聞きした言葉が、そういう言葉でした。
 「そうですか。じゃあ、お勤めさせていただきますよ、どうか、先ほど申し上げたように、合掌、礼拝、お念仏…申して下さいね。」ご本尊のほうに向き直って、お勤めを始めました。
 お焼香をして下さっている様子が、伝わってまいります。小さな声で、お唱えになる。ああ、お念仏お唱えになってくださったわと思いました。
 御文章を拝読いたしますと、「明日には紅顔ありて夕べには白骨となれる身になり…」お読みしているうちにその方が、「うわーっ」と大声で泣き崩れられました。「お母さん会いたかったよう、会いたかったようお母さん会いたかったよぅ」。
 向き直りまして、「そうですか、お母さんに、お会いになりたかったのねえ。」「はい。ちょうど二週間前に兄が面会にまいりました。お袋はなぁ、あんたに会いたいがために、骨と皮になっても生きとるぞ。そう言って、帰ったばかりなんです。私は末っ子で一番大事にされて育ちました、今そのことに気がつきました。なのにこんなになってしまって…」と自分の膝を激しく打ちます。
 あともう一週間、あともう一週間だった。仮出所が決まっておられたのですね。そうだったの…。私はその方のお名前を存じ上げません、仮に117番、と番号がついて、番号だけが呼ばれる名前です。「○○さん。今ね、貴女が、お念仏をお唱えくださった、手を合わせてくださった。その姿はね、そのまま今ここに、お母さんが、貴女に向かって、娘よ、どうか、暗い所から、本当に明るい所に歩みを進めておくれと、南無阿弥陀仏と、手を合わせてくださっているお姿ですよ。そうでなければ、人間は、手なんて合わせられるものじゃないです。この私の根性というものは、そんなにね、美しいものじゃないです。今、私は貴女のお姿から、貴女のお母さんがね、貴女に向かって、娘よどうか、本当の人間になっておくれと手を合わせてくださっていると、そのお姿を拝見させていただきましたよ。」「そうなの」「そうよ、そうなのよ。お母さんね、これからはここにね、あなたのこの胸にね、今度はずっとあなたと一緒にいてくださるね。」「ああ、そうなんですかぁ。お母さーん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん会いたかったよ、会いたかったよお母さん、お母さんごめんね、ごめんなさい。こんなになって。ごめんねー。」なんどもごめんなさいと叫ぶひとが私の前に座っておられました。「○○さん、今確かに私が、お聞きしましたよ、貴女がほんとにお母さんにお会いになりたかったのは、お母さんにごめんなさいっていいたかったからなのね。良かったね、言えて。良かったねえ。お母さんに、聞いていただけて」。
 普段、私たちは話をすると申します。話す(はなす)ということは、手放すことなんじゃないかなとこの頃思います。自分の実感、本当の本心を手放すことができたら、人はエンパワーメントできる、少しずつ元気になることが出来る。実感を手放させる、それが、カウンセラーとしての、それから教誨師としての私の、クライアントに対する、援助、ではないのかなと思います。ますますこのところ、その思いを実感として深めております。117番さんを通して、あらためて教えていただいたことでした。※1
 次の日、刑務官の方が「すみませんでした、昨日は落ち着かないことでございました」そういう謝りのお電話ですからおどろきまして、「そんなことありません、あなたは時間をくださったじゃないですか。ですから、その間に、彼女は、お母さんごめんなさいという本当のところを手放す(話す)ことができました。ありがとうございます。ところで117番さん、あの方どうされていますか。」「おかげさまで、今日は、落ち着いて、朝から工場のほうに、作業に出ることができました。一言、ご報告を申し上げようと思いまして、お電話をさせていただきました。」そういう知らせでございました。ああ、よかったな、そう感じさせていただいたことです。
○私が布教の現場で実際にお話していること
・解かろうとしてはげむ
 いつもは、私が対面する皆さんに、実感の所を話してください、とお願いするわけですけれども、今日は、私が、私の実感の所を、これだけの、たくさんのカウンセラーがおられて、聞いてくださっておりますので、やはり、とろとろと話があっちへ行ったり、こっちへ行ったりしますけれども、手放させていただいているな、と思います。
 何か、レジュメをということですが資料として、一枚、紙も仏様からの賜わり物ですので、なんとか、A4裏表一枚にと思いまして収めさせていただきました。
 これは『唯信鈔文意』と申します文の跋文です。下のほうに、康元歳正月二十七日愚禿親鸞が、八十五歳これを書写す、とあります。親鸞が、今日私は親鸞の家の子でございますので、普段はお父さん、ご開山様とか、お聖人様、とか呼ばせていただいておりますが、こちらでは敢えて親鸞、と呼ばせていただきます。その親鸞が、八十五歳の時に、関東の門弟に宛てた、文章が現存して残っております。唯信鈔文意と申しますのは、聖覚法印という方がお書きになりました唯信鈔という文を、その御文の意味を和語で解説しながらかかれたものといってよろしいかと存じます。
 その当時鎌倉時代です。通信が少しずつ発達してまいりまして、文字が使われ始めて、一般の人も、文字を書くということが起きてきた時代ですが、漢文をそのまますらすらと読んでいく人、というのはなかなかおられなかったと思います。またその時代は、京都以外は全部いなかと呼ばれていたそうですから、そのいなかの人々の文字の心も知らない人に、とりかえしとりかえし、重ねて、心ある人が読めばおかしいと思うでしょうけれども、その意味を、解釈して、書いて送ります。というお手紙の形になったものです。
 唯信鈔というその言葉もまず、「唯はただこのこと一つという、二つ並ぶことを嫌う言葉なり」と、書き始めております。この度、こちらにお寄せいただくことになりましてあらためて思いましたのは、仏法には色々なご修行の方法があるなぁということです。私は他力浄土門ですので、絶対他力の教えでございます。
 親鸞は、正定聚不退転に、この世間で住すると申しておりますけれども。この唯信鈔文意に、ずっと、唯信鈔ということを解釈したその後ですね、『涅槃』を、涅槃という言葉を、今度は解説致しております。「涅槃をば滅度という、無為という、安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり。」全ての時間と空間に満ち満ちておられる。「すなはち一切群生海の心なり(この後異本では、草木国土ことごとく成仏すと説けりと書いてあるものもございます)。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり。」で、「仏性すなわち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」と。その、色もなく形もない、何もない所から、方便(必要不可欠な具体的なてだて)として、南無阿弥陀仏という、言葉になって表れてくださったご本尊である。人間の、言葉になってくださっている。その言葉になってくださった、ご本尊ということが、なかなかわからない。納得いかないのですね。聴聞しても聴聞しても…。解かろう、解かろうとしておりましたね。
 私は、ほんとに聴聞でお育ていただいて、今この形をしておりますけれども、在家の者でございます。当時札幌で、お聴聞を続けておりましたお寺では、年に二六八日、ご法座がございました。それを四年ほど重ねて、一日も休まず聞かせていただいても、今思いますとだめでしたね。ご講師からだいたい一席四十分、間に十分から十五分休憩を挟んでまた四十分、一時間半ほどの法話を聞かせていただきましても、それを毎日毎日繰り返しても、なかなか腑に落ちない。
・父の声を聞く縁に会う
 今からそうですね、七年ほどまえになりますか。ある時、ふっと、足が痛むようになりまして、とんとん持ち上がらなくなって、階段を上がるときに突っかかるようになりました。それまで、山歩きが趣味でございましたが、上げたつもりの足が上がっていない。どうしましょう。すぐに、父親の主治医であった先生をお訪ねして、検査をしていただきました。
 私の父はALS(筋萎縮性側策硬化症)という、筋肉の運動を命令をするニューロンという神経細胞が突然死していく、という病いで亡くなっております。全身の筋肉が動かなくなっていく難病でした。それでもしかしてと思いまして同じ医師を訪ねたのです。三日間ほどかけて、大学病院で調べていただいたら、「ちょっと、まだ診断ができませんね、もっと悪くならないと、似たような症状の病気がいろいろあるので名前は付けられません」そういうことでした。
 それで、先生に、もしも、私が父と同じ病気で、父と同じように人工呼吸器を、気管を切開して付けなければならなくなった時に、それを拒否したら何年生きられますか、ということを聞きました、何年生きられますか…。
 その当時、大変、介護が難しい病気でしたから、人工呼吸器を付けるのを拒否して亡くなっている方が70%ほどおられた時代でございます。そうですね、二年でしょうかねと、ずーっと悪くなって行って、もう、何年か経って、そして人工呼吸器をつけなければならなくなったら、それを拒否したら何年か。二年ですね。そうですか。
 先生その時ふっと考えておられましてね、胸のポケットから、もう黄色くなった紙片を取り出されまして、「あのね、僕ね、お父さんからこんなお手紙をもらっていたのだけれども、読んでみてもらえないかな。」と手渡されました。読ませていただきました。
 ワープロで、一文字一文字打ったのでしょう、もう筆を持つ力もなくなっていて。
 『Y先生へ、何時もご高配を戴きありがとうございます。
 私は、副作用のどんな苦しみにも耐えることができます。
 どうか、後の人のために、新しい薬、新しい治療法ができたなら、
 まず、この私に試して下さい。
 勇気を持って、試してください。
 なもあみだぶつ、合掌。山口栄。』とありました。
 ああ、知らなかった。もしかして、父と同じ病気じゃないかしらと思って、同じ先生をお訪ねしなかったら、私にそういう縁が起きなかったら、父がそういう手紙を先生に差し上げていたということを、一生知らないでいたのじゃないのかな、と思います。
 十二年の間、確実に動かなくなっていく筋肉、痺れていく四肢。辛いはずはない、苦しいはずはない、けれども一度も、辛い、苦しいと、言ったことがない、聞いたことがなかったなと思いました。
 じっと、人工呼吸器に、そして栄養は胃に直接管で、排泄も管で、点滴も管、ありとあらゆる所がチューブでつながれている、スパゲッティ状態と申しますが、その中で、父も介護をするものも暗くなりませんでした。
 母が病院にまいりまして「お父さん、今日はいい天気ですね、なんまんだぶなんまんだぶ。」父がまぶた二回閉じます。イエスという約束です。ノーは一回。ぱちん、ぱちんと二回はイエス。そして、そうだね、なんまんだぶなんまんだぶ、まぶた二回閉じることで念仏を申している父でした。
 父は、何もかもどこも動かすことが出来ず、最後にはまぶたしか動かせない、その状態のなかで、全ておまかせして、自分の命をどうか後の人のために使ってくださいと願っていたのだと思います。後の人のためにというのは、もしかしたら、いずれ発病するかも知れない子や孫、そのためだけでしょうか。違う、同じ病気で、苦しむ人達、もっと若い人達もいる。どうか私の命を、使ってくださいね。後の人のために、どうか、先生勇気をもって、私に試してくださいね。新しい治療法ができたら、新しい薬ができたなら、まずこの私に試してください。そのように、自分の命を開いていける世界があったのだなと知らされました。
 冬のはじめでしたから、大学病院の門を出るまで、ずっとプラタナスの葉がちらちらと、舞っておりました。枯葉の落ちていく音に、父の声が聞こえたような気が致します。「どうか後の人のために…、後の人のために…」。父の声が出なくなってから何年も経ち、そして私は父が亡くなる時に、本山の、得度ための道場におりましたから、葬儀には帰りませんでした。ですから、父が亡くなる時に会っておりません。その、ずっと聞かなかった声が、聞こえる。毎日続けておりました聴聞を少しお休みさせていただき、主治医の進めるリハビリを始めることにいたしました。
・妙好人才市さんのおしえ
 妙好人という方が、色々な所で紹介されております。鈴木大拙博士も『妙好人』という本をかれておられるようですが、別な方の本の中に、(妙好人とは、篤信の信者ということ)浅原才市(あさはらさいち)さんの詩が紹介されておりました。
 『胸に咲かせた信の花
 弥陀にとられて今ははや
 信心らしいものはさらになし
 自力と言うてもくにならず
 他力と言うてもわかりゃせぬ
 親が知っていれば楽なものよ』
 すぐにはね、うんって、納得できないのですね。そうですねえ。才市さんがね、篤信の信者と言われる人が、「信心らしいものはさらになし、」といわれている。どういうことでしょうか。何度もこれを、何日間くらい、睨んでおりましたかしらね。ふっと、ああーっ、これは私のことだわと気づきました。毎日、毎日268日、それでも足りなくて他の寺にお座があったらそこにも通って、まあ300日、聴聞続けて励んでおります。で、はい、わかりました了解しましたと頷いているけれど、そうじゃなかった。
 信心していてますというのはね、胸に咲かせた信の花、これって、自分で咲かせてるのですよ、この私が自分に。私には真実の心などありませんって、前にご紹介した『唯信鈔文意』に親鸞が「信は疑いなき心なり」といわれその後、「虚仮は慣れたる心なり」、ともうしているのですね。慣れたる心というのはね、解ったことにしている心です。「虚は虚しいという、仮はかりなるということなり。虚は実ならぬを言う。仮は真ならぬを言う」。私の心です。胸に咲かせいるのはこの私。自分の手柄にしているわけですね。その私の信心、私のものです。それを、南無阿弥陀仏がはたらいて、取って下さったといっておられるのですね。弥陀にとられて、今ははや…。
 ですからこの私にあるのは信心じゃなくって、信心らしいものしかないのだ、らしいものです。そうではないかしら、と思っている姿しかない。錯覚です。それに気づかせていただいたら、自力と言うても苦にならぬ、一生懸命励んでいた聴聞、自力と言われても、苦にならぬ。他力と言うてもわかりゃせん。親が、真実の心が、南無阿弥陀仏が知っていてくださったら、楽なものよ、です。凝り固まっておりましたものを、解かしていただいたような、気が致しました。自分の本当の姿が見えてきた。聴聞を始めて、もう十年くらい経ってしまっておりましたね。
 さて才市さんの詩をもう一首味わってみたいと存じます。
 『これがたのしみなもあみだぶつ。
 これがをやのなもあみだぶつ。
 これがわたしのなもあみだぶつ。
 これ〔が〕せかい〔世界〕のなもあみだぶつ。
 これがこくう〔虚空〕のなもあみだぶつ。
 わしのせかい〔世界〕もこくうもひとつ〔虚空も一つ〕。
 をや〔親〕のこころのかたまりでできた〔出来た〕。
 こころにをさめとられて〔収め取られて〕、これがあんしん。
 なもあみだぶつ。なもあみだぶつ。』
 『ごおんうれしや、なもあみだぶつ
 妄念の置き場をきけば
 機法一体、なもあみだぶつ。
 このこころで、十方微塵世界を、
 仏や菩薩や親様と、
 遊んで居るか、このこころ。
 なもあみだぶをたべて遊んで、
 なむあみだぶつと共に、日暮らし。
 ごおんうれしや、なもあみだぶつ。』
 心身ともに軟らかくなる世界がひらかれておりました。
 ・他力の信心
 この頃、こちらのほうではいかがでしょうか。北海道はジンギスカンを、お客様がみえたら致しますけど、七輪使いますね、七輪が大変売れたそうで、東京のほうでもジンギスカン召し上がるそうですね。
 あれは、炭を使います。消し炭をいっぱい入れまして、堅炭を置いて、火を付けます、火種を入れて。燃え残りましたら火消し壷に入れて、消します。火消し壷には、たくさん白い灰が残っています。そこからまた火をおこす時に消し炭をとって出して、そして火を付ける。いくら懸命に扇いでおりましても、消し炭だけだったら火はつかない。消し炭、山のように積み上がったこの消し炭が私なのだと思います。
 そこに仏性など一つもないのだ。その、一つもない所に、その消し炭のど真ん中に、炎となって火種が飛び込んでくださる、法が飛び込んでくださる。南無阿弥陀仏の六字の名号が飛び込んでくださる。
 こちら様でしたら御七字様でございましょう、南無妙法蓮華経様が、法が飛び込んでくださって、そして、火を付けてくださって、私の口から炎となって、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経様と、法が立ち上がってくださるのでしょう。御六字の行き先が浄土であります、ここに来てくださっていたらここが浄土。御六字の行き先が御浄土でございますから、私は連れられて、まいらせていただくだけでございます。御六字は手だてではありません、手段ではありません目的そのものです。我がものではありません。法は法として、一人歩きをいたします。
 親鸞は、さきの『唯信鈔文意』に「釈迦牟尼仏は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。」と申し。私達他力浄土門のものには、「この智慧の名号を濁悪の衆生にあたへたまふ」と、説かれたのであると伝えております。
 「十法諸仏の清浄、恒沙如来のご縁、ひとえに、真実信心の人のためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。我らが父母、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまえるなりと知るべしとなり。おおよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出たまひしみもとにして、自力の菩提心を起こしき、恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。」
 この私は、三恒河沙、ガンジス川の砂の数の三倍ほどの諸仏のみもとにて、自力の菩提心を起こし善根功徳を積みましたが、涅槃にいたることはなかった。今、願いによって、仏の清浄な、清らかな願力によって、往生を得、仏に成ることが定まったのですから、「他力の三信心に至らん人は、ゆめゆめ、余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。」他の善根功徳を積んでいる人、修行をしている人、余の仏菩薩を侮るなかれとあります。これは、関東の門弟へ宛てた、お手紙であります。
 火のない所に火となって、南無阿弥陀仏と、そして、南無妙法蓮華経と、法文を唱させ、この煩悩具足、真っ黒な私の中に飛び込んでくださって、そして灰になってくださる法があります。真っ白な灰になってくださる法が、ただ今、ここに働いておられるのだなと、喜ばせていただいております。
 本日は、皆様のご縁を頂戴致しまして、ご清聴に助けられまして、この私が、喜ばしいことをお聞かせいただきました。
 大乗の菩薩道の端と端、手だては違いましてもどうぞ、共に手を取り合い、涅槃への大道歩ませていただきたいものと存じます。そして必ず、真如の門にて、お会い申し上げたいと存じ上げます。再びまた、その門にて、お会いいたしましょう。お約束申し上げます。
 どうぞお体を大切にされまして、ご精進くださいますように。
 ご清聴、ありがとうございました。
 注
 ※1 カウンセラーとしてたいせつなのは彼女の「会いたかった」という言葉、事柄よりも、その感情「お母さんごめんなさい」という感情、本心まで聞くということです。言葉の理由を聞いていく、そのためには私自身が聞いた言葉にとらわれず、私が聞こえてきた言葉によって起きた実感を伝えていく。ほかに手だてはない様に思います。
○参考文献
 ロジャース選集(上・下)誠信書房刊
 西 光 義 敞
 入門・真宗カウンセリング・1・2
 『仏教とカウンセリング』札幌カウンセリング研究会刊
 『育ちあう人間関係』本願寺出版社刊
 浄土真宗聖典(注釈版)「唯信鈔文意」669p〜718p浄土真宗本願寺派刊
 鈴 木 大 拙
  『妙 好 人』法蔵館刊
 

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