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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

高野遊行の標—番神のゆくえ—

 

高野遊行こうやゆぎょうの標しるべ—番神ばんじんのゆくえ—
(大阪府観世音寺住職) 三 谷 祥 祁 
一 宗祖の祈りと学びの源流
 日蓮聖人の思想の背景には、源平の争い、承久の乱、天変地異、等々、人災天災のもたらす国家の悲劇と人間の哀れを見据みすえた所にあると思います。
 宗祖がお母さまの体内にて十月十日とつきとうか過ごされた間、承久の乱あり、後鳥羽上皇ごとばじょうこう、順徳じゅんとく上皇、土御門つちまかど上皇の配流あり、ましてや、モンゴルのチンギス・ハーンの軍隊は釈尊の聖地インダスの川辺に攻め来たっており、蒙古来襲の予兆はすでに始まっていたのであります。
 宗祖はこれら世情の音の届く神秘界から、一二二二年二月十六目にご聖誕されました。
 二十一才の時、「戒体即身成佛義かいたいそくしんじょうぶつぎ」を著されましたが、その中におじいさんの足に幼子の足を重ねる場面があります。この様子からして家族に愛されて過ごされたご幼少のころを拝察しますが、戦に生命を落とされたご縁者の悲嘆も知らされたことでしょう。
 宗祖のご出家の動機は、「佐渡御勘気抄さどごかんぎしょう」にある如く「恩ある人も、そうでない人も、みんな成佛をしていただくために、仏さまの誠の教えを学びたいと思われた事」です。
 祈りと学びが一願となった志こころざしを持って宗祖はご遊学の旅に出ます。
二 宗祖はなぜ高野山へ行かれたのでしょうか
 日蓮聖人は、一二四八年、二十七才の折、高野山へご遊学をされましたが、なぜ高野山へ行かれたのでしょうかと私は心に問い続けて来ました。。
 弘法大師空海への畏敬と真言密教の学びのためのご遊学と見ましても、どんなご縁で行かれたのか、いかなるえにしを求めて行かれたのか、私は知りたいと思っておりました。ところが、何をどのように調べて行けばよろしいのか、全く糸口がわからず困っておりました。ある日片付けものをしていた時、ひょっこり出て来た一本の古いカセットテープがこんな事を話しました。「私の住む高野山五坊寂静院ごぼうじゃくじょういんは、頼朝よりともの三男、ジョウギョウが来て、開いたお寺です」
雑音まじりの音の中から聞こえる高野山大学の先生の自己紹介でした。
 私は目が覚めた思いで貞暁じょうぎょうを追いかけました。
 貞暁は一一八六年に生まれ、父は、鎌倉幕府を開いた源頼朝みなもとのよりとも、母は、幕府に出仕している大進局だいしんのつぼね、貞暁の母方の祖父は奥州合戦おうしゅうかつせんで息子達と共に手柄を立てた藤原朝宗あさむねこと伊達入道念西だてにゅうどうねんさいです。念酉は源頼朝より伊達郡(福島県)の地を賜り伊達氏を称し、伊達朝宗を名乗っています。文永ぶんねい八年宗祖大法難の折、龍口刑場の役人で、後、入信したとされる伊達朝義あさよしは貞暁の縁者となるでしょう。頼朝の妻政子は、夫の浮気相手の女の家を壊し焼き払い、母子をかくまった家来を島流しにするという激しい性格ですから、幼い貞暁を抱いて惑う大進局に、さすがの頼朝も用心をして、妹の夫、京都守護職の一条能保よしやすに伴わせ、貞暁七歳して仁和寺にんなじの弥勤寺に入り、出家し十八歳で勝宝院門主となります。
 その間、父頼朝の訃報が届き、次には、兄、二代将軍頼家よりいえが伊豆修繕寺しゅぜんじで北条に討たれた報せが来るのでした。
 高野では、大峯山おおみねさんの修験者行勝ぎょうしょうが一心院谷いっしんいんだにに一心院を創建し、妙智坊、法智坊、蓮智坊、華智坊かちぼう、経智坊と名付く妙法蓮華経の五字の智力、悟りの五大力を頂いた五つのご草庵を開いておりました。
 貞暁は地獄の沙汰から逃れるために、父や兄の供養のために、寂静世界の行勝を慕って一二〇八年、高野へ入り、経智坊で暮らしますが、またもや不幸は追いかけてきます。大雪の鶴岡八幡宮で、弟、三代将軍源実朝みなもとのさねともが、兄頼家の子、公暁くぎょうに討たれた知らせが届くのでした。公暁は滋賀の園城寺おんじょうじ(三井寺)で仏門修行のさなか、祖母の北条政子に呼ばれ鎌倉へ戻った二年後の惨事であり修繕寺で落命した父頼家の無念に迷った公暁もまもなくいのちを取られ鎌倉幕府源氏の血脈儚く終えてしまいます。渡宋の夢果たせず逝った実朝ですが、金塊和歌集きんかいわかしゅうを残しています。
 師匠の行勝も遷化され、貞暁は五つの坊を経智坊一つにまとめ、新たに五坊寂静院を創建します。
 鎌倉幕府源氏三代供養のため生まれて来たかのような貞暁でしたが、わずかな楽しみは京都栂ノ尾とがのおの明恵みょうえを招き、共に阿字観あじかんを修し、源氏の貞暁と平氏の明恵は、お互いの一門の悲哀をいたわり合うのでした。
 一二三一年、宗祖が九歳の折、貞暁は高野山で四十六年の生涯を閉じました。宗祖と貞暁の直接的な出会いはないとしましたら、宗祖を高野へいざなったのは、いかなるご縁であったのでしょう。五坊寂静院へお訪ねされたとしましたら、その祈りのえにしをつなぐ人は誰であったのでしよう。
三 仮説を立てて高野遊行の標しるべを探究
 目蓮聖人の身近な人に学識者の大学三郎がいます。宗祖いのちがけの立正安国論を一番に拝読した大学三郎の存在感に、特別深い絆を感じました。はるかの昔から、何かのご縁があるような気がしたのです。私は仮説を立てました。「日蓮聖人 貞暁 大学三郎の三者の家の昔の人達のかかわりが、高野遊行の標しるべになっている」と仮説設定し、探究して行きました。
 大学三郎の家である比企家ひきけは頼朝の乳母めのとを出し、頼朝の伊豆流浪の折は、長きに渡って援助を続け、頼朝と政子の長男であり貞暁の兄でもある頼家は比企家で出生し、比企家の娘を娶り、源頼朝亡き後、頼家は二代将軍となりました。二〇〇三年に、頼家が頼りとする比企氏の勢いに危惧を感じた北条時政方は一日にして比企一族郎党をほぼ全滅させてしまいます。この比企氏の乱で運よく助かった幼子大学三郎は、比企大学三郎能本よしもとと称し、後、京へ上り、学問で身を立て、姉の娘、竹御所たけごしょが、第四代将軍藤原頼経よりつねに嫁いだため、承久の乱で順徳上皇に供奉していた佐渡から鎌倉へ戻るという数奇な運命をたどっています。親の敵かたきのところへ戻ると言うのも矛盾していますが、首謀者、北条時政も娘政子もすでになく、鎌倉当時の武士や家族、民に至るまで、人生、いのちは、鎌倉幕府頼朝、執権北条の意のままの世であり、鎌倉幕府の忠義な御家人も権力の刃に倒されて行く乱世であり、先祖に弓を引く時代でした。
四 宗祖ご母堂のご縁類
 宗祖の母方は、本化別頭佛祖統紀ほんげべつづぶっそとうき巻三の、「母者ははじゃハ清原氏舎利親王とねりしんのう之遠裔えんえい畠山家之族やから、上之総州かずさのくに大野吉清よしきよ之娘」を準拠として、日蓮聖人、貞暁、大学三郎の三者三家の接点を探究して行きました。
 房総史研究第一巻、房総国司ぼうそうこくし任命表の中、七九〇年から安房あわ、上総かずさ、下総しもうさの国司に大野氏、清原氏の名が見えます。九五〇年には、舎利親王とねりしんのうの嫡流下総守しもうさのかみ、清原夏野、清原深養父ふかやぶの子とあり、清原氏とのご縁がめばえたと思えます。河内源氏かわちげんじ八幡太郎源義家が奥州おうしゅうの戦いの前九年の役えきに苦戦の折、奥州の清原氏が援軍し、源氏を勝利に導き、その縁をもって源義家の妹が清原氏へ嫁しています。
 その百年後、鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝は、鎌倉幕府統一のため、平泉を中心に勢力を張った奥州藤原氏の栄華を滅ぼします。この奥州合戦かつせんに、大学三郎の父の比企能員よしかず、貞暁の祖父の藤原朝宗あさむね、畠山家の畠山重忠しげただ、その縁者、千葉常胤つねたね、等々、出陣して行きました。恒武平氏畠山重弘の娘が千葉常胤に嫁ぎ、その子五男が国分こくぶ氏の祖となり、同族が曽谷そや氏、大野氏などあり、日蓮宗宗学全書に、宗祖宗門を支えた宗祖の縁故、先師の遺徳が語られております。畠山重弘の弟は河越氏の祖となり、その孫、河越重頼しげよりは比企家から嫁をもらい、重頼の娘は源義経へ嫁しております。その一方、鶴岡八幡宮で義経恋しきと舞う静御前の白拍子の雅楽を担当したのは、畠山重弘の孫、鎌倉幕府有力御家人、畠山重忠でした。頼朝の父の弟、源義賢よしかたは畠山の娘を娶っております。鎌倉幕府初代問注所執事、三善康信みよしやすのぶの母は大学三郎の祖母の妹であり、目蓮宗電子聖典と目蓮宗宗学全書等をあわせ見れば、大田乗明おおたじょうみょうと三善康信との縁故があり、宗祖の縁類につらなります。畠山、千葉、比企、大野、曽谷、大田、三善、河越、等などの各家は、冠婚葬祭に集つどう間柄です。源氏三代の屍を抱いて死んでいった貞暁の孤独を、大学三郎は一家滅亡の憂き目にあった己が運命と重ねて、哀れでならなかった事と思います。宗祖は、それを熟知しておられたと拝察します。
 管見ではございますが、三者三家の昔のご縁により、宗祖高野遊行の標しるべは五坊寂静院を指しておりました。
五 宗祖はなぜ、一二四八年に高野山へ行かれたのでしょうか
 一二四八年は、貞暁十七回忌を過ぎた年にあたり、鎌倉幕府有力御家人の統率者、安達入道景盛が五月、高野で遷化します。景盛の母は頼朝の乳母比企尼ひきにの娘であり、景盛の娘は在位中の執権北条時頼ときよりの母、松下禅尼ぜんにですから、京都鎌倉を中心とした物物しい弔問客が高野山を訪れた事と思います。比企大学三郎能本も、葬列に参じておられたかもしれません。景盛は源実朝菩提のため出家し、高野山に住み、幕府へ出仕をしていたのです。鎌倉幕府は、高野山近隣の荘園の監督、伊勢の国から西日本各地の平家の所領であったものを管理する重要な任務も司っていたのです。
 冬を越えた正月、後鳥羽上皇の皇子、道助どうじょ親王が高野山でご遷化されました。仁和寺御室御所おむろごしょの門跡もんぜきを譲り、高野山に隠棲された道助親王は、一二三一年に光台院を開基しておられます。
 宗祖ご遊学の一二四八年、高野山は山門不幸、重なる年でありました。
 北条政子は夫頼朝の菩提のため安達景盛に指示をして、高野山に金剛三昧院こんごうさんまいいんを建立しています。高野山は明治初年まで女人禁制でしたから女性はお山に入れず、弘法大師のお母さまも麓の紀ノ川沿いの高野政所こうやまんどころ慈尊院に参籠し、ここで亡くなっています。北条政子〔二位禅尼〕も夫頼朝、息子実朝の供養の諸事などを結界の外、天野社あまのしゃにて託していたのです。五月初めになると、桃いろの石楠花しゃくなげの咲く金剛三昧院の境内には夫頼朝、息子実朝菩提のための多宝塔や経蔵があり、平成の現在も鎌倉文化の壮麗さをとどめておりますが、北条政子がその美しさを見ることはなかったでしよう。多宝塔の入佛供養には栄西ようさいが導師、政子の弟、北条時房が参代しています。貞暁も景盛も香を=cd=63e7いておられたでしょう。高野山は、戦の落武者、貴族の落飾らくしょく、納骨、勧進かんじんなど高野聖こうやひじりの全国行脚と共に高野山の宗教は禅、真言、法華、浄土、など交錯しておりました。宗祖ご遊学の当時は境内に勧学院があり教学の中心となっており、平安時代から受け継がれた高野版の摺本すりほんも次第に活発化されて行きましたから、宗祖が後に三教指帰さんごうしいき上中巻を写書された版本はご遊学の際、高野で求めておられたものかも知れません。宗祖は高野を下山されてから京都仁和寺へ寄っておられます。鎌倉時代、仁和寺は最も華やいだ時期であり、境内には四十九の支院が建ち並び、門外には五十の寺院を控えておりましたが応仁の乱で全焼しました。成田市史に推測として、「千葉県下総国しもうさのくにの荘園印東庄いんとうのしょうが、仁和寺の成就院に寄進されたと見る」とあります。畠山の流れ千葉氏の縁類・印東氏が仁和寺に関していればまた三善康信の先祖、三善清行きよゆきが仁和寺の宇多天皇に起用されております関係もあり、仁和寺の門戸が開かれていたのでしょう。
 
六 宗祖ご尊筆の三十番神さんじゅうばんじんのゆくえ
 天保てんぽう五年、一八三四年は、高野山一千年の御報恩忌に当たり、寺所宝塔新設修繕什物調べあり、續しょく真言宗全書金剛こんごう峯ぶ寺じ諸院家折負輯せつぷしゅう四の五坊寂静院文書もんじょには、三十番神 目蓮聖人筆 天保五年甲午 採撫古記寫之畢と記録されております。又同じく紀伊續風土記きいしょくふどき 高野山の部 一心院谷堂社院家の五坊寂静院記録にも日蓮筆三十番神影とあります。現在、宗祖ご尊筆による三十番神はゆくえ知れずとなっております。高野山親王院しんのういんにも室町の頃とされる絹地に着色の品格美麗なる三十番神画像があります。五坊の什宝じゅうほうであったのが、住職兼務の時に親王院のものとなってしまったようです。十五日のご当番として、春日大明神かすがだいみょうじんの御神影の鹿が描かれておりますが、宗祖の、ご尊筆の遠影は推し量れません。一心院谷とは、心の字に似た池があったため名づけられたのですが、平成の現在も五坊寂静院の門前にはそのなごりの池があり池の中央に大杉が天を突いてそびえています。高野山五坊寂静院は武家政権の最高位、鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝御曹子、貞暁開山の寺として、別格な立場にありましたから、一心院谷の五坊をめざして入山する修験者等々が、五坊草庵と自らの箔付けのため、弘法大師ご在世でない時代に大師筆たいしふでと書くように、日蓮筆もそのたぐいではないかと言う人もあり、三十番神のゆくえは、例えぱの話として、什宝改めの折など、書の判断がつかず、別な銘を箱書きしてしまったのではないかと言う人もいます。本化別頭佛祖統記巻第三に、高野から戻った後、建長元年、叡山横川えいざんよかわで、宗祖読経中に法華経守護の三十番神が応現した様子があり、宗祖は神名を聞き、姿を書かれたと記されております。宗祖ご尊筆の三十番神を高野へ登る誰かに託されたのではないかと顕ることも出来ます。三十番神が一日から三十日もの間、それぞれご当番の日にご守護をされる番神さまですから、三十神を切り分けて、護り受けた番神を信仰の対象として懐中した人達がいたかも知れません。石山寺の心地観経しんぢかんぎょうが千百年の眠りから覚めたように、宗祖の三十番神もいつの日か姿を見せてくれるかもしれません。日蓮聖人が高野山へ、こ遊学の史実は、まだ世に発表されていない「日並記ひなみき」と呼ぶ高野山記録にあると聞いております。
 ご遊学の志こころざしを終えた宗祖は、釈尊の本意、法華経に立脚した正しい国、安らかな国を願ったのです。まさしく、その立正安国は、貞暁や大学三郎の悲願でもありました。
 
 

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