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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

もう一度問おう『環境』『平和』『いのち』

 

もう一度問おう『環境』『平和』『いのち』
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 梅 森 寛 誠  
 梅森です。此度申し上げますのは「もう一度問おう『環境』『平和』『いのち』」ということで、いろいろと資料を用意いたしました。内容的なことを煮詰める時間がなかったものですから、とにかく資料をもってきて、これを見ながら、いろいろと考えを述べたいと思います。要旨は読みませんけど、この『環境』『平和』『いのち』というのは、言うまでもなく宗門の前の運動、総弘通運動の際に掲げました標語であるんですが。もう一度問おう、ということは何かと言うと、宗政的な意味で「宗門当局にもう一度尋ね直して提言します」ということを直接に目指しているものではありません。ただ、東北に住む者の一人として、これから話す大きな問題に遭遇した私なりの体験や感触の中で、標語としてだけで終わらせてはいけないんだ、とは、やはり言っておきたい。
 具体的に何かというと、今年(二〇〇六年)の三月三十一日試運転となった青森県六ヶ所村の再処理工場ですね。アクティブ試験ということで、実際に使用済み核燃料を使った試運転が始まりました。大変なことに突入したな、と感じております。まだ試運転の段階ですが、来年の八月からいよいよ本格稼動、とこれも視野に入ってきている、そういう情況にあります。そのことに対して、充分な認識なり構造なりの共有が、あまりになされていない、ということも大変残念に思っております。宗門で『環境』『平和』『いのち』を掲げておりますから、この六ヶ所村の再処理工場や核燃サイクル施設が今後どういう情況になっていくかを、やはりこれらの標語に照らしながら、考えていくべきではないかと思いまして、発表いたす次第です。
 資料の説明ですが、今年の秋彼岸に作成した自前のバンフがあります。再処理工場試運転という事態の中で、この『環境』『平和』『いのち』を提示しました。その中で、それぞれに、具体的に再処理工場というのはどういう施設なのか、を解説しました。『環境』の面では、ここでは海への放射能放出に関しては濃度規制がない、ということです。濃度規制をすれば、この建設費だけで既に二兆一九〇〇億円かかっているんですが、とてもそんなもんでは済まない。とにかく青森県民の命を買い叩くような形になっています。これ一つひとつ説明すると時間がなくなるんで省略しますが。『平和』に関して。今、核問題が朝鮮の問題も含めて緊迫しておりますが。そもそも再処理工場は、核疑惑をもたらすプルトニウムを生産する施設ですので、この問題は、六ヶ所村の再処理工場ぬきの論議では意味がない。『いのち』についても。言うまでもなく放射能は被曝が問題です。これも既に、この試運転の間に何度も起きています。そして今後、本格稼動になればどういう情況が起こっていくのか。三陸というのは、まさに海の幸が恵まれた漁場なんですが、それらがいかに脅かされ、また汚染が進んでいくかを、やはり考えていくべきではないか、と思います。あるいはまた、去年の同様のパンフでも「再処理工場稼動を憂う」というタイトルで、妙子と法子の架空トークを挙げましたので、読んでいただきたい。
 資料についてだけ先に言いますが。「原子力行政を問い直す宗教者の会」、私が関係している、私たちが多くの異なる宗教者たちと一九九三年に作った会があるんですが、この会の最新の『フォーラム』(ミニコミ紙)で、「日蓮宗教師として原発問題をどう見るか」ということを、浜岡(静岡県の原発現地)の集会の時にちょっとレクチャーしました。今回、それぞれの教団や宗派の中で「原発問題に対してどのように臨むのかということを、その根拠を述べ合いましょう」となりまして、まず私が法華経者・日蓮宗教師の立場で発表したものです。基本的なものとして「信行必携㈼」を踏まえ、教学の基本と原子力問題を重ねながらコメントしていきました。宗門の立正平和運動についても紹介しました。「高木仁三郎と宮沢賢治」という一項も設けました。これは、原発問題で市民科学者としてリードしてきた高木仁三郎氏が賢治と出会ったことについて。科学者の良心は本来の宗教の領域に非常に近いものになる、という好例としても自分なりにとらえています。さらには、インフォメーション的なことですが、来週、私の地元の仙台と女川で現地集会をコーディネートしました。参加者募集中です。誰でも自由に参加できます。今日これが終わりましたら事務局と最終打ち合わせをする予定なんですが。部分参加でもよろしいんで、このこともまた呼びかけさせていただきます。
 資料の説明だけで終わってしまいそうな気がしますが、もう一つ。十一月五日に私の寺で、小出裕章という方と、「六ヶ所・女川を学ぶ集い」を催しまして、六ヶ所と女川という、今東北の地で抱え込もうとしている原子力を取り巻く大きな問題について、両面から相互の関係も含めて、分かりやすく解説してもらいました。今回、これらに関する基本的な問題は何なのか、を言うためには、私のちよっと曖昧な説明よりは、最近来ていただいた科学者の数字を交えたものを見てもらった方が手っ取り早いかな、と資料で紹介いたしました。
 それから、「三陸の海を放射能から守る岩手の会」の簡単な資料があります。この再処理工場の問題では、最近、隣の岩手県で、漁業者を中心にかなり動きがあります。宮城も福島も既に原発がありますが、岩手県はこれまで守られてきたんですね。そのはずなのに、隣の青森県からの濃度規制のない放射能が、海に捨てられ、とんでもない汚染が起こる。よく言われていることは、一年間で百万キロワット級の原発から出る放射能廃液を一日で出す、という。言われているだけではなく、実際数値的にもそれは、はっきりしております。年間四万七千人致死量の放射能が放出される、と。つまり、海にばらまいて放出するから、拡散するからいいんだ、という非常に乱暴な論理なんですね。ですが、当然ゼロにはならないんですから、海草やら魚やらプランクトンやらに濃縮されて、世代を超えて、将来にわたってとんでもない影響を与えるだろう、ということですね。数値的には「日本原燃」(事業者)も認めざるを得ない、という実態なわけなんです。
 それで、六ヶ所村の再処理工場についてですが、小出さんの資料から見ていきます。だいたいイメージとして、原子力の延長のようにとらえられるかも知れませんが。一頁の図を見ると、広島原爆のまき散らした放射能の量というのは、全く見えるか見えないかの、点にもならないくらいの大きさで示されます。百万キロワットの原発が毎年生み出す放射能量がこのくらい(図では五ミリ四方の大きさ)です。それに対して、六ヶ所再処理工場で扱う放射能量はこう(同二・五センチ四方)です。イメージとしてはこうなんです。そして、再処理工場というのは、核燃料として曲がりなりにも放射能が抑えられ、閉じ込められていたものを、わざわざ寸断するわけですよ。硝酸で溶かして細切れにして、出さなくていいものを、わざわざ出す。それでプルトニウムを取り出すんですね。そのために、いろんな所で被曝や汚染をもたらすんですね。
 英国のウィンズケール(汚染がひどくて今はセラフィールドという名前になっていますが)という再処理工場、操業して何十年もたつんですが、この施設から出る廃液がひどくて、EUの十五ヵ国ぐらいが、これ止めてくれ、とイギリス政府に申し入れているということなんです。ヨーロッパ全体の問題になっています。でも、ヨーロッパの話か、とは思わないで欲しいんですが。日本からも、使用済み核燃料としてイギリスとフランスに再処理を委託しているわけですので。そういった目に見えにくい形で、日本の原発から出た核燃料が、ヨーロッパの人たちを汚染・被曝させているんです。
 こうしたことを言いますと、必ず反論があるんですね。今原子力がこんなに多くなってきているから、今さらもう無理だよ、と。その根拠は何だろう。その根拠に、今のようなエネルギーをどんどん使うことを当然視するような考え方がある限り、救いはありません。仮に原子力でなくとも、どんどんエネルギーを浪費して、そのしわ寄せにも気をとめることのないまま、消費を際限なく増やすあり方を前提にしたエネルギー問題の論議は、石油の埋蔵量があとどのくらい、といったものも含めて、ほとんど意味がない、と私は思います。そのあたりのことも資料にはありますので、後は読んでください。
 さらには「差別の構図」ということが、資料では科学者から出されておりますが、やはりこれは宗教者が取り組む課題だと、私は思っています。「原子力行政を問い直す宗教者の会」としましても、この差別の構図や被曝の問題、あるいはアジアとの関係(原発輸出等)、原子力の扱う時間の尺度等にも、ずっと関心をもってやってきましたが。小出さんのこの講義の中で、六頁の所にありますが、「気の遠くなる時間の長さ」ですね。日本で原子力発電が動き始めてから四十年、九電力会社ができて五十五年、日本初の電力会社(東京電灯)ができて一二〇年、たかだかそのくらいですね。で、今度は高レベル放射性廃棄物の「お守り」というか、それをどれだけ責任をもって管理しなければならないかというと、百万年です。だから今の電力会社が百万年続いて責任をもってやらなければ、とても容認できるものではないんです。そういう現状です。それで「未来をどう作るのか」ですが、いみじくも「少欲知足」という言葉を科学者からいただいております。我々も、「少欲知足」という言葉をすぐ出したがるんですがね。ですが、その重みを実際に考えて実践し歩まなければ、宗教者としても極めて不本意ですし、問題の先送りに止まらず、さらに取り返しのつかない事態を招くということを、最近痛感しております。
 ともかくも、今日私がこの場に立っているのは、一言でいえば「青森県で再処理工場の試運転が始まったぞ」ということです。全国の五十五基ある原子力発電から出された核燃料が、そこに運ばれ、そこで被曝・汚染がもたらされ、日本だけではなくアジア全体に世界全体に拡がっていくという、そういう意味での加害者としての立場に立たせられるぞ、ということをまずは認識してほしいと思います。そして、これは一部の人間ではなく、全ての人が、この問題を直視し関わっていくべきではないか、と。そうした願いのもとに、このタイトルを掲げました。私たちの『環境』『平和』『いのち』が、いずれも実際に脅かされている情況に対してどうなのか、ということを、今後もっと共有し訴える場を作っていきたいと、思っております。ありがとうございました。
 

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