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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

日蓮聖人にまつわる阿波の伝承

 

日蓮聖人にまつわる阿波の伝承
(徳島県法華寺住職) 萱 間 顕 誠  
 四国の阿波国、徳島県からまいりました、萱間でございます。十五分間の短い時間ですので、まず、主張したいことを三点、お話します。つぎに順次、資料に従って説明をしてゆきます。第一点、日蓮聖人のルーツは、今回の研究発表大会で二番目の発表にありますように、阿波忌部族であります。従って、日蓮聖人のルーツは中近東オリエントから、紅海、インド洋、マラッカ海峡、黒潮に乗って、四国の阿波へ、更に千葉県の安房国へというのが日蓮聖人のルーツであろうと思います。第二点、法華経のルーツは、インドの北西部から、タクラマカン砂漠の南側のシルクロードを通って、支那へ、そして朝鮮半島を経て、かなり早い時期に日本に到達しました。日本列島において、日蓮聖人と法華経が出会い、今日に至っているわけです。第三点、人類最初の都市文明を築いたシュメール人、その末裔であるヘブル人と、まあ言っておきましょう。ヘブル人が、周辺の蛮族によって、離散させられて、東へ東へと安定安全な地を求めて移動してゆく時に、インドの北西部でお釈迦様の教えに出会って、仏教徒に改宗して大乗仏教を興しました。その最終的な結論として、法華経という聖典、バイブルを作り上げました。ですから法華経自身に、これは、大空の星に比べれば、太陽の如し、山に比べれば須弥山の如しと、法華経自身に法華経が宇宙の中で第一に優れているということを大いに強調してある由縁であります。その法華経は、先ほど言いました事実によって、日本に入りました。ですから、法華経の編集者であるヘブル人の大先祖は、同じく日蓮聖人の大先祖でもあります。その両者の出会いを本化上行菩薩の再誕と言う表現の歴史的意味ではないかと考えています。ですから、法華経と日蓮聖人の教えを、世界宗教の流れの中で、布教していくことが大切であろうというのが私の主張であります。
 日蓮聖人にまつわる阿波の伝承についての資料を一から五まで用意してますので、一から話をしてゆきます。資料一をご覧ください。資料一は、これはどなたでも図書館で手に入る、系図纂要新版、に出ています、天兒屋根命から日蓮聖人までの系譜です。天兒屋根命から続きまして、大織冠藤原鎌足、不比等、房前、それから日蓮聖人。その大織冠藤原鎌足から日蓮聖人までの系譜は、江戸時代の日蓮宗の先師たちによって盛んに宣伝され、日蓮聖人は漁師の子、旃陀羅の子ではなく、こういう立派な家系の人でありますということを宣伝されたそうですが、これが、事実であるかどうかということについては、日蓮聖人ご自身が言ってないわけですが、現在、誰でも見ることができる系譜はこのように、資料一のようになっております。
 さて、では資料二をご覧下さい。資料二は、昭和五十九年二月に、徳島忌部神社の元宮司、宮司職を引退後の称号は名誉宮司でありますが、だいぶお歳をとられてから、齋藤貢という方が、長い間宮司の職にあった時に、忌部族の研究を続けてこられた。そして昭和五十年代になってから、忌部族の大祭祀のオエシと言っています、麻を植えると書いてオエと読みますが、その麻植氏の系図を、徳島県内で偶然発見します。麻植氏の系図を見て、この本書『阿波の忌部』を出版しようとされたと思います。麻植氏およびその他の、忌部族の家系の系図を活字にした書物です。地方的なものですけども、昭和五十九年の出版です。その書物の、忌部族の麻植氏のところ、資料二の三頁目、麻植氏系譜。初代に天太玉命、二代、三代、四代目に天日鷲命、ずーっと、神様の代から、数えていきまして、途中の神様の名前は省きまして、第三十一代の所をご覧になって下さい。第三十一代、玉垣宿祢が第三十一代の、麻植氏の当主です。その、玉垣宿祢の所に、玉垣姫、これたぶん奥さんじゃないかと思います。それから、小麻足姫、これは娘さんです、小麻足姫、その下の注記に、こう書いてあります。「中臣不比等の妻」と。「麻貫玉取ノ子ヲ養嗣トスル、房前公也」、と書いてあります。非常に、私はこれ見た時に、びっくりしました。「中臣不比等」と書いてありますが、藤原鎌足は、亡くなる直前に藤原の姓を朝廷から賜ります。鎌足が元気であった時は中臣です。ですから、中臣不比等の次男として、忌部族の族長クラスの男の子を、中臣氏の子として育てたいということを、鎌足は決意したのであろうと思います。ですから、資料一のほうでは、房前は、北家の祖であって、母親は右大臣某氏、白鳳十一年生まれ、これは普通の歴史家が信じていることです。実は、阿波に伝わる伝承の大事な伝承の一つです。房前は、実は、中臣の子ではなく、阿波忌部の族長の子供であります。そして、その小麻足姫と中臣不比等の間には、子供がありませんでしたが、小麻足姫という阿波の女性が、実は不比等の、男の子たちを全部育てます。不比等の長男、内麻呂は、南家の祖。次男は北家の祖、房前、今言った房前。三男が式家の祖、宇合。四男が京家の祖、麻呂。この、藤原四家が、実は、その後の歴史の、明治に至るまで、貴族の中心になります。特に藤原北家、房前を祖とする北家が、断然藤原家のトップであります。どうしてか、中臣氏は中央にあって、地方に土地を持ってないわけです。兵士になる壮丁の動員力もない。そうすると、鎌足、不比等父子が中央政権のトップに立った時に、軍事力がなければ、とても政権を維持しつづけることができません。そこで地方にたくさん土地を、支配権を持っている忌部族の、族長級の男子を子供にすることによって、忌部の勢力を、中央の軍事勢力に置くことができる、ということを考えたんじゃないかと思うんです。どうしてそういうことが分かるかといいますと、その北家の祖の房前という人は、朝廷の中における最初の、今で言う皇宮警察庁長官のポストに就きます。そのあとすぐに、いろんな事件が起こります。長屋王の事件、藤原仲麻呂の事件、そしてその、権力闘争の中で、軍事力を持った北家が断然トップに立って、貴族の中心になってきます。こういうことは、大化の改新以後の我が国の政治秘史にとって大切ではないかと、でもこれは、日蓮宗と直接関係のあることではありませんけども、こういうことに大変興味を持ったものでございます。
 次に資料三にゆきます。資料三は、私の住職しているお寺についてです。昭和十年八月に、八万村青年団が、『八万村史』を編集しました。現在の徳島市です、市内の八万町という所に法華という地名が残ってますが、当時の古老の人達の言い伝えを載せてあります。それによりますと、弘安の頃、弘安の役が終わって、もうモンゴルの軍隊が日本に攻めてこない、みんな安心になったと、いう時に、身延山から、日蓮聖人の代わりの僧という人が、木像一体を持って、四国の、この徳島に来るわけです。来て、そしてこの、木像が日蓮聖人のお姿ですよと、この木像をお祀りして、お供物をあげたら必ずご利益が得られます、ということで、地方近在から大勢の参詣人が来て、流行りまして、法華寺の前に、門前町ができたと。八万村の中に、門前町が室町時代までずっと続きます。ところが、天正年間の、長我部の乱でもって兵燹にかかって焼けてしまいまして、ご尊像が川に投げ捨てられるわけです。そして、太平洋の、徳島県と高知県の県境にある辺り、海の中で光るものがあると、漁師が網を入れてみたら日蓮聖人のご尊像が揚がります。それをご本尊にして、江戸時代の初めに建てられたお寺が、私のお寺なんです。
 何故、徳島県の阿波国に、はるばる、身延山から代僧が木像を持って来られたかということを考えてみました。それは資料四をご覧になって下さい。資料四は、清和源氏から、最後の三好長治までの系図です。これも系図纂要新版から抜粋したものです。真ん中辺に破切居公がありますが、破切居公の父親の光行、加賀美遠光の末男光行、その更に末男が実長公です。加賀美遠光の次男の長清、小笠原長清、小笠原相模守、その後に「伊豆相模甲斐遠江淡路管領」とあります。これはその当時の日本列島の中央部の、要所要所を全て、この小笠原長清が押さえていた事実を示しています。何故そうなったかといいますと、承久の乱に、鎌倉方で最も功績のあった武将は、小笠原長清でしたからです。実長、破切居公が身延山を日蓮聖人に寄進した時には、源氏の統領は、信濃源氏の小笠原長清、長房の親子でした。更に、長清、長房の親子が、実は承久の乱で四国に流された、土御門上皇を八年間に渡って徳島で守護します。そういう功績があるわけです。破切居公は、源氏の末輩です。それで、その、当時問題の多かった日蓮聖人を自分の領地をもって与えるわけです。それは当時の問題であった僧を源氏の末輩がそういうことするということは、源氏の統領である長清、長房の許可なくしてできなかったのではないかと思います。ですから、もう既に、蒙古が攻めてこないと分かった時に、身延山寄進御礼言上のために、阿波の国司である長房の所に、身延山から使僧が派遣されたのであろうかと、そういう風に考えて居ります。
 ちょっと時間がありません、最後の資料五。資料五は、徳島県の土着の研究者、地中孝氏の著書、『ソロモンの秘宝は阿波神山にある!』というこの、少し眉唾物かも知れないんですけども、だいたい大筋では、超古代文明人の移動は当たってると私は思います。その著書から写したものです。黒い線で画いてあります、オリエントアワロード、このルートを使って忌部族が入ってきます。忌部族が阿波四国と、それから出雲に分かれます。屋久島にも安房という所あがります。この安房の所をいったん拠点にして二つに分かれます。対馬海流から日本海に入り、出雲に上陸したのが出雲忌部です。阿波に着いたのが阿波忌部であります。シルクロードを二本、南のほうのシルクロードを通って、法華経は、インドの北西部から日本に伝わります。先ほど言いましたように、法華経を編集した、編集の主役はヘブル人であろうかと、私はそう思います。日蓮聖人の大先祖も、オリエントから来たのではないかと考えます。以上で私の発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。
 

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