現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
宗祖生国の先住者—安房に移住した阿波忌部族の動向について
宗祖生国の先住者—安房に移住した阿波忌部いんべ族の動向について
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 石 川 修 道
目 次
(一) はじめに
(二) 忌部と麁服あらたえ
(三) 産鉄と忌部
(四) 忌部族の東国開発と「小湊」
(五) 清澄山と天富社と「中湊」
(六) 天皇と滝口
(七) 日蓮聖人と産鉄民
(八) 忌部と日蓮聖人
(一) はじめに
日蓮聖人は貞応元年(一二二二)安房国で誕生された。日本国六十六州に「アワの国」が二ヶ所ある。四国「阿波国」と房州「安房国」である。この二つの「アワの国」を日本古代民族「忌部いんべ族」(斉部いんべ)を通して歴史解明したのが林博章氏(地理学)である。林氏は平成八年から古代阿波の歴史研究し、文部科学省の奨励研究として「徳島県の先史時代遺跡研究」、「古代環太平洋の海民文化の移動と展開」、「日本の盃状穴祭祀の総合調査」が指定された。平成十八年四月「日本各地における阿波忌部の足跡・安房国編」が刊行された。同書によれば、平安時代初期の大同二年(八〇七)従五位下の斎部いんべ宿祢すくね広成ひろなりが平城天皇に撰上した「古語こご拾遺じゅうい」は、中臣氏の勢力に対抗する忌部伝承が記されている。
古語拾遺・造殿祀具の斎部いんべ条
「天日あまのひ鷲命わしのみことが孫、木綿乃麻并織布ゆうまたをまたあらたべ(古語に阿あ良ら多た倍べという)を造る。仍よりて、天富命あまのとみのみことをして日鷲命が孫を率て、肥よ饒きき地ところを求まぎて阿波国に遣はして穀かじ・麻の種を殖うゑしむ。其の裔すえ、今彼の国に在り。大嘗の年に当たりて木ゆ綿う・麻布あらたえ及種種くさぐさの物を貢る。所以に群の名を麻お殖えと為る縁なり。天富命、更に沃よき壌ところを求まぎて、阿波の斎部いんべ(忌部)を分ち、東あづまの土くにに率往ゐゆきて麻・穀かじを播殖うう。好き麻生ふる所なり。故 ニ、総国ふさのくにと謂ふ。穀の木生ふる所なり。故に結城ゆうき郡と謂ふ。(古語に麻を総ふさと謂ふ。いま上総・下総の二国と為す是なり。)阿波の忌部いんべの居る所、便ち安房郡と名付く。天富命即ち其地そこに太玉命の社を立つ。いま安房社と謂ふ。故に其の神戸かんべに斎部いんべ氏有り。」
「忌部いんべ」とは、「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」である。忌部の祖神を「アマノフトダマノミコト」と言い、古事記には「布刀玉命」、日本書紀には「太玉命」、古語拾遺には「天太玉命」と記している。忌部氏は「記紀」の神武天皇以前の神話時代にすでに登場する。天孫降臨の古事記上巻に
「ここに天児屋あまのこやね命・布刀玉ふとだま命・天宇受売あまのうずめ命・伊斯許理売いしこめどりめ命・玉祖たまおや命、併せて五伴緒を支ち加へて、天降したまひき」
日本書紀神代下第九段には、
「中臣なかとみの上祖天児屋命・忌部の上祖太玉命・猿女さるめの上祖天鈿女命・鏡作の上祖石凝姥命・玉作の上祖玉屋命、凡て五部の神を以て配へて侍らしむ。」
とある。天照太神の命により天孫の邇邇芸ににぎ命が五族神を率いて天高原から日向の高千穂峰に降臨した際に「天太玉命」は登場する。更に「天の石屋戸いわやと」条に古事記上巻には、
「布刀玉ふとだま命太御幣ふとみてぐらと取り持ちて…天児屋命・布刀玉命その鏡をさし出して天照大御神を示せ奉る時、…布刀玉命、尻くめ縄をその御後方に控き度して白言もうさく、これより内に得還えかえりり入りまさじ」
とあり、皇祖天照大神を岩戸より引き出した大功労者である。日本書紀神代上第七段に、
「中臣連なかとみむらじの遠祖天児屋命、忌部の遠祖太玉命、天香山の五百箇いはつの真坂樹まさかきを堀じて上枝かみつえには八坂瓊やさかにの五百箇の御統みすまるを懸け、中枝なかつえには八咫鏡やたのかがみを懸け、下枝しづえには青和幣あおにきて、白和幣しろにきてを懸でて、相与あいともに致其祈祷いのりもうす。」
とある。
(二) 忌部と麁服あらたえ
古代の大和朝廷における宮廷祭祀は本来、中臣氏でなく、当初は忌部氏が主導を握っていたと大和岩雄氏は「神社と古代王権祭祀」(白水社)に述べている。延喜式大殿祭の祝詞のりとに「天つ璽じの剣・鏡を捧げ持ちたまひて」、神祇令践祚せんそ条には、「凡そ践祚の日には中臣、天神の寿詞奏せよ。忌部、神璽しんじの鏡・剣上たてまつれ、」。古語拾遺の践祚大嘗祭だいじょうさい条には「天富命、諸の斎部いんべを率て天璽の鏡・剣を捧げ持ちて正殿に安き奉り」とあることから、忌部氏は天皇家の神宝である「鏡と剣」を作る役職を担っていた。製鉄に関わる産鉄民でもあった。忌部の伝承では「三種の神器」でなく、「二種の神宝説」が特徴となっている。
古語拾遺によると、朝廷の祭祀用具は各地の忌部族が献納している。祖神ま・手置帆負たおきおほい命の「讃岐忌部」は御笠・矛・盾を献納し、祖神・彦狭知ひこさしり命の「紀伊忌部」は木材を調達し、祖神・天目一箇あまのまひとつ命の「出雲いづも忌部」は刀・斧・鉄・鐸・鏡を献納する。祖神・天日鷲あまのひわし命の「阿波忌部」は麻や穀かじを植え、天皇即位の大嘗祭だいじょうさいに麻布や木綿を献上してきた。その麻布・木綿を「麁服あらたえ」と言い、右大臣藤原実資の「小右記」には六七代三條天皇践祚(一〇一二年)、右大臣藤原忠信の「山塊記」に八二代後鳥羽天皇践祚(一一八四年)、権中納言藤原長兼の「三長記」は八四代順徳天皇践祚(一二一一年)、「三木文書」には九〇代亀山天皇(一二六〇年)、九三代後伏見天皇(一二九八年)、九五代花園天皇(一三〇九年)、九六代後醍醐天皇(一三一八年)、光厳天皇(一三三二年)、光明天皇(一三三八年)の大嘗祭に麁服あらたえの貢進が阿波忌部氏によってなされていた事が記されている。麁服奉仕者は阿波忌部氏の三木家から選任され、「御殿人みあらかんど」となっている。三木文書に御衣御殿人十三名が記され、「御衣人みぞびと」は麁服を調達する忌部人、「御殿人みあらかんど」は麁服と共に京師けいしへ上る忌部人のことである。麁服貢進は光明天皇を最後に五七七年間途絶えたが、大正天皇時に復活し、昭和天皇・今上天皇と続いた。旧木屋こや平村貢の阿波忌部直系の三木家当主・三木信夫氏が平成大嘗祭にその大役を担った。
(三) 産鉄と忌部
延喜式によると阿波忌部は鉄製品、金属鋳造と関係があり、谷川健一著『探訪神々のふる里』—(小学館)は「阿波忌部は麻を植え、鍛冶かじの仕事をした。山川町の南には高越鉱山など多くの銅山があり、それが背景となった」と述べている。また出雲の玉作遺跡では、三日月型の「勾玉まがたま」を作製するため、あの曲りカーブを作る砥石が吉野川で産出される結晶片岩(青石)や紅簾片岩が大量に出土する。めのう製「勾玉」の内側湾曲部を研磨する砥石は、徳島県下の三波川帯、高越・眉山地域の石英質片岩・紅簾片岩に一致している。阿波忌部系の玉作技術集団が出雲や大和に進出したと推察できる。ちなみに東国・安房国に移住した忌部族の上陸地点近くの仁右衛門島には石英を含む紅簾片岩が取れる。鉱物が取れ、附近には明治時代に鴨川銅山があった。鴨川の男金おがな・女金めがなという産鉄地名の所から、現在も古代の鉄屑が出土する。
(四) 忌部族の東国開発と「小湊」
天富命は神武天皇の勅命を受け、阿波忌部の孫の一部を率いて黒潮に乗り、東国開発のため安房国に移住した。「アワ国」は最初、故郷徳島の旧国名「阿波」と同じ表記であった。奈良県橿原市の藤原京出土の木簡には、「己亥(文武天皇三年・六九九年)年十月、上狭かずさ国阿波評松里」とあり、千葉県最古の金石文史料である。平城京出土の木簡に「上総国阿波評郡片岡里」とあるのは、霊亀元年(七一五)の郷里制施行前の表記であろう。同所出土の年次欠の木簡には「上総国阿幡評」と記され、最終的に安房に統一されたのである。
忌部族の天富命は、神武東征の海路を案内し大和の地に導いた「珍彦うずひこ」(後の大和国造)の一面を有している。天富命は太玉命の孫にして十代崇神天皇の第二子であり、母は伊香色謎いかがしこめ命にして大麻綜杵おおへつき命(麻植津賀おえづかとも呼ぶ)の娘である。天富命の娘「飯長姫」と「由布津主ゆふつぬし命」(天日鷲命の孫)が結婚し、安房忌部の祖「訶多々主かただぬし命」(竪田主命)へと継脈する。忌部族は阿波の大麻山南の旧吉野川の川=cd=4abd(洲崎)よりカンドリ船で出港した。カンドリは「楫取かじとり」で航海の楫取りの意であり、「カンドリ」は阿波忌部船団の呼称であった。和歌山市紀の川下流に「梶取かんどり」があり、紀伊半島太地町の岬は「梶取岬」である。安房より更に麻・穀の植樹に良土を求めて忌部族が移住した栃木県小山市の安房神社附近に「カンドリ橋」交差点が名称として現存している。千葉県佐原市の「香取」神宮の由来も「楫取かんどり」であり、香取神宮の第一摂社は阿波忌部の祖神・天日鷲命を祭神とする「側高神社」である。
千七百年前、阿波の吉野川河口・川=cd=4abd(洲崎)を出港した流域を「淡あわの水門みなと」と言う。そして関東に上陸した千葉県館山湾を「淡の水門みなと」とした。日本書紀・景行天皇四〇年条に
「日本武尊、即ち上総より転りて陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路より葦浦に至る。横に玉浦を渡りて、蝦夷の境に至る。」
同書・景行天皇五三年条に
「冬十月に上総国に至りて、海路より淡水門◎◎◎を渡りたまふ。是の時に覚賀鳥の声聞ゆ。其の鳥の形を見さむと欲して、訪ねて海の中に出でます。仍りて白蛤を得たまふ。是に膳臣かしわでおみの遠祖、名は磐鹿六雁いわかむつかり、蒲を以て手繦にして白蛤を膾に為して進る。故、六雁臣の功を美めて膳かしわで大伴部を賜ふ。」
とある。「淡あわの水門みなと」が「安房の湊」となり、館山湾は太平洋沿岸の海路と軍事拠点になるのである。館山から次に上陸した所が「安房の小湊」と呼称され、日蓮聖人生誕の聖地となる。房州沿岸の鴨川より天津〜小湊まで一望でき、忌部船団を動かす司令峰が清澄山である。
(五) 清澄山と天富社と「中湊」
天富命が船団を指揮した清澄山頂に、明治元年の「神仏分離令」まで天富社が存在した。清澄寺境内より境外へ天富社を移し、清澄山頂に妙見社が移されたのである。海上から清澄山を見ると船の位置、漁場の位置が確認できる「目印山」として重要拠点である。麻を植え開拓を進める忌部族は、館山市小原を選地した。「和名抄」、「安房国誌」の「麻原おはら郷」は館山市坂井を布沼の間にある「小原」と比定されている。更に清澄山系に麻・木綿を植樹された地域が「麻綿原まめんばら」である。
忌部族が阿波から房総半島までの航路に「メラ」の地名が存在する。麻を栽培し機を織る忌部女性を称えた地名である。和歌山県田辺市の「目良めら」港、同市西ノ谷村は旧「目良」村である。同県海草郡下津町大崎に「女良メラ」。静岡県南伊豆町に「妻良メラ」があり、房総館山に上陸した地に「布良メラ」(良き麻布)がある。このように古代から四国の阿波〜紀州〜遠州〜伊豆〜安房の黒潮ルートが忌部水軍によって開拓されていた。のちに房州より伊勢神宮への定期ルートが確立されると、宮川の伊勢港を「大湊」と称した。安房「小湊」から伊勢「大湊」までの中継地として「中湊」が有った筈である。その「中湊」は現在不明であるが、伊豆の「妻良メラ」と考えるか、又は遠州御前崎とも考えられる。ともに忌部族の寄港した場所である。忌部族の産鉄技術の信仰神が星神の「虚空蔵こくうぞう菩薩」である。日本全国の虚空蔵山又は妙見山と名称される山は全て鉱山である。房総に仏教が伝播される以前から、忌部族の産鉄信仰は星神を拝した。古神道では、その星神を「天御中主あものみなかぬし命」と称し、仏教が伝播されると「北辰妙見尊」となる。北極星(北辰)の産鉄エネルギーを一番星に見出した時、その星神は「虚空蔵菩薩・明星天子」と表現される。法華経序品第一の「名月天子、普香天子、宝光天子」を天台大師は、法華文句に
「普香は是れ明星天子にして虚空蔵の応作なり。」
と釈している。それ故、虚空蔵の清澄寺に「明星の井」が千年杉の下に有るのである。忌部族の星神信仰を産鉄の虚空蔵菩薩(明星天子)と考えると、房総の清澄山と同じ環境が遠州の御前崎おまえざき周辺に見出すことが出来る。静岡県御前崎岬に房総勝浦の北部と同じ地名「白羽しらは(郷)」がある。古語拾遺によると「衣服を白羽と謂う」とある。現在の勝浦市北部の白井、白木である。御前崎おまえざきの上方に「朝比奈あさひな」があり、房総・千倉町に「朝夷マサヒナ」がある。清澄山の「虚空蔵」菩薩に対し、遠州・朝比奈の西方に「虚空蔵」の地名がある。清澄山を源流とする夷隅川の河口は、良質の浜砂鉄が採れる「太東たいとう崎」である。遠州・虚空蔵の西方は高天神城のある「大東たいとう町」である。日蓮聖人の父・貫名重忠の故郷は遠州・袋井市の貫名である。その貫名の南方に「大須賀スガ町」がある。房総の鴨川市に「横渚スガ」、御宿町に「須賀」の地名がある。このように同じ地名が房州と遠州に見い出され、かつての両州の深い関係が考察できる。須賀とは日本語で「鉄・砂鉄」の別称である。須佐之男スサイオ命が出雲に現われ、八岐大蛇ヤマタノオロチを退治して豪族の娘・櫛稲田クシナダ姫と結婚し新居を構えたのが、砂鉄豊富の「須賀宮スガノミヤ」である。それに由来して「鉄・砂鉄」の別称が「須賀スガ」である。清澄山の虚空蔵と関係深い地域が遠州「御前崎」附近と考えられ、黒潮ルートの「中湊」と推定される。「大湊」の伊勢には伊勢神宮の奥之院と目もくされる朝熊アサマ山金剛証寺の本尊は虚空蔵菩薩であり、その脇士仏が雨宝童子(日神)である。
(六) 天皇と滝口
日蓮聖人、四十二歳の弘長三年(一二六三)二月二十二日に伊豆流罪が赦免され鎌倉に戻った。この年の十一月二十二日には立正安国論の受献者である北條時頼が三十七歳で最明寺にて死去する。翌年の弘長四年は二月二十八日に改元され、文永元年となる。この年の二月十四日は慈父妙日の七回忌の年である。しかし妙法比丘御返事によると
「地頭東條左衛門尉景信と申せし者…度々の問注ありて、結句 ハ合戦起 リて候上、極楽寺殿の御方人理をまげらしかば、東條の郷ふせ(塞)がれて入 ル事なし。父母の墓を見ずして数年なり。」註①
の状況であった。慈父の七回忌に帰郷できなかった日蓮聖人は、母の重篤の報に接し帰郷を決心する。宗祖四十三歳の文永元年(一二六四)の七月か八月頃である。この時、日蓮聖人は館山の安房国一宮の「安房神社」に一週間参籠している。安房神社は元正天皇の養老元年(七一七)に神籬ひもろぎ(神霊の依る森)、磐境いわさか(神の鎮座する石囲い域)を造営し、上宮に忌部の祖神・天太玉命を祀り、下宮には阿波より移住して安房国を開拓・建国した天富命あまのとみのみことと天太玉命の弟・天忍日命を祀っている。清澄山頂に廟所として祀られている天富命の本社である。日蓮聖人は自ら刀を振い「狛犬」を彫刻され、誓願成就の御礼として奉納している。
この安房神社参籠が宗祖の母蘇生に関するものか。ともかく可延御書には、
「されば日蓮悲母ははをいのりて候ヒしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」註②
の現証が有ったのである。この館山の大神官にある安房神社より白浜町に入ると、「滝口」に由布津主ゆふつぬし命が阿波忌部の祖神・天日鷲あめのひわし命を祀った「下立松原しもたてまつばら神社」がある。安房国神社志料(房総叢書)の「安房忌部家系」によると、由布津主命は別名・阿八別比古あわわけひこと言い、「吾、このちに鎮座せんと欲す」との天日鷲命の託宣によって神殿を構えたのである。日蓮伝承の中に「滝口三郎左衛門の娘・雪女ゆきめ」が存在する。貞応元年(一二二二)に誕生した日蓮聖人は、高貴な出自のため、前歴を消すため「錦の褥しとね」に包まれ、小湊にある天台宗西蓮寺門前に置かれ、住持に拾われ、乳母・雪女に養育されるのである。雪女の父が滝口三郎左衛門で小湊の有力者であった。滝口の姓から、白浜の忌部族・滝口と関係ありと考えられる。この時の西蓮寺二十一世の住持が「道善坊」であると、西蓮寺縁起は伝えている。西蓮寺の本尊は「薬◎師如来」、裏山に比叡山の守護神「山王◎権現」が祀られていた。道善坊が清澄寺役僧に上る時、両本尊の一字を戴き、幼い弟子に命名した。それが日蓮聖人の童名「薬王◎◎麿」である。天台宗の西蓮寺の歴代住職は、長らく二月十六日の誕生寺「宗祖降誕会」には諷経席が用意され出仕していた。西蓮寺境内には日蓮聖人の乳母「雪女の墓」が建立されている。この時代、母の事を「乳母めのと」と表現することがある。伯耆公御房消息(日朗代筆)には、
「聖人の御乳母ハハのひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給い候て、やがて死ナせ給いて候し時、此経文(薬王品)をあそばし候て、浄水をもてまいらせさせ給いて候しかば、時をかへずいき(生)かへらせ給いて候経文也」註③
とある。
西蓮寺伝承によると、道善坊はもと後鳥羽天皇の北面武士と伝わり、承久の乱(一二二一年)後、出家して諸国を巡り天皇領「東條の廚みくりや」の西蓮寺住持となった。天皇の住される京都御所に、天皇の近侍武士がいる。天皇の寝所の前に池がある。その池に注ぐ小さな「滝」が造られれている。最も敏腕の剣術武士が天皇寝所を守護するのである。その武士を「滝口」と称する。千葉常胤の孫・重胤は朝廷の「滝口」に祗候している。天皇領・伊勢神宮領の「東條廚みくりや」で非人・旃陀羅を統轄する蔵人職くろうどしきと関係する人物が、日蓮聖人の乳母「雪女」の父・滝口三郎左衛門と考えられる。西蓮寺には日蓮聖人の「善日麿」が包まれていた金糸で職られた「錦にしきの褥しとね」が保存されている。一反風呂敷ぐらいの大きな金布である。日蓮聖人は富木常忍の「末代法華経行者位とその用心」についての問いに、「四信五品抄」に「錦の褥しとね」を「襁褓きょうほ」(赤児を寝かす敷物・着物)という言葉を用いて答えている。
「請ふ、国中の諸人、我が(日蓮の)末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十萬億劫供養せし大菩薩なり。…天子の襁褓きょうほに纏まとはれ、大龍の始めて生ぜるが如し。」註④
末代の名字即・但信受持の者は、天子の赤児・大龍の赤児と同じであると釈されている。
白浜の滝口にある下立松原神社の近所に、産鉄地名の「東横渚よこすか・西横渚よこすか」があり、忌部の安房国一の宮・安房神社に奉仕した地名、神戸かんべ郷、神余かまなり郷がある。「神戸かんべ」とは古代、神社に世襲的に所属し、貢納と奉仕した「民戸」である。日本書紀十代崇神天皇七年十一月条に「はじめて神戸を定める」とあり、大化改新後は国司によって作成された神戸の戸籍・記帳が神祇官によってなされ、封戸として調庸・田祖・雑徭を負担した。
(七) 日蓮聖人と産鉄民
日蓮聖人が佐渡流罪の途次、武蔵・久米川宿から児玉宿へ向かわれる道中、休息されたと伝わる東松山の「青鳥おおとり山妙昌寺」は、「神戸ごうと」に移っている。この近辺も忌部族の開拓地の一つと考えられる。神武東征の先導した忌部族の象徴は「大鷲おおとり」で、「オオトリ」の音が「青鳥おおとり」と漢字変換されたのではないか。安房国と同じく「神戸」が存在している。軍人の最高勲章は「金鵄きんし勲章」であり、神武天皇の持つ弓の先に止まっている黄金に輝く鳥(金鵄)が、神武帝を先導した天太玉命と天日鷲命である。つまり忌部の象徴なのである。その「大鷲おおとり」が日蓮法華宗の妙見信仰と結びついて発展したのが「鷲わし妙見」である。茂原にある鷲宮おおとり神社と法華宗本門流の本山・鷲山寺である。その分身で有名なのが、浅草「酉とりの市」である。鷲宮おおとり神社は「おとり様」と呼ばれ、鷲山寺の末寺・長國寺が明治時代の神仏分離令までは、神社の別当職として管理していた。阿波忌部族による神武東征の出発日が「酉の日」によるものである。青鳥おおとり山妙昌寺は斎◎心入道に開基された。斎◎部も忌部も共に「インベ」と読む。斎心入道とは忌部系の人物か?妙昌寺には佐渡流罪の師弟別離を刻した日法作の祖師像が祀られている。また下半身の欠けた妙見尊の古像がある。修復される前の相は「鷲妙見」であったと想像される。
日蓮聖人が佐渡流罪の往復に一泊された児玉六右衛門尉藤原時国(弘安四年九月十一日寂)は産鉄技術を持ち、神流カンナ川流域の砂鉄利権と山窩サンカを統率できる強力な武蔵七党の関東武士軍団である。もともとは、渡来人秦氏の産鉄系・木地師系の武士集団ではなかろうか、依知の本間六郎左衛門とネットワークのある有力武士であろう。児玉には「金屋」「丹生」の産鉄地名があり、製鉄信仰の熊野堂が有り、下野しもつけ(群馬県)との境に流れる神流カンナ川は「金川カナガワ」の変化名である。川を渡って藤岡に入ると庚神山下に産鉄技術を有した人々が住した「別所」がある。吉井町に向かうと「金井」があり、「鈩沢たたちざわ」「多比良たひら」がある。これらは、製鉄炉の「タタラ」(鑪)の転化名である。この広大な地域を支配したのが児玉党(久米くめ家)である。児玉六右衛門尉の館が東光山玉蓮寺である。この児玉一族が佐渡流罪の宗祖を警護し、そのまま佐渡に移住する。佐渡の北新保に七十二軒の児玉家がある。児玉一族の小茂田こもだ(菰田)氏は蒙古襲来に際し、関東武士として九州博多に出陣し、軍功により四国の愛媛・新浜郡土井町(現在)に領地を有した。菰田大和守の娘・光子は五代将軍綱吉の生母となり、従兄弟の本庄宗正は桂昌院の養父となる。その菰田氏が日蓮聖人の弟・貫名藤平重友が住する上総国夷隅や勝浦に移住するのである。夷隅の能実・東光寺を中心に集結している。近くに産鉄地名の「須賀谷」が存在する。藤平重友が住する夷隅大野(光福寺)にも菰田こもだ一族は進出している。大野に流れる夷隅川流域は砂鉄・水銀の豊庫であった。岬町の鴨根・清水寺(天台宗・本尊千手観音)は伝教大師の開基で「水銀(丹生)の採取地であった。夷隅川河口の太東岬は、現在も砂鉄の豊庫である。山号、寺号の東光山、東光寺は本来「薬師如来」又は「十一面観音」が本尊であり、その大半が産鉄拠点と関係している。小湊の東光山西蓮寺、児玉の東光山玉蓮寺、玉川村東光寺、夷隅の東光寺、長柄町の薬師山東光寺など、産鉄地、又は産鉄民が住する「別所」の拠点である。それらは山窩や非人を統率する拠点でもあった。これら産鉄関係のネットワークは、非人・山窩・旃陀羅せんだらのネットワークと重層している。日蓮聖人の表に現れない人脈関係がここにある。
(八) 忌部と日蓮聖人
阿波、紀州、安房に共通する地名の一つは「勝浦」である。天富命が阿波忌部を率いて黒潮ルートを渡航し上陸したのが館山、小湊である。その次の上陸が上総国の「勝浦」である。浜勝浦に「遠見岬とおみさき神社」(祭神・天富命)がその拠点である。阿波の勝占神社は勝浦川河口より上流にある。しかし千七百年前は海辺であったかも知れない。紀州・房総の勝浦は海辺にある。
天富命の東国開拓に随神した讃岐忌部がいる。工匠の職に奉仕する天小民あまのこたみ命と御道命みじのみことである。彼等は紀伊名草郡の御木みき(三木)・麁香あらかに居住し、天皇の神殿・宮殿を作る工匠である。「古語拾遺」造殿の斎部いんべ条には、
「天富命をして手置帆負たおきおおい・彦狭知ひこさしりの二柱の神が孫(天小民命・御道命」を率いて、斎斧・斎鋤を以て、始めて山の材を採りて正殿を構り立てしむ。…其の裔、今紀伊国名草郡御木・麁香の二郷に在り。(古語に正殿は麁香と謂ふ)材を採る斎部いんべの居る所は御木(三木)と謂ふ。殿を造る斎部の居る所は麁香あやかと謂ふ。」
讃岐忌部と紀伊忌部の工匠が房総に来ている。海上守護の讃岐・金比羅宮の奥には大きな山窩さんか集団がいた。讃岐忌部は彼等を支配下に置いたと考えられる。讃岐の山を越えて阿波に入れば吉野川である。その流域は阿波忌部の活躍領域(テリトリー)であり、山川町には忌部山・忌部神社がある。四国の霊峰「剣山つるぎさん」近くの木屋平こやだいらには阿波忌部の総家・三木家(御木)が山の中腹より上に位置している。忌部族の山窩ネットワークが広がっている。
上総勝浦の口碑「上野神話」によると、
「天富命は更に沃地を求め国見を続け、上野村(植野)名木なぎに木材を掌つかさどる御木みき忌部を置き、細殿ほそどに仮宮を建て、諸所に麻植おえ斎部を配して麻穀増殖に当たらしめ、荒川あらかには館を造る阿良香あらか斎部を置き、勝浦には勝占斎部須須立命を留めて漁業を広め、神司を掌らしめた。」
とある。名木なぎは地名であると共に、神事に使用される神霊の「依代よりしろ」である。巫女が髪を後で束ね、幣束紙に名木の枝葉をのせて縛り付けるのである。女性が神に仕える巫女に変身する必要樹木である。名木の細殿ほそどには阿波忌部末裔の八十四代・吉野愛氏が居住している。細殿丘を詠んだ古歌に
「伊志牟(夷隅の古名)なる細殿の斤きんに麻を植えし、むかし偲ばぬ人こそあらめ」
と詠われ、名木と麻が結びついている。勝浦市南山田と海老山の近くに字名・荒川あらかがあり、館やかた造営の阿良香あらか斎部が配された。南山田には日蓮聖人の弟・藤平重友の裔が夷隅大野より勝浦に進出し、真言宗大法寺住持を論破し、池上本門寺より僧を迎え、改宗して大法寺となった。時は天文十三年(一五四四)と言われる。江戸時代八十町歩の豪農となり、中村檀林・日本寺の施米を賄まかなった。明治になり勝浦海老山、上総山田村外八ヶ村の戸長となり千葉県々会議員となったのが藤平東作氏である。日蓮聖人の弟・貫名藤平重友の後裔である。(明治三十四年八月八日歿、五十六歳)、東作氏の嫁となったのが、宗祖の直檀・工藤吉隆系の河津与兵衛(鏡忍寺総代)の娘・「ひさ」である。「ひさ」の姉は江戸城大奥に勤め、勝海舟と文通あり。河津与兵衛は千葉銀行の前身・花房銀行設立の尽力者である。
明治十八年に千葉県々会議員に選ばれた二人の議員がいる。鴨川の和泉・男金おがなに住む鳥海清治氏(鏡忍寺総代)と勝浦・名木の吉野義巻氏である。この時代の議員選出は投票でなく、納税者から選出される。議員は多額納税者であり、その地方の名士である。この二人は天太玉命を祀る安房神社で会談し、安房忌部の伝統と文化を守り、忌部の互助精神を確かめ合った。鏡忍寺の北方が花房であり男金おがなである。この男金は六老僧の佐渡阿闍梨日向師の誕生地である。日向上人の父は貫名重忠の弟で、男金藤三郎と称したと伝わる。茂原の小林民部とも有縁で、民部阿闍梨とも称した。男金神社の祭神は天御中主あまのみなかぬし命(仏教では北辰妙見尊)で忌部族が開拓した産鉄地と考えられる。日向上人の生家・現在の佐久間友三郎(故人)宅からは、今でも古代の鉄屑が出土する。忌部族が進出した地名に「アワ」が呼称される。粟を植え豊稔であったに由来する。栃木県小山市の安房神社では例祭に必ず氏子が「粟の穂」を献上している。香川県には粟・井、吉野川流域に粟・島の地名が残っている。「延喜式」神名帳によると、静岡県掛川市に阿波々神社(祭神・阿波比売ひめ命)、同三嶋大社(配祭神・阿波神)、同沼津市長濱神社(阿波=cd=63e6め命)、神津島阿波命神社(祭神・阿波=cd=63e6め)に「アワ」が見られ、忌部族の進出した痕跡が判る。鴨川の和泉・男金と打墨の間に「粟斗あわと」の地名があり、小松原鏡忍寺|花房|男金|粟斗|打墨の一帯は忌部が開拓した事が判る。この鴨川地域の県政代表者である鳥海清治氏の娘・愛さんが勝浦植野に住む御木忌部の吉野義巻よしまき氏(県議)の子息・信之氏(もと県議)に嫁ぎ、勝浦忌部の八十四代を継承している。鳥海清治氏も花房銀行設立の功労者である。名木の葉は縦に筋目がが入り、縦に切れても横には切れない不思議な神葉である。神事に用いられる名木の古木(幹回り2m以上)が小松原法難の鏡忍寺にある。鏡忍寺創建に地元忌部の人々が関与していると考えられる。
文永元年(一二六四)は不吉な年であった。
「文永元年 甲 子七月四日慧星出 テ ニ東方 ニ 一余光大体及 フ ニ一国 ニ 一。此又始 レ世巳来所 ノ レ無 キ凶瑞也。」註⑤
と宗祖は述べている。十一月十一日に安房東條において日蓮聖人は、地頭・東條景信の一団に襲撃され、頭部に裂傷、左肘骨折、矢射を被る。天津の工藤吉隆邸に避難、岩高山にて綿帽子の傷口手当を受け、次に避難したのが勝浦の御木忌部の領域、名木なぎである。手当を受け七日七夜の布教により、この地に寂光寺が建立される。寂光寺境内に樹高二四m、幹回り七・五mの千葉県天然記念物の「椎の木」がある。樹齢八百年以上の樹木を育てたのは、御木忌部の助力の賜物であろう。このあと、日蓮聖人は山窩の「道々の人々」に先導され、長南氏の館(本詮寺)にて二週間治療を受け、茂原殿(藻原寺)まで避難する。
文永元年七月四日の不吉な慧星の出現は、地上に疫病を蔓延させた。十月、勝浦の西端なる興津おきつ領主の佐久間重貞公は、村民の苦悩を見かねて、日蓮聖人に説法を願い、疫病退散を願った。宗祖は白布に題目、経文を認め、船の艫ともから白布を曳きつつ海に流した。村民の疫病は治まったのである。本山・妙覚寺には、その時の日蓮聖人の相すがたを「布曳ぬのびきの祖師」と讃仰している。勝浦忌部の多くの人々が救われたに違いない。この時の白布こそ、忌部族が植樹した麻・木綿であったと考えられる。勝浦忌部の遠見岬神社の例祭には、麻穀布の献供が最も重要な神事であり、岩崎氏より木綿の白布が奉納される。これは久我氏の(当地方、最古の家系)先祖がタカイドに流れ着いた御神体を白布で巻いた故事による。その年に生まれた乳児は、小笹の枝に麻布を付け幣物として参拝し、神徳に感謝を表わしている。妙覚寺の「布曳きの祖師」の故事は、のちの日蓮宗祈祷法の「送り出し」の原型となる貴重な伝承である。遠見岬神社の隣りは日蓮宗本行寺、安立寺、本朝寺、高照寺があり、明治以前は法華信仰と深い関係があった。歴代の神主の名字は「忌部」を称し、現在は後裔の小林氏である。
興津領主の佐久間重貞公は日蓮聖人に帰依し、出家して日円と号した。重貞公は子息の長寿丸を宗祖の弟子とし、郷公きょうこう日保という僧名を戴く。また重貞公の弟・竹寿丸も日蓮聖人の弟子となり寂日房日家と称した。妙覚寺の開山は日蓮聖人、二世に美作阿闍梨日保(郷公)、三世に日家上人。両聖人は宗祖生誕の地に法華道場を建立し誕生寺が創建された。開山は日蓮聖人、二世は寂日房日家、三世に郷公日保上人である。それ故、妙覚寺と誕生寺は「両寺一根」と言われる。この佐久間家は当然地元の有士「忌部」の人々とは強い交流が有った。日蓮聖人と勝浦忌部の人々を通じて、鴨川の男金おがな・花房・粟斗の忌部の人々と人脈が形成されていたと見る事が出来る。六老僧日向上人の父・男金藤三郎(藻原寺略縁起によると藤三郎は小林民部の子)は興津領主・佐久間重貞公の妹を娶めとり、民部阿闍梨日向上人が生れる。現在の日向上人末裔が母方の佐久間姓を名乗るのは以上の関係からである。藻原寺略縁起によると「日向上人の祖父・小林民部実信は、禁中の北面武士にして京都守護、平賀武蔵守朝雅の無礼を悪にくみ、更に貫名重忠らと伊勢平氏の乱(一二〇四)に与党せし事露顕し、流刑される。貫名氏は安房小湊に、小林氏は茂原城主・斉藤兼綱の預り人となる。のち実信は赦免せられて京都に帰る。その子小林藤三郎実長は、安房国男金藤三郎と称した」とある。ここでは、男金藤三郎を貫名重忠の弟とはしていない。また本化別頭仏祖統記には、宗祖の母を
「母ハ清原氏、舎人親王ノ遠裔、畠山家ノ族。梅千代ト呼ブ、総州大野吉清が娘ニシテ重忠ニ嫁ス」
とある。更に「房総における宗派と文化|日蓮|」では山武郡郷土誌を引用して
「畠山重忠の末裔は、重忠が北條時政に攻め亡ぼされた元久二年(一二〇五)のち、安房国よりここ(山武郡大関城)に居り、…畠山一族が追放され、あるいは落ちのび、安房より九十九里に入ったものであろうか。すると、畠山一族は日蓮聖人の生家・貫名氏、その一族と思える斉藤遠江守兼綱などと縁故者と言ってよいかも知れない。」
と、仏祖統記の説を発展させている。茂原の斉藤兼綱の隣郷の縁者と言われる須田(墨田)五郎時光は本姓高橋で、高橋五郎時光。武州新倉の領主でもある。日向上人は墨田時光の外護により、武州新倉に妙顕寺、妙典寺、身延に樋沢房、池上に喜多院を創立する。鴨川に釈迦寺(六日堂)、勝浦忌部の住む荒川(麁香あらか)近くの法華には、宗祖の両親建立の龍蔵寺の三祖に歴任している(宗祖開山、二祖両親)。龍蔵寺の近くに前述の畠山館があり、その玄関近くから鎌倉期の鰐口わにぐちが出土し、千葉県文化財に指定されている。そして斉藤兼綱の娘が下総中山の富木胤継(常忍)の最初の内室であったとの伝承(仏祖統記)を掛け合わせると、
安房小湊|鴨川忌部|鏡忍寺・佐久間家(日向上人)|勝浦忌部|妙覚寺|茂原・斉藤兼綱|中山・富木常忍|墨田時光(新倉)|久米川宿|青鳥山妙昌寺|畠山重忠の末裔|児玉党(玉蓮寺)
以上の日蓮聖人の人脈円サークルが描かれる。
中山法華経寺から東京湾を展望できる最高の場所が祐師山である。日祐・日高両師の御廟所がある。祐師山の本妙寺が明治四十三年出火、現在地に移った跡地に安房神社が中山小学校近くから移祀された。創建の由来は不詳であるが、里見安房守を祀った社やしろなのか、それ以前の忌部祖神も合祀した安房神社なのか、今後の研究が待たれる。日蓮聖人は鎌倉時代より約十世紀前の阿波より移住した安房忌部の人々が築いた地域文化圏の中で生まれ成長した。海洋民の太陽・星神信仰を理解しつつ法華仏教を受容してゆくのである。忌部の人々との交流、助力が充分考えられる。
☆麁服献進の写真など阿波忌部の三木信夫氏、林博章氏の諒解のもとに掲載させていただいた。深謝申し上げます。
市川市史によると、中山祐師山の安房神社の祭神は、国常立命と里見安房守とされている。市史は江戸中期の「 安房の須崎(州崎)神社は、天太王命の后を祀る忌部族有縁の社やしろであり、「淡島さま」は女性の裁縫の神さまである。前述の如く、大嘗祭における天皇の御衣「麁服あらたえ」を製作する巫女の「メラ」(妻良・女良・布良)の象徴である。中山祐師山の安房神社は、忌部族と関係ありと考察すべきである。
註
①妙法比丘尼御返事 一五六二頁
②可延定業御書 八六二頁
③伯耆公御房消息 一九〇九頁
④四信五品鈔 一二九九頁
⑤安国論御勘由来 四二三頁