現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
日蓮聖人種姓考と阿波忌部族伝承の調査
調査報告
日蓮聖人種姓考と阿波忌部族伝承の調査
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 石 川 修 道
●調査日時 平成十八年五月十六日(火)〜十八日(木)
●現地調査 徳島県内史跡及び日蓮宗寺院
阿波神社、勝瑞城、徳島城趾、大麻比古神社、忌部神社、
本行寺、善学寺、法華寺、清水寺、霊山寺、薬王寺
●聞取調査 林博章氏(鳴門工業高校社会科教諭)
●案 内 大塚教行徳島県宗務所長
●調 査 員 伊藤立教主任、渡辺観良所員、石川修道嘱託
五月十六日(火)
羽田空港を午前十時十五分発、徳島空港に十一時三十分到着。大塚教行徳島県宗務所長の出迎えを受け、昼食後、阿波忌部(いんべ)族の祖神「天太玉命(アマノフトダマノミコト)」を奉斎した阿波神社を訪れる。天太玉命の孫に当る「天富命(アマノトミノミコト)」は、崇神天皇の第二王子である。古代、神武天皇の東国開発の命により、阿波忌部族を率いて、阿波より紀州・梶取かんどり崎、駿河の御前崎、下田の妻良めらを経て、安房の館山・布良めらに上陸したのが、天富命である。そして天津小湊の清澄山頂上に登り、太平洋の海岸を望み、船団の動向を監視し、指揮したと伝えられる。
阿波神社は、第八十三代土御門天皇を奉祀している。土御門帝は、後鳥羽天皇の第一皇子(為仁親王)で、承久の乱(一二二一年)には、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇(第三皇子・守成親王)は佐渡へ配流され、土御門上皇のみ都にとどまることを由とせず、自ら同年十一月土佐の畑に遷幸された。北条幕府は御帰京をすすめられたが、応じられないため、せめて少しでも都に近い所として、貞応二年(一二二三)、ご駐留一年半後、阿波にご遷幸され、九年間御滞在され、寛喜三年(一二三一)十月十一日、三十七歳で崩御され、御火葬された。その火葬塚及び陪塚は大鳥居の西方に位置している。
四国八十八ヶ所霊場の第一番札所、霊山寺(りょうぜんじ)を訪ねる。奈良時代に僧行基が聖武天皇勅願の道場として開かれた。八十八ヶ所霊場の中で、本尊「釈迦牟尼如来」は当寺のみである。
平成十三年一月二十九日、国の史跡に指定された「勝瑞城跡」と「勝瑞館跡」を訪ねる。藍住町勝瑞は、室町時代後半に阿波国守護・細川氏が守護所を置いた地である。戦国時代には細川氏に代わって実権を握った三好氏が館を構え、阿波の政治・経済・文化の中心地であった。
三好氏の遠祖は、甲斐国波木井家の縁者、小笠原長生である。鎌倉時代に阿波国の守護となった小笠原氏は、三好郡内に住し、「三好」姓を名乗ったと伝えられる。それ故、三好家々紋の「三階菱」は、小笠原家々紋を継承したものである。戦国乱世を生きた三好家の人々は、三好之長(ゆきなが)、三好元長(もとなが)、三好長慶(ながよし)に代表される。三好之長(長輝)は、阿波国守護の細川成之(しげゆき)に従って京都上洛した人物である。之長の孫となる三好元長は細川持隆、足利義維、細川晴元を擁して堺に上陸、堺幕府を成立させる(一五二七年)。三好元長は山城国下五郡の守護代となり京都を支配する。三好長慶は元長の長子。将軍足利義輝(よしてる)を京に迎え、幕府の実権を握り、三人の弟(義賢、冬康、一存)と共に畿内から四国にかけて大勢力を築き、三好氏の全盛期を確立した。三好長慶が十四歳の天文五年(一六三六)、京都の法華宗寺院は焼き払われた。(天文法難)
日蓮宗と阿波三好家の関係は、三好長慶の弟・義賢が日蓮宗・京都頂妙寺の油屋日珖に帰依、義賢の子息たる三好長治の阿波国法華教化に騒動が起こった。日珖師は天文元年(一五三二)に堺で生まれ、比叡山で学び、のち日蓮思想と出会い日蓮法華宗となり、三好義賢を教化した。永禄四年(一五六一)のことである。義賢は出家し、実休(茶人号)と号した。永禄十一年(一五六八)には、実休の発願により堺の妙国寺が開基された。それから八年後の天正三年(一五七五)十月には、阿波で勝瑞宗論があり、日蓮宗と真言宗の対論があった。天正七年(一五七九)には安土城天守が完成、織田信長のもと浄厳院で安土宗論が行われ、日珖は浄土宗の貞安と宗論を戦った。三好長治は阿波・勝瑞城下に本行寺・本覚寺を開き、本行寺には三好長治の墓所が祀られている。
現在の勝瑞城跡には岩倉(今の美馬市)の宝珠寺が城下に移り、江戸時代中期に勝瑞城跡に見性寺(禅宗)と改めて移された。三好義賢は茶人として「実休(じっきゅう)」という号で茶道史上に名を残し、茶を通して堺と三好家を結びつけ、のちの居城・高屋城で千利休などと茶会を催している。当時、茶の湯の大成者・武野紹鴎(たけのじょうおう)は「名物」と呼ばれる茶器、茶道具60点を所有し、茶人・三好義賢「実休」は、当時二番目に多い五十点を所有していたと伝える。
法華宗本門流・正法寺、徳島城趾公園、真言宗清水寺(貫名菘翁すおうの生家・吉井家墓所)、本行寺(三好長治の菩提寺)を訪問調査。
その後、鳴門工業高校社会科教諭林博章氏より、「日本各地を開拓した阿波忌部の足跡」を聞き取り調査する。
徳島県に流れる吉野川中域は、阿波忌部族が住した聖地である。平成十六年十月に平成大合併した吉野川市は、その前身が麻植郡(おえぐん)である。阿波忌部族の東国開拓神話は、大同二年(八〇七)に斎部広成が記した『古語拾遺』に記録されている。
「天富命をして(天)日鷲命が孫を率て、肥よ饒き地ところを求まぎて、阿波国に遣はして、穀(かぢ)・麻の種を殖えしむ。其の裔(すえ)、今彼の国に在り。大嘗(おおみにへ)の年に当りて、木綿(ゆう)・麻布(あらたへ)及種種(くさぐさ)の物を貢(たてまつ)る。所以に郡の名を麻植(おえ)と為(す)る縁(ことのもと)なり。天富命、更に沃き壌(よきところ)を求ぎて、阿波の斎部(いんべ)を分ち、東の土(くに)に率往(ゐゆ)きて、麻・穀を播殖う。好き麻生おふる所なり。故、総国(ふさのくに)と謂ふ。穀(かち)の木生ふる所なり。故、結城郡(ゆうきのこほり)と謂ふ。古語に麻を総(ふさ)と謂ふ。今、上総、下総の二国と為す、是なり。阿波の忌部の居る所、便ち安房郡と名付く。今の安房国、是なり。天富命、即ち其地(そこ)に太玉命(ふとだまのみこと)の社を立つ。今安房社と謂ふ。故、其の神戸(かんべ)に斎部(いんべ)氏有り。」
『古語拾遺』は、従五位下であった斎部宿弥広成(いんべすくねひろなり)が平城天皇に撰上した書であり、中臣氏の勢力に対抗し、忌部の立場より、忌部族の伝承をまとめたものである。阿波忌部族は、麻・穀(かじ)・粟・養蚕・製紙・農業・織物や、音楽に携わる技術集団である。忌部とは「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事・祭祀に従事する集団」の意味を持っている。更には海洋民であり、その行動から鉱物・鉄資源の開拓も荷負っている。吉野川流域の忌部族古墳「拝原東遺跡」「前田遺跡」に鍛冶遺構が発見されている。「延喜式、大殿祭の祝詞」には、忌部は「天つ璽(じ)の剣・鏡を捧げ持ちたまひて」。「神祇令・践祚条」には「凡そ践祚の日には、中臣、天神の寿詞よこと奏せよ。忌部、神璽の鏡・剣上れ」、『古語拾遺』の「践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)」には「天富命、諸の斎部(いんべ)を率て、天璽の鏡・剣を捧げ持ちて、正殿に安き奉り」と記され、忌部族は、天皇家の神宝である「鏡」・「剣」を作る役割を有していた。「三種の神器」でなく「二種の神宝説」が忌部伝承の中にある。しかしながら出雲の「勾玉(まがたま)」を制作するにつき、阿波吉野川流域の砥石(結晶片岩及び紅簾庁石)が使用されている。眉山や高越山がその産地と考えられる。出雲玉作を指導した技術を忌部族は有していたと考えられる。また忌部族は大和王権成立後、天皇即位の大嘗祭に、天皇着用の麻布「麁服(あらたえ)」を貢進する役を負っている。忌部の長(おさ)である旧美馬郡小屋平貢の国重要文化財に当る三木家の『三木家文書』によると、麁服奉仕者は「御殿人(あらかんど)」十三名が忌部族から選定され、京・宮中御所へ運搬し、麻布を織る「御衣人(みぞびと)」も忌部の人々である。
平成二年の今上(平成)天皇の大嘗祭にも、山川町の「忌部神社」から「麁服(あらたえ)が貢進され、その時の織機も保存されている。麁服貢進の史料は、右大臣藤原実資の『小右記』、右大臣藤原忠信の『山塊記』、権中納言藤原長兼の『三長記』に記されている。
以上の如く、高い文化と技術を有した忌部の祖・天富命は、阿波国に麻や穀(かぢ)を植えて麻植郡を開拓した。神武天皇は海洋民である阿波忌部族の支援を受けて、海路案内よろしく紀州より大和の地に入った。大和の地に導いた「珍彦(うずひこ)」、のちの大和国造の一面を忌部族は有していた。その天富命が天日鷲命などの忌部族を率いて黒潮に乗り、東国の房州安房に上陸し、故郷の「阿波」と同じ表音の「安房(アワ)」と名付けたのである。であるから、房州安房には、西国阿波人・忌部族の人々の思考方法、信仰体型が導入されている。その安房国に鎌倉時代、生を受けたのが日蓮聖人である。
清澄山は、天富命の墓所又は顕彰塚(廟所)であった。その後、仏教が房州に弘教されて、清澄寺が不思議法師により建立されたのである。清澄山の山頂に天富神社が、明治時代の神仏分離令まで祀られていた。
五月十七日(水)
ホテルを九時出発。雨の中、大塚教行所長の運転により、海部町法華寺へ向う。途中、西国札所二十三番の薬王寺に寄る。罪障消滅のために「捨て銭」の風習があり、参道の階段には小銭が撒かれている。あとから来た人は、その小銭を拾うと他人の罪障も拾うことになり、禁断されている。午前十一時三十分、海南町の法華寺(萱間顕誠住職)に到着。法華寺は、「日蓮聖人御自作一木三体の霊場」と言われている。身延山二十一世寂照院日乾師が四国弘教の砌、宗祖御自作の祖師像を携えて、徳島市法華村に一堂を建立したが、天正八年、長曽我部元親の乱により、堂宇は焼失、尊像は疵つけられ、河に捨てられた。紀伊水道−蒲生田岬−太平洋と流れ、高知県との県境に近い鞆浦の手倉海岸で発見され、法華寺が建立された。大阪府和気町の妙泉寺、鳥取県日野郡阿毘縁の解脱寺奉安の祖師が「一木三体の霊宝」と言われている。萱間住職の研究「日蓮聖人と、もう一つの阿波の国」を拝聴する。
徳島市弓町一丁目にある貫名菘翁(すおう)生誕地を訪ねる。遠州貫名より房州安房小湊に移った貫名家が、日蓮聖人の家系である。貫名一族全員が安房に移った訳ではなかった。遠州に残った貫名家は戦国時代、今川義元に仕えている。その後、今川家の内紛に巻き込まれ、貫名家は、今川家を脱藩し、陸路、海路を経て、土佐(高知県)の吉井浜に上陸、「吉井」姓を名乗ることになる。土佐中村の領主・一條家に仕官し、のち阿波(徳島)の蜂須賀家に仕える。貫名菘翁(すおう)の父は、蜂須賀藩で小笠原礼法を教授する吉井永助直好で、書家でもある。母は、高野山出身で画家の矢野五郎常博の女である。江戸時代末、吉井家では、三男に旧姓の「貫名」を名乗らせる事になった。その三男が「幕末・書の三筆」と謳わられた貫名菘翁である。四国の貫名家にも、「日蓮聖人は我々貫名一門の出身なり」の口授がされてきた。
徳島市善学寺参拝、大塚教行宗務所長の自坊である。開山は善学院日形、開基檀越は芝原城主・赤松四郎左衛門義昌。三好長治によって真言宗放光寺を改宗説と、蜂須賀家政の入府に伴い改宗したとの二説あり。現在は「鬼子母神さまのお寺」として有名。貫名菘翁の小幅書を拝見する。
五月十八日(木)
ホテルを九時出発、阿波国の一宮である「大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)」を参拝。祭神の大麻比古大神は、忌部の大祖・天太玉命(あまのふとだまのみこと)と同神である。天太玉命の孫が天富命と言われている。
山崎の忌部神社(吉野川市山川町忌部山)を訪れる。祭神は天日鷲命(あまのひわしのみこと)である。天富命が阿波から安房へ渡来したのは、天日鷲命の孫「由布津主命(ゆふつぬしのみこと)」が率いたと考えられる。
由布津主命と天富命の娘「飯長姫」が結ばれて、安房忌部の祖となる「堅田主命(かただぬしのみこと)」が誕生するのである。
この忌部神社の境内地に麻が植えられ、機織されたのが、天皇即位の大嘗祭に使用される「麁服(あらたえ)」である。
忌部族は、山の中腹より上に住む不思議な部族である。阿波忌部の長(おさ)である小屋平村貢の国重要文化財である三木家も、山の中腹より上に住んでいる。
忌部神社摂社「岩戸神社」境内にある「麻笥岩(おごけ)」は、日本書紀の「日神の石窟幽居」条にある「誓漕(麻笥−おけ)」に相当すると伝えられている。