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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

田中圭一著『日蓮と佐渡』における塚原配所説に対する調査報告

 

調査報告
田中圭一著『日蓮と佐渡』における塚原配所説に対する調査報告
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 小 瀬 修 達  
調査日時 平成一八年一〇月五日〜七日
調査内容・方法
     現宗研では、田中圭一著『日蓮と佐渡』(旧版昭和四四年・新版平成一六年発行)の塚原配所についての問題提起に対し、佐渡において現地研修を行った。調査方法は、本書に記載の妙満寺前塚原配所説を現地調査により検証し、論証上の問題点を考察するものである。
調査人員 伊藤立教主任、大西英充・川名湛忍・齊藤政通・小瀬修達・中村龍央・武藤晃俊各研究員
調査報告
Ⅰ 田中圭一説の概略
     新版『日蓮と佐渡』(二〇〇四年、平安出版)を参考に、田中氏の塚原配所説を概略する。
 
(一)根本寺に関する論述
 根本寺年表(記述内容を年表化)
一五八九年 天正一七年 上杉景勝、佐渡攻めを行い所領とする。佐渡攻略頭・家老直江兼続は妙覚寺外護者。
一五九〇年 天正一八年 京都妙覚寺十八世日典、大野村弘樹寺境内に草庵を建立し、塚原配所跡に定める。
      正教寺となる。
一六〇七年 慶長一三年 山師備前祐白の寄進により正教寺本堂を建立…現在の戒壇塚。
一六一二年 慶長一七年 京都妙覚寺日衍、正教寺住職となる。銀山山師大檀那味方但馬守家重の外護。
      日衍、妙覚寺と対立、味方氏の外護のもと駿府に提訴。※日衍(受派)・妙覚寺(不受派)の対立。
一六一五年 元和元年 徳川家康、駿府に身延日遠を招き争論を裁許、日衍の勝訴、妙覚寺より独立。
      布金檀(現在地)に本堂を建立、以降味方氏の外護のもと寺観を整える。根本寺に改称。
一六二四年 寛永元年 千仏堂を建立。
一六二六年 寛永三年 仁王門を建立。
      弘樹寺 根本寺域より現在地へ移転。
一六三七年 栴檀院日衍遷化。
一七六一年 宝暦一一年 現在の本堂を建立。
※実際には、本末論争は日衍の勝訴の後、寛永三年本寺妙覚寺に謝罪、同七年の身池対論以降は受派の日衍側に有利に展開した。以後も妙覚寺との対立は続き、寛文一一年二〇世浄信院日行の時、身延・池上・中山による三山輪番所に決着した。(本書に不記載の為追記)
根本寺塚原配所説否定の理由
●日典が真言宗弘樹寺の境内地に塚原配所跡を定めた理由は、「しゃくし地蔵」の伝承(弘樹寺の僧侶が宗祖との法論に負け、逃げる背中に宗祖の投げた筆で題目が書かれた。僧侶は背中の題目を削ったが、しゃくしの様になっても消えず、やがてこの僧は仏となり、今も弘樹寺の本尊として祀られている)や、「塚の腰」の字名、周辺に墓地がある事等と考えられるが、塚原配所と断定できる証拠にならない。
●新穂城跡は土豪の館であり、佐渡守護所(「日蓮上人註画讃」説)ではない。城主の本間氏は、本間六郎左衛門重連の末裔ではない。故に、本間重連の館ではなく、「六郎左衛門が家のうしろ」にあったという塚原配所の証拠にならない。
(二)妙満寺・塚原配所に関する論述
 妙満寺・・・佐渡阿闍梨日満(阿仏房日得の曽孫、妙宣寺二世、日興に弟子入りし、北陸道七カ国の棟梁に任命される)の隠居した庵室を弟子の日東が寺に改め開山。
●佐渡では、古代から中世にかけて百姓の集落を「垣之内」もしくは「在家」と云い、約一ヘクタール(三千坪)ほどの土地に数戸の同姓の百姓が居住していた。そこでは、長である「名主」を中心に、「一堂一社七かまど」と呼ばれる一つの堂と一つの社、共同墓地、稲場(稲を干す場所)等を共有していた。
●『皇代歴』『吾妻鑑』『承久記』等に記録された順徳天皇の随行者に遠藤為盛の名は無く、佐渡に来ていない。よって、阿仏房は遠藤為盛ではない。目黒町には、阿仏房の曾孫の日満の建立した妙満寺と、近くに日満もしくは藤九郎守綱(阿仏房の子)のものと云われる一石五輪の石塔(戦国時代再建)の墓が現存する事から、阿仏房や藤九郎は、この地の「在家の名主」であった可能性が高い。
●波多の守護所が、現在の下畑玉作遺跡にあった(小菅徹也説 本書六五〜六頁)とするならば、守護代本間六郎左衛門重連の館は、この守護所に隣接する熊野神社跡(石碑)であると考えられる。松ヶ崎から小倉を越え熊野神社跡に入る道は「横大道」と呼ばれ、他にも佐渡各地へ通じる道が集まることから、交通の要所として守護所のある場所にふさわしい。
 ※小菅氏の波多守護所についての論文の要約=cd=ba52「佐渡の守護所が波多本郷にあったことを裏書するのは、足利尊氏の命令で置かれた安国寺があることや、国衙領の一宮社や三宮社が波多郷にあり、二宮社ももとは波多熊野神社であった可能性が強いことなどである。」(本書六五〜六頁)
●「種種御振舞御書」には塚原配所の所在を示す文章があり、『昭和定本』では「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に」(九七一頁)、また、『日蓮聖人遺文講義』では同文を、「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に」と訳しているが、大野達之助氏の『日蓮』や石川教張氏の『日蓮聖人の生涯』等を参考に、「六郎左衛門が家のうしろ」説を取り、塚原と本間六郎左衛門重連の館との位置関係を表す遺文として使用する。
●「種種御振舞御書」において「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。」とある事から、塚原配所跡は、本間重連の館があった熊野神社跡から「うしろ」に見える目黒町の台地に限定できる。また、この目黒町には、日満もしくは藤九郎守綱のものと伝わる墓地があり、阿仏房の曽孫である日満の建てた妙満寺がある事から、阿仏房はこの地に居住した「在家の名主」である可能性が高い。宗祖は、阿仏房のもとに預けられ、在家内の三昧堂へ入れられたのである。塚原問答(文永九年一月一六日)の後、宗祖を庇護した阿仏房は追放され、新保の阿仏房元屋敷に移り、天正一七年(一五八七)以後、現在の妙宣寺(戦国末期 雑太本間氏の居城跡)に移転した。
●妙満寺の西側三十メートルほどにある浅い沢をへだてて、目黒町熊野神社の建つ台地があるが、北南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定する。(詳しい説明は次項)
(三)「塚原配所」の推定地
●推定「塚原配所」の南端
 妙満寺の西側三十メートルほどにある浅い沢をへだてて、目黒町熊野神社の建つ台地がある。この神社の境内地から南側の台地上は、平野の真ん中に位置するにもかかわらず家は一軒もなく、昔から共同墓地となっている。境内の南は、手前からA目黒共同墓地、つづいてB寺田の共同墓地、さらにC畑野の共同墓地と続いている。
 このうちA目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、B寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移したのだという。
 これに対してC畑野の共同墓地は、ずっと前から同じところにあった。すると、いまの寺田と目黒町の共同墓地のあたり(AB)が、「塚原」であった可能性が大変強いと考えられる。
●推定「塚原配所」の北端
 また、この熊野神社脇の水田の地名は「塚の腰」である。「塚」は佐渡では、古墳や土葬した墳墓を指したりする。新穂村根本寺付近にも「塚の腰」の地名がある。「こし」というのは「まわり」という意味だから、「塚」は熊野神社のある高みにもあったはずである。ただし、いまは熊野神社があって、昔そこに墓があった面影はまったく残っていない。
 この目黒町の熊野神社がいつ頃建てられたものなのかはわからないが、熊野神社は日蓮在島の頃には波多の本間の館くらいにしかなかったはずだから【筆者註 現在の佐渡には無数の熊野神社がある】目黒町熊野神社のあたりも「塚原」と見て支障はないだろう。
 私は、以上のような考察から、北は熊野神社から、南はA目黒町とB寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定するのである。
 この推定「塚原配所」の地域の中でも、特に現在の目黒町熊野神社の鳥居付近から、本間重連の館のほうを見ていただきたい。「六郎左衛門が家のうしろ」という『日蓮遺文』の表現が、まさにぴたりとあてはまる風景がそこには広がっている。また逆に、本間の館や守護所のほうから、この目黒町のあたりを見ていただきたい。まさにそこは「野と山との中間」(「妙法比丘尼御返事」)である。」(『日蓮と佐渡』七四〜七頁)
 以上が、田中圭一氏の主張する塚原配所説の概要である。
Ⅱ 田中圭一説への見解と問題点の指摘
(一)根本寺塚原配所説は、日典が塚原配所と断定した理由を弘樹寺の「しゃくし地蔵」の伝承や、「塚の腰」の字名・周辺に墓地がある事、新穂城跡が佐渡守護所である等と推測しただけであり、実際に日典が判断した理由とは言い切れない(他の理由の可能性…弘樹寺の境内に配所の伝承等)。つまりは、根本寺説の否定も推定にすぎない。
(二)現地調査の結果、前の「図16 波多・目黒町拡大図」に示される伝藤九郎墓地、妙満寺、推定「塚原配所」AB、目黒町熊野神社、横大道、下畑玉作遺跡(推定波多の守護所)、熊野神社遺跡の碑(推定本間重連の館跡)等の位置関係は、実際のものと相違無い事が確認できた。
 妙満寺前塚原配所説は、①目黒町に阿仏房の在家があり、宗祖はこの在家内の三昧堂に預けられたとし、②在家に隣接する台地に古来墓地があり、付近に「塚の腰」の地名があることと、③波多の守護所が、現在の下畑玉作遺跡に在ったとする小菅説を根拠に、本間重連の館は、この守護所に隣接する熊野神社遺跡であるとする推定に基づき、「種種御振舞御書」の「六郎左衛門が家のうしろ」との塚原配所の所在を示す記述から推定配所を判断するものである。
 ①阿仏房曽孫の日満建立の妙満寺と、日満もしくは阿仏房の子藤九郎守(盛)綱のものと伝る墓地が近くに実在する事から、阿仏房がこの地の「在家の主」であり三昧堂はこの在家内に在るとする説は考え得るが、現在阿仏房元屋敷跡に指定されている場所は、田中氏が阿仏房が追放され移転した先とする新保である。
 ②田中氏は、隣接する台地の北は熊野神社から、南は古来より墓地のあったC畑野の共同墓地を除く、A目黒町とB寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲、特にABの区域を「塚原配所」と推定するのであるが、墓地の変移については、明治以降を見ただけであり、鎌倉時代からの墓地の変移を考察したものではないので、この点は定かではない。また、氏の特定するABの区域は、明治以降に墓地を作る為に造成された土地である事も考慮に入れなければならない。実際のところは、考古学的見地に基づく発掘調査により、推定「塚原配所」における鎌倉時代の墓地の分布や建築物跡の礎石の発見等がない限り実証はできないが、氏の特定するABの区域は墓地の為、実証できない事となる。
 「種種御振舞御書」には、塚原三昧堂について
「塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり。」(昭和定本九七四頁)
 との記述があり、塚原問答の際には三昧堂の大庭や周りの山野に数百人の人々が集まったと云う事から、三昧堂にはある程度の人間が集まれる広い庭があり、周りには堂を見渡せる山野が広がっていた事が認識できる。この事は三昧堂が大庭を造れる平地に在った事を裏付けるものである。熊野神社の建つ台地の横に広い庭を有する妙満寺の境内が隣接する。熊野神社横から妙満寺の境内を含む範囲も推定「塚原配所」として考え得る場所である。田中説には、この様な三昧堂の庭の規模に関する考察はみられない。
 ここで、阿仏房、日満上人、妙宣寺、妙満寺等に関する一般論を紹介しておく。
「阿仏坊の移転
 阿仏坊の元屋敷といわれるところが新保(金井町大字新保)にある。元屋敷といわれるところから、阿仏坊住居の地と推定されるところである。
 系図によると阿仏坊は文治五年(一一八九)の生まれで、三三歳の承久三年(一二二一)に佐渡へ渡り、仁治三年(一二四二)順徳院がなくなられて以後、ここ新保に移り住んだという。文永九年塚原への給仕や一谷への給仕は、すべてここから足をはこばれたことになる。弘安二年三月没するまでおよそ三七年間の止住の地である。
 また、後阿仏と呼ばれた嫡子藤九郎盛網も、法名を妙覚と呼ばれた阿仏坊の孫、九郎太郎盛正も、さらには彦にあたる佐渡阿闍梨日満も、みなこの地で生まれ育っており、日蓮上人在島中の給仕についても盛綱、盛正等父子三代はみな上人の草庵にここからかよったことであろう。
 阿仏坊の二祖日満
 妙宣寺の二祖は日満である。日満は阿仏坊日得上人の嫡子藤九郎盛網の長子九郎太郎盛正の次子として文永九年(一二七二)に生まれ、興円と呼ばれた。佐渡の先師の遺業を継ぐべく日興上人を慕って富士にのぼり、高弟日華の弟子となり如寂房と号した。
 元亨・正中の頃には、すでに佐渡にあった日満は、嘉暦のはじめ(一三二六〜)、その元屋敷と呼ばれる旧地を新保(金井町)に残して現在地に近い竹田地内に移転し、阿仏坊本堂建立の事業を起こした。
 康永二年(一三四三)八月には後阿仏盛網が八九歳で没し、名実共に先師の残された法華弘通の後継者指導者となった日満は、元弘二年(一三三二)七月に阿仏坊本堂を完成させたので、日興上人は本門寺の重宝である日蓮上人の書かれた本尊に、「佐渡の国、法華の棟梁、阿仏坊の彦、如寂房日満に之を相伝す」と脇書きし、本堂常住の本尊としてこれを阿仏坊に送っている。
 日満は延文二年(一三五七)八六歳で阿仏坊を後継三祖日円にゆずり、隠退して号を真成房とあらため、その年の四月、みずから祖師の像を刻み、長慶山妙満寺(畑野町目黒町)を開いて本堂に安置し、移り住むこと四年、延文五年(一三六〇)三月二一日、八九歳の長寿を全うした。」「真野町史 上巻」真野町史編纂委員会(二六八〜七一頁を編集)
 日満上人が元弘二年(一三三二)阿仏房本堂を建立された場所は、現在 佐渡市竹田の「やせのはか」と呼ばれる土地である。ここから現在地へ移転したのは、約二五〇年後の天正一七年(一五八九)、上杉景勝の命により雑太城主本間信濃守が居城(現在の妙宣寺境内)を寄付し、天正末から文禄慶長年間にかけて妙宣寺の堂宇の造営が進められたと云う。
 日満上人が目黒町の地に妙満寺を建立された理由は定かではないが、近くに祖父にあたる藤九郎盛網(もしくは日満)の墓や、阿仏房の妻である千日尼の実家とその墓がある事から、一族の菩提を弔う為と考えられる。
 私見として、塚原三昧堂の所在を推測してみると、
 一般論として「塚」とは、「土を高く盛って築いた墓。また単に、墓のこと。土を高く盛って物の標などにしたもの。」であり、「塚原」とは、「墓などのある野原。」(広辞苑)であるから、地名としての「塚原」も、塚のみではなく、塚・墓のある野原であることが考えられる。したがって、「推定塚原」とする台地(塚)に隣接する野原、または、「阿仏房在家」の共同墓地に隣接する野原も「塚原」の地名として考えられる。また、③に説明するが、「種種御振舞御書」の「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原」の文は、「重連の後見人の家より塚原」という意味であり、「重連の家のうしろ」に塚原配所が見えるという条件は必ずしも必要でない。以上を踏まえると、
 現在、伝藤九郎盛網の墓が在る場所が、「阿仏房在家」の共同墓地であった可能性が考えられる。そして、この共同墓地に隣接して三昧堂が在ったと考えられる事から、伝藤九郎盛網墓地の周辺が推定塚原配所の一つとして考えられる場所である。
 もう一つ考えられる事は、阿仏房の曾孫である日満上人は、塚原三昧堂の所在を存じていたので、三昧堂跡地に草庵(現妙満寺)を建てられたと考えられる点である。「種種御振舞御書」の「塚原の堂の大庭山野に数百人」(昭和定本九七四頁)との記述から、三昧堂は「大庭」の造れる平地に在ったと考えられる事からも、熊野神社の建つ台地に隣接し、広大な庭を有する妙満寺の境内が推定塚原配所として考えられるのである。
 ③本間重連の館跡を決定付ける理由は小菅説を根拠とするのであるが、実際の小菅説(「歴史と地理」四九六号平成八年「佐渡の歴史」小菅徹也)は、鎌倉時代の守護所は竹田城址(佐渡市竹田)でここに本間重連の館があり、下畑の館(熊野神社跡)には、波多代官で重連の後見人を兼ねる波多本間氏が居た。つまりは、「種種御振舞御書」の「六郎左衛門が家のうしろみの家」とは、重連の後見人(うしろみ)である波多本間氏館であるとし、竹田城から下畑に守護所が移るのは、南北朝末期頃であり、「塚原三昧堂の所在を書いた日蓮遺文には『六郎左衛門が家のうしろ塚原』というものと、『六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原』という二通りのものがあり、いずれも本証ではありません。鎌倉時代に下畑に国府も守護所もありえなかった以上、後者の遺文の記述に従うしかないようです。たまたま前者の遺文の記述を使って、目黒町の阿仏房在家の塚原三昧堂を探り当てたのは、偶然のなせる結果オーライとしかいいようがありません。」(一四頁)と田中氏の説を評している。
 「種種御振舞御書」の「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に」(昭和定本九七〇頁)の文の解釈について、田中氏は、大野達之助氏の「日蓮」、石川教張氏の「日蓮聖人の生涯」等を参考に「六郎左衛門が家のうしろ」説を用いるのであるが、小菅氏の研究成果と「昭和定本」に基づき解釈するならば、「本間六郎左衛門重連家の後見人(補佐役)の家より塚原と云う山野の中に」と、解釈できる。「種種御振舞御書」の遺文構成については後に記した。
 田中氏の下畑を鎌倉時代の守護所とする説は、昭和四〇年代以降に有力視された説であり、妙満寺前塚原配所説は、この説に立脚したものであるが、現在では、調査の結果、下畑玉作遺跡周辺(畑本郷…下畑・畑方一帯)に国府の存在を示す遺跡・地名等は一つも無いことが明らかとなり、鎌倉時代の守護所もこの近辺ではないことが明らかになってきたという。
 小菅氏は鎌倉時代の佐渡守護所の位置と南北朝末期頃の下畑への移転について次の様に述べている。
 「守護所は国衙の近くに設けられるのが一般的です。国衙を潰して守護所にするとか、甚だしく国衙から離れたところに守護所を構えるということは特殊な事情のある場合で、佐渡の場合は特に考えられません。従って戦国期に、かつて国衙跡であったところを城郭にした檀風城址を佐渡守護所と考えることはできませんし、戦国末期の雑太本間氏の居城跡(現、阿仏房妙宣寺境内)を鎌倉期の守護所跡とすることもできません。雑太郷内とすれば、遥かに国中平野の穀倉地帯を見渡し、国衙を見下ろす竹田台地の東縁に構築されている竹田城址以外に守護所の適地はありません。本間六郎左衛門重連が守護代である限り、六郎左衛門重連の居城は竹田城(雑太城)以外に求めてはならないと思います。下畑の館には、波多郷代官で六郎左衛門重連の後見人を兼ねる波多本間氏がいたと考えるべきでしょう。(中略)
 竹田城から下畑に佐渡守護所が移るのは、南北朝末期頃と考えられます。鎌倉末期に小倉川からの用水路開削が進み、後山から三宮にかけての台地先端部が大規模に水田開発されはじめたことと、半済令以後の前浜での良港の確保、鎌倉幕府の滅亡や佐渡における南北朝の戦乱などが微妙に影響して、守護所は波多郷下畑へ移転したと考えられます。」(「歴史と地理」四九六号 山川出版 一四〜五頁)
※国衙…国司が政務を行った役所。国衙を含む区域を国府と云う。
 また、相川町史編纂委員会編「佐渡相川郷土史事典」では、檀風城(雑太元城跡…雑太本間氏初期の居館跡)の解説の中で竹田城について次の様に説明がある。
「近年、檀風城の東方約一キロメートルの一段高い段丘先端部に、檀風城とほぼ同じ規模で残る竹田城(通称「又助の城」)を、雑太城(守護代居城)とみる説が出ている。それは鎌倉時代末に、阿仏坊を新保より城の傍へ呼び寄せた本間泰昌の城跡とみることと、この段丘下の竹田川辺に、日野公斬首の伝説が残ることからであろう。ここも単郭で周囲に土塁が残り、郭の三方に空堀がめぐらされている。」(四七四頁)
 と、ある通り、竹田城佐渡守護所説は、一説として一般に認知されている。阿仏房の移転先である竹田の「やせのはか」は、この竹田城址近くにあるので、「阿仏坊を新保より城の傍へ呼び寄せた本間泰昌の城跡」との説は考え得るところである。
 「日蓮と佐渡」の問題点は、鎌倉時代の波多の守護所が、現在の下畑玉作遺跡であるとする説を小菅氏自身が否定している所にある。田中氏が引用する小菅氏の下畑を守護所とする論文(「日蓮と佐渡」六五〜六頁)は、歴史年代の表記が無く、また、理由として足利尊氏(将軍在職一三三八〜一三五八)の命令で置かれた安国寺が近くにあることを挙げていることから、小菅氏の主張する南北朝末期頃に竹田から下畑へ移転してきた波多守護所のことではないかと考えられるのである。
 残念ながら、平成一六年発行の新版「日蓮と佐渡」において小菅氏の竹田城佐渡守護所説は、紹介される事無く、依然として波多守護所を下畑玉作遺跡とする小菅説を引用している。
Ⅲ 小 結
(一)以上の推論から、妙満寺前塚原配所説を考える場合、塚原配所の位置について、田中氏は、「北は熊野神社から、南はA目黒町とB寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内」という推定であるが、「種種御振舞御書」の「塚原の堂の大庭山野に数百人」との記述から、熊野神社の建つ台地の横の広い庭を有する妙満寺の境内を含む範囲も推定塚原配所として考えられる。
 鎌倉時代の守護所・本間重連館の位置については、小菅氏本人が前説を否定している以上、本人の主張する竹田城址…佐渡守護所・本間重連館、熊野神社遺跡…重連後見人波多本間氏館説を採用する方が妥当であると考えられる。竹田城址…佐渡守護所・本間重連館とする説は、守護代が呼び寄せたとする阿仏房跡地が竹田城址近くにある事からも裏付けられるところである。また、熊野神社遺跡…重連後見人波多本間氏館説は、昭和定本の記述に合致するものでもある。
 これ等の位置関係を図示して、現時点での田中圭一説に関する見解とするが、あくまでも一推論に過ぎない。(使用地図アルプス社プロアトラス2002改)
(二)田中氏の塚原配所説は、氏一人の研究に負うところが大きいが、推定塚原配所の墓地の変移についての考察や、引用御遺文の考察に関して問題点が見受けられ、下畑玉作遺跡の引用論文の著者である小菅氏の論文を拝見しても新たな問題点を見出す結果となった。これは、塚原配所の所在を紐解くには、歴史学者一人の見解に任せるのではなく、各分野の専門的見地が必要であることを物語っている。現在、推定塚原配所近辺で確認できる史跡は、推定配所に隣接する妙満寺と伝藤九郎守綱の墓地だけであり、宗門側から妙満寺前塚原配所説を考察する場合、これ等の史跡の詳細な調査研究が先決ではないかと考えられる。
参考御遺文
 「種種御振舞御書」
①「同(文永八年)十月十日に依智を立て、同十月二十八日に佐渡国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消る事なし。かゝる所に、しきがは(敷皮)打しき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹雷電ひまなし。昼は日の光もさゝせ給はず。心細かるべきすまゐなり。」(昭和定本九七〇頁)
②「念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を、小法師等が頚にかけさせ、或はわき(腋)にはさ(挾)ませて正月十六日にあつまる。佐渡国のみならず、越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々より集れる法師等なれば、塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり。」(昭和定本九七三〜四頁)この他、九七五頁に三昧堂より本間重連を大庭へ呼び返す記述がある。
※「種種御振舞御書」は、幕末に小川泰堂居士が、「種種御振舞御書」(一九紙一巻)、「佐渡御勘気抄」(二一紙一巻)、「阿弥陀堂法印祈雨事」(一〇紙一巻断)の三偏に光日房御書の末文を加えて一つの書物にまとめたもので、四編はいづれも真蹟身延曽存の御遺文である(日蓮聖人遺文辞典歴史偏五一五頁参照)。この内、①②は共に「佐渡御勘気抄」に属する文章であり、他遺文との接合部分ではない(昭和定本の脚注から判断できる)。
 「法蓮鈔」
「北国の習なれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし。根を移されし橘の自然にからたちとなりけるも、身の上につみしられたり。栖にはおばな(尾花)かるかや(苅萱)おひしげれる野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂の上は、雨もり壁は風もたまらぬ傍に、昼夜耳に聞者はまくらにさゆる風の音、朝暮に眼に遮る者は、遠近の路を埋む雪也。」
(昭和定本九五二頁)真蹟曽存 ※この文も三昧堂が平地に在った証となる。
「妙法比丘尼御返事」
「佐渡国にありし時は、里より遥にへだたれる野と山との中間につかはら(塚原)と申御三眛所あり。彼処に一間四面の堂あり。そらはいたま(板間)あわず、四壁はやぶれたり。雨はそとの如し、雪は内に積る。仏はおはせず。筵畳は一枚もなし。然ども我根本より持まいらせて候教主釈尊を立まいらせ、法華経を手ににぎり、蓑をき笠をさして居たりしかども、人もみへず、食もあたへずして四箇年なり。彼蘇武が胡国にとめられて十九年が間、蓑をき雪を食としてありしが如し。」(昭和定本一五六二頁)
※この他「波木井殿御書」(昭和定本一九二八頁)に塚原配所の記述があるが、古来真偽の問題のある御遺文(日蓮聖人遺文辞典歴史偏九〇七頁参照)とされている為、引用していない。
 

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