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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

平和への歩みと提言

 

 
平和への歩みと提言
(日蓮宗現代宗教研究所顧問) 石 川 浩 徳  
一、はじめに
  日蓮宗僧侶の発言はその基本姿勢の中に、仏教徒であり日蓮宗の僧侶であることを忘れてはならない。それを忘れていかなることを論じても、単なる一般論に終わってしまうからである。殊に平和論がそうだ。仏教徒であることを抜きにして、いくら詳しく論じても一般の評論家の弁と何ら変わることが無い。そんな論は仏教徒としての発言にはならないからである。平和について論じた場合、釈尊の、“殺すなかれ”の戒めを念頭に置いて説き、日蓮聖人の立正安国論の理念に基づいていなければならない。
  釈尊は絶対平和主義者である。日蓮聖人も同様である。我々は日蓮宗の僧侶である。日蓮聖人を宗祖と仰ぎ、日蓮聖人の教えを信じる宗団に属している。日蓮聖人は平和な世の中の実現を目指し、命をかけて法華経を広められた。立正安国論は法華経によって世の中を救わんとされた書である。お題目をもってこの世を浄土にしようとされたのである。浄土に争いは無い。お題目は武器ではなく心を磨く法である。命を蘇らせる不思議な力を秘めた法である。
  釈尊の世界観はこの世(娑婆世界)の浄土化にあり、本来この世は浄土であることを一切衆生に気づかせることである。釈尊の世界観に立って、生命の尊重と平和主義に徹した論述こそ、意味があるというものである。
二、日蓮宗の戦時中の過ち
  太平洋戦争中、日蓮宗は宗門あげて聖戦と名付け戦争遂行の国策に則り加担した。仏教界全体がそうであったように国の方針を疑いもなく受け入れ積極的に協力した。そのあげく日蓮聖人の真意を根底から曲げるような事態を引き起こすに至った。すなわち、
 イ、天皇本尊論
   現人神天皇が、三身即一身・一身即三身、主師親の三徳を具備した本佛であるという論。
 ロ、遺文削除
   戦時中の文部省から日蓮聖人のご遺文中、不敬にあたる文章文言があるから、それを削除せよと指摘され、宗門の重鎮や学者が会議を開き百二十三カ所に墨を塗り、文部省に届け出た。
 ハ、金属製仏具の供出と武器の奉納
   全国に諭達を発し戦闘機作製費用を集めたり、梵鐘や金製の仏具供出を奨励した。
 ニ、戦勝祈願
   全国の寺院等で戦勝祈願会を行うよう指導。
 ホ、従軍僧の派遣
   宗務総監の辞令をもって、戦地へ僧侶を派遣した。従軍僧の手記によると、日本軍の横暴な所業は、人間の命を虫けらのごとくに抹殺し、現地の村落を襲い物を略奪した。正義のひとかけらも無い軍隊に従軍して、良心の呵責にさいなまれながらも、与えられた任務を果たさざるを得ない立場に苦しんだ、と従軍僧は言っている。
三、終戦を迎えて当時日蓮宗はどう動いたか
  昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を受け入れ戦争は終わった。それまでは、米英をはじめとする連合国を相手に、向こう見ずの戦争をし続け、日本は愚かな政治家と軍部の好戦的指導者によって躍らされ、国土も経済も破綻し、国民は戦争の恐怖におののきながらも命を投げ出し戦争協力を余儀なくされた。日蓮宗の指導者も戦うことが宗祖の教えに合うことであると、管長は教旨を総長は諭達を発して、宗門全体を戦争に駆り立てたのである。
  それが一夜にして敗戦国となり、一八〇度転換して帝国主義から民主主義国家へと思想とともに変貌し、天皇は現人神から普通の人になり、鬼畜米英は日本を護る国になった。
  日蓮宗は約六〇〇カ寺が空襲で灰燼に帰し、立正大学・高校も焼け落ちた。戦後の復興は容易ならざる状況であった。殊に思想の混乱は大きく敗戦という衝撃と相俟て、「日蓮宗は今後如何なる方向へすすむべきか」と、茫然自失の状態で、すぐには答えが出ないほどであった。それほど戦争にすべてを掛け、戦争を正義とした指導をしてきた。それだけに、指導層も教師も相当困惑したようだ。中には、戦争中あれほど国家主義体制に迎合し、宗祖にお詫びしてもお詫びしきれないような行動をとったにもかかわらず、信仰的信念を疑いたくなるほどの転向ぶりを見せ反省の一言も無い恥知らずもいた。
四、日蓮宗は戦中の国家追随の間違いを総括したか
  終戦直後、宗務総監馬田即貞師は宗会開催の挨拶で、
 「日本はポツダム宣言を受諾し、天皇並びに政府は連合軍の指揮下に隷属し、悠久三千年の光輝ある我が歴史は終止符を打つに至った・・・」と述べ、
  また、田賀竜文教学部長は戦中の日蓮宗を反省し、
 「本宗独特の気迫と信念は次第に消磨し、国家迎合の色彩を濃厚にして、その真意を没却し、浅薄なる附会を能事とし、祖文を断章取義して日本にばかり都合のよい国家宗教」にしてしまった、と言い、“祖師に還れ”と、闔宗に向かって叫んでいる。
  また、西川景文師は、東京裁判の判決が下った直後の昭和二十三年十二月八日、ウェッブ裁判長の宣告を
 「自らが宣告を受けている感じであった。我らに対する佛祖の誡責の声として聞いた」
 と言い、さらに
 「権威を恐れて事なかれ主義を奉じていなかったか、果たして仏弟子たるの使命に恥じざる行為をとってきたか。まず“懺悔せよ”と叫びたい」
 と、宗内に向って述べている。だがこれらの言葉は、戦中に本宗が為した師敵対の所業を反省した言葉と受け止められるとはいえ、徹底した総括とはなっていない。
  総括とは、行った一々の所業を反省して本来の正しい姿に戻し、再び間違いを起こさない誓を宗祖日蓮聖人及び日蓮宗の公的機関においてすることである。たとえば、宗議会で決議し管長の教旨を発し、そして教師全員が宗祖に対して懺悔滅罪の読誦行を為し、戦中に間違った指導命令を行った宗務要路の者及び首謀者は、徹底した反省とともに謹慎し、その後はおもて舞台に出るべきではない。戦争への加担は間違っていたという反省の弁は聞いたが責任はとっていない。戦時中出した教旨や諭達、ご遺文削除は撤回したか。天皇本尊論を主張した反日蓮主義者に対してどう処置したか。さらに戦時中、勇気ある反戦論を唱えた者の名誉回復はしたか。再び、国家が戦争の道を歩むようなことになったとき、宗門は断じてその命に従わないという決意を公的機関ですべきではないか。そうでなければ、“反省、懺悔”もそのときだけの言葉で終わってしまう。いかなる戦争も悪であり、仏教者は戦争反対の立場をるべきであろう。
五、立正平和運動とその問題点
  本宗の平和運動は「世界立正平和運動」という名のもとに昭和二十九年に始まった。これは、米国の水爆実験が直接のきっかけになった。ビキニ岩礁で水爆実験が行われ第五福竜丸が被爆し乗組員久保山愛吉さんが死亡した。これを機に広島・長崎の放射能被爆の後遺症に悩む被爆者援護を主として核の廃絶を訴え、運動を展開した。時の増田日遠管長、小松浄佑総監を先頭に僧俗一体となって全国の寺院檀信徒に呼びかけ、各地で世界平和の祈りと共に、原水爆実験反対、核廃絶、武器全廃を叫び、集会が持たれた。増田管長は国連にメッセージを送り核廃絶を訴え、世界宗教者平和会議には自ら議長となって会議をリードした。宗門の宗議会では管長として決意を述べ「世界人類は皆仏子である、私は命をかけてこの運動を推進する、この運動こそ宗祖の立正安国の理念にもとづくものである」と、その意気込みのほどを披瀝した。
  日蓮宗宗報などの記録によると、立正平和運動は昭和三十五年ごろまでは至って盛んに行われたことが分かる。しかし、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)と原水爆禁止日本協議会(原水協)という運動団体との協力の在り方のはざまに立って、宗門内に疑義を生じたのをきっかけに運動の規模が縮小され退歩して行った。平和運動そのものの規程は存続したが運動に陰りが出てきて、内局の中に併合され、伝道の一環として辛うじて必要に応じ運用されるのみとなった。
  こうした状況に危機感をもった有志によって誕生したのが「立正平和の会」という外郭団体である。純粋に日蓮聖人の「立正安国」の精神に則り、ベトナム戦争と共に核兵器の拡散が懸念されるなか、むしろこれからが反核運動を積極的に進めるべき時と、世界の宗教平和団体との連帯を進め、国連への働きかけ、機関誌「立正平和」の発行等、たゆまぬ平和活動を推進し、今日に至っている。
  日蓮宗の規程上には、今日なお「世界立正平和運動規程」は辛うじて生きているが、無いに等しい状態である。平成十六年の機構改革以降は運動の具体策を練る委員会構成もせず、何ら有効な手立てもされずに放置されている。それでいて立正平和の言葉だけがときおり聞こえてくる。今後この規程を廃止する事になったら、この運動初期において誓った趣旨とは何だったのか、かって全国で華々しく展開した平和運動は一過性のものだったのか、先師の苦労を無にすることになってはならぬ。日蓮宗にとって立正平和運動は四海帰妙運動である。国家、民族、宗教、思想を越えて、平和の二文字で共通した行動が叶うとなるこの運動こそ、もっと積極的に規程を生かし推進すべきであろう。明年四月から実働するという新しい宗門運動は期限付きであり、その運動の中にもし平和規程を埋没するようなことになれば、その時点で本宗の平和運動は終焉となる。日蓮宗が誇れる「世界立正平和運動本部規程」を生かすことこそ今何より重要であることを忘れてはならぬ。
六、現宗研主催の中央教化研究会議での“平和と戦争”論議
  平和な世界を希求することはこの中央教化研究会議出席者全員の賛同するところであったが、平和を維持するための手段方法については意見が分かれた。
 イ、武器は一切持つべきではない、という意見。
   日本国憲法第九条は「陸海空の戦力はこれを保持しない。また交戦権は認めない」
  と明らかに、いかなる戦力も保持できないことを明示している。
   武器を抑止力にして均衡を保ち平和を維持しようとすることは愚かなことである。均衡はいつか保てなくなる。殺戮を目的とする核兵器、武器等は廃絶することに全力をそそぐのが、慈悲と平等と命の尊厳を教える仏教徒の役割である。
 ロ、自衛のための武器は容認される、という意見。
   六十年も前に定められた憲法に拘束されているときではない。時代は刻々と変わっている。事情変更の場合は憲法も見直すべきである。周辺諸国の現状は自衛のための軍備を持たねばならない状況である。きれいごとでは国は護れない。
   大きく分ければこの二つの意見に集約できる。
   この二つの意見を考えたとき、大事なことは仏教徒であり平等大慧の法華経を信ずる者としてどちらをとるべきかという事である。法華経はこの世に浄土(平和世界)を築く教えである。ならば法華経を信じるものが殺戮を目的とする武器を保持して平和を保つという考えは間違っていよう。浄土を実現するために武器を使用し殺戮をすることは考えられぬ。
七、核拡散の動きと危機的現状
  日本は核の恐ろしさを一番よく知っている国である。昭和二十年の終戦間近に、アメリカによって原子爆弾が広島・長崎に堕とされ、一瞬にして三〇万人の命が奪われた。今日では広島型の原爆の何十倍もの威力をもった核兵器が何十と核保有国にある。かって米ソの軍事力競争の激しかった時期に開発されたものである。国連をはじめ何度かの軍縮会議によっていくらか減少したものの、多弾頭ミサイル、巡航ミサイルを含め、現在二万七千発の核があり、地球全体を破壊するほどの量を保持し、力の均衡を保とうとしている。
  ソ連はその後分裂し共和国がいくつか誕生し、ゴルバチョフによって民主化がなされ国名もロシア共和国となった。一九八六年ウクライナ共和国(当時ソ連)はチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故で無数の住民が被爆し犠牲となり、国境を越えて放射能被害がひろがっている。原発の事故がいかに恐ろしい結果をもたらすかを如実に物語る事件である。平和利用と言っても原子核には変わりない。ましてやいつでも使用可能な臨戦態勢の中で、超大国の米ロと英仏中の五カ国が軍事目的で核を保有し、国連の不拡散条約に基づく制約があるとはいえ、地球上はいたって不安な状態にあるといえよう。加えて、インド、パキスタンが、さらに北朝鮮が核実験を行い、イランも既に開発していると報道され、イスラエルやその他のいくつかの国も防衛のためと称して核武装を目論んでいるという。世界は平和とはうらはらな方向へと進んでいる。
八、核廃絶とアインシュタイン・湯川秀樹両科学者
  第2次世界大戦が終結して、原子爆弾等の核兵器の開発競争が起こることを心配した世界的な物理学者アインシュタイン博士は「自分が研究に携わった物理学の精華が大量殺戮の道具になってしまったことは、慚愧に耐えない」と言って、バートランド・ラッセル博士と核の廃棄を願い、人類の破滅を防ぐために「ラッセル・アインシュタイン平和宣言」を公表し、全世界の科学者に「核の開発に手を貸してはならない」と訴えた。
  中間子を理論的に発見してノーベル賞に輝いた湯川秀樹博士も宣言に賛成され、「原子物理学者だけに原子力の恐ろしさは他の人以上に知っている。世界の平和なくして学問も科学もない」と、その後一貫して、反戦と核兵器全廃を訴えられた。一九八一年六月七日、京都で開かれた世界の科学者による「世界連邦会議」で、湯川秀樹博士は重病の体をおして会場に出向き、「科学者としての責任を果たすとは何か、それは人類の敵、核を廃絶することだ。戦争のない一つの世界をつくることが科学者の使命であり責任である」と、ノーベル賞受賞者朝永振一郎博士とともに、京都宣言を発表し、出席した科学者に同調を求めた。だが、「今の世界は核の抑止力で平和が保たれている。核兵器と共存を考える方が現実的だ」と、核抑止論を支持する学者が大勢を占めていた。湯川秀樹博士は「核とは決して共存できない、原爆の破壊力と残忍さを見ていただきたい」と広島長崎の惨状をビデオで見せた。見終わった科学者たちは無言で宣言に同調しサインしたという。呼びかけた湯川秀樹博士は「正しいことは繰り返し言うことである。言い続けることが大切だ。科学者たちが核開発の協力をしなければいい、ただそれだけだ。至極分かりやすい話なのにそれが理解されない。不思議なことだ」と言った。博士はその三カ月後世界の平和と核廃絶を願って亡くなった。
九、むすび
  日蓮宗は戦後、核廃絶・軍備撤廃と世界平和を訴え続けてきた。この訴えは、日本国憲法第九条で、一切の戦力を持たず、不戦の誓いを明記した憲法と立正安国論の理念が根拠である。しかるに最近、この平和憲法を改変して、現在在る自衛隊を軍隊とし、集団自衛権の名の元に交戦権を認めるような憲法に変えようという動きが政府やその賛同者の中から強く出てきた。そうなれば、毎年広島・長崎の原爆投下記念日に、両市長が世界に発信してきた二千六百回に及ぶ「核廃絶・軍備撤廃」の訴えは空虚なものになってしまうであろう。
  わが日蓮宗は、立正平和運動以来、世界の平和を願い、千鳥が渕で戦争犠牲者の追悼と再び戦争は繰り返さないと不戦の誓いをし、すべての軍備を無くしてこの世を浄土にすることを、仏祖三宝に祈り、国連の軍縮会議にも平和使節を送り込んできた。我々の願いに反して、世界も日本も危険な道を選びつつあるように思えてならない。
  一九九九年、オランダのハーグで世界の宗教者による「平和会議」が開かれ、最終決議に、「日本の平和憲法第九条をお手本にして自国の憲法に加えるようそれぞれ政府に働きかけよう」と、決議文として採択されたという。このお手本の第九条が改変されたら、日本は核廃絶武器全廃を訴える根拠を失ってしまうだろう。
  日蓮宗はどうか。「平和と戦争」をテーマに中央教化研究会議を開催した一昨年(二〇〇五)以降も、機会あるごとに平和論は議論して来たが、中には、現実を直視するなら憲法を改正し自衛のための戦力を保持すべしと相変わらず主張する教師が若干だがいる。だが、この考えを主張する教師には、仏教者である自覚に欠けていることを指摘したい。冒頭にも明かにした釈尊の教えの根本に、“殺すなかれ”とあることを仏弟子は決して忘れてはなるまい。
  それがたとえ理想であっても、正しいことは言い続けることが大事なことである。
 

 

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