現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
椎尾弁匡師の「佛教と共生」について
椎尾弁匡師の「佛教と共生」ついて
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 有 本 智 心
一、「共生」(ともいき)を佛教界に提起した椎尾弁匡師の人物像と経歴
今年の中央教研のテーマ「日蓮宗の教化学を考えるー多様社会を共に生きる」から第一分科会通年研究調査事項として「現代と宗学」・・共生とは(一般社会、浄土思想、法華経)ついてまとめてみた。その前にこの「共生」という文字で佛教界へ提起したという、椎尾弁匡師について、その経歴を調べてみた。師は明治九年(一八七六)愛知県の真宗高田派円福寺住職椎尾順位師の5男として生まれ、明治二一年(一八八八)浄土宗本校(大正大学の前身)卒業、旧制第一高等学校に学び、明治三五年(一九〇二)東京大学入学、哲学科宗教学専攻、同三八年(一九〇五)卒業と同時に浄土宗宗務所に入り教学部長となり、元祖(法然上人)七〇〇遠忌準備に着手し、記念伝道隊を結成「浄土宗全書」の刊行等次々に教化事業を推進して近代浄土宗の躍進の基点を構築した。明治四二年(一九〇九)宗務所を辞し学位論文に取りかかり、大正四年(一九一五)「釈尊よりシャンカーラ、アーチェリヤニ至るインド哲学」を東京帝国大学に提出、文学博士となる。大正一五年(一九二六)に大正大学が設立され教授となり主任、学部長そして昭和一一年六代学長、以後一七年(一九四二)一九代、二七年(一九五二)一四代学長を勤められた。昭和二〇年(一九四五)大本山増上寺第八二世となり、昭和四六年(一九七一)九五歳で遷化するまで宗門の興隆のため東奔西走の活動をされたとある。
又、政治の方面でも、昭和三年(一九二八)第一回普通選挙に立候補して衆議院議員となり二期勤める。国際的視野も多く、大正八年(一九一九=四三歳)朝鮮佛教協会を作り、朝鮮、満州にも伝道に旅立ち、戦時中には日中同願会(王兆銘=南京政府時代)、戦後にも日中同願会(蒋介石=南京国民政府時代)と、日中友好に尽くし、昭和二五年(一九五〇)ハワイ、アメリカ本土に布教伝道し、昭和二七年(一九五二=七六歳)に日本で開催された第二回世界佛教徒会議の会長を務めた。
教育面では大学の他名古屋の東海中学校、東海学園長、東海女子短期大学学長を務め、多くの人材を世に送り出し、衆議院議員の時、教育審議会委員となり、昭和二三年(一九四八)から四年間内閣に設置された教育刷新審議会委員となって、教育の刷新に尽力された。
特にこの度、取り上げられた「共生」(きょうせい)を(ともいき)と読んで在家信仰運動の師表とされた。師は宗教は必ず社会的なものでなくてはならないと考えた。大正期における第一次世界大戦後の社会不安、思想界の混乱、そして第二次大戦の戦中、戦後の激動期を背景として一大国民覚醒運動を展開した。
社会事業の方面でも力を注がれ大正八年(一九一九)に早くも名古屋慈友会を設立し、寺院改革を進め、教化事業として母子寮、保育園、幼稚園の設立を奨励し、戦後も全国佛教保育協会長を務められている。
(佛教総合大学の実現、第六、九、一四代学長、椎尾弁匡・・大正大学、国際文化学科、藤井正雄著)とある。
二、椎尾師の「共生」(ともいき)を発想された当時の社会情勢から
上記の経歴を挙げたのは、師の共生思想の根源を知りたかった為である。まずは明治九年(一八七六)の生まれから、開国間もない日本が欧米の資本主義経済を取り入れ、近代国家に生まれ変わった時代であり、師が中学、大学生として教育を受けられた明治一七年(一八八四)〜三一年(一八九八)頃の社会の様子を振り返ると、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟、ロシア、フランス同盟時代、アジアでは清の義和団事件、清フランス戦争、プロシア、フランス戦争、イギリスはビルマ併合、日本は清國との日清戦争の時代、少なくとも、今日では考えられない大国のエゴが前面に出た帝国主義。こんな時代に、今、私達が考える「共生」とは全く別物であったとしか考えられない。これらの戦争によるアジアの悲劇、虐げられる途上国やその国民。このような社会の情勢を見て、さまざまな矛盾を痛感された時代であったと思う。恐らく椎尾師の「共生」の発想はもう少し時代を経て考えられたものであろう。これから以後、日英同盟(一九〇二)日露戦争(一九〇四〜一九〇五)第一次世界大戦(一九一四)と世界の大国が自国の権益を賭けた強欲な戦争時代。この時の椎尾師は二六歳〜三八歳の人生の黄金時代。相反する自分の思想と社会情勢。日本は不況、好景気と交互に夢と現実の交差する時代。こんな中で椎尾師の考えた「共生」(ともいき)とは果たして師がいう善導大師の「往生礼賛」の一節「願わくは諸の衆生と共に安楽國へ往きゆかん」から取られて名付けられたという「佛教の根本思想である縁起の教えを社会に活かす信仰活動です」とは当時の社会情勢の中では、考え難い現実離れした発想であったのではと思える。あるいは当時の世界における欧米の白人達の先進国優越主義に義憤を感じられたのだろうか。
または、欧米の宗教観に比べ佛教の柔軟性、しかもインドで起こった東洋の勝れた宗教観を痛切に感じられた時代ではなかったのではないかと考えられる。第二次世界大戦が終わり、徐々に世界が冷静さを取り戻し、日本も又、敗戦によって宗教観も根本から見直された。この現実に改めて「共生」(ともいき)の発想は当初、椎尾師が考えていたレベルを一段と高い見地から見ることによって、大きく変化して評価されるようになったのではないだろうか。
三、椎尾師の「共生」(ともいき)発想の根拠は
椎尾師の「共生」の基本的な考えについては、以下『佛教と共生・・般若心経を中心として』(浄土宗宗学研究)より抜粋・・・「共生の基調」等何度か述べられているが、その門下の方が編集された師の短文による「共生」の説明とも言うべき「共生法句集」(1)を用いてみたい。まず「共生とは」の項で、『「諸法縁起」とは共生のこと、如来と呼び法性と名ずくるも共生きの大道にほかならぬ』とあり、「天地間の総ての物が一つになって生きていくと言うことが佛教の大切な考え方であります。生きる世界はなるべく一つになり、まとまって来るにしたがってその力が、よく現れる。」という。その「共」とは「縁起」の「縁」を表現する言葉で、佛教では、煩悩生起の説明となる十二因縁、業感縁起などあるが、むしろ実相縁起、一念三千の考えで、諸法実相の中に法、一つのものの絶対的客観、逆に実相すべてを自己の一念に絶対的主観を「一つとなって」「一つとなり」と表現されたのであろう。「生きることはまとめて言えば、先ず一つよりないのである。それが別々に生きているように見えるのは部分だけの姿だけである。確かに別々の姿を持っておるけれども、それが別々になったのでは、もう生きられないようになって行くのである。」と「一つの生きる」を強調し、時間的にも「今生きるとは過去何十年間かの私の将来に連結する私をこの一呼吸が表している事実である」(2)と考える。「一つ」は、また「総合」とも考えられる。「一人の全宇宙に拡がるが如く、何人も一切衆生によりて共生す。・・・故に縁起の生命たり、無量壽たり阿弥陀た
り、現在の一呼吸一挙手にしてまた全宇宙たり永遠の創造たり常寂光である。(3)と、この一つに全宇宙、衆生が総合されることとなる、したがって、共生とは、佛教の縁起をいう言葉であり、世界と自己が一つになって生きてゆくことと解される。(以下略)
(知恩院浄土宗宗学研究所発行「浄土宗研究」昭和五一年度第九号一七七-一九二頁、若干訂正加筆す。)以上参考。
恐らく構想はあったかも知れないが、日本が太平洋戦争で敗戦し、改めて世界平和を見直されてからではないだろうかと思える所も多い。或いは法華経、日蓮聖人の御遺文を参考にされたのではと思うくらい共通点も見られる。
四、椎尾師が善導の「往生礼讃偈」の浄土思想を共生(ともいき)の根拠として結びつけた疑問
①②一般用語である「共生」を、仏教的に「縁起」と結びつけて「共生」を「ともいき」と提唱したのは、浄土宗の椎尾弁匡師であると言われ、仏教関係の書物で、共生に関する論考には、椎尾師と「共生」について触れているものをよく目にする。
たとえば、『法華学報』には、
「…」(三四八一頁)
と、ある。
③「共生」と椎尾師の「ともいき」について触れている本が多いという事実は、「縁起」「共生」「共に生きる」が、古来からの仏教の通説ではなかったという証拠でもある。また、仏教における「共生」を論ずる執筆者が浄土系の場合は、「ともいき」の提唱者である椎尾師の説に敬意を表するような意味で椎尾説を記述しているようだが、執筆者が浄土系でない場合は、「共生」が仏教的解釈を施されるようになった経緯を触れる際にただ椎尾説を紹介しているようである。
④善導の『六時礼讃偈』とは、どのような内容であるか調べてみたが、大正新脩大蔵経の目録には『六時礼讃偈』の記載はなかった。また、筆者は浄土教学の専門家にご教授頂く縁がなかったので、ここで詳しく述べることはできない。しかし、椎尾説の「共生」=「ともいき」が「願共諸衆生 往生安楽国」の文が出典であるということから推測すると、『六時礼讃偈』の内容は『往生礼讃偈』と同じであろうと思われる。
⑤もし、『六時礼讃偈』と『往生礼讃偈』が同一のものであるか、もしくはほとんど内容的には同じものであるとするならば、なぜ椎尾師等が、有名な同じ善導の作である『往生礼讃偈』を「共生」=「ともいき」の出典と言わずに、『六時礼讃偈』を出典としたのか、甚だ疑問であり興味深いところであるが、ここでは、「願共諸衆生 往生安楽国」を繰り返し述べる『往生礼讃偈』を見て、善導と椎尾説の関係を考えてみたい。
⑥『往生礼讃偈』の内容を要約するならば、一日を、日没・初夜・中夜・後夜・農朝・日中と、六つ(六時)に区分して、一日六回、極楽間往生を願う行者の弥陀に対する帰命と往生の願いの偈文である。
「一切衆生を勧めて、西方極楽世界の阿弥陀仏国に生ぜんと願ぜしむる六時礼讃の偈」という文ではじまり、昭和新纂國訳大蔵経(宗典部第九巻二七七〜三二四頁)では四十八頁の分量である。
⑦まず、六時の最初である日没に礼拝する、一十九拝の内の第一偈を見てみる。
南無釈迦牟尼仏等一切三宝(第一行)
我今、稽首して礼したてまつる、廻願して無量寿国に往生せん(第二行)
とある。
第二偈は、
南無十方三世尽虚空遍法界微塵刹土一切三宝(第一行)
我今、稽首して礼したてまつる、廻願して無量寿国に往生せん(第二行)
第三の偈は、
南無西方極楽世界阿弥陀(第一行)
我今、稽首して礼したてまつる、廻願して無量寿国に往生せん(第二行)
第四の偈は、
南無西方極楽世界無量光仏(第一行)
願わくば諸の衆生と共に尽く帰命せん、故に我頂礼して彼の国に生ぜん(第二行)
以下、第五偈から第一十九偈までは、第三偈、第四偈の第一行と同じ様に阿弥陀に該当する偈が十二偈、観音、勢至、諸菩薩になっている偈が各一ある。第二行は文言は多少の異はあるが、「願共諸衆生 往生安楽国(無量寿国)」は各偈に共通している。
⑧次に六時の内、初夜に礼拝する二十四拝の第一偈は、
南無至心帰命礼西方阿弥陀仏(第一行)
弥陀の智願海は深広にして涯底無し(第二行)
名を聞いて往生せんと欲すれば、皆悉く彼の国に至る(第三行)
願わくば諸の衆生と共に、安楽国に往生せん(第四行)
であり、この第一行と第四行は、初夜礼拝の二十四拝の各偈ともに同じである。ただし、第一行の阿弥陀仏の個所に、観音、勢至、諸菩薩になっている偈が各一あるが、第四行は各偈ともに同じである。
⑨同じように、中夜の一十六拝の偈、後夜二十拝の偈、農朝二十一拝の偈、日中二十拝の偈にも、第一行と第四行は各偈ともに同じであり、ただし第一行の同異は初夜と同様である。
⑩筆者の数量集計の間違いもあるであろうから断定的なことは言えないが、右のことから、
日没=十九箇所
初夜=二十四箇所
中夜=一十六箇所
後夜=二十箇所
農朝=二十一箇所
日中=一十箇所
合計=百二十箇所
つまり、六時礼讃の法要の際にとなえるすべての礼拝偈に、「願共諸衆生 往生安楽国(無量寿国)」と同意の偈文が記述されている。
⑪善導が『往生礼讃偈』を作った目的は、浄土教の阿弥陀仏を信じて、「願わくば諸の衆生と共に、安楽国に往生せん」ということであるから、善導の「願共諸衆生 往生安楽国」を出典として、「縁りて起こる」=「共に生きる」=「ともいき」と主張することは、善導の主張とは異なる。
達意的解釈と言うべきものではなく、仏教の縁起説と一般語の共生を強引に結び付けた作為的こじつけ解釈と言ってしかるべきである。善導の文を典拠とするならば、「共に往生する」=「共に往く」=「ともいき」なのであって、「共生」ではなく「共往」とするべきであり、現代語の共生の義はない。
⑫椎尾説のような語呂合わせ的解釈は、我田引水で、「縁起」の概念を著しく偏った意味において使用するものであり、「縁起」の概念を誤解させる種にもなりかねないのではないか思う。
五、現代の多様世界を共に生きる(共生=きょうせい=ともいき)を法華経、日蓮聖人の「立正安國」に結ぶと
今日の世界の情勢、特にイデオロギー、宗教戦争と言われるくらい、同じイスラムでありながらイラクのシーア派とスンニ派の悲惨な争い、同じ共産主義でありながら中国、北朝鮮との差、ましてレバノン、イスラエル等、世界に争いの絶えない二一世紀の「共生」とは何を基準とするのか。
時間のかかる世界の平和であるが、今更ながら、佛教、とりわけ日蓮聖人が示された「立正安国論」の如く法華経こそ末法の良薬と残された「南無妙法蓮華経」の「お題目」をもって「共生」(きょうせい・ともいき)の根拠とせねばならないことを学べたと思う。そして日本、世界の佛教徒と共に「法華経」の教えを広め、一段と次元の高い「共生」を示さねばならぬ時代が来ている。
(以上、平成一八年九月六日〜七日開催「平成一八年度第三十九回中央教化研究会議」第一分科会、現宗研研究調査事項 現代と教学・・・共生とは)