現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
経文誤読の責任は誰にあるのか
経文誤読の責任は誰にあるのか
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 山 崎 斎 明
はじめに
駿河台大学教授・門馬幸夫氏による「男女共同参画と日本仏教」と題する講演(平成十七年度第十六回セミナー・現宗研主催・於日蓮宗宗務院)があった。門馬氏は宗教社会学の研究者で、差別戒名や部落差別問題の第一人者といわれており、法華経差別経説でも有名である。著書に『差別と穢れの宗教研究』(岩田書院一九九七年 以下「門馬書」と略す)がある。
門馬氏は同書で、
仏教そのものの考え方が本来的に、人を救うべきだということを主張していた。(中略) それが広まる過程で、意図されたものとは別の社会的機能を果たしながら広まったともいえるのである。仏教は民衆の救済をうたいながら、その実は逆機能的な差別的役割を果たした側面があったのである。(中略) 実は差別という意図せざる結果を生み出しつつ仏教は今日に至ったのではなく、仏教あるいはより限定して仏教の教学・経典(教典)そのものの中に差別や抑圧、排除が内包されていたのである。こうした点を確かめるためには、大越愛子・源淳子『性差別する仏教』(法蔵館)や袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版)、松本史朗『縁起と空』(大蔵出版)等の著書を少しでもひもとけば十分に理解できるだろう。問題の根は深かったのである。(門馬書二八—九頁)
と、述べている。
仏教の差別問題が、経典のレベルか、教祖のレベルか、解釈のレベルか、レベルの違いによって複雑な問題が生じるが、門馬氏は、法華経や善悪因果経等の諸経典、浄土系・禅系の和讃・切紙等をあげ、これらには差別思想が内在すると言う。
門馬氏は、仏教教団内の差別戒名・部落差別を実際に見聞した経験を踏まえ、「女性差別的経典記述」や「松本氏袴谷氏の本覚思想」を理論的裏づけとしているからだろうか、語調はとても強く自信に満ちている。原始仏典であるスッタニパータの「バラモンは行為によってバラモンなのである。農夫は行為によって農夫である」の経文に対して、「行為によって被差別部落民であるという解釈が成り立つ」(門馬書八三頁)と言い切っている。
原始仏典の経文をも容赦なく批判的解釈をする門馬氏の自信は、社会学的分析方法にもあると推測する。門馬氏はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『倫理』と略す)から「社会科学的、実証的に、深い衝撃を以て影響を受けた」ことを告白している。ヴェーバーが「プロテスタント教義の世俗内的禁欲が必要不可欠な核として資本主義の精神は生まれた」(要旨)と主張したように、門馬氏は『倫理』(注1)と似た論法で「仏教は民衆の救済をうたう仏教経典そのものの中に差別思想・差別論理が内在し逆機能的な差別的役割を果たした」と。つまり、「仏典そのものに差別思想が内在している」と言うのである。
総じて思想とは、仏教思想に限らず、キリスト教思想も、イスラム思想も、マルクス共産思想も、時代や環境とともに、多種多様な解釈が生まれ、本来の思想とは大きく変容しながら広がる場合が多い。
大乗非仏説を前提としても千数百年以上前に存在した経典を、すぐさま日本仏教の差別現象と、結びつける発想や方法には甚だ疑問があるが、門馬氏は、法華経勧発品の「善哉善哉 普賢汝能 護助是経 (略) 若復見受持。是経典者。出其過悪。若実若不実。此人現世。得白癩病」の経文を示して、
上の論理構造はしかし、まさに「恫喝」の論理構造であろう。『法華経』を「受持し読誦」する者は「安楽」を得、「利益」があるが、これをそしるものは「かくの如き罪の報い」として「当に世世に眼なかるべし」ものになるというのは、明白な「脅し」の論理である。『法華経』のこの箇所では「救済」と「恫喝」がワンセットなのである。この箇所は、むろん仏教における「業」の問題、「因果」のプロセスを当然の如く前提としたものであるが、『法華経』を受持せよ。さもなければその報い(「業」)によって「癩者」となり「身体障害者」となる、という論理構造であることは一目瞭然であろう。(門馬書三八頁)
と述べている。
法華経を信じる者にとっては、「一一文文是真佛、真佛説法利衆生、衆生皆己成佛道、故我頂礼法華経」というように、経文は「仏」すなわち「仏の慈悲そのもの」として受け止められて来た。法華経は如来出世の本懐であり、最為第一の御経として信仰されて来た。その法華経の経文に対して、門馬氏は「非道」の代名詞とも、あるいは「犯罪」の代名詞とも言える「恫喝」という語を使用して法華経批判をしている。法華経の経文記述は、「恫喝」ではなく「いましめ」という語を使用してしかるべきである。その理由は、宗教に限らず、教育というものは、良き方へ導くために、是を強調し非を強くいましめることは当然であるからである。宗教だけでなく思想・学問・技術・芸術においても、「正しい教え」「正しい方法」を自認する限り、正しくないことに親近することを強くいましめる。宗教が「正しい」ことを強調し「正しくない」ことをいましめることは当然である。
門馬氏は、このことを承知の上で、あえて「恫喝」という語を使用したのは、それだけの理由があったものと推測する。氏は次のように述べている。
現実の「癩者」や「障害者」は『法華経』の、すなわち仏教をそしった「業罰の者たち(注2)」という論理を当然の如く導き出すものとなろう。(門馬書三八頁)
「癩者」や「障害者」たちは、仏教・『法華経』を受持させるための道具として、恰好の視聴覚教育的な「見せしめ」として引き合いに出されている。(門馬書三九頁)
つまり、門馬氏は「勧発品の白癩や諸悪重病を、身体的癩や身体障害を意味すると認識し、法華経が癩者や身体障害者を見せしめにしている」、と見るから「恫喝」という語を使用して法華経批判をするものと思われる。
筆者は日蓮門下として門馬氏の主張には同意できない点が多々あり、次のことについて意見を述べる。
一 日蓮聖人の「勧発品の白癩」の解釈について
二 経典における女性差別的表現について
門馬氏は「日蓮の解釈は、あくまで日蓮の解釈であって、法華経の本意であるか否かは別問題だ」と言うかもしれない。だが、日蓮聖人がどのように、経文解釈をされたか確認することは、同じ法華経の経文も、読む人によって解釈は全く異なるということが良くわかる。経文は一つでも、解釈は幾通りもあるという事実は、問題の所在は、経典にあるのではなく、実は経典解釈に問題の核がある、ということを示している。
門馬氏は社会学的考察の過程で経典批判をしたのだから、教団や宗学者が門馬説に対して教学的解釈で批判をすることに、氏は議論がかみ合わないと思うかもしれない(門馬書八九頁)。
だが、結果的に門馬氏は法華経批判や仏教思想批判をしているのであり、氏の方が仏教者に投げかけた法華経批判である。もはや宗教社会学とは別に、「法華経や仏教思想が差別思想を内在するか否か」という思想的次元で論じられるべき問題である。
(注1)『倫理』の論述における文献引用について、羽入辰郎氏は「ヴェーバーは詐欺師である」と主張している。羽入説の是非をめぐって、現在、羽入-折原論争の最中である。『倫理』は発表当初から意味不明・難解と学者間でも言われていた論文で内容を説明するのは難しいが、門馬氏が『倫理』の要点を述べている。いわく「当事者の行為とは別の、意図せざる結果を生み出す、という場合が往々にして生ずる」と。
(注2)『曹洞宗報』平成十三年九月号通巻七九二号曹洞宗宗務庁発行、二一—三二頁
袴谷憲昭「差別事象を生み出した思想的背景に関する私見」(『本覚思想批判』所収)参照
一 日蓮聖人の「勧発品の白癩」の解釈について
日蓮聖人御遺文における「白癩・癩」の記述
ここでは日蓮聖人の勧発品の白癩に対する解釈を考える。
日蓮聖人御遺文の中にある「白癩」を日蓮宗電子聖典で検索した。「白癩」の語が記載されているのは、次の十五書である。
①災難興起由来 ②災難対治鈔 ③十法界明因果鈔 ④開目抄 ⑤妙法曼陀羅供養事 ⑥呵責謗法滅罪鈔 ⑦異体同心事 ⑧神国王御書 ⑨曽谷入道殿許御書 ⑩撰時抄 ⑪四信五品鈔 ⑫仏眼御書 ⑬兵衛志殿御書 ⑭上野殿御返事 ⑮身延山御書
「癩」の語が記載されてあるものは、次の二書である。
⑯佐渡御書 ⑰日妙聖人御書
(断簡・図は省略した。検索や集計は未熟さゆえに不備があるかもしれない。)
この十七書の中で、勧発品の「若復見受持。是経典者。出其過悪。若実若不実。此人現世。得白癩病[もしまたこの経典を受持する者を見て、その過悪を出さん。もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、この人現世に白癩の病を得ん](平楽寺版訓読三九八頁・岩波文庫版下三三四頁)」の経文を引用されている御書は、①、③、④、⑥、⑨、⑪、⑬、⑮の八書で、「白癩・癩」についての聖人の解釈が示唆されていると思われる御書は、④、⑤、⑥、⑦、⑨、⑩、⑪、⑭、の八書である。
仏教は心の病である虚妄を取り払い入涅槃することを目的とし、仏を医者に経典を薬にたとえて説いている。経には浅深がある。つまり薬には優劣があるから必然的に諸経で説く涅槃の内容も異なるが、虚妄を退治して入涅槃するという目的は、原始仏典から大乗仏典に至るまで一貫している。日蓮聖人は『富木入道殿御返事(治病抄)』(定遺一五一七頁)で、「身体の病は仏でなくても治るが、心の病は法華経でなくては治らない(大意)」と言われており、心の病を治すことが仏教の眼目であるということは疑いない。だから、経典に記載された「病」に関する文言は、総じて「身体の病」よりも「心の病」を指すものであると見ることは的外れではない。
このことを念頭にして、まず、『撰時抄』を見よう。
釈尊は重て無虚妄の舌を色究竟に付させ給て、後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・龍神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。(定遺一〇一七頁)
この御文は、「上行菩薩」を医者に、「妙法蓮華経の五字」を薬に、「謗法一闡提の白癩病の輩」を病人に、たとえて述べている。この「謗法一闡提の白癩病」の「白癩病」は身体的癩病を意味しているのではなく、「謗法一闡提」を指して「白癩病」と言われている。このような表現は、『妙法曼陀羅供養事』や『呵責謗法滅罪鈔』にもある。
女人よりも男子の科はをゝく、男子よりも尼のとがは重し。尼よりも僧の科はをゝく、破戒の僧よりも持戒の法師のとがは重し。持戒の僧よりも智者の科はをもかるべし。此等は癩病の中の白癩病、白癩病の中の大白癩病なり。末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬を以てか可治かんがへ候へば、云々。(『妙法曼陀羅供養事』定遺七〇〇頁)
謗法は白癩病の如し。始は緩に後漸漸に大事也。謗法の者は多は無間地獄に生じ、少しは六道に生を受く。人間に生ずる時は貧窮下賎等、白癩病等と見えたり。日蓮は法華経の明鏡をもて自身に引向へたるに、都てくもりなし。過去の謗法我身にある事疑なし。此罪を今生に消さずば、未来争か地獄の苦をば免るべき。(『呵責謗法滅罪鈔』定遺七八〇頁)
前者は、女人より男子、男子よりも尼、尼よりも僧、破戒僧よりも持戒僧、持戒僧よりも智者は罪が深い「大白癩病」であるとして、この病にはどのような大医者・大良薬で治るかと言われており、大意は『撰時抄』と同じである。後者は「謗法は白癩病の如し」とある。
『四信五品鈔』には、
経(勧発品)に云く、「もしまたこの経典を受持する者を見て、その過悪を出さん、もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、この人現世に白癩の病を得ん、乃至諸悪重病あるべし」。また云く、「当に世世に眼なかるべし」等云云。明心と円智とは現に白癩を得、道阿弥は無眼の者と成ぬ。国中の疫病は頭破七分なり。罰を以て徳を推するに、我門人等は「福過十号」疑いなき者なり。(定遺一二九九頁)
ここでは、勧発品の経文を示し、明心と円智は白癩に道阿弥は無眼となった、と言われている。現実に明心と円智が身体的癩に、道阿弥が身体的に盲目になったのか、この文中では断定できないが、先の『撰時抄』を念頭に、次の御文を見ると、身体的癩病や盲目のことではなく「謗法」を意味しているということが推測される。
阿闍世王の仏に帰して白癩をや(治)め、四十年の寿をのべ。(『異体同心事』定遺八三〇)
阿闍世王父をころせしかば白癩病人となりにき。(『上野殿御返事』定遺一七四四頁)
阿闍世王の如く即身に白癩病をもつきぬべかりしが、四十二年と申せしに法華経を説給て。(『同』定遺一七四五頁)
阿闍世王が提婆達多にそそのかされて釈尊に敵対し「悪瘡」が身に出て無間地獄に墮ち、後に釈尊に心服随従して病は快癒した、ということは多くの御遺文にある。この「阿闍世王の悪瘡」は涅槃経の引用で、これらの御文の内容から察すると、阿闍世王の悪瘡や白癩病はともに「誹謗正法」を意味していると思われる。
太古以来、十九世紀まで、ハンセン(一八四一〜一九一二)が癩菌を発見するまでハンセン病は治癒できる病気とは思われていなかった。もし、「癩病は治癒できる病気ではない」と思われていたならば、「仏に帰して白癩をや(治)め」という「治め」という表現は多いに矛盾する。この御文の「白癩病」は「ハンセン病」ではないこと、つまりを「誹謗正法」を示していると言えるのではないだろうか。
もしそうであるならば、明心・円智の白癩や道阿弥の無眼は、身体的癩病や盲目ではなく「謗法」を意味していると言える。
『四信五品鈔』の「国中の疫病は頭破七分なり。罰を以て徳を推するに、我門人等は「福過十号」疑いなき者なり」の御文は、法華誹謗=頭破七分という罰をもって徳を考えると日蓮が門人の即身成仏は疑いないというもので、「頭破七分(注1)」を「罰」と言われている。
『曽谷入道殿許御書』には、
又云く「この人現世に白癩の病を得ん」。又云く「頭破れて七分と作る」。また第二巻に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん、乃至その人命終して阿鼻獄に入らん」云云。第五の巻に云く「もし人悪み罵らば口すなわち閉塞せん」云云。伝教大師の云く「讃する者は福を安明に積み、謗ずる者は罪を無間に開く」等云云。(定遺九一一頁)
とある。
ここでは、「得白癩病(勧発品)」と「頭破七分(陀羅尼品)」と「若人不信○入阿鼻獄(譬諭品)」の経文がすべて「誹謗正法」を示唆しながら記述されている。『災難興起由来』(定遺一六〇)でも「得白癩病」と「若人不信○入阿鼻獄」が、『開目抄』では「得白癩病」と「頭破七分」が記され「誹謗正法」を意味するものとして説かれている。これらのことから、「得白癩病」と「頭破作七分」と「若人不信 乃至 入阿鼻獄」は不可分であることが分かる。
次に、『開目抄』を見よう。
ある人云く、当世の三類はほぼあるににたり、ただし法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり。この経に云く「天の諸の童子以て給使をなさん。刀杖も加えず、毒も害すること能わず」。また云く「もし人悪罵(おめ)すれば口則ち閉塞す」等。また云く「現世には安隠にして後には善処に生れん」等云云。また「頭破れて七分と作ること阿梨樹の枝のごとくならん」。また云く「また現世においてその福報を得ん」等。また云く「もしまたこの経典を受持する者を見て、その過悪を出さん。もしは実にもあれ、もしは不実にもあれ、この人現世に白癩の病を得ん等云云。」(定遺五九九頁)
御文を要約すると、「日蓮さんあなたが法華経の行者であるならば、経文と大きく相違している。経文には「頭破作七分」「口則閉塞(安楽行品)」「若実若不実此人現世得白癩病等」とあるのに、あなたを謗る人たちは経文のようにはなっていない」というものである。
経文の文字面どおりに「白癩」「頭破作七分」「口則閉塞」を身体的癩病や頭破等と解釈すると、日蓮聖人を謗っても、現実に謗る者が癩や頭破作七分にならないから、聖人は法華経の行者ではないのではないか、という問いである。現実に法華誹謗が原因で身体的癩病等になるならば、このような問いがあるはずがない。聖人は釈尊・天台・伝教・御自身を三国四師と言われているが、法華経を流布させた三国四師を実際に謗っても、身体的癩病や頭破七分になった事実がないから、このような問いを設けるのである。この御文は法華経を誹謗したからといって現実にハンセン病になっていないこと示している。勧発品の白癩はハンセン病を意味するものではなく、白癩は謗法一闡提を意味しているならば、経文と現実が合致する。
もともと、仏教は心の病を治す教えである(注3)。経文に「入阿鼻獄」「得白癩病」「頭破七分」とあるが、経文が示す地獄とは、「心の病い」=「謗法一闡提」を本義としている。もし、日蓮聖人が、法華誹謗の業罰で身体的癩病の堕地獄になると解釈していたとすると、『撰時抄』の
彼の天台座主よりも南無妙法蓮華経と唱る癩人とはなるべし。(定遺一〇〇九頁)
の文と矛盾する。この御文の意味は「天台座主より、末法流布の題目を唱える癩人とはなるべし」というものである。もし、勧発品の白癩がハンセン病を指し、法華誹謗で癩人になるならば、法華経を受持して癩人となれ、というのは明らかに矛盾である。この御文は、法華誹謗の罪と法華受持の功徳を相対比較して説くものであり、癩人を差別したり排除したりする意味は全くない。「癩人」をたとえとしていることに対して「差別だ」と指摘する人がいるかもしれないが、約七五〇年前の日蓮聖人には癩人を差別し排除する意識が全くなかったという事実を認識してしかるべきではあるまいか。
聖人に社会的差別観念がなかったということは、「日蓮は日本国東夷東条安房国海辺の旃陀羅が子也」(『佐渡御勘気鈔』定遺五一一頁)の御文からもうかがわれる。御遺文の「旃陀羅」記述に対してはいろいろ説がある。社会的身分のコンプレックスの裏返しという説、聖人は旃陀羅の出自でなく皇胤であるという説もある。だが、聖人の価値観は、身分・貧富・賢愚・老若男女等の差別観念はなかった。朝廷や幕府を「ただ嶋の長」(定遺四四八頁)、「源平二家と申て王の門守の犬二疋」(定遺一七〇八頁)と喝破しており、聖人には身分に対する優劣観念はなかったと拝察する。恩ある領家の尼に本尊授与を拒否した例(定遺八六六-八六九頁)は、世俗の恩や義理の束縛とは無関係なことを示している。『佐渡御書』の「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこは(剛)し」(定遺六一八頁)という文は、世間や弟子檀那がどう思おうと我が道を行く法華経の行者の姿を示している。われわれ凡夫が日々あくせくする社会的価値観や常識や感情などという世間のいろいろに対して日蓮聖人は、ほとんど無視もしくは軽視の観がある。さりとて、安国論提出や頼基陳情のように、世俗的問題に介入する場合は細心の注意で対応されている。このような事例からすると、日蓮聖人には、世間的差別の偏見などというものはなく、法華経の行者として偏頗なき価値観で世俗を見られていたと思われ、要するに、差別イデオロギーや差別アレルギーのようなものは皆無であったと思われる。
勧発品「得白癩病」と、譬諭品「若人不信 (乃至) 其人命終 入阿鼻獄」の関係
譬諭品の「若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 (乃至) 其人命終 入阿鼻獄」の経文は、「法華経誹謗すなわち謗法」で法華誹謗を戒める根拠である。これは、日蓮教学・法華経教学の基本である。この経文に依って浄土宗・華厳宗・真言宗・法相宗等の諸宗の依経は方便権教であるから爾前無得道の四箇格言が主張される。「若人不信 毀謗此経 乃至 其人命終 入阿鼻獄」を日蓮聖人のお言葉で表現すれば、
善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。(『開目抄』定遺六〇一頁)
ということになる。一仏乗の教えからすると、法華経以外では成仏涅槃は成就しないから、法華誹謗を徹底的に制止する。
日蓮聖人遺文集全編において説かれていることは、「法華経誹謗を戒め制止し、法華経受持を説く」という一言に尽きる。釈尊は成仏のために悪知識を折伏し、法華経の受持者は自他の成仏のために悪知識を呵責する。行者にとって法華経受得という行為は如説修行であると同時に即身成仏のふるまいを意味する。勧発品の「若実若不実」の経文を示し解説された御文が『松野殿御返事』にある。
此十四誹、謗、は在家出家に亘るべし。略 不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持ば必成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立させ給し也。略 此経の四巻には若は在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持説者を一言にても毀る事あらば其罪多き事、釈迦仏を一劫の間、直に毀り奉る罪には勝たりと見へたり。或は若、実、若、不、実、とも説れたり。以、之、思、之、、忘、て、も、法、華、経、を、持、つ、者、を、ば、、互、に、毀、る、べ、か、ら、ざ、る、歟、。其、故、は、法、華、経、を、持、つ、者、は、必、皆、仏、也、。仏、を、毀、て、は、罪、を、得、也、。加様に心得て唱る題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし。釈云、阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し、毘盧身土は凡下の一念をこえず云云。十四誹、謗、の心は文に任て推量あるべし。(定遺一二六六頁)
注目すべきは傍点部分の記述である。御文の意味は、「これをもって思うに、忘ても法華経を持つ者を、お互に毀ってはいけない。理由は、法華経を持つ者は即身成仏しているのであるから必ず皆仏である。法華経を受持して成仏した行者を毀るということは、釈尊と如我等無異の仏を毀るということになり、罪を得ることになる。このように心得て唱る題目の功徳は釈尊の御功徳と等しいので、即身成仏は疑いないのである。妙楽の釈に、阿鼻の依正は仏の自身にあり、仏の依正も凡夫の一念にある。凡聖の一念に依正はあると無二無別を説く法華経を受持して即身成仏する。十四誹謗は譬諭品の経文を見て推量しなさい」と法華経受持の用心が説かれている。この御文は、次の御文に後続している。
但し聖人の唱させ給題目の功徳と、我等が唱へ申題目の功徳と、何程の多少候べきやと[云云]。更に勝劣あるべからず候。其故は愚者の持たる金も智者の持たる金も、愚者の然せる火も智者の然せる火も、其差別なき也。但、し、此、経、の、心、に、背、て、唱、へ、ば、其、差、別、有、べ、き、也、。(定遺一二六五頁)
右の御文は、日蓮門下では周知なので解説するまでもないが、仏智慧を「金」と「火」にたとえて、「愚者も智者もいかなる人も、法華経の本意に違背せず受持する(行為)ならば、以信代慧で仏智慧が自然譲与され即身成仏するので、その功徳は一切平等である」と「行為と功徳の平等」が明言されている。そして「法華経の心に背いて題目を唱えるならば、「若実若不実」の経文に該当する、ときつく戒められている。法華経の本意と合致しない唱題は「此人現世得白癩病」というのである。これでも明らかなように、法華経の本意に背くことは「此人現世得白癩病」すなわち「謗法」である。ここでは、「法華経の心に背かない行者を法華経の行者という」という定義が明示されている。至極もっともと言えるが、行者の言動の上辺だけで法華経受持であるか否かが判断されるのでなく、身口意三業の具備、ことに意業の重要性を説いている。法華経の本意を知らないと本当の法華経受持にはならないから、聖人はこのような質問をする松野殿を、「加様に法門を御尋候事、誠に後世を願せ給人歟。能聴是法者斯人亦復難とて、此経は正き仏の御使世に出ずんば、仏の御本意の如く説事難き上、此経のいはれを問尋て不審を明め、能信ずる者難かるべしと見えて候」(定遺一二六六頁)とお誉めになっている。ただ題目を唱えれば良いのではなく「仏の御本意、法華経の御本意に背かない」ということが重大なのである。法華経の本意に背くことは、法華経を捨てることになり、地獄の業になるから、このように戒められる。業の中心が三業の中の意業であることは『大智度論(巻第七十五)』にもある。いわく「業は身口業となり、思とは但だ意業にして、思は是れ真業なり。身口業は思のためのゆえに名づけて業となす」(国訳大蔵経論部第四巻一〇七頁)と。
なお、(注3)で、スッタニパータの業論について、(注4)で身口意三業について補足説明した。
以上、勧発品白癩の日蓮聖人の解釈の本義は「謗法・一闡提」であることを述べたが、このことを念頭にして、次に再度、御遺文における法華誹謗に関する表現を確認する。
日蓮聖人遺文における随自意・随他意の表現について
日蓮聖人は、
予が法門は四悉檀を心に懸て申なれば、強て成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用うべきか。『太田左衛門尉御返事』(定遺一四九六頁)
と言われている。
この御文の意味は「日蓮の説く法門は四悉檀を踏まえて説いているのであって、仏教の第一義の目的である成仏の理に強いて相違なければ、しばらくは世間普通の義を用いて説いている」というものである。御遺文中に「法華誹謗の業報」をつねに「謗法・一闡提」と表現しているか、というと必ずしもそうとは言えない。「形状醜陋」「衣服足らず」というような不遇な現状をさして過去の謗法の業と記述されている御文もある。このことについて言及しなければ、片手落ちのそしりを受けかねないのであえて述べる。
たとえば、『開目抄』では
般泥洹経に云く「(略)この諸の罪報は或は軽易せられ、或は形状醜陋、衣服足らず、飲食机疎、財を求むるに利あらず、貧賤の家・邪見の家に生まれ、或は王難に遭い、及び余の種種の人間の苦報あらん。現世に軽く受くるはこれ護法の功徳力に由るが故なり」等云云。この経文、日蓮が身にあたかも符契のごとし。狐疑の氷とけぬ。千万の難も由なし。一一の句を我が身にあわせん。「或は軽易せられ」等云云。法華経に云く「軽賤憎嫉」等云云。二十余年が間の軽慢せらる。「或は形状醜陋」。また云く「衣服足らず」。予が身なり。「飲食粗疎」。予が身なり。「財を求むるに利あらず」。予が身なり。「貧賤の家に生まれ」。予が身なり。「或は王難に遭い」等。(定遺六〇一頁)
このような表現は、過去世の法華誹謗と現世の不遇を結び付けたものである、と一応は見ることができる。
しかし、仏教は意業を真業とする教えであり、日蓮聖人は空仮中を領解されたことを思うと、「いわゆる悪しき業論」で経文や現実を認識されたのではないと思わざるをえないのである。(注5)
提婆達多や善星比丘の今生における誹謗正法は、過去現在の謗法の業報で、もし、勧発品の白癩が身体的癩病を意味するならば、提婆達多や善星比丘が現世に身体的癩病にならなければ経文と符合しない。
法華経を「皆是真実」の経典と信じて、日蓮聖人遺文を指南にして読むと、前述したように勧発品の白癩はハンセン病ではなく謗法を意味するものであると見ると、一見矛盾するような経文や御文は整合する。法華誹謗の業罰で現世にハンセン病等の報いを受けるという読みは、仏教本来の業論とも矛盾する。仏教思想を念頭にするならば、このような誤読が生まれる余地はない。
勧発品の記述が、差別を示唆する論理が「ある」ならば、恫喝と救済の論理で差別的役割を果たしたとする門馬氏の言い分にも一理あるかもしれない。しかし、経文の「白癩」は現実の「ハンセン病」でなく「謗法・一闡提」の意味であるにもかかわらず、一番肝心なキーワードの概念を誤って、経文を解釈した場合、その責任は経文にあるのか。
日蓮聖人は言われている。
人、路(みち)つくる。路に迷ふ者あり。作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう。病人嫌いて服せずして死せば、良医の失(とが)となるか。(『撰時抄』(定遺一〇〇四頁)
と。
法華経は日蓮宗だけでなく他宗派も尊重した経典であるから、勧発品の白癩の解釈は、宗派や教団や門流によって異なった解釈があるだろう。なかには「白癩」を「身体的癩」と認識し、身体的癩を業罰の報いと解釈し差別切紙が存在した教団も存在するという。
われわれは、仏教教団が行った過去の負の遺産を宗派のいかんを問わず共有し、このような差別行為が再び起こらないように、仏教の名を汚した先人の解釈や行為を真摯に見つめ、仏道における正しい義をつねに求め精進しなければならない。
だが、仏教教団の誤読や非道の責任は、すなわち、法華経の責任ではない。
(注1)「頭破七分」について。
「頭破作七分」と「得白癩病」の経文の意味する義は不可分なので、ここで「頭破」の意味について述べる。
陀羅尼品に、十羅刹女は法華説法者を悩乱させる者を「頭破作七分 如阿梨樹枝」とある。
この経文を、「為政者や天神らが、それぞれの威力によって邪法の徒に懲罰を加える。(略)折伏の直接的な実行は、神や為政者が担当する」(『現代宗教研究四〇号』二五頁参照)と解釈する説がある。これは摂受折伏の折伏を武力暴力という誤読に基づく見解で誤りである。
もともと、仏教は無我や無自性空を本義として説く教えであり、懲罰を下すがごとき人格を所有するような天神は空なるがゆえに存在しない。
日蓮聖人は御遺文で無我・無自性空をあまり説かれてなく、常一主宰の非存在についての言及はすこぶる少ない。しかし、法華経には「如来座者 一切法空是」と一切法空を説く。龍樹は無自性空・一切法畢竟空を説き、天台はこの龍樹学説を踏んで三大部を説く。『摩訶止観』には「龍樹師に帰命したてまつる」(岩波文庫・上二二頁)とあり、「因縁所生法等」の中論偈を提示して即空即仮即中を説いている(岩波文庫上二二頁、四四頁、三五〇頁)。天台は、龍樹の八不や畢竟空を領解した上で、即空即仮即中を説いた。ならば、日蓮聖人も天台と同じように龍樹の八不や空を領解した上で即空即仮即中の義によって法華経を読解されたと見ることは当然である。(補足参照)
無我や空や空仮中を念頭にして、「頭破作七分 如阿梨樹枝」いう経文記述を考えてみる。
法華誹謗者は法華誹謗の時点で悪知識に隷属し正法を謗る。この「頭脳が錯乱している状態」を「頭破作七分如阿梨樹枝」と表現したものであると思われる。ここで言う「頭脳の錯乱」とは、認識力や判断力の欠如とか、現代の痴呆・精神病をいうのではなく、因果律を謗るという「因果撥無」つまり「謗法」「一闡提」の状態のことを意味し、「頭破作七分 如阿梨樹枝」は「因果撥無」の形容であると見ると経文の意味が明確になり理が通る。「因果撥無」という混迷した道理を主張することは、「悪知識」の次元で自説を主張することであるから必然的に法華経の説法者を悩ますことになる。外道の神のような天神の神罰懲罰と関係なく、正法誹謗は「因果撥無」「謗法」であるから、その時点で「即身謗法」「即身堕地獄」である。天神の神罰懲罰を介在することなく、「法華経誹謗→即身堕獄」「法華経受持→即身成仏」であるならば、仏教の自業自得、無自性空の義とも整合する。このように「頭破作七分」とは「謗法」「一闡提」「因果撥無」の状態のことを意味すると考える。
(補足)次章で、空思想に触れるので以下補足する。
日蓮聖人は天台と同じように龍樹を領解されたのであるから、『開目抄』の次の御文、「月氏の外道。三目八臂摩醯首羅天・毘紐天、此二天をば一切衆生の慈父悲母、又天尊主君と号す。(略)其所説の法門の極理、或は因中有果、或因中無果、或因中亦有果亦無果等[云云]。此外道の極理なり(定遺五三七頁)」の「摩醯首羅天(1)」や「毘紐天(2)」は、龍樹『中論』の義を領解して言われたものであると見るべきである。
『中論』青目釈「帰敬序」の後に、「問うていわく、何故に此の論(中論)を造るや。答えていわく、有る人言う、万物は大自在天(1)より生ずと。有るが言う、毘紐天(2)より生ずと。・・・是の如き謬(あやま)りありて、無因、邪因、断常等の邪見に堕し、種々に我我所とを説いて正法を知らず。(略)大乗の法を以って因縁の相を説き給う。いわゆる一切法は不生不滅、不一不異等、畢竟空にして無所有なり云々」(国訳一切経・中観部一・五七-八頁)と。
(1)「摩醯首羅天」シヴァ神の異名。大自在天。はじめは梵天の下位、後には梵天=ブラフマンと等位やがて上位となる云々。(宇井伯寿『仏教辞典』参照)(2)「毘紐天」ビシュヌ神の異名
「外道は邪に諸法は自在天より生ずという。云々」(『法華玄義』大正蔵六九八頁下・国訳一切経七二頁)
(注2)仏教は心の病を治す教えであるから、勧発品の白癩病や諸悪重病だけでなく、薬王品の「諸余怨敵。皆悉摧滅。乃至、病之良薬。若人有病。得聞是経。病即消滅。不老不死」の「病」も、身体的病を意味するものではなく、無明煩悩の心の病を本義と見るべきである。無明煩悩の病が対治されるから、煩悩・業・苦の三道が法身・般若・解脱の三徳と転じ転倒の病が完治する。
「不老不死」について天台は「得聞是経不老不死とは、此れ須らく観もて解すべし。不老は是れ楽、不死は是れ常なり。この経を聞いて常楽の解を得ん。坦然として懐にあり、畏忌する所なし」(『法華文句』大正蔵一四四頁上・国訳一切経四七九頁)と述べている。また「不老不死」は「薩婆若海に流入すること」と述べ「成仏涅槃」を示唆している。「病は心の病」であるという認識のもとに読むと、「諸余怨敵 皆悉摧滅」の怨敵は、無明煩悩を怨敵と表現していると認識できる。もし文字面を直訳して「法華経の行者を阻むものは怨敵として武力暴力で皆悉摧滅してもよい」と解釈するならば、仏教の慈悲を忘却した誤読で仏教思想から大きく逸脱した読みとなる。
(注3)門馬氏は、スッタニパータの「バラモンは行為によってバラモンなのである。農夫は行為によって農夫である」(岩波文庫『ブッダのことば』一四〇—一頁)の経文を、「行為によって被差別部落民であるという解釈が成り立つ」(『差別と穢れの宗教研究』八三頁)と主張している。門馬氏は「被差別部落民という行為がある」と認識しているようだが、そのような行為はありえない。仏教では意思を行為とみなすので意業というのであり、意志と業は不可分である。氏は行為と社会的境遇を同一視しているのだろうか。
スッタニパータには、
一三六・一四二 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。(『ブッダのことば』同三五—六頁)
四六二 生まれを問うことなかれ。行いを問え。火はあらゆる薪から生ずる。賎しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎しむならば、高貴の人となる。(同九五頁)
六五〇 生まれによってバラモンとなるのではない。生まれによってバラモンならざる者となるのでもない。「行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。(同一四〇—一頁)
と述べている。この経文のすぐ後には、バラモン、農夫、職人、商人、傭(やとい)人、盗賊、武士、司祭者、王をあげて「行為によってバラモン、農夫、(乃至)、王となる」と述べ、次のように続く。
六五三 賢者はこのようにこの行為をあるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。(同一四一頁)
六五四 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。-進み行く車がくさびに結ばれているように。(同一四一頁)
六五五 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、-これによってバラモンとなる。これが最上のバラモンの境地である。(同一四一頁)
このように、スッタニパータでは、生まれや境遇で貴い賤しいと説いているのではなく、王家に生まれようと旃陀羅に生まれようと、行為が貴いならばその旃陀羅は貴いのであり、行為が賤しいならばその王は賤しい、と説いている。その行為が、貴いか・賤しいか、清らかか・汚れているかによってその人が、貴い人・賤しい人、清らかな人・汚れている人となるというのである。行為・業を如実に見ることは、縁起を見ることであり、社会的境遇や身分や職業等のうわべの現象を見て判断するのではなく、正しく法や縁起を見ること。そして、「行為(業)とその報いとを熟知し清らかな境地」を目指すことを説いている。
つまり、バラモン、農夫、職人、商人、傭(やとい)人、盗賊、武士、司祭者、王の社会的身分や境遇を肯定し行為(業)の報いとして説いているものでは決してない。もともと原始仏典は四姓平等を説き、差別思想など全くないことを旗印とする。生まれや境遇や社会的地位などで、貴い賤しい、とか、善業の報い・悪業の報いというように見ることは錯誤である。「行為によって賤しい人ともなり、行為によって貴い人ともなる」という見方が正見なのである。こう説くのが仏教であり、スッタニパータと「煩悩業苦の三道を法身般若解脱の三徳と転ずる」という法華経の教えは現実肯定の運命論ではなく、「行為論」すなわち、「業論」を説いている。
要するに、社会的に差別される立場の境遇でも、貴い行為をすれば、貴い人なのである。スッタニパータの経文を、「行為によって被差別部落民であるという解釈が成り立つ」という門馬氏の解釈は、仏教思想や教理を全く無視したもので、経文の意味をねじ曲げた読みである。
(注4)身口意三業は不可分だが、業を理解するために、御遺文や『大智度論』にしたがって、意業について述べる。我々の世界には「不当に差別する」という現実がある。これは我々の迷妄による所産である。迷妄は「煩悩」「惑」「垢」であり、凡夫は転倒しているので、意業もまた転倒している。凡夫の意業は多くの場合、正見ではなく邪見すなわち迷妄から生ずるものであるから、凡夫が自分の境遇等々と、縁に触れた現象事象に対して、如実に正しい智慧で縁起の理法を見ることはなく、邪知で見ることが多い。その煩悩の内容程度によって業苦の程度が決まる。無明をもととして意業即ち三業は車輪が回転するように連続する、というのが仏教の業報輪廻である。つまり、差別行為を受けたとしても、その人がどのように受け止め、その人がどのような行為をするか、その行為がその人の自業となる。差別行為を受けてその人がどのように見聞覚知するか、その意業がその人の業(行為)となる。差別行為をする人も同様に、その意業が三業(行為)でありその人の自業である。
意業即身口意三業の迷妄の垢を細分すれば、その数、無量であり、その意業のもとは無明煩悩である。煩悩業苦の三業は不可分であり複雑であるが、仏教では無量の煩悩業苦を、菩薩乃至餓鬼地獄の九界に大別する。仏教とは、菩薩界以下地獄界に至る九界の三業を対治し九界の業の束縛から出離し成仏することを目的とする。
このような自業自得説は仏教に一貫している。「大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ぬ。これは力の及ぶほど救わんと、をぼせども自業自得果のへん(辺)は救いがたし」(『報恩抄』定遺一二三九頁)とあるように、どんなに仏が速成就仏身を念じても、良薬を飲んで病を治す行為を行者がしなければ邪見は対治できない。
(注5)聖人は「当世日本国に第一に富者日蓮なるべし。」(『開目抄』定遺五八九頁)と言われている。同じ開目抄にご自身に対する表現に「貧・富」の二通りがあり、一見矛盾しているように見えるが、法華経を領解され身口意で色読されたという上で考えると「当世日本国に第一に富者日蓮なるべし」というお言葉に聖人の信仰と領解が示されていると思われる。それは法華経の経文とも符号するからである。勧発品には「是人少欲知足」「是人不復貪著」(平楽寺版訓読・三八八頁)とある。少欲知足にして物に貪著しないならば必然的に福者であり富者である。物を豊富に所有していても限りなくむさぼる者は貧者である。
聖人が法華経を身口意で読まれた上で述べたものであると見ると、経文の「少欲知足」「不復貪著」とも矛盾しない。「予が法門は四悉檀を心に懸て申なれば、強て成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用うべきか(定遺一四九六頁)」の御文を念頭にして読むと、一見、相反するような御文も不思議に整合する。
聖人は「当世日本国に第一に富者日蓮なるべし」とか、朝廷や源氏平家を「ただ嶋の長」(定遺四四八頁)「王の門守の犬二疋」(定遺一七〇八頁)などという表現をされるが、このような聖人のお言葉は多くの弟子檀那にとつて悪口雑言くらいにしか思えなかったと思われる。「日蓮御房は師匠にてはおはせども余にこは(剛)し」(定遺六一八頁)は直弟子直檀那の多くが聖人の本意をいかに理解していなかったかを示している。『法門可被申様之事』には、「ただ嶋の長なるべし。長なんどにつかへん者どもに召されたり、上なんどかく上、面目なんど申は、かたかたせんするところ、日蓮をいやしみてかけるか。」(定遺四四八頁)とある。ここでは法器といわれていた学力優秀な三位房を「日蓮をいやしみてかけるか」ときびしく叱責されている。なぜ叱るかというと、三位房が聖人の本意、聖人の価値を正しく理解していなかったと聖人が判断されたからであると思われる。
それでは、聖人は「ただ嶋の長」というようなことをいつも言われているかというと、一方では、その嶋の長の先祖をまつる伊勢神宮の御厨が故郷にあることを自慢するかのように語る御文(定遺一六七二頁)もある。また、身延期の御遺文は実に堂々とし格調高い御遺文が多いが、その身延期の御遺文の中には気弱な表現もある。これらの御文をもって、日蓮聖人には二面性あり感情が交錯しておられたと見る向きもある。しかし、凡夫僧日蓮ならばいざしらず、龍樹・天台・法華経を領解され法華経を色心二法で読まれたという上で見るならば、このような相反する表現は、聖人の本意と聖人の境遇に相応させて「しばらくは世間普通の義」で述べたという、いわゆる随自意・随他意の二つの表現があると思わざるをえないのである。
いつの時代でも、世間の常識や人々の観念を無視して言語表現はできない。対告衆の知的レベルや当時の常識や習慣を踏まえて説くのは当然である。釈尊が成道後、説法するか否かを悩まれたと経典にあるが、仏智慧をもってしても、難解な法を説いて伝達することがいかに困難であるかを示している。
当時の仏弟子は舎利弗を筆頭にアートマン肯定の六師外道の弟子であった。ならば、対告衆の知的レベルや当時の世間の常識や固定観念を踏まえながら、かつその常識や観念を利用して言語表現をしたと見ることは当然である。
だから、スッタニパータの経文に、アートマンを肯定するかのごとき表現があっても、また、あるいはバラモンを肯定するかのごとき表現があっても、その言語表現そのものから、アートマンを肯定している、と断定することは、きわめて危険である。松本史朗氏は、「スッタニパータは仏教思想を説くものではなく、ジャイナ教的な思想を説く苦行者文学の一種である」(松本史朗稿『世界像の形成』所収・「仏教の批判的考察」一四一頁・東京大学出版会 一九九四年)と述べている。松本氏によると、中村元博士は、「初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している」(同書一五四頁)という。文章から見た見解という意味では、そう言えるかもしれないが、文章表現を根拠にしてスッタニパータが説く思想を指してそのように結論づけることは多いに問題がある。スッタニパータ一一一九偈には、
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、=cd=b821死の王=cd=b926は見ることがない。(『ブッダのことば』二三六頁)
とあり、仏教だけが説く空の教えが説かれている。松本氏等の説に対して疑義を呈するのは、筆者が天台教学や日蓮教学を踏襲するからである。
天台によると、阿含経は蔵通別円の四教では蔵教であり、但空の義を説く。大乗の体空ではなく小乗の析空ではあっても、空を説くということは、恒久的実体としてのアートマン(我)を否定する経典であることを意味する。天台智顗の五時八教説からすると、たとえ、スッタニパータや法句経等の阿含経典に一見、アートマン(我)を肯定するような語や表現があっても、仏教は空を説く。その語の意味する義は、阿含経は蔵教で、但だ生滅の四諦十二因縁を説くものであり、五時の阿含部とみるというものである。依義不依語は釈尊の遺訓である。
天台の五時八教は大乗仏説の前、提、で説くので、仏教学会では「五時八教説は、旧態依然としたもので学術的ではない」という見解が大勢らしい。大乗非仏説を是とし大前提とするならば、天台教学はそれだけで無条件に非学術的なのだろう。だが、宇井伯寿博士はこう述べている。「法華玄義は天台大師が法華経に説かれた仏陀の内証の妙理を徹悟して、その智解を縦横に説述したもので、仏典中の最も優れたものの一つ」(『仏教汎論』六三一頁 岩波書店)と。
天台の法華経教学は、天台が義に随って経典といわれるものを仏説という前、提、で吟味し分類し再構成した体系的論理教学である。天台の判定は「義」という道理に基づいて一切経を整理した学説であるから、現代の大乗非仏説を前提とする学説より、はるかに論理的であると言える。
以上、長々と述べた理由は、一切の経論釈に四悉檀がある。仏教の第一義と世間普通の義とを混同してはならないし、仏教の第一義は義に随って判定されるべきであるということを述べるためである。
二 経典における女性差別的表現について
仏典における女性差別表現に関する是非の論は多くあり、最も過激な経典批判の主張は、「ブッダ釈尊自身が女性を恐怖の対象とし修行の敵とみなしている。女人五障説は、女性性の排除、女性の無力化を示す(要旨)」というものである。差別表現の代表例として、法華経提婆品の変成男子や、無量寿経の第三十五願をあげている。
提婆品の「その女根を消滅して男根を現し」(岩波文庫版・中二二四頁)という記述は、経典批判者が特にこだわるところで、女性蔑視の象徴的表現として攻撃の的になっている。
大乗仏教発展説(大乗非仏説)を前提にすると、仏教本来の教えは平等であるが、大乗経典が創作される過程で、釈尊が神格化されるようになり、女人五障説や変成男子の差別思想が経典に記述されるようになった、という説が一般的見解のようである。女人五障説や変成男子説を、男女差別を肯定して説くものと見る学者は経典批判を主張し、反対に、男女差別を否定するものと見る学者は、経典は差別思想を説くものではないと主張する。
多種多様の説の中で、藤田宏達博士による考察(国訳一切経『月報・三蔵・二』所収「転成男子の思想(一)(二)」大東出版社、以下「藤田書」と略す)は、男女差別否定説で多くの経典を示し比較検討しており、変成男子説を総括した一つの見方を示すものと思われる。詳しくは藤田書参照のこと。
五時八教を前提とした変成男子解釈について
筆者は「変成男子説は巧みに平等・空思想を説いたものである(藤田書一六−七頁)」という藤田説の結論に同意であるが、日蓮教学を踏む立場なので藤田説と差異がある。そこで、藤田氏の文献学的考察を念頭にして、天台の五時説に立脚して私見を述べる。
周知のように、天台の五時八教は大乗仏説という前提で義によって諸経の浅深を判定する。仏教は空思想を基本としている。天台も空思想を踏まえ即空即仮即中を主張する。だから天台教学においては、提婆品の変成男子が空の義を踏まえて解釈されるのは当然である。
法華最為第一の立場から見ると、法華経を説くために、阿含経や権大乗の諸経が説かれるのであり、法華経を含めた諸経典において、変成男子と空思想との二つの記述のうち、どちらが仏教思想の本義の思想であるかというと、空思想であることは疑いない。「権大乗の諸経に、変成男子と空思想の記述がなされている(藤田書十一頁)」という事実は、変成男子は一見「空観と抵触する(藤田書十一頁)」表現のようであっても、双方は一見矛盾するようで実は矛盾は無いと見るべきである。諸経典において双方が併記されている事実は、一つの教えを四悉檀の義をもって説いたものであると思われる。
では、一つの教えとは何を意味するのか。(一)空や中道を説くため、(二)女身での成仏を説くため、であると思われる。一つの教えと言いながら二つの理由を述べたが、双方は不可分であるが、釈尊の本意は、あくまで「速成就仏身」である。だから、空仮中の教理教学を説き流布させることを目的としていることは事実であるが、この教えを説き流布させるのは、空仮中の教えという薬で煩悩業苦の病を完治させることであるから、女身でも成仏できるということを説くことを目的としていると言える。
『大智度論』には、変成男子について次のような興味深い記述がある。
大迦葉、復(また)言わく、「仏の陰蔵相を般涅槃の後、以って女人に示す。是れ何れも恥づべなり。是れ汝が突吉羅罪なり。」
阿難言わく、「爾の時、我思惟す。若し諸の女人、仏の陰蔵の相を見ば、便(すなわ)ち、自ら女人の形を羞恥して、男子の身を得、仏の相を修行し、福徳の根を種(う)えんことを欲せんと。是(これ)を以っての故に、我、女人に示せり。無恥にして故(ことさら)に破戒を為(な)せしには非ず」(『国訳大蔵経論部第一巻』五二頁)
これは、仏典結集の際、阿羅漢果を得ていない阿難に摩訶迦葉が「仏の陰蔵相を釈尊の入涅槃後に女人に見せたことに対して破戒だ」と詰問し、阿難は「もし女人が陰蔵相を見ると、自分の女身を恥じ男身を得て仏相を修行し成仏の福徳の根を植えたいと欲するだろう。そういう思いで見せたから破戒ではない」と答えるところである。陰蔵相とは馬陰蔵相ともいい三十二相の一つで、馬のように陰部が体内に隠されていることをいう。
ここで問題なのは、「阿難が女人に見せたとする陰蔵相とは何か」ではなく、阿難の行為は「女人を福徳の道に引導するという目的のために陰蔵相を見せた」ということである。大乗仏教の目的は成仏で「福徳」は成仏涅槃のことで、阿難は女人に福徳の根(発菩提心)を種えるために陰蔵相を見せたと言っている。だから、この変成男子説は、「女身が変じて男子に成ること」が目的ではなく、「陰蔵相と成ること」を目的としている。
提婆品の変成男子・龍女成仏も、「等正覚を成じ三十二相・八十種好ある」(平楽寺本訓読二三四頁・岩波文庫版・中二二四頁)と経文にあるように、変成男子そのものが目的ではなく、「等正覚を成じ三十二相あること=陰蔵相あること」を目的としている。この『大智度論』の文は、提婆品だけでなく維摩経の空思想を示した経文とも矛盾しない。
維摩経の教えは、「空の立場に立てば、すべての男や女は、男や女の自性があるわけではなく、仮に男の姿、女の姿を現しているに過ぎない。人間の中に男女の差別を見るのは、仮の姿にとらわれた迷妄である。男女は本来男女に非ず、空であり、平等なのである。だから、この立場においては、女身を変じて男子に成るという必要はない。」(藤田書十一頁参照)という内容を説いている。(『国訳一切経』経集部六 維摩詰所説経 観衆生品第七 深堀正文訳 大東出版社・『大乗仏典7』長尾雅人訳 六章天女 中央公論社参照)
当時の社会において女人五障の固定観念が根強いならば、女身で成仏するということは、その固定観念のために信じがたい教説となる。ならば、一、空思想を説く、二、変成男子を説く、三、女身→男身→陰蔵相を説く、この三例のような表現で女人五障を否定するしかなかったと思われる。
仏は男身相でも女身相でもない馬陰蔵相であるから、男尊女卑の思想で変成男子を説いたのではなく、仏教は馬陰蔵相を貴ぶ教えを説いている。(念のために。陰蔵相は仏相である三十二相の一つで仏の象徴であり具象的な相ではない。)
では、原始仏典では、男女の無差別を説いているのだろうか。
スッタニパータには、
七五六 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、(個体)に執着している。「これこそ真理である」と考えている。(中村元『ブッダのことば』岩波文庫一七〇頁)
とある。同書では「名称と形態」についてよく触れられている。(三五五偈、五三〇偈、五三七偈、一〇三七偈、一〇七四偈)この経文を男女に即していうと、男女という「名称」と、男身女身という「形態」に執着すると、男女無差別の空思想は理解できない。「名称と形態」に固執する限り、空や縁起の道理を知らず非我なるものを我と思いなし、「これこそ真理である」と転倒して考えてしまう、というものである。
このように、仏教の根底には一貫して空の平等思想があり、女人五障説や変成男子説は、女性差別を示唆した記述どころか、男女無差別平等を説く教説である。天台の五時八教に依るならば、浄土経典等で「仏国土に女人はいない」と説く経文や世親『浄土論』の「安楽国に女人の存在を認めていない」という記述は、女人五障や変成男子と同様に、第一義を説くための方便的記述表現である。また、空思想は社会運動のために説かれたのではなく、速成就仏身のために空仮中を説くと見るのが、天台智顗の教説である。
長い仏教の歴史の中で、変成男子説が経典の意図することとは正反対の意味で誤解され、女性差別に利用されたことは事実である。しかし、これは経典の責任ではなく、経典を誤読しその誤読の流布に追従した者の責任である。
おわりに
門馬氏は、経典批判の根拠の一つとして、「松本氏や袴谷氏の主張する本覚思想(如来蔵思想)」をあげている。この問題は、甚だ深く多くの要素を含むので簡単に論ぜられるものではないが、大切なことなので少し述べる。
凡夫がそのまま仏であるという「いわゆる中古天台本覚思想」は、本来の仏教思想や本覚思想とは異なる。中古天台本覚思想が差別現象の思想的要因になったことは事実であるが、この思想は仏教の本意を誤解して生まれた思想である。ゆえに、その責任は誤解した者にあるのであって、法華経や起信論にあるのではない。
袴谷氏が主張する「本覚思想批判*」は、『大乗起信論』『大乗荘厳論』等の如来蔵思想・唯識思想をふくめて仏教でないというものである。袴谷説は仏教思想と認知されてしかるべき教えを非仏教と見る説である、と筆者は考える。(*袴谷憲昭『本覚思想批判』所収「序論 本覚思想批判の意義」七—八頁)
「山川草木悉皆成仏」を文字面のみで直訳し、「山川草木はすべて仏で、そのままでいい、ありのままでいい」と現実肯定的に解釈する説は仏教ではない。仏教は行為(業)論を説く教えであり、現実をそのまま肯定する教えではない。
法華経教学からすると、「山川草木悉皆成仏」は、依正不二の義で説かれる法門である。妙楽は「当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界」(身土は一念三千なり。故に成道の時、この本理に称(かな)うて、一身一念法界に遍(あまね)し『止観弘決』)と言っている(『観心本専抄』定遺七一二頁参照)。この妙楽釈でも明らかなように、「成道の時、この本理に称うて」という前提で「一身一念遍於法界」と説くのであり、成道した仏からすると体用不二・依正不二・十界互具・一念三千の本理にかない名実ともに「一身一念遍於法界」であるから、「山川草木悉皆成仏」というものである。凡夫がそのまま仏として「一身一念遍於法界」というのではないし、山川草木がそのまま仏である、という意味ではない。ここで「名実ともに」と述べたのは体用不二という意味である。
「体」や「真如」を一切法の「基体」とする誤解がある。天台は「真如」の語をよく使用している。天台のいう「真如」「体」の語には「基体」の義はない。「実相」という意味である。馬鳴・無着・世親が説く「真如」は、一見、基体という実在を肯定するかのごとく見られるかもしれないが、そうではなく、如来蔵や唯識で説く「真如」は天台と同じように「実相」であり「無我」の義を前提としていることは言うまでもない。
袴谷氏いわく、「(基体を説く)維摩経はもはや仏教経典ではない」(『本覚思想批判』所収「維摩経批判」二三二頁)と。
しかし、天台は維摩経を方等部の仏説と見ており、隋の煬帝の願いに応えて維摩経の注釈を執筆した。一度目の原稿は焼却し、二度目のものは絶筆となった。
袴谷氏いわく、「大乗起信論は基体を説くので仏教ではない」(『本覚思想批判』所収「大乗起信論に関する批判的覚え書」)と。またいわく、「智顗はむしろ本覚思想を否定した人として位置づけられるべきなのであって、大乗起信論の思想に対しても、恐らくは、中国の仏教者には珍しく、対極に立つ云々」(『本覚思想批判』所収「序論 本覚思想批判の意義」八頁)と。
しかし、『摩訶止観』の冒頭に付法蔵が記され、『大乗起信論』の作者といわれる馬鳴は龍樹等とともに付法蔵の一人である。天台は龍樹に対するような帰依は、起信論や無着・世親にはないようだが、「如来蔵」の語や「唯識」の専門語も使用しており(『法華玄義』第五下)、如来蔵思想や唯識思想を大乗仏教と見ていることは疑いない。日蓮聖人も「天親龍樹馬鳴堅慧等内鑑冷然」(『観心本尊抄』定遺七〇九頁)と言われている。
松本氏袴谷氏いわく、「縁起こそ仏教思想である」と。
筆者も、縁起すなわち空すなわち即空即仮即中という意味で「即空即仮即中の縁起こそ仏教思想である」と認識する。両氏の論文や著書は多く、筆者はその一部しか見ていないが、両氏の主張する「縁起」は時間的生滅の縁起に限定されているように思われる。天台教学でいうならば、蔵教で説く十二因縁だけを指しているように推測する。天台は蔵・通・別・円にそれぞれ四諦・十二因縁があり、思議生滅の十二因縁・思議不生不滅の十二因縁・不思議生滅の十二因縁・不思議不生不滅の十二因縁を説いている。(『法華玄義』巻二下・迹門十妙・境妙・十二因縁・大正蔵六九八頁中-七〇〇頁中・国訳一切経七二-七八頁)
もし、「思議生滅の十二因縁だけが仏教だ」というならば、思議不生不滅・不思議生滅・不思議不生不滅を説く教えは仏教ではない、ということになる。
松本氏袴谷氏の説は仏教者に多くの刺激を与え仏教学会の活性化に貢献した。しかし、本来、無我や空を踏まえた上で考察されるべき本来の本覚思想・如来蔵思想・唯識思想を、外道的な「一切法の基体」が説いてある思想であるとみなし、ついに維摩経等の仏典をも仏教ではないと主張するに至ったと思われる。
仏教は行為すなわち業を説く教えであるから、仏道の必須条件である法華経受持という「行為」を媒体とせずに凡夫即仏を説き現実を肯定する「いわゆる中古天台本覚思想」は、仏教思想や法華経思想と無縁の教えである。また「中古天台本覚思想」と「本来の本覚思想」を混同して、凡夫即仏説の根源を大乗経典や起信論等に求めることは、天台智顗の教説に反する。
門馬氏は、法華経差別経説の理由として、「安楽行品の旃陀羅」「勧発品の白癩」「提婆品の変成男子」等をあげている。
しかし、この一文で述べたように、日蓮聖人や天台智顗の教えに随うと、法華経は即空即仮即中の教えであり、行為(業)の教えを説く経典で差別思想とは正反対の教えである。
門馬幸夫氏が主張するような差別現象の責任は法華経にはない。
差別現象の責任は、法華経の経文を誤読し、その誤読に盲従し法華経の本意を顕正しようとしなかった後世の仏教者の怠慢にある。