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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

法華経は差別経にあらず

 

研究調査プロジェクト報告
 現代と教学プロジェクト
法華経は差別経にあらず
(日蓮宗現代宗教研究所嘱託) 早 坂 鳳 城  
                 一
 法華経見宝塔品に「善哉善哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたまふ」と説かれる通り、私たちは法華経を「平等大慧一乗妙法蓮華経」として理解し、信仰している。
 然るに、近年、法華経を差別経と断じ、剰え「恫喝」の経典であるなどとする議論が横行していることは看過できないところである。
 既に先学による反論もあり、基本的な反批判は済んでいるとも言え、筆者の論の如きは、屋上に屋を架するものにしかならないかとも思われるが、これまでの議論に多少の私見を加え、法華経差別経論への反論を試みることとしたい。
                 二
 さて、法華経を差別経と批判する論者が言及するのは、主に、安楽行品と普賢菩薩勧発品の説示である。安楽行品の方から見ていこう。
  云何名菩薩摩訶薩親近処。菩薩摩訶薩。不親近国王王子。大臣官長。不親近諸外道。梵志。尼=cd=61cf子等。及造世俗文筆。讃詠外書。及路伽耶陀。逆路伽耶陀者。亦不親近。諸有凶戯。相扠相撲。及那羅等。種種変現之戯。又不親近旃陀羅。及畜猪羊鶏狗。畋猟漁捕。諸悪律儀。如是人等。或時来者。則為説法。無所怖望。又不親近求声聞。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。亦不問訊。若於房中。若経行処。若在講堂中。不共住止。或時来者。随宜説法。無所及求。文殊師利。又菩薩摩訶薩。不応於女人身。取能生欲想相。而為説法。亦不楽見。若入佗家。不与小女。処女寡女等共語。亦復不近。五種不男之人。以為親厚。不独入佗家。若有因縁。須独入時。但一心念仏。若為女人説法。不露歯笑。不現胸臆。乃至為法。猶不親厚。況復余事。不楽畜年小弟子。沙弥小兒。亦不楽与同師。常好坐禅。在於閑処。修摂其心。文殊師利。是名初親近処。復次菩薩摩訶薩。観一切法空。如実相。不顛倒。不動。不退。不転。如虚空。無所有性。一切語言道断。不生。不出。不起。無名。無相。実無所有。無量。無辺。無礙。無障。但以因縁有。従顛倒生。故説常楽観如是法相。是名菩薩摩訶薩第二親近処。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言
   若有菩薩 於後悪世 無怖畏心 欲説此経 応入行処 及親近処 常離国王 及国王子
   大臣官長 凶険戯者 及旃陀羅 外道梵志 亦不親近 増上慢人 貪著小乗 三蔵学者
   破戒比丘 名字羅漢 及比丘尼 好戯笑者 深著五欲 求現滅度 諸優婆夷 皆勿親近
   若是人等 以好心来 到菩薩所 為聞仏道 菩薩則以 無所畏心 不懐及望 而為説法
   寡女処女 及諸不男 皆勿親近 以為親厚 亦莫親近 屠兒魁膾 畋猟魚捕 為利殺害
   販肉自活 衒売女色 如是之人 皆勿親近 凶険相撲 種種嬉戯 諸淫女等 尽勿親近
   莫独屏処 為女説法 若説法時 無得戯笑 入里乞食 将一比丘 若無比丘 一心念仏
   是則名為 行処近処 以此二処 能安楽説 又復不行 上中下法 有為無為 実不実法
   亦不分別 是男是女 不得諸法 不知不見 是則名為 菩薩行処 一切諸法 空無所有
   無有常住 亦無起滅 是名智者 所親近処 顛倒分別 諸法有無 是実非実 是生非生
   在於閑処 修摂其心 安住不動 如須弥山 観一切法 皆無所有 猶如虚空 無有堅固
   不生不出 不動不退 常住一相 是名近処 若有比丘 於我滅後 入是行処 及親近処
   説斯経時 無有怯弱 菩薩有時 入於静室 以正憶念 随義観法 従禅定起 為諸国王
   王子臣民 婆羅門等 開化演暢 説斯経典 其心安穏 無有怯弱 文殊師利 是名菩薩
   安住初法 能於後世 説法華経
  (云何なるをか菩薩摩訶薩の親近処と名くる。菩薩摩訶薩、国王・王子・大臣・官長に親近せざれ。諸の外道・梵志・尼・子等、及び世俗の文筆・讃詠の外書を造る、及び路伽耶陀・逆路伽耶陀の者に親近せざれ。亦諸の有ゆる凶戯の相扠相撲、及び那羅等の種々変現の戯に親近せざれ。又旃陀羅、及び豬羊鶏狗を畜い畋猟漁捕する諸の悪律儀に親近せざれ。是の如き人等或時に来らば、則ち為に法を説いて=cd=63de望する所なかれ。又声聞を求むる比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に親近せざれ、亦問訊せざれ。若しは房中に於ても、若しは経行の処、若しは講堂の中に在っても、共に住止せざれ。或時に来らば宜しきに随って法を説いて=cd=63de求する所なかれ。文殊師利、又菩薩摩訶薩、女人の身に於て能く欲想を生ずる相を取って、為に法を説くべからず、亦見んと楽わざれ。若し他の家に入らんには、小女・処女・寡女等と共に語らざれ。亦復五種不男の人に近づいて以て親厚を為さざれ。独他の家に入らざれ。若し因縁あって独入ることを須いん時には但一心に仏を念ぜよ。若し女人の為に法を説かんには、歯を露わにして笑まざれ、胸臆を現わさざれ。乃至法の為にも猶お親厚せざれ。況や復余の事をや。楽って年小の弟子・沙弥・小兒を畜えざれ。亦与に師を同じゅうすることを楽わざれ。常に坐禅を好んで閑かなる処に在って其の心を修摂せよ。文殊師利、是れを初の親近処と名く。復次に菩薩摩訶薩、一切の法を観ずるに空なり、如実相なり、顛倒せず、動せず、退せず、転せず、虚空の如くにして所有の性なし。一切の語言の道断え、生ぜず、出せず、起せず。名なく相なく、実に所有なし。無量・無辺・無碍・無障なり。但因縁を以て有り、顛倒に従って生ず。故ノ説く、常に楽って是の如き法相を観ぜよと。是を菩薩摩訶薩の第二の親近処と名く。
   爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言く、
    若し菩薩あって 後の悪世に於て
    無怖畏の心をもって 此の経を説かんと欲せば
    行処 及び親近処に入るべし
    常に国王 及び国王子
    大臣官長 凶険の戯者
    及び旃陀羅 外道梵志を離れ
    亦 増上慢の人
    小乗に貪著する 三蔵の学者に親近せざれ
    破戒の比丘 名字の羅漢
    及び比丘尼の 戯笑を好む者
    深く五欲に著して 現の滅度を求むる
    諸の優婆夷に 皆親近することなかれ
    是の若き人等 好心を以て来り
    菩薩の所に到って 仏道を聞かんとせば
    菩薩則ち 無所畏の心を以て
    =cd=63de望を懐かずして 為に法を説け
    寡女処女 及び諸の不男に
    皆親近して 以て親厚を為すことなかれ
    亦 屠兒魁膾
    畋猟漁捕 利の為に殺害するに親近することなかれ
    肉を販って自活し 女色を衒売
    是の如きの人に 皆親近することなかれ
    凶険の相撲 種々の嬉戯
    諸の淫女等に 尽く親近することなかれ
    独屏処にして 女の為に法を説くことなかれ
    若し法を説かん時には 戯笑すること得ることなかれ
    里に入って乞食せんには 一りの比丘を将いよ
    若し比丘なくんば 一心に仏を念ぜよ
    是れ則ち名けて 行処近処とす
    此の二処を以て 能く安楽に説け
    又復 上中下の法
    有為無為 実不実の法を行ぜざれ
    亦 是れ男是れ女と分別せざれ
    諸法を得ず 知らず見ず
    是れ則ち名けて 菩薩の行処とす
    一切の諸法は 空にして所有なし
    常住あることなく 亦起滅なし
    是れを智者の 所親近処と名く
    顛倒して 諸法は有なり無なり
    是れ実なり非実なり 是れ生なり非生なりと分別す
    閑かなる処に在って 其の心を修摂し
    安住して動せざること 須弥山の如くせよ
    一切の法を観ずるに 皆所有無し
    猶お虚空の如し 堅固なることあることなし
    不生なり不出なり 不動なり不退なり
    常住にして一相なり 是れを近処と名く
    若し比丘あって 我が滅後に於て
    是の行処 及び親近処に入って
    斯の経を説かん時には 怯弱あることなけん
    菩薩時あって 静室に入り
    正憶念を以て 義に随って法を観じ
    禅定より起って 諸の国王
    王子臣民 婆羅門等の為に
    開化して演暢して 斯の経典を説かば
    其の心安穏にして 怯弱あることなけん
    文殊師利 是れ菩薩の
    初の法に安住して 能く後の世に於て
    法華経を説くと名く )
 門馬幸夫氏は、この安楽行品の説示について、次のように言う。
  これは釈迦がマンジュシュリー(文殊菩薩)に、修行の妨げになるものとして菩薩・仏教徒たちが近づくべきでない場合、および許容されない交際の職業種類等をリストアップした箇所であると思われるが、王や王族、異教徒たち、特定の職業(人)、女性等がそれとして挙げられている。王や王族、異教徒たち、それに「チャンダーラどもにも、マウシュティカどもにも、豚肉業者たちにも、鳥肉業者たちにも、狩猟者たちにも屠殺業者たちにも、遊芸人たちにも、詐欺師たちにも、相撲取たちにも」近づかない。向こうから近づいてきた場合にはやむを得ないが、というのである。
  特に、「肉業者」や「と畜業」といった「チャンダーラ」(旃陀羅)と言われ、アンタッチャブル(不可触民)とされてきた 特定の職業(あるはカースト)や女性たちを仏道修行者の交際範囲から排除するというのは、これらの人々に対して『法華経』思想が、明瞭な差別的意思を有しているものと見なされよう。「チャンダーラ」のようなカースト外の人々、さまざまな部民や特定の職業に携わる人々、「婦女子」すなわち少女や若年女性、配偶者を失った女性たちは、『法華経』の教えを説かれることもなく、また、説かれるべきものでもないとされて、仏教・『法華経』の教えから排除されるべき存在として挙げられているからである。
   この意味では『法華経』「安楽行品」のこの箇所は、仏教の恩恵?にあずかることのできない、「排除(差別)のリスト」として述べられている。『法華経』のこの箇所は、これを読むものにも、またこれを宣べ伝えるものにも、これらの人々に対する排除(差別)の機能を顕在的に示しているのである。つまり、『法華経』の「安楽行品」は、そうした人々に対する排除・差別をする、顕在的な機能を果たしている、と見なされよう=cd=70b6。
 門馬氏への直接の反論ではないが、こうした見方一般について、宮崎英修博士が、次のように指摘している。
  ところで、菩薩の親近すべからざる所を並べ記した中に(中略)『旃陀羅や屠児に親近してはならぬと述べた句があるが、これはあきらかに差別を長助するもの』ではないかと疑うむきがある。
  これは不親近の対象に国王、大臣、官長、外道・婆羅門、学者、文筆業者、或は相撲とり、拳闘家、女性、一人住いの後家、また女色の衒賣する者、これらと同様にあげてあるのであって、このように国王も大臣も旃荼羅もみな平等に不親近の対象にあつかっているのにもかかわらず、これをことさらに旃陀羅・屠者だけをとりあげ、法華経はこれらを差別し不平等の扱いをしていると強調するのは断章取義の偏見に執着した迷論である。
 宮崎博士の所論は、門馬氏の議論を受けてなされているものではないので、門馬氏の所論への批判としては、相応しないところがありはするものの、大筋として、門馬氏の所論への反論としても機能し得る、適正な議論であると言えよう。
 断章取義との指摘は誠に適切であって、門馬氏らの如きは、法華経の「部分」を見て「全体」を読んでいない。文脈を読み損なっているからこそ、かくの如き議論になるのである。学問の世界に於いて、「つまみ食い」は控えられなければならないであろう。
 そもそも、安楽行品は次のように始まっている。
  爾時。文殊師利法王子菩薩摩訶薩。白仏言世尊。是諸菩薩。甚為難有。敬順仏故。発大誓願。
  於後悪世。護持読誦。説是法華経。世尊。菩薩摩訶薩。於後悪世。云何能説是経。仏告文殊師利。若菩薩摩訶薩。於後悪世。欲説是経。当安住四法。一者安住菩薩行処。親近処。能為衆生。演説是経。文殊師利。云何名菩薩摩訶薩行処。若菩薩摩訶薩。住忍辱地。柔和善順。而不卒暴。心亦不驚。又復於法。無所行。而観諸法如実相。亦不行不分別。是名菩薩摩訶薩行処。
  (爾の時に文殊師利法王子菩薩摩訶薩、仏に白して言さく、
   世尊、是の諸の菩薩は甚だ為れ有り難し。仏に敬順したてまつるが故に大誓願を発す。後の悪世に於て是の法華経を護持し読誦し説かん。世尊、菩薩摩訶薩後の悪世に於て云何してか能く是の経を説かん。
     仏、文殊師利に告げたまわく、
    若し菩薩摩訶薩後の悪世に於て是の経を説かんと欲せば、当に四法に安住すべし。一には菩薩の行処・親近処に安住して、能く衆生の為に是の経を演説すべし。文殊師利、云何なるをか菩薩摩訶薩の行処と名くる。若し菩薩摩訶薩忍辱の地に住し、柔和善順にして卒暴ならず、心亦驚かず、又復法に於て行ずる所なくして、諸法如実の相を観じ、亦不分別を行ぜざる、是れを菩薩摩訶薩の行処と名く。
 右の引用文に、先に引いた部分がつながるのであるが、文殊師利菩薩の「是諸菩薩。甚為難有。敬順仏故。発大誓願。於後悪世。護持読誦。説是法華経。世尊。菩薩摩訶薩。於後悪世。云何能説是経」(是の諸の菩薩は甚だ為れ有り難し。仏に敬順したてまつるが故に大誓願を発す。後の悪世に於て是の法華経を護持し読誦し説かん。世尊、菩薩摩訶薩後の悪世に於て云何してか能く是の経を説かん=cd=70b9。)との問いを受けての答えこそが、先の引用部分なのである。
 さらに言えば、安楽行品の前に、勧持品での説示を受けて、安楽行品は説かれているのであり、そこから読めば、誤解の余地はなかろう。
 勧持品に於いては、諸菩薩・声聞等が、此土・他土での弘経の誓願を述べるけれども、仏はこれを許可しなかったのである。そこで、初心浅行、忍力未成就の迹化の菩薩のために滅後弘経の要心を問うたのが、今引いた文殊師利菩薩の問いなのであって、恐らくは、門馬氏は、そうした文脈を解読しなかったのであろう。
 仏はこの文殊菩薩の問いに対して、身安楽行・口安楽行・意安楽行・誓願安楽行の所謂「四安楽行」に住して説くならば、末代悪世において初心の行者も安穏に修行しうると教示されるのである。その第一の身安楽行とは行処と親近処とに安住することであり、そのうち、行処とは精神活動の内面的規定であって、諸法実相を覚って、それに随いながら実践することである。親近処とは、修行の妨げになるものに接近しないという外面的規定である。この親近処が説かれてゐる部分こそが、問題の箇所なのであるが、それを示す中に、国王・大臣らの権力者や悪思想家、漁・猟師、小乗の徒、女人等に親近せざるべきことを示し、常に座禅を好み諸法の如実の相を観ずべきことを説くのである。
 つまり、ここで挙げられた人々は、決して「『法華経』の教えを説かれることもなく、また、説かれるべきものでもないとされて」いるのではないのであって、ここでは、あくまで、初心の菩薩が親近するならば、修行の妨げになる虞(おそれ)があるが故に、よくよく心得べきであることが説かれているに過ぎないのである。ここに説かれた人々を「仏教・『法華経』の教えから排除されるべき存在」と言うに至っては、軽率なる概括を犯していると言わざるを得ないであろう。
 宮崎博士も指摘されておられる通り、安楽行品では、親近処について説きつつも、
  或時来者。則為説法。無所=cd=63de望。
  (或時に来らば、即ち為に法を説いて=cd=63de望する所なかれ=cd=70ba。)
とし、また、
  若是人等 以好心来 到菩薩所 為聞仏道 菩薩則以 無所畏心 不懐=cd=63de望 而為説法
  (是の若き人等 好心を以て来り 菩薩の所に到つて 佛道を聞かんとせば 菩薩即ち無所畏の心を以て =cd=63de望を懐かずして 為に法を説け=cd=70bb)
と説くのである。
 何を以て、「『法華経』の教えを説かれることもなく、また、説かれるべきものでもない」「『法華経』の教えから排除されるべき存在」などと言うのであろうか。為にする議論であると言うべきであろう。
 不思議なことに、門馬氏は、「旃陀羅。及畜猪羊掩狗。畋猟漁捕」や「小女。処女寡女」などへの不親近についてはあげつらうが、「国王王子。大臣官長」等への不親近が説かれることについては、特に問題視しようとしていない。これは一体如何なることなのであろうか。
 もしかすると、「国王王子。大臣官長」等は、「『法華経』の教えを説かれることもなく、また、説かれるべきものでもないとされて、仏教・『法華経』の教えから排除されるべき存在として挙げられて」も当然であるとでも考えているのではないだろうか?
 もしくは、「国王王子。大臣官長」が挙げられていることに言及すると、法華経が「差別」をしていると指弾しにくくなるから、これに言及しないのであろうか?
 いずれにもせよ、これは門馬氏自身の「差別意識」を裏返しに表現しているとも言えるのではなかろうか?
 そう、差別しているのは、法華経ではなく、門馬氏なのである。
 法華経は観念遊戯の経典ではなく、単なる理想を説くものではない。現実に、初心の修行者が、権力ある者に親近すれば、名聞や利養の誘惑にかられやすいであろうし、少女や処女や寡女(かじょ)に親近すればどうなるかを想像することは容易いであろう。
 これは排除の論理ではない。差別ではなく、言うなれば区別なのである。修行を円滑円満ならしむるための智慧と言ってもよい。
                三
 法華経を差別経であると主張する論者が、安楽行品以上に問題にするのは、「普賢菩薩勧発品」である。
 例せば、門馬氏は、先の安楽行品の排除・差別思想を糾弾した後、次のように述べる=cd=70bc。
   『法華経』における排除・差別の「顕在的機能」を示すリストは、この箇所だけにとどまらない。たとえば、『法華経』巻八の「普賢菩薩勧発品」第二十八などにもそれが見えている。しかし「普賢菩薩勧発品」のそれは、先の「安楽行品」の箇所とは異なって単に特定の職業(あるいはカースト)に携わるものを排除・差別し、法華経を護持せずば「障害者」となるという顕在的機能を示すのみではなく、そこにはより複雑な「潜在的機能」、すなわち「救済」と「恫喝」の論理構造が隠されていると見なされる。
 では、問題の箇所を見よう。
  爾時釈迦牟尼仏讃言。善哉善哉。普賢汝能護助是経。令多所衆生。安楽利益。汝已成就。
  不可思議功徳。深大慈悲。従久遠来。発阿耨多羅三藐三菩提意。而能作是神通之願。守護是経。我当以神通力。守護能受持。普賢菩薩名者。普賢。若有受持読誦。正憶念。修習書写。是法華経者。当知是人。則見釈迦牟尼仏。如従仏口。聞此経典。当知是人。供養釈迦牟尼仏。当知是人。仏讃善哉。当知是人。為釈迦牟尼仏。手摩其頭。当知是人。為釈迦牟尼仏。衣之所覆。如是之人。不復貪著世楽。不好外道。経書手筆。亦復不喜。親近其人。及諸悪者。若屠兒。若畜猪羊鷄狗。若猟師。若衒売女色。是人心意質直。有正憶念。有福徳力。是人不為。三毒所悩。亦不為嫉妬。我慢。邪慢。増上慢。所悩。是人少欲知足。能修普賢之行。普賢若如来滅後。後五百歳。若有人。見受持読誦。法華経者。応作是念。此人不久。当詣道場。破諸摩衆。得阿耨多羅三藐三菩提。転法輪。撃法鼓。吹法螺。雨法雨。当坐天人大衆中。師子法座上。普賢。若於後世。受持読誦。是経典者。是人不復貪著。衣服臥具。飲食資生之物。所願不虚。亦於現世。得其福報。若有人軽毀之言。汝狂人耳。空作是行。終無所獲。如是罪報。当世世無眼。若有供養。讃歎之者。当於今世。得現果報。若復見受持。是経典者。出其過悪。若実若不実。此人現世。得白癩病。若有軽笑之者。当世世。牙歯疎欠。醜唇平鼻。手脚繚戻。=cd=63df眼目角。身体臭穢。悪瘡膿血。水腹短気。諸悪重病。是故普賢。若見受持。是経典者。当起遠迎。当如敬仏。説是普賢。勧発品時。恒河沙等。無量無辺菩薩。得百千万億。旋陀羅尼。三千大千世界。微塵等。諸菩薩。具普賢道。仏説是経時。普賢等。諸菩薩。舎利弗等。諸声聞。及諸天龍人非人等。一切大会。皆大歓喜。受持仏語。作礼而去。
  (爾の時に釈迦牟尼仏讃めて言わく、
   善哉善哉、普賢、汝能く是の経を護助して、多所の衆生をして安楽し利益せしめん。汝已に不可思議の功徳・深大の慈悲を成就せり。久遠より来阿耨多羅三藐三菩提の意を発して、能く是の神通の願を作して是の経を守護す。我当に神通力を以て、能く普賢菩薩の名を受持せん者を守護すべし。
   普賢、若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり。当に知るべし、是の人は仏、善哉と讃む。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏の手をもって、其の頭を摩するを為ん。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏の衣に覆わるることを為ん。是の如きの人は復世楽に貪著せじ。外道の経書・手筆を好まじ。亦復喜って其の人及び諸の悪者の若しは屠兒、若しは猪・羊・鷄・狗を畜うもの、若しは猟師、若しは女色を衒売するものに親近せじ。是の人は心意質直にして、正憶念あり福徳力あらん。是の人は三毒に悩されじ。亦嫉妬・我慢・邪慢・増上慢に悩されじ。是の人は少欲知足にして能く普賢の行を修せん。
   普賢、若し如来の滅後後の五百歳に、若し人あって法華経を受持し読誦せん者を見ては、是の念を作すべし。
   此の人は久しからずして当に道場に詣して諸の摩衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ法鼓を撃ち法螺を吹き法雨を雨らすべし。当に天人大衆の中の師子法座の上に坐すべし。普賢、若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は、是の人復衣服・臥具・飲食・資生の物に貪著せじ。所願虚しからじ。亦現世に於て其の福報を得ん。
   若し人あって之を軽毀して言わん、汝は狂人ならく耳。空しく是の行を作して終に獲る所なけんと。
   是の如き罪報は当に世世に眼なかるべし。若し之を供養し讃歎することあらん者は、当に今世に於て現の果報を得べし。若し復是の経典を受持せん者を見て其の過悪を出さん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑することあらん者は、当に世世に牙歯疎き欠け、醜唇・平鼻・手脚繚戻し、眼目角=cd=63dfに、身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気・諸の悪重病あるべし。
   是の故に普賢、若し是の経典を受持せん者を見ては、当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし。
   是の普賢勧発品を説きたもう時、恒河沙等の無量無辺の菩薩百千万億旋陀羅尼を得、三千大千世界微塵等の諸の菩薩普賢の道を具しぬ。
   仏是の経を説きたもう時、普賢等の諸の菩薩・舎利弗等の諸の声聞・及び諸の天・龍・人非人等の一切の大会皆大に歓喜し、仏語を受持して礼を作して去りにき=cd=70bd。)
これを受けて、門馬氏は次のように言う。
   普賢菩薩をはじめとする、『法華経』を「受持し読誦」する者、すなわち仏道修行をする者は、(極楽に生ずるという)「安楽」を得、「利益(りやく)」がある。そのようなものは「外道」などに近づかず、諸々の悪しき者、すなわち「と畜」をする者や動物の肉を売るもの、猟師、自分で出かけていって売春をするもの(「衒売」=「げんまい」=自分で手かけて行ってうること)—岩波文庫註)等々には近づくべきではないのだ、という趣旨のことがこの節の前半に説かれている。つまり、「と畜」をする者や猟師、肉を売る者、自ら「売春」をする者などには、『法華経』の教えは説かれず、また説かれるべきでもないと『法華経』は述べている。これは結局のところ、これらの人々には『法華経』の救いはとどかないと言っているのと同義であろう。「と畜」をする者とは動物の殺生をするものであり、先述したように、それは「旃陀羅」や「えた」とされて我が国では中世の段階で既に被差別の民になぞられられている。被差別の民や特定の職業に従事するものには、やはり「救済」はない、のである=cd=70be。
 この驚くべき短絡をどう評しようかと、筆者はとまどうばかりであるが、それは言うまい。
 よく法華経の本文を読んでみよう。
  如是之人。不復貪著世楽。不好外道。経書手筆。亦復不喜。親近其人。及諸悪者。若屠兒。
  若畜猪羊鷄狗。若猟師。若衒売女色。
  (是の如きの人は復世楽に貪著せじ。外道の経書・手筆を好まじ。亦復喜って其の人及び諸の悪者の若しは屠兒、若しは猪・羊・鷄・狗を畜うもの、若しは猟師、若しは女色を衒売するものに親近せじ=cd=e15c。)
とある。
 かくのごとき、普賢菩薩のようなものは、世の楽には貪著せず、外道を好まず、また、諸の悪者、屠兒、猪・羊・鷄・狗を畜なうもの、猟師、衒売女色には、「親近することを喜わざらん」と言っているのである。すなわち、門馬氏の言う如く「『法華経』の教えは説かれず、また説かれるべきでもないと『法華経』は述べている」のではない。法を説くべからず、と言っているのではなく、普賢菩薩等はそれを「不喜」であると言っているに過ぎないのである。
 普賢菩薩等は何故それを「不喜」であるのか。
 ここには、安楽行品と同様の構成があると見なければならないであろう。すなわち、一には対告衆の機根の問題(対機説法)、二に広める側の機根の問題である普賢菩薩は、迹化の菩薩に過ぎないからである。
 法華経の教理に慣れ親しんでいる者にとっては不要のことではあるが、恐らくはそうではないのであろう(?)門馬氏などの方の為に敢えて申し述べるならば、本化とは本門の教主釈尊のよって久遠の過去に教化された弟子のことをいう。迹化とは迹門の教主によって教化された弟子達のことをさす。涌出品において、他方の国土から来集した諸の菩薩達(=迹化菩薩)は、仏の滅後にこの娑婆世界で法華経を護持し広く説くことを申し出たのであるが、本師釈迦牟尼仏は「止みね、善男子よ」とこれを制止され、本仏初発心からの本弟子である本化の菩薩衆を召し出されたのである。そして、神力品において、釈迦滅後における法華経弘通の付属(別付属)を与えられ、仏使としての使命を授けられた。
 すなわち、普賢菩薩等は迹化の菩薩に過ぎないのであり、もともとは法華経の教えを説く役割は担わせられていなかったのである。嘱累品において、いわゆる総付属がなされるとは言え、本化と迹化との区別は厳然たるものがあるのであり、法華経を説き広める役割にも自ずから相違がある。従って、迹化の菩薩が、相手構わずに法華経を説かず、対告衆を選ぶからと言って、それを問題視することは、法華経の全体の構成に対する理解が不十分なるが故の難癖であると言うことすらなるであろう。
 そして、右の普賢菩薩勧発品の引用文の後半部分について、さらに門馬氏は次のように言う=cd=e15c。
   「若し後の世においてこの経典を受持し読誦せば、この人は復、衣服・臥具・飲食・資生の物に貪著せざらん。願う所は虚しからざらん。亦、現世においてもその福の報いを得ん」というのは、『法華経』「普賢菩薩勧発品」第二十八における「救済」の内容である。しかし若し『法華経』を受持する者を見て悪口を言うなら(「その過悪を出さば)、この人は「現世に癩を得」、もしこれを軽笑するなら、その人は「当に世世に牙・歯は疎き欠け、醜き唇、平める鼻ありて、手脚は繚れ戻り、眼目は角=cd=63dfみ、身体は臭く穢く、悪しき瘡の膿血あり、水腹・短気、諸の悪しき重病あるべし」ということになる。これは、『法華経』を誹謗すると、その「業報」によってただちに諸々の「障害者」となる「結果」を得る、と言っているのである。
   上の論理構造はしかし、まさに「恫喝」の論理構造であろう。『法華経』を「受持し読誦」する者は「安楽」を得、「利益」があるが、これをそしるものは「かくの如き報い」として、「当に世世に眼なかるべし」ものになるというのは、明白な「脅し」の論理である。『法華経』のこの箇所では「救済」と「恫喝」がワンセットなのである。この箇所は、むろん仏教における「業」の問題、因果のプロセスを当然の如く前提としたものであるが、『法華経』を受持せよ、さもなければその報い(「業」)によって「癩者」となり「身体障害者」となる、という論理構造であることは一目瞭然であろう。
   (中略)
   『法華経』を受持せよ、さもなければしかじかの「障害者」となる、という論理構造は、見たように「恫喝」ではあるが、しかしその論理は、「救済のメタファ」の論理ともなっている。「救済を得たかったら『法華経』を受持せよ、さもなければ『障害者』となる」というのは、いわば仏教を勧めるための「勧善懲悪」である。むろん、この場合の「悪」は現世において既に堕地獄の状態にある「癩者」や「障害者」である。「勧善懲悪」は「救済のメタファ」の論理となっている。「勧善」は仏教における「救済」の勧めであり、それの資格要件は『法華経』の護持である。一方、『法華経』をそしる者は、その「業」の報いとして「障害者」となるのである。『法華経』による「救済」は「恫喝」とセットなのである。
 「恫喝」とは随分な物言いであるが、門馬氏によれば「○○をせねば××となる、だから○○しなさい」という「論理構造」を以てなされるものは、全て「恫喝」であるようである。
 恫喝とまでは言っていないが、森本覚修氏は、「『法華経』—普賢菩薩勧発品—における業と差別の問題」という論攷で、門馬氏と同じような問題意識から、この問題について論じている、その文中に、藤田真一著『盲と目あき社会』(一九八二・九・三〇発行)の次のような文を引いている。
   越後瞽女の小林ハルさんが、意地の悪い親方にいじめられた記録をよみながら、私はこどものころ親から『たべものをそまつにすると目がつぶれるよ』とか、『生きものをやたらに殺すと手がまがっちゃうよ』などと、おどろかされたことを思い出した。全国的に多くの家庭で、こんないいかたのしつけが、おこなわれていなかっただろうか。それをこれまでは、障害者自身の立場あるいはその肉親の身になってふかく考えたことがなかったけれど、ハルさんの記録をよんで以来、それがどんなに残酷ないいかたであったかに、はじめて気づかされた。ごはんをそまつにする、生きものをやたらに殺すなど、悪いことをすると障害者になるぞ、というしつけの裏がわには、障害者をみるとき、なにか悪いことをした報いとしてそうなったという考えがひそんでいるからである。
   この問題を論ずるについては、まず、法華経の構成、或いは、法華経に於ける「普賢菩薩勧発品」の位置という観点から考えてみるのがよかろう。
   「普賢菩薩勧発品」第二十八は、言うまでもなく、法華経二十八品の最後の品である。
   森本覚修氏は、先に挙げた論文の冒頭に、岩波文庫の解説を引いて、
   「末世にこの経を流布することの利益のために、経全体の義理を略説する品である。」
  とのべ、この品が、法華経にとって極めて重要な品であるかのニュアンスを込めようとしておられるように見受けられるが、そうであるとすれば、この理解には些か問題があるであろう=cd=e15c。
 そもそも嘱累品「までで法華経の説法の大体は終り、以下の六品は流通弘経の事証をあげて滅後の行者を勧奨する」(『日蓮宗事典』)品なのである。
 成立論の観点から言えば、恐らくは、法華経以外の様々な信仰を、法華経の中に導入すべき目的で、増補されて行ったものであろうとされ、従って、苦行や三昧や総持など、法華経のそれまでの部分では主題となっていない修行が取り上げられ、説かれているのである。
 すなわち、「薬王菩薩本事品」以下の六品に説かれるところは、法華経信仰の支流であるといえよう。
 普賢菩薩勧発品が、「再演法華」と呼ばれて来たのは無論事実であるが、森本氏が参照した岩波文庫の解説にも、
   この品は本迹二門の正宗分と流通分とが一往終って、他方の大衆も本国に帰らんとする時、普賢菩薩が東方より大衆を率いて来たり、未来の悪世に於いて云何にして法華経を得べきやを問うたので、仏は止むなく法華経一部の義理を略説したものである。
と記すところである。
 つまり、普賢菩薩勧発品は、普賢菩薩信仰を有する人々(=法華経の本来の信仰からは外れている人々)を、法華経に誘引することを目的とした品であろうと考えられる。
 そして、
  是故普賢。若見受持。是経典者。当起遠迎。当如敬仏=cd=e15c。
とあることも注意しなくてはならないであろう。
 「是の故に、普賢よ、若し是の経典を受持する者を見れば、当に起ちて遠くに迎うべきこと、当に仏を敬うが如くにしすべし」と説かれているのは、普賢菩薩なのである。門馬氏の筆法に習えば、釈尊がここで恫喝しているのは、普賢菩薩だということにもなる。
 この辺りの事情は、「提婆達多品」に於いて所謂「変成男子」が説かれる際の設定との類似性を指摘することも出来るであろう。
 「変成男子」は、女性差別の問題との関連からも、よく問題にされるところであり、本来であれば、より本格的に論じたいところであるけれども、紙数の都合で、本稿では詳論しないが、これは、文殊師利菩薩と智積菩薩との間に交わされる法華経修行における速疾成仏の問答の中で、その成仏の実例として説示されるものであるが、そもそも、
  智積菩薩。問文殊師利言。此経甚深微妙。諸経中宝。世所希有。頗有衆生。勤加精進。修行此経。速得仏不。 文殊師利言。有。娑竭羅龍王女。年始八歳。智慧利根。善知衆生。諸根行業。得陀羅尼。諸仏所説。甚深秘蔵。悉能受持。深入禅定。了達諸法。於刹那頃。発菩提心。得不退転。辯才無碍。慈念衆生。猶如赤子。功徳具足。心念口演。微妙広大。慈悲仁譲。志意和雅。能至菩提
  (智積菩薩、文殊師利に問うて言わく、此の経は甚深微妙にして諸経の中の宝、世に希有なる所なり。頗し衆生の勤加精進し此の経を修行して、速かに仏を得るありや不や。文殊師利の言わく、有り。娑竭羅龍王の女年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり。辯才無碍にして、衆生を慈念すること猶お赤子の如し。功徳具足して、心に念い口に演ぶること微妙広大なり。慈悲仁譲・志意和雅にして能く菩提に至れり=cd=e15c。)
であったものが、智積菩薩が
  不信此女。於須臾頃。便成正覚。
  (信ぜじ、此の女の須臾の頃に於て便ち正覚を成ずることを=cd=e15c=cd=72c4。)
と言い、更に舎利弗が
  爾時舎利弗。語龍女言。汝謂不久。得無上道。是事難信。
  (爾の時に舎利弗、龍女に語って言わく、汝久しからずして無上道を得たりと謂える。是の事信じ難し=cd=e15c。)
と疑問を発するが故に、そうした智積菩薩や舎利弗等にも理解出来るように、龍女が「変成男子」の後に成仏してみせたのである。智積菩薩や舎利弗の如く、真の法華経一乗思想に到達できていない者(もしくは智積菩薩や舎利弗に象徴されるような理解の浅い法華経の聴聞者・読者)を導くための方便としての「変成男子」であると言ってよいのである。
 つまり、法華経の説相の理解では、常に対告衆がどう設定されているかに留意しないと、誤解を招いてしまうのである。
 この点、現代宗教研究所研究員の藤崎善隆師が、所内の内部レポートに於いて、門馬氏の「救済と恫喝・勧善懲悪」論についての批判を試み、門馬氏が、自身の言う「救済と恫喝・勧善懲悪」は、
   『法華経』の作者によって当初から明示的に意図されたものかどうかということは不明である。こうした論理は、あくまで仏教や『法華経』を宣揚するために、非意図的に採用されたものとは考えられよう。つまり「救済」ということに関し、「○○せねば××となる、だから○○しなさい」という論理構造が採用されることによって「恫喝」や「視聴覚教育」、「勧善懲悪」という論理が「潜在的機能」として伏在することになったと見なし得よう。
と述べることに対し、「法華経は被差別者が差別されているという事実を踏まえた上で、敢えてその表現を用いたのではないか」という観点を示して批判しているのは、検討に値するであろう。
 藤崎師は、藤田宏達博士の「転女成男思想」に関する考察に、仏典に於いて、本来説かれるべき男女の無差別思想に対し、現実に存在する差別を一応認めた上で「転女成男」説を説くことが現実に力を持ち得たと指摘していることに触発されて、そのように主張されるのであるが、対告衆の機根論という観点から、これを認めることは出来るであろう。
 すなわち、いきなり男女の無差別を主張してもこれを受け入れがたい対告衆がいるが故に、それでは現実に力を持ち得ないので、段階的に教えを説いたのである。
 法華経自体の構成に、そうした意図のあることは、古来指摘されて来たところであり、すなわち、三周説法などがそれである。
 三周説法自体は、法華経の法華経迹門正宗分の説法を法説周・譬説周・因縁周の三段に分けたものである。人間には能力や機根や体質などによって種々な相違があるので、一律な教えの説き方ではすべての人々を救済することが出来ないため、釈尊は諸法実相の教え(略開三顕一段)を分別して三通りの説示(広開三顕一段)を展開されたものとされている。方便品では法説周が説かれ、仏教の根本思想である諸法実相の理を示すために、四仏知見を説き、諸仏出世の本懐はすべての人を仏知見に開示悟入させるにあると一乗平等の根本問題を説示する。これは智恵第一の舎利弗などの人々を救済することが目的であるとされる。次に譬喩品では譬説周が示される。これは舎利弗よりも能力のおとった中根の四大声聞を対象としたものであり、三車火宅の喩をもって、たとえ話を中心にした解りやすい説示で一乗思想を展開したとされる。化城喩品などでは因縁周の説法がなされる。それでもなお一乗思想を理解出来ない能力のおとった下根の人々のために、過去の大通智勝仏以来の仏と凡夫との因縁をのべることによって自己がいかに仏と縁の深い人間であったかを思いおこさせようとしたものである。
 つまり、門馬氏の言う「『○○せねば××となる、だから○○しなさい』という論理構造」を提示しないと理解出来ない人々を、平等大慧の思想へ誘引する目的で、かくの如き説示がなされたと考えて良いであろう。
 先に引いた、藤田真一氏の『盲と目あき社会』(一九八二・九・三〇発行)からの引用にも示される如く、こうした表現は、しばしば子供に対してなされることにも示される通り、智慧浅きものへの説示として有効なのである。
 ただし、ここで留意しないとならないのは、法華経に於いてあくまでも原因→結果という説示がなされていることである。門馬氏は、ここで果から因に遡るという解釈を採用するのであるが、法華経の経典作者は、そのような説き方をしていないのである。すなわち、門馬氏の言う「○○せねば××となる、だから○○しなさい」という説法はあっても、「××となったのは、○○しなかったから」という表現は法華経には見られないのである。
 このことは、決定的に重要なことであって、もし法華経に「××となったのは、○○しなかったから」という表現が採用されるならば、つまり、かしこに「白癩病」の者や、「牙歯疎欠。醜唇平鼻。手脚繚戻。眼目角=cd=63df。身体臭穢。悪瘡膿血。水腹短気。諸悪重病。」(牙歯疎き欠け、醜唇・平鼻・手脚繚戻し、眼目角=cd=63dfに、身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気・諸の悪重病あるべし=cd=e15c=cd=72c6。)
の者がいる。彼らは、「見受持。是経典者。出其過悪。」(是の経典を受持せん者を見て其の過悪を出さん=cd=e15c。)の故に、或いは、法華経受持者を「軽笑」したが故に、そうなったのだ、という断定を、法華経がしているのならば、法華経は「差別」する経典であるという批難は免れがたいであろう。しかし、法華経がなしている説示はそうしたものではない。
 「不注意でいると怪我をする」という命題があったとしよう。これは真であると言ってよい命題であろうが、仮にこの命題が真であっても、「怪我をしたのは不注意だから」という逆の命題は真とは限らないのであり、これを混同してはならないであろう。この辺りの区別がつかないと、「○○をせねば××となる、だから○○しなさい」が全て「恫喝」であるなどと言い出すことになるのである。
 経典(に限らないが)は、全体の文脈をきちんと把握せずに、断章取義の解読をすると、自らの偏見によって誤解をすることになる。だから、木を見て森を見ず、枝葉に囚われて根幹を見失わないよう、注意しなければならないのである(この表現も「○○をせねば××となる、だから○○しなさい」である。これも「恫喝」であろうか?)。
 ことの序でに付言しておくならば、門馬氏の「むろん、この場合の『悪』は現世において既に堕地獄の状態にある『癩者』や『障害者』である。『勧善懲悪』は『救済のメタファ』の論理となっている。『勧善』は仏教における『救済』の勧めであり、それの資格要件は『法華経』の護持である。」という説明は、仮に法華経が「勧善懲悪」の経典であるとしても、誤りである。法華経が「勧」める「善」は法華経の受持であり、救済=離苦得楽はその結果である。法華経が「懲」らしめる「悪」は、誹謗正法であり、不離苦不得楽はその結果である。不離苦不得楽の者を「懲」らしめて、どうしようと言うのか。
            四
 要するに、法華経の説くところは、一乗平等である。差別ではないし、況や恫喝などではあり得ない。
 法華経の説示には一乗平等が貫かれているのであって、一見そのように見えない部分があったとしても、それは対告衆や説相の展開に依る方便であり、随宜所説なのであって、その深奥にある意趣を読み取らねばならないのである。
 断章取義をすると、それが見えなくなって、軽率なる概括の誤謬を犯すことになる。以て銘すべきであろう。
  註
 (1) 平楽寺書店版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三六八頁—三七五頁
 (2) 門馬幸夫『差別と穢れの宗教研究』三二頁—三三頁
 (3) 宮崎英修「法華経における差別と平等」(田賀龍彦編『法華経の受容と展開』)二一四頁
 (4) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三六七頁—三六八頁
 (5) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三六五頁
 (6) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三六九頁
 (7) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三七二頁 
 (8) 門馬前掲書、三五頁
 (9) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』五九五頁—五九九頁
 (10) 門馬前掲書、三七頁
 (11) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』五九六頁
 (12) 門馬前掲書、三八頁—三九頁
 (13) 森本覚修『法華経』−普賢菩薩勧発品—における業と差別の問題(『浄土真宗教学研究所紀要』第五号)一五七頁—一五八頁
 (14) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』五九九頁
 (15) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三五一頁
 (16) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三五二頁
 (17) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』三五三頁—三五四頁
 (18) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』五九八頁
 (19) 前掲版『真訓両読 妙法蓮華経並開結』五九八頁
 

 

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