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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

寺院におけるジェンダーバイアス

 

寺院におけるジェンダーバイアス
(女性と仏教・関東ネットワーク) 瀬 野 美 佐  
 みなさんこんにちは。ご紹介にあずかりました瀬野と申します。本日はお呼びくださいまして、ありがとうございました。いっぱいお話したいことあるんですが、とりあえず今日は初対面の方ばかりですので、自分のことから、お話させていただきます。
 私は三重県の生まれで、父は曹洞宗寺院の住職をやっておりました。ひらたく言いますとお寺の娘ということになるわけですが、私は「寺の娘」っていう言い方に抵抗がありまして、ですからいつもまわりくどく「父が住職してました」という言い方させていただくんですね。何に私が抵抗しているのかというと、それはひとつには寺、この場合は建物としての寺と宗教法人としての寺と二つの意味があるわけですが、そのどっちも娘とか子どもとか、持つはずがない。だから寺の娘っていう言い方は変じゃないのかなっていう、みなさんから言えばちょっと屁理屈、みたいに聞こえるかもしれませんが、そういうこだわりがあるんです。
 ここにいらっしゃるみなさんの中には、それこそ日常的に「寺の娘なんです」とか「寺の子ども」というような使い方をしていらっしゃる方もいると思うので、気を悪くしないで聞いて欲しいんですが、これはあくまでも私の感覚なので。そこのところもう少し説明しますと、ひとくちに「寺の娘」と言った場合、これは結局「寺の住職の娘」とか、「住職の子ども」とかいう意味ですよね。確かに、八百屋の娘とか、外交官の子どもとかいう言い方もありますから、「寺の娘」という言い方でもいいんじゃないの、住職っていうのがめんどうだからはしょったんだよということも言えるんですが、そこで「待てよ」となるのは、それが本当の理由かなと。めんどうくさいんじゃなくて、そもそも「僧侶の娘」「お坊さんの子ども」と口に出して言うことに、何か具合の悪いことがあるんじゃないか。だから「住職の子」と言わないで、「寺の子」あるいは「寺の娘」という、婉曲した言いまわしをしているんじゃないか。そんな気がしているわけです。だから私は、そういう言い方はしない。ここのところが、ささいなようですけれども、私にとってはとても大切な、というか、寺院とかそこに住んでる家族とか、あるいは現在勤務しているところの曹洞宗の、雰囲気とかにかかわってくる問題になりますので、これはまた後で、お話したいと思います。
 私の来し方に話しを戻しますと、じつは私は中学、高校と演劇部におりまして、芝居の台本、戯曲を書いていたんです。それでひじょうに動機としては不純なんですが、高校卒業するときに、東京で演劇の勉強がしたいなと思ったんですね。それで、親がまあ、いわば宗門立の大学っていえるかなと思うんですが、駒澤大学行くんだったらお金出してくれるっていうもんで、それまで学校の成績は決して良くはなかったんですが、合格点のいちばん低かった仏教学部に、一発試験を受けて入りまして、上京したわけです。演劇の勉強はその後も大学に行くかたわら、それから就職してからも続けて、結局二十代の後半に断念したんですが、ひょうたんから駒澤じゃないですけどね。たんなるアリバイづくりだったはずの仏教学部で本当に、初めて仏教ってものに出会ったんです。
 もう、ずいぶんショックでした。生まれてから十八年間、お寺で生活してきたけれども、父親が住職やってる寺の宗派のことはもちろん、仏教自体についても、何にも知らなかったんだなということがすごくよく分かって。それと、下世話な話なんですが、私はここで初めて、同級生たちの話から、お寺からの収入だけで住職とその家族がじゅうぶん生活できる寺があるってことを知ったんです。これももうびっくりでした。全体に曹洞宗の寺院というのは愛知県とか、静岡県とか、あと東北ですね。がんばってお寺だけでやれてる、もっと言えば裕福に暮らしている寺というのはあるんですけれども、同じ東海地方でも三重県とかだと、お寺っていうのはそれ自体では経済活動は成り立たない。住職が公務員とか、他に何か仕事やるとかして、兼業でやらないと成り立たないお寺が大部分なんです。宗派全体で、だいたい七割強のお寺が、お寺からの収入だけでは、住職とその家族の生活がなりたっていかない、いわゆる兼業寺院です。そういうことも、本当に東京に来なければ、地方に居ればその地方だけが全世界ですから、分からなかったと思います。
 ですから、まあ、お寺だけでは生活していけないんで、「男の兄弟居ないんだったら、お寺継がなくて良いの」みたいなこと言われてもね、「いや、継いでも良いけどどうやって食べてくの」みたいなかんじで。とにかく、お寺継ぐという選択肢はまったく、私の中にはなかったですね。とにかく何とかして自活しなくてはということで、就職活動とかもそれなりにやってたときに、卒業論文の指導教授が宗務庁に行ったら、と言ってくれたんですね。その教授は当時、人権問題の顧問みたいなかんじで宗務庁に出入りしていたんで、この方の紹介で就職試験受けて、最初は試験雇用。それから六月に本採用になりました。今年で勤続二十一年目になります、私の宗務庁人生が始まったわけです。
 ざっと説明しましたけれども、ですから私は何か仏教とか曹洞宗にひじょうに強い志向性というか信仰心を持って、それで現在の仕事をしているわけではないんです。がっかりさせてしまったら本当、悪いんですけど。テンション低く生きてまいりましたんですが、芝居を書くということ以外にもうひとつ、すごく私を熱くさせたというか、目のまえがぱあっと明るくなったような出会いが社会人になるころにありまして、それがフェミニズムとの出会いだったんですね。
 それで、みなさんそれぞれこの言葉に対する印象というものは違うと思うんです。なんか、私がフェミニズムって言うとすぐに、ウーマンリブですかとか、男に敵意持った人たちっていうふうに思われてしまうんですけれども。冷静に考えてみますと、これは「フェミニン」つまり女性という言葉から来ている言葉で、「女性的な」とかもっと言うと「女性主義」というか、「女性の視点から」という意味ですよね。女性の視点から見て、社会とかその中で起こっている問題とか、そういうものを考えていこうという。フェミニズムっていうのは基本的にはそれまで男性主体でしか見られなかった世界を、女性を主体にして見直していこうというムーブメントです。だけど、当時の私にとっては、「フェミニズム」この言葉は、はっきり次の一文で表現出来たんです。
 「女だからって、何もひけ目を感じることはない」。それがフェミニズムという考え方だ、と。
 すごく当たり前のことだったんです。当たり前のことだったんですけれども、この思想を知るまでの私なんかにはね、思いもよらない考え方だった。ありがたくって涙が出るくらい。この言葉で、すくわれた。前のところで「お寺継いでも生活出来ないんだから継がない」みたいなこと言いましたけれども、じつは私は継ぎたかったんですよ。十歳くらいのときにね、私は父も僧侶で、祖父も僧侶で、叔父も従兄弟も僧侶なもんですから、自分だってなりたかったわけです。お坊さんに。それで十歳というのが曹洞宗の得度可能年齢で、男の子だったらだいたいその時に得度させてもらう。それで、私も得度したい、このお寺継ぎたいって言ったときに父が言ったんですね。「尼僧が継ぐと寺の格が下がる」。
 これが、もうものすごいショックで。三十年以上むかしの話なんですけど、それでもう十年もまえに父は亡くなっているんですけれども、私はいまだにこのことで彼が許せないですね。しかも、宗務庁入ってじっさいに私が『宗制』使って仕事するようになってから確認したら、そんなこと全然ないんですよ。父が言ったことは、嘘だったんです。確かに何十年も前にはね、曹洞宗の女性僧侶、尼僧さんは、どんなに修行しても位が上がらないとか、格式のある寺の住職にはなれないとかいう、差別的、あえて差別だとはっきり申し上げますけれども、そういう規定はありました。でもそれは先輩の尼僧さまがたの、本当に涙と汗と血にまみれるような運動があって、とっくに撤廃されてたんですね。それなのにそういうこと言っちゃう。「尼僧が継ぐと寺の格が下がる」とか。そんなにたいした、格式のある寺でもないのに。
 駒澤大学の話も、さっきちょっとしましたけれども。その大学でもですね、ある仏教学部の教授が授業中に、それも必修の授業だったんですけれども、「私には女子の学生がなぜここに居るのか分からない」と言ったことがあったんです。「女子にはどうせ寺に嫁に行くくらいのことしか出来ないんだからいくら仏教勉強しても無駄だろう」と。それで私はこのとき、よっぽどそのまま教室出て行こうかと思ったんですが、これは必修の授業ですから。受けないと単位取れないわけですよ。私はもう死んだ気で、とにかく出席だけはして単位取りましたけれども。なんで必修の授業の担当にこんな男をよこすんだと。これ今だったら、性差別、大学なんかではセクシュアルハラスメントにアカデミーをクロスしてアカデミック・セクシュアルハラスメントと呼ぶんですけれども、アカデミック・セクシュアルハラスメントと呼んでも、じゅうぶんとおる言い草だったと思います。
 でも、当時はそんな言葉さえない時代でしたからね、とにかく下向いてじーっと。何も言わないでいたんですけれども、だからといって傷つかなかったわけじゃない。すごく傷ついていたわけです。そこにフェミニズムとの出会いがあった。本とか、上野千鶴子さんの講演会とかに行くようになって、これは自分にとってなんという、すごい、たのしい、うれしい考え方なんだと思ったわけです。
 これは、それまであった「男女は平等ですよ」とか。「差別をしてはいけませんよ」とかいう人権教育。きびしいこと言えば上っすべりの、「じゃあさ、何が平等でどういうのが差別なの」とか訊かれると、言ってる方もうまく応えられないというような、そういうもんじゃなかったんです。具体的に、現実的に、「今、あなたが傷ついているのはあなたが悪いんじゃないの」と、まず言ってくれた。女で居るのは別に悪いことじゃないって。そして、次が女だからって引け目をかんじて生きていく必要はない、あなたはあなたで、ちゃんと人権を持ってる。ってことですよね、女だからということで意味がない、価値が低いということではない。つまり、自分が主体になる。女であっても、自分を主人公にして生きてみろ、と、こう言ってくれたんです。
 で、ここからが本題になるわけですが。大学出て、それから宗務庁に入った。宗務庁というところも、これはすごく私にとっては良い職場でして、それまで自分が育った環境とか、知ってる人のお寺とかだけしか知らなかった私が、全国一万五千ヵ寺がどういうふうに「法人」として運営されているのかを、構造的に知る機会を与えられた。曹洞宗教団の仕組みというか、なりたちというものを、お給料いただきながら勉強出来たわけです。ですから私は、すごくめぐまれてたと思います。
 でもこれはね、たとえば私と同じ寺の、住職の娘で、それでつまり女性であってあるていど仏教の知識がある。そういう私の同級生のひとたち全部にめぐまれた環境ではなかったんです。私はそこにひとつの視点を持って入った。就職した段階ですでにフェミニズムという視点を持っていた。それで私にはとても宗務庁ってところは勤まらないだろうと言われたんですけれども、先輩方が良かったおかげでとにかく何年か居るうちに、フェミニストしての目でみると、本当にね、曹洞宗というところがどんなにワンダーランドか。わけの分からないところかというのがよく分かって。それが分かったから、だんだん「お寺の中でこういうことがわけが分からない」と言う、まあ主に寺族たちなんですけど、そういう人たちの相談を聞くようになっていったんです。
 そういうわけでこれから曹洞宗の寺族について説明します。
 曹洞宗では寺族というのを、『曹洞宗宗憲第八章』でこういうふうに規定しています。「本宗(曹洞宗ですね)の宗旨(教えですね)を信奉し、寺院に在住する僧侶以外の者を寺族という」。つまり、お寺に住んでて曹洞宗の教えを信じていて、それで僧侶でない者は全員寺族だと。これは宗派の憲法と言ってもいいです、『宗憲』にそう書いてあるんだから、これが曹洞宗で唯一の、国に届け出た条文に書いてある、正しい寺族の定義なんです。ですから、もし私が得度していたら、つまり僧侶であったら寺族ではないんです。それで私は現在都内のマンションに暮らしているわけですから、お寺に住んでないから、そっちの用件も満たしてない。ですから、私は寺族ではないんですね。
 ところが、この定義というか、条文が、あまり周知徹底されてないんですよ。たぶん、ここにおいでの日蓮宗の方が曹洞宗のお坊さんとか、あるいはうちの宗務庁の職員でも良いですけれども、「寺族っていうのはどういう人なんですか」とお尋ねになったとしますね。そうすっと、おそらく彼らが応えるのはこの第八章の定義ではないんです。たぶん、こう応えると思うんですよね。「ああ、それはお寺のおくさんです」。
 ここでまた出て来ました。「住職のおくさんです」じゃなくて、「お寺のおくさん」ですね。寺が結婚するかっつーの、と言い出すとまた繰り返しになりますから省きますが。とにかく「住職のおくさん」のことを寺族というんだと。第八章の定義でなしに。
 それでは、なんで彼らはそんなふうに応えてしまうんだろう。宗憲には別なことが書いてあるのに、ということを考えたいと思います。
 じつはこの宗憲第八章というのは、わりと新しい条文なんです。まあそのせいで周知徹底されてないということもあるんですが、平成七年に曹洞宗は『宗憲』を含めて、『宗制』全体の見直しをやったんです。それで、それまで縦書きだった書式が横書きになったりいろいろ、かなり大規模な改訂がありました。そこでですね、それまで『曹洞宗宗制』には寺族がどういう人であるかという規定、定義づけがなかったんです。過去何十年かさかのぼって見ると『宗制』の中には『宗憲』の他に『規程』の部というのがありまして、その中に『寺族規程』というのがあるんですが、そのいちばん最初のところに「寺族とは住職の家族であり」という一文が入っていた時期もあるらしいです。私も昭和のどのへんかは把握していないんですが。とにかく「寺族は住職の家族であり」という定義が過去にはあったらしい。ところが、これは『寺族規程』の中にちょろっと出た、と思ったらぱっと引っ込んでしまった。このあたりの研究は、駒澤大学の熊本英人先生が詳しく研究して論文も書いていらっしゃいますので、もうちょっと詳しくということでしたら熊本先生にお訊ねになるといいと思うんですが、それでも『規程』レベルではね、家族とかいう言葉は出たことはあっても、『宗憲』の方では寺族については、それまで触れていなかったわけです。「僧侶とは」とか「檀信徒とは」とかいろいろ定義づけられている中に「寺族とは」という定義だけがなかった。
 それで、その平成の大改訂の当時、だいたいで見積もっても僧侶以外で寺院で生活している人が二万五千人くらい居た。教師資格を持った僧侶が一万七千人くらいですから、まあそれよりずっと多い人たちが寺院で生活していたわけです。この人たち何なの、と。何の理由もなく寺で生活しているわけ。それでお掃除とか檀家の接待とか塔婆書きの手伝いとかしているわけ。そりゃ、まずいでしょうということになって、寺族を『宗憲』の中に位置づけるというのが、この平成七年の大改訂のひとつの目玉になっていたわけです。
 細かいところははしょりますが、その結果生まれてきたのがこの第八章の条文、「本宗の宗旨を信奉し、寺院に在住する僧侶以外の者を寺族という」という条文だったんですが、もうこれはほとんど出た瞬間から評判が悪かった。あまりにもわけが分からないということで。あるひとはこの条文見て、たったひとこと「だったら猫も寺族か」って。それはそうなんですよね、宗旨を信奉していればこの条文からすれば、飼い猫だって寺族だ。
 それでなんでこんな変な条文になってしまったかというとですね、私は聞いてみたんですよ。「寺族というのはお寺に住んでる住職の家族でしょう」と。それもほとんどが妻でしょう、と。妻と書けとは言わないけど、配偶者とか、家族とか、なんでそういうふうに書けないんですかって聞いてみたんですね、そのときの担当者に。そうしたら、もうそれはしょうがないと。「曹洞宗の僧侶は出家で、結婚してないんだから」と。「だから宗憲に配偶者とか家族って言葉は使えない。そういう主張が委員の中から強硬に出て、どうしても説得できなかった」って。
 もうね、あっけにとられたというか。愕然としましたけれども。だって実際に結婚してるでしょう。大部分の男性僧侶は結婚するわけですよね。それで、妻とか家族にお寺の中の雑事とか全部やってもらって、大助かりしているわけだけれども、だけど出家として結婚はしていないという建前だけは守りたい。ある意味で、ファンダメンタルな、原理主義的なところに、たぶんここで曹洞宗は一回戻っちゃったんですね。「あっ、そうだ。オレら出家だった」みたいな。
 だけど、ふだん忘れているくらいだから、それでほいほい結婚しているくらいなんだから、そうとう現実とのギャップがある。本人たちはそのギャップを、こういう言葉のすりかえでうまく納得させたつもりでいるかもしれないんですけれども、実際僧侶の妻であったり家族であったりする寺族さんたちが、この条文見てどう思うかというのは一切あたまの中から欠落しているわけです。ずいぶん人をなめた話だと思います。
 ただですね、ここで私があんまりこういうこと言うと、おまえはずいぶん言葉にこだわるようだけれども、実際妻であり、家族であるということが事実である以上、そんなに言葉にこだわることはないんじゃないかっていう、反論がすごくあるんですね。言葉にそうこだわるな、と。宗憲だか宗制にどう書いてあろうが、愛し合った夫婦がいっしょにお寺を守っていこうとしているのだから、そこで言葉がどうの定義がどうのと言っても意味がない。とかね。私もさんざん言われましたけれども。それは、はっきり申し上げまして全然違います。っていうか、そんなのんびりしたこと言ってたら、曹洞宗の寺族はやっていけません。身ぐるみはがれて寺を放り出されるのがオチです。
 はっきり申し上げまして、曹洞宗で寺族問題というのは、「住職の死後に寺族がお寺を追い出される」問題のことを言うんです。それは、たんなる同居人ですから。しかも僧侶でないんですから、お寺にとっては何の価値もない人なんですね、寺族というのは。住職の死後は。だから絶対に、必ず、後継者たる子ども。それも男の子を生んで、後継者たるようにそだて上げなければならない。いくら五人も十人も男の子生んでも、全員が「オレは嫌だよ」とか言って出ていってしまったら、アウトですね。住職の死後は、寺に居る意味がない。ですから簡単に総括しますと、『宗憲』にどう定義づけられていようともですね、曹洞宗の寺族というのは住職の妻、あるいは住職の母親。このどっちかしかないんです、現実的な問題としては。
 私自身としては、寺族は配偶者たる住職の死後はね、もうそこまでして寺に居なくても良いんじゃないのというか。そもそも寺族になる段階で、自分は将来、絶対ここから出ていくんだみたいなかんじで居た方が良いですよとか、思うんですけれども、そのためにはやっぱり経済力ですからね。みんなにそういう条件を求めるわけにはいかない。だって、それまでずっと寺で生計立てて来たひととか、あるいはこのケースはもっと問題が悲惨になるんですけれども、寺がやっている事業。幼稚園とか福祉施設とかで施設長やっているとかですね、とにかく寺から離れたらそれまで何十年もそこで積み上げたキャリアがゼロになってしまうような人に対して、それは住職と結婚したときからあなた、覚悟しておかなければいけなかったんですよ。なんてことは、ちょっと言えないですよね。こっちとしては。
 これはですね、日蓮宗の方からすれば、だったら寺族も僧侶になればと。寺追い出されそうになったら、もう僧侶になってですね、とにかく寺に居たいんだったら自分が住職すれば良いじゃないかと思われるかもしれないんですけれども。曹洞宗では、僧侶になるのは簡単なんですけれども、住職になるのはすごくむずかしくて、時間もかかるんですよ。
 まず得度してから、僧侶として、住職の資格を得るところまで行くのに、だいたい一年以上かかると思ってください。それも必ず、立身させてくれるひと、次に伝法させてくれるひと、それからというふうに、無事に住職になるまで全部責任持ってやってくれるひとが師匠につくということが、必須条件になります。住職になってない僧侶というのは、自分じゃ何も出来ないんですよ、曹洞宗では。宗務庁に書類ひとつ提出出来ない。旦那さん失った寺族さんに、肉親でも家族でもないのにそういうこと全部、責任持ってやってくれる人が居るかどうかとなると居ないとは言いませんけれども、ひじょうにめずらしいですね。
 それと並行して教師資格を取るということがあります。最低でも二等教師の資格がないと、住職は出来ません。で、この二等教師を取るというのがまた、最短でも半年以上。だいたいの場合一年の僧堂修行が必要なんです。その間びっしり、修行道場に居なくちゃいけない。ですから介護が必要な病人が居たりとか、小さなお子さんが居たりとかした場合はもうアウトですね。僧堂に行けないひとは、住職にはなれません。
 でもまあ、それでもこれしか生きる道がありませんとかね、そういうことになれば人間すごく力が出てくるもんだと思うので。どうしても自分が夫の後を継いで住職になる、修行もするというので、五十、六十の坂を越えてから愛知専門尼僧堂に行った方とか、実際私も存じ上げている方もいらっしゃいますが、そういう人も居ます。また、そういう方を否定する気持ちは、もちろんないですよ。立派なことだと思います。
 問題はですね、寺族というか、僧侶と結婚する。あるいは僧侶の娘として生まれて来た女性たちには、あらかじめ道が二本立てになっているということなんです。寺族と女性僧侶と。この二つは並び立ちません。何回も言いますけれども、寺族というのは「寺院に在住している僧侶以外の者」なんですから、寺族と僧侶とを兼ねることは出来ない。そして僧侶でなければ、基本的には寺院法人の代表役員になることは出来ないんです。
 ただ、特例処置といいますか、寺族でも代表役員になる道がないわけではないんです。これは、住職が亡くなる前に、あらかじめ寺族の中の一人を、っていってもだいたい妻なんですけれども、特定代務者登録しておくことが出来るという制度です。特定代務者制度といいますけれども、この場合あらかじめ特定代務者登録されていれば、おくさんは住職の死後すぐに特定代務者に任命されて、三年間の年限を区切って寺院の代表役員、つまり住職になれるんですね。
 これはおそらく、住職死にました。翌日寺族がお寺追い出されましたというような、あまりにもみっともない事態がひんぱんに起きることを阻止するために作られた制度だと思うんですけれども。この場合の特定代務者というのは、あくまでも法人の代表役員としての代務者であって三年の年限というのも、その間にとにかく自分にとって有利な後継住職をどこかから探して来いという、猶予期間に過ぎないんですね。ですから、制度的には法人の代表役員、つまり住職ですけれども、僧侶ではないですから、法要とかは一切出来ないです。すべてよそのお寺の住職とか、僧侶の方に来てもらわなければならない。この三年の間に、自分が資格取るか、でも、この資格取るというのは僧侶になってからの話なので、僧侶になったとたんに寺族ではなくなる、つまり特定代務者でもなくなってしまうので、かなり綱渡りなんですけれども。息子を後継者にするか、娘を後継者にするか、あるいは娘に後継者になっても良いという配偶者を見つけるか。あるいはまったく別な人を自分に有利な条件でリクルートして来るかという、相当デンジャラスな話になってくるわけです。三年なんてあっという間ですから、そのうち檀家とか周辺のご寺院が口を出して、話がめちゃくちゃになってしまって、結果やっぱり追い出されたという例も、ないわけではありません。
 とにかく、旦那が死んだら私はどうなるんだろう。というのが曹洞宗の寺族問題の本質なんです。あまりにぶっちゃけでどうしようもないくらい簡単な話です。
 ただ一方で、なんで寺族で不満なの。と、いうふうに私もさんざん言われるわけです。さっきも言いましたように、二本立てなわけですから無理せずらくな方を選べばいいじゃん、と。男のひとからも、女のひとからも言われます。寺族として勝ち組になることはそうむずかしいことじゃないでしょう、と。とにかく住職が生きている間は、亭主をしっかり操縦してですね、子どもを、一人で良いわけです。一人の男の子を生んで跡継ぎとして育てあげられれば、寺族さんっていうのは住んでるところの固定資産税も払わずにすむし、地域では「お寺のおくさん」と持ち上げられてプチセレブ。これのどこに不服があるの、と。
 大ありなんです。ここまで話聞いてくださったみなさんにはお分かりだと思いますけれども、この人たちの言うことって、簡単に言いますけど、ものすごく条件が厳しいですよね。まず、旦那が浮気をしない。次に、子どもは必ず生まれる。そんなこと、今の日本であるわけないじゃないですか。次に、うまく子どもが生まれたとしてもその子が住職になる可能性は百パーセントじゃない。娘しか居なかった場合、その配偶者が住職になれる可能性がどれくらいあるのかも分からない。そして最後に、配偶者たる住職は病気もせず、交通事故にもあわず、何らかの事件にまきこまれることもなく、後継者たる息子が住職になるまでは、絶対に元気で生きている、という。
 もうこれはね、今の日本ではほとんどありえねー話です。だけど、寺族問題やってると、そういう事態をあるに決まってると確信して堂々と述べ立てる人というのが、かなり居るんです。それで、私はこれはなんなんだろう。こんなに現実が見えてないということは、この人たちはもしかしたら本当は頭が悪いんだろうかと思って、ずい分考えて来たんですけれども、最近になってはた、と気づいたんですね。これは現実がどうの、定義がどうのなんて問題じゃないんだ。これは彼ら彼女らの願望なんだと。ただの「願望」を「現実」とすりかえて、それがあり得べき唯一の姿としてしがみついているだけのことなんだ、と。
 その人たちにとっての寺族像というのは「こうあって欲しい」と自分たちが願っている姿でしか認識出来ないんです。ですから、夫である住職が浮気をした。頭にきて離婚するから、これまで自分が寺で働いた分の賃金を現金でくれと、亭主じゃなくて法人に対して請求する寺族とかですね、息子には自分の好きな道を歩ませたいから、得度させないと言い出す寺族とかですね。あるいは子どもが居なくて寺を出ていかなくてはいけないので、家一軒買うためのお金を出してくれと寺院法人相手に民事訴訟起こす寺族とかはですね、彼らの想定外なんです。そんなことする寺族なんて、考えられない。考えられないから対策が立てられない。そこまでを「寺族問題」として良いのかどうかも判断がつかないんです。
 亭主の浮気なんかについては、それは当人同士の問題なんだから、本人に請求してくれと言えば良いようなもんなんですが、それまでさんざん教団ぐるみで、研修会とかでですね、それが寺族の任務ですよ、とか教育して、お寺の中の仕事をやらせていた手前、寺族の側から「そっちも責任取れ」とか言われてしまうと、本当に困ってしまうわけです。
 私自身は、ここまでを含めて寺族問題だと思っているんですが、教団の上の方の人たちは、おそらくいまだに「住職の死後に寺を追い出されるあわれで悲しい寺族のために」何かするのが、寺族問題対策だと考えているかもしれない。そのあたりは、私は教団幹部ではないし、まして僧侶でもないので、何とも言えないんですけれども。
 私が、ここまで含めて全部寺族問題だと認識する理由はですね、これは全部ジェンダーバイアスの問題だと思うからなんです。これ、どういう意味かと言いますとですね、今の宗教界で、っていうか日本の社会で性差別が良いか、悪いかといって、良いって言うひとは百パーセント居ません。それは、映画ヒットさせるためとか本売るために、ポーズとして「オレら男尊女卑だぜ」みたいなことを言うひとも居ますけれども、あれは完全に営業トークですから。本気で言ってるんじゃない。性差別ですか、悪いですよ。男女平等、結構じゃないですか。女性でも能力のある人はどんどん登用して活躍してもらって、と。これは曹洞宗のお坊さんたちみんな、心底そう思っているし、口にも出してることだと思うんですね。それで十分自分は女性に対して理解があると思っている。
 でもですね、私は思うんですけれども、「女性でも能力のある人はどんどん登用して」というけれども、だったら男性ならば能力がなくても登用されるのか、と。なんで女性は何か特別に能力が無いと評価の対象にならないのか、というふうに思うんですね。十年くらい前ですと、私どもの職場でも「女は男の倍働いて、でもそれを隠してやっと一人前」みたいなことを平気で言っていたわけです。女性が評価されるためには男の倍やれ、と。しかもそれを評価してくれとは言うな、と。そういう自分たち男にだけ都合のいい話を、まるでありがたい、それこそ仏教の教えみたいに口にしていたわけです。
 でもって、男女雇用機会均等法が施行されて、同一の労働には同一の賃金を払え。あるいは同じ成果には同じ評価を、っていう流れに世の中がなってくると、今度はこう言い出すわけですね。住職僧侶には住職僧侶の役割があり、寺族には寺族の役割というものがある。どっちが上とか下とか、そういうことはない。だから、寺院の中には性差別というものはない。男女は平等なんだ、というわけですね。
 それで、これは最近、「真宗大谷派における女性差別を考えるおんなたちの会」というところから、菱木政晴さんという方が書かれた『「女人五障・変成男子」を完全に読み解く』という本が出たんですが、その副題が「マルクス主義フェミニズムの問題構成によって」となっていましてそのマルクス主義フェミニズムの観点からすると、すごく分かりやすい話なんですね。そんなのは平等でも何でもないってことが。マルクス主義フェミニズムというのは、この中で菱木さんも書いておられますけれどもマルクス主義の分派ではないんです。マルクスは、資本制というものがお金でもって差別とか人民の支配というものを見えなくしていると言った。それからフェミニズムは再生産労働、これは家事労働とか子ども生んで育てるとかいった労働のことを言いますけれども、そこでの不平等は愛でもって見えなくされていると言った。お金と、愛。この二つのものによって見えなくされている差別を顕わにして、その解決策を展望するというのが、マルクス主義フェミニズムというのではないのかなと思います。とにかくこの本はかなり良い本ですので、一読されてみると良いと思います。
 で、私は何しろ最初にフェミニズムを知ったのがこの本でも紹介されている上野千鶴子先生の、『資本制と家事労働』だったものですから、お寺の中の労働というものについて、男のひとたちみたいに無邪気にはなれないんですよ。とても平等とは思えない。法事のときなんかはですね、住職は本番になってちょろっと出てきて儀式を執行するだけ。寺族の方は、通知の発送から弁当の手配、会場の設営して接待の準備して当日は会場と庫裏と行きつ戻りつしながら檀家さんの相手して、後席で酔っ払った組寺の和尚さんたちの車の送迎をやって、住職が寝ちゃった後は後片付けして掃除して、住職の衣畳んで……、それで評価されるのは住職だけかよ、おい、ってかんじがしてた。お寺でそだってそういうこと小さいときからずっと、自分もやってきたわけですからものすごい不平等だと。
 これはもちろん個人差がありますよ。うちでは準備とか後片付けとか女房には一切やらせません。全部自分と自分の弟子と檀家役員でやりますって、ここにいらっしゃる方のほとんどはそうだと思うんですけれども。とにかくお寺のお庫裏さんというんですか、おくさんの労働量というのは大変なんです。寺族さんというのは、過労で亡くなるっていうのが冗談ではなくて、本当にある、そういう世界です。ですから、小さいときからそういう母親とか見てそだったうちの宗派の住職の娘、私なんかもそうですけれども、お寺には絶対お嫁に行きたくないと。あまりにもわりに合わないというふうに思っちゃうわけです。
 ところがですね、そういう現実。それでいて、まずいなあ、これじゃ息子は結婚出来ないよ、とか。そういうふうな危機感を持つ僧侶というのが、あまり居ないんですよね。これ、ほんと不思議なんですけど。それ何でかっていうと、彼らは、女の人たちがそういう労働を「喜んで」「自然に」「らくらくと」やっていると思っているからなんです。そもそもそれが労働だとも認識していない。私が、「寺院内労働」とか言うと、あれは労働じゃないだろうとか。絶対口に出しては言いませんけれどもね、顔見ればそう思っているだろうことは分かります。
 これが、ジェンダーバイアスなんです。私が寺でそだって、ながいこと疑問だったこと。お寺でこんなに大変なのに、大学でこんなに口惜しい思いしているのに、なんでそれが分からないのかなあというのは、彼らが「寺族なんだからやって当たり前だろう」「女なんだから、そう言われても当然だろう」と、考え方の中にそういうバイアス、偏向がかかっているからなんですね。
 これは岩波から出ている『女性学事典』の中で、「性差別」の項の説明で出てくる文章なんですけれども、「現代社会の性差別の特徴は、生物学的性差や文化的・社会的伝統によって、性別を指標とした区別的処遇が差別行為として認識されず、『自然』『あたりまえ』などと正当化されてきたことにある」とありますけれども、私はまさにこれだな、と思うんですね。これは性差別ですよというと「それはいかん」と即答されるお坊さんがですね、「尼僧が継ぐとお寺の格が下がるって言われたよ」とか言うとですね、それは差別じゃないんだ、と。それはおやごころだって言う。「娘に苦労させまいと思ってそう言ったんだよ」って。これもジェンダーバイアスなんですよ。なんで息子なら苦労がなくて、娘なら苦労するのか。それは、そのひとが女性僧侶に対する差別撤廃の運動をがんがんやった上で、現実を見ろってことでそう言うんならリアリティもあるんですけれども、彼らの場合はもうあらかじめ「女性僧侶が男性僧侶より下なのは仕方がない」っていうバイアスを持っているわけです。それで私が怒って何か言うにしても、おやの心子知らずだなあというふうにしか思えない。なんで私が怒るのか、分からない。
 やっかいなのは、ここではそのひとに、女性とか女性僧侶に対する悪意なんか、これっぽっちもないってことなんですよね。さっき言いましたように、「それが自然」「それがあたりまえ」と思って言ってる。だから、差別だとか言われると、本当に傷ついちゃう。「女性だからして当たり前」「女なんだからよろこんでやってるんだろう」。そういうふうに言葉を返されて脱力した経験。これ、働いてる女の人だったら、もう思い当たるシーンが十や二十じゃ足りないと思いますよね。
 で、ご存知だと思いますけれども、曹洞宗では三○年近く前になりますけれども、部落解放同盟さんからの糾弾を受けてから、曹洞宗はそれはもう人権問題について必死にやって来たわけです。差別戒名とか、墓石とか。最近では強制連行されてきた朝鮮半島の方たちの遺骨奉還運動とかですね、すごくやっている。ですから、「これは差別でしょう」とかいうともう、すごくヴィヴットに反応するんです。
 だけど、こういったジェンダーバイアスについては、いまだに、無垢な赤子というか、まるっきり何も知らない。感性がないんです。だから寺族問題が分からない。寺族に何の問題がある、ってことになる。
 これは、私が本格的に寺族問題に咬むことになったというか、『仏教とジェンダー』に書かせていただく機縁をつくってくださった、曹洞宗の寺族で、名古屋工業大学の助教授の川橋範子先生がよくおっしゃっていたことなんですけれども。彼女は前のところでもお話しました『寺族規程』の中に、寺族の任務として「住職の補佐」というのがあるというのを、ずっと問題にしてきたわけですね。それで私は最近になるまでそれが分からなくて。寺族というのは住職の補佐するのが任務なのは当たり前だろう、と。だからここにそれが書いてあるのがそれほど問題なのかと思っていたんですけれども。考えてみたらですね、寺族があくまでも「住職の補佐」という立場であるならば、住職が居なくなった場合、亡くなったりした場合には、お寺に居る意味がなくなってしまうんですね。私はそれは以前には気強くですね、「いや、でも、夫である住職が亡くなっても、後継住職の補佐をすることに変わりはないわけだから、寺族は寺族だろう。寺に残れるはずだろう」とか、言ってたんですけれども、寺族さんの相談にのったり、実際にトラブルに巻き込まれたりするうちにですね、これはやっぱりとおらない。寺族である妻がですね、夫以外の人を「住職と寺族」ということで補佐出来るというふうにはうちの人たちは考えられないんだなと、思うようになったんです。
 「寺族っていうのは誰ですか」と訊いたときに、「それはお寺の」あるいは「住職のおくさんですよ」としか応えられない。新しい『宗憲』の定義が発表されてから十年経っても、それが変わらないということだったら、寺族というのはあくまでも、その時住職だった、あるいは次の住職の妻だったということでしかない。ということなんだったら、死なない人間は居ないんだから、住職が亡くなった場合には、インドのサティーじゃないですけれども、妻には殉死してもらうのが一番、寺族じゃなくなってもらうしかない、ということになる。この条文は、やはり川橋先生がおっしゃっていたとおり、「寺族問題」の要になる一文だったなと思うんです。そこにジェンダーバイアス、女は、配偶者たる夫の補佐役に徹するのが自然であり、正しい姿だとする考え方がある限り、寺族が寺族として自分一人の力といいますか、権利主体として保証されるという、そういう現実は出てこないんです。
 ですから、じゃあお前はどうしたら良いと思うのかと言われたらですね、とにかくぶっちゃけこういう状態だ、と。寺族というのは夫たる、あるいは息子たる住職の従属物だ。だからトラブルがあった時には教団としては何も出来ないから、個人名義の貯蓄をしておくとか、寺名義のではなく個人名義の不動産を取得しておくとか、あるいはお寺の仕事は出来るだけサボって体力温存して、自分がそれで将来にわたって生活出来るしごとを外で見つけてくださいとか、そういうことをきちんとご案内することしか、教団には出来ないんではないかな、と今になって私は思っているわけです。
 それから、男性僧侶に対してはね、結婚するんだったら、本当に相手を守る。口ばっかりじゃなくてね、愛をまっとうするというのならば、寺院法人の運営上、居てもらわなければならない寺族という存在に対して、それ相応の敬意を払え、と。彼女たちがいくら働いても壊れない機械じゃなくて、心もあり病気もする人間であって、いろんな痛みとか感じる人間であって、自分に何かあったときは、少なくとも金銭面での生活保証は出来るように、そういう論点で話を進めてもらいたいんです。じっさい、私は敬愛するある女性僧侶の方に「男のお坊さんは結婚して家庭つくるというたのしみを持つんだったら、三億くらいの生命保険に入るのが当たり前」とか、言われたことがあるんですね。曹洞宗の女性僧侶の方は、今でもほとんどが結婚しませんから。それは、出家としての生活をまっとうしていらっしゃる彼女たちにとっては、なんで寺族問題なんかに宗門が取り組まなくてはいけないんだ。がたがた言うまえに結婚するやつが個人として取り組めとおっしゃるのは、しごく当たり前の話だと思います。
 「寺院におけるジェンダーバイアス」ということでお話して来たんですけれども、あまりこれでご納得いただけたのかどうか、ちょっと自信がないんですけれども。ただ、そういうふうに思ってるのは私だけかもしれないんですけれども、ジェンダーバイアスという考え方は、これまでどうも寺族問題を、自分たちの権利ばっかり主張する女性たちの権利拡大運動だとか、寺族対男性僧侶とか、あるいは女性僧侶とか。そういうちょっと膠着状態に入っちゃった部分を、緩和するというか一歩引いて見ることが出来る考え方ではないかなと私は思うんです。だから、私は現状宗門ではこの問題についてほとんど発言が出来ない状況にあるんですけれども、それは私と話すと糾弾されるんじゃないか、すごくやっつけられるんじゃないかというふうに、男の人たちが思ってしまった。それに対して、私にまったく責任がないとは言いませんけれども、そうじゃなくて、私はじつは寺族のために何かくれ、何かしてくれ、というふうに言ってるつもりはないんですね。ここにこういう問題がある。一見ややこしそうだけれども、こういうふうに考えてみれば解決にたどりつく方法がないこともない。だからいっしょに考えてみましょう。考えるのはたのしいですよ、といつも言ってるつもりなんです。
 自分が糾弾される糾弾されると思っているから、心も体も硬くなってしまうので。そうじゃなくて、フェミニズムというそれまで知らなかった異文化ですね、そういうフィルターでものを見てみると新鮮だったりよく分からないことがすぱっと分かったりする。それはたのしいことなんじゃないかと思うんです。自分の中のジェンダーバイアスに気がつくというのは。私もやはりそういうものは持っていますから、これは自分がバイアスが強いなとか、弱いなとか。本当、意外なところで面白い発見があったりします。
 そういう柔軟な感性が、今宗教界には求められているのであって。ですから私は最初宇都宮さんから曹洞宗の寺族相談窓口、電話ホットラインですね、それの話をしてくれと言われたときに、私は委員でもないし何も分かりませんとお答えしたんですけれども、負け犬の遠吠えで言わせていただくなら、そこの相談員さんとか委員会の人とかに一番注意してもらいたいのは、ご自分の中のジェンダーバイアスをつねにつねに点検してください。それだけは、本当に言いたいですね。私がもう二十年くらい前に、そういう立場ではなかったんですけれども、たまたま寺族さんの、まだ相談窓口がなかったころで普通の電話に入ってきちゃったんですけど、その寺族さんはとにかく毎日毎日おしゅうとさんである住職から「ばか」とか「役立たず」とか言われてですね、それがつらくてつらくて仕方がないんだ、と。副住職の夫は、そんなことは気にしなければ良いというし、お寺の外の人には相談出来ないし、どうしたら良いんでしょうかって、訴えられたことがあるんですね。
 そういうときに、バイアスがかかった状態で、女というのはやっぱりしょうがないものだ、と。なぐられてるわけでなし、そういうことは気にしなければ良いでしょうって、その旦那さんと同じことを相談員が言っちゃったらですね、もうどうしようもないわけです。「寺族のための相談窓口」じゃなくなっちゃう。ただ「相談窓口」をつくりましたよ、うちはやってますよというためだけの相談窓口になっちゃう。
 ってまあ、ここで言っててもしかたがないんですけれども。そろそろ時間になって来ましたのでまとめというか、ちょっとうれしいご報告をさせていただきたいと思います。
 じつは私どもには寺族さんの全国組織がないんですね。青年会と婦人会、この婦人会は檀信徒の女性の方も含めた団体なので、寺族会とは設立の趣旨も組織立ても違うんですけれども、こっちは全国規模になっています。ですけど、寺族会だけ全国組織になっていない。基本的には教区、市町村のレベルですね、そこで寺族会をつくって、それがあつまってそれぞれ県の宗務所単位で寺族連合会をつくっている。単位としてはその上が管区で、全国で九管区あるんですが、最後が全国ですね。ところが寺族会というのは『宗制』では県宗務所単位の寺族連合会が最大のもので、管区、まして全国というのがつくれてないんですよ。それで数年前に九州が勝手につくってしまいまして、今のところ唯一の管区寺族会を持っています。それで他所でも「うちでも管区でやりたいわ」というようなところがぽつぽつ出てきている状況です。それで、全国組織というのはないんだけれども、年に一回、宗務庁が召集する寺族中央集会というのがあるんです。これは各宗務所から代表を一人か二人づつ来てもらって、えらい人のお話を聞いて内局に会ってというような、いわばセレモニーなんですけれども、今年はその一二四人の集まった寺族さんたちに、班ごとに分けて報告書を書かせたんですね。
 で、それが私が編集を手伝っています『曹洞宗報』に掲載されることになって、これは明後日発刊の九月号に載るんですけれども、私は原稿整理の段階からつきあって、こりゃぁエライことになったと。なまなましいんですよ、中身が。班は八つあって、中にはね「お寺で文化教室をやってたいへんよろこばれております」みたいな優等生的なものもあるんですけれども、「毎年同じ質問を内局にして、同じ答えしか返って来ないのはなんでなんだ」みたいな、かなり痛烈なものから、これは複数の人が書いて来てたんですけど、とにかく寺族会を全国組織にしてくれと。地域単位のまとまりしかないんじゃ、寺族はいつまで経っても分断されたままで不安で仕方がない、というような要望が出て来てるんですね、具体的に。これはすごいことだなと思いました。
 それともうひとつ、びっくりしたのは、もうお寺世襲じゃなくても良いんじゃないですかってことを、寺族さんが書いてるんですよ。これも複数の人が。もちろん曹洞宗、禅宗ってところは住職は結婚しない、妻帯しないってことが本筋ですから、実子が寺に居てしかも跡継ぎになるなんてことは、本来はあり得べきことではないんだけれども、現実にはほとんどが世襲ですね。これは、世襲でないととても一万五千ヵ寺がもたないということもあるので、前にも言いました駒澤大学の熊本先生なんかは、現在の曹洞宗の寺は実子しか継いでくれない寺と、つまりそれくらい経済的には破綻しているということなんですけれども、実子以外には継がせたくない寺、つまりこれだけ良い目をみれるんだから絶対に他人にゆずってなるものかっていう寺と。二極分化しているとおっしゃっているんですけれども、正直言って世襲やめたら教団の規模はおそらく百分の一くらいに縮小するんじゃないかってくらい、世襲でなんとかもたせている。それで、結局のところは寺族の存在する意味というのも跡継ぎを生んでそだてるってことに尽きるんですよ。『寺族規程』の寺族の任務にも、住職の補佐の他に、寺院後継者の育成っていうのが入っていて、私の知ってる寺族さんなんかは、それは住職のしごとだろうって怒ってたりしたんですけど。もうこれはもう完全に「生んでくれよ」という意味だろうと私なんかは思いますよ。
 その寺族さんの方から、それも宗務所がえらんで来るくらいだから、優等生の寺族の中から、「もう世襲じゃなくてもいいじゃないですか」「在家のお子さんでも僧侶に、それから住職になれる道を整備するべきですよ」なんて声が出ている。もう、これびっくりでした。おたくも男の子が生まれてこれで万々歳ですねえ、なんて言うのが寺族だと思っていたら、「世襲なんかやめちまえ」と、じつはそう思ってる。
 これはもう、『宗憲八章』をつくるときに、「曹洞宗のお坊さんは教義の上では結婚してないんだから」なんて寝ぼけたことを言ってるのとはレベルが違うんです。現実に対する認識が、すごくシャープで。跡継ぎをそだてないと、もうそこに存在する意味ゼロみたいな、相当なプレッシャーがかかる中でやってきて、それで事態が好転するかと言ったら相変わらず兼業しないと生活できなかったり、住職との間に会話が成立しなかったり、子どものことでも気の休まるときがなくて。寺族って、「ここで上がり」っていうか、合格ってラインがないんですね。やればやっただけバーが高くなって、周囲からの要求が際限なく続く。
 だから、そこからもう降りたい。それについて耳を傾けて欲しいというような、今回の報告書の公開は私は本当にびっくりしましたし、そういう場に立ち会えたことはラッキーだと思いました。これに触発されたというのではないと思うんですが、曹洞宗では今、寺族の相談窓口についてご意見ご要望をおよせくださいっていう公募を、三ヵ月にわたってやってるんですね。それで明日がその締め切りなんですけれども、これに全国の私の友人たちがやっぱり、いろいろ意見を寄せてくれる。書いたわよ、出すわよ、とか言われると本当にうれしい。川橋範子先生なんかは、もう私が言いたかったこと先回りして、今回寄せられた意見は、必ず報告書として公表してもらいたいとか、そういうことも要望として上げているんですね。ですから、やっぱり基本は当事者の意見を聞くこと。それをまとめること。そこから具体的な施策をつくっていくことだと思いますし、ジェンダーバイアスに敏感になるということも、そこではひじょうに求められる大切なツールだと、私は思っております。
 なんか、好き勝手なことしゃべってしまいました。後は質問をお受けして、ごいっしょに学ばせていただきたいと思います。ありがとうございました。合掌
 

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