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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

されど平等大慧

 

されど平等大慧
(京都府実成院住職) 中 村 智 亮  
 京都から参りました、中村智亮と申します。私は、ちょうどお坊さんになって今年で四十何年ですから、「四十余年未顕真実」じゃございませんけど、四十余になってしまいました。若い時から、現代布教の石川泰道先生、それから布教院の守屋日裕先生、こういう方々の教えを受けてまいりまして、とにかく、「涙の出る子供を育てたい」ということと、「人間を見下しちゃいけない」ということを絶えず頭に置いて、今までやって参りました。宗門の、教育課のお手伝いもずいぶんさせていただきましたけど、ふっと思ったことが、三十年四十年信仰してきた檀信徒の方達に接して、何故こんな増上慢になるんだろうか、信仰しながら何故家族に尊敬されないのか、これが不思議でなりませんでした。そういう人達の姿を見たのは決して少なくありません。殊に檀研道にも十三年携わりましたけれども、ここで気が付くのは、参加された方の口から出るのは、「うちのお上人、うちのお上人さん」ということを檀信徒同士で話するにも関わらず、肝心な、お祖師様大聖人のことを「日蓮」と呼び捨てする檀信徒。私は、乱暴な言い方をすれば、法華経の信仰というのは増上慢の養成をしているんじゃないかなという、そういう気持ちでおります。日本には敬老の日というのがありますが、年寄りを尊敬するという、教えじゃないんですね。同じように、宗門でも、お祖師様を尊敬し、お祖師様の御為に、何かお手伝いをさせていただくという人間教育がなされているのかいないのか、甚だ疑問であります。一体これはどういうことなんだろうか。そこで、この、資料の㈰、中外日報のですね、これ実はちょっと、上のほうコピーがなくなって日付が定かじゃありませんが、伊藤総長の時代だと思います。この、第一回人権学習会において、この中外日報の記事によりますと、疑問点㈰「日蓮宗という一宗派を立てられるような優秀な方(日蓮聖人)が、何故あのような条件の悪い横川定光院に住まわれたのか。」これは私共から見ますと、何故横川定光院が条件の悪い所なのだろう、と思うんです、京都に住んでいる者には。疑問点㈪「当時日蓮聖人は自らの身にひしひしと、差別を感じられていたのではないか。だから、ご自身が旃陀羅が子と称されて民衆の側に立たれたのであろうと推察する。」差別されたから旃陀羅が子と称されて民衆の側に立たれた日蓮大聖人というのは、一体どういう心の持ち主なんだろうか、疑問に思います。更に、疑問点㈫、「今後の課題として、教義・経典など歴史文献の今日的再検討などがある。ただこれらも宗門人としての主体性と社会的責任において取り組むという基本的な姿勢が大切」と述べ、「日蓮教学の真髄が平等思想・異体同心であり、差別はあり得ないと結んだ」というのがこの中外日報の記事であります。この平等思想と、社会的責任ということを記憶していただきたいんであります。そこでこの、地図をご覧になっていただけますでしょうか。実は、この端っこのほうから、京都はこちらです。関東からお見えになりますと、京都の方が、車でずーっと京都の市内から、東北のほうへどんどんどんどん行きまして、
そして、更に北白川からしばらく行くと、このドライブウェイの入り口があります。これからずーっとこのドライブウェイを上がっていくと、「横川はまだですか、まだですか」って、「いや、まだちょっと時間かかります」「まだですか、へぇ〜、ずいぶん辺鄙なとこに大聖人はおられたのですね」という感想になるのです。ところが、資料㈪の一番、比叡山は、京都市左京区と滋賀県に跨る八四三・三メートルの山で、正面玄関は滋賀県の大津市坂本本町である。横川は清澄寺の中興の祖で、天台座主三世慈覚大師円仁が厳しい修行のため、失明寸前となり、一人、この地に庵を結んで毎日法華経を書写して健康を回復したところとされています。三つ目、東塔・西塔・横川十六谷の谷とは、谷底の意味ではなく寺院が集落している場所のこと。十八世座主慈恵大師良源(元三大師・比叡山中興の祖・円仁流)は三塔中横川の全盛時代を作る。大変な天才でございまして、横川の復興、そして、その間に東塔が焼けまして、そこも復興したという、比叡山中興の祖であります。この良源さんの歌で、「東修羅 西は都に近ければ 横川の奥ぞ 住みよかりける」。東修羅というのは、東塔というのは、とにかく名誉・地位や、そういうことの争いをする坊さん達のたまり場だと、西は都に近ければ、ご存じのように都は京都です。西は都に近いから、西塔の坊さん達はとにかく夜な夜な京都に出て行って、まあその当時は今の様な祇園はないでしょうが、とにかく飲む打つ買うといった、そういう粗暴な坊さん達が、良源さんの目に映っていた。自分が住んでいる横川の奥こそ、行をするにも学問をするにも最も適当な場所だということを言っているんであります。この、西は都に近ければ、これはもう正しく、安楽行品の世界じゃないかと思うんです。水戸黄門が、千葉県の本宗僧侶を強制的に還俗させ、坊さんから財布を取り上げて、会計を俗人にさせたという話がありますが、こういうことと何か、臭いが同じじゃないかという気がしてなりません。㈭、坂本より三・五キロの横川がなぜ条件の悪いところなのか、ということです。東塔にも三・五キロ、横川にも三・五キロなんです。それがどうして、あのような条件の悪い、横川定光院ということになるんでしょうか。これは何かの勘違いじゃないでしょうか。京都に住んでいる私共にしたら、こんなこと当たり前の知識なんですが、ご存じのない方は、結局、京都の坊さんが案内するのに便利だと思って裏参道から行き、表の坂本から行くと車が混むからという、それだけで京都からこのドライブウェイを使うんであります。それから、日蓮宗新聞の論説ですが、これも考えさせられました。資料㈫「日蓮聖人の精神にふれよう 横川遊学七五〇年」。この中に、「伝承は尊重すべきだが、これが真実を伝えているものとは思えない。日蓮聖人は辺境の東国の民の子より出家した一介の田舎僧であった。名もなく貧しい、田舎法師が叡山僧徒と交遊し、その前で講義をすることはおよそ願望にすぎなかった。叡山の中心地に居られる立場でもなかったのである。総合大学にも入学も許されず、門閥もない、身分もない、人脈もなく、教えてくれる人もない。質問しても答えてくれない。そんな理不尽な現実に苦渋を噛みしめ、対峙しながら人知れず経文を読み、仏教の肝要は何かを研究していく、孤独に満ちた姿がここにある」。なんでこうなるんでしょうか。私は京都に住んでて、横川にも毎年お参りさせていただきますが、こういうことが日蓮宗新聞の論説に、しかも「日蓮聖人の青春にふれよう」というタイトルで書かれたこの文章の中に、読んだ檀信徒の心に浮かんでくる日蓮聖人の像というものは一体どうなるんでしょうか。暗い。孤独。見捨てられた。いじめに遭った。差別されていた。そんな青春時代の日蓮大聖人が、どうして立教開宗できるのかと、些か不満であります。資料の㈬番は、ご存じの方も当然あるでしょうが、日蓮聖人のアニメ。このアニメの前に、お祖師様のご妙判に、「明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗ならびに一切経の勝劣ほぼ是れを知りぬ」云々、
この「右の袖」に、というのに着目していただきたいんであります。ところが、ビデオを見ますと、テープを回してスタートしてから二十一分三十秒の辺りに出てまいります。それが、アップの大聖人の顔で、画面いっぱいにこういうまん丸い、大聖人の顔が出てまいります。そして、虚空像菩薩が差し出した知恵の宝珠を、両手でがっと掴むという、そういうテープが回るんであります。なぜこのように、事実を歪曲しなければならないのか、っていうのが疑問でございます。それから、二十五分から、これを過ぎた頃に出てくる言葉が、「私のような旃陀羅でも救われるという提婆達多品」「畜生の者でも」「私のような旃陀羅、畜生の者でも救われるという経文がございました」、こういう言葉が次々と並ぶんであります。一体、これはどういうことを意図して、日蓮聖人の像を作り上げようとしているのか、私には全く理解ができません。更に加えて、資料㈭法華七喩シリーズの、譬喩品三車火宅の漫画を見ますと、これもまたびっくりいたしました。大白牛車が、ベンツになってるんです。ベンツお乗りになってる方は不思議には思わないんでしょうが、これを檀信徒が見たら、法華経の信仰をしたらベンツに乗れる身分になるという、そういう錯覚に陥りやすい、そういう危険性があると思うんですが、いかがなもんでありましょう。こういうことを考えてみますと、我が宗門人自らが排他的・差別的言辞を世間に垂れ流していることにならないのだろうか。こういうお祖師様では、私共法華経を信仰する者にとって、尊敬のできるお祖師様像というのが浮かんでこないし、このようなひ弱な、孤独な大聖人がお作りになった宗旨は一体どうなってしまうんだろうか。そんなことを考えさせられました。二番へ。序品に帰るべし、という所に、まいりますが、私は、そういうもやもやとした気持ちから、まず序品第一から読み返してみました。そして思ったのは、久保博士のご指摘と、その問題は法華経の中で起きたことだから、法華経の中で解決できないだろうか、ということを思いながら、序品から読み直してみました。まあご存じのように、序品は四つのポイントに分けていいかと思いますが、集会、現瑞、弥勒と大衆の疑念、文殊の答え、この四つのポイントで序品が綴られておりますが、三番の、法華経二個の大事が序品に伏線として説かれているんではないか、ということで、読んでまいりますと、二乗作仏久遠実成、差別観でいえば諸法実相の義というのが、考える㈮の所にございますし、無常感でいえば、妙光と求名が今の文殊と弥勒、悠久の過去と永遠の未来が対話しているということが、久遠実成への伏線ではなかろうかとこういう風に考えてみました。四番、そこでいったいお釈迦様は何を仰ろうとしたんだろうか。一口に言うと、安穏なる心を持て、というのがテーマではなかったでしょうか。この、「安穏なる心」をなかなか持てない、それは、「諸々の著」を離れていないから、離れられないから、その離れるために二つの修行方法として、出されたのが苦行と凡行であります。苦行というのは、やはりこの一番、二乗が、声聞が求めたこの性欲と戦い、これが自らの修行、自行ということになっていくわけですが、凡行の、というのは、苦行が煩悩から離れようとする考え方に対して、いやいや人間の生き方の中には、それだけじゃない、正しいものもある、それを見つめようとする考え方、そういう考え方も必要じゃないか、そういう修行が凡行であります。法華経はこの凡行を説こうとしているわけでございます。法華経の中では安穏なる心が繰り返し説かれるも、それを脅かし、仏道修行の妨げになるのが「諸々の著」であった。果たして二乗は「諸々の著」を離れ阿羅漢になった。しかし、突然の「四十余年未顕真実」との爆弾発言。一体何があったのか。この譬喩品の、舎利弗が後に述懐するところの言葉ですが、「初め仏の所説を聞いて、心中大いに驚疑しき。将に魔の仏となって、我が心を悩乱するに非ずや」と述懐されておりますが、五番「初め」とは何なのかというのが次の頁であります。まず、「退座一面」された四衆の前には当然声聞、阿羅漢達も千二百人おられるわけですが、そこで、「諸々の菩薩のため」にと、限定して釈尊が法を説かれたのは何故なんだろうか。そして三昧より、釈尊が、霊鷲山(正確には耆闍崛山)に、現実の、現場に心も戻ってきた時、方便品で突然「従三昧安祥而起」して、今度は諸々の菩薩ではなく「告舎利弗」と言ったのは、何の意味なのか。考える㈬、「なぜこの法は示すべからず言辞の相寂滅せり」なのか。言葉では、とても言い表せない、とこう仰るわけです。考える㈯、「舎利弗当に知るべし、仏の所説の法に於いて当に大信力を生ずべし。世尊は法久しうして後、要ず当に真実を説きたもうべし」、ここで、「大信力」という条件をつけているのは何故なのか。考える㈷、何故舎利弗曰く「疑惑して了すること能わず」、お師匠さんの仰る意味が分からなくなってきました、という舎利弗に対して、釈尊が、
なんで三止三請なのか、舎利弗の心は泣いているに違いありません。㉂、「止みなん舎利弗、増上慢の比丘は将に大坑に堕つべし」、「増上慢の比丘」とはいったい誰のことなのか。なぜ四十余年教化してきた釈尊の眼前に「諸の増上慢の者は聞いて必ず敬信せじ」という人々がいるのか。考える=cd=e152、「退亦佳矣」とは何のことか。田村先生が、法華経講義の中で、「本経中、この強意の「矣」の字の使用されるのは、この一箇所だけである」、なぜこの「矣」という置き字、助字、強意の使い方をされたのか。これは石川教道先生にお尋ねしたことがございますが、この置き字には、断定、命令という意味があるんだ、とこう聞かされました。そうすると、「退くもまた良し」という優しいお釈迦様ではなくして、釈尊の心の内は、地獄餓鬼畜生の思いだったに違いない。出てゆけ、これが退亦佳矣の矣、この助字に意味されたことだろうと想像できるわけであります。そうしますと、今まで私達が読んできた法華経とは、大分解釈が違ってくるような気になって仕方がありません。六番、舎利弗の領解談の中から、考える㈰舎利弗曰く「我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の受記作仏を見しかども、而も我等はこの事に預らず」舎利弗を始めとする阿羅漢、声聞の人達の目の前で、次々とお釈迦様が菩薩の方々に、受記を与えた、それを目の当たりに見ていたけれども、心の内はどうだったんでしょう、嬉しかったんでしょうか嬉しくなかったんでしょうか。声聞の人達、舎利弗は彼等の心を代表して、「我等はこの受記に領らず」とこう、領解の中で喋っている。「甚だ自ら如来の無量の知見を失えることを感傷しき。」舎利弗の心が痛んでいた。「世尊、我独り山林樹下に処して」心を痛めていた舎利弗が、だからお師匠さん、実は私は、独り山林の中で拗ねていました。考える㈪、「我等方便随宜の所説を解らずして」、つまり私達は現実の生活の中で教えを理解することができていませんでしたと、ここで猛省をした舎利弗の姿が見えてまいります。だから、考える㈫、「これ魔の仏となるには非ず。我疑網に堕するが故に、これ魔の所為と謂えり」。実は、魔とはお師匠さんのことじゃなくして、私自身のことでした、とここで述べるわけであります。それが、初めとは何のことか、ということになるわけでございます。七番、舎利弗の領解に釈尊はどのように述成されたのか。「舎利弗に告げたまわく、吾今天・人・沙門・婆羅門等の大衆の中に於いて説く」。先ほどまでは、止舎利弗、と言っていた同じ釈尊が、ここで一変して、大衆の面前でこれからお前のことを喋るぞ、とこう仰ってるんですね。「我昔曾て二萬億の仏の所に於いて無上道の為の故に常に汝を教化す。汝亦長夜に我に従って受学しき。我方便を以て汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗、我昔汝をして仏道を志願せしめき。汝今悉く忘れて」、ここがやはりお師匠さんのお慈悲深いところだ、あれだけ本当に厳しい、お言葉を発していたお釈迦様が、お前は、忘れていたんだ、これが私共でしたら、弟子を叱る時に、お前はアホや、馬鹿者、と言うかも知れません。しかし釈尊は、汝今悉く忘れていた、にも関わらず「自ら己に滅度を得たりと謂えり」。この述成の後、華光如来と受記されるわけですが、あの提婆品の中に例の愚問を呈した同一人物、ということをご記憶していただきたいんであります。ここに表れる舎利弗と、提婆品に出てくる舎利弗、同一人物でなければおかしいことになります。華光如来の受記を受けた舎利弗。次に、八番「四十余年未顕真実」に始まった一連の大騒動は、一体何だったんだろうか。考える㈰、釈尊と提婆達多との教団運営上の論争の結果、提婆達多は五百人の弟子を率いて退団していったという話が残っています。㈪、釈尊がご入滅された時、「ああ、これで煩い人がいなくなった」と発言した仏弟子の話も伝えられています。㈫、長者窮子の論えで「父、毎に子を念う。子と離別して五十余年、而も未だ曾て人に向かって此の如きを説かず、子息あることなし」。目の前に仏弟子がいるにも関わらず、子息あることなし、ない、とこう説かれている。父の心痛を誰にも話さなかった、ということも説かれています。これは、師弟関係の崩壊、師弟の心と心のベルトが外れていたことになります。信頼関係が欠落、師弟関係に亀裂があったことになるのではないでしょうか。㈬、大教団となった仏教教団の内部が、どのような状況であったのか。安楽行品の「親近せざれ」「親厚せざれ」を逆さに読んでみると、どうなるか。例えば口安楽行の「経典の過を説かざれ。亦諸余の法師を軽慢せざれ。他人の好悪長短を説かざれ」の当時の仏教教団の中に、現実にあったとしか思えないのであります。また教団出入りの業者から賄賂を取ったり、沙弥法師を性的はけ口にしたり、等、あったのかなかったのか。また、現代の宗門内には、あるのかないのか。知っていても口に出せない事柄が多いんでしょうか、少ないんでしょうか。㈭、「一切の衆生に於いて平等に法を説け」は、久方ぶりに安楽行品に出てくる「平等」なんですね、これが。それは、方便品の「大乗平等の法」、
薬艸諭品の「皆平等にして彼此・愛憎の心あることなし」に連動しいるということは、これしているですかね、迹門全体が「平等大慧一乗妙法」「一仏乗」「人間を軽しめるな」「人間を見下すな」でテーマが統一され、一貫されていると言えるのじゃないでしょうか。四十余年間、釈尊の教えを受けてきた仏弟子達は、教えを口にしながら、思っていることとやっていることが、つまり身口意の三業受持ではなかった事。平等に法を説いてはいなかったことになる。迹門全体に通じているテーマ「平等大慧」とは、どのような人々とでも、上下でもなく、勝劣でもなく、勝ち組・負け組でもなく、差別することなく、慈悲心を以て接することであった。換言すれば、「人間を見下すな」ということで、このことを忘却しないために、再度示されたのが、常不軽菩薩品の「我敢えて汝達を軽しめず」であったのじゃないでしょうか。九番、「四十余年未顕真実」とは、釈尊の再教育の意思表示ではなかったのか。仏教教団存亡の危機、教えを追い求めれば求めるほど、釈尊の心から離れていった、阿羅漢、仏弟子達。お題目を唱えれば唱えるほど、仏祖から遠ざかる私達ではなかったのか。だからこそ、齢七十余の老体に鞭打ち、説き始められたのが、『妙法蓮華経』であったのではなかろうか。しかも随自意でした。十番、されど平等大慧。自分を知るということは、人間というものが、いかに醜く、汚く、厭らしいものであるか。命は地球より重いと言いながら他人が殺した牛や豚などの肉にしゃぶりついているではないか。そのことを心に留めなければならない。また同時に、人間というものは美しく奇麗なもの、優しいものも持っている。このことを「十界互具」という。換言すれば、自分の因縁が、目の前の人に表れてくる、これが互具ということですが、互具とは平等という意味でもありますからやはり私達は、法華経を読み、お題目を唱える者は、人間を見下しちゃいけない、というのが結論でございます。九界即仏界、仏界即九界というのがありますが、この九界即仏界というのは、九界の中に仏界があるということですね。仏界即九界というのは、仏界の中に九界がある、前者は天台大師のお心持ちでしょう。後者は大聖人が感極まった部分じゃないでしょうか。私のような者が、お釈迦様の中に生きて在る、という信仰であります。ですから、あの、四条金吾が辛い思いをした時に、大聖人のお手紙で、金吾、釈尊が仏界に来い、私の元へ来いと言っても、私はそれを断って、地獄に堕ちた金吾、お前の所に私は行くぞ、仏様に誘われてもそっち行かず、私はお前と同じ地獄に行く、金吾と私が地獄に在るんならば、さぞかし釈尊も地獄に来るであろう。そうすると地獄界そのままで寂光浄土(娑婆即寂光)これが十界互具なんですね。ですから、法華経が差別の教えだ、っていうのは、全くその釈尊の意図する心根というものを、理解していない表現ではないかと考えるわけであります。十一番、この、久保先生の法華経はなぜ排他的差別的言辞を含むのか、という所で、指摘㈰常不軽菩薩は「法華経の教えに巡り会うことによって行った修行ではなく、その修行を行うことによって法華経に巡り会った」、ってこういう風に書かれているんですね。不軽菩薩の成仏が、法華経の教えに巡り会って、修行した結果じゃない、修行を行うことによって、お経も読まず、ただひたすら人間礼拝して、その修行を行うことによって法華経に巡り会った。つまり法華経の出会いの時間のことを言ってるわけですが、しかし、この法華経の教えというのは、昨日今日の教えじゃありません。後でこの、常不軽菩薩が、私の前世の姿であったということも釈尊が説かれるわけですが、「爾の時の常不軽は、則ち我が身是れなり」、或いは、「我前世に於いて」、「億億万却より不可議に至って時に乃しこの法華経を聞くことを得」、常に生まれ変わり死に変わりして法華経を持ち続けてきた、とこう説かれている。お経を読まないから法華経に出会っていない、巡り会っていない。ひたすら人間礼拝をしたのであって、法華経に巡り会っていない、とはならないんじゃないでしょうか。考える㈪「日月灯明」仏は序品に出てくる。不軽品の仏は本事開顕の寿量仏である。この点を忘れてはなりません。それから、もう一箇所は、指摘㈪「譬喩品では釈尊は一切衆生の父であると説かれる。しかし、火宅にいる五百を超える衆生に対し、火宅を出た子供は二十人である。同品の物語の中では放置されたままである」、ということを、久保先生が書いていられるんですが、考える㈰、五百人という、数は、一つ考えられるのは、財富無量の大長者を誇張せんが為の表現であり、目的は、先ほど師弟関係の亀裂した状態である仏教教団の再生でありますから、目的は親子関係、心と心のベルトを掛けるということが目的ですから、五百人ではないわけです。そして、五百人、「其の中に止住せり」と、譬喩品の中に説かれてますが、二十人の子供達が「この家宅の中に在り」、と五百人の従業員が止住せり、というんでは、これは、同一として受け取れないんじゃないでしょうか。五百人の従業員が、中に居たのか、膨大な土地を持っている労働力として外で仕事をしているけれども、夜になったら帰ってくるよ、とそういう意味合いに取れないわけでもありません。「多く田宅及び僮僕あり」と譬喩品には説かれてますが、決して五百人を放置した話にはならないんじゃないでしょうか。何故ならば、その後に、また「僕従多くして之を侍衛せり」と、ここで僕従が生きております。また、五百人にこだわるのはどうであろうか。例えば、五百弟子授記品の中では、「この千二百の阿羅漢に我今当に次第に阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授くべし」と授記の段が説かれているにも関わらず、五百弟子なんです。本来ならば千二百弟子品というべきじゃないでしょうか。そこには当然、深い意味があるわけですが、それと同じように、譬喩品の、この長者の下僕五百人というこの五百という数字にこだわって、これらの人が、物語の中では放置されたままであるというのは、これは当たらないと私は考えます。それと同時に、また、付け足しますと、子供達が、火宅の内において、「嬉戯に楽著」して、とあります。遊びに埋没している子供には、火事のことは眼中に無いんですね。しかし、もし、この五百人にこだわるとしたならば、五百人がなんで騒がないのか、騒いだ気配が全く、譬喩品を読んでみましたがその気配がない。にも関わらず、五百人が放置されたままである、という言い方は私は当たらないんじゃないかと考えます。どうもご静聴ありがとうございました。
 

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