現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
仏教的価値観に基づいた意見表明
ミニ講演
仏教的価値観に基づいた意見表明
(栃木県正法寺住職) 中 井 本 秀
皆さんおはようございます。お久しぶりですという感もございますが、宗会議員になりまして、先日の定期宗会で通告質問を致しました。その時の内容を、今回現宗研のこちらの部会のほうで研究を始めてくださるというお話がございました。伊藤主任からお話がありましたのが、二週間前でした。その間、宗会議員の仕事で半分くらい東京におりまして、殆ど今日の準備が出来ませんでした。ただ、自分が言ったことを取り上げていただく以上、一応お話させていただきますが、自分にとって、まだまだまとまらない、これといった基本的な方向性がまだ見出せない、研究も十分に行っていないものであるということをよくご理解いただきたいと思います。それで、皆さんのご意見を伺って、自分の考えを整理していきたいという、ちょっと狡い考え方でお話をさせていただきます。
まず最初に、お配りした資料の中に、第九四定期宗会通告質問というものが二枚あります。その一枚目のほうが、実際に当日、質問致しました内容でございます。前半が、人口減少時代にあたってどういう教化を考えていくかという質問、後半が、今回の問題となっている、仏教的価値観に基づく意見表明、ということで質問を致しました。それで、二枚目のほうが、当初考えた、その元の原稿でございます。何故これを出したかと申しますと、色々事情がございまして、内容が変わっております。特に、題名が変わっております。今回関係するのは二番目のほうですが、これ、「倫理的場面での発言力の確保」という題がついております。この題名は非常に評判が悪く、全然意味が分からないということで、「仏教的価値観に基づく意見表明」に変更いたしました。
ところで、今回の問題とちょっと外れてしまうんですが、前半の質問については、かなり内容を変えております。人口減少時代という、絶対的に檀信徒が減少するという状況に対して、どう考えているかという質問です。ヨーロッパのキリスト教社会では、宣教学的パラダイムシフトが行われているけれども、それに対して何らかの方策を考えていくというような考えはないかという質問に変えました。私は、『鷲の山風』という個人的な宗会報告を出しました。お配りしましたように、八頁ありまして、その中の四頁目、真ん中の段、三行目に、最初の質問に対するお答え等について書いてあります。宣教学的パラダイムシフトというのは、なんとか教会に青少年を引きつけようという考え方から、それを転回して、教会側が青少年の文化に合わせるという風な考え方への転換を行って、一部の教会がそういった観点から進めているといったお話を知りまして、それで、日蓮宗でもそういった考え方を持ち込むつもりはないかという質問を致しました。信徒青年会作りを一生懸命やっていますというお答えで、こちらが言ったことが伝わらなかったということですね。二つ目の質問については、現宗研と勧学院の総合研究会議の方で提起を進めるというお答えをいただいたんです。こちらの質問の意図に答えていただけるという状況になかった、というのが実感でございました。
そのときに、平成十五年三月十三日と平成十五年十二月八日に、イラク戦争を巡って二度、日蓮宗が声明を発表したものを若干引用したんですが、内容についてはとても五分以内の質問ということで、全く触れることができなかったんですけれども、お答えをいただいた中で、英訳までして世界中に伝わったと言っておられました。
これをまず、今日は検討してみたいと思います。資料の中にございますので、その二つの日蓮宗声明をご覧ください。まず、アメリカがイラクに攻撃をする直前に発表された日蓮宗声明が、上段のものです。それから下段のほうは、その後、今度は日本がイラクに自衛隊を送るという、その直前に出された声明です。そこにアンダーラインを引いてありますが、その典拠を調べまして出したんですが、最初の声明というのは、いわゆる『ダンマパダ』の一三〇、『法句経』の第一三〇が典拠で、「すべての者にとって生命は愛しい、わが身にひきあてて殺してはならない、殺させてはならない」というのが引かれております。資料の括弧の中に「すべての者は暴力におびえる」とありますが、原文はそこから始まってるんです。「と不殺生戒を定められ、日蓮聖人は『いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり』」と引用しております。これは、『事理供養御書』という、大石寺にご真蹟があるとされていますが、この二つのものを、いわゆる教証として引いて、戦争に荷担してはいけないと日蓮宗が声明を出したわけです。
二番目の声明は、アンダーラインを引いてある部分を見れば分かるんですが、名前が出ているだけですけれども、『立正安国論』について、「正しい宗教を立てて国を安んずる道を示す」、これだけしか書いてありませんので引用と言えるかどうかはちょっと問題かなとは思いますが、その後の、波線のアンダーラインの最後の所ですね、「全ての国の人々の命を尊重し礼拝してゆく道」、これはたぶん、但行礼拝、常不軽品の考え方であるという風に思うわけです。ですから、こうやって見てみますと、最初の声明と二回目の声明とで、まるっきり根拠が違う、内容がまるっきり違うんですね。で、二番目の声明を見てみると、昨年発表されました「立正安国・お題目結縁運動」の基本的な考えと非常に近い所がございまして、この辺で、今回「立正安国・お題目結縁運動」を立ち上げた方々が、その声明に関わってるんじゃないかなというのが、ある程度見て取れるわけです。その点で見ると、最初の声明と全く質が違うというか、全く考え方が違っているということに気がつきました。
それで、資料の次の頁に、中村元先生訳の『ダンマパダ』一二九、一三〇を載せておいたのですが、続けて同じような文章が出てきます。「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」、これが一二九です。一三〇は、先に読みましたような文です。これは原文を見ますと、「すべての者」、漢字の「者」という字を使っていますが、パーリ語でサッベーというんです。「すべての」という形容詞を名詞化したものです。美しい、を名詞化すると、美しいもの、となる。だから、「すべてのもの」なんです。「者」という漢字を使いますと人間だけのように思いがちなんですが、全ての生物なんです、ここに括弧して書いてありますが、この「すべての者」というのは「すべてのもの」で、生きとし生けるものは、という風に考える。人間だけじゃない、すべての生きとし生けるものは死を恐れる、自分が死を恐れるんだから殺してはいけない。それでまた、一三〇のほうは、自分にとって生命は愛しい、愛しいんだから相手を殺してはいけない。非常に分かりやすい、まあ、ちょっと語弊があるかもしれませんが、単純な発言、お釈迦様のお言葉という風に言えるかと思います。
資料の『事理供養御書』については、昭和定本から引っ張ったんですが、その文脈の中で、命の大切さというか、三千大千世界に匹敵するという風なご文章でございます。それほど複雑なものの考え方をしていない、と思うんです。命は私達にとって大切なんだから、人の命を奪っちゃいけないよ、というのが『ダンマパダ』、日蓮聖人は、もう三千大千世界に相当するような命なんだよと仰ってるわけですから、本当に命の大切さを、そして人の命を奪ってはいけないという教えを明快に整理しているのが、最初の声明文だと思います。
それが、二番目の声明文になると、どうも説得力がない。「全ての国の人々の生命を尊重し礼拝し」ということには、命を奪っちゃいけないという基本的な教えがありません。『立正安国論』に関しては、そういう意味では役に立っていないわけです。ここで『立正安国論』を引っ張っても、戦争して人を殺してはいけないという文脈が出てこない。ですから、私、最初の声明であればですね、それなりに納得できるんです。二番目の声明のようになってしまうと、殆ど形だけになって、戦争に反対してるんだか、してないんだかよく分からないような文章になってしまっていると思います。
資料の通告質問の所に戻りますが、一番最後の所、下から六行目、その一番最後の部分、「発言のぶれ」。これが一番良くないんです。最初の声明は、「イラク問題の平和的解決」、二番目の声明は、「イラクに平和が訪れることを祈る」、基本的に同じはずなんです。ところが、言ってることがだいぶ違っています。最初のは、命は大切なんだから人の命を奪っちゃいけません、だから反対します、二番目になると、命を礼拝するんですよ。命を礼拝するというのは具体的にはどうなるのか、ということで意味が不明になってしまう。どうせ声明を出すのであれば、同じ根拠で、文脈は少し変えてもいいんですよ、同じ根拠で、同じ主張をしてもらいたい。それには、それなりの研究をしていただかないとできるものではありません。
そういう意味で、是非研究をお願いしたい。例えばこの現宗研で、何でもいいんです、一つでもいいですから扱っていただいて、何か結論を出します。それが宗門から表に出るかどうかは分かりませんが、五〜六年経つと、現宗研もかなりメンバーが変わると思います。メンバーが変わったら同じ主張が出てこないというような主張を考えないでもらいたい、人が変わると変わるような主張をしないでもらいたい、というのが私が一番重要視している部分です。だから、ただ出せばいいってものではありません。きちんとした根拠を示して、それに基づいた声明というものを出してもらいたい。だから研究をして、よほど深く扱わないとぶれのあるものになってしまいます。それが一番心配なんです。
それで、こういった発言のポイント、また私の質問の所に戻りますが、下から八行目ですね、「私は一般社会に向けて宗門が意見を公表する際に重要な点が二つあると考えています。一つには、仏教的、日蓮的発想からの意見でなければならないということです。一般社会的価値観からの発言は、特性もなく価値を認めてもらえないだけでなく、発言のぶれを招くおそれがあるからです。」
更に、問題はもう一つあって、社会的価値観だけで話してはいけないということを私は言ってます。仏教的価値観に基づく意見表明、ということで質問させていただいて、それを今日お話しているということでございます。実際に今度は、仏教的価値観と社会的価値観の問題とがあるわけです。それで、レジュメの一番最後に仏教的価値観と一般社会的価値観というふうに書いてあるんですが、これは結局、その前の「立正安国・お題目結縁運動」の基本大綱中基本理念についてと関わってくるんです。
「立正安国・お題目結縁運動」の基本大綱をお渡ししてあると思うんですが、皆さんそれぞれに、管区や教区の伝道企画会議で、多分これを読んで、これに基づいて宗門運動をやるとお考えになってると思います。この基本大綱は、なかなかの名文でございまして、最初のほうは、なるほど、なるほどと読んでくるんですが、その一番最後の部分、基本目標の前の四行目です、「まさに今」、という所から、「『立正安国論』奏進七五〇年、宗祖ご降誕八〇〇年の慶年を迎えようとするこの時、日蓮宗は法華経に説かれる「生命の絶対尊重」を基本理念とし、「立正安国の実現」を眼目とする信仰運動の第一歩を踏み出そうとするものである」、ここが非常に問題だという風に私は思っています。実際、この基本理念の、「日蓮宗は」からずーっとここまでの間に、一回も、法華経に説かれる生命の絶対尊重に関連すると思われる文脈は出てきません。この文章全体は、基本理念を説明したものです。最初に括弧して基本理念と書いてありますから、それは明らかです。基本理念を説明して、前半は、今のこの世界が非常に荒んだ世界だということを指摘して、あとは、日蓮宗、日蓮聖人のお考えを示されて、お題目が一番だと、結縁しなければならない。それで、世界の救済を目指すんだという風にここまできまして、いきなり、法華経に説かれる生命の絶対尊重という言葉が出てくる。私、最初にこれを読んだ時に、ガンとここで引っ掛かってしまいまして、最後の一番大事な所ですよね、基本理念の説明なんですから。それなのに、今まで述べてきたことが全く生きていない。いきなり、法華経に説かれる生命の絶対尊重が出てくる。それで、ここで理解ができなくなってしまいます。その上、その後の基本目標を見ると、生命の絶対尊重というのは殆ど生きてない、意味を持っていないように見えます。基本理念ですから、本来全ての目標がそれに基づかなければいけないと思うんです。この構造からいくと、やっぱり核が基本理念、そしてそれを敷衍する形で基本目標が立てられて、更に基本計画が立てられていくという形式を取ろうとしていると思うんですが、それが全く見られないんですね。それに加えて、生命の絶対尊重と宗門運動の名称「立正安国・お題目結縁運動」とがどう関わるのか全く分からないということも、指摘しておきます。
また、今回の定期宗会でも、同心会会長が代表質問の中で、どこに説かれているのか、という質問を致しました。その答えについては『鷲の山風』の中で取り上げているんですが、五頁目、「『立正安国・お題目結縁運動』の『基本大綱』中の『基本理念』について」ということで、代表質問の内容です。法華経に説かれる生命の絶対尊重を基本理念として、について、質問、ということで、法華経には、不惜身命とか、命を惜しまずという言葉があるけれども、私は命よりも法のほうが重いと思っておりますので、教えのほうが重い、命を賭けて守るのがお釈迦様の教えですから、我々仏教徒にとってはそのほうが重いんです。命のほうが重いわけじゃない。そういう意味で疑問を持たれる方がいらっしゃいましたので、不惜身命とか、そういったこととの整合性ということで質問したんです。絶対という言葉についても疑問を持たれる方がいらっしゃいましたので、それについても質問をしました。
それに対する小松総長の答弁が、そこに載っております。五頁の一番下の段ですね。傍線を引いてあります。「生命の尊厳を説く法華経」、はっきり言ってますね、これは前総長の表現です。この四つの生命観というのを前総長はお持ちだそうです。与えられ生かされている生命、限りある生命、連続する生命、生まれ変わる生命という四つの生命観というのをお持ちだそうです。そして、いきなり「生命の尊厳を説く法華経」と。そして、「その言を受けての『基本大綱』中の『法華経に説かれる『生命の絶対尊重』を基本理念』とされたものと推察いたします」という答えです。私、ここで初めて分かりました。生命の絶対尊重というのは、法華経に説かれているのではなくて、岩間前総長が説かれる生命の絶対尊重なんだという文脈ですよね。それで、岩間前総長の信念が宗門運動の基本理念になったんだという風に、今度は私も理解できました。
そして、「法華経そのものが仏典であるかぎり、不殺生、生命の尊厳を説いた大乗経典である」、この意味がよく分からない。取り敢えず、不殺生はいいですよ、しかし、生命の尊厳を説いてますか。ここでは、大乗経典ということで、不殺生と生命の尊厳が一緒になってるんですね。不殺生と生命の尊厳というのは、殺してはいけないということと命の尊厳性、それは意味が違いますよね。命を奪ってはいけない、人を殺してはいけない。さっきの『ダンマパダ』ですね、自分が殺されるのは嫌だから、人を殺してはいけない。自分が暴力を受けるのは嫌だから、人に暴力を振るってはいけない。これは、人間の世界の倫理の基本的な考え方です。自分が殺されては嫌だから人を殺してはいけないというその延長線上に不殺生がある、不殺生という考え方があるとしています。ところが、命の尊厳というのは、命というのは非常に尊いものであるから、だから奪ってはいけないという、これは、基本的に仏教の考え方ではないと私は思います。これは近代的な価値観、いわゆる、ヒューマニズム的な価値観からのものだという風に私は判断しています。
そして、その次の頁に行くと、「その文言そのものは存在しませんが」と仰ってます。だから、生命の尊厳というのは法華経にはないんだということです。その後、「全ての人々が妙法五字によって三徳具備の教主釈尊の大慈悲に包摂されている仏身であり、それを現代的に解釈すれば生命の絶対尊重となろうかと考えております」。これもよく分からないですね。結局ここの所は、常不軽品の仏性礼拝のような解釈をしています。この法華経の時代には、仏性という発想がありませんから、これを仏性礼拝と考えるのは非常に後世の立場だと思うんですけど、とりあえず仏性礼拝という風に考えます。そうすると、この仏性を持っているから命は絶対尊重なんだ、というお考えなのかなと思うわけです。その次の段に、やはり傍線を引いた「私たちが頂戴した尊い久遠のいのち」、やっぱりこれは仏性なんだという風に思うんですね。ただ、久遠のいのちと、いわゆる生命の絶対尊重の生命とは違うと思うんです。久遠のいのちというのは、お釈迦様から頂戴したといういのち、それは久遠ですから、僅か数十年で終わるものではありえません。だけど、生命の絶対尊重と言う時には、これは僅か数十年で終わる命なんです。だから、同じ命という言葉を使っていながら、違った意味で使っていることになります。いつの間にか意味のすり替えが行われているんですね、本人も意識していないと思いますが、ここで意味のすり替えをしているということが、私には非常に不満でございます。
それで私は、茨城・栃木の選出でございますので、茨城・栃木のお寺さんに全部これを配布して、私はこういう風に考えておりますということでお知らせいたしました。命の絶対尊重と言った時には、もうこの命は、久遠のいのちではない。つまり、現代の、命を軽視したり、平気で戦争をしたり、人を殺したり、最近も、ビルの上から子供を投げ落として殺したという事件がありましたが、基本理念の説明の所は、そういう事態を憂えて命の大切さを訴えてるんです。だから、この場合の命の絶対尊重、これはもう明らかに現代的な価値観に基づいた命だという風に理解しなくてはいけないと思うんです。ですから、「法華経に説かれる」というのは、「生命の絶対尊重」に掛からない。こういう風に、私は思っております。
ですからこの辺を、例えば、法華経に説かれる、と付けなければいいんです。法華経に説かれると付けないで、生命の絶対尊重と言ってしまえば、文脈は通じます、確かにそうだと。今は本当に、命を粗末にしているというか、人の命を奪うのが平気な風潮になっています。だからこそ、命を絶対に大切にしなきゃいけないということを基本的に考えて宗門運動を展開しましょう、というのであれば文脈は通じます。ただ、そうなった時には、これは日蓮宗の運動なんだろうかと思ってしまうわけです。いわゆる、宗教性のない、何かの倫理団体の主張ではないのかと言われてもしようがないものになってしまいます。というのが、私が困ったなと思っている部分でございます。
先日、中央伝道企画会議というのがございまして、ある委員の方が、これはおかしいと仰ったんです。これはどうして宗会を通さなかったんだという風に発言なさったら、宗門運動の名称とか、そういったものについては、宗会を通さないで、内局で決定して発表するというのが従来の慣習というか手続きなので、そういうことはしなくていいんです、ということで、あっさり退けられてしまいました。これは今更引っ込められない、というのが一番問題なんです。結局、基本理念が宗門運動の名称とも一致していないし、基本目標にも出てこないんです。「法華経に説かれる生命の絶対尊重」という概念が明確になってないのに、ほとんど無関係に名称と基本目標が決まったという状況だと思います。基本理念が全然生きていないんですね。
だから、これを指して、我々日蓮宗が現代の倫理的な問題について、宗教的な立場から発言しているという風に思われては困ります。「法華経に説かれる生命の絶対尊重」ということを基本理念として持っているわけですから、それに基づく運動は、まさしく、世間の倫理的な場面で日蓮宗は真剣にやろうとしてるんだ、という風に主張すると思います。しかしながら、それは間違ってるという風に私は思います。価値観の混同はいけないだろうということを、私は言いたいんです。
それで、本当にこういう問題って難しいと思うんですが、例えば、皆さんにお渡ししました「基幹運動総合基本計画」というプリントがありますね。これは浄土真宗本願寺派のホームページに載っていたものです。基幹運動というのは、本願寺派が昔から同朋運動ということで継続的に行っています。「御同朋の社会をめざして、ともにいのちかがやく世界へ」。なんだか似たようなことが書いてあります。「浄土真宗は、あらゆるいのちをすくいたいとの阿弥陀如来の願いをよりどころとし、南無阿弥陀仏のはたらきによって信心にめぐまれ、お念仏の人生をあゆみ、私が浄土で仏に成る教えです」、こういう基幹運動というのをやってるんです。ここではやはり命が主題になっていて、「ともにいのちかがやく世界へ」としています。この辺を本願寺派の方がどのようにお考えになってるのか分かりませんが、「あらゆるいのちを救いたい」、これはつまり、阿弥陀如来の慈悲によって現代に生きる人達の命というのは、いわゆる何十年かで終わる命も含むんでしょうけれども、もっと広い意味も含んでいますし。精神的なものも含んでいます。このような言い方をもって運動をやっておりますが、かえってこれくらい曖昧であれば、何とかなります。それで、五頁目の、「③、いのちの尊厳と平等をもとに、一人ひとりの苦悩に共感できる開かれたお寺・教団にしよう」、日蓮宗と本願寺派は根本で同じことを言ってるのかな、と感じました。いのちの尊厳、やはり基本は命なんですね。まあ、時代的背景もありますので、同じになる部分があるというのは、ある程度やむを得ないと思います。結局、基幹運動というのは恐らく日蓮宗でいう宗門運動に当たるものだと思いますが、平成十八年度から二十三年度ということですが、同朋運動は昔から継続しておりますので、その流れとして、今回はこういう形で行おうということだと思います。これも、一つの参考で考えていただきたいと思います。
どういうものが、仏教的価値観に基づいた発言であるのか。少なくとも、生命の絶対尊重という考え方は、私は仏教的価値観ではないと言っているだけで、正しくないと言っているわけではありません。命は勿論大切にしなければいけませんし、その為にあらゆる努力を惜しまないという点については、これは当然のことだという風に思っています。今この世の中で生きてるんですから、そういう風に思います。それでも、無理矢理こじつけるのはやめていただきたいと思います。法華経に説かれていると表現するのは、これはおかしいということを一応指摘しておきます。
ところで、私の考えと似たような方達って結構いるもので、日蓮宗の声明の資料の二頁目ですね、『ダンマパダ』、『事理供養御書』の後に、二つ、引用を致しました。一つ目は西村惠信という方で、臨済宗妙心寺派で、ちょっと前まで花園大学の学長さんをしていらっしゃった方です。仏教ヒューマニズムというものを提唱していらっしゃいまして、『仏教徒であることの条件 近代ヒューマニズム批判』という本をお書きになっていらっしゃいます。その序論の所で、「諸宗教間対話の場に出席する機会があり」等々、色々書いてあって、「どうも宗教的霊性が希薄で、社会正義といった視点からばかり宗教の役割を覗こうとしているようで、秘かに違和感を持つようになった。宗教的な集会が、まるで倫理委員会のように見えるのである」とおっしゃっています。私なんかも反省しなければならないんですが、例えば環境問題など、この現宗研でもよく扱うことがありますが、そういうものを扱うと、テレビやら新聞やら本やら、そういったもので収集した知識を述べて終わるということがありがちです。実際のところ、日蓮聖人の御遺文とか、そういったもので証明、論証しようとしても、結局そこで用いられる論理は、結局は、現代社会が生み出した論理で言っているだけであって、宗教的文脈がないんですね。
前にも何回か言ってるんですが、某学会誌で、生命倫理の問題だったか、環境問題だったか忘れましたが、特集をしまして、仏教学関係の各宗派の先生方が意見をお述べになったんですが、その中で日蓮宗のある先生が文章をお書きになりました。それを読みましたら、一回も仏教や日蓮宗に関する言葉が出てこない。自分で一生懸命本などを読んで勉強をした、その結果が出てくるという感じでした。これは、西村先生がお書きになったことと同じようなことだと思います。そして、そこの一番最後に、「宗教的霊性の感じられない宗教者たちの社会的役割が、空虚で人間臭い博愛主義に思われたのである」と結んでいます。ヒューマニズムという言葉を使っていますが、ヒューマニズムの立場に立つのは別に悪いことではありませんし、今の世の中はそれが一番ですから、確かにそれでいいんだけれども、宗教性はどこに行ってしまったのか。倫理委員会という言葉が出てきますが、まるっきり、世間の倫理と変わらないんじゃないか、宗教である必要がないという風に仰っているわけです。
その次に載ってる徳永道雄さんという人ですが、この方は京都女子大学の先生です。「宗教とヒューマニズム」ということで、宗教倫理学会が二〇〇一年に立ち上がったときの最初の学会で行われた「宗教と倫理」というシンポジウムの中で発言された記録の一部です。時間がありませんのでアンダーラインの所だけ見ていただきたいんですが、「その際に是非とも注意しなければならないのは、いわゆるヒューマニズムとの混同であろう」、同じことを仰ってるんですね。自分は仏教の立場であると思いながらも、いつの間にかヒューマニズムの立場に立ってしまう。そして、「現代の問題に積極的に発言しているいくつかの宗教の関与の仕方を見ても、ただヒューマニズムを標榜しているのみで、宗教としての立場はどこにあるのかと首をかしげざるを得ないものが多いのではなかろうか。宗教である限りは、ヒューマニズムの限界、あるいは人間の分別・理性に対する過信を明瞭に自覚して現代の問題に対処するべきではないだろうか。」「自らの奉ずる宗教的真理によって人生を生きようとしている者も、その立場から現代社会の問題について考えることが要請されるようになったのである。それはとりもなおさず自らが奉ずる宗教的真理と先に述べたヒューマニズムとの水際を明確にすることである。今やヒューマニズムは現実社会の動かせない価値基準であるといって間違いはないだろうが、もしもそれをもって宗教の社会性の基準であるとするならば、そこに宗教的価値を標榜する意味はなくなるからである。」「今やアメリカの神学は社会の発展や人類の福祉にどれだけ役立つかという仕事になってしまったといって過言ではない。それはそれで結構であるが、そこにキリスト教の立場からの独自の視点が欠けているならば、神学者の発言であるという必然性はないように思えるのである。」「仏教の国際学会においてもこれは同様で、ヒューマニズムの視点からとらえられた発言や発表が横行している。つまり、ヒューマニズム一辺倒の立場に立って、仏教は社会の倫理や世界の平和に寄与することのできる要素に充ちているという類のとらえ方であって、前進的で、力強く、明るい希望に満ちており、それはそれでまことに結構であるが、何か重要なものが欠落しているのではないかという疑問を感じない人はいるまい。」という風な発言がありました。私が訥々と申し上げるより、こういうお考えの方がいらっしゃいますので、これを読んでいただければ、私の言いたいことが大体分かっていただけるという風に思います。
ですから、宗門運動の「生命の絶対尊重」という基本理念、何故これが問題かというと、ここでいえばヒューマニズム的発想なんだということです。だけどそれを、法華経に説かれているという風に無理矢理くっつけまして、それで仏教的だと思ってしまうことが間違いなんです。そこがおかしいと思うんですね。ここに「水際」という言葉が出てきましたけれども、どこまでが水面なんだという水際が分からなくてはいけない。それを自覚した上で発言して欲しいというのが、私の考えです。
例えば、環境倫理学で有名な加藤尚武先生、この方が、宗教倫理学会で「環境と宗教は関係あるか」という面白いタイトルで講演なさったんですけど、冒頭にですね、「私は環境と宗教は関係がない、というタイトルにしてくださいと申し上げたんですが、関係あるか、の、疑問にされた」というようなことを仰っています。「関係ない」つまり、倫理学者ですから、倫理学者の立場からすれば宗教は関係ないって言うんです。まあそういう風に断言されてしまったわけです。確かに、宗教、仏教の考え方で環境問題に関わろうというのは、単純に考えれば絶対に無理です。そういった倫理的なものに踏み込まないというのが仏教の特徴なんですね。
逆に、一番倫理的なものを持っているのはイスラム教ですね。皆さんご存じだと思いますが、イスラム教は、イスラム教徒が現実に生活する上の色々な事柄を決めていますから、それによってイスラム社会というのは安定するんだということだそうです。そのためにあの宗教はできあがったそうです。非常に気性の荒い民族だったので、それで、生活に即した教えを説くことで社会の秩序を保つという意味合いが強い。だから、世界宗教の中で一番倫理性が強いですね。その次はキリスト教でしょうか。キリスト教の場合、神の命令というのは絶対ですので、そういった点からすれば、宗教が倫理的なものに及ぼす影響というものがあるわけです。仏教の場合は、どちらもないんですね。生活に即した教えや仏の命令というものはありません。その意味で、倫理性が昔から弱いわけです。
皆さん、東大の末木文美士先生ご存知ですよね。日蓮聖人についても書いておられますが、最近、『仏教VS倫理』という本を、筑摩書房から、ちくま新書ということで出しておられます、これは、『寺門興隆』という雑誌に連載していたものをまとめ、そしてまた全面的に書き直したんだそうです、その最初のほうに、仏教における倫理性の欠如というか、仏教に倫理はないというような発想が説明されております。田村芳郎先生の論文が紹介されて、特に日本仏教には倫理性がない、ということを主張なさってます。
実は今日ここに来る前に、たまたま駅で、また一冊本を買ってまいりまして、『仏教の倫理思想』という、宮元啓一先生が書いているんですが、講談社学術文庫で、四月に出たばっかりです。でもこの本はちょっとまた見解が違うようで、法華経の方便品なんかも出てくるんです、方便品を仏教の倫理だということです。実践思想としての倫理というものを考えれば、確かに倫理かも知れません。ただ、私がこの場合で言う倫理とは意味が全然違います。
そういうことで、まとまらなくて誠に申し訳ないんですが、仏教的価値観に基づく意見表明というのはそう簡単ではないということをしっかりと自覚していただきたいわけです。私達は、何十年もの間、ヒューマニズム的な、現代的な教育を受けてきていますから、すっかり発想がそうなってしまっているわけです。大学で僅か数年、仏教学の勉強したところで、頭の中の構造が変わるわけがありませんし、更にその上、大学の勉強というのは、いわゆる西洋の学問形式でやってますので、同じなんですね。だから、仏教的な発想というのは持ち込むことが難しいわけです。ですから、安易に仏教的であるという風に誤解してしまうのかなあと思います。
もう時間がありませんので、終わりにしますが、先ほど言及した加藤尚武先生が書かれた『現代倫理学入門』という本に、いったい倫理というのはどんなことを考えるのかということが書かれています。例えば、「十人の命を救うために一人の人を殺すことが許されるか」「十人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか」「どうすれば幸福の計算ができるか」「思いやりだけで道徳の原則ができるか」「正直者が損をすることはどうしたら防げるか」「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」「貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか」「現代の人間には未来の人間に対する義務があるか」「正義は時代によって変わるか」というようなことが論じられています。正義が時代によって変わることはあるにしても、我々はその主張が時代によって変わってはいけないのではないかと思うわけです。宗教とはそういうものだと思うんです。そうしなければ我々はアイデンティティを保てませんから。そういった意味で、しっかりした基礎研究をしていただいて、これなら大丈夫だということで、たった一つだけで結構ですから、研究を絞って深めていただければと思います。仏教的価値観に基づく意見表明というのは、社会的価値観との区別が簡単なように見えて非常に難しいということから、大変な仕事であるけれども、極めて重要な仕事でもあるということをご理解いただけたらなという風に思います。