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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

仏教における女性観の変遷

 

仏教における女性観の変遷
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 伊 藤 美 妙  
はじめに
 日本で最初に出家した僧は善信尼と言う女性であり、その時弟子として禅蔵尼と恵善尼という二人の女性が出家している。蘇我馬子は屋敷内の東方に仏殿を造り弥勒の石像を安置し、この三尼を招いて大会を行った。この事を「日本書紀」の中に「仏法の始めここよりおこれり」と記されている。
 すなわち、日本に於いて初めて仏教を広めたのは尼僧であった。それがどのような時代の変化によって女性が仏教から排除され、差別される教えが流布していったのか、歴史から仏教における女性観の変遷を考えてみたい。また、仏教における女性差別の教えを当の女性達はどのように受け止め、信仰していったのかを考察していきたい。
一、日本における仏教の始まり
 五三八年に仏教が日本に渡って半世紀をすぎても、日本古来の神祇信仰を奉ずる物部氏と蘇我氏との軋轢があってなかなか出家者を生み出すまでに至っていなかった。蘇我馬子の勧めによって司馬達等の娘の嶋(善信尼)、豊女(禅蔵尼)、石女(恵善尼)が高麗人である恵便によって受戒を受け出家した。馬子はこの三人を招いて屋敷内の仏殿の大会を行なった。「日本書紀」にはこれが日本における仏法の始まりと記している。この三尼はその後百済に留学し日本に戻って桜井寺に入寺し、十一人の尼と一人の僧を生んだとされている。なぜ日本に於いて最初の僧が尼僧であったのか。それは、仏教伝来以前の倭国の社会はシャーマニズムの要素が色濃く、ファミリーシャーマンとして女性が活動していたからである。初期の尼はこれを受け継ぐ存在であったと考えられる。
二、奈良時代の尼達の活躍
 一九九六年奈良県香芝市の尼寺廃寺の発掘によって塔基壇が発見され、出土した瓦から創建は七世紀第二半期頃と推定され、またそこから推定された五重塔の高さは四十㍍級とされている。この寺は字名から考えると尼寺であった可能性は高く、当時の尼寺が僧寺と対等の存在であったと推測される。
 又、一九九六年から九七年に調査された大阪市天王寺区細土谷の細土谷遺跡からは尼に関する木簡や「百尼」「百尼寺」「四月八日」と墨書きされた土師器杯が出土している。この遺跡の南東約四百㍍に百済王氏の百済寺と推定される堂ヶ芝廃寺があり、この僧寺と対なる尼寺関係の遺跡と推定されている。おそらく僧寺と尼寺がセットであったと思われ、奈良仏教においては尼また女性は差別されることなく僧と共に日本仏教の発展に活躍していたと考えられる。聖武天皇の時代の七四一年から全国に国分寺・国分尼寺が建立されていく。
 この後七五二年の東大寺大仏開眼供養では「続日本書紀」の「請僧一万」という記事から尼の参加は無かったとされる。しかしこれは東大寺が僧寺であったためとも考えられる。その後七七三年の称徳天皇周忌御斉会で「尼及女嬬二百六十九人」が供奉している例から尼の全面的排除が一挙に進んだとは考えられないが、この頃から国家的法会から尼が排除されるようになっていった。その一因として、男女の同座・同席を厳禁している儒教的倫理観の影響が考えられる。八世紀の僧集団が僧を中心とした制度として再編教化されていく中でもその対抗策として尼天皇の存在や尼の実質的な活動を受けて「大尼」や尼独自の位などの制度が僧と対等性を目指しながら作り出されたが、これらは称徳政権の崩壊とともにほとんどが姿を消してしまった。光仁・桓武天皇期の仏教制度の再編の中で僧だけを対象として年分度者制度が強化され、男性僧侶集団を中心として国家的な仏事を行っていく体制になっていった。その後も国家的な法会から尼が完全に排除されたわけではないが、尼の僧官制度、戒律制度の不備もふくめて尼の地位は低下していった。
三、平安時代の後家尼と仏教的女性差別
 儒教の理想的家婦像(その根底には父系制(家父長制)的親族組織が存在する)を明瞭に示す「節婦」(夫の両親に仕え夫の死後も他家に嫁がず、始終亡夫及びその家族に尽くす女性)八世紀では日本社会に定着していなかったが、九世紀になると様相は異なり顕彰される事例らしきものが急速に増加している。仏教界における動きもほぼ連動していたと思われる。寺院社会における尼の差別は奈良時代の東大寺大仏殿の法要あたりから宮中に於ける国家的法会から排除されることに始まり、九世紀以降女性の出家そのものも制限されるようになるとそれと平行して、中央では称徳女帝の創建になる西隆寺(尼寺)が西大寺(僧寺)の管轄下には入り、時期は遅れるが地方でも国分尼寺が国分寺の管理下に置かれたりし、尼寺が僧寺に従属させられる、あるいは廃寺になる状況が現れる。また、仏教的女性差別文言も9世紀後半から様々の史料に登場していくが、それでも一般社会においてはまだ浸透せず貴族社会に定着していたと考えられる。
その状況の下、後家尼が登場してくる。
【後家尼】
 この時代になると夫を亡くした後家が出家して尼になるケースが多くなる。しかし、出家したからといってすぐさま尼寺に入れるというわけではなく、奈良時代にいくつもあった尼寺は荒廃し、ほとんど機能をもっていなかった。高木豊氏によると多くの後家は在家居住のまま、夫の菩提をとむらっていた。髪も完全な剃髪ではなく、肩くらいで切りそろえる「尼削ぎ」だったと思われる。貴族の女性が出家すると家を離れて山里に庵を結ぶ場合もあった。「平家物語」にも祇王と妹の祇女、そして二人の母が嵯峨の奥に遁世した例がある。
 「往生伝」(平安時代に書かれたもので見事往生をとげた人々を描いている。その中に女性の往生者も意外に多く含まれている)を見る限り後家尼の数はかなり多い。主婦であった女性がいかに家に依存しているかがわかるが、別の見方をすると財産があるから夫の追善供養を行う財力があったという事になろう。在家の尼になって静かな毎日の行に励んでいたというのが「往生伝」の後家尼の一般的な姿である。「往生伝」によると「ひたすら仏事に励む」ことが往生の条件であるが、もうひとつの条件といえそうな要素がある。それは往生を願う女性の心持ちについての表現に端的に表れている。小原仁氏によると、人格に質素柔和とか正直慈悲といった美徳をたたえることが多いこと、また少数ではあるが「外貌端正」というような外面の美を記すものもあり、これが往生の不可を決める重要なポイントとされる。往生者の中でも男性にはこのような形容詞を持つ者は見いだせない。女性は単に仏道修行だけしていればいいのではなく生まれついての性格や外見の美によって往生の不可が決まるということである。この辺に仏教だけでなく儒教的な影響を感じる。
【僧の母】
 女性に対する仏教的差別が生まれてきた時代であるが、仏教説話で僧の母について語るときは「女は穢れている」という思想はあからさまに出してはいない。日本の「往生伝」には僧の母が登場するものが見られるが、そこでもやはり理論のすり替えが行われており「女性は穢れているけども僧を産んだ母は別」という言説がほとんどである。
【僧の家】
 西口順子氏の研究によると平安時代から「僧の家」が存在したと言う。つまり僧が妻帯して子をもうけ、その子を「真弟子」と言って一切を伝授し、親の役職を世襲させるというものである。僧の妻帯の古い記録は九世紀の「日本霊異記」の作者景戒である。その「日本霊異記」の中に妻や子どものいる僧の事が書かれている。下巻に書かれている紀伊国名草群弥勒寺(能応寺)の老僧観規には明規という弟子がいたが、話の中で明規に「我が子」と呼びかけていて話の内容から、実子を弟子とし寺の後継者としていたようである。そもそも弥勒寺(能応寺)は観規の先祖が造った寺とあるので、代々親から子へと実子が跡を継いで世襲する形態が以前から続いてきた可能性がある。十世紀後半になると僧の妻帯は一般的に行われるようになった。「法華験記」や「今昔物語」にも僧の母や子どものことが極自然に描かれている。
四、鎌倉時代の女性達の仏教認識
 多くの仏教の経典には女性は罪深く、女身のままでは極楽往生や成仏ができないと記されている。女人成仏を説くいくつかの教典でも、一部に即身成仏を説く教典もあるが、多くが女性は変成男子によってのみ成仏が叶うとしいている。日本で多く読まれた「法華経提婆達多品」や「転女成仏経」などは女性が男性に変身して初めて成仏が可能となるという女性差別を前提とした女人成仏説であると一般的に言われている。
 しかし、仏教が伝来した古代日本社会はこのような女性差別観を受容する社会的基盤を持たなかった。八世半ばになって初めて中央の国家的法会に尼が請じられない事態が起こり、九世紀には官尼寺が退転していった。やがて平安貴族社会における僧や貴族の文の中に五障三従の罪深い存在とする記述が現れ、「法華経提婆達多品」や「転女成仏経」が読まれるようになっていった。さらに山岳寺院における女人禁制も展開していった。
 野村育代氏は、これまで女性と仏教の研究における鎌倉時代は平安時代に生まれた女性差別観が空間的にも階層的にも広がりと深まりを見せていった時代としてイメージされてきた。はたしてそうなのであろうか。女性差別観の内容の文書が鎌倉時代の寄進状や願文全体の中でそう多くはなくむしろきわめて低い割合でしか存在しないと述べている。
 以下は野村氏が「鎌倉遺文」所収の文書から鎌倉時代において女性差別の文言について調査したものである。
 「鎌倉遺文」の願文・寄進状等における仏教的性差別に関わる文言の登場頻度である。女性のジェンダーとしてイメージされる「滅罪」という言葉は男女問わず多く祈願されており、多くの場合女性特有の罪とは考え難い。「女人成仏」のイメージが強い「法華経」も男性の菩提のために普通によまれている。一方、仏教的性差別と関わる文言が見られる文書は全部で三四通ある。それを発給者の男女別で見ると、男性が母や姉妹あるいは自分のために祈願した文書が十四通、女性自身がこうした文書を記した文書が二十通である。女性自らが「五障」や「転女成仏」などを祈願する文書は、約三百五十通中の二十通であり、約六%弱という少ない割合となる。
 次に「鎌倉遺文」において、少数ながら見られる性差別的文言が具体的にどのように現れるのか検討した。
 まず、「五障三従」の見える文章を男女別に示したのが表2と表3である。
 「五障」を日本では「五つのさわり」と訳され、それが「月のさわり」のようなケガレ観と混合して女人禁制の理由ともされた。
 「三従」は女性の守るべき道徳であり「三綱」とも呼ばれて、本来厭うべきものではないが、日本中世では「五障」とセットで女性の成仏を妨げる宿命的なものと理解された。鎌倉時代の段階では「三従」はあまり人の口に上らず、「五障」とセットで三例しかなく、また「五障」も男女合わせて十四例しかない。
 次に「つたなき女人の身」「女身を厭う」「転女」をいのる内容の文書を表4、表5に示している。
 これもさほど多い分量ではない。表2~5を通して、現れる寺院を見ると、西大寺、金沢文庫、高野山、東大寺、大隅台明寺などがあり、前代と比べて地方に拠点が出来ていることが解る。目立つのが西大寺、金沢称名寺など律宗の寺であり、表4の女性自身が「女身を厭う」文書は半数が西大寺のものである。西大寺は一二五六年に「転女成仏経」の開版を行っており、これらはこうした一連の活動の中に位置づけられるものであろう。律宗以外ではこの経は開版されず、一般在地社会に「転女成仏経」はほとんど広まらなかったようである。ところで表4には一通だけ、地方に住む在地の尼が積極的に「変成男子」を望んだ例がある。三一〇三八号「尼覚照写経願文」である。ここで尼覚照は、当時の社会で、女性が「大智識」となりにくい状況にあったために、生まれ変わったら男性になってより大きな宗教活動を行うことを望んでいる。ここには「転女成仏」に対する誤解、または「解釈の違い」あるいは「読み変え」がある。
 引き続き「龍女成仏」について検討する。「鎌倉遺文」中、龍女が登場する文書は次の表6の通りである。
 まず、龍女の登場する文書八通は全て男性の発給した文書であるという点である。内容を細かく見ていくと、龍女が現れる文書は三つに分類される。A表は男性が近親女性の追善のために龍女を持ち出した例であり、女人成仏説としての龍女成仏である。七三七号の九条兼実が姉の皇嘉門院の追善のために書いた願文であるが、そこには比叡山の女人禁制、「変成男子」説、「龍女」が見られ、別の箇所では「転女成仏経」が書写されていて、まさに平安貴族社会以来の「女性差別文言」が並んでいる。次に表Bは、男性が自分自身を龍女と対置させて、自身の成仏を祈願しているものである。ここで龍女は「即身成仏した者」であることが重要なのであって、「変成男子した女人」であることは問題になっていない。これは平安時代から見られることである。最後の表Cは、龍女が他の神と習合しているものである。清瀧権現はもともと唐の清龍寺の守護神であり、水の神であり、図像では日本女性の姿で表された。それがさらに「法華経」の龍女とも習合していたのである。鎌倉時代の社会一般で、女性達が龍女を自らの成仏の模範として祈願することは、「鎌倉遺文」では全く見られなかった。「変成男子」という文言も、女性の文書には見られない。このゼロというデーターは、当時の社会における女性の意思、即ち龍女成仏を祈ることを拒否する心性を物語るものではないか。それは一つには、あまり良くないとされた蛇のイメージを自己のものとすることの不快感かもしれない。さらに、その根底に、龍女成仏に象徴される変成男子説を多くの在地女性達が内面化していなかったことがあろう。佐伯三子という女性もその寄進状に、「夫法華者、即身成仏之経路」と述べている(一八一一八号)三子は法華経の龍女成仏説を変成男子説としてではなく、即身成仏の教典として把握していたのである。
 以上の調査から野村氏は鎌倉時代の社会では、祈願内容に男女の差は少なく、女人罪業観の影響も少なかった。特に女性が龍女成仏を女人成仏の範とした例はなく、それは女性達に受け入れていなかった。女人罪業を在地女性が自らのものとするのは、もっと後の時代、室町時代後期以後のことであると思われる、と述べている。
 鎌倉時代に於いて女性は仏道修行しにくい環境ではあったが、「正統な」伝記類に載るような女性の高僧がまったく存在しなかったわけでなく、臨済宗の景愛寺開山無外如大禅尼らがいた。また、脇田晴子氏は「庭の訓」の中で、今は世にかしこき尼達が多いので、学問の師としたらよかろう、という女房に対する教訓も紹介している。「鎌倉遺文」の中にも、大徳寺の開山宗峰妙超は、大徳寺末寺である京都北小路大宮の尼寺妙覚寺の住持職に弟子の比丘尼宗印大姉を選定したが、それは彼女が「法器抜群之意気」有るによってであると記している。(三一四八七号)中世禅宗において、尼は卓越した宗教家として資質が求められ、またそうした力を発揮する女性がいたことが分かる。
五、室町時代の仏教的女性観
 鎌倉時代でも女性が尼僧として仏道修行を歩むことはなかなか困難であった。室町時代になるとさらに厳しくなり、尼僧になって仏道を修めるために波瀾万丈の人生を送った尼がいた。その名は慧春尼と言い、一般的にはあまり知られていないが、曹洞宗内では有名であり、数ある高僧伝にもその行状が記されている。曹洞宗の尼僧の伝記を記している「重続日域洞上諸祖伝」によると、慧春は三十才を過ぎてから出家を志、兄の寺を訪ね打ち明けた。しかし兄である了庵はそれを頑として受け入れず、その理由は「出家は大の男が行うのもで、女子どもにその意志が立て通るはずはない。また、穢れた女をこの清浄な寺に引き入れて法を潰すような事があってはならない。」というものだった。その言葉にひるむ慧春ではなく、決意は固く火箸で顔を焼いて兄に「これでも出家の志を立てることができないでしょうか。」と伝え、ようやく出家をゆるされたと言うエピソードが残っている。鎌倉新仏教の中でも女性が尼になることは制限が有ったことが分かる。また、この時代の女性が仏道修行を歩むことの難しいことが伺える。
 さらにこの時代は、女性の血穢の観念が強まり、女性のみが血の池地獄に堕ちると言われるようになり、血盆経が女性に配布されるようになった。そうした思想が熊野比丘尼らの語りによって在地に流布していき、仏教に於ける女性差別が広まっていった。これについては先の野村氏が北陸の若狭国(福井県)遠敷小浜に残された寄進札から五障・三従説や龍女成仏説が登場する時期を調べ、この地方における女性達の信仰の変化を調べているのでそれを紹介したい。
 なぜ北陸の若狭国の小浜に焦点を当てたかというと、この地は京都に近く、中国・朝鮮にも近く環日本海地域の要地として、人や物資の交流が盛んな場所であり、文化的にも様々なものが交流する場で、決して閉鎖的な土地ではなかった。信仰の面でも熊野の山伏や時衆など様々な宗教者がこの地を訪れているという往来の活発な土地で有るという理由による。若狭国小浜には古刹、明通寺、羽賀寺、妙楽寺、飯盛寺があり、南北朝期から江戸時代元禄年間に至る如法経寄進札が存在している。これらは板に墨書された札で、最古の札である明通寺一三〇九年の殺生禁断の札をのぞく全てが、寺で行う如法経会に対して人々が結縁のために、米や銭を施入したものである。若狭の明通寺以下の四寺はいずれも江戸時代に真言宗に変わるまでは天台系の顕密修験兼修の道場であり如法経信仰が盛んに行われていた。若狭の寄進札は全部で五百五十八枚現存し、その内訳は明通寺に四百一枚(一三〇九年~一六九四年のもの)、羽賀寺に百枚(一三一六年~一五六五年)、妙楽寺に二十四枚(一四六四年~一五五三年)、飯盛寺三十三枚(一四八四年~一五四四年)である。これは現存する枚数で当時はかなり沢山の数があったとされる。
 寄進を行った人々については、林文理氏と水藤真氏の考察があり、林氏は寄進者の階層は中世では「全階層」と言えるほど広い層であるとし、水藤氏は十六世紀初頭まで寄進料が十石であったことを重視して、十石といえば田六~七段分の年貢に相当し、かなり裕福であければ寄進できなかったとし、「武士、在地土豪、商業者の親方、座の中心的商人及びその人々の妻」であったとしている。
女性の寄進札の増減を示したものが図7である。aは寄進札の総数で、bはそのうちの女性の寄進札の数である。
 一三七〇年代までは、寄進札の総数も少ないが、その中で女性の寄進札の数が半数を占めているが南北朝期を過ぎた一四一〇年代になると女性の札は男性に比べて圧倒的に少ない。このことは南北朝期以前の女性の経済的地位とその後の低落を示していると言えよう。室町期にはしばしばセロの年も見られ、十六世紀に入り、一五一〇年代、二十年代には男性の札は急増するが女性の札はゼロのままである。この時期は寄進料が引き下げられた時期に当たり、寄進の大衆化がある。にもかかわらず女性の寄進が消えかかってくるというのはそれが単なる経済力の低下によるものではなく、もっと別の仏教の女性観の問題に関わると思われる。一六一〇年代には全体の急増と共に女性の札も増加しやがて一六五〇年代を最後に女性の札は無くなってしまう。これも幕藩体制の形成に伴う女性の地位の低落傾向と関係があるのではないかと考える。
 「五障」「三従」「龍女成仏」など女性を劣位に置きつつ女人成仏を祈願する文言をすべてピックアップしてまとめたのが表8である。
 若狭の寄進札において、これらの文言が初めて登場するのは十五世紀末、一四八二年の羽賀寺の寄進札であり、その次のものは十六世紀に入ってからになる。明通寺の場合は一五一八年に最初の「五障」が見られるがその後は一五八三年に入ってからであり、普及の遅さが見られる。しかし、明通寺でも一四九二年にジェンダーに関わる文言が見られる寄進札があるが、それはまだ女性を差別する思想に染まっていない、男女同質性を説いたものだった。表を見ると、「五障三従」は、男性が母の追善のために寄進している札にまず現れてくる。そうした後に、「五障三従」が女性自身の信仰に取り入れられていくのである。この点は勝浦令子氏の指摘する血盆経信仰の展開過程と同様な流れであろう。女性を差別した上で救済しようという信仰は、まず、男性が母を弔う場面に現れ、やがて、そうした思想が普及宣伝される中で、女性が自身の信仰の中に取り入れて言うという図式をここでも確認することが出来る。一方「龍女成仏」は平安・鎌倉期以来女性に人気が無く、女性自身が発給したものは一例しかない。むしろ「龍女」は多く男性による文学的表現であった。また、男性が自分自身のために龍女を持ち出した例もある。
 寄進札による仏教的な女性差別観の登場は、社会のどうような変化と連動しているか。一三七二年に太良荘では善日女が訴訟を行っているが、これ以後女性の百姓が文書に現れなくなり、また女性の名が多く記された「若狭国鎮守一二宮社務代代系図」にも、十四世紀中葉以後女性の記述が簡潔になるなど公的・政治的な場から女性の排除が起こった後、家庭内の地位も変化を生じてくる。飯沼賢司氏は寄進札に現れる女性名を分析し、十五世紀初頭までは「○○氏」や「○○氏女」のように記されているが、それ以後「男性(父)名+女」という形で記されるようになり(実名の場合もあるが)十六世紀末からは「○○母」「○○女房」「○○娘」と専ら男性との関係で記されるようになる。寄進札に女性差別観が現れるのはその時期よりも女性の名が男性名に女をつけて表されるようになる一世紀弱ほど遅い。この事から、まず、社会的な女性の地位の変化が先にあってその後仏教に於ける女性観の変化が生じたことが確認できると野村氏は結んでいる。
 さらに、この時期に女性差別観が広まっていった原因に熊野比丘尼らによる血盆経の流布が上げられる。この血盆経という偽経は中国で十二世紀以前に成立したと推定され、日本に伝来したのは十五世紀頃と推定されている。「血盆経」の信仰を広めるのに熊野比丘尼などの活動が大いに影響したと考えられている。女性の穢れを厭わなかった聖地である熊野は、中世になると武士の浸食により荘園領地を経済基盤として維持できなくなった。したがって、荘園に変えて、諸国に勧進聖を派遣し、その地域住民から直接的に宗教活動のための金品を提供してもらわざるを得なくなった。その勧進聖として女性が派遣され、女性信者を対象として、携行した「熊野観心十界図」や「那智参詣曼荼羅」などの絵解きを行ったり札を配布したりして、その代価を徴収した。絵解きの対象である「熊野観心十界図」などには「血盆経」に基づく血の池地獄や苦悶する女性の姿が描かれ、そこからの唯一の救済法として喜捨などを迫ったのである。こうして、貴族のみではなく、一般民衆へも「血盆経」の存在が知られていったと推定されると成清弘和氏は述べている。
 「血盆経」が日本社会に広まっていく素地となった女性の穢れの変遷を見てみると表9のような流れとなる。
 中世を境として雑穢における「産穢」などと「死穢」との位置づけが完全に逆転してしまっている。神道の体系化・自覚化がいっそう進んだ中世に於いて、清浄さを強調するために穢れ一般が忌避され、「産穢」・「血穢」が「死穢」とともに長期化するのなら理解しやすいが、「産穢」や「血穢」などが長期化し、「死穢」は極端に軽減されたのは女性を蔑視し差別する意図もあったと考えられる。なぜなのかと考えると、社会的地位の劣化と関連づけられ、結局は家族内での女性の地位の劣化、つまり家父長制の徹底にあるのではないだろうかと成清氏は指摘し、野村氏もまた、九世紀から十世紀は、中世における身分制度の枠組みの基礎が作られると同時に、ジェンダーの枠組みが作られて、国家的儀式・法会からの女性・尼の排除、女官の地位の後退など、公的な場所からの女性の排除が進行した時期である。その中で、産穢・血穢は、新たなジェンダーの枠組みを支えるイデオロギーとして成立したものであると考えられる。したがって中世的穢は、素朴な出産禁忌のようなものとは異なるもので、高度に政治的・国家的な形成物であると考えると述べている。
 室町時代は女性蔑視・差別が広がって行った時代と考えられるが、南北朝時代から室町時代にかけて特筆すべき尼寺が誕生した。尼五山と比丘尼御所で、比丘尼御所は「尼門跡」と呼ばれることが多い。尼五山と比丘尼御所は本来違う性格の尼寺ではあったが後には混同されてしまうこともあった。田中貴子氏によると尼五山とは当時の僧の制度に基づき臨済宗の尼寺から特別に格式を持った五つの尼寺を指定したものであり、これは鎌倉と京都に制定され、鎌倉では太平寺、東慶寺、国恩寺、語法寺、禅明寺の五つがそれに当たる。京都では「京兆五山」と呼ばれることもあり、中原康富の日記である「康富記」によると景愛寺、通玄寺、檀林寺、護念寺、恵林寺の五寺であると述べている。牛山佳幸氏によると檀林寺をのぞくと他の四寺がそろって在続していた時期がきわめて短期間であることを指摘しており、室町中期に焼失して再建がなされなった寺院もあることを考えると、尼五山とは堅固な制度で結ばれた寺院群ではなかったと思われる。尼五山があたかも僧の五山のような秩序にのっとっていた制度であると考えられてきた背景にはおそらく筆頭に上げられた景愛寺の影響が強かったからではないか。荒川令子氏によれば景愛寺の住職の任免権は足利将軍家にゆだねられており、将軍が爪点をつけることで住持が決まったという。中世初期の尼寺では、当初、肉親の菩提を弔うためや自ら救済を目的として出家する女性がほとんどであったが、尼五山の特色は男性の禅僧のように法脈を次ぐために入寺するという、いわば尼寺の経営のためや、高い位について社会とも関わっていくことで自己実現しようとする尼の出現であろう。原田正俊氏によると少なくても室町前期には尼五山の体制が確立し、五山官寺に準ずる扱いを受けていたことは明らかである。とくに高い格式を持っていた景愛寺の住持は名誉職であり、高貴な紫衣の着用も許可された。他の尼寺では黒衣しか許可されなかったので「黒御所」とも呼ばれた。
 もう一方の比丘尼御所はというとその代表が京都にある宝鏡寺である。尼門跡という名は中世にも近世にもなく近代になってから称されるようになったものである。比丘尼御所とはどういうものであるかと言うと、とくに中世に限った場合、天皇家、将軍家、摂関家など身分の高い家に生まれた女子が住持として入った尼寺で、厳しい戒律や修行が目的ではなく、姫君達の育った環境を引き継いだ御所的な生活が行われている場所であった。特に皇女が比丘尼御所に入った理由として菅原正子氏の中世前期に女院としてすごした未婚の内親王が後期になって出家し比丘尼御所で晩年を送ったのではないかという説がある。平安時代であれば不婚皇女の身の振り方として女院という行き場があったのだが、中世になると女院は再び天皇の后がなるものとされ不婚の皇女の行く場所がなくなっていく。そこで尼寺という場が浮かび上がってきたのだと考えられよう。また後醍醐天皇の治世には不婚皇女の行き場の一つである伊勢神宮と賀茂社の巫女斉王の制度もなくなってゆくのだが、それにともなって不婚皇女の受け皿として比丘尼御所が発展したのではないかと思われる。
 大塚実忠氏の研究によると中世後期の日記で確かめられるものは、南御所大慈院、入江殿三時知恩寺、野宮殿摂取院、鳴竜殿十地院、岡殿大慈光院の五寺である。岡佳子氏によれば近世の比丘尼御所が成立する条件とは
一、住持が皇女、宮宅、公家などの公家方の女性である。
二、幕府から公家方支配を受ける。
三、朱印状によって知行を安堵されている。
 元和元年(一六一五)から三年にかけて発給された朱印状によると、岡氏が近世の比丘尼御所と認定されたのは次の十六ケ寺である。養林寺、法華寺、光照寺、宝鏡寺、継孝院、恵聖院、宝慈院、惣持寺、大聖寺、三時知恩寺、曇華寺、大慈院、瑞華院、禅智院、慈受院、瑞龍寺で江戸時代に開かれた寺院では、霊鑑寺、円照寺、林丘寺などがあげられる。
おわりに
 これまで、古代から中世にいたる尼の様相と仏教における女性観や女性の穢れについて述べてきたが、では当の女性達はどのようにして、仏教のおける女性差別観や女性の穢れを受容していったのかを探っていきたい。
 従来の説では、鎌倉時代に五障三従や転女成仏といった女性差別観が地方へと広範囲に浸透していった時代と位置づけられ、その劣った存在であるとされた女性達を鎌倉新仏教の開祖達が救済の手を差し伸べられたとされてきた。
しかし、野村氏は平安貴族の間に広まった女性の穢れという観念は、鎌倉頃から徐徐に在地の民衆へも広がっていったが、それが在地民衆の心を広く呪縛するのは、室町末から近世初頭にかけてである。十五世紀頃から広がった「血盆経」が、民衆女性のもとに一つの規範としてもたらされていく。その時女性達は何らかの読替を行って、それを受容したと考えられる。そのひとつが説教節に見える「女の役とて、夫の不浄を受け取って、胎内に七月半にまかりなる、水子を受け取り申したよ」という台詞である。つまり女性がなぜ穢れているのか。それは、男の不浄を身に受け取って、出産をするからである。もともと不浄なのは男の方であって、女は「夫の念力」によって穢れるのである。そして、女性がなぜ出産の穢れを引き受けなければならないのかと言えば、それは「女の役」だから、という諦念に行き着いていく。言うなればそれは代受苦であったと語っている。これは勝浦氏が指摘する洗濯の問題、垢のついた衣をすすぎ、自身が穢れにふれることでその穢れを清める仕事が女性労働とされる構造は、出産における代受苦の構造と似ているのである。勝浦氏は単に現実の衣服の汚れを取り除くというだけではなく、穢れをはらい浄化するための呪術的な洗濯であり、この洗濯をなし得る能力が女性にあると見なされていた可能性があると述べている。しかし洗濯する女性の中に尼も多く登場する。「平家物語」や「源平盛衰記」には高野山の別所である天野で尼になった女性が洗濯して世を過ごしたという例がある。また、勝浦氏が示した事例では、「三代実録」元慶四年(八八〇)五月十九日条に記された、西大寺の僧の衣服を西=cd=22aa寺の尼達が請け負っていたというものがある。さらに細川正俊氏は常陸三村尼寺は近接する三村僧寺の僧の衣を洗濯する「つとめ」を持っていたと述べている。これらの例からは洗濯が女性の呪術性に期待した聖なる家事ではすでになくなっていたと考えられる。原田正俊氏は尼が参禅出来なかったことについて、正式な法系図に尼達が名を連ねることができるわけでもなく、洗濯のために寺中への出入りが許されるという尼も多かったためと語っている。これは僧が尼を差別し、洗濯が「聖なる労働」ではなくなり、「けがれた家事労働」として位置づけられていたことを示すものではないだろうか。最初は洗濯という行為が穢れをはらい浄化する行為と受け止められていたかもしれないが、九世紀半ば頃から尼が完全に国家的法会から閉め出され、尼寺が衰退していき、国家的・政治的に作り出された産穢・血穢によって、「けがれた家事労働」に変わっていったのでないだろうか。
 中世日本に於いて、雑穢の筆頭が死穢ではなく「産穢」に変わっていった。成清氏はこれについて祭祀から女性を遠ざけ、ひいては「家父長制」の定着をより強力に推進するためであった可能性が強いと述べている。中世における女性の蔑視や差別観は神道から最初に広まり、その後「血盆経」の流布により拡大していったのではないかと思われる。なぜなら、鎌倉時代の新仏教の影響を受け、平安時代の本地垂迹説(神は仏が姿を変えて現れたとする思想)により仏教に押されていた神道にも改革の動きが起こり、伊勢外宮の神官度会家行は反本地垂迹説を説き伊勢神道を大成した。また室町時代には吉田兼倶が唯一神道を創始し、神本仏迹を説き反本地垂迹説を体系化した。神道に於けるこうした改革の動きにより、女性の「産穢」・「血穢」が肥大化し広まっていったと思われる。
 一方、女性達による血盆経の受容について菅原征子氏は次のような見解を示している。表舞台を男性独占されている状況下で、家の内外で結構社会的な能力を発揮していた彼女らが、女性だけの共通条件を盾に女性をテーマにして結集しているという図式は否定しがたい。女達のための経典、女達のための講、村や町における女だけの信仰グループの積極的意義は結局男達の認めざるを得ず、そこは女達の社交の場であり、情報交換の場であったはずである。血穢思想は不自由な封建社会の女性達にとって、むしろ逆に積極的な意義が有ったからこそ流行したのではないか。今でも明治大正生まれの女性達が、当時の地蔵講の楽しさを語り懐かしがると。
 そしてまた、野村氏は血盆経信仰における一人称は「われわれ女」であって、「女である私という個」ではなかった。血盆経に向き合う主体が「女である私という個」になった時、はたして女性達は受け入れたのであろうか。否定されたはずであり、ここには、血盆経の持つ差別性を自分なりに読替をして、自分達のためのイベントに作り変えていった女性達のたくましさを感じる事が出来ると述べている。
 今後はさらに広範囲に女性蔑視・差別観がどのようにして在地の女性達に受け入れられ、信仰を強めていったのか調べてみる必要を感じた。今回は法華経における女性差別については現代と教学プロジェクトが研究しているのでふれていないが、法華経を日蓮宗の尼僧達はどのようにとらえていたのか、日蓮聖人には女性差別は無かったと認識しているが、御入滅後、宗門はどのように女性信者を教化・救済していったのか、当の女性信者はどのように受容し信仰していったのか、今後の研究課題としたい。
参考文献
野村 育世『仏教と女の精神史』吉川弘文館、二〇〇四年
吉田 一彦・勝浦令子・西口順子『日本史の中の女性と仏教』法蔵館、一九九九年
成清 弘和『女性と穢れの歴史』塙書房、二〇〇三年
田中 貴子『尼になった女たち』大東出版社、二〇〇五年
勝浦 令子『日本古代の僧尼と社会』吉川弘文館、二〇〇〇年
西口 順子『中世の女性と仏教』法蔵館、二〇〇六年
 

 

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