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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

日蓮聖人と国家

 

日蓮聖人と国家
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 藤 崎 善 隆  
 おはようございます、藤崎でございます。日蓮聖人と国家という題目で、研究発表をさせていただきます。まず、なぜこういう、日蓮聖人と国家という題目を選んだのかといいますと、最近、教育基本法改正の中で、愛国心という言葉が出てきますが、愛国心というのを法律で定める、定めないというのは、色々議論がある所だと思いますけれども、その愛国心の「国」、というのは何なんだろうか、西洋近代国家の枠組みの中で、日本の法律が通用する所が現在でいう、その愛国心の「国」という範囲だと思うのですが、では、日蓮聖人が立正安国と言われたその国というのは、何を示すんだろうか、そういったものを、疑問を持ったからであります。特にその疑問を大きくしたのは、今年の三月に、全日青の海外布教というのがありまして、シンガポールとマレーシアのペナン島の、開教師の元に行かせていただいて、現地の信者さんとの交流をさせていただいたんですが、大変に熱心な信仰をなさって、熱心にお題目を唱えていらっしゃるお姿を拝見しまして、その時は素直に、日蓮聖人もさぞ、喜んでいらっしゃるんだろうなと思いながら、一緒にお題目を唱えたのですけれども、果たして日蓮聖人が、今のこの中で、(海外に布教することはいけないというわけじゃないですし、それは大いに進めるべきことだと思うんですけども、)どういう認識をお持ちになって、いらっしゃるのかなと、国というもの、国家というものを読み解きながら、その答えというか、捉え方というか、そういったものを見出すことはできないだろうかと、いう発想のもとに、この日蓮聖人と国家という題目で、勉強をしてみようという風に思いました。それで、先ほど西欧近代国家という言葉が出ましたけれども、日蓮聖人の時代は、日本に限らずどこの国でも、当然今のような西洋近代国家の枠組みで理解できるような、国ではなかったはずであります。しかしながらどうしても我々は、近代国家の枠組みのもとに、国というものを考えてしまいがちであるのも事実だと思います。そういった点からまず、歴史学の立場から、日蓮聖人の実際に生きておられた時代、その同時代人の人達が、国家という、国というものをどのように捉えておられたのか、その状況を、まず、我々は見てから、それに当てはめた上で、日蓮聖人の御遺文を拝して、お考えを辿っていく必要があるだろうということで、まず、時代認識を見直す、という意味合いで、最初に、宗祖の時代ということで、その歴史の、歴史学の中での研究の状況というか、国家の捉え方を勉強してみましたので、まずそこから入りたいと思います。第一番目、政治ということで、当時、日蓮聖人の時代は鎌倉時代であります。鎌倉時代のしかも、源氏の将軍は途絶えて、いわゆる北条得宗家、執権という立場の方が、政治を司っていた。まあこれは後で言い換えなければいけない言葉ですけれども、いずれ北条得宗家が全盛期であった時代である、という風に言われております。そこに至る経緯としては、ここにも書いてありますが、平安末期に至って、武士が台頭してくる、そして、第一回目の源平の争いを経て、平清盛を中心とした平家の政権、が誕生し、その清盛の死後、平氏の政権が打倒されたあと、源頼朝によって、鎌倉幕府が成立、そして更には、源氏の将軍が途絶えた後、承久の乱、これは一二二一年、日蓮聖人のお生まれになる前の年でありますが、いわゆる、朝廷方と言われる後鳥羽上皇を始めとする、勢力に対して、鎌倉幕府、北条政子、北条義時を、中心とした勢力が上皇方に勝ったと、いうことで、完全に、鎌倉幕府に権力が移ったという、これは教科書で勉強すると、未だにこういう感じで時代は認識されると、いう風に思います。朝廷(院)、朝廷と言っても、当時はもう天皇は実質的な権力を持っておりません。院ですね、上皇或いは法皇を始めとする院が、権力を握ってたんですが、その朝廷、院が支配力を失って、武家政権たる鎌倉幕府へ権力が移った、これが、一般的なというか、分かり易い認識だと思います。しかし、それはほんとにそうなのか、という所で、まず、考えてみたい。一番の、㈰と付けておりますが、これが権力が移ったという考え方で、幕府を中心とする中世国家の、いわゆる古代的な公家政権が打倒されて、封建的な武家政権が誕生した、石母田正氏の領主制理論、佐藤進一氏の東国政権論などという、こういう理論がありますが、これは、今では違うというか、考え方をちょっと見直さなければいけないということで、大事なのは次の二番に挙げました、天皇を国王に措定する国家論、現在はこの天皇に院を加えている研究者が多いそうでありますが、黒田俊雄という方の、権門体制論という論であります。括弧して、要約で説明してありますが、荘園領主たる公家・
幕府・寺社という権門による支配、ということです。これについて、色々資料を付けてみました。というのは、なかなか難しくて理解するのにちょっと大変なんで、これを端的にというか、簡単にまとめた文章がありますので、それを少し読んでいただいて、理解を深めていただければと思いますが、資料の㈰=cd=ba52Aと書いてある、権門体制論・顕密体制論、と書いてある紙ですね。そちらをご覧いただければと思います。これは、神仏王権の中世というこの佐藤弘夫先生の本のコピーであります。今回の発表は、この本を基にしている部分が大きいんですけれども、その中で、この、まず、㈰のAの、三角印がついている所、そうした中で、一九六〇年代に入ってという所ですけれども、「この、権門体制論と呼ばれる独自の中世国家論の構想から、中世の国王に天皇を措定したのが黒田俊雄氏である。公家と幕府、及び寺社勢力が共に荘園支配を基盤とする封建領主階級(権門)であるとみる黒田氏は、それぞれが完結した荘園支配を遂行するこれらの諸権門を、被支配人民に対峙する支配権力総体として捉えた場合、それらが国家支配の諸機能を分掌する体制を構築していたことを指摘すると、そしてその上で、院政期以後、鎌倉・室町時代においても、国王は依然天皇であって、院庁・幕府などは本質的に権門の閉鎖的支配機関であった、と述べて、権門体制において区別の権門を超越する国王としての役割を担っていたのは、あくまで天皇であった」と、いうような形で、説明をしてあります。また義江彰夫氏は「以上の事情から、この時代に国家権力は、社会全分野を一元的に包括する古代以来の性格から根本的に脱却し、法行政を担う朝廷と軍事・検察を軸とする武家が多元的に並立する、という形に転化した。もちろん、だからといって朝廷が軍事・検察部門からいっさい手を引いたとか、幕府が他分野への関与の意志がなかったなどということはできない。朝廷検非違使庁、諸国検非違使の存続や、幕府の地頭を介しての収取行政のへの関与や守護による諸国一般行政への介入などは、それを物語っており、時代の経過と共に武家の統括内容は次第に拡大する傾向を持っている」と述べています。要は、朝廷が、というか公家勢力が、この幕府の成立、或いは更に言えば承久の乱で打倒されてなくなってしまったわけではない、依然、公家勢力、そして寺社勢力が大きな権力を持っていた、一元的にどっかに支配をされていたわけではないんだ、というその捉え方が、この黒田俊雄氏の、権門体制論であります。荘園領主、荘園というのが大きなポイントになってくるんですけれども、荘園の支配をしていた、天皇家、或いは公家、幕府、寺社、こういう、それぞれの支配のブロック的に絡み合っている時代、これが、鎌倉時代の、ほんとの日本の姿であって、このような荘園が、なんでブロック的に絡み合ってるかというと、それぞれに、独自の支配権、閉鎖的な支配権を持っていて、外部からの介入を許さなかったからであります。まあ日本史を勉強すると次のレジュメに戻りますが、上記㈪の云々と書いてある部分ですが、㈪の下の最初の米印ですけども、権門による支配を受ける荘園というのは、不輸不入権などに代表される閉鎖的な支配、不輸不入という言葉は日本史の勉強をすると出てくるんですが、いわば、簡単に言うと、持ち出すこともできないし、そこから入ることもできないという意味です。即ち、その荘園の中では全てが完結してしまって、外部の支配を受けないということです。そういうものが、組み合わさった時代、そして、その組み合わさりの中で、しかし、天皇は、その頂点に据えられていたと、いう風に捉えられる時代、これは天皇が頂点に据えられていたという根拠は、神の子孫だと、いう権威、宗教的な権威であります。それによって、本来ばらばらの、ブロック的に組み合わさった国が、一つの要としてまとめてられていった存在が、この天皇であった、そういう風に捉えるのが、この黒田俊雄氏の権門体制論です。勿論、幕府の意味、院の意味というのは大きな意味を持っておりますが、そこに全てが集中していたわけではない、ということで、まず、捉え直しをしていただければ、という風に思います。古代の律令国家、江戸幕藩体制のような統一的イメージで捉えるのは誤りであって、公家政権が極めて大きな、まだ勢力を持っていた、そして、この公家、幕府、もっといえば寺社も大きな勢力でありました、その寺社による支配、そしてその、まとめた中の、総体的な権力の頂点にある天皇の存在、それが認められていた、そういう時代だった、ということで捉え直しをしてみればいいんじゃないかということであります。そして、二番に入ります。宗教、仏教、宗教ですね。どういう仏教の状況であったのか、宗教の状況であったのか、これも、考えを一応、及ばせていかなくてはいけないと思います。先ほどの、権門体制と、大きな関係を持ってくるのが、この権門体制の中に入っていた、いわゆる寺社の領域であります。ここで、仏教に、的を絞りますので、仏教の中でいけば八宗ですね、鎌倉仏教と言われる新仏教が成立していない時代を見ますと八宗、いわゆる南都六宗に天台と真言を加えた八宗、それの、寺院の荘園領地化、これは、鎮護国家、いわゆる律令国家の下の鎮護国家思想で国から寺社に対して経済的に支援ができない状況が生まれたために、寺は寺として、荘園領主として自らの経済基盤を固めたわけですけれども、その荘園領主化、即ち世俗化にも繋がりました、それによって、寺社の性格というのはだいぶ変わってきた。ここで、王法仏法相依論とか国土即仏土論て書いてありますけども、これは、いわゆる、先ほど申し上げた荘園の不輸不入権の関係で、外部勢力による、自分の、すなわち寺の領土、荘園への介入を防ぐために生まれた論理であります。王法仏法というんですから、王法と仏法、王法というのはいわゆる国の法律だと思ってください、仏法は、その管理する寺社の持つ法律、法、いわゆる仏法ですから仏の教えですね、それが、相依、お互いに寄り添って存在してる、だから仏法がなければ王法はない、王法がなければ仏法はない、お互い様なんだ、だから王法が仏法に介入しちゃいけないと、いう意味合いの論理だと思ってください。そういう理屈で、不輸不入の権利を主張したり、或いは国土即仏土論というのは、国土は全部仏様の土地なんだ、で、特にその荘園においては認められて、お寺が支配をしているんだ、そこに介入すると罰が当たるぞ、というような、簡単に言えばそういう理屈だという風に思っていただければ分かり易いと思います。そういう形で、いわゆる、荘園を支配する、その基盤を固めていたのが、こういう時代、日蓮聖人のお生まれになる前の仏教の世界の時代です。そして、その下で、鎌倉仏教が成立と、特に法然の専修念仏が出るに及んでは、極めて大きな衝撃を与えていった、これが日蓮聖人のお生まれになる前の時代であります。そしてここでも、先ほどの鎌倉幕府と同じような感じで、この鎌倉新仏教の成立によって、いわゆる古い、仏教、南都六宗を始め天台真言の宗教が、ここで打倒された、なくなってしまった、勢力を失ったんだという風に、ついつい思いがちというか、どうしてもいろんな宗派の祖師が出てきて、華やかな時代でありますので、旧仏教の存在価値というのが段々薄れてしまうように思いますけど、先ほど申し上げました通り、荘園領地として極めて大きな経済力を持って、極めて大きな勢力を持っていた、それは、その新仏教の成立ぐらいで揺らぐものではありません。従って、依然として、大きな勢力を持っていたのが、ほんとは、南都六宗北嶺の、いわゆる、八宗、と言われる宗派の寺院だ、ということですね。それが、また資料でありますけれども、㈰のBという所に書いてあります。これも、先ほどの本と同じ本ですが、顕密体制論というがありまして、これは権門体制論がないと顕密体制論はないんですけれども、矢印、三角で付けた所で、「黒田氏は同書、およびそれに続く一連の論稿において、従来研究の主座から外れていた旧仏教(顕密仏教)こそが社会的勢力・宗教的権威・思想的影響力いずれの面においても、中世において圧倒的な位置を占めるものであることを力説された。しかもそれらの顕密諸宗は古代仏教のたんなる生き残りではなく、中世荘園社会の成熟に対応して荘園領主(権門寺院)として再生した。まさしく中性的な存在であった。延暦寺や興福寺をはじめとする権門寺院は個別領主として分立し対抗しあっていたのではなく、顕密主義ともいうべき共通の理念を媒介として共存の秩序を作り上げるとともに、国家権力と新たな形で癒着して、中世の支配体制(権門体制)の一翼を担っていたのである」、こういう見方です。ですから、顕密というのは顕密で、天台真言を中心として考えてやるのを顕密主義と言っているわけですけれども、その顕密仏教を中心として、それが国家の支配体制の中に癒着した、即ち、荘園支配という権門体制で、一翼を担う形で、厳然として国家体制の中に、存在していた、という見方、これが顕密体制と言います。そういう状況が、事実としては存在していた、
ですから、一見、軽視されてしまって、旧仏教が鎌倉新仏教の成立によって押されてなくなって、勢力を弱めてしまったというのは間違いで、未だその影響力は強かったんだ、ということを、まず前提としておいておかなければいけない、これはあくまでも参考ですが、織田信長が、織田信長が比叡山を焼き討ちしなければいけなかったというのは、それだけ比叡山が力を、戦国時代まで持ち続けてきた、ということであります。ですから、時代、その時代の宗教の状況を見るにあたって、法然上人の念仏、浄土宗が、ものすごく流行して他の宗派は黙っていたのかとか、そういう理解をするのは間違いで、権力の総体として、この顕密体制というのが存在して、それが権門体制の一翼を担っていたんだ、ということであります。まあ、それをだいたい同じようなことをまとめて、延暦寺を中心とした、旧仏教の圧倒的影響力に中世の仏教勢力の主流はあくまでも旧仏教にあるという風にここに書いておきましたけれども、そういう状況であった、で、これを日蓮聖人と無理矢理結びつける必要はないと思いますけれども、実際日蓮聖人も、天台宗の、正統の継承者という自覚をお持ちでありました。参考に、天台沙門という言葉をつけましたが、立正安国論の、日興書写本の中に出てくるものです。それだけ天台宗の影響は大きかった、天台宗を始めとする顕密仏教の影響は大きかった、ということで当時の宗教の世界の状況をご理解いただければ、という風に思います。では、レジュメの二枚目に、いってください。これらを踏まえて、宗祖の時代とはどういう時代だったのかということで、まとめてみました。確かに、大きな変化の時代、いずれは、武家に政権が委譲されていくわけで、その大きな変革の時代の狭間であったことは事実であります。しかしながら、それが革命的に、体制が打倒されて変わった、がらっと変わったわけではない、当然それ以前の影響力というのは全て拭いきれずに、そのまま、残り続けていた、荘園体制に立脚した社会構造、顕密仏教を中心にした宗教構造は依然として残っているわけであります。そうした時代の国家、こういう状況を踏まえてた上で、では、宗祖日蓮大聖人は、どのように国家の像というのを捉えておられたのか、それを次で見ていきたいという風に思います。で、宗祖の立場ということで、書いておきましたが、ただこれだけだと漠然としてなかなか掴みが取れないものですから、丸山眞男氏の講義録から、日蓮聖人のその宗教について、まとめて書いたものがありましたので、それを出してみました。「日蓮の宗教は、教理の上では天台教学を基本的に継受しているし、またそれが一方において、個人の救済だけでなく強く法華経による国家の護持を説き、他方において、呪術的要素や神仏習合の要素を内包している点で、いわゆる鎌倉新仏教中、最も伝統との連続性が濃い。にもかかわらず、(中略)その宗教態度において基本的に新仏教の刻印を受けている」、この文章の中身のですね、善し悪しというか、整合、正しい間違ってるはひとまず置いといて、これを見ると、日蓮聖人は、極めて強く、伝統の上に立っている、のに加えて、伝統を脱却してるんだという、いう風な理解ができるかな、という風に思います。それぞれを分析して次に見てみたいと思いますが、先ほどの天台沙門という言葉もありましたけれども、その正統天台の継承者としての自覚を持っておられたのが、特に初期の立場です。そして、それが伝統仏教も当然、正統を自負しておりましたので、では、同じ立場で、日蓮聖人が、見ておられたのか、というと、必ずしもそうじゃない部分が見えてきます。その例として、二つの違いを挙げてみました。当時の伝統仏教との違い、ということで、念仏批判というのが当然、先ほど法然上人の話が出ましたが、強く出された時代でありますが、伝統仏教の側も、当然日蓮聖人も、念仏を批判されています。その方法が、違うと、いうことで、伝統仏教側の念仏批判の根拠というのが、勅許と相承という風にまとめて書きましたけど、勅許というのは天皇の、天皇家の、朝廷の承認、許可ですね。そして相承、これは正しい、正法の相承という風に言うんですが、正しい教えを受け継いでるか、ということ、それを根拠に、法然上人は、
勅許を受けてないし、正法を受け継いでるわけでもない、だから、法然上人の念仏は駄目だ、という批判をしたのが、伝統仏教の念仏批判の主流だったそうであります。これは、『興福寺相承』というものに、そういう風に明確に記されております。それに対して、日蓮聖人の念仏批判というのは、あくまでも、法華経を中心として、法華経と念仏の教義的な優劣、ということを挙げて批判をされております。ですから、これが決定的に、伝統仏教との違いであります。また、先ほど正統天台という話が出ましたけども、正統意識の違いも、ここで見ることができます。伝統仏教の正統意識は、その勅許と相承に拠っていた、正しい法を受け継いでいる、この正しい法は法華経とは限らなかったですね。そして、勅許、天皇から認められて存続、宗を興してあるということで、自分は正統なんだと、それに対して、いわゆる勅許という、世俗権力によって保証される必要があるんだということを自認していたのがこの、伝統仏教の立場であります。それに対して、日蓮聖人を批判して伝統仏教が言うには、「三国の相承に及ばず、一仁の勅宣を蒙らず」と、これは『破日蓮義』という、天台宗の円信という方が書いた文章に出てくるものでありますが、そういうことで、日蓮聖人の批判も、同じ勅許と相承を根拠として批判をし、日蓮聖人も異端であるという風に、伝統教団は見なしたわけです。それに対して、日蓮聖人は独自の正統意識を持っておられた。これがまた、法華経を中心として、仏の慈悲によって与えられた法華経の志向性によって、それを、受持する以上はそこが正統なんだ、法華経を持ってる以上、そこが正統であるという、強い意志を持っておられた。勅宣などの世俗権力に保証される必要はない。いわゆる、勅宣を含めた王法、国家権力によって認められた法よりも、法華経という仏法が上位に位置している、仏法のもとに王法がある、という、明確な意志を持っておられた、これが日蓮聖人の正統意識であります。ですから、伝統を受け継いでいると言いながら、日蓮聖人の態度というのは、極めて、その、以外の伝統教団とは大きく違った、という風にとらえることができる、という風に思います。その中で、今、世俗権力という言葉が出てきましたので、その世俗権力を日蓮聖人は、どのように捉えておられたのか、ということで、世俗権力の役割を探ってみたい、という風に思います。二番目の、守護国家論に見える世俗権力の役割、ということで、ご覧をいただきたいんですが、「謗法の者を対治すべき証文を出さば、これに二あり。一には、仏法をもって国王・大臣並に四衆に付嘱することを明かし、二には、正しく謗法の人の王地に処るをば対治すべき証文を明かす」ということですが、要は、仏が仏法を国王に委託したのであるから、国王は悪法を禁圧して正法を立てる義務を負ってるんだということを主張されています。即ち、仏によって仏法が国王に委託されているのですから、世俗権力の役割というのはですね、その、仏法を守るために悪法を禁圧して、正法を立てなければいけない、そういう義務を負っている、それが、世俗権力の役割なんだ、ということをここで明かしているわけであります。そして、その、世俗権力を持つべき、支配者、国王というのは、どこにあったのか、ということが、今度問題になってくると、いう風に思います。で、国家の支配者(王権)の所在ということで、佐藤弘夫氏の、これは先ほどの、この文章ですが、特に、日蓮聖人の考え方について、まとめてご説明をしたいと思います。歴史学的な立場、先ほど見ました通り、権門体制の理論から、王権の持ち主は天皇である、或いは院である、という見方をするのが一般的でありますが、では、日蓮聖人はどうだったのか、と言いますと、よく言われるのが、「立正安国論を幕府に提出している、ということは、日蓮聖人は王権が幕府にある」と
いう風に認識されていたんじゃないか、という風に捉えるのが、一番、捉えやすい考え方なのではないかと思います。即ち、日本国王というのは、幕府の権力者であると、いうことであります。しかし、それがほんとなのか、ということで、幾つかの資料を見ていきたいと思います。㈰に、人王九十代、という記述です。これは、資料ご覧いただきますと、㈪のAです。富木入道殿御返事に、人王九十代、これは、ちょうどお書きになった時代が、九十代の亀山天皇のご在世の時代だったそうであります、ですから、明らかに、当時の天皇を意識している、ということ、王として、意識していたことが分かります。また、もう一つと、次の、㈪のB、これは逆の見方で、見ていただくと、三行目に、釈迦仏は、譬えば我国の主上のごとしと書いてあります。主上ですから、これは天皇です。釈迦仏は、この世の主宰の方であるわけですから、その釈迦仏と、天皇を喩えて用いている、ということは、天皇が、日本国の中での至高の存在であると認めているように取ることができます。ですからここでも、日本国王を天皇とみなしている日蓮聖人の考え、というのが見てとることができます。これは同じように他の中で、国王という言葉を用いている時には、天皇を指している、と捉えるほうが理解しやすい、理解できる場合というのが、殆どであります。人王九十代という風にして、時間の把握の基準として、天皇の在位を認識していた、ということは、天皇を国王として、日蓮聖人はここでは捉えておられた、という風にとるのが正しいのではないかと、いうことであります。そうしますと、幕府はどうなのだ、という問題が出てきます。そこで、三枚目のレジュメに、国王と国主ということで、ご説明をしたいと思います。まずざっと見てみますと、国主というのは目の前にあって実際に諸政策を遂行していた為政者、即ちこれが、北条氏であり幕府であります。一方、国王というのは教典などの記述、仏典を見ると、だいたい国王というのは天皇のような存在にあてられるわけでして、その一般論の王として、天皇が用いられている、こういう区別をして、日蓮聖人は国王と国主という言葉を分けて、使っておられます。ただ、前期、いわゆる佐前、佐後、佐渡の前と、佐渡流罪の前と佐渡流罪の後で、だいぶ、使い方が混乱する時期がございます。これは、日蓮聖人の天皇観が変わる時代でもありまして、それは後ほど、触れることに致しますが、基本的にはこの国王と国主の関係、国王を天皇、そして国主を幕府として捉えておられたと、いうのは、他の御遺文を拝読しても、明確であります。資料の㈫の1をご覧ください。これは立正安国論です。「若しくは万民百姓を哀れみて、国主国宰の徳政を行う」、と書いてあります。当時徳政令というのが出てましたけれども、直に政治を行っている方が、国主、という名前で、ここで用いられている例であります。そしてまた、Aの2のほうで、三角で印を付けてある所ですが、「無量劫の間六道に回り候けるには、多の国主に生れ値ひ奉て、或は寵愛の大臣関白等ともなりけり候けん。若爾らば国を給り、財宝官禄の恩を蒙けるか。法華経流布の国主に値ひ奉り、其国にて法華経の御名を聞て修行し、是を行じて讒言を蒙り、流罪に行れまいらせて候国主には未だ値まいらせ候はぬかな。」という記述がございます。ここに国主と何回も出てきますが、この『四恩鈔』というのは、日蓮聖人、伊豆の流罪中にお書きになった文章です。ですから、極めてこの流罪という言葉を途中で出てきましたけど意識をして使っておられます。自分を流罪にした国主、というような形です。ですから、流罪にしたのは当然鎌倉幕府、であります。ですから、この鎌倉幕府を国主という形で用いている、というのが明確に、分かるかと思います。これらから、日蓮聖人は、国王として天皇を据えております、そしてそのもとに、実際の政策を執行する機関としての鎌倉幕府、国主としての鎌倉幕府、という認識をお持ちでした。それは、権力の二重構造というのを、日蓮聖人は理解しておられた、という風に捉えることができると思います。そして、あくまでも、その天皇を中心に据えた上で、この国家全体像というのを捉えておられた、ということが、理解できます。
更に言えば、立正安国論の提出先が、幕府であったというのも、国主としての幕府を理解すれば、十分納得がいくわけであります。では、国王を天皇に据えていた、という考えは、実は、権門体制の一般的な見方と重なる、同じであります。では日蓮聖人はその権門体制の中にいて、同じような考えをまた持っておられた、それは先ほどの、伝統宗教、伝統仏教を継承しておられた、という言葉に重なりますが、単純にそういうことなのか、ということで、三番の、宗祖の眼前にあった国家とは、ということで、もう一度見直してみたいと思います。天皇を中心とした権門体制総体としての国家であったのか、ということで、幾つか挙げてみたいと思うんですが、一つ、三国世界観、というのがあります。当時は、世界地図がないですから、地球儀もありませんので、当時の人の世界観というのは、天竺・震旦・日本、という、三国の世界、というのを認識しておられました。そして日蓮聖人はそれぞれに対して、比較をしておりまして、次の例のような見方をしております。これも資料がありますけれども、「日本一州は印度震旦に似ず、一向純円の機なり」、という記述があったり、或いは、「しかるに我日本国は一閻浮提の内、月氏漢土にもすぐれ、八万の国にも超たる国ぞかし」、という記述があります。ですから、三国世界観の中で、天竺、震旦、天竺は当然インドですね、震旦は唐、中国でありますが、それぞれの国に対して、日本は優れているんだと、超えてるんだと、いう理解があるわけです。そして、その根拠として、実は、同じ『新国王御書』の資料に、「其上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩、第三は山王等三千余社、昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。」即ち、神に守護されている、その神の先祖たる天皇家の意識もここにはあるんだと思いますが、神に守護されている、そういう国が日本だと、いう風にこれを捉えておられた、という風に見ることができます。これに対する誤解が、将来の、日蓮主義とかですね、そういうものにも繋がってしまう、まあ日蓮聖人が悪いわけではないんですが、色々な問題を孕んでしまうんではないかと、これは、後の研究の題材にしたいと思っています。そして㈪、釈尊御領観ということなんですけれども、これは、㈭のCをご覧ください。『法門可被申様之事』という御文章ですけれども、「梵天帝釈等は我等が親父釈迦如来の御所領をあづかりて、正法の僧をやしなうべき者につけられて候。毘沙門等は四天下の主、此等が門まほり。又四州の王等は毘沙門天が所従なるべし。其上、日本秋津嶋は四州の輪王の所従にも及ばず、但嶋の長なるべし。」というような形で書いてあります。この釈尊御領観というのは、ここに本源的主権者たる釈尊のもとに、梵天・帝釈天、毘沙門天、四州の王、そして日本国王という階層関係を想定した上で、その、日本国王という世俗の権力、それに直接、仏教の秩序を結びつけていく、そういう独自の考え方であります。これは最初のほうに出ました、国土即仏土論に近い、ものなんですが、国土即仏土論の中でも、完全にこの日本国王を仏法のもとに置いてしまった、という点で、特別な意味を持つ、そういう見方であります。こういう日蓮聖人独自の見方があったんだ、ということでご理解をいただければという風に思います。そして三番目、佐前佐後の変化、ということでありますが、佐前佐後、先ほど若干の動揺、天皇に対する見方に動揺があったと申し上げました。その動揺の内容については省略しますけれども、佐前においては、天皇を幕府の上位に位置付ける、権門体制的な国家観、これを持っていたと見なさざるを得ない部分があります。天皇があって、天皇は侵すべからざる、先ほど神に守護されている、その神の子孫の天皇を意識されていた、という意味で、天皇を上位において、そのもとに幕府がいると、いう権門体制的な国家観を持っておられた、それが、佐後にあっては天皇の権威を認めない、という記述が幾つか出てまいります。それが、次の資料であります。「但し月は影を水にうかぶる。濁れる水には栖ことなし。木の上草の葉なれども澄める露には移事なれば、かならず国主ならずとも正直の人のかうべにはやどり給なるべし。然れば百王の頂にやどらんと誓給しかども、人王八十一代安徳天皇・二代隠岐法皇・三代阿波・四代佐渡・五代東一條等の五人の国王の頂にはすみ給はず。諂曲の人の頂なる故なり。」ということで、天皇が、天皇じゃない、王じゃないと言ってる記述が見られるわけです。そして一方、その先に「頼朝と義時とは臣下なれども其頂にはやどり給ふ。」という風に書いてます。頼朝は源頼朝、義時は北条義時ですが、臣下だけれどもその頂にやどると、ですから、「正直なる故なり」という風に書いてありますが、天皇が神の子孫であるという血統をですね、認めない、そして、義時、頼朝が、それに代わり得るんだ、というような記述です。天皇の神聖を認めない記述が、このように出てきているわけです。この正直というのは、正直の法である法華経を受持する、しない、という条件として、正直なる故とか、いう記述があるわけですが、
この百王守護の天皇の神聖を否定している、否定しかねない文章が、こういう風に出てきているのであります。次の「百王を守護せんと云は正直の王百人を守護せんと誓給」と書いてあります。正直の人、即ち法華経を受持する人を王、百王は守護するということです。それをしない者は、王たる資格はないんだという、更に続けて「王と申は不妄語の人、右大将・権大夫殿は不妄語の人、正直の頂、八幡大菩薩の栖百王の内也」、という風に書いてあります。即ち王と申すのは、いう人は、王様というのは不妄語の人だ、そして右大将家というのは頼朝です、権大夫は義時ですね、これは不妄語の人だと言っている。即ち不妄語の人は王といえるんだと、いう風に。ですから、神孫たる、神の子孫である天皇じゃなくても王になるということを明らかに明かされている。ですから、こういう記述は、実は佐前にはなく、天皇の神聖を認める立場を取っておられたのが日蓮聖人なんですが、佐後にあってはそういう立場を改められて、天皇に特別な権威を認めていない、天皇じゃなく、天皇家の人間じゃなくても、日本国王になる資格がある、資格を認める、そういう、可能性を示しておられるのが佐後の思想であります。これは顕密体制の、中でのその天皇を王とした姿勢とは、明らかに、大きく異なる日蓮聖人の特別の姿勢である、という風に思いますし、同時に、これが余りにもクローズアップされると、当然弾圧の対象になる、ということです。これらをまとめて、最後にまとめさせていただきます。これらは、宗祖は範囲としての権門体制総体としての日本国を認識されていた、これは間違いないと思います。しかし、伝統仏教と同じような認識とは異なって、天皇の権威を認めていない、法華経の志向のもとに、その宗教的に認められた世俗の国王、それを仏世界の階層関係を接合してその総体としての国家を捉えた、という点で独自の認識を持っておられたということです。法華経を中心に据えているという点で、宗祖の思想はすべての分野で一貫しており、特に佐渡期の思想の深まりは重要な意味を持つ、佐渡期の思想の深まりは重要な意味を持つと書いたんですが、佐渡期の思想の深まりについて余り触れられなかったんですけども、これは私の準備不足でありますが、そういう意味で、日蓮聖人が確かに伝統を受け継いで、その影響の下に、かなり色濃い伝統の下におられた、これも事実でありますけれども、佐渡の変化を経て、極めて独自の世界観、国家観というのを持つに至った、ということが分かるかと思います。以上です、本日はご静聴ありがとうございました。
 

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