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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

「江戸日蓮宗寺院の発展と旗本檀家『寛政重修諸家譜』の分布を中心に」

 

「江戸日蓮宗寺院の発展と旗本檀家『寛政重修諸家譜』の分析を中心に」
(日蓮宗現代宗教研究所研究員) 坂 輪 宣 政  
一 はじめに
二 寛政重修諸家譜と旗本について
三 寛政重修諸家譜からみる江戸日蓮宗寺院
四 旗本の仏事・信仰の実例
五 寛政諸家譜調査からみる御府内備考の編纂方針について
六 結び
  一 はじめに
 近世江戸の日蓮宗教団の様相について、上来多くの研究が為されているが、通説では、日蓮宗は町人を主体とした民衆に支えられた教団であり、幕府など権力層との関わりは何度かの例外的事例以外は薄かったというが通説である。しかし、今回、『寛政重修諸家譜』の内容をもとに検討してみると、江戸日蓮宗寺院には意外にも旗本の檀家もかなり多くの割合であり、この通説は検討が必要ではないかと考えるにいたった。
 本稿では、『寛政重修諸家譜』(以下、諸家譜とする)の記載項目のいくつかに着目し、主に数量的分析を行い、日蓮宗と旗本の関係を考察した。また、旗本の仏事や信仰について、上記の内容と関連した二三の事例を取り上げた。本稿は主に数量的分析に絞った内容となり、細かな部分を拡大したような性格のものとなってしまった。しかしこれは、近世の諸史料と近代初頭のいくつかの史料の連結的考察を通じて、近世日蓮宗の教団や寺院の様子を考察し、当時の人々の信仰を探ろうとする大きな目標上での一部であるので御寛容いただきたい。文中にも述べたが、『御府内備考』など他の諸史料の考察や『諸家譜』との関連などについては、また改めて述べたいと予定している。
 さて、江戸における日蓮宗教団については、従来多くの論考が行われてきた。その内容は多岐にわたる。大まかな分類で内容ごとに列挙しても、教学の展開や檀林の発展、不受不施問題、将軍側室や大名などの著名人の動向、谷中感応寺などの政治的色彩を帯びた事件、出開帳・出版・宝物など文化・社会的問題、御会式など年中行事、法華講など庶民信仰、このような諸問題が様々な視点から論じられてきた。本稿では、江戸の旗本と日蓮宗との関わりについて、寛政重修諸家譜に着目し、諸家譜の統計的分析を中心として、御府内備考の寺史をも考え合わせ、さらには参考として明治初期の書上の数字とも比較して検討する。また、『御府内備考続編』(以下、御府内備考とする)の記載寺院の取捨選択基準について、ある仮説を提示する。
 大名・旗本の日蓮宗信仰については、従来は個別の家の信仰が取り上げられることはあったが、全体の様相については概括的論考はなされていない。今発表では諸家譜に概説されている菩提寺に関する記述をもとに、江戸幕府旗本の日蓮宗信仰の様子について検討を行う。
  二 寛政重修諸家譜と旗本について
 ○「寛政重修諸家譜」は寛政の改革に際して松平定信や堀田正敦らによって発案された。「寛永諸家系図伝」にならい『藩翰譜続編』とともに大名・旗本各家の家系譜をまとめたもので、寛政九年に開設された昌平坂学問所で、寛政十一年から林述斎らによって編纂された。発案から二四年をへて文化九年に完成する。寛政元年(一七九一)と同三年に大名旗本に各家の家系図や伝承を提出させ、それを述斎らが検討し、場合によっては再提出を求めた後、出自の系統ごとにまとめあげたものである。特徴としては、出典を精確にして主観を退け簡素で客観的な論述様式をとる。原本のうち五十六箱分が国立公文書館内閣文庫に所蔵される。始祖・由緒・知行・加増・所替・分知・初見・相続・昇進・官位・隠居・御役御免・咎罰・死去・戒名・葬地・家紋などの要目が記されている。江戸幕府の制作した諸史料は、いわゆる官撰のものであり、多大な資金と優秀な人材が投入され、長期間にわたって綿密かつ客観性に富む蒐集・編纂・検討をして成立したものであり、従って内容も信頼性の高いものであるといえよう。本稿では群書類従刊行会本を底本とした。
 『御府内備考続編』は文政年間に三島政行等によって編纂された。寺院ごとに提出された書き上げをもとにしており、由緒などのほか境内現況図などもある。また内容的には、将軍家とのつながりを重視するなど当時の体制下での思考様式が如実にうかがえる面がある。
 ○旗本・御家人・定府
 旗本とは一万石未満の幕臣のうち、将軍に御目見がかなう者をいい、それ以下を御家人といった。江戸在府を原則として、将軍に近侍し、また行政官僚として中級以上の幕府の役職の大部分を占める存在であった。儒者・医者・天文・工芸・絵師・連歌などに携わる家もある。「吹塵録」「乙巳雑記上」内閣文庫本「国字別武鑑」などには、旗本約五千二百人、御家人約一万八千人という数字がある。知行形態には、地方・切米・現米・扶持取がある。役職は「役方」「番方」「遠国」「幕末期の新設役職」に大別され、身分は布衣・諸大夫などの昇進がある。
 なお、御家人は徒士以外は技術者・職人といえる人々も多かった。御家人については本発表では言及しないが、旗本と相似する部分が多かったことがうかがわれ、後述するように中小旗本にかなりの割合で日蓮宗檀家があったということを考えれば、御家人にも日蓮宗信徒が多かったのではなかろうかと推測される。また、他に江戸にいた武士では、旗本・御家人と同様に江戸に生活基盤を置く各藩の「定府」の侍もかなりの人口があり、江戸に菩提寺をもっていたので、旗本・御家人と同じく日蓮宗寺院の檀家もかなりあったであろうと推測できる。但し、各藩定府については全体を概観することは容易ではないであろうと思われ、今後の課題である。
 三 寛政重修諸家譜からみる江戸日蓮宗寺院
 諸家譜の記述は簡略ではあるが、そのなかから埋葬地と没年の記述に注目して、統計的な検討を行ってみた。なお、この諸家譜の内容は、寛政十年現在の様相を示している。本稿では寛政十年段階で改易されたりして断絶してしまっている旗本は一切数値から除外している。
 数字の単位は石高であるが、表示については知行取り・蔵米取り・現米取り・扶持取りなどの区別をやめ、一定の基準で知行取りに合わせるように換算してある。なお、諸家譜で石高不記載の家については、家禄百石未満という通説に従った。(なお、すでに家が断絶している旗本の記載では、先祖の菩提寺を記さない場合がしばしばある。先祖の祭祀を行う者が途絶えたということであろうか。あるいは、罪を得て改易されたなどの理由で遠慮したのかもしれない。)
○グラフ①  旗本中の日蓮宗檀家の割合を寛政重修諸家譜の「葬地」の項目をもとに分析した。
 諸家譜の各個人の記載には、没年と埋葬地の項目が最後に必ずある。さらに、「のち代々の葬地とする」「後葬地とする」などという表現が一つの家につき一度、ほぼ必ずある。本稿では、この表現を、その家がこのときに実質的に菩提寺を決定したという意味をもつ表現であるととらえ、分析を行ったものである。後述する諸家の供養料の事例からも、また諸家譜における「家をつぐ」と「遺跡をつぐ」という表現の書き分けということからも、この表現は菩提寺を意味するものと断定してよいと思われる。結論として、本稿では諸家譜のこの「葬地」の記述をもととして、「日蓮宗寺院を=cd=b821代々の葬地=cd=b926とする旗本」を「日蓮宗寺院を菩提寺とする旗本」と考え、その家数を数え上げた。(なお、旗本の新規取り立ては諸家譜の編纂された寛政十年頃でもあり、まだ埋葬者もおらず、「後葬地とする」などの表現がない場合もかなりある。これらの家は菩提寺未決定であるが、全体数には入っている。)
 以上のような基準で決定した日蓮宗檀家の旗本の数を石高別に分類し、旗本全体の石高別と旗本全体中における日蓮宗檀家旗本の割合をやはり石高別に%表示したのがグラフ①である。グラフ①の左側の数字が「日蓮宗檀家」の旗本の家数を石高別に示したものである。そして、中央の数字は旗本全体の家数を石高別に示したもので、右側が日蓮宗檀家の旗本が旗本全体の中で何%の割合であるかを石高別に計算したものである。旗本数全体の数字については、二〇〇四年発行の新人物往来社の『徳川旗本八万騎人物系譜総覧』作成の表を使わせていただいた。
 このグラフから、日蓮宗檀家の旗本は旗本全体の家数の二割を占めていることがわかる。禄高から見ると、日蓮宗檀家の旗本の全体に占める割合は六分の一になる。禄高別では、高禄の家では少数派になるが、五百石以下の中堅・小身の旗本では日蓮宗寺院を菩提寺とする家が相当多いことがみてとれる。特に三〇〇石代では四分の一をしめるなど中堅・小身の旗本ほど割合が高いのが特徴的である。但し、付言すれば、禄高が低いからといって軽視は出来ず、例えば各地に派遣される代官は百五十石取りが標準とされていたし、各種役職に就く機会も能力次第で十分にあった。
 全体の二割という率は、近世日蓮宗教団の日本各地での教線と比較しても、かなりの高率であろうと思われる。結論として、江戸の旗本はかなりの高率で日蓮宗寺院の檀家であったわけである。
 旗本の檀家は、経済力は富商には及ばずとも一般庶民よりは優り、仏事を怠りなく行い改宗も滅多にない安定した檀家と考えてよいと思われる。旗本の檀家がこれほど多かったことは、信仰態度などは別として経済的な面からだけでも、江戸日蓮教団にとって大変有難いことであったと思われる。また、旗本は幕府官僚でもあるのだから、訴訟などの際の伝手などの面でも有用であったのではなかろうか。特に近世中期以降、谷中感応寺事件など日蓮宗と幕府の関係が親密になったり緊張したりした際にも、従来注目されてこなかったが裏面で様々な働きかけがあったとも推測される。当時の日蓮宗教団は、後にグラフ④にも示したように、門流別に独自の動きをしていた訳であるが、各門流の安定と発展にとって旗本檀家の存在は大変重要であったのは間違いなかろうと思われる。政治的に新開拓された大都市である江戸で、旗本の檀家を順調に獲得していったことが、東都日蓮宗教団のめざましい発展の大きな要因であったことは確かであろうと思われる。
○グラフ②
 では、旗本が日蓮宗寺院を菩提寺と決定したのはいつ頃であったのであろうか。この点についてまとめたのが、グラフ②である。グラフ②は「後葬地とする」などと記載された寺院、つまり推定の菩提寺に「最初に埋葬された人物の没年」を年代別に示したものである。なお、同じ寺院に埋葬を続けていても、数代後のある人物が埋葬されたときから「後葬地とする」といった表現をしている例がある。この場合は、「後葬地とする」表現以前の、当該寺院に一番最初に埋葬した人物の没年を、寺院とその家との結縁年代と考え、その年をデータとして採用した。その家がいつから菩提寺を決めていたのかは諸家譜の記述からは判りかねるし、「後、葬地とする」の記述のある年代を採るべきであるかもしれない。だが、当該寺院に最初に埋葬された人物の没年は、寺院との結縁のおおよその年代を示す一つの重要な手がかりであり、かなりの確率で一致するので、本稿ではこちらの年代を採用した。
 なお、他宗寺院から日蓮宗寺院への葬地の移転もかなりある。諸家譜をみていくと、菩提寺の移動の例もかなりある。数代にわたり、宗派もそれぞれ異なる寺院に埋葬されて、なかなか菩提寺の決定しないケースもある。なかには数十年にわたり、日蓮宗と禅宗の寺院に交互に四世代が別に埋葬されているという興味深い事例もある。これは第五節の三嶋家の事例とも関連があるかもしれない。
 グラフ②の棒グラフの縦棒の三種の色分けでは、一番下の「最初から日蓮宗寺院の檀家」とその上の=cd=70b6「日蓮宗寺院から日蓮宗寺院へ移転」、さらに上の「他宗寺院から日蓮宗寺院への菩提寺変更」への三種に分けて日蓮宗寺院に初めて埋葬した年代が示されている。
○グラフ②の分析  グラフには二つの山があり、一つは江戸幕府が安定し江戸の町が開拓されていった後の時期である。この時期に旗本家の基礎を築いた人物たちが没し、菩提寺を決定していった様子がうかがわれる。但し江戸幕府の開始年代よりも、やや時間があいており、やはり武蔵野の原野であった江戸が次第に発展し寺院も展開するようになってから、このような秩序立った形態になっていったのであろうと思われる。「御府内備考」等に示される江戸寺院開創年代もこの様子を裏付けるものであり、寺院が安定し発展した後に、菩提寺が決定されていったのであろう。郊外寺院へも旗本檀家が広がってゆくのは、明らかに年代が江戸時代のかなり後期となる。初期には、幕府と縁故のある寺院などへ集中している様子が見て取れる。
 また初期には、自らの屋敷の内に埋葬したという記述や出身地の菩提寺・領地内の寺へ埋葬した記述が散見されるが、次第に江戸府内に建立された寺院墓地に埋葬するようになるのである。
 当然ながら、江戸初期の寺院の展開が、その後の各教団の江戸での発展に大きく関わっていたことは明らかであろうと思われる。この様子については、御府内備考などをもとに、稿を改めて発表するつもりである。
 なお、他にも重要な問題として、江戸に新規に開創された寺院の開創に大名や旗本が密接に関わっていた事例がいくつかあり、御府内備考や書き上げなどでも確認できるが、この問題については本稿では言及しきれないので、同様に後に述べることとする。
 さて、グラフ③のもう一つの山は千七百十年代頃にきている。徳川幕府の五代将軍綱吉・八代将軍吉宗の治世に、分家や紀州出身者の新規取り立てが積極的に行われた結果、家数が増加したことが、二番目の山、つまりその後の新規檀家増加に直結しているのであろう。
 これら新規取り立ての旗本は寺院にとって新たな檀家の可能性を示すものであり、グラフにみてとれるように日蓮宗寺院の檀家数が江戸中期に順調に増加していっていることは、新規取り立てという新たな経済的基盤をもつ武士層を取り込んでいることであり、このことは江戸日蓮宗教団の伸張の一つの要因であったのであろう。
 また、グラフからは、約半数という相当部分の旗本檀家が千七百十年代を中心とする五十年の間に、日蓮宗寺院を菩提寺に決定していることがよくわかり、この時期に江戸日蓮宗寺院の安定した基盤がつくられたと評価してよいのではなかろうか。近世檀家の形成という観点からも、興味深い数字であろう。注目されるのは、不受不施の寛文の総滅との関連であるが、このデータからは惣滅の後に檀家が増加してゆく様子ともみてとれる。実際に他宗寺院からの移転もこの時期に集中している。旗本の菩提寺決定と寛文の惣滅に関連があるのかは興味深い問題である。
 また、旗本の菩提寺移転の理由については、第五節に一つの事例を挙げておいたが、今後の個別の事例検討がまたれる。
 なお、分家は当然ながら、本家と同じ宗旨にする傾向があり、一六八〇年頃までの日蓮宗檀家の旗本の家からの分家の多くはやはり、日蓮宗檀家になっている。
 甲府勤番に左遷された後に日蓮宗に改宗した家も十九もある。甲府勤番の日蓮宗檀家は四十二なので、意外に高率である。甲府は日蓮宗の総本山久遠寺に近いことも関係しているのであろう。もしかしたら、江戸で盛んな法華に改宗することで、江戸を偲ぶ気持ちもあったのかもしれない。「山流し」にあって信仰心を起こしたのかもしれない。甲府勤番になる旗本は四百石以下なので、檀家も四百石以下である。なお、甲府勤番の菩提寺は甲府にあるため、江戸寺院の統計に入れるのは躊躇したが、甲府に行く前は江戸の日蓮宗寺院を菩提寺としていた例が多いので、今回あえて分離はしなかった。また、連歌の里村家など他所に墓所がある家も、表には入っている。
 また、調べていて興味深い内容として、ある家へ養子に入った人物が没後は養家でなく実家の菩提寺へ入る例がしばしばある。家を継いで当主として没し、義父や実子は養家の菩提寺に葬られているのに、本人のみ実家の菩提寺へ埋葬される例があるのである。日蓮宗寺院の場合にもその例がしばしばあるように思われる。これは「半檀家制」という単なる習慣の一つかもしれないが、あるいは本人の信仰によるのかもしれない。養家の宗旨を変更することは勿論なし得ないが、本人は従来の信仰を保っていた、ということもあったのかもしれない。想像ではあるが、旗本個人の生活や信仰を考える一端になるのではなかろうか。
 なお、諸家譜には、九人とごく少数ではあるが、「発心して出家」、「多病にヨリ出家」などと子弟が日蓮宗寺院で出家したことを明記する例もある。陰山氏から出た池上本門寺日養など、住職歴を記すものもある。
 さらに、変わった事例として、父親が横領・強盗など罪を犯して死罪・改易となった後、連座して他家にお預けとなっていた子供が十五歳に達し成人するにあわせて、菩提寺の住職が公儀に願い出て、子供を出家させたという記載が日蓮宗だけでも三件四人あった。重科のため改易となって、お家再興や養子入りの望みもない身であり、出家はお預けの身から救うことにもなったのであろう。
 また、子供のいない家へ養子に入っていたが、養父に実子が生まれた為に実家へ帰り、出家したという事例も二人あった。
 近世の寺院には、このような様々な境遇の人々を受け入れる機能もあったのであろう。そして、それは旗本のみのものでもなく、あらゆる階層の人々に可能性があったのであろう。また、逆に、このような人々を受け入れていたことは、幕末の佛教批判の風潮の中で、僧侶の出自や人品を批判する論があったことの一つの原因ともなったのかもしれない。
 ○グラフ③ 
 グラフ③はグラフ①の日蓮宗檀家の旗本のうち、どれほどの家数が、過去には一旦他宗の寺院に埋葬したことがあったのに、その後に日蓮宗寺院を菩提寺と変更したか、その全体における割合はどれくらいか、ということをグラフ①と同様石高別に示している。当初から日蓮宗寺院に埋葬してきた家と、後代から日蓮宗寺院を菩提寺に決定した家を分けて割合をみたものである。左の数字はグラフ①の「日蓮宗檀家の旗本」の数であり、中が「左の内、以前他宗寺院に埋葬したことがあったが、後に日蓮宗寺院を菩提寺に決定した家」であり、右の数が「中÷左」つまり日蓮宗檀家全体のうちの「後に檀家となった」檀家の割合である。後から日蓮宗檀家となった旗本は五百石以下の家が多く、小身の旗本ほど多い様子が見て取れる。どのような事情があったのかは不明であるが、主として享保年代以降から、日蓮宗寺院への菩提寺変更が行われている。中には他宗寺院から改葬して、戒名が日蓮宗のものでないままである例もある。江戸の町で、日蓮宗が伸張してゆくことと、菩提寺を変更する旗本が増えることには、何らかの相関関係があると思われる。筆者の推測では、諸先師の布教のほかに、江戸で出版文化が盛んになり、日蓮聖人の一代記や事跡が広く知られるようになったことも大きな要因であったと思う。聖人の教えや行動は各宗の祖師の中でも、最も武士の共感を呼ぶものであったと思われるし、その足跡が東国を中心としたものであり、幾多の法難を乗り越えられたことも親近感を抱く要因となったのではなかろうか。
○グラフ④ 門流別内訳
旗本檀家の菩提寺寺院を本山別に分類して表にしてみたものである。どの本山の末寺とするかは、寛政年間に近い年代の書上で記載寺院数の多い明治五年の東京府書上をもととしている。「門流別家数割合」は日蓮宗旗本檀家総数の何%がその門流の寺院を菩提寺としているかであり、「門流別禄高割合」は日蓮宗檀家の旗本の禄高合計を100%として、各門流に何%の禄高となるかを調べたものである。一致派と勝劣派の割合は、檀家総数と比較してやや一致派が多くなるが、おおむね、七対三に近い比率となる。一致派では久遠寺、勝劣派では越後本成寺が目立つ数字である。門流により、偏りがあるが、その理由は今後の課題としたい。
 ○旗本檀家の多い寺院
 旗本檀家の多い寺院にはある種の理由が推測できるものもある。具体的には、数家の旗本が開基檀越であったり、幕府との縁故が認識されるような寺院、古来由緒があったり従来の菩提寺と門流関係の深い寺院などに、特に初期に集中する様子が見て取れる。一族が皆同じ寺であるなど、特定の一族と深いつながりの見受けられる寺院もある。また、塔中と開基家との関係なども、由緒を推測できたり、書き上げなどから由来が明確に判る部分もあり、これらの問題については、御府内備考などとも総合して、先述したように都合上機会を改めてまとめて後述したいと考える。
四 旗本の仏事と信仰
 旗本の信仰については、旗本の生活や行動という観点からいくつかの先行研究がある。いずれも、旗本の信仰には、国家社会の枠組みの尊重と先祖への報謝としての先祖祭祀が重要な要素となっていることを指摘している。また、歴史考証家の蒐集した事例も当時の信仰の有様を偲ばせてくれる。ここでは、やや簡略ながら参考として興味深い数例を取り上げて、紹介する。
 まず、大久保彦左衛門の遺訓でもある『三河物語』には「上様のいる方向へは足を向けて寝たことはない。朝夕に読経して、まず釈迦を拝み、つぎに家康様を拝み奉り、ついで両将軍様の御寿命安穏、御子様・御兄弟様様の御息災を拝み終わってから我が家の祖先・父母を拝む」という意味の文章がある。釈迦を拝してから主君一族のために祈るという封建武士の思想の枠組みが感じ取れる内容である。このような思想は特に不受不施との関連からしばしばとりあげられてきたが、近世武士の信仰を考える上で改めて検討する必要があると思われる。
 また、大名・旗本などの写経・寄進物も各地の寺院に残されている。こういった写経なども、旗本個人の信仰の内面をうかがわせる貴重な史料といえるであろう。
 ついで、諸家譜の二十一巻長田家の本文からであるが、興味深い内容を含んでいる。
「享保三年七月二一日浅草寺の賢福院に寓居せる祖恵といへる僧、日蓮宗にもあらざるまぎらはしき法を修し、これを授るものあまたに及ぶのよしきこえしにより、究明あるのところ、(長田)芳忠も其法を受し事露見す。元来宗門の事にをいては制禁あるの弁へもなく、新法に帰依せし事遠慮なきの至りなりとて小普請に貶して、出仕をとどめられ、四年二月十六日ゆるさる。」
 これによれば長田芳忠が自分の家の宗旨と似てはいるが異なる法を受法したことが問題となり、小普請に左遷される罰を受けているのである。近世中期以降は幕府の宗教政策も安定し、家の宗旨の固定化と相まって檀家の形成が顕著となり、改宗にはかなりの困難がともなうようになるということが通説である。この事例から考えると、特に旗本においては、むやみに新しい宗旨への信仰を示すことが幕法に抵触する可能性さえはらんでいたわけであり、通説のような状況がより厳しく適用されていたのであろう。
 旗本の家の仏事には家族や家来の代参が多かったことは先行研究でもしばしば論考されている。仏寺や死没者に関わることは忌がかかることになり、出仕の妨げとなることが貞享元年(一六八四年)の幕府服忌令ぶつきりょうなどの規定で定められていたためにそうならざるをえなかったという説が多い。寛政・文化の頃の『諸家服忌問答集』や『服忌無念届禁令書』などによると、服喪を要する親類の範囲は今よりもかなり広範囲であったようである。旗本自身の例年墓参はともかく、法事などの先祖供養は欠かさずに行っていたと思われる。忌日などには法要を修していた様子も残っている二三の記録などから明らかである。年回忌法要には、いくつかの記録から、当主自身が遠地へ参詣することも可能と考えてよいようである。
 旗本の仏事に関する具体的な史料もいくつか紹介したい。旗本の檀家が菩提寺に対して、経済的な面からどれほどの貢献をしていたかを考えるためである。本稿では、旗本に関する先行研究から二三のわかりやすい事例をあげて、具体的に検討してみたい。
 まず、播磨に三千石の領地を持っていた旗本池田家の事例がある。この池田家については、新見吉治氏が長年にわたって考証をされている。本稿では新見氏の翻刻された池田家家計簿のうちから、新見氏が特に取り上げなかった仏事に関する項目を抜き出して参照させていただいた。まず最初に、池田家から菩提寺などへ毎年納める供養料について、みてゆきたい。幕末に近い江戸後期頃の『心得控』(家臣田中陽吉の覚書)によると、池田家では仏事の例年の支出として、下谷海禅寺(「諸家譜」の記述から菩提寺とわかる)に「盆 寺院へ霊供料」を出している。その他の音物料とを合計すると、年間に計白銀一枚(金二分二朱六百六十四匁)を海禅寺に支出していた。また、海禅寺には「御墓掃除金」二百疋をも別に支出している。さらに、池田家では、菩提寺以外の先祖が埋葬されている寺院にも、供養料を支払っている。正燈寺に白銀一枚と「御墓掃除人金」五十疋をだし、ほかに霊梅寺に金五十疋、永隆寺・宗林寺にも金百疋を供養している。「諸家譜」や後述の史料をみると、池田家の歴代当主や縁者のうち、海禅寺を菩提寺と決定する以前の時期を中心に、霊梅寺・永隆寺・宗林寺に埋葬された人がいたことがわかる。これらのことから、菩提寺には特別に供養料を渡し、先祖の墓があるほかの寺院にも一定の回向料を出している様子がわかるのである。なお、「金百疋」は江戸期の武士社会では儀礼的表現で「金一分」を表す。すると、菩提寺である海禅寺には金一両一分ほどの七千四百文を支出し(江戸後期の相場である一両=六千文で計算)、当主一人(養子)と子供七人の墓のある正燈寺には約五千文、永隆寺・宗林寺には千五百文、霊梅寺には七百五十文の供養料を回向していることになる。後述の氏名不詳の旗本の事例とも似通った数字である。「御墓掃除」は実際に池田家で人足を雇ったのか、名目だけで寺に渡したのかはよくわからない。(なお、「金一疋」を千文とすると数字も変わってくるし、「五十疋」という表現も混用しているので、判断しかねるが、後述の川村家葬儀とも一致するので、「金百疋」=金一分でよいのであろう。)
 さらに、新見氏の翻刻された池田家の「安政三年丙辰十一月二十八日仰せ渡された御代々様の五十年以上御祥忌御代参の事」を第一行目とする題名不明の史料がある。ここには、池田家の室町期三百年前からの歴代当主のほか、一家の女性・子供の計四十人の祥月命日と墓所と戒名がまとめられている。この史料は、家来が代参すべき日時や内容について、現在の当主から家臣に伝えられたことをまとめた覚のようなものであろうと、記載形式などから推測される。内容を見ると、まず、歴代当主のうち十人の要目が記されているが、この十人については、「年々九度御取次ヨリ御代参、相い勤む可し」と付記されている。家臣のうち「取次」(家老から数えて四番目の格)職の者が毎年、初代頼竜を除くかっての当主九人の祥月命日に墓参するという意味であろう。墓所は七人が菩提寺である海禅寺にあるが、三人は正燈寺と梅岳寺にある。初代下妻頼竜の京都徳圓寺の項には「御代之無し」と代参をしなくてよいことが理由は不明であるが、付記されている。あるいは、寺院の退転などの理由によるものかもしれない。
 次に「毎月御代参」として、海禅寺に墓所がある三人の項がある。この三人にはどんな人物かの説明が付記されておらず、説明の必要もない人物であったからであろうと思われる。うち二人は、戒名からみて、先代と先々代当主であると思われるが、もう一人は不明である。跡を継がずになくなった当主の兄かもしれない。歴代当主などのうち、なくなって五十年以内であるので、前述の十人とは異なり、毎月の命日に墓参がなされていたのであろう。代参は家老に次ぐ「用人」が行うことになっており大切に供養されていた様子がわかる。
 次いで、「御代々之裏方様御祥月ばかり御代参の日」とあり、歴代奥方や当主の実母など十人が列記されている。この項の末尾には「年々八度取次御側向より以来相い勤む可き事」とあり、二人を除く八人の墓所に、祥月命日に「取次」か「側向」(家老・用人につぐ地位)の誰かが代参していたことを示すと思われる。初代頼龍の奥方には「御寺知れず」と付記されている。二代重利の奥方は領地のある播磨の竜野の如来寺に墓所があるが、「御代参之無し」とされている。同じ播磨の三田永隆寺に葬られた五代邦照の実母の墓所には代参があり、上述の「心得控」でわかるとおり毎年金百疋を供養しているのであるから、この違いの理由は不明であるが、やはり寺院の退転などの理由によるのかもしれない。また、四代薫彰の実母と七代由道夫人の墓所が日蓮宗の谷中宗林寺である。宗林寺にも永隆寺と同様毎年金百疋の供養がなされていたわけである。宗林寺・永隆寺に埋葬された人物はほかにいないようなので、この三人の菩提の為に、池田家では毎年金百疋を両寺に供養していたと考えてよいであろうと思われる。「裏方」十人のうち残りの五人は菩提寺海禅寺に墓所がある。なお、そのうち一人は子供を産んだ側室であった。
 ついで、「五十年内にて毎月奥附より御代参勤める分」として四名の名がある。おそらくなくなって五十年以内の「裏方」の女性たちであろう。奥方附の家人か女中の誰かが毎月墓参していたのであろう。最後に「五拾年内御子様分」として十三人が列記されている。全員童子か童女の戒名である。うち七人が七代織部由道の子女であろうと思われ、由道と同じく正燈寺に葬られている。この十三人の子女にも毎月代参がなされることになっていた。いずれも「五十年内」と付記されていることからみても、五十年忌を過ぎると、当主や奥方・当主実母などは毎月の墓参ではなく、祥月命日のみの墓参となり、ほかの子供などは、個別の供養対象から外されることになるという仕来りであったと考えてよいであろう。池田家以外の旗本でも、おそらくこの点は同様であったのであろうかと思われる。なお、子供の一人は南都の寺に埋葬されている。当主が奈良へ赴任していた時期になくなった子供であろうか。この項目には「代参無し」などの付記はなされていない。何らかの方法で供養が行われていたのであろうが、詳細は不明である。
 池田家の年回忌法要については、新見氏の考察がある。新見氏は、池田家に残る書状から、年回法会は親族すべてに両敬様式で案内が出され、各家から代参があったようである、と結論されている。新見氏の取り上げた事例は先々代大乗院の第十七回忌であるが、大名・旗本の親族計三十七人に案内の書状が出され、ある旗本家からは用人五人が当日代参するという返事が残っている。葬儀や年回法要については、支出なども特別になされていたのであろう。
 以上、新見氏の翻刻された史料から、旗本池田家の例年の仏事について見てきた。ここからわかる事は、①池田家では、菩提寺には毎年供養料や音物が届けられ、御墓掃除料も納められていた。約一両半強の金額であった。その他、当主や奥方・当主実母の埋葬されている寺院にも、百疋・二百疋・五十疋という高額とはいえないが一定の供養料が納められている。供養料の納められていない寺院もある。②歴代の当主・奥方・当主実母の多くには、祥月命日や月命日の墓参が行れている。初期の先祖の中には墓参をうけていないものもある。これらの人々は五十年忌までは毎月の墓参をうけ、五十年忌を過ぎると祥月命日のみの墓参となるようである。③墓参の大部分は上級家来の代参で行われていた。当主や奥方は例年の墓参には赴かない様子である。服忌令などとの関わりであろうか。④五十年以内の近親者は子供でも、奥附の者が毎月代参していた。五十年を過ぎると当主などの重要人物以外は個別の墓参対象から外されるようである。
 以上四点である。表高三千石、家来の侍三十人以上という裕福な旗本である池田家の事例であり、他家と異なる点もあるかとは思われるが、一定の参考にはなろう。
 さらに、もう一例、ほかの旗本仏事費用の事例として、野村兼太郎氏の調査・紹介された安永十年(一七八一)の奥付のある「御暮方一年積割合帳」がある。残念ながら家名や原典などは明らかにされていないので、家来の人数などから、五百〜千俵くらいの旗本としかわからない。後に出てくるように三斗五升入りの俵を用いているので、蔵米取りの旗本であろうか。
 この家では、おそらく菩提寺であろう「御寺 龍興寺」(小日向龍興寺であろう)には七月・十二月に米一俵(「但し三斗五升入 此分玄米」)と金百疋ずつをだし、ほかに無量院に七月・十二月に米二斗と金百疋づつを供養し、新長谷寺に年二斗と百疋を支出している。この両寺は、池田家の場合と同様、菩提寺以外に祖先を埋葬した寺院なのであろう。金額について、この史料の別の場所には、米一石が金一両、金一両は銭六千四百文に相当すると注記がされているので、それに従って計算してみると、菩提寺龍興寺には年間約一両二分(九千六百文)丁度くらい、無量院に約五千文、新長谷寺には約二千九百文となる。池田家とそれほど違わない数字である。これくらいが日常の回向料であったのであろうか。
 以上によると、両家とも、菩提寺に年間一両半ほどの金額を納めていることになる。葬儀などのない日常的な供養では、旗本の祭祀は石高の大小にはあまり関わりなく、この程度の金額を納めるものであったのかもしれない。(菩提寺には白銀で納めているのは、相手との身分関係によって、金・銀・銭を使い分けるという当時の習慣に沿ったものであろう)金二百疋もしくは百疋くらいの金額を菩提寺以外の寺院に納めるのも、通例の金額であったのかもしれない。しかし、この二例という少数の事例だけではなんともいえないので、この点については後考を期したい。それにしても、かなりしっかりと墓参が行われていた様子がうかがわれ、旗本の家では当然ではあるが、先祖祭祀が厳重に執り行われていたのは確かであったろうと思われる。
 さらに、旗本の葬儀についても、一例をみてみたい。小普請奉行の川村修富の葬儀の支出明細である。川村家は元来お庭番であったが、修富が有能な人物であった為、分家召し出しの後、諸役を歴任し、家禄も二百石となり、天保八年(一八三七)になくなった際は小普請奉行であった。この修富の葬儀の詳細を記した文書を含む日記文書が川村家に残されていて、小松重男氏の手で翻刻されているので、小松氏の著書から該当部分を引用させていただいた。川村家の菩提寺は一ツ木の清厳寺であった。葬儀には住職と役僧のほか、他二ヵ寺の僧も来ていた。僧侶に対する布施は、導師であった住職が金五百疋、役僧が五十疋、他寺の僧が百疋ずつ、出座僧六人が金一分二朱(一人あたり一朱)、所化たちがまとめて二分一朱(これは命日から初七日までの八日間に一日二朱づつの割、と註がある)、御香剃役僧五十疋、侍者五十疋であった。その他も列記すると、荘厳料二百疋、幕料二百疋、受付五十疋・下男青銅四十疋、隣り寺の座敷借り賃が金百疋、諸道具など一両一分・斎米二百疋と二俵、その他百ヶ日まで三両である。さらに、初七日の法要の「初七日御法事料」が計金二両二分、埋葬の為の「御葬穴掘手間 寺ニテ掘候分」が金一分一朱であった。実際の史料の〆では金十二両一朱と米二俵となっているので、計算してみると、「金百疋」が金一分に相当となる。やはり儀礼的表現で記してあるのだろう。住職への布施が一両一分、他寺の僧が一分などとなるわけである。例年菩提寺へ納める供養が一年一両くらいとすると、葬式にはやはり格段に費用がかかり、この点は現代と同じのようである。修富の葬式には親類や交際のあった人々が大勢来たようで、形見分けの品物を受け取った人だけでも九十三人いる。葬式費用を香典から助けられたことも同様であったろう。それにしても、布施が十両ほどになるので、寺院にとっては旗本の当主の葬儀などは、経済的にも大きな意味を持っていたのではなかろうか。
 三例をみてきたが、旗本の檀家から寺院へ供養される布施の額は、ある程度の大きな額になったのであろう。日蓮宗の旗本檀家は千家以上あったのだから、例年の布施だけでも計数百両以上が毎年供養されていたと思われる。江戸の川柳では時折「百旦那」という言葉を見受け、百旦那とは年間百文しか布施できないような貧窮の檀家を云うのだという解説がなされるが、こういった庶民よりは江戸後期の時代でも布施もはるかに多額であったのは間違いなかろう。
 旗本の菩提寺の変更にまつわる騒動についても一つの事例をみたい。西脇康氏の翻刻した『三嶋政養日記』に興味深い事例が記載されている。西脇氏は脚注でごく簡単に触れているだけであるが、本稿では原文から書き下しをして、もう少し詳しくみてゆきたい。
 嘉永元年三月七日 千三百石の旗本三嶋家の十二代当主政堅が没した。跡を継ぐべき人も決まっておらず、混乱した。後には、夏目家から後の政養を「急婿養子」に迎えることに決したが、問題は政堅の埋葬であった。後述するように、三嶋家は三河以来の家柄で、三河時代から浄土宗を宗旨としていた。それが、九代政申(天明六年没・鳳徳院自楽日勇)の時に、政申が日蓮宗牛込宗柏寺十五代住職に帰依して、寛延年間に菩提寺を日蓮宗に実質的に変更していたのである。そのため、寛政諸家譜には浄念寺を菩提寺と記載してあるが、実情はそう異なっていた。後述する「約定証状」にみられるように、菩提寺を「断られた」浄土宗浄念寺から、本山芝増上寺をもまきこんだ抗議が行われ、近世幕藩体制下での改宗の難しさを如実に示すような状況であったのである。
 こういった状況で、上述したように、十二代政堅が休止し、親類の有力者である分家の政行(『御府内備考続編』・『新編武蔵風土記稿』・『御府内風土記』などの編纂で有名な人物)らによって、政堅の遺骸は浄念寺に仮埋葬する運びとなったのである。仮であるのは、養子が決定しておらず、談合や手続きに時間がかかるためである。実際の死亡届は、なんと一切の準備が整った七月二十八日付となり、正式な葬儀や初七日法要もこの日を起点として行われたのであった。(養嗣子六郎の持参金四百二十両の一部五十両が葬儀費用となった。また、奥方と娘は初七日当日には浄念寺へはゆかず、前日に参詣していた)さて、急死した政堅の遺骸は、政行らによって、浄念寺に仮埋葬された。政堅は埋葬場所について遺言を残していなかったからかもしれない。また、奥方は十月に宗柏寺十六世日永から「健照院殿延寿妙栄日貞大姉」という戒名を授与されていることからも、日蓮宗の信仰を持っていたようであるが、その主張は通らなかったのであろう。浄念寺に埋葬する手続きをした分家の政行らは、本家が日蓮宗に菩提寺を変えてしまったのを苦々しく思っていたのかもしれない。これに対し、宗柏寺側でも早速に抗議を行ったようである。記録では簡略であるが、三月七日の仮埋葬の記述に続いて「御葬埋の儀に付き牛込宗柏寺故障の事」と記されている。これに対し、三嶋家からは、弁明を行いこの場を収拾し、結局十月二十二日付けの三嶋家当主六郎より宗柏寺住職へ宛てた「約定証状」によって騒動は決着したようである。 以下、この「約定証状」について主要部分をみてゆきたい。三嶋政養の日記にある「約定証状」はまず、三嶋家の先祖の宗旨から説き起こし、九代政申の改宗とその後の騒動の経緯について説明し、さらに「一代交代の埋葬」という驚きの解決方法を提示するのである。
 「拙者家、本、三嶋芳五郎方先祖中古三河国住居の節より浄土宗ニて、御入国の後、浄念寺江戸表え転地付され候ニ付き、引き続き菩提所ニ相い定め置き候処、九代目先祖鳳徳院儀、日蓮宗信仰ニ付き、貴寺御先住職え御契約いたし、浄念寺え断り相い立て、宗門の筋を以て私語御境内え遺骸葬埋いたし候儀ニ御座候。」と、三嶋家の宗旨が先祖以来浄土宗であったこと、浄念寺が江戸へ移転してきて三嶋家とのつながりもずっと続いていたことを記し、さらに、九代政申の代に牛込宗柏寺の十五代住職に帰依して日蓮宗信仰に入り、戒名もつけかえるなど政申によって菩提寺の変更が図られたという、一族の菩提寺に関する経緯を述べている。まさに、信仰上の理由により、日蓮宗寺院への菩提寺の変更が図られたという事情であったのであった。政申の妻は旗本岩瀬忠兼の娘であるが、忠兼の家実大久保家は日蓮宗で、忠兼は養家岩瀬家の宗旨を日蓮宗に変更していた。あるいは影響があったのかもしれない。ところが、この変更を浄念寺側が了承しようとしない為、後々大きな問題となっていったのである。その後、十代政春も遺言により遺骸を宗柏寺に埋葬した。しかし、この際には、浄念寺側が反対の動きを見せた。「かれこれ差障りを申出候処、親類共立ち会い、取り扱いして相い済み候」と浄念寺が抗議をしてきたため、親類達が扱い(仲裁)をして、何とか収まったというのである。さらに十一代政先の死去に際しては、宗柏寺に埋葬せよとの遺命があったにもかかわらず、浄念寺側がさらに強い抵抗に出、「何分得心致さず、本山増上寺え申し立て、殊の外六ヶ敷く相い成り、既に出棺も延び候程に之有り候」と浄念寺の本山芝増上寺も動く騒動となり、むつかしい状況で出棺・埋葬が延引するほどであったというのである。
 浄念寺側は「元来、先祖以来の檀家ニ付き、決して素(粗)略に致し候儀に之無く、」などと主張し菩提寺変更に納得していなかった。結局政先は宗柏寺に埋葬されたが、事態は解決されたわけではなく、十二台政堅の埋葬の際に論争が再燃したのである。そこで、三嶋家から示されたのが、「向後一代替わりに両寺の葬埋と取り極め申すべきの条、書面を以て定め置き候事に御座候」という案、つまり「浄念寺・宗柏寺の両寺に当主が一代ごとに交替で埋葬される」という案であった。この案はなくなった政堅の代に考えられていたというのである。さらに、この提案について、宗柏寺側にも「一応御咄し申し出すべき筈の処」等閑となってしまっていた、ともいうのである。その後「然る処、当年、政健院(政堅)遺骸浄念寺え葬送の事に付き、(宗柏寺より)御掛け合いこれ有り」と政堅の急死と浄念寺への仮埋葬・宗柏寺よりの抗議となったが、「浄念寺は先祖以来の御菩提所」であるからと三嶋家より答え、さらに「一代替わりの埋葬」の案を提示して宗柏寺には承知していただいた。さらに「一代替わり両寺へ葬埋の儀、しかと取極め申さず候わでは、貴寺より一札御申請成されたき旨仰せ聞かされ候、御尤もに存じ候、此の段書取り、進め申し候。」と「一代替わり両寺へ葬埋」ならば、その旨明確な書面にしてほしいと宗柏寺から希望があって、三嶋家ではそれを尤もなことであるから、この通りに書面にしたのであると交渉の経緯が示されている。またこの際、当主以外の人物の葬埋について、宗柏寺から要望があった。「且つまた、右の御談の節、裏方の儀は貴寺え御引き取り成されたき旨、其の段、評議の処、左様には定め難く候間、是は其の時の当人の帰依に任せ、両寺の内え葬埋の積りに御座候、勿論連枝、厄介の者も、右に準じ取り計らい申すべく候。」と奥方も宗柏寺へ埋葬してほしいという希望に対して、三嶋一族が評議をして、奥方や同居者については当人の信仰によって、両寺のどちらかに埋葬することとしたい、と返事をしているのである。実際に、この後に、十代の孫で六郎のはとこにあたる「厄介」(当主・嫡男・未成年などでない一族の同居者)の一人は牛込宗柏寺に埋葬されている。
 以上の内容で、嘉永元年申十月二十二日付けで「三嶋六郎」から「一樹山宗柏寺御住職様」宛てに「約定証状」を出したと『三嶋政養日記』に記載されているのである。旗本当主の埋葬について、このような信仰とはかけはなれた妥協案が一族の評議で決定されるというのも、大変不思議ではあるが、おもしろい問題ではある。近世檀家制度のもとで、改宗ということが、なかなか困難であったことがうかがえる。日蓮宗に改宗したほかの旗本や日蓮宗から改宗した旗本にも同様の問題があったのかもしれない。宗旨の変更は一族をも巻き込む重要な問題であったのであろう。また、両寺の対応をみても、寺院にとっても、譲れない問題であったことがうかがえるのである。
 なお、三嶋家では十二代政養が明治維新を迎え、静岡へ無禄移住するなどしたため、「当主の一代替わり両寺へ葬埋」は実現はしなかった。両寺を菩提所としたことは過去帳にも記載されている。後に三嶋家では両寺で年回法要を行い、嘉永五年六月十三日には宗柏寺に「諸堂舎再建金」三十両を寄付し、同六年には位牌を新調して納めている。浄念寺にも宗祖六百五十遠忌に際し三両を寄付したりしている。また、嘉永二年三月七日、政堅の一周忌に合わせ、三嶋家先祖の遠忌が浄念寺で営まれた。政行の慫慂によるものである。初代の三百年忌をはじめとする八人の当主・奥方の法要であった。五十遠忌を単位として、年回忌に該当する八人の法要が同日に浄念寺で行われたのである。やはり、当主と奥方は五十年忌を過ぎても供養をうけているわけである。なお、六代政識の奥方は大久保家の出で埋葬場所は実家の菩提寺の日蓮宗の丸山本妙寺であったが、法要は浄念寺で行われている。本妙寺へ祥月命日の墓参がなされていたかは、この史料からはわからない。
 以上四例をみてきた。先達の翻刻研究を利用させていただく形ではあるが、旗本の仏事の実態を垣間見る興味深い内容であるといえよう。見方によっては、旗本はむやみに宗旨を変えず、法要も必ず、しかも支配階級らしく行うので、菩提寺としては理想的な檀家であったとも考えられる。
五 寛政諸家譜調査からみる御府内備考続編の編纂方針について
 従来、御府内備考の編纂方針については、記載された寺院の取捨選択の理由などについて、先行研究ではあまり明確には示されてはこなかった。今回、寛政諸家譜を調査した後、諸家譜の旗本檀家寺院を御府内備考の記載寺院と照合してみたところ、両者がほぼ一致することに気がついたのである。一致しない寺院もある程度あるが、それは旗本檀家がいないのに御府内備考に載っているという場合が多いので、府内の地誌を作成するに当たり、無視できない存在であるから一緒に載せた例外的存在であると考えることもできよう。また、既に改易された旗本で、諸家譜には菩提寺として名前が出てこないという場合や、大奥女中、将棋所など特殊な地位の人々のことも考え得るが、まだ疑問点はある。
 さて、この両者がほぼ一致するという事実から考えると、御府内備考の編纂方針の一つは、江戸の墨引内にあって、大名・旗本の檀家を持つ・あるいは持っていた寺院の歴史などを正確に把握し、まとめ上げるというものであったのではなかろうか。
 以前から、例えば文政寺社書上や明治五年の書上などと比較して、御府内備考に記載されている寺院数が少なく、どのような基準で取捨選択をしたのかを疑問に思っていたが、御府内備考が幕府官撰史書であることを考えれば、このことが基準の一つでったと考えても問題はないのではなかろうか。
 また、寛政諸家譜の家系図は将軍家・御三家などの親藩を除いて編纂されているが、御府内備考も将軍家菩提寺である寛永寺・増上寺などが予めはずされていることが指摘されてきた。この点でも両者は共通しており、あるいは『史記』の「列伝」のように家臣のみを対象として調査・編纂するという一貫した方針があったのかもしれない。また、単に先行の寛政諸家譜の形式を御府内備考が踏襲しただけかもしれず、現段階ではこれ以上は推測の域を出ない。
 しかしながら、官撰の歴史編纂書である両者にこのような一致が見られるということは、やはり、偶然ではなく何らかの必然的な理由があるべきであろうと思われ、今後両者の関係や御府内備考の編纂方針が研究され、この点も明らかにされるのではないかと考えるのである。
六 結び
 『寛政重修諸家譜』からみたところ、旗本は、家数にして約五分の一、禄高にして約六分の一が日蓮宗寺院の檀家であった。高禄の家は少ないが、三百石を中心にまさに中堅的な部分で多くの割合をしめていた様子がわかる。彼らの内面的な信仰の様子はこの史料からはわからないが、当時の社会通念に沿って仏事供養を欠かさず執り行っていたことは、上述の事例などからも、確かであろうと思われる。そして、彼らの存在が、江戸の日蓮宗寺院にとって経済的、あるいは政治的にも大きな意味をもっていたとの推測をすることも、あながち強引とはいえないであろう。第五節の四例は例年供養や葬儀埋葬など、旗本の仏事の具体的な様相の一端をうかがわせてくれるものである。
 従来の研究では江戸の日蓮宗というと、少数の権力者や町人の信仰に関心が集中していた。たとえば、十一代将軍家斉の側室お美代の方とその周辺が日蓮宗に肩入れして後に谷中感応寺の事件につながったことは幾度も論ぜられたが、約二割の旗本が日蓮宗の檀家であったことを認識すれば、その取り巻く雰囲気も変わって感じられるのではなかろうか。幕藩体制とその檀家制度のもとで、これだけの旗本が日蓮宗檀家となっていたということは、江戸という政治的に新開拓され発展していった都市で、日蓮宗の教線が大きく伸張した要因のひとつとして無視できない重要なものであったと考えてよいであろう。とくに、幕府中期の、旗本がまだ本格的には困窮していなかった時期には、毎年数百両の寄付をする旗本檀家は寺院の経済的にも大きな貢献があったのではなかろうか。繰り返すようであるが、江戸に居住していた旗本・御家人・定府の武士たちは、権威とある程度の経済的実力をもち、さらに教養も有して文化面へも多大な関与をしていた。彼らの様子や動向はこれまで、信仰的な面から注目されることはあまりなかったが、その大きな存在は江戸日蓮宗寺院の繁昌の重要な背景のひとつとして、あらためて認識されるべきであろうと思われる。
 今後は、江戸における日蓮宗の様相について、江戸日蓮宗寺院と旗本の関係を、両者の交流の記録などを通じて検討し、さらには旗本・御家人の江戸社会に占める位置をも考え合わせながら、江戸の武士たちの信仰の表れや内面的な思想への省察をも課題としてゆくこととして、結語としたい。なお、御府内備考編纂の経緯についても、課題と考えたい。
 参考文献 『旗本の経済学』小松重男 郁朋社 二〇〇〇年
      『旗本三嶋政養日記』西脇康 徳川氏旗本藤月三嶋氏四〇〇年史刊行会 一九八七年
      『旗本』新見吉治 吉川弘文館 一九六七年
      「旗本池田家の親族関係について」『史学雑誌』73−8 一九六四年
      『徳川封建社会の研究』野村兼太郎 一九四一年
 

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