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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

律蔵郡に見えるインド仏教の医療観

 

研究ノート
律蔵群に見えるインド仏教の医療観
(日蓮宗現代宗教研究所顧問) 影 山 教 俊  
◆はじめに
 なぜ、この「律蔵群に見えるインド仏教の医療観」について論じたか、その縁由からはじめよう。
 現在、宗門運動「立正安国・お題目結縁運動」の基本大綱、その基本理念等が日蓮宗中央伝道企画会議において審議されている。その中で基本テーマとなっているものは「近年とみに生命(いのち)を取り巻く状況が悪化の一途たどっている」と、それは「生命(いのち)」である。
 さらに、「まさに今『立正安国』奏進七五〇年、宗祖ご降誕八〇〇年の慶年を迎えようとするこの時、日蓮宗は、法華経に説かれる『生命の絶対尊重』を基本理念とし、『立正安国の実現』を眼目とする信仰運動の第一歩を踏み出そうとするものである」と、まさに宗門運動の基本テーマは生命(いのち)にある。
 ところが、宗内において、この生命(いのち)なるものが、いままで具体的に問われたことがない。仏教という宗教から、「生命(いのち)とは何か」という事実について論及されていないのである。
 いま敢えて「論及されていない」といったが、その理由は仏教という宗教の思想信条からの論及と区別したいからである。思想信条からの論及とは如何なるものかと言えば、「臓器移植については、自己決定による場合、仏教の慈悲心にもかなう行為と認識し、脳死段階からの移植医療に道を開くことには反対しない」というような、「仏教の慈悲心にもかなう行為」という論及の方法である。
 この文言は平成四年脳死臨調答申(脳死患者からの臓器移植の容認)を受けて行った、日蓮宗勧学院第2回答申の一部である。以下に全文を挙げよう。
 平成6年(一九九四)8月、日蓮宗勧学院は宗務総長の諮問に対して次のような答申をした。
①脳死をもって人の死と断定することには、未だ多くの問題が残されており、死の概念の重大な変更にあたって、医学にのみそれを委ねることはできないとする見解が妥当であると判断する。
②臓器移植については、自己決定による場合、仏教の慈悲心にもかなう行為として認識し、脳死段階からの移植医療に道を開くことには反対しない。ことは、宗教、哲学、倫理、社会、文化などに幅広く関わる問題であって、多数決でゴーサインをだせるものではない。法華経弘通者の立場から、今後とも科学主義、理性主義、人間機械論の行き過ぎを監視しながら、関係機関の動きをみていくべきである。(第六回勧学院研修会議講演録参照)
 なぜ、このような論及が具体的ではないかと言えば、それが医療としての論及ではないからである。とくに「臓器移植については、自己決定による場合、仏教の慈悲心にもかなう行為として認識し、脳死段階からの移植医療に道を開くことには反対しない」などは、仏教の慈悲心という思想信条によって、現代の移植医療の可否を論じようとする方法である。
 そもそも、脳死段階における移植医療への道を開くことは、現代医学の治療の限界がそこにあると言うことである。これは移植医療の効率化を図るために、いままで私たちが受け入れてきた「心臓死」(心臓が動かなくなり、呼吸が止まり、瞳孔が散大して光に反応しない状態)の死から、「脳死」(脳幹を含むの脳全体の機能が停止し、もとに戻らないと判断された状態)の死へと、死の判定基準を変更するということである。
 要するに、現代医学の治療の限界が臓器移植にあって、その移植医療が効果的に行われるために、死の判定基準を心臓死から脳死段階へと変更するということである。それに対して、「仏教の慈悲心にもかなう行為と認識する」と論及するだけでよいのだろうか、というのが私の疑問なのである。
 そこにあるものは現代医学(神経生理・生化学的な病因論に立脚した医科学)の限界であって、その限界に対応する答えを得るために、まず仏教という宗教が過去に医療とどのように関わってきたのか、その具体的な文化史的な事例を考察する必要がある。
 とくに近年は、仏教という宗教を思想信条として論ずる傾向が強いため、医療や環境問題、さらには平和と戦争などの社会問題への仏教者の提言は、医療問題などのように生命(いのち)をフィジカルに扱う分野では、「仏教のそういうお話」という程度として扱われているのが実状である。
 仏教がフィジカルな生命(いのち)をどのように扱ってきたかをその時代の医療との関わりから、明らかにしたいと思う。今回はとくに律蔵群を中心に考察しよう。
1 インド仏教の医療に関する文献について
 まずインドにおける仏教教団はどのような医学的知識に基づいて医療を行っていたのだろうか。日蓮聖人も「耆婆妙薬誰弁服之(耆婆が妙薬誰か弁へて之を服せん)」(『四信五品鈔』昭和定本 一二九八)と引用されているが、釈尊の主治医であった「耆婆」(ジーバカ、J=cd=ab33=cd=ab29vaka Jomarabhacca)は、現存する律藏(Vinaya-Pit・ka)群の、とくにその毘奈耶薬事に相応する部分に病気の治療に関わる記述が多く見られることはすでに知られている。
 そして、近年はアーユルヴェーダ(A=cd=ab29yur-Veda)と呼ばれるインド医学の研究が進み、この律藏群の毘奈耶薬事などに記述される医学的知識や、またその知識が初期のインド仏教僧院の医療施設で臨床に応用され蓄積され、インドの二大古典医学書である『チャラカ・サンヒター』(Charaka-Sam・hita=cd=ab29)や『スシュルタ・サンヒター』Sus=cd=f087uruta-Sam・hita=cd=ab29)へと発展したことが指摘されている。
 ここで、そのようなインド医学の源泉となった律藏群を挙げれば次の六つである。
①大衆部の『摩訶僧祇律』巻四十
(東晋天竺三蔵仏陀跋羅、法賢共訳、四一六年〜四一八年)
②説一切有部の『十誦律』巻六十一
(後秦北天竺三蔵弗若多羅、羅什共訳、四〇四年〜四〇九年)
③曇無徳部の『四分律』巻六十
(姚秦北天竺三蔵仏陀耶舍、竺仏念共訳、四一〇年〜四一二年)
④沙弥塞部の『五分律』巻三十
(劉宋賓三蔵、仏陀什、竺道生共訳、四一八年〜 四二三年)
⑤『根本説一切有部毘奈耶薬事』
(唐三蔵義浄訳、六九五年〜七一三年)
⑥南方上座部のヴィナヤに含まれる『南伝大蔵経』「大品」(maha=cd=ab29-vagga)第六章
 ここでこれら律蔵文献の扱を挙げておけば、大衆部などの「部」とは「宗派」の意味であり、この六つの中で③曇無徳部(Dharmagupt・ka)と④沙弥塞部(Mah=cd=ab33=cd=ab29s=cd=f087a=cd=ab29saka)と⑤根本説一切有部(Mu=cd=ab29lasarva=cd=ab29stiva=cd=ab29din)は、②説一切有部(Sarva=cd=ab29stiva=cd=ab29din)の部派である。そのため曇無徳部・沙弥塞部・根本説一切有部は、説一切有部の『十誦律』の派生として見るべきである。この小論では律蔵群の『摩訶僧祇律』、『十誦律』、『四分律』を中心とし、さらに『根本説一切有部毘奈耶薬事』と、『南伝大蔵経』「大品」第六章などを参考程度として論を進めたい。
 また、ここで用いた資料は、「第五一、五二、第五三、第五四回日蓮宗教学発表大会」等で、「天台止観に見られる治病法 ーインド仏教医学の身体観を前提にー」(『現代研究』第三三号所収)、「律蔵群に見える仏教医学について ー律蔵とインド古典医学の比較からー」(『現代研究』第三四号所収)、「仏教教団ではどの様に癒しを行っていたのか ー律蔵群から読みとれる疾病誌ー」(『現代研究』第三五号所収)、「律蔵群に見られる耆婆の治療法」(『現代研究』第三六号所収)として発表したものを文化史的に考察し、医療の具体的な事実を挙げて行くことにする。資料の詳細な解説はそれらに譲ることにする。
 ここで律蔵群にみられる医療技術の事例を挙げておけば、それはおおよそ三〇例である。その中には釈尊の主治医といわれる耆婆の治療例五つを含み、その治療法はさきの『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』などのインド古典医学書にみられる治療法とほぼ同じような療法であるところから、初期の仏教教団の医療と古典医学の源泉が同じところにあると考えられている。
(K・G・ジスク 『古代インドの苦行と癒し』時空出版 一九九三年、岩本 裕 『インド医学序説』日本臨床三〇巻五号〜三一巻三号)
2 インド仏教の医学的な知識について
 さきに現代医学とは神経生理・生化学的な病因論に立脚した医科学であるといったが、インド仏教の医学的な知識はどのような病因論に立脚しているのだろうか。
(1)仏教教団における医療のはじまり
○どのような形で仏教教団は医療を求めたのだろうか
 律蔵群には次のように示されている。
◇『摩訶僧祇律』巻第十六(大正二二 三五一C)
「明單提九十二事法之五」
次佛住舎衞城。爾時有比丘在聚落中夏安居訖。来詣舎衞。欲禮覲世尊。時有檀越。在聚落中作福舎。(中略)比丘食已。而出風病發動。自念。我不能行世尊制戒施一食處。不聽過一食。我今且住。但不受其食。念已即還入舎。檀越如初供給所須。比丘不受。至明日復與前食。亦復不受。於是即去心念我到某村。當乞食。比丘至聚落。日時已過。即便失食。四大飢羸。至世尊所。稽首禮足。却住一面。佛知而故問。即以上事。具白世尊。佛言。善哉善哉比丘。汝随順正法信心出家。少欲順行不爲命故。世尊制戒護而不犯。佛言。從今已後福徳舎中。若病比丘聽過一食。佛告諸比丘。依止舎衞城住者盡集。以十利故。與諸比丘制戒。乃至已聞者當重聞。若比丘施一食處。不病比丘應一食。若過一食者。波夜提。比丘者如上説施一食處者。世尊所聽。食者。五種食。如上説。
◇『十誦律』巻第二十六(二三 一八四B)
「七法中醫藥法」第六
佛在王舎城。秋時諸比丘冷熱發癖患動。食不能飽羸痩少色力。佛見諸比丘羸痩少色力佛知故問阿難。諸比丘何以羸痩少色力。阿難白佛言。世尊。諸比丘秋時冷熱發癖患動食不能飽。是故羸痩少色力。爾時世尊作是念。當以何藥與服令差色力還復。若食麁飯糒不能益身。當聽服四種含消藥酥油蜜石蜜。佛以是因縁故集僧。集僧已告諸比丘。從今日聽諸病比丘服四種含消藥酥油蜜石蜜。
◇『四分律』巻第四十二(大正二二 八六九B)
「薬=cd=61cf度之一」
時世尊在舎衞國。時諸比丘秋月得病。顏色憔悴形體枯燥癬白。時世尊在靜室作如是念。諸比丘秋月得病。顏色憔悴形體癬白枯燥。我今當聽諸比丘食何等味。當食常藥不令麁現。即念言。有五種藥。是世常用者。酥油蜜生酥石蜜。我今寧可令諸比丘食之。當食常藥不令麁現。如飯麺法作是念已。
◇『根本説一切有部毘奈耶薬事』巻第一(大正二四 一A)
爾時薄伽梵。在室羅伐城。逝多林。給孤獨園。時諸芯芻秋時染疾。身體痿黄。羸痩憔悴。困苦無力。世尊見已。知而故問阿難陀曰。何故諸芯芻。身體痿黄。羸痩無力。阿難陀白佛言。大徳。諸芯芻等。既侵秋節遂染諸病。身體痿黄。羸痩無力。佛告阿難陀。由是病苦。我今聽諸芯芻服食雜藥。如是世尊既聽服藥。時諸芯芻遂於時服。非時不服。身體尚衰。羸痩無力爾時世尊知而故問阿難陀曰。我已聽諸芯芻服食諸藥。然此芯芻故羸痩。阿難陀白佛言。世尊聽諸芯芻服食諸藥。此諸芯芻並於時服。非時不服。所以身體痿黄。羸痩無力。爾時佛告阿難陀。我今爲諸芯芻。開四種藥。一時藥。二更藥。三七日藥。四盡壽藥。言時藥者。一麺。二餅。三麥豆餅。四肉。五飯。此並時中合食。故名時藥。
◇『南伝大蔵経』(『南伝大蔵経』第三巻 三五三頁)
「第六薬=cd=61cf度」一ー一
その時に、比丘等は秋時病に罹り、粥を飲みても吐き、食を食しても吐けり。為に彼らは痩せ、麁醜となり、色悪く、次第に黄ばみ脈結を露せり。
 これらによれば、舎利弗尊者や比丘たちが、秋時病に罹ってやせ細り、衰弱している様子がつぶさに伝えられている。夏安居が終わった秋時というから、九月半から一一月半の頃に、王舎城に在住していた何人かの僧が風病(秋病)になった。僧たちは飲食した米粥などの食べたものを吐いてしまい、それからは消耗し、やつれ、皮膚の色が悪く、だんだん蒼白(黄疸色)になり、手足の血管(dhamai)が浮きでて見えるようになる病気のために、釈尊は五種の基本薬を許したというのである。
○インド古典医学からみた風病(秋病)について
 さきのインド医学の二大医学聖典である『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』の古典医学書には、秋季の風病についての記述があるのでそれを要約しよう。風病はインドの気候が外因となり、僧たちがそのような病状になったことが分かる。
◇『チャラカ・サンヒター』
第六章「人が食べたり飲んだりしたもの[という言葉で始まる]章を語ろう」
 雨季の寒さに慣れていた体が、秋季になって急に太陽光線によって暖められると、蓄積していたピッタが、たいてい不調をきたす=cd=e15f。その場合の食物は、甘味があり、消化軽性、苦味を伴い、ピッタを鎮静するものを、十分な食欲をもって適量摂るのがよい=cd=e15f。秋季には鷓鵠、カピンジャラ(動物の一種)羚羊、雄羊、シャバラ(動物の一種)、兎(の肉)、米、大麦、小麦を摂るのがよいという=cd=e15f。秋季には苦味のあるギーを飲むこと、下剤の使用、放血を行い、熱気をさけるべきである。
(『チャラカ・サンヒター』ー矢野道夫訳 世界の名著『インド医学概論』朝日出版社 五〇頁、以下『チャラカ・サンヒター』と略記)
◇『スシュルタ・サンヒター』
 雨季においては草は未熟であって、その力は微弱である。水は濁って土や汚物を多く含んでいる。このようなものを人々が常用するということは、空が雲におおわれ、地は水によって潤はされ、このような環境にあって、身体は湿い、冷気によって消化の火は阻害された人々にあっては、あのような飲食物は消化が不充分となり、溜飲を起し、また胆汁素の積聚を生ずる。そして、この積聚は秋季に、空に雲少なく、泥は乾き、日光は衰える季節になり、胆汁素性の疾病を起す=cd=e15c。
(『スシュルタ・サンヒター』 大地原誠玄訳『スシュルタ本集』 アーユル・ヴェーダ研究会刊 第一篇 総説篇 第六章 「季節養生章(r・itucarya=cd=ab29dhya=cd=ab29ya)三五頁、以下『スシュルタ・サンヒター』と略記)
 ここで分かることは、風病はインドの気候が外因となり、比丘たちがそのような病状になったことである。そのため釈尊はその時代のインド医学の知識に従い、薬効食の規定を律藏の中に取り入れ、発病した梵行乞食の僧たちの秋時病の治療やその予防を積極的に行ったことである。
=cd=70b6 律蔵群の四大に支えられた病因論について
○風病、秋時病とも呼ばれる病を治療するために、釈尊は五種の基本薬を許したというが、そのような治療に対する病因論は如何なるものだろうか。
◇『摩訶僧祇律』巻第十(大正二二 三一六C)
「明三十尼薩耆波夜提法之三」
病者。有四百四病。風病有百一。火病有百一。水病有百一。雜病有百一。若風病者。當用
油脂治。熱病者當用酥治。水病者。當用蜜治。雜病者當盡用上三種藥治。
◇『十誦律』巻第二(大正二三 一〇B)
「明四波羅夷法之二」
病者。四大増減受諸苦惱。比丘語是人言。汝云何能久忍是苦惱。何不自奪命。因是死者比丘得波羅夷。若不死者偸蘭遮。若是病人作是念。我何縁受是比丘語自奪命。不因死者偸蘭遮。若比丘心悔。我不是。何以教此病人自殺。還往語言。汝等病人。或得良藥善看病人随病飲食。
◇『四分律』巻第五十三(大正二二 九六四C)
「雑=cd=61cf度之三」
此身色四大合成。彼身色化有。此四大身色異。彼化身四大色異。從此四大。身色中起心化作。彼身諸根肢節具足。
 ここでは四大によって身体の生成を説明し、その身体性を基として諸根肢節の身体感覚
◇『根本説一切有部毘奈耶薬事』巻第十六(大正二四 八一C)
一切有情身。皆由四大合。滿中多糞尿。臭穢血膿流。
◇『南伝大蔵経』「大品」(相応部経典 六処篇 第二受相応 百八理品 三五五〜三五六頁)
五  シーヴァカよ、粘液より生ずる 或感受のここに起こることあり
六  シーヴァカよ、風より生ずる 或感受のここに起こることあり
七  ジーヴァカよ、(胆汁など三つの)聚和より生ずる 或感受のここに起こることあり
八  ジーヴァカよ、時候の変化より生ずる 或感受のここに生ずることあり
九  ジーヴァカよ、逆運の逢うことにより生ずる 或感受のここに生ずることあり
十  ジーヴァカよ、痙攣性の或感受のここに生ずることあり
一一 ジーヴァカよ、業異熟性の或感受のここに生ずることあり
(中略)
一三 胆汁、粘液ろ風と(三種の)聚和と、時候と、逆運、痙攣、業異熟によりて第八なりと。
 これらによれば、まず『摩訶僧祇律』では「病には四大に相応しそれぞれに百一の病があり、全体で四百四病がある」といい、また「風病は油・脂、熱病は酥、水病は蜜、雑病は油・脂、酥、蜜などの三種薬を用いる」などの具体的な治療法までが上げられているが、漢訳文献の病因論は地大・水大・火大・風大の四大であると分かる。
 さらに『南伝大蔵経』「大品」にみえる病因論は、漢訳文献の四大より詳細な記述が挙げられ、釈尊の病気の原因に関する八つの原因(八因)で、四つの内因(四大)と四つの外因に分類されている。
・四つの中心的病因=内因(四大)
ピッタ(pitta)=火大=胆汁素
カパ(semha, kapha)=水大=粘液素
ヴァータ(va=cd=ab29ta)=風大=体風素
三つの組合せ(聚和、sannipa=cd=ab29ka)=地大=等分
・他の四つの外因
時候(季節、hRtu)
異常な行動によるストレス(逆運、vis・ama)
外因性の事故(痙攣、opakkamika)
過去の行為の結果(業、karma)
 ここで分かることは、心身を構成する胆汁(火大)、粘液(水大)と風(風大)と、(三種の)聚和(その組合せの地大)という四大の変化によって病気になる。そして、その病気の種類はといえば、四大に即してそれぞれに百一の病があるので四百四の種類があるという。さらに風病には油・脂を用ひて治し、熱病には酥を用いて治し、水病には蜜を用いて治し、雑病(地病)には上の三種薬を用いて治すなど、それが四大の病因論による治療法である。
○インド古典医学にみえる病因論について
 さきの古典医学書には、律蔵群にみえる四大が三大の病因論として挙げられている要約してみよう。
◇『チャラカ・サンヒター』(『チャラカ・サンヒター』 一三七頁)
病因論には四因(外因性の病気・三種の内因性の病気)
 外因性の病気
 ヴァータ(va=cd=ab29ta)の増悪(風大のこと)
 ピッタ(pitta)の増悪(火大のこと)
 カパ(kapha)の増悪(水大のこと)
◇『スシュルタ・サンヒター』(『スシュルタ・サンヒター』第一篇 総説篇 一−六頁〜七頁)
病因論には四因
 外因性(偶発的、a=cd=ab29gantuka)の病気
 身体的(s=cd=f087a=cd=ab29rira)
 精神的(manas)
 自然的(sva=cd=ab29bha=cd=ab29vika)
人間(purus=cd=f087a)は特殊な疾病の容器で、人間に悩みや痛みの源をなすものは疾病と称される。とくに身体的要因(s=cd=f087a=cd=ab29rira-hetu)が中心で、飲食物より起り、あるいは体風素(va=cd=ab29ta・風大)、胆汁素(pitta・火大)、粘液素(kapha・水大)の増悪、またはこの三つの要素(tri-dos・a)の増悪によってバランスが崩れて病気になる。
治療法には四因
 浄化法(samshodhanam)
 増悪した三つの要素(va=cd=ab29tri-dos・a=体液)の鎮静(samshamanam)
 食事のコントロール
 生活行為の摂生
 ここで分かることは、古典医学の病因論は三大の理論であり、律蔵群の病因論よりかなり進んでおり、病気に関する八つの原因、内因の四つの四大(火大=ピッタ、水大=カパ、風大=ヴァータ、地大=三つの組合せ)と、外因の四つ外因性(偶発的、身体的、精神的、自然的)などが具体的になっている。
 これに比して漢訳文献にみらる病因論は未熟ではあるが、古典医学の病因論と同様の考え方である四大による病因論を駆使して病気というもの、身体的なあり方、フィジカルな生命(いのち)を理解していたことが分かる。
○アーユル・ヴェーダの具体的な医療論について
 ここで、このようなアーユル・ヴェーダと呼ばれるインド医学の具体的な考え方を概説しておこう。まず基本の三大理論(tri-dos・a-theory、トリ・ドーシャ理論と呼ばれる)では、私たちは母の胎内で生を受けた直後から、先天的に体質や気質が決まっているという。その体質や気質を決定する要素がヴァータ(風大)・ピッタ(火大)・カパ(水大)のトリ・ドーシャ理論によるバランス関係で示され、ヴァータの要素が多ければヴァータ体質と、ピッタ体質、カパ体質と、またはヴァータ・ピッタ・カパの複合型の体質というように、トリ・ドーシャ理論にもとづいて理解する。
 そして、私たちが自分の体質に適した生活をしてトリ・ドーシャのバランスが良いときには健康的で、逆に何れかのドーシャを増やすような不適当な食事や、節制を怠ったりすると、ドーシャのうち何れかが増加し、トリ・ドーシャのバランスが崩れ、健康を害するという。
 たとえば、カパの要素には甘いという性質があるために、カパ体質の人が甘い物を食べ過ぎるとカパ病(水大病)に罹りやすく、この体質の人は現代医学でいう糖尿病などの生活習慣病に注意が必要であるという。またピッタの要素には辛いという性質があり、ピッタ体質の人が辛い物を食べ過ぎるとピッタ病(火大病)に罹りやすく、心臓などの循環器系の病気に注意が必要であるという。このように体質に適した食事と、季節や時間に基づいた生活がアーユル・ヴェーダ医学の治療法であり、その治療を支えているのがトリ・ドーシャ理論に基づく医療概念である。
(参考文献○幡井 勉編『生命の科学 アーユルヴェーダ』柏樹社 一九九〇年、○P・クトムビア『古代インド医学』出版科学総合研究所 一九八八年)
3 仏教教団の治療法について
 仏教教団では上述の四大による病因論を前提にして、どのような医療が具体的に行われていたのだろうか。
(1)薬効食としての食事のコントロール
 薬効食として食事のコントロールを挙げよう。さきの『摩訶僧祇律』「明三十尼薩耆波夜提法之三」には「若風病者。當用油脂治。熱病者當用酥治。水病者。當用蜜治。雜病者當盡用上三種藥治」として、薬効食の具体的な記述があった。まさに「風(大)病には油・脂を用ひて治し、熱(大)病には酥を用いて治し、水(大)病には蜜を用いて治し、雑病(地大)には上の三種薬を用いて治す」と、さきの四大による病因論に準じて食事の効能が示されている。
○五種類の基本薬
 このような薬効食について、仏教教団では五種類の基本薬を「七日薬」と称して僧侶に携帯を許している。
◇『摩訶僧祇律』「明四波羅夷法之三(盗戒之餘)」(大正二二 二四四C)
七日藥者。酥油蜜石蜜脂生酥。酥者。牛水牛酥=cd=63e8羊=cd=63e9羊酥駱駝酥。油者。胡麻油蕪菁油。黄藍油阿陀斯油。菎麻油。比樓油。比周縵陀油迦蘭遮油。差羅油阿提目多油。縵頭油大麻油。及餘種種:油。是名爲油。蜜者。軍荼蜜布底蜜黄蜂蜜黒蜂蜜。是名爲蜜。石蜜者。槃=cd=63e0蜜那羅蜜縵闍蜜摩訶毘梨蜜是名石蜜。脂者。魚脂熊脂羆脂修修羅脂豬脂。此諸脂無骨無肉無血無臭香無食氣。頓受聽七日病比丘食。是名脂。生酥者。牛羊等諸生酥。淨漉洗無食氣。頓受聽七日病比丘食。此諸藥清淨無食氣。一時頓受得七日服。故名七日藥。
 このように『摩訶僧祇律』には「七日薬」とは、酥・油・蜜・石蜜・脂・生酥の基本薬を挙げ、病に罹った比丘が七日間服用することを許している。これ以降、他の漢訳文献についての詳細は「天台止観に見られる治病法 ーインド仏教医学の身体観を前提にー」(『現代研究』第三三号所収)、「律蔵群に見える仏教医学について ー律蔵とインド古典医学の比較からー」(『現代研究』第三四号所収)に発表したのでくり返さないが、これらの薬効食について『摩訶僧祇律』とよく相応し、またより具体的な『南伝大蔵経』の例を挙げておこう。
◇『南伝大蔵経』(『南伝大蔵経』第三巻 三五三頁)
「第六薬=cd=61cf度」
 五種類の基本薬として
  熟酥(ギー、sappi、skt. sarpis、医学用語 ghr・ita)
   生酥(新鮮バター、navan=cd=ab33=cd=ab29ta)
   油 (tila、skt. taila)
   蜂蜜(madhu)
   糖蜜(pha=cd=ab29n・ita)
◇「捨堕二十三」(『南伝大蔵経』第一巻 四二四頁〜四二五頁)
 五種類の基本薬の内訳として
 「熟酥」とは、牛乳酥、山羊酥、水牛酥、浄肉たるものの熟酥
 「生酥」とは、これらの生酥
 「油」とは、胡麻油(tila、skt. taila)
       芥子油(sa=cd=ab29s・pa、 skt. sarSpa)
       蜜樹油(madhuka、skt.madhu=cd=ab29ka、中国名 甘草)
       蓖麻子油(seran・da、skt.eran・d・a)
 「蜜」とは、蜂蜜
 「石蜜」とは、甘蔗の茎(砂糖黍)
○七種類の追加薬
 さらにこの五種類の基本薬に加えて、僧侶の病気によって薬効食が新たに追加される。追加される薬効食のリストは、脂肪・根薬・煎薬(渋薬)・葉薬・果実・樹脂薬・塩の七種類である。
◇『摩訶僧祇律』巻第三(大正二二 二四五B)
「明四波羅夷法之三」
酥瓶油瓶石蜜瓶。根莖枝葉果等諸藥。
◇『南伝大蔵経』「第六薬=cd=61cf度」(『南伝大蔵経』三 三五五頁)
脂肪(vasa=cd=ab29)
根薬(mu=cd=ab29la)
煎薬(渋薬・asa=cd=ab29va、skt. kas・a=cd=ab29ya)
葉薬(pan・n・a、skt.parn・a)
果実(phala)
樹脂薬(jatu、樹木が分泌する樹液を固めたもの)
塩(lon・a 、skt.lavan・a)
 これによって分かることは、さきのように、釈尊がその時代のインド医学の知識に従い、薬効食の規定を律藏の中に取り入れた背景には、このようなインドの気候が外因となり発病する梵行乞食の比丘たちの秋時病、風病などの予防や治療の目的があったからである。そして、その予防や治療のために五種類の基本薬に加えて、七種類の薬効食がリストアップされていることである。
(2)治療の実際について
 このような受容を背景に、応病与薬的に順次に医療が充実してゆく。上記は薬効食についての具体的な記述であるが、実際の臨床面では具体的にどの様な医療が行われていたのであろうか。さきの四大による病因論を前提にしながら、教団の中ではどのようが治療が行われていたのだろうか。順次に『摩訶僧祇律』によってその実際を挙げよう。
○一 皮膚病について
『摩訶僧祇律』巻第三十一(大正二二 四八二C)
「明雜跋渠法之九」
復次佛住王舎城。如来以五事利益故。五日一行諸比丘房。見比丘癬病。佛知而故問。比丘。汝調適安樂住不。答言世尊。我病癬=cd=21f4。得香屑末洗浴便差。世尊制戒不得用香屑是故苦住。佛言。從今日聽病比丘用香屑。香屑者。於尸屑馬耳屑七色屑栴檀屑倶多屑菴拔羅屑閻浮尸利屑阿淳屑伽比羅屑。如是比一切不聽。若比丘病癬=cd=21f4。須屑末塗浴差者得用無罪。聽用迦羅屑摩沙屑摩痩羅屑沙=cd=61d3屑塗土。是名末屑法。
(復次に仏、王舎城に住したまひき。如来は五事の利益を以ての故に、五日に一たび諸比丘も房を行りたまふに、比丘の癬病を見て仏知りて故に比丘に問ひたまはく、「汝、調適にして安楽住せりや不や。」答へて言さく、「世尊、我れ癬=cd=21f4を病めり、香屑末を得て洗浴せんには便ち差えんも、世尊の制戒、香屑を用ふるを得ざれば、是故に苦住せり。」仏言はく、「今日より病比丘には香屑を用ふるを聴さん」と。香硝とは、於尸屑・馬耳屑・七色屑・栴檀屑・倶多屑(倶必多、火大)菴抜羅屑・閻浮尸利屑・阿淳屑・迦比羅屑(赤色[kapa=cd=ab33=cd=ab29la]の硝)にして、是の如き比の一切は聴さず。若し比丘、癬=cd=21f4を病まんに、屑末を須いて塗浴して差えんには、用ふるを得て無罪なり。迦羅屑・摩沙屑・摩痩羅屑・沙=cd=61d3屑・塗土を用ふるを聴す。是を「末屑法」と名く。)
 皮膚病を疥癬と腫れもの(=cd=21f4・瘡)の二つのパターンに分類している。治療法として疥癬には五種の苦薬による「末硝法」を挙げている。また『十誦律』では、瘡が大きく腫れたら、刀によってそれを切開し薬を塗る。その瘡が臭ければ、「根湯、茎葉羊果湯及び小便」によって洗えともいう。
○二 非人病について
『摩訶僧祇律』巻三十二(大正二二 四八六C)
「明雜跋渠法之十」
復次佛住波羅奈仙人鹿野苑。時有比丘黄病。醫師言。尊者服人血者可差。若不服者便死。更無餘方。時有人犯王事。反縛兩手著迦毘羅華鬘。打鼓唱令詣其刑處。比丘至魁膾邊作是言。長壽。施我人血飲。魁膾言。若欲食肉亦當相與。何況血耶。即坐罪人在地。以刀刺兩喉脈出血。比丘兩手承取血飲。爲世人所嫌。此非比丘。是=cd=61cd人鬼。即以瓦石土塊擲是比丘劣而得脱。諸比丘以是因縁往白世尊。佛言。呼是比丘来。来已佛問比丘。汝實爾不。答言實爾世尊。佛言比丘。此是惡事。愛命乃爾。佛言。從今已後。不聽飲乃至人髓一切不聽。
(時に比丘ありて黄病なりしに、医師言はく、「尊者、人血を服せんには差ゆべく、若し服せざらんいには便ち死なん、更に余方なけん」と。(中略)仏言はく、「今より已後、人血を飲むを聴さず、・・・乃至、人髄(等)一切をも聴さず」と。)
 非人病(精神病)について、『摩訶僧祇律』では医師が許した「人血を飲むことも、乃至、人髄等の全て」の服用を釈尊は禁止している。しかし、このことは人肉以外の血肉が服用されていたといえる。実際に『十誦律』では周囲の人に見えない屏処という条件付だが血肉の服用を許し、『四分律』ではインドでは聖なるものとして扱われる牛の血肉の服用すら許している記述がある。
 これは初期の仏教教団内では、非人病に罹った僧侶への処方として、僧侶に「生の血肉の服用」の治療法を行っていたということであり、一応釈尊に所見を伺うものの、釈尊は古代インドの伝承医術に見られる治療法をほぼそのまま許している。
○三 眼病について
『摩訶僧祇律』巻三十二(大正二二 四八七C)
「明雜跋渠法之十」
復次佛住舎衞城耆舊童子菴婆羅園。時諸比丘眼痛。耆舊童子言。尊者。可以此藥塗眼。諸比丘言。世尊制戒不聽塗眼。童子言。我當往從世尊乞此願。即往佛所頭面禮足却住一面白佛言。世尊。諸比丘是一食人。眼是人之所重。唯願世尊。聽諸比丘著眼藥。佛言。從今已後。聽用眼藥。除空青。若醫言。尊者此眼痛得空青屑塗便差更無餘方。若爾者得塗。塗已不得衆中住。應在邊小房中。差已當淨洗得還入衆。是名眼藥。眼藥筒者。佛住舎衞城。時諸比丘持樹葉盛眼藥。佛知而故問。比丘此是何等。答言。是眼藥。佛言。眼藥是貴物。應用筒盛。時諸比丘作金銀筒盛。佛言。金銀及一切寶不聽用。應用銅鐵白臘竹葦筐鳥下至皮裹。是名藥筒。眼藥籌者。佛住舎衞城。時有比丘。持竹作眼藥籌。佛知而故問。比丘此是何等。答言世尊。是眼藥籌。佛言。眼是軟物。應用滑物作籌。時有比丘便以金銀作。佛言。不聽金銀及一切寶物作。應用銅鐵牙骨栴檀堅木作。揩摩令滑澤。下至用指頭。是名眼藥籌法。
(復次に仏、舎衛城耆舊童子菴婆羅園に住したまひき。耆舊童子言はく、「尊者、可しく此薬を以て眼に塗らるべし」。諸比丘言はく、「世尊の制戒、眼に塗るを聴さざるなり」。(中略)仏言はく、「今より已後、眼薬を用ふるを聴さん、空青をば除く」と。若し医の言はく「尊者、此の眼痛は空青屑を得て塗らんに便ち差えんも、更に余方なし」と。若し爾らんには塗るを得、塗り已らんに衆中に住するを得ざれ、応に辺小の房中に在るべく、差え已らんに当に浄洗して還衆に入ることを得ん。是を「眼薬」と名く。
(中略)仏言はく、「眼薬は是れ貴物なれば、応に筒を用ひて盛るべしと」。(中略)仏言はく、「金銀及び一切の宝は用ふるを聴さず、応に銅・鉄・白鑞・竹・葦・筺・鳥=cd=61d8を用ひ下、皮裏に至るべきなり。是を「眼筒」と名く。
(中略)時に比丘あり、竹を持って眼薬籌を作りしに、(中略)仏言はく、「眼は是れ軟物なれば、応に滑物を用ひて籌と作すべし」。(中略)「金銀及び一切の宝物にて作るを聴さず、応に銅・鉄・牙・骨・栴檀堅を用ひて作り、揩摩して滑澤ならしめ、下、指頭を用ふるに至るべきなり」。是を「眼薬籌法」と名く。)
 眼病の処方として、『摩訶僧祇律』は眼薬として「空青または、空青屑」、『十誦律』は羅散禅(rasanjana)、『根本説一切有部毘奈耶薬事』は五種の安膳那薬(点眼薬anjana)として「一に花安膳那、二に汁安膳那、三に=cd=61de安膳那、四に丸安膳那、五は騒毘羅石(赭色の石灰を溶解せる眼薬)安膳那」を挙げている。
 またその使用法(安膳那行法)としては、眼薬は高価であるので入れ物を作り保管し、点眼する際の器具は、金銀など一切の宝物を禁じ、銅・鉄・牙・骨・栴檀堅木、瓦などを用いて器具を作るよう指示している。ただし『四分律』のみは白=cd=63e1という眼病に、「人血の使用と焼末」の使用を許し、また単に眼痛には「琉璃箆」を許している。
○四 頭痛について
『摩訶僧祇律』巻第三十二(大正二二 四八八B)
「明雜跋渠法之十」
灌筒者。佛住舎衞城。有比丘=cd=63e2=cd=62bc病。語醫言。長壽。能爲我灌病不。答言可爾。即作是念。此諸沙門聰明智慧。見我灌者更不喚我。乃至棄筒而足。諸比丘以是因縁往白世尊。乃至佛言。汝云何用筒灌病。從今已後。不聽用筒。筒者。牛皮筒水牛皮筒羊皮筒。如是一切不聽用灌。若醫言此病須油灌者。應在浴室中穿板盛油=cd=63e5衣坐上口含甘蔗。若復以=cd=63e3衣絮等内著油中。臨孔上按之。令油流入者無罪若筒灌者偸蘭罪。是名筒灌法。
(「灌筒」とは、仏、舎衛国に住したまひき、時に比丘に乾痩病なるありて医に語げて言はく、「長寿、能く我が為に病を灌ぐや不や」。答へて言はく、「爾るべし」。(中略)「汝、云何筒を用ひて病に灌がんとせる。今より已後用ふるを聴さず」と。筒とは、牛皮筒、水牛皮筒、羊皮筒(中略)応に浴室中に在りて搾板に油を盛り、衣を賽げて上に坐して口に甘蔗を含むべし。若し復、絨・衣・絮を以て油中に内著し、孔上に臨めて之を按へ、油をして流入せしめんいは無罪なり。)
 頭痛の処方として、『摩訶僧祇律』には筒灌法のみがあり、『十誦律』には経鼻法と燻煙法が上げられ、『四分律』にはより具体的に頭の頂上に香油を塗り、酥油脂を点鼻(灌鼻)する治療法を挙げている。
 また点鼻法として、羊毛や劫貝鳥毛を油中に漬けて、それを鼻中に注ぎ、また灌鼻筒で注ぐ治療法を挙げている。更に灌鼻筒などの器具は宝物を禁じ、骨、角、鉄、銅、白鑞、鉛錫、葦、竹、木を用いるよう指示している。
 また鼻孔が塞がっている場合には、手による頭をマッサ−ジ(摩頂)や、脚の大指のマッサージ(摩指)を指示し、固まっている酥(凝酥)を鼻の中に入れる治療法っを挙げている。『根本説一切有部毘奈耶薬事』にはこれらに相応する記述は見あたらないが、油によるマッサージの記述は見られる。
○五 風病について
『摩訶僧祇律』巻第十七
「明単提九十二事法之六」(大正二二 三六二A)
若比丘風病。醫言。應服油。
(若し比丘、風病ならんに、医言はく、「応に油を服すべきなり」と。)
「明単提九十二事法之六」(大正二二 三六二A)
(若比丘風病)如上説。若比丘欲刺頭出血。
([若し比丘、風病ならんに]若し比丘、頭を刺して血を出さんと欲す。)
『摩訶僧祇律』巻第三十九
「明一百四十一波夜提法之三」(大正二二 五三五C)
若老羸病服藥刺頭出血服酥。應與欲作是言
(若し比丘老羸ら病にて薬を服し、頭を刺して血を出して酥を服せんに、応に与欲して是言を作すべきなり。)
 これらによって、風病の治療法が三つのパターンに分類できる。風病の一には「油の処方」、二には「酥油を服す処方」、三には「頭を刺して出血(放血)治療法」がある。
 このような漢訳文献に見られた風病の三つのパターンは、『南伝大蔵経』「大品」と、古典医学書に見られる一「腹痛としての風病」、二「肢痛としての風病」、三「関節痛としての風病」に対する治療法に、おおよそ相応している。
○六 足のひび割れと履き物について
『十誦律』巻第三十九
「明雜法之四」(大正二三 二八六C)
爾時比丘問佛。用何等皮作革履。佛言。除五種皮。師子皮虎皮豹皮獺皮猫皮。更除五種皮。象皮馬皮狗皮野干皮黒鹿皮。餘者聽作。佛在舎衞國。爾時有人。施僧=cd=63ea魚皮革履。諸比丘不受。佛未聽我著=cd=61db魚皮革履。是事白佛。佛言。應受=cd=63ea魚皮革履。爲麁故。以牛皮覆上。
(爾の時比丘仏に問へり、何らの皮を以つて革履をつくらんと。仏言はく、五種の皮、獅子の皮、虎皮、豹皮、獺(かわうそ)皮、猫皮を除く、更に五種の皮を除く、象皮、馬皮、狗皮、野干皮、黒鹿皮なり、余は作るを聴すと。(中略)仏言はく、応に=cd=61db魚皮の革履を受くべし、麁の為の故に牛皮を以つて上を覆せよと。)
 『摩訶僧祇律』には記述がなく、『十誦律』などには比丘の足への塗薬や足油、また履き物などの記述は断片的に述べられている。『南伝大蔵経』を含めていえば、足のひび割れと履き物と、足が裂けた(pa=cd=ab29da=cd=ab29 pha=cd=ab29lita=cd=ab29、足のひび割れ)比丘の処方として、足への塗薬(pa=cd=ab29daddhan=cd=f089jana)と、足油(pajia skt.padya)の治療法を挙げ、また足に痛みや傷などのある者には履き物(pa=cd=ab29datradha=cd=ab29ran・a)を許している。
○七 蛇に咬まれた傷
『十誦律』巻第四十一
「明雜法之六」(大正二三 三〇〇A)
佛在舎衞國。有客比丘暮来。次得空房舎。時床上有盤蛇睡。比丘不看便坐蛇上。爲蛇所螫與蛇倶死。經五六日有青蠅出。諸比丘見蠅出入。共相謂言。此房中有青蠅出。當入看来。入已便見。作是言。是比丘必坐是蛇上。爲蛇所螫二倶死耳。諸比丘不知云何。是事白佛。佛以是事集比丘僧。語諸比丘。從今教客比丘儀法。若客比丘到僧坊中。應偏袒著衣。著泥僧。高應下著。衣嚢在右肩上。應轉著左肩上。若杖油嚢革針筒。在右手中。應移左手中。若欲大小便。應先外却已入僧坊。若得水洗足已入。若不得水。以草樹葉拭足已入。若門閉應求開門。若開應入。若不開。僧坊外有牆塹刺棘。應在現處立。一心淨持威儀。作大人相起他善心。若見舊比丘應問。此僧坊中有若干歳比丘房不。若言有。即語開門已入。又問。是房中爲有人不。若言空。應問。用何水。若言井水。應索盥及繩掃。應開房戸彈指。若有毒蛇彈指令去。
(時に盤蛇有りて睡れり、比丘看ずして便蛇上に坐し蛇の為に螫され蛇と倶に死せり。(中略)応に房戸を開きて弾指すべし、若し毒蛇有れば弾指して去らしめよ。)
 『摩訶僧祇律』には記述はないが、『十誦律』には治療というよりは弾指による注意が、『四分律』には刀にて血と一緒に毒を出し、薬を塗ること、『根本説一切有部毘奈耶薬事』では「西蔵律典よりの補訳」として、糞と尿と灰と泥を調合した陳棄薬を処方し、さらに、癒えなければ大孔雀(王)明呪を勧めている。『南伝大蔵経』を含めていえば、ある比丘が蛇に咬まれ(ahina=cd=ab29 dat・t・ha)、治療のために屎(gu=cd=ab29tha、糞)、尿(mutta)、灰(cha=cd=ab29rika)、粘土(mattaka=cd=ab29)の四種の汚物(catta=cd=ab29ri mahvikat・a=cd=ab29ni)が用いられた。また火による治療が見られる。
○八 風病(黄疸)について
『摩訶僧祇律』巻第二十八
「明雜誦跋渠法之六」(大正二二 四五七B)
爾時尊者舎利弗風動。諸比丘以是因縁具白世尊。佛問比丘。宜須何藥。答言。世尊。呵梨勒。佛言。從今日聽病比丘服呵梨勒。
(爾時、尊者舎利弗は風動せしに、諸比丘は是の因縁を以て具に世尊に白すに、仏、微首問ひたまはく、「宜しく何の薬を須うべき」。答えて言さく、「世尊、呵梨勒なり」。仏言はく、「今日より病比丘に呵梨勒を服するを聴さん」と。)
 風病の処方として『摩訶僧祇律』では呵梨勒を挙げ、『十誦律』でも蘇提羅漿の主要成分として三果薬(呵梨勒・阿摩勒・鞁醯勒[har=cd=ab33=cd=ab29taka・a=cd=ab29malaka・vibh=cd=ab33=cd=ab29taka])を挙げ、『四分律』では二つの漬麦汁「油漬麦汁と頗尼漬麦汁」が、三種薬として三つの果薬(薑、椒、畢抜)が挙げられ、さらに『根本説一切有部毘奈耶薬事』では鹽と醋が挙げられている。
 『南伝大蔵経』を含めていえば、黄疸(Pa=cd=ab29li.pan・d・uroga)の処方には牛の尿を混ぜた呵利勒(har=cd=ab33=cd=ab29taka、hskt.ha=cd=ab33=cd=ab29tak=cd=ab33=cd=ab29、柯子)、つまり、呵梨勒、鞁醯勒(vibh=cd=ab33=cd=ab29taka、hskt.v(b)ibha=cd=ab29taka、川練)、阿摩勒(a=cd=ab29malaka、a=cd=ab29skt.a=cd=ab29malak=cd=ab33=cd=ab29、餘甘子)の三種のミロバラン(myrobalan)一つである呵利勒を牛の尿と混ぜた汁を飲む(pa=cd=ab29yetm)ことを挙げている。
○九 熱病について
『摩訶僧祇律』巻第十七
「明單提九十二事法之六」(大正二二 三六二A)
若比丘熱病。醫言。此病應服酥。得乞酥不得。往不信家索。何以故。索時譏比丘。但貪美
味故索酥。譏嫌比丘長短者。不得往索。當到信心優婆塞家索。得時當自籌量。
(若し比丘、熱病ならんに、医言はく、「此病は応に酥を服すべきなり」と。(爾の時、)酥を乞ふを得るも、不信家に往いて索むるを得ざれ。何を以ての故に、索むる時比丘を譏るらく、「但、美味を貪らんとて故に酥を索む」と。(中略)応に信心の優婆塞家に到りて索むべく、得ん時は当に自ら籌量すべし。)
 『摩訶僧祇律』では熱病に酥を処方し、『十誦律』では池物の蓮根、蓮子、菱茨、鶏頭子などを処方し、『四分律』でも藕根を処方し、『根本説一切有部毘奈耶薬事』でも蓮根の液汁を処方しており、『摩訶僧祇律』以外は蓮根や藕根などの池物が処方されている。
『南伝大蔵経』を含めていえば、熱病(ka=cd=ab29yad・a=cd=ab29ha=cd=ab29dha)の処方に、蓮藕(蓮の芽、bhisa)と、蓮根(mula=cd=ab29ika=cd=ab29)の治療法が挙げられている。
○十 痔について
『摩訶僧祇律』巻第三十二(大正二二 四八八B)
「明雜跋渠法之十」
佛言比丘。汝云何用刀治愛處。從今已後。不聽用刀治愛處。愛處者。離穀道邊各四指。若有癰=cd=61e0=cd=21f9聽嚼小麥鷄屎塗上使熟。當令同和上阿闍梨=cd=63e4破。若餘處有癰=cd=61e0=cd=21f9等諸病。須刀治者聽用。用刀治愛處者。偸蘭罪。是名刀治
(時に比丘に痔病の(者)ありて医に語げて言はく、「長寿、能く我が為に刀治するや不や」。(中略)仏、比丘に言はく、「汝、云何は刀を瘍つて愛処(行欲所、秘所)を治せんとせしや、今より已後、刀を以て愛処を治することを聴さず」と。愛処とは、穀道(大便道即ち後道。秘部の周囲二指の間に刀を禁ずる。)の辺を離るること各四指なり。もし癰=cd=61e0・=cd=21f9あらんに、小麦を噛みたるにて上に塗りて熟せしむるを聴す。当に同和上・阿闍梨をして摘み破らしむべし。若し余処に癰=cd=61e0・=cd=21f9等の諸病ありて、刀を須いて治せんには用ふるを聴すも、刀を用ひて愛処を治せんには偸蘭罪なり。)
 『摩訶僧祇律』では痔病には、癰=cd=61e0・=cd=21f9等などの諸病では手術を許すが、刀を須刀で大便道の手術は禁じている。『十誦律』ではやはり肛門の手術を禁じている。『四分律』は三毛処を剃ることも、酥油の灌腸も禁じている。『根本説一切有部毘奈耶薬事』では痔の治療に呪と、薬の二種を挙げている。
 『南伝大蔵経』を含めていえば、痔(bhagandala)の処方として、刀の切開(satthakamma)を許したが、その傷口が大蜥蜴(godh!mukha)のようであったので、世尊は隠れた密処の皮膚は柔軟であるために、刀の傷は治りにくいという理由で反対した。また切開手術の代わりに、六人の比丘たちには潅腸(vatthikamma)を許した。ただし密処の周囲指二本分の幅は、刀法も、潅腸も禁じている。
(3)治療の実際と釈尊の受容について
 さきの非人病について、『摩訶僧祇律』では医師が許した「人血を飲むことも、乃至、人髄等の全て」の服用を仏は禁止している事例を挙げることができるが、このことは人肉以外の血肉が服用されている。実際に『十誦律』では周囲の人に見えない屏処という条件付だが血肉の服用を許し、『四分律』ではインドで聖なるものとして扱われる牛の血肉の服用すら許している記述がある。
 これは初期の仏教教団内では、非人病に罹った僧侶への処方として、僧侶に「生の血肉の服用」の治療法を行っているということは、一応仏陀の所見を伺うものの、仏陀は古代インドの伝承医術に見られる治療法をほぼそのまま許している。おおよそ、その時代の医療を認めている。
 また痔の記述では、『摩訶僧祇律』をはじめ、痔病は癰=cd=61e0・=cd=21f9等などの諸病では手術を許すが、刀を須刀で大便道の手術は禁じている。
 このような仏教文献に見られる痔の治療法は、そのほとんどが古典医学書の中に散見できる。しかし、痔の手術は集団生活をする上では不都合な処方であり、秘所を他者に見せることを含めて、手術の予後に長く注意しなければならなため、強く戒められていたことがわかる。
 釈尊は医師の指示に従いながらも、その当時の医療のほとんどを受け入れている。しかし、教団の性格上、非人病、現代でいえば精神病的な症状で錯乱した僧侶には生の肉や血液を用いたが、その場合は人肉などだけは禁止され、また痔の手術は予後のこともあるが、場所が場所だけに(秘所でもあり急所でもあるという意味で)禁じられている。
 何がいいたいかといえば、その基準が単に宗教的な思想信条ではなく、実際に僧侶としてその医療が相応しいか相応しくないか、ということが医療の採用に大きく関わっているということである。
(4)耆婆の治療と教団のあり方について
 律蔵群にみえる医療の具体的なあり方はこれらばかりではなく、釈尊の主治医であったといわれる耆婆の治療法も挙げることができる。そこには病人を出家させてはならないなど、とても興味深い記述が散見できる。これからその記述を挙げよう。
◇『摩訶僧祇律』巻第二十四
「明雜誦跋渠法之二」(大正二二 四二〇B〜四二〇C。)
爾時有病人。至耆域醫所作是言。耆域與我治病。當雇五百兩金兩張細=cd=63e3。答言。不能。我唯治二種人病。一者佛比丘僧。二王王後宮夫人。病人即向難陀優波難陀房。到已難陀問言。長壽四大調適不。答言。病不調適。我往詣耆域所。以五百兩金兩張細=cd=63e3。雇治病而不肯治言。我唯治二種人病。佛比丘僧王王後宮夫人。難陀言。汝用棄五百兩金兩張=cd=63e3。爲汝但捨二種事。一者捨髪。二捨俗衣。病人言。阿闍梨。欲令我出家耶。答言然。即度出家受具足已。晨起著入聚落衣。到耆域所。作是言。童子。我有共行弟子。病與我治之。答言。可爾。正當持藥往。即持藥。往見已。便識問言。尊者已出家耶。答言爾。讚言善哉。今當爲治。即與藥療治。治已以兩張細=cd=63e3施與。作是言。尊者。於佛法中淨修梵行。受取已即罷道。脱去袈裟著兩張細=cd=63e3。巷中作如是罵言。耆域醫師衆多人子。我雇五百兩金兩張細=cd=63e3。而不肯治。見我出家便與我治反更得=cd=63e3。耆域聞已。心懷悵恨。往世尊所。頭面禮足却住一面。白佛言。世尊。此人蒙我得活反見罵辱。世尊。我是優婆塞。増長佛法故。唯願世尊。從今日後勿令諸比丘度病人出家。爾時世尊爲耆域童子。随順説法。示教利喜。禮足而退。爾時世尊往衆多比丘所。敷尼師壇坐已。具以上事爲諸比丘説佛言。從今日後病人不應與出家。病者。癬疥黄爛。癩病癰瘧痔病不禁。黄病瘧病。謦嗽消盡。癲狂熱病風腫水腫腹腫。乃至服藥未得平復。不應與出家若瘧病者。若一日二日三日四日中間不發時得與出家。若病人不應與出家。若已出家者。不應驅出。若度出家受具足者。越比尼罪。
(要約すれば:ある病人は耆域に、五百両金と両張の綿布を代償として払うので治療してほしいと懇願した。耆域は、私は仏・比丘僧と、王と王の後宮夫人の二種の病人を治療するだけであると断る。すると病人は、難陀・優波難陀の房へとおもむき、耆域にことわられたことを伝えた。すると難陀は治療の条件として、五百両金と両張の綿布の代償などはいらないが、髪を捨て、俗服を捨てて出家しなさいという。
 翌朝、病人は出家となり耆域のところで治療を受け薬が与えられた。そして、治療が終わると、耆域は両張の絨毯を施与し、「尊者、仏法の中で梵行を浄修したまえ」といった。すると病人はそれを受け取ると、出家をやめ、袈裟を脱ぎ捨て両張の綿布を着て、巷中で「耆域医師は、私が五百両金と両張の綿布を代償として払うといっても治療をせず、私が出家したのを見てから治療し、さらに絨毯を施与された」とののしった。
 これを聞いた耆域はとても残念に思い。世尊に「その病人は私をだまして治療を受け、かえって私を辱めました。私は優婆塞ですから、仏法をひろめるために治療をしております。ですから、今後は諸比丘をして病人を教化して出家させることはやめていただきたい」と申し上げた。
 その申し出によって、世尊は「今後は病人を出家させてはならない」といい、その病について、癬疥・黄爛・癩病・癰=cd=61e0・痔病・不禁・瘧病・謦嗽消盡・癲狂・熱病・風腫・腹腫など十二の名前を挙げ、薬を服していても病気が平復していない者には、出家させてはならないという。
 もし瘧病者ならば、三、四日の間に発作が起きなければ出家を与えても良い。また、病人は出家させてはならないが、既に出家している者をあえて追放はしない。しかし、治療が目的で出家させ具足戒を授けた場合は、越毘尼罪であるという。)
 この記述は『根本説一切有部毘奈耶薬事』には記述がないが、また『摩訶僧祇律』では十二種類、『十誦律』と『四分律』と『南伝大蔵経』では五種類、『五分律』では七種類と、病気の種類と数に異同はあるものの、内容的には耆婆が釈尊の主治医であったこと、また王族のお抱え医師であったことがうかがえる。
 とくに『十誦律』で耆婆は、=cd=62bb沙王と仏比丘僧の二種の病人を治療するといい、その理由について、=cd=62bb沙王を治療するのは衣食のためであり、仏比丘僧を治療するのは仏教を信じているからであり、自ら清浄になりたいからであると述べている。
 ここで印象的なことは、私たちの一般的な感覚からみれば、仏教教団では一般の民衆に対する医療・癒しを実践していたように思いがちであるが、実際には耆婆の医療は王族と教団内の僧侶に限定していたようである。それはその時代、多くの病人が治療してもらうために出家し具足戒を授け、耆婆の医療を受けて治ってしまうと、出家を捨てて還俗した者が多くいたことを物語っている。
 そのため、病人へと出家具足戒を授けたものには越毘尼罪、これは五衆罪の一で突吉羅[dukrta](懺悔すれば減罪する軽い罪ではあるが、懺悔しなければ悪趣へと堕ちる諸過であるといい、またこの罪は善い行いを障礙するもの)の罪に相当する戒法を設けて、教団の統制を図ったものといえる。
 ところで、このように病人の出家を禁止するような記述を、それは仏教の病人に対する差別であると考える人たちもいる。たとえば、『摩訶僧祇律』では十二種類、『十誦律』と『四分律』と『南伝大蔵経』では五種類、『五分律』では七種類の病名が挙げられ、実際に病人の出家が禁止されている。
 しかし、そらは被病者への差別のように見えるが、さきに挙げた理由でもわかるように、仏教教団の目的は病気の治療を目的としているわけではなく、出家具足戒をたもつ目的は、生死を越えた涅槃の楽を得て清浄になることにある事実をしっかりと認識しなければならない。この一点を見誤ると、それは差別のように見えてしまうからである。
4 仏教教団の治療法の受容について
 さらに、このような仏教教団の医療を受容する過程をみてゆくと、釈尊の生命(いのち)に対する考え方が明らかになってくる。教団内で比丘、比丘尼として遍歴・遊行する中で、経験的に積み重ねられた厖大な医学的な知識がストックされて行くに連れ、種々の問題が浮かびあがってくる。僧侶が医師のように治療することを禁じているのである。『摩訶僧祇律』の記述を挙げよう。
◇『摩訶僧祇律』巻第三十八
「明一百四十一波夜提法之二」(大正二二 五三一A)
佛住拘=cd=61eb彌。爾時闡陀母比丘尼善知治病。持根藥葉藥果藥。入王家大臣家居士家。治諸母人胎病眼病。吐下熏咽灌鼻用針刀。然後持此諸藥塗之。由治病故大得供養。諸比丘尼呵言。此非出家法此是醫師耳。諸比丘尼語大愛道。大愛道以是因縁往白世尊。佛言。喚是比丘尼来。来已問言。汝實爾不。答言實爾。佛言。此是惡事。從今日後。不聽作醫師活命。佛告大愛道瞿曇彌。依止拘=cd=61bf彌比丘尼皆悉令集。乃至已聞者當重聞。若比丘尼作醫師活命波夜提。比丘尼者如上説。醫者持根藥葉藥果藥治病。復有醫咒毒咒蛇乃至咒火咒星宿日月。以此活命如闡陀母者波夜提。波夜提者如上説。比丘尼不得作醫師活命。若有病者得教語治法。比丘作醫師活命者越毘尼罪。是故世尊説佛住拘=cd=61eb彌。爾時世尊制戒不得作醫師活命。有人呼闡陀母治病。比丘尼言。世尊制戒不聽。復言。若不聽者授我醫方。即授與俗人外道醫方。諸比丘尼言。但誦醫方此非出家法。諸比丘尼語大愛道。大愛道即以是事具白世尊。佛言。呼比丘尼来。来已問言。汝實爾不。答言實爾。佛言。從今日後。不聽授俗人外道醫方。佛告大愛道瞿曇彌。依止拘=cd=61eb彌比丘尼皆悉令集。乃至已聞者當重聞。若比丘尼授俗人外道醫方者波夜提。比丘尼者如上説。俗人者在家人。外道者出家外道。授醫方者咒蛇咒毒乃至咒火咒星宿日月波夜提波夜提者如上説。比丘尼不得授俗人外道醫方。不得教語。
(要約すれば:仏、拘=cd=61bf彌に住しているとき、爾時に闡陀母比丘尼は善く治病を知っており、根薬・葉薬・果薬を持して王家・大臣家・居士家に入り、諸の母人の胎病・眼病・吐下を治し、咽を熏じ、鼻を灌ぎ、針刀を用い、然して後に此の諸薬を持して之に塗り、病を治するに由りての故に大いに供養を得た・・・(中略)・・・仏言わく「此は是れ悪事なり、今日より後、医師と作りて活命するを赦さず。)
 これは闡陀母比丘尼が医師のようによく病気を治し、王家・大臣家・居士家から莫大な供養を受けていることに対して、釈尊は比丘尼が無闇に病気を治す(活命)ことを禁じている記述である。とくに「若し比丘尼、医師と作りて活命せんに波夜提なり」と、「比丘、医師と作りて活命せんには越毘尼罪なり」といい、出家者が医師のような医療行為を行った場合に、比丘尼は波夜提(波逸提、pa=cd=ab29yattika)の罪、比丘は越毘尼罪に相当するという。これらは共に軽い罪で懺悔すれば減罪するが、懺悔しなければ悪趣へと堕ちる諸過であり、またこの罪は善い行いを障礙するものだという。
 ここでは、まず出家者の目的は自らが生死の輪廻を越え、自ら実践したその教えを世間へと伝え広めることにあり、医師のように活命することを目的とした治療法は、出家の法ではないという。また若しそこに病人があるならば、その治療方法を指導することは罪にならないという。
 このように釈尊が仏教教団の医療として相応しいあり方を模索しながら、受容していることがわかる。そして、それらが律蔵群に見られる医学的な知識であり、この成文化された医学的知識が後の古典医学書のモデルとなったばかりではなく、仏教僧院のあり方や、医学の制度化に著しい役割を果たしたといえる。
◆エピローグ
 これまで仏教教団における医療のあり方を律蔵群の事例を拾い上げながら眺めてきた。そこにみえるインドの自然環境は現在のインドとほとんど変わらないように思える。私事になるが、この一〇年ほど毎年インドへと巡礼に出かけている。とくに五月六月真夏の乾期に出かけると、外気は四〇度を超える酷暑に出くわす。さらに七月八月の雨期の到来と共に暑さはしのぎ易くなるが、湿度が高くなり蚊やネズミなどが媒介する伝染病ばかりではなく、食中りなどによる吐き下しには細心の注意がいる時期である。
 [仏教教団における医療のはじまり]
 その当時、インドの仏教教団がどのような形で医療を求めたかといえば、丁度、乾期の猛暑から雨期へと、梵行乞食する比丘たちは体力をすり減らし、秋時になって風病(秋時病)になったからである。
 古典医学書によれば、真夏の酷暑、それに続く雨期の寒さによって、秋季になると空が雲におおわれ、地は水によって潤はされ、消化の火が阻害されて消化不良を起こすようになるという。雨季の寒さに慣れていた体が、秋季になって急に太陽光線によって暖められると、蓄積していたピッタ(胆汁素・火大)によって、たいてい不調をきたしピッタ性の疾病となる。
 そのため釈尊はその時代のインド医学の知識に従い、薬効食の規定を律藏の中に取り入れ、発病した梵行乞食の比丘たちの治療やその予防を積極的に行ったのである。これが仏教教団における医療のはじまりである。
 [四大に支えられた病因論について]
 そして、その治療に対する病因論はといえば、『摩訶僧祇律』に「病には四大に相応しそれぞれに百一の病があり、全体で四百四病がある。風病は油・脂、熱病は酥、水病は蜜、雑病は油・脂、酥、蜜などの三種薬を用いる」とあったように、地大・水大・火大・風大の四大の理論であった。このように漢訳文献にみられる四大の理論によるに病因論は、現代の目で見ればまことに未熟に感ずるが、それはいま再評価されているアーユル・ヴェーダ医学のトリ・ドーシャ(三大の理論)と同様の病因論である。
 釈尊はその時代の病因論である四大の理論を駆使して病気というもの、身体のあり方、そのフィジカルな生命(いのち)を理解していたことが分かる。その時代の医学的な知識によって理解していたのである。
 [仏教教団の治療法について]
 さらに仏教教団では、この四大の理論による病因論を前提にしながら、次のような医療が具体的に行われていた。「薬効食としての食事のコントロール」が行われている。『摩訶僧祇律』に「風病は油・脂、熱病は酥、水病は蜜、雑病は油・脂、酥、蜜などの三種薬を用いる」とあった通りである。
 「五種類の基本薬」として、教団内ではこれを「七日薬」と称して僧侶が携帯することを許している。五種類の基本薬とは熟酥・生酥・油・蜂蜜・糖蜜の五つである。さらにこの五種類の基本薬に加えて、「七種類の追加薬」が追加される。僧侶の病気によって薬効食が新たに追加されたのである。追加される薬効食のリストは、脂肪・根薬・煎薬(渋薬)・葉薬・果実・樹脂薬・塩の七種類である。
 しかし、これらは薬効食とはいっても、その効能は病気の治療目的というよりは病気の予防目的(未病の治療)という程度のものである。そこで実際に病気になった僧たちには、実際の治療が行われている。律蔵群には十種類の治療が行われている。皮膚病・非人病・眼病・頭痛・風病・足のひび割れと履き物・蛇に咬まれた傷・風病(黄疸・熱病・痔の十種類である。
 [治療の実際と釈尊の受容について]
 ところで、このような実際の治療にあたって、釈尊は医師が指示した医療を何でも無条件には受け入れていない。「非人病」については、『摩訶僧祇律』では、医師が許した「人血を飲むことも、乃至、人髄等の全て」の服用を禁止しているが、人肉以外の動物の血肉の服用は許している。『十誦律』では周囲の人に見えない屏処という条件付だが血肉の服用を許し、『四分律』ではインドで聖なるものとして扱われる牛の血肉の服用すら許しているからである。これはその時代の医療をおおよそ認めている事例である。また「痔」では、癰=cd=61e0・=cd=21f9等などの諸病では刀による切開手術を許しているが、大便道(肛門)への刀による切開手術を固く禁じている。それは大便道などの愛処が他見に及ぶことだけではなく、そこが急所であるために、切開することで致命的な結果を招く恐れがあるからである。
愛処とは穀道と呼ばれ、大便道(後道)と秘部の周囲二指の間の部分であり、切開すれば死にいたる可能性の大きい急所である。これはその時代の医療を禁じている事例である。
 これらの事例から分かることは、その時代の医療に対して、釈尊が受け入れたり、禁じたりしているその基準が宗教的な思想信条ではなく、実際に僧侶としてその医療を受け入れることが相応しいか相応しくないかということ、そこに出家の目的に合致するか否かの基準がみえている。
 [耆婆の治療と教団のあり方について]
 それを物語る耆婆の治療と教団のあり方に関わる事例がある。この記述は『根本説一切有部毘奈耶薬事』には記述がないが、また『摩訶僧祇律』では十二種類、『十誦律』と『四分律』と『南伝大蔵経』では五種類、『五分律』では七種類と、病気の種類や数などに若干の異同はあるものの、内容的には耆婆が王族のお抱え医師であり、また信仰者として釈尊の主治医であったばかりではなく、僧たちの医師でもあった。つまり、耆婆の医療は王族と仏教教団内の僧侶に限定されていた。
 そのために、一般の民衆が耆婆の医療を受けるには、出家し具足戒をたもち僧侶となる道がある。実際に病気になった者が耆婆の医療を受けるために出家し、こんどは病気が治ってしまうと出家を捨てて還俗した者が多くいたのである。そこで釈尊は教団の統制を図るために、病人へと出家具足戒を授けたものに越毘尼罪を設けている。
 これは耆婆の医療の社会性についての事例であるが、これによって分かることは、釈尊が世間的に病気を治すことで保たれる生命(いのち)を重要視しているのであれば、耆婆に「汝の慈悲心によって医療を施しなさい」と言ったはずである。しかし、実際には病人に具足戒を授けた僧侶に越毘尼罪まで設けて病人の出家を禁じている。つまり、釈尊は世間的な生命(いのち)を超えたところで、生命(いのち)を捉えていることである。
 [仏教教団の治療法の受容について]
 それを端的にあらわす事例がある。『摩訶僧祇律』によれば、闡陀母という比丘尼が医師のようによく病気を治し、王家・大臣家・居士家から莫大な供養を受けていたという。ところが、釈尊はこの比丘尼の活躍を労うどころか「僧侶が病気を治すこと(活命)」を禁じているのである。とくに「医師のように病気を治す(不得作醫師活命)」と、比丘尼の場合は波夜提、比丘の場合は越毘尼罪という戒法まで設けて禁止しているのである。その理由について、釈尊は「医学(医方)とは外道の教えであって、出家の法ではない」からだという。
 さらに出家の法とは大愛道のことであり、大愛道とは釈尊がこれまで語ってき仏教のことだという。仏教教団の目的は、僧侶自らが生死の輪廻を越え、自ら実践したその教えを世間へと伝え広めることにあり、医師のように活命することではないというのである。
 [結語として]
 これまでの事例の積みあげで明らかになってきたことは、私たちが日常の中で生命(いのち)と呼んでいる生命は、病気を治すことで保たれる生命(いのち)であるのに対して、釈尊は大愛道によって生死を超えたところにある生命(いのち)の獲得を目指しているということである。
 そして、こう気づいてみると、仏教教団が採用した医療の目的は、単に活命によって生きながらえるためではなく、僧たちが大愛道を歩み出家の大願を成就するためにフィジカルな生命(いのち)、四大によって構成されている心身(いのち)を養うためであると分かる。
※この小論は第五十九回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿を整理したものである。
 

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