現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
立正安国論と現代の布教について
立正安国論と現代の布教について
(立正大学仏教学部教授) 庵 谷 行 亨
第一講 立正安国論の基礎
最初にお題目を三回お唱えさせていただきます。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経。ありがとうございます。
事務局の皆様にご尽力をいただき、本日の運びとなりました。お招きをいただきましてありがとうございます。
お手元の資料にございますように、今日は、二つの項目についてお話を申し上げることになっています。最初の項目は、「基礎」と書いてありますように、既に皆様方、勉学を積まれてお分かりのことと思いますけれども、確認というような意味を込めて、約七〇分間お話をさせていただきたいと考えております。後半につきましては、現代の社会の問題について、皆様方が布教の現場でお役に立てていただくことができればよいと思うような事柄を、申し上げることができれば幸いと考えております。そのような内容で、本日、お付き合いをいただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
それでは、最初に、お手元の資料をめくっていただきまして、一頁をお開きください。これからお話申し上げますことは、まさしく、『立正安国論』を理解する上での基礎的な事項でございます。かつて大学で学ばれたこと、或いは本で色々勉強なさったことなどを振り返っていただきまして、ご確認いただきたいと思います。
1、述作
『立正安国論』の執筆は、正嘉元年(一二五七)に着手されました。正嘉の大地震という自然災害を契機としております。そのことに関しましては、日蓮聖人が、『安国論奥書』をはじめ多くの遺文に触れておられます。その時の日蓮聖人のお歳が三十六歳。日蓮聖人のお歳は数えですので、今の私共の満の数え方とは違います。文応元年(一二六〇)に脱稿され、七月十六日、前執権最明寺入道時頼に上進なさいました。日蓮聖人のお歳は三十九歳でございます。
その時、時頼は既に入道を致しておりました。最明寺というお寺を建てて、そちらに移ったのです。入道になるということは、生前に功徳を積み死後の安らぎを期するということでございます。女性の場合は何々尼、男性の場合は何々入道と称しました。日蓮聖人の檀越の中にも、多く何々尼、何々入道と称されている方がおられます。時頼は、既に建長八年(一二五六)十一月二十三日に執権職を長時に譲っています。この文応元年は、時頼は三十四歳でございまして、入寂する三年前のことになります。入道してから四年目を迎えておりました。
どうして前執権に上進されたのかと申しますと、時の最高権力者に提出されたのでございます。
その当時、日本の国には二つの権威がございました。一つは天皇、一つは鎌倉幕府です。天皇の権威は幕府によって圧倒されていて、既に地に落ちた状態になっていて、伝統的な権威に支えられていました。それに対して幕府は武力による現実的な支配という権威を持っていました。
当時の権力移譲というのは、得宗から得宗へという形になります。今で言えば、嫡男から嫡男へ。日本でも最近、天皇制のことが話題になりましたけれども、天皇も、男性から男性へと男性系列で継承しています。それと同じように、嫡男から嫡男へと継承します。そうしますと北条氏の長男ですね、その人が最高権力者という形になります。時頼は入道でしたけれども、得宗でございますので、北条家の最高権力者であったわけです。入道になっても、実質的な権力は時頼が握っていました。その時の執権長時というのは、おじさんにあたるのでございます。時頼の息子であります時宗は、その時十歳でございましたので、時宗が成長するまでの仮の執権ということです。
そういう風な状況を日蓮聖人は、鎌倉にお住まいでございましたので、よく熟知しておられたと考えられるのでございます。そういう経緯があって、前執権に上進されました。
2、述作地
相模国鎌倉松葉谷の草庵と考えられています。現在、その草庵がどこであったのかについては確定はされていません。幾つかの日蓮宗寺院が、その草庵である、或いは草庵跡であるとしておられまして、確定ではございませんけれども、だいたいその周辺が松葉谷と言われた場所であったであろうと考えられています。ヤツとは谷ということですから、山と山に囲まれた谷間(たにま)、谷間(たにあい)、そういうところにおられた。今言われている場所であるとすれば、比較的、鎌倉の中心地に近い所におられたという風に思います。今の草庵跡と言われる所は鶴岡八幡宮からでも歩いても行けるような距離ですので、比較的、市街地の山間のあたりにおられたという風に考えられます。
3、真蹟
日蓮聖人のご真蹟については、お手元に宗門発行のテキストをお持ちでございましたら、そちらの口絵写真をご覧下さい。冒頭の部分が出ております。『立正安国論』のご真蹟の本文でございます。
①中山法華経寺蔵
中山法華経寺所蔵、国宝の『立正安国論』でございます。文永六年(一二六九)十二月八日に書写されています。これは成道会の日でございますので、何か意味があったのかも知れません。八木式部大夫胤家という方に授与されておりまして、全三十六紙でございます。
ただし、第二十四紙は、慶長六年(一六〇一)十一月六日に、京都本法寺第十世功徳院日通上人が、身延本を書写して補足を致しました。どうしてこのことが分かるのかというと、第二十四紙の一番最後の所に、このことを功徳院日通上人が記載しているからでございます。その記載がないと分からないくらい、日通上人は日蓮聖人に似た字を書いています。恐らく、宗門史上、最も日蓮聖人に似た字を書いたのは、この本法寺の日通上人だろうと思われます。
中山法華経寺本は、第二十四紙が欠落していたということでございますが、慶長六年よりも以前に既に欠落していたということが、近年、分かったわけです。それは、日蓮宗新聞でも大きく取り上げられましたけれども、『立正安国論』の裏面に文字が書かれていた。これは、『立正安国論』の写真を丁寧に見ていくと、裏面に何か書かれていたのではないかと思われる墨の跡を確認することができます。昭和の大修理がなされた時、中山法華経寺のご聖教全てが修理調査されました。その時に、裏打ちを全部外したのですね。そうしたら、後ろに文字の跡がでてまいりました。現在、赤外線カメラというような色々な技術がありますために、消されていても、元の姿を見ることができるのですね。墨抜きがされていたのですけれども、それを復元することができて、そこに、『本朝文粋』という文章が書かれていたということが分かりました。その『本朝文粋』は、『立正安国論』の一番最後の紙、末紙から書き始めて、『立正安国論』の第三紙にまで文章が及んでいました。そのうち、第二十四紙は飛んでいた。『本朝文粋』の文章は繋がっているのですが、紙は飛んでいたわけですね。ですから、この『本朝文粋』が書き込まれた段階ではもう既に、第二十四紙はなかったということが分かるのでございます。『本朝文粋』がいつ書かれたかは分かりませんけれども、校正した弘安九年十月八日の日付が入っています。弘安九年は西暦で一二八六年でございまして、日蓮聖人滅後四年目に当たっています。ということは、日蓮聖人滅後四年目には既に、中山法華経寺本の『立正安国論』は、一部分が欠落していたということになります。中尾堯先生の推測によれば、日蓮聖人の『立正安国論』が重視されなかったという風な時期があったのではないか、ということですけれども、それはちょっと分かりません。いずれにしても、聖人滅後まもなく、現在私達が中山本として拝している『立正安国論』は、一紙が流出してしまっていたということが分かるのでございます。それで、功徳院日通上人が身延本を書写して補足した。というのはですね、その次、②にございますけれども、身延山久遠寺にも同じものがあったわけです。それで、その身延本で補足することができたのでございます。
②身延山久遠寺曾存
身延山久遠寺に、かつて全二十紙完の形でありました。これは、間違いないと思われます。功徳院日通上人の書写の事実でも分かるわけです。明治八年(一八七五)に焼失致しました。身延山内の寺院から火が出て、身延山全てではございませんけれども焼失した。
私共がかつて聞いた話では、日蓮聖人のご聖教が納めてあった御蔵が燃えたと。歴代の法主のお書きになったものが入ってた御蔵は残った。それが今の身延文庫ですね。そういうように聞いていたのですが、つい最近聞いた話では、そうではなくて、その時どういうわけか、書院かどこかに展示をしてたのだと。次の日もするので、鍵をかけてあった。そこに火が回って、鍵を持ってくることができなかったというのです。それで持ち出せなかった。そういう風な話を最近聞きました。どちらが事実かは分かりません。長い年月が経過しております。
身延山が明治八年に焼失する以前の写真があるという話もつい最近聞きました。それは現在、オランダのライデン大学にあるそうです。ですから、焼失する前の身延山の全景が、その写真によって分かるのですね。外国の人が撮った写真らしいのですが、そういう写真技術があるのだったら、日蓮聖人のご真蹟を撮っておいてもらいたかったと思うのですけれども、残念ながら、日蓮聖人のお書きになったものは写真には撮っていなかったのですね。
ご真蹟の焼失は、日蓮宗初代管長新居日薩上人が身延山の住職をなさっていた時代のことでございます。火災の折には、新居日薩上人は東京のほうにおられたという風に聞いております。
身延山本の状況については、身延山久遠寺第二十一世寂照院日乾上人の書写本によって知ることができます。日乾上人は京都の本満寺からおいでになった方でございます。身延の日蓮聖人の『立正安国論』を詳細に調査なさったのでございます。そして、書写もなさったわけですね。京都の本満寺所蔵です。それを見ると、中山法華経寺本とまったく同じである、ということです。そこで身延山久遠寺にあったものは、中山法華経寺本とまったく同じものであったということが判明するのでございます。紙の数は違います。
身延山久遠寺にあったのは、かつて日蓮聖人が文応元年七月十六日に前執権に上進した、その正本である、というのが中尾堯先生のお考えです。その理由は、本来公式書類というものは、幕府に提出したら、その事案が終わった後には本人に戻されるものだ、というのです。それで身延本はその正本だという風におっしゃっています。それを確定することはできません。
③京都本圀寺蔵
京都本圀寺に所蔵されております『立正安国論』は無記年でございまして、諸説がございます。『昭和定本』は、建治・弘安の交の頃の筆であろうかという推定。弘安元年(一二七八)かという説は、『御真蹟対照録』でございます。
『御真蹟対照録』は立正安国会が発行しているものでございます。御真蹟の研究につきましては、立正安国会は早くから取り組んでおられ、大きな成果を挙げておられます。『御真蹟対照録』は、『昭和定本』と違う意見を提示している場合が多々あります。
日蓮聖人のご文章は、年月日が入っているものと、それから、月日は入っているけれど年が入っていないものがたくさんあります。その当時の慣習として、手紙類には年号を入れないということだそうですが、それで日蓮聖人も原則的にはお入れになっていません。著書類、或いは重要と考えられるもの、そういうものは年号が入っています。ところが、殆どのお手紙には年号が入っていません。本圀寺に所蔵されているものは年号が入っていない。そこで、筆蹟で鑑定する、或いは内容によって、何年かを類推するということになります。どうしてもそこに、人間の判断が入りますために、系年というのですが、いつ書かれたかということについては諸説が生じることになります。系年に諸説が生じますと、いつなさったのですか、いつおっしゃったのですか、ということに異同が生じることになります。系年を明らかにするというのは非常に大切なことなのですけれど、なかなか確定し得ないということがあります。だから『昭和定本』でも、かつての遺文集でそう言っているとか、或いは、過去の目録類でそう言っている、というようなことが多いのです。筆蹟の残ってない日蓮聖人遺文もあるわけですから、どうしても、類推で系年していることが多いということがあります。日蓮聖人のご遺文の系年については、更に検討しなければならないことがたくさんあると思われます。
本圀寺所蔵のものは全二十四紙で、沙門日蓮勘、とあります。本文中には、中山法華経寺本にない真言批判が加えられております。日蓮聖人の真言批判ということはだいたい伊豆流罪以降くらいから始まってきますので、中山本よりも後に書かれたものだということが考えられるわけですね。それで古来より、中山本のことを略本と言い、本圀寺本のことを広本と言っています。これは、内容が追加になっているからという意味でございます。
④真間切損本
真間切損本は切り刻まれたもので、これは、現在ございません。散逸です。そういうものが真間山にあったということが、『高祖年譜』によって知られるわけです。
⑤断片一四紙
これは、文永初期の筆か、という推定ですけれども、全国十箇所に散在しています。そこに所在が書いてありますが、九箇所の名前があがっていて、あと一つは他と書いてあります。これは個人所蔵です。
ということで、日蓮聖人の御真蹟、そこに挙げてあるだけでも五種類ございます。ということは、日蓮聖人は何回も繰り返して『立正安国論』をお書きになったということ、途中で文章を追加なさっているということ、が分かります。それから、署名のあるものと署名のないものがある。署名も、記載のしかたが違う。これについては後で写本が出てまいります。そうすると、何回も何回も繰り返し『立正安国論』をお書きになったということが推測されるのでございます。このような事例は、他の遺文にはありません。ですから、如何に日蓮聖人が『立正安国論』のことを重視なさっていたか、ということがわかるのでございます。
4、述作の直接的動機
直接的な動機としては、社会的な背景として、正嘉の大地震、正嘉元年(一二五七)八月二十三日でございます。このことは、諸遺文に繰り返しお書きになっています。天変地異ですね。それによって、社会の不安が起きます。先ほど『安国論奥書』とご紹介しましたが、その他に、『安国論御勘由来』等にお書きになっています。正嘉の大地震を見て『立正安国論』を書いたのだ、ということをお書きになっていますから、間違いのないことだと思われます。
5、対告者
先ほど、上進の相手として、前執権最明寺入道時頼についてお話しました。対告者は時頼というように考えられています。というのは、主人と客の問答になっています。客が質問し、主人が答える、という形になっていますので、主人が日蓮聖人、客が北条時頼という解釈が一般的です。ただ内容的にですね、そのことを設定しているのは日蓮聖人ですから、客の文章と主人の文章のどちらに比重があるか、というと、当然、主人の言葉に比重があることは間違いないのですが、客のほうには全然日蓮聖人の思想が入っていないのかというと、そうでもない。客の文章にも日蓮聖人の思想が当然示されている、ということになります。ただ、その比重の問題が出てくる。そういう風なことで、理解する上では、ただ単に、主人、客という風に、客観的な分析だけではとても済まない、ということも当然ございます。日本国の主権者とありますように、先ほど申しましたように、時頼は時の最高権力者であったわけです。
6、勘文
そこに、私的勘文と書いてあります。勘文というのは、正式な文書です。勘文というのは、言葉を換えますと、上申書とか具申書とか言われるものでございまして、意見を提示するものです。これは公的なものです。朝廷とか、幕府とか、権威のある所から諮問を受けます。これについてはどうですか、どうしたらよいでしょうか、というような諮問がある。例えば、災害がたくさん起こる、その原因は何だと思いますか、答えを出してくださいとか、或いは、改元をしたいと思いますけど、意見はどうでしょうかとか、改元の年号はどのような文字が適当と思いますか、とかですね。
今でも、例えば総理大臣が、総理大臣の諮問機関というような形で委員会を設けて、国会議員やその道の知識の方、学識経験の人達、そういう人達を委員として招集して、審議をしてもらって、その答えを出してもらう。それに基づいて、総理大臣始め内閣のほうで原案を作り、国会で審議する。そういう風なことがあります。
勘文は、正式な具申書、答申書です。色々な正式な国家の機関、そういう部署で対応していたわけです。特に、こういう災害に関することは、陰陽師に諮問がいっていたようです、過去の例はですね。それが、勘文ということです。
日蓮聖人の場合は、誰からも諮問されていないのですから、正式の勘文ではございません。それで日蓮聖人は、私の勘文、という風におっしゃったわけです。
内容的には、こういう理由で災害が起きているのです、こうすれば災害が止みますとおっしゃっているのですが、単なる意見提示ではありません。『立正安国論』は、諫暁の書です。普通の勘文は諫暁の書ではありません。意見提示ですから、問われたことに対して、説明し答える。ところが日蓮聖人の場合には、問われていないのに説明する。その説明が、単なる説明ではなくて、政道を改めなさい、要するに、実乗の一善に帰せよ、正しい信仰に立脚していないからこういう災いが起きるのですよ、というので、政治に対して諫言をなさったのですね。諫というのは、諫める、という意味です。強く言えば、叱りつけるとか、忠告するという意味です。ですから、単なる勘文ではなくて、諫暁の書です。この後にも資料に出てまいりますが、日蓮聖人滅後、門下の人達は、次々と諫暁書を時の幕府に提出致しました。これを申状と言っているのですけれども、その申状には、『立正安国論』を添えて、副申というのですが、添えて提出しました。その内容は諫暁です。ですから、単なる意見提示ではありません。
7、文体
四六駢儷体と言われている、問答体の文章でございます。四六というのは、四字もしくは六字の言葉で対句にして、文章を作っていきます。駢儷体は、華美、修辞の文体です。修辞文。華美というのは、美しいという意味です。文章を飾るのでございます。この文体は、正式漢文でございまして、中国ではもう漢の時代くらいから始まって、唐の時代にかけて盛んに用いられたと言われています。日本では、平安時代には盛んに用いられていた文体です。ですから、正式な漢文体です。しかも、古い文体です。日蓮聖人は、鎌倉も終わりの頃にお出になっているのですが、平安時代に流行した文体をお使いになった。これも色々考えなければならないことが多いのですけれども。お読みになったらわかりますように、非常に難しい漢字が使ってあります。こういう事例は、他の遺文にはありません。対句で文章をお書きになる例は多いのです。ところが、四六駢儷体でお書きになるということは他にはありません。そうすると、『立正安国論』の草案の段階で、そういう知識を持った人が介在していたということが推測されます。これは大学三郎という方であろうと言われているのです。そういう漢文学者の介在が推測されるのでございます。
8、構成
構成の具体的な内容は、宗門発行のテキストを参照して下さい。九の問と十の答です。第十番は客が、領解の言葉を述べるのです。
この大まかな構成を見ていただきましたら、問題点がわかります。問題点というのは、客が、世の中に災害が起き悲惨な状態になっていると指摘し、それに対して主人が答えていきます。当初は、客の憂いと主人の憂いとが一致して、世の中、大変ですね、こんな状況では困りますね、ということで意気投合しているわけです。ところが、どうしてこうなったのですかという客の質問、それに対して主人が、経典にこうありますからこうですよ、と答えていきます。問答が重なっていきますと、主人と客の見解に相違が生じます。客のほうは、仏教はこんなに栄えている、寺院が甍を連ねてる、著名な僧侶もいる、だから、仏教は栄えているという立場です。それに対して主人のほうは、形ばかり仏教が盛んになっているように見えるけれども、それは正しい仏教の興隆とは言えない、正法が立っていなければ、正しい教えが立っていなければ、国土が乱れていく、即ち、国土を守護する善神がこの世からいなくなり、悪鬼がやってきて国土に災難を起こす、だから正しい教えが行われていなければ、仏教が興隆しているとは言えないのだ、という立場です。どうして正しい教えが行われていないと言えるのだ、という客の更なる質問です。それに対して、具体的な事例を挙げていったのが、法然上人のお書きになった『選択本念仏集』。この法然上人の法門は、捨閉閣抛の四字をもって、聖道門を投げ捨てさせた。聖道門というのは、浄土門以外の教えですから、法華経等がそこに入ります。聖道門中最も深い教えである法華経は、聖道門中の聖道門です。よって法華経は、浄土門から否定されます。そうすると、法華正法の立場に立つ主人は、正法が捨てられているからこういう災害が起こるのであると言う。そこまで話が具体的になってくると、客は憤りを持つようになります。怒るんですね。どうして貴方はそのように個人を誹謗するのだ、と言って批判をします。そういう風に話が詰まっていくと、主人と客は対立関係に入っていきます。客は色を変えて、もう私は帰ると言いだし、決裂するところまでいきます。それを主人がなだめながら話をしていく。このお経にこうある、このお経にこうある、と言って経文を挙げてそれを証明する。客もそれを理解するようになってきて、最終的には、貴方の言う通りだと。貴方の言う通りだということは、理解できただけではなくて、貴方のおっしゃるように自分は正法を受けて実践し、そして正法を批判する人達をも是正する、正すように努めます、という風に言うのが、一番最後の十番ですね。
このように、『立正安国論』の内容は、客が納得したという設定になっています。客が最明寺入道であれば、時頼が理解を示したと、そういう内容で終わっているわけです。
そういう風にはいかなくて、『立正安国論』は幕府から無視されたという形になったのです。そして日蓮聖人は暴徒に襲われ、難に遭っていくという生涯が始まる。ですから、『立正安国論』で言っている理想と、日蓮聖人の生涯に起きた現実とは、正反対な状況になってしまったのでございます。
9、破邪の対象
主に法然浄土教。主にと書いていますのは、本文中は法然浄土教、ところが、時頼は禅に帰依しておりましたので、こういう内容の文章を最明寺入道に上進するということは、それは禅に対する批判を含んでいるということです。最明寺入道が禅に帰依しているということは、諸遺文中にもしばしば出てまいります。このことは周知の事実だったのです。括弧にしてありますのは、真言宗、律宗。これは即ち、後の日蓮聖人の諸宗批判という視点に立てば、法然上人の浄土教に対する批判、禅に対する批判というのは、他の諸宗、真言・律に対する批判へもつながっていく、ということで、他の宗派の批判を内包していたと思われます。実乗の一善に帰せということは、それ以外は駄目ですよということです。実乗の一善とは法華一乗のことです。『立正安国論』の前に『守護国家論』が書かれています。『守護国家論』で明らかに法華正法の視点を論理的に説明なさっていますから、そのことを踏まえれば、他の諸宗に対する批判というものを内包していただろう、という風に思われるわけです。
10、題号
立正安国とは、「立」は立てる、「正」は正法、正しい教えを立てる、正法を立てて国家人民の安穏安寧を実現する。安国は安らかな国です。国を安んじる、ということです。それを分析すれば、立正は正法を立てる。正法とは『立正安国論』では、実乗の一善です。安国は、国家の安穏安寧、即ち衆生の安泰。仏国土とは、『立正安国論』には、三界は皆仏国、十方は悉く宝土なり、とあります。その後に、身は安全にして心はこれ禅定ならん、とあります。国土は安らかで、その国土に住んでいる人々も救われていく、そういう内容です。
11、大要
災難の原因を究明し謗法を退治して実乗の一善に帰入せしめること、立正安国を実現することが、『立正安国論』の大要です。
12、上進後の経緯
『立正安国論』は、黙殺されたという形になります。幕府からの正式な反応はありません。その年の八月二十七日、日蓮聖人のお住まいであった松葉谷の草庵が襲撃されます。今でも、鎌倉へ行けば分かることですが、谷(やつ)は段々奥に行けば狭まっていくわけですから、殺害が目的であれば、取り囲むとか、退路に人を配置してから攻めるとか、そういう形をとれば、日蓮聖人は逃げられなかったと思うのですが、どういうわけか分かりませんけれども、日蓮聖人は難を逃れることができた。草庵は焼失してしまいます。それで日蓮聖人は、檀越の富木氏のところに難を逃れました。相模国から下総国まで逃げられた。富木氏は、常時、自分の地元の房州と相模国とを往き来していたと思うのですけれども、そういうこともあって、日蓮聖人を匿うことができたと思われます。
13、関連遺文
『立正安国論』について触れている遺文が、そこに挙げてあります。先ほど申しましたように、日蓮聖人は繰り返し『立正安国論』をお書きになったと同時に、『立正安国論』のことを他の自分の文章の中にお挙げになっていることもとても多いのです。『立正安国論』の書名をお書きになっている遺文は約三十あるといわれています。『立正安国論』のことを「勘文」と称している文が約八、それから、『立正安国論』の名前はなくても、『立正安国論』を指している文章のある遺文が約十八です。ですから、五十六遺文くらいに『立正安国論』のことが触れられているということが知られています。それほど『立正安国論』は、日蓮聖人が生涯にわたって心に掛けておられたということでございまして、これは他の遺文にはない特色でございます。
14、遺文上の位置
最重要遺文。三大部・五大部のうちの一つ。三大部・五大部という表現は、そもそもは天台宗から来たものと思われます。天台三大部・天台五大部ですね。三大部・五大部を、何を挙げるかについては、抽出の基準によって違いますので、時代によって先師によって違います。しかし今では、だいたい、三大部といえば『立正安国論』・『開目抄』・『観心本尊抄』、これは成立順ですが、を挙げるのが通例になっています。五大部はそれに、『撰時抄』と『報恩抄』を加えるという形になります。ですから、三大部・五大部の一つとして、常に『立正安国論』は名前が挙げられます。教義的な内容ということを考えれば、日蓮聖人自身の法門をお示しになっているのは、極端に言えば、実乗の一善に帰せよ、の一言です。その論理的説明はありません。教義体系をお示しになる、要するに教学書という視点で分析すれば、『立正安国論』は入りません。むしろ、その前にお書きになった『守護国家論』のほうが、よほど論理的に法華経信仰の必要性をお示しになっています。どうして『立正安国論』が入るかというと、やはり、『立正安国論』は特殊な書物です。他にない特殊な書物だからということです。ですから、古来より、日蓮聖人の教えは、『立正安国論』に始まり『立正安国論』に終わる、という人が多いのです。日本の社会、世界の中に法華信仰を携えて立ち上がっていかれた、これが『立正安国論』ということになりますので、日蓮聖人の出世作という風な意味がありますし、立正安国の目標は、聖人の生涯を貫いたものであったということもありますので、どうしても、『立正安国論』は重要遺文として切り離すことができません。他の遺文は、殆どが門下の方に向けてお書きになったものです。弟子とか、檀越に向けてお書きになったのです。ところがこの『立正安国論』は、門下に向けたものではありませんで、対外的な書物だということが特色です。ですから、日蓮聖人の教えそのものを対外的に示していく、要するに、日蓮聖人が体得された法華信仰を外に向かって提示していかれる、そういう性格を帯びているわけです。先ほど、諫暁の書だと申し上げたのは、そのことでございます。
15、述作の思想的基盤
①法然浄土教批判
これは、『守護国家論』との関連があります。『守護国家論』には、明らかに法然浄土教、法然上人の名前を挙げて批判をなさっています。法然批判のために『守護国家論』を書いたとお書きになっていますから、『守護国家論』は『立正安国論』と全く主旨は一つです。むしろ、実乗の一善の教学的な背景は『守護国家論』にあると言えるわけです。その背景は何かというと、爾前無得道、諸宗無得道です。法華経以前の教えでは得道できない、成仏できない、諸宗では成仏できないという、法華正法という視点を論理的にお示しになっているのが『守護国家論』です。その背景があって『立正安国論』の、実乗の一善、という言葉が発せられるという風に思います。
②災害続出の原因究明と退治の方法
諸遺文の記述に、そのことが縷々書かれています。それから、『吾妻鏡』の記述です。『吾妻鏡』の中にある災害続出の記述と、日蓮聖人の表記とは一致するわけです。まさしく日蓮聖人が、歴史的な事件の中に身を置いておられ、それを契機として『立正安国論』を執筆していかれたということが分かります。「落書」の記述というのは、洛中、京都での、落書というのは落書きです。その当時、文字を書けるのはかなりの知識教養のある人だと思うのですが、その人達の落書き、要するに、今で言えばインターネットで、自分の身分を明かさないで意見提示をするということでしょうか。それで、世の中を批判したり、風刺したりしたわけですね。朝廷を批判したり、世の中を諷刺したり、というようなことをしました。それが、落書と言われるものです。その中にも、そういう災害のこと、人々が苦しんでいる、ということが書かれています。そのこともまた、日蓮聖人の記述と一致するわけです。これらのものは、現在、『群書類聚』という資料集に収録されていますので、活字で見ることができます。
災害続出の原因を日蓮聖人は、善神捨国とご覧になっていました。善神が国を捨てていなくなるから、その国を守護する善神がいないから、それで悪鬼がやってきて災いを起こすのだという考えです。この善神捨国は、日蓮聖人が『立正安国論』にお引きになっている、大日経や仁王経や金光明経に説かれております。善神捨国は、日蓮聖人の生涯にわたってのお考えでございます。法華正法が立てば善神がやってくる。善神がやってくれば、悪鬼がいなくなる。善神がその国を守護するから、その国は安国になる、という考え方です。ですから、正法が立つか立たないかということは、その国が栄えるか、或いは災いが起こるか、という別れ道になってくるわけです。どうして正法が立たなければいけないのかというと、それは、善神は正法の法味を食するからです。善神は、正法の法味のある所にしか生きられない。正法の法味を食するから、正法のある所にしか善神はいられない。だから、正法がなくなれば捨国してしまう。捨国すれば、悪鬼がやって来る。悪鬼がやってくれば災難が起こる、こういう図式です。ですから、正法が立たない限りは、災難を除き国を安らかにすることはできません。立正であれば安国は必然的にもたらされる、ということになります。
③仏教と政治
仏法と王法。すなわち、仏の権威と世俗の権威です。仏教的権威と国家的権力。こういうもののせめぎ合いです。それは、いつの時代でもあります。国を治める者、統治者には、国を治める大義がありますので、自分の意思や権威に違背する者は、鎮圧、押さえたいと思います。そこで、宗教的精神の自由との間に葛藤が生じます。治国者、国を治める天皇、或いは日蓮聖人の時代の鎌倉幕府、国を治める幕府、国家権力が強ければ強いほど、宗教はその下に従属することになります。ところが、国家的な力が弱ければ、自由に発言することができます。そういうせめぎ合いが、常になされます。
日蓮聖人の時代は、鎌倉を中心とした地域を幕府は制圧をしていても、日本全土を制圧していたわけではありません。ですから、宗教的な自由の精神というものがある程度あって、それで、鎌倉の祖師方は、活動された。ある程度、精神的な自由が確保されていた。日蓮聖人も『撰時抄』に、身は従えられても心は従えられない、とおっしゃっています。それは典型的なお言葉で、国家権力の膝元、例えば鎌倉にいるということは、鎌倉幕府によって色々な制約を受ける、身は従えられる、しかし心は従えられない。宗教的な自由、宗教的な信念というものは変えない。そこがぶつかります。それで日蓮聖人は逮捕される、島流しに遭う、という事になります。
これは、いつの時代でもそうです。日本で最も国家権力が強く全国を統治をしたのが、恐らく徳川時代ですね、江戸幕府ですね。それは武力をもって、宗教に対して規制をしました。その有名なのが、日蓮宗では不受不施問題です。不受不施派がキリスト教の禁圧と同じように、禁断の宗教となったわけです。完全な武力の制裁をもってしましたので、長い間、仏教教団というのは、幕府の下に従属する形になってきたわけです。ですから、大名とうまく手を結んだ教団なり、手を結んだ寺院なり、手を結んだ人なりは、大きな寺領を与えられ、安堵されて栄える。栄えたことになるかどうかは問題がありますけれども、力が大きくなる、大勢の信徒・檀家を獲得する、ということになってきたわけですね。そういう歴史が、徳川時代にありました。
平安時代は朝廷が日本国を統治していました。鎮護国家の宗教ですから、宗教は朝廷に従属していました。伝教大師の宗教も、朝廷の許可を得なければならなかった。自分の意志でお寺を建てることもできませんし、都に入ることもできません。最澄は、唐に渡りましたけれども、唐から日本に帰ってきて都に入るにも、許可を得なければ入れない。唐から何を持ち帰ってきたかも、朝廷に報告書を提出する。その報告書がありますので、最澄が日本に何をもたらしたかが分かるのですけれども、そういう状況です。完全に朝廷に支配されていた。それが鎌倉時代になると、朝廷から幕府へ権限が移っていく。そのはざまで鎌倉仏教というものが生まれていった。それが、仏教と政治の問題です。
これは、今でも変わらない。今でも変わらないというのは、今、私達は、法治国家、民主主義社会、主権在民、そういう社会の中にいます。国家というのは、国民の集合体です。みんなの合意のもとに動いている。憲法とか法律とか、裁判所の判例だとか、そういうものが公共の利益や公共の福祉に資するものということになりますから、それに従って生活します。そういう規範と、宗教的な信念、宗教的な発言、宗教的自由、そういうものとどう関連するか、という問題がそこに起きてくることになります。そこで、大きな軋轢が生じると、例えば、カルト教団とかですね、警察のほうから要注意、ということになったり、或いは逮捕とかということになったりするわけです。国家の権威権力と、宗教的権威権力のせめぎあいは常にある、ということが考えられるのでございます。日蓮聖人の場合には、仏法為本、仏の教えを中心に考えます。即ち、仏の教えに真実なるものがある、とお考えになっていた。
16、写本
主な写本でございます。全てではありません。
①日興写本
これは現在、玉沢妙法華寺にございまして、「天台沙門日蓮勘之」とあります。中山本と中身は全く同じなのですけれども、署名があるのです。中山本は署名がないのです。そうすると、中山本と同じ『立正安国論』で署名のあったものがあったのではないか、ということが想像されるのです。
②日興写本
同じ日興上人の写本ですが、富士宮の大石寺に所蔵されています。これは拝見することはできません。
③日向写本
身延山久遠寺蔵。この日向上人の写本は、京都の本圀寺所蔵のものと同系列と考えられています。同系列とは何かというと、内容上のことです。記されている内容のことです。それが、本圀寺本と同じ。日向上人の写本は、本圀寺本の系統です。身延山久遠寺にいつこの日向写本が入ったかは分かりませんが、久遠寺には二種類の『立正安国論』があったということになります。ただ問題は、本圀寺本の『立正安国論』については、御真蹟と従来言われているのですけれども、疑義を示す人もいます、最近。かつてはですね、前のほうは日蓮聖人だけれども後ろのほうは別の人ではないかという意見もありました。最近は、日蓮聖人のものとしては問題があるのではないかという人が出てきました。日向上人の写本があるとすれば、本圀寺本系の『立正安国論』も日蓮聖人の時代にあったのではないか、ということが推測できます。ただ、この写本が、本当に日向上人の筆かどうかということを確認しないと、これは何とも言えない。要するに、これを日向上人の写本であると断定しているわけではありませんので、要検討、という形になります。日向上人の写本として間違いないのならば、本圀寺本系の『立正安国論』も、日蓮聖人の在世中にあったことは間違いないということになります。
④伝日朗写本
「伝」と書いてありますように、日朗上人のものではないと思われます。鎌倉の安国論寺の所蔵です。
⑤日高写本
これは中山法華経寺にございますが、中山本と全く同じ。中山法華経寺の写本を日高上人が写したものです。
⑥日法写本
岡宮光長寺蔵。これは拝見することはできません。
⑦日祐写本
これは千葉県の多古の正覚寺の所蔵。
⑧三位日進写本
これは鎌倉の妙本寺の所蔵。
⑨日源写本
北山本門寺所蔵。
⑩日弁写本
これは多古の妙興寺の所蔵。千葉県です。「天台沙門日蓮勘之」とある。
⑪日通写本
これは中山本と全く同じです。日通上人は先ほど申しましたように、京都の本法寺の歴代です。中山本を写したのです。
⑫日乾写本
日乾上人は京都の本満寺から身延にお入りになりましたので、身延本をお写しになったのでございます。
⑬その他
今挙げたのは、日蓮聖人に近い時代から近世初頭にかけての有名な写本です。
17、目録
①日常『常修院本尊聖教事』
日蓮聖人滅後間もなく成立したものです。「並具書三通有之」とありまして、他の遺文と一緒に、『立正安国論』が格護されていたということが推測されるわけです。
②日祐『本尊聖教録』
日常の目録より少し後になります。「道生状一紙」とある。中山の『立正安国論』は、日高上人の代に寺に入るのです。道生から日高へと奉納されました。
同じ日祐上人の『本尊聖教録』に「大学三郎ノ筆」とありますから、大学三郎の写本があったのでありましょうか。「並再治本一帖」とあります、これは本圀寺本系統の写本のことでしょうか。再治本とは修正したものという意味ですから、本圀寺本の系統のものであろうかという説もあります。そうであれば、この時期、既に本圀寺本の系統のものがあったことが分かります。
③日乾『身延山久遠寺御霊宝記録』
「御正本二十紙、題号と合わせて四百一行、奥書に云く文応元年太歳庚申勘之」とある。身延山久遠寺の目録です。
日乾は、非常に緻密に記録をとっています。何紙ある、何行ある、どう書いてあるとか、非常に緻密に書いています。日乾は、日蓮聖人の御真蹟を厳密に調査確認しました。何故そうかというと、日乾は本満寺から晋んでいます。本満寺は京都です、身延山は関東ですね。関西の学僧たちは、関東の、特に日蓮聖人の御廟のある身延山のものを拝見したい、という風に普段から思っていたと思うのです。ようやく思いが叶って、それで克明に記録をとって、それを本満寺に持ち帰ったのです。ですから、それが現在に残ったということでございます。
それは、近世初頭の不受不施問題と密接に関わっています。身延山と池上本門寺が幕府によって対論させられる事件が起こる、身池対論です。身延山側というのは本満寺を中心とする関西学派、池上は不受不施を堅持する関東学派です。受不施派と不受不施派が、身池対論という形で幕府によって対決させられるという事件です。それで池上が負けとされて、池上の住職を始め、不受不施を唱えていた碑文谷法華寺とか小湊誕生寺とかですね、著名な本山の住職の罷免、島流しという事件が起きました。そういう流れに発展していく少し前に、日乾は身延に晋んでいますから、関西の人達が如何に勢い込んで身延の御宝物を調査し勉強したかが分かると思います。
④日亨『西土蔵寶物録』
日亨よる身延山久遠寺の宝物目録です。
⑤その他
その他の目録類に記録があります。
18、門下の諫暁活動
先ほど冒頭で触れましたが、門下の人達が、申状に『立正安国論』を添付して、幕府に上進したのです。知られている主な人達を挙げてありますけれども、その他、『立正治国論』という、『立正安国論』になぞらえて文書をお作りになったのが日親上人ですね、本法寺の日親上人。先師は代々、日蓮聖人の精神を継いで、申状、即ち、幕府に対する諫暁を企てたのでございます。そういうことを考えれば、如何に門下の方々も、『立正安国論』は単なる勘文ではなくて諫暁の書であるということを、強く受け止めていたかがわかるのでございます。
19、『立正安国論』の意義
①国家諫暁
法華経の社会の実現、国土の成仏、仏の諫勅、法華経の行者の使命。国家諫暁は、そもそもが法華経の社会を実現する、という目的でございます。それをしないということは仏様のおしかりを受ける。諫暁は仏様の教えを奉じて修行している者の使命として受け止めていかれました。
②日蓮聖人の歴史への登場
日本国の歴史と日蓮聖人。『立正安国論』の上進によって、幕府と関係を持つことになります。それは、日蓮聖人が歴史に登場するということです。それから、世界の歴史と日蓮聖人。これは他国侵逼難の予言ということで、他の国が侵略してくる、という他国との関連ですね。世界の歴史の中で日蓮聖人が発言をしていく、ということでございます。
③日蓮聖人の信仰の公表
実乗の一善。法華実教の提示。法華経こそが真実の教えであるということを提示された。これが実乗の一善、ということです。
④日蓮聖人の宗教的理想の標榜
宗教的理想とは、立正安国です。立正安国とは、一切の人々の救い、現世安穏・後生善処の実現です。現安後善です。
⑤日蓮聖人の宗教者としての自覚と使命
『立正安国論』の中には、一仏の子と生まれて、とお書きになっていますが、それは仏子ですね、仏の子。日蓮聖人の教学の中で位置付けて言えば、やがて、法華経の行者とか、本化の自覚とか、上行の自覚、ということになっていきます。
⑥日蓮聖人の宗教者としての課題
これは先ほど申したことと重複しておりますが、宗教と国家、仏法と王法、法華経と社会、そして、正法と邪法、破邪顕正、公場対決、諸宗派批判、呵責謗法などの問題です。そして、釈尊の御真意の顕証、釈尊の御意の実現、真実の救い、という問題です。
こういう、諸宗批判、呵責謗法ということは、涅槃経の法門に強く影響を受けておられます。その一つは、仏法中怨という考え方です。仏法の中の怨なり、という考え方ですね。仏様の真意、仏様の真実の教えを知っていながら、それを弘めないことは仏法の敵である、という涅槃経の教えです。これに拠っているわけです。
正しい教えを誹謗することは罪だ、ということは分かります。その罪の人に対して、それを指摘して戒めなければ、その人も同じ罪を犯すことになる。これは与同罪。仏法中怨は与同罪の指摘です。与同の罪であるとお考えになったのです。
与同罪は、今でいうと飲酒運転です。お酒飲んで運転する人が悪いのです。ところがその隣の助手席の人も、分かっていて認めたのだから与同罪ですね。お酒を飲ませたお店の主人も、客が車で来てお酒飲んでいる、そのまま運転して帰った、それを知っていたのであれば、それも責任である、どうして忠告しなかったのか、やめさせなかったのか。与同罪ですね。グループも同罪だということです。罰則としては強いです。
それを日蓮聖人は自覚なさった。だから、謗法者を見て、そのまま放置することは自分も責任を問われるということです。釈尊の真実を顕正しなければいけない、という責務を自らに科したわけです。
⑦他国侵逼難・自界叛逆難の予言
これは薬師経に説かれていることでございます。今なお起きていない二つの難がある。それが文永十一年の蒙古襲来、或いは文永九年の二月騒動で、他国・自界の両方の難が予言の通りになります。仏の未来記がそのまま現実のものとなった。だから日蓮聖人は『立正安国論』のことを、『種種御振舞御書』の中に、「仏の未来記にも劣らず」とお書きになっています。『立正安国論』は未来を予言したものだという認識があったということです。
⑧謗法止施
謗法者に対して布施を禁断する。これは『立正安国論』に、「能仁以後は布施を止める」とあります。能仁はお釈迦様です。釈迦以後は布施を止めるというのは、間接的な破邪です。何々しているから駄目だ、という方法と、そういう行為をできないように施を止める、間接的な対応、ということです。
⑨謗法招災
謗法によって災が起きる。これは、先ほどお話した善神捨国との関連です。金光明経・仁王経・大集経です。
⑩災難興起と地涌の出現
これは『立正安国論』には出てまいりません。佐渡流罪以降、日蓮聖人の御遺文に出てくるもので、天変地異が起こるということは、地涌が出てくる前兆である、という風に表現なさっています。
⑪正法弘通と値難
正しい教えを弘めると難に遭う。だから、難に遭うということは正しい教えを弘めていることの証だということです。
20、臨終時の講義
これは宗門で伝承されていることで、日朝上人の『元祖化導記』にあるのです。室町期から言われているわけですね。実際かどうか、厳密な資料で確定することはできませんけれども、そういう風に言われても不思議ではないと思うほど、日蓮聖人は生涯にわたって『立正安国論』のことを心にかけておられたのです。あり得ることかとも思います。
21、『立正安国論』の精神
①「立正安国」
これは、釈尊世界を実現する、破邪顕正ということです。それによって、衆生成仏、国土成仏を実現します。
②一念三千と立正安国
これは教学的になりますけれども、一念三千は依正不二です。一念三千の成仏とは、依正の成仏です。衆生成仏は正報の成仏です。正報とは、そこに住んでいる人々です。国土成仏は依報の成仏です。依報は、国土・環境です。人々と環境。これは今の言葉で言えば、人間と環境です。人間と環境が同時に成仏する。人間が成仏すれば環境も成仏する。こういうことでございます。
③題目受持と立正安国
題目は釈尊の真実である。或いは題目は釈尊の魂である。釈尊の因果である。釈尊の肝心の教えである。題目を受け持つということは、すなわち立正安国の実現ということです。お題目を唱えることと、立正安国を実現することは、一つのことです。その背景にあるのは一念三千だと思います。題目を唱えるということは、現実の社会における人々の心の救い、そして社会の平安の実現、それと同時にある。
ということは、ただ単に、観念的に、自分だけでお題目を唱えていても、それはお題目ではあるけれども、立正安国のお題目に結びついていかない、本当のお題目にはならないという風に考えられます。お題目を唱えるということは、自身の信心、他の人達に対する信心の勧誘、或いは下種結縁、そういうものにつながっていきますけれども、ただ個人的な、観念的なお題目であったら、それは自分なり、或いは自分の家族なりぐらいで止まってしまうかも知れない。社会そのものに対して影響を与えるお題目を唱えなければならない。立正安国ということにつなげていかないと、社会の平和を実現する、即ち日蓮聖人の本意に適った宗教、本意に適ったお題目にはならない、という風に考えられます。
④三大誓願と立正安国
日蓮聖人の三大誓願は、日蓮聖人自身が、人々を支えるとか、或いは導くとか、そういう風な意図をお示しになっているのですけれども、そのことができるのはお釈迦様の力です。それは、お釈迦様のお仕事を自らに課したということです。それが、釈尊の本願の継承です。釈尊の願いを自らの願いとした。これが日蓮聖人の末法の導師としての使命、主師親三徳ということでございます。そうすると、三大誓願とは、立正安国の誓願でもある、ということになります。
⑤法華経の行者と立正安国
法華経の行者は、立正安国を実現するための、釈尊から命を受けた責任者である、ということですね。
⑥三大秘法と立正安国
私たちが日蓮聖人からいただいている宗教は、お題目の宗教です。お題目の宗教というのは、具体的な行の姿は三大秘法です。題目を唱えるということは、本門の本尊を信じ本門の戒壇を実現していくことです。ですから、お題目を唱えるということは即ち三大秘法です。そして、お題目を唱えるということは立正安国です。三大秘法とは立正安国を実現する具体的な宗旨です。『立正安国論』では、実乗の一善とおっしゃっている。それは、日蓮聖人の教学上では一大秘法と表現され、結実し、更に三大秘法に開出する、開き出される。これが日蓮聖人の示されたお題目の宗教であり、三大秘法です。『立正安国論』で始まり、『立正安国論』で終わるというのは、まさしくそういうことだろう、という風に思います。
以上が、第一講のお話でございます。お題目を一唱して、休憩に入らせていただきます。南無妙法蓮華経。
第二講 立正安国論と現代の布教
お題目を一唱させていただきます。南無妙法蓮華経。
それでは次に、「『立正安国論』と現代の布教」というテーマで、第二講のお話をさせていただきます。お手元の資料をご覧になってください。お手元の資料の番号で、一、二は現代社会の現状です。価値観と諸問題について挙げています。三番以降からは、どのように考え対応していかなければいけないか、ということです。三番目はその対応の基本的な姿勢の類別です。四番目が宗教的な視点からの理念。そして五番目が教団の原点です。教団のあるべき姿です。六番が皆様が布教の現場で常に課題とされるでありましょう、他の宗教、或いは他の教団、他の思想との考え方の問題、即ち破邪顕正の問題です。七番が国家と宗教の問題。八番が災害と宗教の問題。九番が宗教と預言の問題です。そして十番がまとめでございます。
こういう風な流れでお話を進めさせていただきたいと思います。皆様方、これ以外にも当然、色々な課題をお持ちだと思いますけれども、私のほうで以上についてまとめましたので、それについてとりあえずお話させていただくということで、よろしくお願い致します。
それでは元に戻っていただきまして、「『立正安国論』と現代の布教」というレジュメの一頁でございます。まず、現代社会をどのように受け止めるか、ということについて、皆様方それぞれご意見があると思いますけれども、世の中で、よく言われていることはこのようなことでしょうか、ということを挙げています。
1、現代社会の価値観
現代社会は、資本主義社会、経済原理優先の社会、利益追求の社会、合理主義の社会、物質的価値・貨幣価値優先の社会です。ややもすると、ものの判断、価値基準を金銭で計る。要するに、これをすればいくら収入になります、こうすればいくらくださいますか、というような感じです。あらゆる価値を金銭で計る。そういう風なことが、近年、多くなった。
今私達が置かれているこの社会は、かなり以前から、グローバル化ということが言われました。国境のない時代、民族とか、その国だけで物事を考えていてはとても成り立たない。我々が普段生活を営んでいる中で、例えば車に乗ったり、自分が車を運転しなくても、車の恩恵に浴している。今の時期だったら、お歳暮が届くとか、その殆どが車で運ばれてきます。その車を走らせているガソリン、これはどこから来ているのかとか、或いは、我々が普段の生活で食べているもの、そういうものはどこから来ているのか、と考えると、衣食住、生活の基本のあらゆるものが世界的な流通の中にあるということが分かります。日本だけで単独で成りたっているものが、どのくらいあるでしょうか。お米ぐらいではないかと言われているのですけれども、一時期、外国のお米も入ってきました。他のものは殆ど海外から来ている、ということが多いのですね。農家で野菜や果物を作っている所があって、そこから供給している場合もありますけれど、世界的な規模の流通の中においては、より安く、より良い商品を、より早く手に入れるという構造になっていることを考えると、世界的な規模で動いているということが分かります。
海外で活躍してる方に聞いた話ですけれども、アジアの他の国で、市場で海老の頭を売っている。日本人が観光で行って、この国の人達は、この地域の人達は、皆さん海老の頭が好きなのですね、海老の頭はどこへ行っても売っていますね、という風に言ったそうです。ここの海老はみんな日本人が買っていって、日本人が食べている。中華料理とか、或いはカップラーメンとか、そういうものに入ってるのは、みんなアジアの国から行っている海老です。だから海老の頭しか地元には残ってない。そういう話をしていました。
そんな話を聞くとですね、まさしく私達の日常というのは、世界的な規模の流通の中にあるのだということがよく分かります。
グローバル化といわれてもう久しいのですが、特に、以前の内閣の時は規制緩和ということを盛んに言いました。あらゆるものを規制緩和し、民営化できるものは民営に。郵政の民営化ということが代表なのですけれども、あらゆるものが民営化していく。そうすると、そこに競争原理がはたらきます。利益を受ける者が負担をしなさい、受益者負担、という風になってきました。そして、力のある者、実力のある者、技術のある者には仕事が回ってきて、仕事が忙しくて、過労死するほどです。夜もなかなか家に帰れないとか、夜遅くならないと帰れない、というような人がいる一方で、仕事のない人が溢れている。企業も、より安く生産しなければ売れませんので、日本で作っていたら人件費が高くなりますから、二十年ほど前から盛んに海外に生産拠点が移りました。例えば皆様が着ておられる洋服とかですね、衣類、そういうものはものすごく値段が下がりました。昔では考えられない値段で、買えるようになりました。海外のものは以前は、安いけれども質が悪いとよく言っていたのですけれども、今は日本の技術者が行って生産する、或いは日本の技術を地元の人達が受け継いで生産する、ということになりましたので、品質も良くなった。そうすると、ますます仕事が日本でなくなりますから、一層、仕事のある人と仕事のない人の差が出ます。これが、格差社会と言われているものですね。
今、生き残れるのは、一つは資本を持っている人、それから、そのことに関する能力を持っている人、技術を持っている人、資格を持っている人、そして、精神的に強靱な人、肉体的に強い人、こういう条件の揃った人です。いくら資本や能力があっても、気が弱いと生き抜けませんし、或いは気が強くても、体力がないと生き抜けません。これからは、高給を取る人は労働時間の制約も止めましょうということが議論になっています。そうすると、がむしゃらに働いた人は利益がある、それに対応できない人は利益はありませんということになる。
そういう社会で、生活保護を受けている人が今ものすごく増えている。特に顕著なのは、二十代の若者で生活保護を受けている人が多くなってきている。今まで生活保護というのは、憲法では最低限の生活を保障する、ということですから、お父さんの働き手がいなくて困っていますとか、そういう風なご家庭が多かった。病気の方、高齢者の方、働きたくても働けない方が多かったのですが、今は、若者で生活保護を受けている人が多くなっている。仕事のある人はものすごい忙しくて、仕事のない人はほんとうに困っている、という社会になった。格差社会に今突入しています。
従来の日本というのは、世界で類を見ないほど平均的社会であったという風に言われています。平均的、中流意識ですね。うちは中流です、という意識で生きてきたのですね。
ところが欧米では、富める者は極端に富むのです。そして、貧しい者は極端に貧しい。その差が激しい社会、これは資本主義社会です。
そういう方向へ日本も突入しつつある、という現状になっています。それに対応できる人とできない人、そこに差が生まれる、そういう時代になりました。
こういう風なことがよいのかどうかということです。ここに至るまでの過程の中では、こういう社会、そういうことでなければ世界で生き残れないのだ、ということで走ってきたのです。今ここにきて、段々とそれに対する反省が生まれてきて、そういう、合理的な社会、こういうものをもう一回見直さなければいけないのではないかということが、最近、言われるようになってきました。
2、現代社会の諸問題
幾つかの項目を挙げたのですが、お互いに関連してることも沢山ありますし、皆様自身が直面されている問題もたくさんあるはずです。
まず、少子化ですね。これは大きな問題で、少子化ということは、子供が少ないのですが、今少ないということだけではなくて、未来に向かって、人口減が続くということです。少子化というのは、将来的人口減少のことを言ってるのです。将来に向かって、少子の世代が生きていくわけですから、将来的に人口減少です。
それと同時に、高齢化です。高齢になると活発な動きはできませんので、生産活動は減退します。高齢の方が増えてくると経費がかかります。言うところの、ケア、支援です。介護とか、福祉、それから医療です。生産はしないけども経費がかかるという人口が増えるということです。即ち、合理化ということから考えると、反対の方向に行くということです。そういう社会に日本は向かっています。
少子化は、言うまでもなく人口の減少ですから、人口が減少すれば、経済的なエネルギーが減退します、或いは停滞します、或いは下降していきます。人口が多ければ物が売れます、人が移動します、物も移動していきます、物流です。そういう風にして、社会は活性化が図られていきますけれども、人が少なくなったら、社会全体のエネルギーが減退していきます。これが、人口の減少ということです。日本経済というのは、戦後、右肩上がりで伸びてきたのですけれども、人口が減少するということは、生産についても商品についても流通にしても減ですから、段々下がっていくという、今まで日本が経験しなかった経済動向、そういうところに身を置くことになります。特に、村落などでは、顕著に人口が減少していくことになります。
次は核家族化。これはずっと以前からのことですけれども、少家族で暮らしています。親と別居をする。子供さんがたとえどこで生まれても、中学・高校を卒業すると、都会に就職する、或いは都会の大学に行く、そのまま都会で就職する。そしてそちらで結婚し、団地に住むとか、家族を持ちます、親と離れて暮らします。そうすると、その家の伝統は引き継がれません。家族の持っていた、その家の持っていた伝統が、そこで途絶えていくということになります。親と一緒に住まない、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住まないということは、高齢の人と一緒に住まない、即ち、老人の面倒を見ないということですね。「老」と一緒に生活しないということは、老はやがて「死」に向かいます、即ち、老死に触れない生活をする、ということです。人間は老いていくんだ、老いていったらこういう不自由なことがあるんだ、何回も同じことを聞くんだ、ご飯を食べててもご飯が落ちるんだとか、そういう風な現象、そういうことについて理解ができない。それから、段々と医療施設が充実してまいりますので、老病死が家庭から隔絶されていきます。即ち、病気になったら病院へ入院、高齢になったら高齢者施設へ。そこでやがて死を迎えていく、ということになりますから、老いとか、病気とか、死というものが、家庭から遠ざかってしまった、という状況にあります。人間というのは、元気な時もあれば、病気の時もあるし、若い時もあれば老いた時もあるし、生きている時もあれば死ぬ時もくる。人間とはそういう存在だという当たり前のことが、我々の日常から遠ざかってしまった。昔は、家庭で子供が生まれ、家庭でおじいちゃんおばあちゃんは死んでいったのです。ところが、家庭からそういう老病死というものがなくなっていくという時代になってしまったわけです。
次は、家族の崩壊です。競争社会になっていきますから、大人は仕事に夢中になります。子供が学校から帰って来ても親はいません。子供との心がつながらない。それで、家庭内暴力とか、そういう問題が起きてくることが往々にしてあります。親には親の気持ちがあります。収入があれば子供にも楽をさせてやれるとか、これを買ってやれるとか、そんな思いで暮らしているのです。それが、子供との触れ合いの時間を奪ってしまうこともあります。
私は、丹後という京都府の北部で生まれ育ちました。山陰の日本海側で、夏になると、京阪神から海水浴客が来ます。その時期だけ、海辺の人達は何をするかというと、民宿、それから駐車場です。それから、プレハブみたいなものを建ててカレーライスを売ったりします。現金収入になりますから夢中になるわけです。そうすると、子供に目が届きません。子供との触れ合い、子供との会話の時間は一切ありません。そういう子供達が、その時期、どこかへ行ってしまう。夏は日が長いですから、夜遅くまでどこかへ遊びに行ってしまう、ということで、子供が脱線してしまう、というようなことがあります。親は親で、今こそかせぐべき時だというので一所懸命なのですが、一所懸命になればなるほど、子供との擦れ違いが生じる。これは一つの事例ですけども、そういうことは往々にしてあり得ることです。
次が、一極集中です。都市部に人口が集中します。やがて東京へと集中していきます。皆様方のお住まいの所、どうですか。人口にしても、土地の値段とか、賃貸の値段はどうでしょうか。東京では、ここ二年ぐらいで約三割上がったと言われています。企業などが事務所を置く貸室、それから、マンション、そういうものがどんどん上がっていきます。それに比べて各地域は、反比例するようにどんどんと下がっているのです。東京へ東京へと集中しています。東京では、特区という名前で建物を建てています。私共の大学のあるあたり、品川区の大崎は再開発をやっています。今までは山手線の内側をやっていましたが、今は山手線の外側をやっています。即ち、私共の大学の方の側です。今、大学のすぐ側に建っているビルが三十数階です。三十数階というと、研究室の窓から空が半分見えません。ビルのために空が見えなくなってしまったのです。そういうような状況になっています。それが一極集中ということです。
そして、村落の崩壊です。村落からは若者が流出していきます。残ったのは高齢の人です。年が経過すればするほど、超高齢の人達が村で生活しています。私も、丹後のことで分かるのですが、今現実に起きているのは何かというと、まず山林の放置です。山に行く人がいないのです、みんな高齢化してしまい、山に行ける人がいない。すると、山の道がふさがれてしまいます。道がふさがれますから、ますます行けなくなってしまいます。私共の田舎は、熊、猿、兎、鹿、狸、そういうものが村まで来ています。もう日常になっています。兄が柿を送ってきましたけれども、その理由が、置いておくと熊が来るからとったんだというようなことを言っておりました。熊が柿の木に登って木の上に坐って、柿を食べるのです。熊が来ると危ないので柿をとったのだ、という話をしていました。山からいろいろな動物が降りてくる、山と里との境界がなくなったと言われているのすけれども、そういう風な状況です。山林を所有していても、もうそのうち世代が替わっていくから、どこか分からなくなる。今でも分かりません。山に杭を打っているわけではありませんし、杭を打っても年数が経てば腐ってしまいます。大雨で地形が変わってしまいます、崖崩れで変わってしまう。そうすると山に行くことがなくなってしまったので、山が分かりません。私共の田舎のお寺も山を所有しているのですが、奥のほうの山は、あるらしいとは聞いているのですけれど、もう分かりません。昔、松茸が採れた頃には行った所もありますけれども、寺山に行かなくなって何十年も経過しておりますので、殆ど分からない状態です。総代さんにお話して、一度確認してくださいと言ったのですけれど、そうですね、行かないといけませんね、と言って、とうとうその総代さんも高齢になってしまって、もう行く力がありません。
もう一つは、耕作の田畑です。農業をなさっているのは、若くて六十代です。七十代、八十代の人が中心です。その人達ができなくなったらどうするかというと、殆どが継承されません。息子さんが村におられても、殆ど勤めに出ています。二十年くらい前までは、たとえ勤めていても、土・日になったら田に出たのです。それで技術・知識が継承されたのです。ところが今の若い人達は、土・日は休みの日だからというので、お父さんが田圃に出ていても、息子さんは出ません。私共の田舎では、そういう状態になっています。だから、田を耕すという技術はもう継承されません。檀家さんに話を聞くと、もう限界だと言っています。自分ができなくなったらどうなるのだろうと心配しています。息子さんとか、次の世代がおられる家はまだよい方です。おられる家は恐らく半分もないかも知れません。殆どが家を出てしまっています。お寺の場合だと、檀家が極端に減少する、或いは檀家の力がものすごく衰退する、という状況に、現在なっています。
都市における連帯性の欠如。都市にはたくさんの人が集まるのですけれども、これは点の集合体です。面にはなっていません。点はいくらあっても個なのです。だから、隣の人が誰か分からない。引っ越ししようが何しようが、挨拶することはまずあり得ない、というのが東京の現状。これは孤立している状態でございますから、もし東京で地震があったらどうなりますか。隣に住んでる人が分からないのですから、お互いに助け合うなどといいうことは殆どできません。アパートとかマンションとかで、組合などがしっかりしていれば、組合で名簿を作って、顔写真入れて助け合うでしょうけれど、そういう世話人がいなかったら、みんなばらばらの状態です。いざ災害になって、隣に誰がいたのですか、何人いたのですかと消防の人に聞かれても、救急の人に聞かれても、さあ、と言う状態になります。
人心の孤立です。交流がないということです。それで、引きこもり、ということに。これは子供だけではなくて、大人もなります。私が二十代の頃ですけれども、東京にいた時に、ある方が、うちに来てくださいというのです。何だろうと思って行ったのです。そしたら、青年が家にいたのです。この子が会社へ行かないのです、と言うのです。今で言うところの、引きこもりです。要するに会社に適応できなくて、親が手を焼いてしまった。それで同じような世代の者が行けば少しは心を開くのではないかなと親は考えたのでしょうか。それで何回か行きました。そういうことがありました。だんだんとそれが酷くなっていく、ということです。
共同体社会の解体です。村落の共同体社会も解体、地方都市も解体していきます。共同でいろいろことをやるということが段々できなくなりました、典型的な例が、お祭りです。お祭りでも、人が集まる程度のことはできるのですが、御神輿を担ぐとか、山車を出すとかというようなことはできなくなりました。それは、力のある人がいなくなったからということです。参加者は高齢の人達ばかり、定年退職なさった人達とか、そういう方々ばかりということになります。だからだんだんと共同体の活動ができない。顕著に今現れているのは、農村部でも、葬儀の時に葬儀屋さんが介在している。今まで葬儀屋さんはいなかったのです、田舎には。村の人達が、仲間でやっていたのですから。葬具といって、必要なものだけを農協から買っていたのです。ところが今は農協そのものが葬儀センターを作って、葬儀に関与している。村の人達だけではできなくなって、葬儀屋さんが引き受ける、というような状況になっている。共同体が崩壊している、ということです。
伝統の形式化です。伝統が段々と形式化してしまうのです。伝統が形式化していくということは、仏教というのは伝統的なもの、行事、ということに負うことが多いので、そういうものが段々と軽視されることになります。
それで、精神性の軽視。物とかお金とか、そういうものに価値を見出していくと、精神的なものが段々軽視されて、物よりもお金。同情するなら金をくれ、というのがありました。どうしてそれが有名になったのかというと、まさしく時代を言い当てているからです。同情するというのは心、心よりも物をくれ、金をくれ、ということになります。それが当たり前というような、そういう価値観に移っています。
信仰意識の軽薄化です。信仰的な価値を認めないという社会になります。そうすると、おまじないだとか、おみくじとか、星占い。女性週刊誌にはいつも出ています。お遊び感覚です。神仏がお遊び感覚になって、指輪とかネックレスとか、そういうものにご神仏が用いられている。神仏が軽くなっている。
規模の縮小です。必要なものしか残らないという時代になっていきます。必要とされるものだけが残る、そうではないものは残らない、それが規模の縮小です。会社も農業も、そういう風にして淘汰されていきます。
ついこないだも、ある都市で、タクシーの運転手さんが、ここがシャッター通りです、と紹介してくれるのです。シャッター通りというのはご存知のように、シャッターが降りている所ということです。シャッターが軒並み降りているわけです。郊外の大型店に皆、買い物に行きますから。雨が降っても買い物できるアーケード街ですが、駐車場がありません。だから誰も買い物に来なくなって、それで店を閉めているのです。残っているのはコーヒー屋さんと何とかと話してくれるのですけれども、昼間でもこのような状態なのです、というような話でした。そういう状況が各地域で現出しています。時代の要請に合うものしか残らない、という時代になってきました。これは大学でもそうで、大学倒産の時代と言われているのです。あらゆるものが競争社会の中に身を置いていて、規模を縮小したりして、いかに時代の要請に合うようにするか、ということで切磋琢磨しているわけです。
会社などの統廃合は非常に多いです。特に金融機関などは、目まぐるしく統廃合されています。金融というのは資本ですから、経済の元締めです。経済の元締めでそういうことが行われている、そうするとあらゆるものがこの原理にもとづいて展開していくということになります。
物にしても、人にしても、お金にしても、あらゆるものが集中的に管理されていくという時代に入っています。便利なこともたくさんありますし、ちょっとしたことで大きな事件に発展することもあります。住民台帳の問題でも、反対する人もいるし賛成する人もいる。全ての人に番号を付ければ管理はしやすい。ただ、間違えると、人権侵害とか、大きな損害を与えるということも起こる可能性が出てくるわけです。
それから、スピード。これは変化です。加速度的に早くなっているのです。同じようにスピードが上がっているのではなく、だんだんとスピードが上がっていく。加速度的にスピードが上がります。スピードが上がると、それについていかなければいけない、フル稼働で働かなければいけない、ということになります。そうすると、あらゆることにそのしわ寄せがきます。若いうちは、一日二日寝ないで働くかもしれない。ところが、高齢になってきたらそうはいきません。スピードが速まれば速まるほど淘汰されていく、ということになります。
皆様方は会社を経営しているわけではないでしょうから、物をどう扱うかということはあまりお考えにならないかも知れないけれど、会社などで品物を扱っている人は、どう扱うかが決め手です。それが在庫管理ということです。在庫を持っていて売れなかったら、コストがかかります。在庫を持たずに商売できるのが一番よいわけです。
その次は競争です。同じようなことですけれど、我々が競争といって想像するのは入学試験ですれけれど、社会でもあらゆるところで競争があります。見てて大変だと思うのは営業の人達です。先日も、いつもお願いしてる自動車会社の方が来たのです。新車の見積もりを取らせてください、今月のノルマがとてもいかないのです、買わなくてよいから見積もりだけ取らせてください、という話です。営業の人は本当に大変だ、とつくづく思いました。
それから、リストラです。どうしても営利優先になります。営利を上げられなければ人件費を落とすということになります。先ほどアジアの諸国へ企業が移るという話をしましたけれども、それだけではないのです。それと同時に、アジアの国に限りませんけれども、賃金の安い国の人達が日本に入ってきて仕事をする、という風な状況になります。ある程度国は規制しているのですけれども、規制の網の外もあります。それは何かというと、途上国の若者達の研修のためとか、技術の習得のためと言って、研修員を受け入れます。研修員という名目で日本に入ってきて、研修を受けているとして低賃金で働いてもらう。それが日本の中小企業を支えているというのです。国の格差、そういうものが経済を支えている。そういうような状況です。
それから、自殺です。今、自殺の方が多くなって、いじめということで生徒児童でもありますし、大人でも追いつめられることがあります。
一時期、インターネットを通して、知り合いではない人達が、車の中で練炭を焚いて集団自殺をする、という話がありました。小さい会社にはどうしてもしわ寄せが来てしまうということがある。
そのような状況で、人々が追いつめられ、心の荒廃が進んでいる。現代社会の諸問題は、私が敢えて言うまでもなく、皆様方が日常に、痛いほど感じておられることだと思います。
3、価値観の問題への対応
社会の多くの価値観にどう対応するかということです。提案というよりこういうことがあるのではないでしょうかという紹介です。
一つは相対です。AとBが相い対する。AはBではないしBはAではない。要するに別々。相対は比較ということが生じます。この人はこうだけど私はこうだ、あそこはこうでここはこうだ、ということです。相対すると、自分を客観化することができます。しかし、相対した相手の価値を自分と共有することにはならない。自分を是正することにはなるかも知れません。比較です。
その次の対峙は、何かがあるとそれと対峙する。対峙というのは、正面切って向かい合うという意味です。相手を正面切って見据える。その両者が融合するということはあり得ません。要するに、問題に正面切って取り組まないといけない、と言っているのです。それによって、両者が何か向上するかも知れませんが、両者がお互いに和融するかどうかは分からない。
その次が包括。包括というのは、取り込むということです。取り込むとは、他を自の中に取り込むということです。取り込み方にも色々ありますから、他を認める場合もありますし、或いは、自の中に他を同化させるという方法もあります。同化させてしまえば、一つになってしまいます。
その次の開会とは抱き込むということです。抱き込んで、それぞれを位置付ける。開会というのは、仏教の専門用語です。開き会す、会融するということです。自分の中に抱き込むということは、自分の中に他を位置付けるということですから、これは他の自立は認めないのです。開会するということは自分が能の立場にあります。能開会です。他を自分の中に位置付けてしまうと、他のものの自立はもうないことになります。他のものは、私の中に於いてこういう意味があって存在しているという形になりますから、そのものの本当の自立にはならない。
一体とは一つと見るということです。二つのものを、一つと見るということです。ですからこれはまさしく同化です。AとBが一つのものだと捉える。
和融は、共生するとか協調するとか、ということです。それぞれを認めて手を結ぶということです。和融する部分が多いか少ないか、ということもあります。完全に和融できれば一体化できますけれども、できる所とできない所がでてきます。本質的な和融ができないと、いつかまた利害関係が異なってくれば分裂することになります。主義主張というものは、第三の対立者が出てくれば手を結ぶかも知れないけれど、それがなくなってしまうとまた分裂するということがありますので、常に揺れ動くことになります。
次は会通です。会通は、解釈する、論理的に理解するということです。AとBがどういう風な有り様をしてるかを解釈する。解釈することによって、その妥当性が理解できる、納得できる。会通は論理づけることですから、理念的になりやすい。解釈論になる。
4、社会における和融の理念
仏教の立場からいえば、俗諦開会とか世出不二ということです。真諦と俗諦を不二と見るということです。これは大乗仏教の基本的な姿勢です。真諦は仏法のこと、俗諦は世法のことです。これが一つだと見ることです。これは、法華経の中にも出てきます。「資生産業皆順正法」と法師功徳品に出てきます。資生産業は、世の中の生産活動、資本、経済活動。あらゆるものは正法に準じる。「皆順正法」と出てきます。それは、まさしく、仏法から世法を開会したものということになります。
世出不二も、世法と仏法を不二を見ることです。これらは大乗仏教の考え方で、全てのものは仏様の世界です、全ては仏様の子です、と言っていることと同じです。これは、仏教の立場から社会を受け止めていく理念です。
5、宗教教団の原点
社会と共に歩む宗教、地域に根付いた宗教、人々と共に歩む宗教、人々の心に響く宗教、そういうものでなければ、宗教教団の存在の価値が問われる。常に人々に寄り添う宗教、人々の心を支える宗教です。教団で言う教義は、その教団内で通用することです。その教団の説くところの教義が、あまねく人々を導く教えにならないと、教義が社会に定着することはできません。
言葉を換えれば、聖と俗です。聖と俗が常に一つとなって躍動していないと、教団のための教義、教団を支えるだけの教義にしかすぎない。それは教団という一グループのための教えです。その教団の教えが、人々を支えていく、人々のための教えでなければならない。これが聖と俗です。聖のみが一人歩きしていたら、人々の救いにつながらない、立正安国にならない。俗ばかりが一人歩きすると、その基本理念がどこかに行ってしまう。聖と俗は共になければならない、共に緊張関係を持って。教団を支える深い教えがなければ、教団は存立の意味を失います。その深い教えが、教団だけの教えであったのでは、教団内だけで生きているだけです。教団がそう言っているだけです。その教団が社会に生きるためには、その教義が如何に人々のものとなるか。要するに、悪くいえば俗化です。聖なるものの俗化。聖と俗の両方がなければ、人々を救うことはできないのです。
教団の志向するものと、人々が求めるものとの間には、恐らくズレが生じます。日蓮聖人の高邁な思想理念・宗教理念、そういうものと、人々が求めているものとの間にズレが生じます。人々は、如何に幸せになれるのか、如何にお金持ちになれるのか、如何に有名な学校に入れるのか、そういう欲望を持ちます。そういうことが、いわば俗です。そういうものの中にあって、「不染世間法如蓮華在水」です。如蓮華は聖なるもの、在水は泥水ですから欲望です。欲望の中にあって初めて蓮華という清らかな花が咲きます。という風に、聖なるものと俗なるものが一体化した世界、そういうものが開示されていかないと、なかなか、世の中に足をつけた宗教にならないのではないかと思うのです。
6、破邪顕正と現代の布教
破邪の意味は謗法禁断・諸宗批判。諸宗批判というのは、諸宗の位置付けを明確にすることです。諸宗の位置付けを、釈尊の教えの中に明確にすることです。破邪顕正とは、邪を破し正を顕すのですけれども、それは釈尊の真実を表すということです。宗学の用語でいえば、これを向上門と言っています。釈尊の真実に向かっている。
顕正の意味は、実乗之一善に帰せよ、法華正法、それを明らかにすることです。止施は、謗法の人達に対して布施を止める、これは間接的な破邪です。直接的破邪は、本人に対して何らかの行動を起こすこと。
そして、諸宗との調和や社会での調和を如何に行うか、これが、釈尊の真実を如何に生かすか、ということです。これが、宗学で言えば向下門です。
破邪顕正は、諸宗を正法の中において位置付けをしていく、釈尊の真実の中に位置付けをしていく、釈尊の真実を明確にしていくことですから、教相的な価値です。それに対して、釈尊の真実を捕まえれば、その釈尊の真実を如何に世の中に敷衍させていくか、これは向下門です。人々に向かう。この両方があって、教団の真実と人々の救いとが一体化していくのではないかと思います。
共生とは、信仰的な信念に立脚して共に生きることです。信仰的信念に立脚しなければ真実の共生にはならない。なぜかというと、理念のないものがいくら集まってもそれは共生にはならない。信念が違う、意見が違う、イデオロギーが違う、違っても、その人達が何故共に生きることができるかというと、それぞれがそれぞれという自己を確立してる、信仰信念が確立している、そういう人達がお互いに手を取って生きていく、これが共生。聖と俗という言葉で置き換えて言えば、聖なる面では手は繋げません、恐らく。信仰信条では手は繋げません。信仰信条とは向上門です。宗旨においては手は繋げないと思います。ところが、向下門においては、お互いに手を繋ぎあうことは可能だと思うのです。それが、ほんとうの共生です。理念のない人達の集まりではなくて、理念を持った人達が初めて共生をなし得るのではないかと思うのです。それで、お互いの信仰というものを確認しあう、それによってお互いの信仰の客観性が出てきます。客観性が出てくるということは、自分の信仰の有り様、位置付け、本質というものが、段々と見えてくる。要するに視野が広がるということですね。教団の視野が広がる、信仰の視野が広がる。
7、国家と宗教
王法と仏法、国家諌暁、国政と宗教。国家権力と仏法の権威については、先ほどお話しました。国家を諫暁するということは、今で言えばどういうことでしょうか。政治をする人に対して諫めをする。政治をする人は国会議員。国会議員の本質は国民です。為政者を諫めるということは、国民を諫めるということに繋がっていきます。そうすると、正しい生き方、正しい理念を捕まえた人が、如何に、その信念を人々に向かって広布できるかということ、これが今で言うところの国家諫暁ということに繋がっていく。そういう理念が普遍化されれば、そういう人達が集まって議員さんを選出すれば国会が運営されていく、ということに繋がっていく。国家の政治は、公共の利益・福祉を中心に考える、これは当たり前のことです。宗教は、人間の精神、人格の形成、それから、社会の平和、その理念と実現、ということに向けて努力しているわけです。ですから、宗教的権威はありますけども、宗教には権力はありません。国家的な権力はありません。何をしなさいという権力はありません。それに同調する人達、信仰する人達が大きな力を発揮することになります。
8、災害と宗教
信仰と災害の関係、正法に帰依したら平安になり、邪法だと災害になる。善神がいなくなるから災害が起こる、先ほど申し上げた神天上です。これは、簡単に言えば、人間の宗教的精神と環境との問題です。宗教的精神が粗悪になれば環境も乱れるということです。そういう関連性を持っています。
善神というのは、人知、人間の知恵、人間の力を超えたものです。人間を超えたもの。人間を超えた能力、力の存在が善神です。その善神が、国を守るとか、自然を守るとか、或いは人間自身を守るとか、そういう考え方です。人間が人間を超えた偉大な存在を認め、自然に対しても人々に対しても謙虚に生きていくことです。
9、宗教と預言
日蓮聖人は仏の未来記とおっしゃった。そもそも仏教というものは未来を予見したものだ、と日蓮聖人はお考えになりました。事と心の符号。事というのは、歴史的現実です。心は道理で、仏様の教えです。事と心は、歴史的事実と宗教的事実です。
日蓮聖人の生きた時代においても、今我々が生きている時代においても、歴史的現実と心とが一致するのです。心というのは、道理、日蓮聖人の場合には、仏様の教え、法華経です。事と心が一致する。要するに、歴史的な事実と道理としての仏様の教えとが一致する。こういう風に日蓮聖人はお考えになったので、四経の文に照らして立正安国の正当性を主張なさったのです。
立正安国ということは、日蓮聖人にしてみれば、自分が言っているのではないのです。仏様はこうおっしゃっています、この経典にこうあります、ということを、日蓮聖人が仏様に成り代わって皆さんに提示なさった、ということですから、これは仏様の教え、仏様の道理です。現実社会はこうです、今、こういう状況の中で起きていない二つの難がありますけれども、この状況ならやがて起こるでしょう、ということですね。
それは日蓮聖人の預言ではなくて、仏様の預言であるということになります。
10、まとめ
まとめは、教相上の問題・信行上の問題・弘通上の問題、信仰理念上の問題という四つの項目に分けています。
教相は先ほどご紹介した向上門です。釈尊の真実は何なのか、釈尊の真実に立脚して生きる、これが教相上の問題です。釈尊の教えとは何か、日蓮聖人が捕まえた信仰的な信念とは何なのか。実践上の問題はその捕まえた信心に立脚して、その理念を如何に普遍化するかということです。その普遍化する方法として、次に弘通上の問題です。それは布教手段です。日蓮聖人は、基本的には状況対応だと思うのです。状況に応じた対応です。時、或いは所、或いは人々、その状況に応じて、どういう風に弘めるか。摂折という問題もあります。摂受なのか折伏なのか。天台大師や妙楽大師は、時に応じてよろしきにかなうとおっしゃっていますから、状況に応じて対応、状況対応ということです。信仰的信念の問題というのは、法華経の題目信仰に立脚する。信仰に立脚して行動する。信行する、布教するということが常に求められるという風に思うのでございます。
もう時間がきておりますので、少し端折ります。ご質問等でお聞きいただければありがたいと思います。『立正安国論』の精神をまず基本的に踏まえ、それに立脚してどのように現代社会において日蓮聖人の教えを弘めていくべきか。日蓮聖人は何を目指されたのか、何を求められたか、まずその基本を受け止め、それに立脚して、現代社会はどういう社会であって、それにはどういう風なことが必要なのかという、現実を踏まえた上での理念の普遍化ということを考えなければいけないのではないか、ということで、少し、お話を申し上げたのでございます。
それでは、私のお話はこれにて終わりにさせていただいて、後はご質問をお受けしたいと思います。よろしくお願いします。お題目を一唱させていただきます。南無妙法蓮華経。ありがとうございました。
「質疑応答」
質問者 『立正安国論』を拝読致しますと、法然上人の『選択集』が批判されている。『涅槃経』などが引用されています。とても檀信徒に読ませられませんね。どう思います、それをどう会通するか。(取意)
庵谷師 日蓮聖人がどういう意図をもってそのようなことをおっしゃったのか。特に法然上人の『選択集』に書かれている捨閉閣抛の主張に対して、どうして批判をなさったのか、その本質的なものをご理解いただければ、檀信徒の方も分かっていただけるのではないかと思うのです。その本質というのは、やはり、釈尊の真実を求める、釈尊が何をおっしゃったのか、その釈尊のお言葉の中に真実を求める、その視点がそういうような批判になった、そのことを理解していただければ分かるのではないかと思うのです。
質問者 庵谷先生みたいに、内にそういった蓄えのある人は、そういう風に理解できると思いますが、上っ面の文言を解釈してしまうと、武器を持て、殺せ、抹殺しろ、というような感じになる。今のご時世だとかなり刺激的な文言だなと改めて思いました。
庵谷師 先ほどのご質問は、法然上人に対する批判についてということでした。今度はもっと過激的なことで、日蓮聖人の、例えば諸宗に対する批判、それが武力とか、或いは殺人とか、ということであれば、説明しにくい、そういうことですね。それに関してです。日蓮聖人の弘教の方法についてのことですけれども、先ほどのお話の一番最後の所で少し端折ったところです。日蓮聖人の弘教の仕方は折伏と言われていますけれども、それが、例えば武器を持てとか、殺害しなさいとかということなのか、ということについて、ご理解いただければよいと思うのです。
これは私の理解で申し上げるので間違っているかも知れないので、ご意見をいただければありがたいのですが、日蓮聖人がおっしゃっている折伏というのは、一つは宗教的信念だと思うのです。弘教の手段は不軽品だと思うのです。常不軽菩薩の礼拝行です。なぜ礼拝行が宗教的信念ということと繋がるかというと、常不軽菩薩が但行礼拝をする、そうすると、それを受けた人が、私のことを馬鹿にするのか、と言って、怒ってですね、石を投げたり、瓦を投げたり、杖で叩いたり、暴力をふるう。そうすると逃げていって、更に但行礼拝、私は貴方のことを敬います、と言います。自分の信念ですね。貴方は仏様です、菩薩行を修してやがて仏になる方だ、という。日蓮聖人は、不軽菩薩は所見の人に仏身を見るとお書きになっています。常不軽菩薩は、見る人見る人に仏様を見た。常不軽菩薩は、見る人見る人が皆仏様に見えた。自分に迫害をなす人も、仏様に見えたのです。全ての人は仏様だから、それに対して礼拝をする、こういうことになると思うのです。全ての人が仏様なのだ、という信念、これを貫いたのです。迫害をされても貫いた。そういう意味で、信念を貫くというところに、日蓮聖人の折伏という意味があるんではないか、という風に考えているのです。
そうすると、今ご質問のあった、暴力的行為とか、殺人行為についてですけれども、これを説いているのは、一つは涅槃経ですね。涅槃経は、断命根と説いていますから、首を切れ、ということです。これは、非常に厳しいのです。それから、もう一つ武器云々とおっしゃったのは、同じく涅槃経の執持刀杖です。刀杖を持て、執持せよと。武器を持てと。今おっしゃったのは、このことだと思うのです。これは、日蓮聖人もお引きになっています。このような考え方を日蓮聖人がどのくらいおもちいになったかというと、例えば、諸宗の僧侶の首を切らねば駄目だ、という風におっしゃいました、これに繋がりますね。それから、日蓮聖人が幕府に逮捕されました文永八年の事件。その時に訴えられた。忍性が幕府に祈雨の修法を命ぜられて、それに対して日蓮聖人が色々おっしゃって、それで恨みを受けて訴えられた。訴えたのは念仏や律宗の人たちです。日蓮聖人が訴えられた理由の中に、刀杖を帯しているということがあります。信徒の中には武士もいますから、そういう人達が日蓮聖人の草庵に出入りしているとなれば、武力を持っているということになります。そうすると、武器と断命根という思想に日蓮聖人も関連している、ということが分かります。
ただし、日蓮聖人自身が戦うために武器を持っていたのではありません。日蓮聖人自身が諸宗の人の首を切ったのではありません。断命根を否定した発言もあります。蒙古の使者が幕府によって、由比ヶ浜で首を切られました。それに対して日蓮聖人は、何というむざんなことをする、とおっしゃっています。蒙古が攻めてくるのは、日本の国が悪いからだ、悪い日本、悪い国王を諫めるために来るのだという考えで、使者の首を切ることに対して批判的であった。いずれにしても、日蓮聖人自身が手を下したわけではないということと、蒙古が襲来してきたという背景があってお書きになっているのです。日蓮聖人自身が刀を持ってなにかをしたとか、人の命を断ったということではない。それは恐らく、涅槃経の教えに従って、そういう発言をなさったのだろうと思われます。日蓮聖人の中では、断命根についての過激な発言はそのくらいです。
むしろ、命の大切さということは日蓮聖人は縷々おっしゃっています。日蓮聖人が立たれたのは法華経、それから弘教の仕方では涅槃経の影響を強く受けておられます。涅槃経の教えを用いられたということは確かですけれども、弘教の方法については、その中心は法華経の不軽品にあったのではないか。折伏の意味というのはむしろ、正意は常不軽品にあったのではないか、という風に考えているのです。ですから、暴力的なものがイコール折伏だとか、折伏イコール命を断つということではないと考えています。
質問者 後半の講義の中で、現代の世相の分析だとか、いろんな諸問題を指摘なさいました。しかし問題は我々自身のことですね。社会がこうだということではなくて、この社会の中で生きている我々日蓮宗の僧侶が、全くこの通りの現実を見ているわけであります。私達が正法・お題目を受持して、正法が私達に現前してるはずなのにですね、私達を取り巻く環境の中でいろいろな問題が起こっている。これはいったい何なんだろうか、これを問い直さなければいけないのかな、という風に思うわけであります。もしかすると、『立正安国論』で述べておられる日蓮聖人のお考えが間違っておられるかも知れない、或いは、日蓮聖人のおっしゃられることは正しいのだけれども、それを受持している私達の受持の仕方が間違っているのか、或いは、正しく受持はしているのだけれども、私達自身の負っている謗法の罪業といいますか、業が深いために、お題目をただ単に唱えただけでは立正安国にはならないのか、ということまで考えてしまわざるを得ないのです。私達の置かれている現状がですね、お題目を唱えれば安国になるはずなのに、現実にはならない。このことについて、いったい私達はどう考えて、これからどういう風にしていけばよいのか、ということについて、庵谷先生どういう風にお考えになっているでしょうか。(取意)
庵谷師 大変重い課題をご質問くださいました。今のご質問の主旨は、自らがどうあるべきか、ということですね。それを自らに問うておられる、質問なさったのではなくて、自らに問うておられると思います、ありがとうございます。
まず一つは、我々がそういう状況の中に身を置いている、ある時はそういう状況を作り出している。言葉は悪いかも知れないけれど、加害者といってよいかどうか分からないけれども、そういう張本人であるかも知れない、恐らくそうだと思います。まさしく今の日本の社会というのは、そういう構造の中に全てが収まっているというか、入りすぎています。ある程度は抜け出すことができるかも知れませんけれども、もうそれにどっぷり身を浸した、そういう生活の中にいると思います。例えば、我々が存在する限り環境に対して加害者である。環境に対して加害者であるということは、他の人に対して加害者である、社会に対して加害者である、そういう存在であることは間違いないと思います。我々が、まずそういう現状であるということの認識と、それに対してどのように対応が必要なのか、ということを考えなければなりません。
受持の仕方が間違っているのか、謗法の罪業が深いのか、ということですけれども、それは、人それぞれなのではないかと考えます。正しい信仰をしてるかどうかは分かりません。日蓮聖人のお心にかなうような信仰をしているかどうか分かりません。我々がどういう風に生きるべきか、それは一人ひとりが日蓮聖人に尋ねながら生きていくしかないことです。そのことを顧み尋ねるという姿勢を持つということが、より大切だと思うのです。日蓮聖人のお書きになったものを通して、そのお心に常に尋ねるということが大切だと思うのです。よりお心にかなう生き方はどうでしょうか、ということを探求しながら真摯に生きるというところに、自分自身の真実があるのかも知れない、という風にしか言えないでしょうね、きっと。それは基準があるわけではありませんから、一人ひとりが日蓮聖人に尋ね、そして反省していくということがまず基本ではないかと思うのです。
それから過去の謗法の罪。それもあるかも知れません、日蓮聖人はそうおっしゃっていますから。日蓮聖人は、自分は過去世において法華経の行者を誹謗した罪を背負っているとおっしゃっています。そういう自己反省、自己批判というものはやはり必要だと思います。我々に、力及ばざるかということもあるかもしれません。それもまた、自分が仏様の前で反省することであって、誰かが、貴方はどうだよ、という問題ではないと思われます。
日蓮聖人の『立正安国論』が間違っているかどうかということは、畏れ多いことです。日蓮聖人の信念を如何にいただいて生きるかということを考えて生きていますので、日蓮聖人の思想信念、日蓮聖人の『立正安国論』が批判的検証の対象になるか、ということは考えたことがありません。信仰的な視点から考えれば、そのようなことはとても畏れ多くて考えられない、ということしか言えない。それぞれの立場で、お考えいただくしかない、という風に思います。最終的には、一人ひとりが、如何に正法を受持し、お題目、立正安国をめざして生きていけるかということ。現実の社会は先ほども申しましたように、他に対して害を及ぼしている、そういう生き方をしている、或いはせざるを得ない、そのことに対する反省をも込めながら、省みつつ生きていく、そういう姿勢を一人ひとりが持ち、その考え方が大勢の人に普遍化していけば、日蓮聖人のお心は実現していくのではないか、という風に思います。
質問者 どうもありがとうございました。宗門運動が来年から正式にスタートするということでありますけれども、その旗印が立正安国お題目結縁。立正安国というと、社会に向かってどうやっていくか、ということに焦点を当てがちになるのですけれども、実は、自らの、一人ひとりの心の中に如何に立正を実現して、自身と周辺を如何に安国にしていくか。それを抜きにして社会に向かって大きな声で叫んでも、何にもならないというような思いをするものですから、ご質問させていただいて、先生のお答えでよく分かりました。どうもありがとうございました。
庵谷師 おっしゃる通りです。いつも申し上げているのですけれども、他に求めても駄目なのです。私達は教団に所属しています。教団に依存することも多いですね。こういうテキストも、教団に対し要請があってできたのかも知れません。それはそれで意義があるのですけれども、一人ひとりが何を求めているか、一人ひとりが日蓮聖人にどう対面しているか、ということが問われているわけです。そのことを抜きにして、他に如何に言っても、他に何を求めても、どこかで空回りするのではないか、という危惧はやはりあります。自分自身が何を求め何をしているのか、それを如何に周辺に及ぼしていくことができるか。そういう人達が大勢集まれば、大きな力になるだろうと思います。責任ある立場におられる方は、教団、或いは宗政の立場でお考えにならなければいけないこともあるでしょうけれども、基本はやはり、一人ひとりの信心にかかる。そして、よりその効率を上げるため、より深く広く人々にそれを知らしめ、実現するための手段として、教団が力を発揮する。教団で行うことができれば、よりもっとよいということは、当然、多くあると思います。
質問者 レジュメの最後の十番目、「まとめ」の四項目がありますが、一番重要な問題ではないかなと思ってお伺い致します。教学なき現場、現場なき教学、このポストモダン的な問題は、どこの教団でも論じられていることだろうと思うのですけれども、教学というのは優しく言えば、教えですよね。宗旨が現場にどの程度浸透しているか、ということについて、宗門運動の中でも、『立正安国論』を一つの理念として布教していく場合に、混乱というか、まだ掴め得ない部分がかなりあると思うのですね。こういう状況の中で、ただ理念だけが先行して、現実の具体的な問題が整理されないまま進む可能性があると私は危惧しています。そういうことにつきまして、先生のお考えを、この四項目の中の、特に「教えを弘める上での問題点」というのは、大変重要なことに関わってくるのではないかな、というように思いまして、それをお聞きしたいな、という風に思っています。(取意)
庵谷師 今ご指摘いただいたことは、常々私共も承っていることでございまして、教学と現場、というお話です。教学的な理念、先ほど申しあげた真諦、或いは聖といった理念の場と現実における教化の場との間に溝がある。理念がなかなか現場につながってこない、現場で生かされてこない。今回のこの運動についても、理念が出されても、現場に生かされない、繋がらない、実感としてどうも伝わらない、そういうようなもどかしさを感じる、というようなご意見だと思うのです。
あらゆるところでいろいろな人達がいろいろな提言をなさり、研究機関等で研究される、そういうものが現場で生かされていくということが理想だという風に思うのです。
たとえば、日蓮宗新聞をどこまで檀信徒の方がお読みになるのでしょうかという意見が出る。それに対して、日蓮宗新聞において理念が提示されている、それをどこまで教師の方が檀信徒の皆さんに噛み砕いて説明なさっているのか。要するに、テキストですね。色々な行事等もありますけれども、ご遺文のこと、法門のこと、法華経のこと、色々散りばめられているのですが、そういうものを如何に檀信徒に説明できるか、ということ。そうすると、ある程度の材料はそろっているのだけれども、それを如何に現場で生かすことができるかという、そういうギャップのもどかしさ、そういうものがある。そういうことに対する危機感とか、そういう問題意識をお持ちになっている方が、こういうような研修会においでくださる、ということではないかという風に思うのです。
教師の研修会、教区や、勧学院や、現宗研でなさいますし、いろいろな機会があって、それぞれが、いろいろな視点で、そういうようなことを企画をなさる。それに出てくる方が、どうも同じ顔ぶれではないかという話をよく聞くのです。問題意識を持っている人はいるのですが、それが大勢の人になかなか広がっていかない。一部の人は、ある程度考えていく、そういう気持ちを持つのだけれども、どうもみんなに浸透しない、というもどかしさがある、というようなことを感じているわけです。
もう一つのお尋ねについて、簡単に、先程申し上げられなかったので、法華経を弘める上での云々、ということについて申し上げます。
弘通上の摂折というのは状況によるのです。状況に応じるというのは、今はどういう時なのか。日蓮聖人は末法とおっしゃっています。機はどうか。これは邪智謗法とおっしゃっています。所は、日本国とおっしゃっています。そういうような状況に応じてどうあるべきかということなのです。何でもかんでもこうだとおっしゃっているのではない。
理念は恐らく折伏だと思うのです。何故かというと、これは信仰理念の確立です。信仰理念というのは、あれでもよいこれでもよいということでは成立しません。これ、というものです。これ、というものに理念は確定する。何故、お題目を唱えるのですか。そのお題目に結実すること。これは折伏的視点だと思うのです。
教理も折伏的な視点であると思うのです。教理は信仰の正当性です。何故、お題目の信仰をするのか。お題目の信仰をするその正当性というものは、厳しく求めなければいけないものです。理念も厳しく求めなければいけないものです。
厳しく教えと理念を求め、不動の信念が確立すれば、不動の信念、不動の教え、それに立脚してどう弘めるか、そういう問題です。そうなると、どういう時に、どういう人に、どういう状況の中で、どういう場所で、ということを知っておこなわなければならない。それが摂折ということです。
教相論上では、真実を求めることは折伏です。教えを求めることは折伏です。行儀の面では、摂折が時に応じて出てくる、ということになります。具体的に時、場所、機、ということを確定していくと、日蓮聖人の場合は折伏優先だと思います。折伏優先だけれども、折伏一辺倒ではなくて、その折伏の中に優しさを持つ、つまり摂受ですね。優しさを持ったり、時には厳しくおっしゃったり、ということです。これが日蓮聖人の弘通上の在り方であろうと思います。自己に対しては折伏です。自己を折伏するというのは、信仰を確立しなさいということだろうと思うのです。自己を折伏する。これは理念と教義上の問題です。それでないと揺れ動きます。それでないとその人の信念は揺れ動きます。個人が揺れ動けば、教団も揺れ動きます。要するに、揺れ動く人がたくさん集まったのでは、その教団・宗団が大きく揺れ動きます。日蓮聖人の教えを、ほんとうに自己に確立するということがあれば、教団は不動のものとなるだろうと思います。それは、教師の育成だとか、教師の資質だとかということに繋がっていくわけです。
質問者 最近、防衛庁が防衛省になりました。憲法が改正されそうになるなど、かってなかったことになってきました。私達も、ことある場合は、武器を持つべきでしょうか。
庵谷師 それはないと思います。宗教的理念に立つと言うことであれば、武器を持つということはまずないのではないかと思うのです。意見提示をするとか、対話ですね。
質問者 北朝鮮とかが攻めてきたら、どうしましょう。
庵谷師 それはまず、国家的なレベルの問題になりますね。
質問者 私達はどうしましょう。
庵谷師 それは一つは自己の信念に立つこと、そして国家の対応をよく吟味することではないでしょうか。
質問者 一般大衆に対して、稚拙な時流がそうなっているから、鉄砲持ってみんな戦いましょうと。
庵谷師 それは、対国家の問題ですので、国家が国民に対しどうしなさい、ということが発生しますね。今の時代で、鉄砲持って云々ではとても対応できないのですけれども、大陸間弾道弾ですから。もし国家が国民に対して、武器を持て、戦いなさい、と言った場合どうするかとという問題はあります。教団がそれに従わなければいけないのか。日蓮聖人の宗教理念に従えばそれは止めたほうがよいとか、そういう問題が発生しますね。もし教団において不可ということになったら、国に対して抗議をしますね。抗議をしても、国が国会で法律を作って、従わない者は罰則だ、となったら、それは敢えて罰を受けることになるでしょうね。
質問者 我々個人的な対応は、よいですよ。我々が説く場合に、どうすればよいですか。
庵谷師 正法の理念に基づいた説明をすることになりますね。教団、或いは一宗教人としては、宗教的な理念に基づいて発言し行動すべきだと思います。
質問者 庵谷先生は教学とか宗学のオーソリティだから、日蓮聖人のお心を考えれば、例えば、軍隊を持って外に行く、行かない、そういう時にどちらを選択すべきでしょうか。それを決める前に、我々はどう説くべきでしょうか。
庵谷師 宗教者として説くべきことは、平和ですね。常に信念を持って、非暴力、と説くべきでしょう。要するに不軽菩薩の但行礼拝ですね。その精神です。
質問者 選挙で決まりますかね。
庵谷師 今、申し上げたことは、個人の信念の問題です。実際に国が決める、教団が決めるという事実が先行した場合は、それに基づいて各自が考え行動しなければならないと思います。
(これは、平成十八年十二月十五日〈金〉に秋田市・秋田キャッスルホテルでの日蓮宗現代宗教研究所主催、秋田県宗務所・秋田県教化センター共催講演を収録したものです。)