現代宗教研究第41号 2007年03月 発行
末法に生きる私達は何故お題目を唱えなければならないのか—お題目を唱えることの必然性お題目を伝えることの重要性—
教化学研究集会講演
末法に生きる私達は何故お題目を唱えなければならないのか
—お題目を唱えることの必然性お題目を伝えることの重要性—
(立正大学仏教学部教授) 庵 谷 行 亨
はじめに
最初にお題目を一回唱えさせていただきます。南無妙法蓮華経。ありがとうございます。ご紹介いただきました立正大学の庵谷でございます。本年でこちらにお伺いするのは三回目になりました。私自身、出身が京都府北部の丹後地方でございますので、我が家に帰ったような感が致します。
こちらの管区の所長様のほうから繰り返しご連絡がございまして、皆様方の日頃の関心に沿ってお話をするようにということでございます。お役に立てるかどうか分かりませんけれども、今日、一日、四時間半くらいになりますが、おつきあいいただきたいと思います。
資料に入ります前に、最初に少しお話をさせていただきたいと思います。現代の社会において、寺院がどのような役割を果たしているのか、或いは、僧侶がどのような役割を果たしているのか、ということをお考えいただきたいと思います。皆様方も色々な問題意識をお持ちになって、本日ここにご参集になったと思います。概して考えられることは、お寺の機能というのは、例えば、お葬式をするとか、或いは年回の法事をするとか、或いはご祈願をするとか、それから、檀信徒の皆様や地域の方々がお寺に訪れて、身の上話というか、悩みの相談というか、そういう相談事をする、それから更に、年中行事等を通して、各地域の共同体の形成、或いは伝統の維持、持続、お互いが心を通わせる、地域社会の人々が、お寺を通して心を通わす、そういう風な機能を果たしているという風にお思いになっていると思うのです。その他の個別な、社会的な活動をなさっている方もおられると思います。
皆様もお聞きになることが多いと思うのですが、最近、社会で必要とされている人材、例えば、医学の方面で、病気を治すことのできる人、発見ができる人、治療のできる人、或いは新しい薬を開発できる人、そういうような人が特に望まれる。そこで税金をそちらに投入する。そういう風な研究、或いは設備のためには、国が率先して助成金を出す。そういうようなことがある。心の悩みへの対応、心のケアのためにお金を遣います。ケアのできる人材を育成します。これが最近流行りの臨床心理士、そういうような人達を養成しようというのです。そこで考えてみてください。なにか悩みがあったら、今までは町の人や村の人はお寺に行って話をしていたのです。ところがそういう、カウンセラーとか、臨床心理士、それから、診療の専門家、中には弁護士さんに相談する、それからソーシャルワーカーに相談する。それから、最近はスピリチュアルケアということが言われだした。魂の介助、そういうことを専門に勉強する人に相談する、という風な状況がだんだんと出てきました。
これは何を意味するのかというと、今まではお寺さんが機能していて、悩み事を聞いて、色々対応していたけれども、だんだんとそれでは間に合わなくなってきたのか、或いはお寺さんのそういう機能が減少してしまったのか、ということですね。そこで、国家規模で、国民の税金を投入して、そういうことに対応できる人達を養成していかなければいけないということになってきているのです。
日本では、国家的な政策を行う時にタブー視されることが一つあります。それは何かというと宗教です。宗教と関係してくると、税金を投入すること、国家的なプロジェクトを組むことはできません。そこで、宗教と分離した心のケアというものが、国家的な規模で今推し進められているのです。そうすると、今までお寺さんが、或いは僧侶の方がなさっていたこと、それが、専門家によってなされていく。しかもそれが、宗教と関係のない所でなされていく。そういう方向へと、今後、進んでいくだろうと思われます。それが、今まではそれほど大きな流れではなかったかも知れませんが、国家的な政策としてそれがなされているということになりますと、心の救いは、お寺に行くのではなくて、資格を持っている専門職の人の所に行く。そういう方向へと今後流れていくのではないかと想像されます。
そうすると、お寺の役割とは何ですか。今、冒頭で申し上げた中の宗教的な儀式、そういう風なものに特化されてしまって、心の悩み、相談、そういうようなことは、寺院・僧侶には期待されなくなるのではないかと思います。
今、九月も過ぎましたけれども、だいたい私共は夏休み中は全国の学会を回るのです。学会には、仏教の学会もありますし、宗教の学会、印度哲学の学会、生命倫理の学会などがあります。いろいろな学会を回ります。それらの学会で、特に最近多いのは医療関係からの研究報告です。例えば看護師の方或いは医師の方が宗教関係の学会に来て発表なさいます。その発表でどういうことが言われるかというと、この地域でこういう調査をしました、こういう悩み事を抱えているAさんという事例がありました、この人はこういう風に言っています、その地域は、何々宗の地盤であったり、或いはそのAさんは、何々宗の檀家で、寺院は何々という名です、そこでこういう悩みを抱た人がいます。ところでそれに対して宗教はどう機能したのでしょうか、どういう風な救いの手を差し伸べたのでしょうか、ということが、公の場で発表されるのです。そうすると、だいたい、共通して言われることは、お寺さんが何もしないから、こういう風に皆さんが悩んで、そして困っているのです、だから私達がそれに対してアドバイスをするのですと。こういう風なことが多いのですね。そうすると、かなり具体的に地域名、寺院名が挙がり、仏教教団の活動に対して批判的な報告がなされるのです。そうすると、もうお寺さんを当てにしても駄目だよと、自分達でプロジェクトを組んで、グループで支援活動をしなくては解決しない。その地域に入っていくとか、そういう風な事業を立ち上げていくとかということになっていきます。そこで、宗教と切り離された支援活動、ケア活動というものが、今後より一層、各地域に定着していくのではないかというような感想をこの夏に私は持ったのです。
そうなりますと、宗教的救いというようなことはどうなるのか。死後はどうなるのですかというような問いかけに対して対応できるのはいったい誰なのか。死後を保証できるのは誰なのか。それはやはり宗教者でしょう。宗教の機能がだんだんと薄らいでいって、そして、社会からも必要とされなくなってしまいますと、ただお寺は儀式をしているだけの所だと、こういうことが定着していくことになります。そういう問題があります。
それでよいとお考えになる方もいらっしゃるかも知れませんけれども、もう一つ公益法人の見直しということがあります。各寺院は宗教法人ですから、公益法人として、ご存知のように税金がかかっていません。お寺の収入には税金がかかっていません。土地や建物にも税金はかかっていません。お寺の建物や土地は膨大なものがあります。普通の民家よりも広いでしょうから、恐らく、固定資産税がかかりますと多額になると思います。そういうことの見直しが公益法人の見直しですね。お寺に公益性があるのか、ただ自分の檀家、自分の信者だけにお寺を開放していても、それでは不特定多数に対する利益にはならない。こういう話に今なってきているのですね。国家の枠組みの中での宗教法人の位置付けということがだんだんと問題にされてくる。このように思われます。
今、特定の財団法人とか社団法人などが見直しになっています。それらは多くの数ではないらしいですから、一つ一つ見直しをし、この法人は公益性がある、この法人には公益性がない、と判定をするらしいのです。
宗教法人は数が多いですから、一つずつ見直すのは困難ではないかと言われていますけれども、どうなるかは分かりません。それぞれの法人一つ一つを何をしているのかと調べる。そうすると、そこに公益性がなければやはり問題が発生するでしょう。
皆様も問題を意識されているがゆえにここにお集まりになったのだろうと思うのです。これからの時代は、社会に如何に受け入れられていくか、社会に如何に対応できるか、社会の要求に如何に応えられる寺院であるか、僧侶であるか、ということが、それぞれに強く問われているという状況ではないかと思います。
そういう問題意識を持って、私達日蓮宗とはどういう教えなのか、どういうことをすべきなのか、どういう理念を持っているのか、ということをお考えいただきたい。日蓮宗とは何か。日蓮宗の責任は宗務院だとか、宗務院にやってもらえばよい、というようなことではなくて、日蓮宗を形成しているのは皆様一人ひとり、皆様一人ひとりが日蓮宗を形成している。それから皆様一人ひとりが所属している寺院が、日蓮宗を構成している。その教団の構成者一人ひとりが自覚を持って動かない限り、日蓮宗は動きません。
行政を動かすのも、皆様一人ひとりの力ですよね。皆様一人ひとりが自覚を持って議員さんを選出し、その議員さんが責任をもって審議をする、議題を提出する。そうすれば動いていく。誰かがやってくれるでしょうなどと言っていたのでは、いつまで経っても前進しません。近年の日本の社会は、急激に、自由化とか、或いは規制緩和ということになりましたから、あらゆるものに競争原理が働いて、格差が生じました。それにうまく乗れる人は生きられるのですけれども、乗れない人達もたくさんいます。そのために格差が開いている。あらゆる所で競争が行われています。ご寺院においてもやはり同じことで、この現代社会において、どのように自分達が役割を担っているかということが、常に問われている。こういう風に思うのでございます。そんなことを、最初に、問題提起として申し上げておきたいと思います。
1、お題目の意味
それでは、お手元の資料を、ご参照になってください。たくさんの時間があるわけではありませんので、要点をお話したいと思います。それから、場合によっては後ろに添付されている資料は、簡単な説明だけになってしまうかも知れません。
最初に一枚目です。お題目の意味、という部分です。これについて二点を挙げております。法華経にはどう説かれているのか、日蓮聖人はどう仰っているのか、ということです。これらのことは、かつてもこちらの会場でお話したことに関連しております。
法華経にはどのように説かれているのか
最初の、法華経にどう説かれているのかということについて二点挙げてあります。
皆様の中には教師の方もたくさんおられます。教師の方はこれを見れば、何を言おうとしているかは分かると思います。したがってそれを再確認して下さい。それから、教師の資格はないけれども、常に檀信徒の皆様に接しているという方もたくさんおられます。そこで、基本的な教えはこうであるということをきちんと踏まえて、それに立脚して、臨機応変に檀信徒の皆様や地域社会の皆様にお話をして頂く。そういうことが大切だと思います。
一つは如来寿量品、一つは如来神力品です。法華経全二十八章の中で、寿量品は第十六章、神力品は第二十一章です。この二つの部分が、法華経に説かれているお題目についてのポイントであると思います。
最初の如来寿量品の教えは、良医治子(ろういちし)の譬えです。良医は良いお医者さん。治子は、治は治癒の治、治すという意味、子は子供です、子供を治す。良いお医者さんが子供を治すという如来寿量品の譬えを挙げているわけです。
父と子供たちがいた。親子ですね。お父さんはお医者さんです。その子供たちがお父さんの留守の間に薬を飲んだのですが、その薬が毒薬だった。毒を飲んだから苦しい。帰宅したお父さんは、子供たちを治すために種々の薬を調合して与える。子供たちはお父さんが作ってくれた薬を飲む。服薬です。それによって病気が治る。こういう譬え話です。
お父さんが仏様であり、子供たちが人々である。私達です。良いお医者さんである父が子供たちを治す。父なる仏様が子なる私達を救う、救い取ってくださる。これが如来寿量品の譬えでございます。
毒を飲まなければよいではないか、ということにもなります。私達は、本来、どういう存在なのかというと、お経には失本心者とあります。本心を失える者。仏様の目から見れば、我々は病気の状態、要するに毒薬を飲んで苦しんでいる状態であるということです。自分自身は正常に生活していると思っているのですが、それは私達の価値観でそう思っているにすぎないのですね。仏様の目から見ると、私達の生き方というのは、自分中心的であったり、自分の家族中心であったり、自分の地域中心であったり、或いは自分の欲望に基づいて判断し発言しているかも知れない。そういう在り方というのは、仏様の広い大きな目から見ると、本心を失った者、あたかも毒を飲んでいるような状態なのだと。要するに、物が欲しい、何々して欲しいという思い、これは人間の基本的な欲望、感情ですね。自分自身が生きていく、生活をする、命を全うするために必要なもの、何々をして欲しい。その欲しい欲しいという思いは、初期の目的が達成しても更に欲しくなります。次なるものを欲しくなります。人間の欲望は次から次へと肥大化していく、大きくなっていきます。そうすると、欲望は全ては満足されない、或いはどこかで制限される。となると、そこに不満が起きます。そういう風にして、欲望というものは不満を増幅する。不満を持つとそこに苦しみが生じます。欲しいけど手に入らない。それで苦しむ。それを仏様は毒を飲んでいる状態だと私達に教えておられるわけですね。
仏様が私達に教えてくださっている薬を飲みなさいという教え、仏様が私達にお与え下さった薬、これをお題目と理解しているわけです。良薬(ろうやく)がお題目です。単なる薬ではなくて、毒薬を飲んで苦しんでいる子供たちを救うための薬です。お経の中には、たくさんの薬を調合したとか、或いは、色も香りも味わいも良い薬だと説いてあります。たくさんの薬を調合したというのは、仏様にはたくさんの教えがあるけれども、そのたくさんの仏様の教えの集約されたもの、最も根本的な教えという意味です。それから、色も香りも味わいも良いというのは飲みやすい薬ですね。我々、毒を飲んで苦しんでいる者が飲むことが可能な、飲みやすい薬をお与えくださった。こういうことがこの譬えによって示されているのです。その良薬を仏様は私達に飲みなさいと仰ってくださっている。お題目は、法華経の如来寿量品では良薬と説かれているということが第一点です。
第二点は如来神力品の教えです。そこに要法の付属と書いてあります。仏様の教えを人々に教え弘めていかなければならない。そして人々を救い取っていかなければならない。その手段として、仏様が導師を遣わして下さった。それが前回お話した事柄です。この導師は、如来神力品の中で、仏様から付属を受けた。付属とは委嘱する、委託する、依頼する、お願いするということです。仏様は導師に人々を救うことを委嘱なさった。委嘱する時に、この教えで人々を救いなさいと教示された。その教えを仏様は要法としてお示しになったのです。要法はかなめの教えです。それは、先ほどの寿量品のたくさんの薬を調合した良薬です。仏様にはたくさんの教えがあるけれども、その教えを集約したかなめの教えとして、導師に付属なさった。ですから、この導師は仏様の意向を汲んで、この世に出現し、要法の教えを人々に伝える、そういう役割を担います。この要法がお題目です。
如来寿量品の良薬と如来神力品の要法、この二つが法華経の教えに説かれている代表的なお題目の教えです。日蓮聖人の宗教は良薬要法の法華経信仰です。世の中にはたくさんの法華経の信仰があります。有名なのでは天台宗です。それから、禅宗の方たちも法華経をお読みになる。法華経信仰は日蓮宗に限りません。けれども、それらの宗派と日蓮聖人の法華経信仰との違いは、日蓮聖人は要法の法華経信仰、題目法華信仰です。これが日蓮聖人の法華信仰の特色です。
=cd=70b6 日蓮聖人はどのように説かれているのか
それでは、=cd=70b6に入ります。日蓮聖人はどのように説かれているのか。日蓮聖人のお説きになったお題目についての教えは、数限りないほどたくさんあります。日蓮聖人のお遺しになったたくさんの文章、これらの殆どはお題目信仰そのものについてお示しになったものと言えます。それを要約すると次のようになると思います。
一つは、お題目は釈尊の因果の功徳です。釈尊の因果というと分かりにくいかもしれません。因果とは、原因があって結果があるということです。全てはそうです。因果ということです。
仏様という人格はどうして仏様になられたのか。仏様になられたということを結果とすれば、こういう原因があるから仏様になられたのだということになります。仏様が過去に行われた修行が因です。仏様はこういうご修行をなさった、こういう功徳をお積みになった。それを因として仏様になられた。果は結果です。これを果徳と言っています。
釈尊の因行というのは、釈尊の永遠の過去から永遠の未来に亘るご修行のことです。釈尊の果徳というのは、その修行によって得られたご功徳です。
仏様は過去にご修行をなさって仏になられた。それでは未来はご修行なさらないのか。仏様は永遠に人々をお救いになります。仏様は永遠の修行をなさるのです。仏様は慈悲をもって人々をお救いになる。その救うという手段には、色々な方法があります。だから、ある時は仏として出現されるかも知れないし、菩薩として出現されるかも知れないし、或いは、皆様にとっては家族であったり、隣近所の人であったりするかも知れないし、或いは、自然の吹く風咲く花であるかも知れない。あらゆるものが仏様の現れであるかも知れない。そういう風に、仏様は常に我々のそばに寄り添っていて、色々な姿で我々を導いて下さる。これを、仏様の因行と言っているのです。ですから、仏様は私達だけに限らず、子孫永遠にわたって導いてくださる。仏様の修行は、即ち言葉を換えれば慈悲行です。仏様の慈悲行です。そういう、偉大なる功徳の姿をもって我々の前にお立ちになる。そのことを釈尊の因果と言っているのです。
その仏様のご功徳のことを、日蓮聖人は『観心本尊抄』に、「因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」と仰ったのです。お題目は釈尊の因果、言葉を換えれば、釈尊のご功徳と言えるのです。お題目を唱えるということは、釈尊のご功徳を信受することです。それは釈尊に対面していることになるのです。
二番目は、お題目は釈尊が地涌の菩薩に付属された肝要の法。これは先ほどお話した肝要の法のことです。同じく『観心本尊抄』を挙げています。是好良薬は先ほど申し上げた如来寿量品の教えです。「寿量品の最も中心である名体宗用教」とあります。これは天台教学の五重玄義です。
法華経を解釈した人はたくさんいます。いろいろな解釈をしました。天台大師は中国の方です。妙法蓮華経という五つの文字を解釈するために、名という視点から、体という視点から、宗という視点から、用という視点から、教という視点からと、五つの視点から解釈をしたのです。そして、妙法蓮華経の五つの文字は、この名体宗用教という五つに集約されると考えたのです。それを説いたのが、有名な、天台大師の『法華玄義』という書物です。全十巻です。妙法蓮華経という五つの文字を解釈するために、天台大師は十巻の書物をあらわしたのです。
日蓮聖人は、「名体宗用教の五つは題目である」と仰いました。天台大師は妙法蓮華経の五字を五重玄義と説明したのです。それを日蓮聖人は題目の信仰にお示しになったのです。妙法蓮華経を天台大師は五重玄義と言い、日蓮聖人はお題目と受けとめられた。重とは重いという字ですが、これは重ねるという意味です。重箱の重の意味です。重箱は重ねた箱という意味です。重い箱ではない。重ねるというのは上下関係です。縦関係です。玄義とは、玄は玄関の玄の字です。これは大切な所という意味です。素人とか玄人とか言った時の玄の字です。玄人と書いて「くろうと」と読みます。玄は重要、義は教えです。五種類の重要な教えです。
日蓮聖人は、五重玄義を題目の五字七字に集約なさった。だから、寿量品の良薬とは題目であると仰いました。先ほどの如来寿量品の良医治子の教えに出てきた良薬を題目だと仰っているのです。
その次が、『曾谷入道殿許御書』の文章です。ここには、「大覚世尊が寿量品をお説きになって、しかして後に十神力を現じて四大菩薩に付属した」とあります。「その所属の法は何か、法華経の中にも広を捨て略を取り、略を捨てて要を取る、いわゆる妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄也」と仰っている。仏様が四大菩薩に付属された法は何かというと、それは、広でもない、略でもない、要であると日蓮聖人は仰っている。広の法華経の信仰でもない、略の法華経の信仰でもない、要の法華経の信仰である。即ちこれが神力品所説の要法の法華経です。要の法華経の信仰と仰っています。ですから、導師に付属されたのは要法の法華経、即ち、お題目の信仰であるということになるのです。
皆様方が、法要の時などに勧請なさる時に、南無本化上行高祖日蓮大菩薩と仰います。それは、仏様から題目五字七字の要法を付属された導師が日蓮聖人である、と言って勧請しているのですね。
日蓮聖人の信仰は、この寿量品と神力品から立ち上がっている宗教であるということが分かります。日蓮聖人自身の位置付けは本化上行菩薩。その日蓮聖人が我々に提示してくださった教えがお題目信仰。これが、日蓮聖人はどのように説かれているか、ということです。
ここにあげた日蓮聖人の文章の原文は漢文です。日蓮聖人の漢文は白文です。白文とは返り点や送りがなのない漢文です。どの文字からどの文字へ戻るという指示がありません。ですから、それだけの知識がなければ読めません。
立正安国お題目結縁運動で、各地で『立正安国論』をお読みになっていますけれども、『立正安国論』も日蓮聖人がお書きになった原文は、漢文の白文です。皆様は活字本でお読みになる。活字本は編集者が返り点や送りを入れているわけですね。それが絶対に正しいかどうか、それは分かりません。分からないと言ったら身も蓋もありませんが絶対ではありません。当時の人達が英知を結集して、日蓮聖人の全体的な教義の中から、ここはこう読むべきであるという風に理解して、そして皆さんがある程度共通的な認識を示したもの、それが活字本ですから、恐らく、正しいと思われます。しかし断定はできません。その時代の制約があったり、そこにいる人達の理解の制約があったりするのですから。もっともっと理解が進めば、これはこう読んだほうがよいということになるかも知れません。今、ご真蹟で『立正安国論』をお読みになっている勉強会もあります。日蓮聖人の教えをどう受け止めるかによって、読み方にも違いが生じるということもあり得ます。
ここにあげてあります御文章は、本来は漢字がただ並んでいるだけの白文です。それをこのように理解して読み下しにしています。ここに挙げたご文章では、お題目とは、日蓮聖人が、最高の教え、最高の功徳、ということをお示しになっているということが分かります。お題目は最高の価値、何ものにも代え難い最高の価値、という風にお示しになっている。その、お題目を、何故唱えるのかというのが、次の二番の項目になります。
2、なぜ唱えるのか
一つは時代、二つ目はその時代の人達がどのような存在であるのか、そのような人達のためにどのような教えが提示されているのか、ということです。
末法に生きている私達は、お題目をどのように受け止めるのか。何故唱えなければいけないのか。そこには末法という時代の問題があるのです。時代と人間。時代は常に移り変わります。時間は変化します。皆様も、懐かしくアルバムを開くと、この頃は若かったなどと感想を持ちます。写真というのは、ある一瞬を捉えていますから、その過去の一瞬と今の自分とを比較してみれば、そこに時代の推移、時間の流れ、経過があります。この頃は若かったということなります。時というのは常に動いています。
時代の推移とそこに生きる人々。人々のことを、仏教では機根と言っています。機根とは揮発する根という意味です。揮発している人間。即ち、機根というのは常に何かを発している存在という意味です。
時代が推移していくと、段々と仏様の教えに背を向けるようになっていく。要するに、時代と共に人々が仏様の教えから離れていく。仏様の視点に立てば、下降していく、人間がだんだんと悪くなっていく。
重病者という表現は、先ほどの寿量品の喩えで、毒薬を飲んで苦しんでいる、これが重病者ということです。病気には、軽い病気もあれば重い病気もある。末法の時代に生まれ合わせた人々は重い病に罹っている。何をもって重病人というかというと、それは父への違背です。それは仏様に対する違背です。違背とは背を向けるということです。背くということです。仏様の教えに従わない、仏様に背く。これを悪人と言うのです。
この場合の善とか悪というのは、基準が我々の倫理の中にあるのではないのです。仏様の視点の中にあるのです。仏法の中に基準があるのです。仏様の教えに背くことは悪である。仏様の教えに従って、仏様のような人格を目指して、他の人にもそのような人格になってもらおうと目指す所に善を見ていますから、それに反するものを悪と考えるわけです。
時代と教え。そのような、悪世の悪人に対して、仏様が薬をくださる。重病者には良薬が必要です。それで、先ほどの毒薬を飲んで苦しんでいる子供達に、仏様が良薬をお与え下さった、という話になるのです。
仏様への違背が悪だと言いましたけれども、悪にも色々あります。最悪の悪は何かと言うと、それは謗法です。日蓮聖人は、邪智謗法の者充満せりと仰っています。邪智とは邪な智慧です。謗法は法を謗ることです。法にも色々あります。例えば、宗派で考えると分かりやすいのですが、日蓮宗という宗派のいう所の法もあれば、或いは禅宗の人達のいう法もある、浄土宗の人達のいう法もある、真宗の人達のいう法もある。いろいろな仏様の教えがある。その中でも最も重い罪は、正法という法を謗ることです。要するに、正法に対する敵対行為、これが最も罪になります。このことは、お経にも説いてありますし、日蓮聖人も繰り返し仰っています。
仏様が入滅されてから後、しだいに時代が過ぎていくと、人々が仏様の教えから背を向けていくような時代になってしまう。仏様の教えをないがしろにする人が出てくる。最も罪が重いのは、正しい教えを誹謗すること。或いは、正しいお教えを護り弘める人達に対して迫害を加える人達が最も罪が重い。このように説かれています。法華経の中には、例えば、この法華経を、仏様が入滅された後に、たとえ一句でも一偈でも、受け持ち人々に伝える人は非常に功徳が多い、と繰り返し説かれています。法華経は、六万九千三八四と言われています。約七万文字もあるのです。約七万文字もありながら、そのうちのほんの一句でも一偈でも持ち弘めることは功徳があるということは、如何に法華経を信仰すること、法華経の一句一偈を受け持つことが困難であるかということを示しています。
日蓮聖人は、正法とは法華経であるとお受けとめになりましたから、法華経に対する違背行為、法華経の信仰者に対する敵対行為、それは大きな罪であるとお考えになりました。
お経には、仏様がこの世におられる時に、仏様を誹謗したり、仏様を中傷したり、仏様に危害を加えたりすることの罪よりも、仏様が入滅された後に、法華経を誹謗したり、法華経の信仰者や法華経を弘める人に対して迫害を加えることの罪のほうがもっと重いと説かれています。普通考えると、仏様に迫害を加えたら大変な罪だと思うのですが、お経には仏様が入滅された後に、法華経の信仰者、法華経の教え、法華経を弘める者に対して迫害を加えた者の罪はもっと重いと説かれています。それは何を意味するのかというと、仏様の御入滅後も、この法華経が永遠に弘まって、多くの人々を救い取っていく、そこに法華経の願いがあるからです。だから、この法華経をいつまでも人々に弘めるためには、法華経を信仰すること、法華経を弘めることに多大な功徳がある、ということを、お経では繰り返し説いているのです。
そこで、お題目とはどういうものであるか、そして、何故末法と言われる時代に生まれ合わせた私達はお題目を唱えるのか、お題目はお薬であり、末法の我々は病気の者だからお題目の薬によって救われていく、という論理構造がだんだんと見えてきたと思うのです。
3、日蓮聖人はどういう気持で唱えられたのか
そうすると具体的に、それでは、日蓮聖人は、どういう気持で唱えられたのでしょうか、というのが三番目です。
釈尊から付属を受けた者としての自覚と使命。これは、日蓮聖人の法華経信仰者としての位置付けの問題です。日蓮聖人の上行菩薩としての自覚と使命。上行菩薩は、如来が入滅なさった後に、この法華経を弘めていく上での最高責任者です。日蓮聖人は、この法を人々に弘めていかなければならない、その役割を担った最高責任者であるとお思いになっていたのです。これが自覚と使命ということです。
勧請の時に、日蓮聖人のことを南無本化上行高祖日蓮大菩薩というのは、日蓮聖人は上行菩薩であるという信仰的認識にもとづいているのです。
仏様が、地涌の菩薩に付属なさった。これは、法華経の如来神力品に説かれています。
地涌の菩薩は、たくさんおられた。その中心が四大菩薩です。上行、無辺行、浄行、安立行の四大菩薩。その四大菩薩の最初に名前があげられているのが上行菩薩です。そうなると、多くの菩薩方の最高責任者は上行菩薩ということになります。
日蓮聖人はまさにこの上行菩薩の自覚に立って生きていかれた。法華経を弘められた。だから日蓮聖人のことを、本化上行高祖日蓮大菩薩とお呼びしているわけです。これは信仰的な表現です。
そこで、上行菩薩と常不軽菩薩とはどういう関係であるのかについてお話をします。何故常不軽菩薩の名が出てくるのかというと、日蓮聖人は、法華経を弘める上では常不軽菩薩の後を慕うと仰っているのです。紹継と仰っています。常不軽菩薩の後を継いでいく。日蓮聖人の信仰上、法華経を弘めていく上で、常不軽菩薩の位置付けは大きいものがあるのです。
常不軽菩薩は、釈尊の過去世のお姿です。釈尊が、色々なご修行を過去になさった。そのうちの一つに常不軽菩薩として現れて、法をお弘めになられた。どういうことをしたのかというと、難に遭いながらも、これを値難と言いますが、難に遭いながらも但行礼拝しました。但行礼拝というのは、ただ礼拝を行ずるということです。合掌して頭を下げることを礼拝という。行き交う人達に向かって礼拝をしました。礼拝をしたらどうして難に遭ったのか。それは、お前、私のことを馬鹿にしているのかと。それで、悪口を言われたり、或いは殴られたり、そういう風にして難に遭います。難に遭っても逃げていって、私はあなたを敬いますと言って礼拝をするのです。これが但行礼拝ということです。
ただ礼拝を行ずるというのはどういうことかというと、この常不軽菩薩は、お経を読むことはしません。ただ、礼拝をするばかりです。礼拝をする時に二十四字を唱える。「私は貴方がたを敬います、何故ならば貴方がたは、仏様になられる方なのだから」と。この言葉が漢字で二十四の文字である所から、二十四字と日蓮聖人は仰っているのです。二十四字の修行をなさったわけです。そういう、常不軽菩薩のご修行のことを、天台学では逆縁下種というのです。逆縁とは、素直に受け止めない、行為に対して反発する、その反発ということを通して、下種する。下種とは仏種を植えることです。種は仏様の種です。仏種を植えるという行為になると天台学で解釈したのです。これを日蓮聖人は受容された。自分もまた常不軽菩薩の如く難に遭っていますから法華経の弘通と値難においては共通しているのです。常不軽菩薩は二十四字を唱えたのです。自分は題目五字を唱えた。常不軽菩薩は威音王仏という仏様の滅後に生まれた。日蓮もまた釈迦牟尼仏の滅後に生まれた。このように仰って、常不軽菩薩の法華経実践と、自身の法華経を弘める姿とを重ね合わせて、そのあとを偲んでいる、と仰ったのでございます。これが常不軽菩薩です。
上行菩薩は、法華経の神力品で仏様から委嘱を受けた如来滅後の正式な導師です。ですから、法華経を弘める正式な菩薩は、最高責任者として上行菩薩ということになるのです。その上行菩薩の自覚者が、如来滅後、末法という時代に生まれて法華経を弘めていく。その弘教の方法として、この常不軽菩薩の姿勢に倣っていかれたのです。これが、日蓮聖人の、同じく逆縁下種という弘教方法であった。常不軽菩薩は迫害されても悪口を言われても、ただ逃げて行って、また振り返って貴方を敬いますという。信仰の貫徹です。信仰を貫徹していく。その姿を日蓮聖人は継承なさったのです。そういう所に、日蓮聖人の如来滅後末法における法華経弘通の姿勢があるのです。
そういう、常不軽菩薩の法華経を弘める手段が過激なのか、専門用語でいえば、折伏なのか、それとも、過激とは言えないのか、という風な議論が出てくるわけです。日蓮宗の伝統的な教学では、こういう常不軽菩薩の逆縁下種の布教は折伏だという風に考えているわけです。折伏という言葉は、折り伏すと書きますから、強いニュアンスを持ちますけども、非難されたら逃げてですね、そして自分の信念信仰を貫徹する、そういう風な、意味合いがあるという風に考えますと、ただ一概に、折伏というのは、武力を用いるとか、暴力を振るうとか、そういう意味とは言えないと思うのです。
日蓮聖人の弘教方法というのは、こういう、常不軽菩薩の弘通の姿勢を継承していかれたということでございます。
難に遭いながらでも法を弘めていく、或いは難に遭うことこそが法を弘める者の証明である、ということは、法華経に繰り返し説かれていることです。それの最も著名な経文が勧持品ですね。この勧持品に、法を弘める者は、追い出されるとか、悪口を言われるとか、殴られるということが説かれています。そういうような経文を、日蓮聖人は身で体験なさったのです。これを色読と言っているのです。ですから、そういう風な難に遭うことが、まさしく正当なる法華経の信仰者であるという証になるとお思いになったのです。難に遭うことこそが、自らの正当性を証明する。難に遭うことを、むしろ、甘受されるということがございました。それが日蓮聖人の上行菩薩と、常不軽菩薩との関連と対比ということでございます。
4、日蓮聖人はどのように唱えられたのか
その次に4に入ります。日蓮聖人はどのように唱えられたのか。身命をかけて唱えられた。身命をかけるというのは、不惜身命です。身命を惜しまずです。
日蓮聖人の場合には具体的に勧持品を身で体験なさいました。これを色読と呼んでいます。色読とは身体で読む、身をもって実体験をするという意味です。このように、日蓮聖人がお題目をお唱えになったのは、ただ単に口先でお唱えになったのではないのです。まさしく身をもってお題目を唱える、そういうことなのです。
以上、ここまで、お題目とはどういうもので、日蓮聖人はどう唱えられたのかということについてお話をしてきました。
5、どのように唱えるのか
資料の二枚目をご覧になってください。5の項目でございます。どのように唱えるのか。二つの項目を挙げています。一つは受持の信、二つは三業円満の唱題、ということです。
受持の信
最初に、受持の信とありますのは、先ほどもありました『観心本尊抄』の文に拠っています。「我等この五字を受持すれば」。五字とは妙法蓮華経です。妙法蓮華経の五字を受持します。これを受持の信と表現したのです。
受持とは、受け持つということです。これは、受けると持つという二つのことです。『大智度論』ではこれを、信力の故に受け念力の故に持つと解釈をしています。受けることはどちらかと言えば瞬間的な行動です。持つことは、それに対して、それを如何に維持するかということになりますから、持続するという意味があります。そうすると、受けてそれをいつまでも持ち続けるということです。それが受持ということです。受けることは、瞬間的であれば案外できるかも知れない。しかしそれを持続することはなかなか困難です。受けるは易く持つは難しと言われます。
一つのことを成就する時に、最初発心して、こういうことをしなければならない、というように思って、それで始めるけれども、二、三日経ってくると、発心したことすらも忘れてしまって、ある時気がついたら、やっていなかったということはよくあります。典型的な例が日記をつけることです。持続することはなかなか困難です。だからこそ、持続は力なりということで、持続するということは、そのこと自体が大きな力を持っている。強い信念を持ってやらないと、持続することは難しい。ということは、お題目の信仰をすることも、信心を持ち続けることは困難だということを意味しています。
受持の信というのは、何を受け持つかというと、言うまでもなく、五字を受け持つのです。受け持つ対象が題目に限定されています。
題目を受け持つとはどういう意味かというと、それは、題目の信心をいただくことです。自分の最高の価値、自分が人生をかけるその最高の価値、それをいただくこと、それが、題目を受持すること、題目の信心をすることです。
受け持つことはなんらかの、心の準備というか、決意というか、それがなければなかなか難しい。皆様も今まで生きてきた中で数限りなく受け取ることはしてきたと思うのです。その中で、本当に受け取ったものはあるか、本当にそのものを、そのものとして受け取ることができたものはどれだけあるか。受け取るとはどういうことを意味するのか。自分にとって必要でないものは受け取る必要はないですよね。受け取るということは、自分にとってそれが意味がある、大切だということです。
お題目は最高の価値であるという認識の中でお題目を受け取るということは、お題目をいただくこと、即ち、お題目に生きるという自己表明をすることです。お題目の信をいただくということは、これは、お題目に自身をかけていくことです。ですから、いわば、自己を空白にしてお題目をいただくということでなければ、本当にお題目をいただくことにはなりません。自己を空白にするとは、お題目の信心に自己を任せるということです。自己の信心ではなくてお題目の信心ということです。そういう視点でいただくこと。これが自己を空白にするということだと思うのです。
自分が何を求めて法華経の信仰をしているのかということです。社会の人達が、自分の生活が苦しい、会社の経営がうまくいかない、家族関係がうまくいかない、人間関係がうまくいかない、だから、お題目の信仰をする、或いはご祈祷を受けます、ということだって、当然あり得ることです。そういう風な信仰の現状を通しながら、言う所のお題目を受持する、即ち自己を空白にして受持するということとの関係をどう考えていくかということが、やはり課題になっていくわけです。この会は、僧侶と寺族の方の研修会ですから、本質的な話をするのですけれども、日常的に問われていることはむしろそういう社会の人々の要求ですね。そういう人達に対して、自己を空白になどと言っても通用しません。今自分は悩んでいるのだから、その悩んでいる自分にどう応えてくれるのか、ということだと思うのです。それに対してどう応えるかということも、これは一つの課題です。
それに応えるためには、本質的な視点というものをきちんと踏まえていかないと脱線してしまうと思うのです。社会の要求だけに身を置いていると、社会の要求にだけ応えているということになると、日蓮聖人の宗教或いは日蓮宗の宗教ではなくて、社会の人に、ただ臨機応変に対応するだけのその場その場の宗教になってしまって、教団としての、日蓮宗としての一貫性を持たない。本質をどこかに置いてきぼりにしてしまう、そういう危険性を孕むと思います。
教団というものは、常に危機と共にあると私は考えています。別に教団だけではないのです。あらゆるものが危機と共にあります。危機とはどういうことかと言うと、例えば企業でも一つのことが引き金になって倒産するということです。一つのことで社会の不信を買うとか、不買行動になってしまうとかということがあります。今は商品に何か、問題が生じたら、全国紙の新聞にお詫びの文章を出したり、テレビで注意を呼びかけたりしています。今やっているのは、ストーブとか、ガス湯沸かし器ですね。それから自動車もそうですね。自動車のリコール問題。それを公表しないで事故が繰り返しおきる。それは企業の責任になる。そういうことで、あらゆるものを公開して、そして人々の要求に応えていかないといけない。
そうすると、きちんとした理念や姿勢を持っていないと、突然危機におちいる。或いは教団が、或いは寺院が、或いは僧侶が基本的理念を持っていないと、いつ脱線してしまうかわからない。理念と現実とは、往々にして大きな溝を持っている。それをどう埋めていくのかといった時に、きちんとした理念を持っていなければ、社会的な要求だけに流されていってしまう。当面は繁昌するかも知れませんけれども、それは本質的なものではありません。或いは、普遍的なものにはならない、その時は良かった、その時代は良かったけれども、時代が過ぎたら批判の対象になるということもある。
教団は常に危機を背負っているというのはまさしくそういうことです。例えば悩みを相談した。そしたら、これを買ったら先祖の因縁が治るとか、病気が治るということになり、それが当たり前の教団になってしまいますと、日蓮宗とはどういう教団なのですか、というようなことが問われてくることになります。今は高学歴の社会です。色々な質問が電子媒体を通して飛び交う時代です。すぐに賛成も出れば批判も出る時代です。そういう危機を孕んでいる。日蓮宗の名前を背負っていますから、何かの事件が起こった時に、教団はそれに対してどういうような指導をしていたのですかというようなことが社会から問われる。
別にこれは教団だけではありません。なにでもそうです。あらゆる組織というのはそういうものを抱えているのです。
今お話していることは、本質的にこうあるべきではないでしょうかという私自身の考えです。そういうようなことを参考にしていただいて、自身はどう考えどう行動するかというきちんとした理念をお持ちになって、それで、社会の人達のいろいろな要求に対応していっていただきたいと思います。
自分はこういうことを考えているのだから関係ないと言っていると、それはまた社会から遊離してしまって、社会に必要のないものになってしまう。お坊さんだけの寺院、お坊さんだけの教団では社会の人々にとって意味がないわけです。ただお坊さんだけの共同体では意味がない。社会にとっては意味がないのです。社会の人達に如何に語りかけ、社会の人達と共に、いわば精神的にも、より高次な世界へ上っていけるような、そういう教団でなければならない。自己を空白にするということは難しいことなのですけれども、お題目をいただくということはそういうことだと思うのです。
=cd=70b6 三業円満の唱題
=cd=70b6の、三業円満の唱題。身体で唱えるお題目、口で唱えるお題目、意で唱えるお題目、これを専門用語で三業円満の唱題といっているのです。
身体で唱えるというのは、お題目の生活です、お題目の実践です。例えば、現在、日蓮宗では「立正安国・お題目結縁運動」をやっているのです。立正安国とは、正しい教えに立脚した平和な社会を実現しましょうということです。平和な社会を実現するために何らかの形で実践していく。いろいろな方法があると思いますが、身体で実践していく、日常生活の振る舞いで行っていく、言葉を換えれば、身体でお題目を唱えるということです。身体でお題目を唱えるということはまさしく、お題目の生活を体現していくことだと思います。
口で唱えるお題目。唱題です。なぜ口で唱えるのか。念仏もそうです。口から発する言葉は魂だと言う。まさしく言葉は魂です。魂が発露して言葉になる。お題目を唱えることはお題目そのものになることです。要するに自身の唱題はお題目に対する自身の問いかけです。そしてお題目から自分へ答えが返ってくる。そういう、お題目と自分との一体化がお題目を唱えることだと思うのです。唱えるということは、自分から声が外に出ていく。外へ出ていった声は何処に行くのかというと、このお題目が仏様の所に届いて、仏様から自分へ返ってくる。お題目は仏様に届き仏様から返ってくる。それは自分自身を確認することです。お題目を唱えることはお題目に自分を確認すること。お題目における自己を確認することだと思うのです。
唱えるということ自体については非常に歴史的な意味があるのです。例えば、お寺では声明をとなえます。声を発して仏様を讃える。そのことに深い意味がある。それから、繰り返すことにも深い意味がある。言葉は言霊と言われている。だから言葉は魂だと思うのです。
念仏と対比すると分かりやすいと思うのですけれども、念仏では例えば、一念と多念という議論があった。これは、念仏は一回称えればよいのか、たくさん称えたほうがよいのかということです。お題目でも一回でよいか、多いほうがよいかという議論にもなります。念仏は称名念仏です。浄土宗や浄土真宗の方は称名念仏です。称えるのは何のためか。まさしく、阿弥陀様と一体化していくことです。
例えば、法華経の普門品では南無観世音菩薩とあります。念彼観音力は彼の観音の力を念ずれば。あるいは観音の御名を唱えればとあります。そういう、念ずること、唱えることは、仏菩薩に対する帰依を表わしている。それを繰り返すことによって、信心を持続させるのです。一種の精神的統一でもあります。坐禅のように黙して仏様を念ずることは困難なことかと思います。それに対して、南無阿弥陀仏とか、南無観世音菩薩とかを繰り返してとなえることは、精神を統一し、自分の心、自分の全身、自分の全霊を仏様に向けていくことができる。
いずれにしても、お題目を唱えるということはそういうことです。お題目に自己を投入することです。或いは自分自身を問いかけていくこと。即ち、仏様の中における自分を確認する。お題目の中における自分を確認する。その繰り返し。それが、お題目を唱えることであると思います。
身体や口で唱えるお題目は信仰の表出です。信は心の作用です。その信を表に現わす。専門用語で有相化と言います。信という心底にあるものを表に現わす、表現する。心を形で表現します。例えば、身体で表現したり、或いは口で唱えたり。信が表に現われる。そうすると、身体で唱えるお題目や口で唱えるお題目となる。これは信仰の表出です。信仰の心は見えません。心の中は見えません。心は見えなくとも見えることもあるのです。怒った人の顔を見ると怒った顔をしていますから、怒っていることが分かります。しかし普通は何を考えているのかは分からない。これは当たり前です。心は分らない。しかし、心が分かることもある。それは表現されるから分かるのです。皆様がここにおいでになったのも、行こうという何か意識が働いたからみえたのです。心が皆様を突き動かしたということでしょう。そうすると、心にあるものが現われた。
仏教では、心と外に表われた色とは一つだと考えています。これを色心不二といいます。心と形、心と行動、心と実践、これは一つだと考えています。三業円満とは、自分の信心の世界が表に現われ、それが一体化するということです。
心で唱えるお題目は、まさしく信心ということです。心で唱えるお題目とは信心のお題目を唱えるということです。身体と口と信心と、この三つが一つになった、これが三業円満ということです。業とは行いということです。身体と口と心の三つの行いが円満、一つです。一つになること、これを三業円満の唱題と言っているのです。
皆様も恐らく今日に至るまで、数え切れないほどお題目を唱えられたでしょう。今この瞬間にも、日本だけではなくて世界の何処かで、ものすごい数の方がお題目を唱えていると思います。そういう風に、お題目は大勢の人々が唱えているのです。その中で、本当に、三業円満のお題目が唱えられたかといいますと、これはなかなか難しい。先ほど言いました。色も香りも味わいもよい、飲みやすい薬が題目だと。ということは唱え易いということです。唱え易い題目は唱え難いのです。唱え易いけれど唱え難い。信心が、本当に結実していれば、こんなに唱えやすいものはない、こんなに信仰しやすいものはない。ところが、信に揺らぎが生じると、唱え難いということになります。それがお題目です。お題目とは唱えやすくて唱え難いということです。
皆様も自分の身に当てはめて考えてみて下さい。本当に三業円満のお題目を唱えたことがあるかどうか。自分は自信がありますという人は幸せです。それから、そういう人を知っています、或いは自分の師匠がそうです、自分の親しい存在でそういう人がいる、という人はそれはまた幸せです。本当にお題目を唱えている人のそばで生きられるということは幸せです。
日蓮宗が始まって以来、宗門史上、どのくらいの方がお題目を唱えたでしょうか。数え切れないですね。それらの人々がどのぐらい三業円満にお題目をお唱えになったか。お題目に身を挺した人は、著名な人もいるし、名の残らない人もいるかも知れない。残る残らないに関わらず、それぞれがどのような努力をして信仰生活を営んできたか、それを考えると大変な歴史です。その多大なる蓄積の中に、今日の私達のお題目信仰があるということが分かります。
昔の人はよく勉強されたと思います。特に江戸時代の檀林が盛んだった時代には盛んに勉強して、上の檀林に行こうとしました。そういう風な、積み重ねの中に今日があるということです。歴史に残る人が全部ではないから分かりませんが、昔の人はよく勉強したと思います。もしかしたら、昔の人のほうが勉強をしたかも知れないですよ。誰もが勉強できる環境にあったとは限りませんけれども。江戸時代の和本がたくさん残っています。宗門の出版社がたくさん本を出しています。本が出るということは売れるということ、売れるということは勉強しているということですね。ですから、過去の人はよく勉強なさったという風に思います。
我々に分かる方、分からない方、いろいろありますけれども、大勢の方がお題目を唱えています。
6、お題目を唱えることとお題目を弘めること
その次が6です。お題目を唱えることはお題目を弘めることであり、お題目を弘めることはお題目を唱えることである。お題目を弘めることとお題目を唱えることとは一つ。弘めることは慈悲行です。他の人を利する。利他です。他の人のために役に立つ。その慈悲行は、自らをも利する。自らの功徳ともなる。自利です。そうすると、弘めるということと唱えるということとは、利他と自利を兼ね合わせたものです。自他不二です。
仏教というのは、歴史を振り返りますと、小乗の仏教と大乗の仏教があるのです。小乗とは、そもそもが大乗の視点にある人達が上座部の人達を批判して言ったことです。どうして大乗の人達が、小乗の人達に対して批判を加えたのかというと、これは明らかにこの問題ですね。大乗は利他の精神、小乗は自利の精神。他を利することが大切だ、自分の利益を考えては駄目だ、というのが大乗の精神ですから、この価値観に立ったので、小乗を批判した。
大乗の中でも、最もその精華といわれているのが法華経です。大乗仏教の中心の法華経。法華仏教は大乗の中の大乗なのですから、これは明らかに、利他を中心とした慈悲仏教です。法華仏教は慈悲仏教です。ですから、自身が仏様のようになろうとか、自身が救われようとか考えていたら、それは法華仏教にはなりません。他の人のために如何に自分が役に立つのかという風に、仏様のお心を帯して生きようというのが法華仏教の神髄です。ですから、この尊い教えを弘め、人々が仏様のようになっていただきたい、それが、法華仏教の精神、慈悲ということです。
そうすると、唱えることは必ず弘めることを意味しています。弘めることは慈悲の実現です。唱えることと弘めることとは一如しているのです。
唱えるというのは、ただ単に仏様に向かってお題目を唱えていれば唱えたことになるのではありません。なるけれどもなりません。題目を唱えるということは色々な意味があります。例えば先ほど、立正安国ということで、世界の平和、人々の幸せのために努力をするということもお題目を唱えることだと言ったように、お題目を唱えるということはいろいろな意味があります。ただ、自身のみの利益を考えて唱えていたら、それはお題目を唱えたことにはなりません。お題目を唱えるということは、必ず、一切の人々の幸せを願うことです。
だから例えば、日蓮聖人は法華経は孝経であると仰っています。自分の親の菩提を弔うためだけにお題目を唱えても、それはお題目にならないのです。お題目は一切の人々を救う教えですから、一切の人々の救いを祈る、そこに、必然的に父母の救いが実現するのです。だから、一切の人々の救いを抜きにして、父母の菩提のためにのみに法華経を読誦し、お題目を唱えても、それはお題目を唱えたことにはならない。それは法華仏教の大きな特徴だと思います。
法要をなさる時に、お題目を唱えて、何々の霊位に向かってご回向なさるけれども、その回向の背景には必ず、一切衆生にこの功徳を回らすという、そういう意図がなければ、そういう気持がなければ、その祈りは成就しない、という風に考えてよいと思います。それが、唱えることが弘めること、という意味です。
7、唱えるとどうなるのか
その次に7、唱えるとどうなるのか。これは、救いということに繋がっていきます。そして、功徳の受得。お題目を唱えることによって仏様のご功徳をいただく。ご功徳は、先ほども申しましたが、最高の価値です。因果の功徳です。因は釈尊の永遠の慈悲行です。果は釈尊の仏徳です。そのご功徳をいただく。『観心本尊抄』には、「自然に譲り与えたもう」とあります。私達がお題目の信仰をすれば、そこにご功徳がついてくる。だから、ご功徳をくださいという必要はないのです。お題目の信仰が、まさしく仏様のお心にかなうものであれば、仏様は自然に譲り与えて下さる。自然とは、自ずから然らしむということですから作為的にどうするということではないのです。私達が本当にお題目を信仰すれば、仏様は功徳をくださいます。お題目は、唱えればご功徳がついて回る。そういう論理構造になっているのです。
ところがそうは言っても、日常生活、今日も冒頭でお話しましたように、商売がうまくいかないとか、子供が非行に走りましたとか、そういうようなことが日常渦巻いているわけですから、その中で、お祈りしてくださいとか、そういう要求が出てきます。そういう、ご祈願をすることがありますけれども、その精神には必ず、こういう、仏様への信心には必ず功徳がついて回るという信念、理解、信心の置き所が必要であると思うのです。
その次は、現世の救いと死後の救いです。現世は即身成仏、死後は霊山往詣。救いは、宗教的、精神的なものです。救われたからといってこの肉体が永遠に存在するのではありません。肉体というものは生命体です。生命活動するものは、生があり死があります、生があれば死がある。生まれたものは必ず死ぬということです。そういう中に身を置いていますので、肉体がそのまま残ることはあり得ません。
もしかして医学が進歩すると、永遠に生きることは不可能でも、百年後にもう一回生かすことができるかもしれない。冷凍保存かなにか分かりませんが、百年後にタイマーを入れておくと、自然に活動を始めるかも知れません。そういうことだってあり得るかも知れない。将来のことですよ。しかし、永遠に生きることはできないのではないかと思います。もし皆様一人ひとりが永遠に生きたらどうなりますか。この地球では生きられない。限界がありますから。資源の限界がありますから。生きるための基本的な衣食住をどうまかなうのですか。エネルギーをどうまかなうのですか。みんなが永遠に生きると消費が増えるばかりです。どこで何を調達するのですか。地球上では足りないです。それで次なる星を求めて行って、人間が住める環境が整えられない限りは、永遠に生きることはできないのです。
人間は生き物ですから死ぬようにできているのです。人間は死ななければ繁栄しないのです。人間がずっと生きていたら、次なる子孫は繁栄できない。だから、死すべく人間は生きているのです。これは生物学的に考えてもそうですね。死ぬようになっているのです。例えば心臓がだめになるとか、脳がだめになるとか、そういう決定的なものがあるのですね。指を怪我しても治りますけれども、心臓と脳はそう簡単には治らない。そういう風にできている。それは何故かというと、死ぬためですね。人間は死ぬようにできているのです。
救いということは、肉体的な永遠ではないのです。宗教的な永遠です。精神的な永遠性です。永遠の存在と永遠の時間を、宗教的に受け止める、宗教的に受得する。それが即身成仏、現世の救い、お題目による救いということです。
そうすると、救いということは、瞬間的にはあるかも知れないし、或いは人によっては持続するかも知れないし、持続していてもまた、救いではない時が来るかも知れないし、また救いが来るかも知れない。宗教的救いは感応ということになるかも知れませんね。
その感応が本当の救いかどうかということは、仏様に聞くしかないから、これは、真摯に仏様に尋ね求めていく、そういうことを繰り返す、それが救いということだと思うのです。
こういう話になると、例えば、本当に救われた人がいるのですか、お題目で救われた人がいますか、お題目で成仏した人がいますか、今、成仏した人がいますか、会わせてください、とこういうことなりますね。
成仏、救いというのは、瞬間的な心の宗教的感応ですから、私は今救われていると思っている人がいるかも知れない。それを他の人が見れば、あの人は救われていないと思うかも知れない。それはやはり、その人の、信仰者の、仏様との交流の中で成就していくということになるかも知れませんね。これが成仏であるという共通した認識があれば、あの人は確かに成仏しているという風に、その集団の中では認識されるかも知れない。しかし集団以外の人から見ると、認められないと言われるかも知れない。それが、現世の救いということです。
死後の安心は霊山往詣です。霊山浄土という仏様の浄土に往って仏様にまみえる。それは宗教的な安住の場所、即ち、仏様と共にあるということです。生きていても仏様と共にあり、死んだ後も仏様と共にあるということです。即身成仏は現世において宗教的な安らぎを、霊山往詣は死後、仏様の浄土に救われていくという安らぎを得るのです。
この現世の救いと死後の救いは一つです。現世において救いが成就され、死後の安らぎとして霊山往詣があります。
ですから、日蓮宗では、お葬儀をする時、引導教訣する時、霊山浄土に往きなさい、仏様の所に行きなさい、仏様にまみえるのですよという風に文を唱えるわけです。
死後の永遠の浄土は、現世の信心において成り立つのです。現世で信心を持てば、仏様が自然に霊山浄土に迎えいれてくださる。だから、生前にきちんと信心を確立しておかなければいけない。
現世と来世を総括した考え方が、『観心本尊抄』の「今本時の娑婆世界」です。今本時とは、永遠の今です。今という瞬間に永遠がある。哲学用語では絶対現在。仏様と自身とが感応道交した救いの境地、それが永遠の今ということです。大曼荼羅本尊は仏様と信仰者とが感応道交した世界。感応道交とは、仏様のお心、仏様の慈悲と、私達の信心とが一体化した世界。これが、永遠の今。これが今本時、今本時の娑婆世界です。
浄土はどこにあるのかというと、浄土は今ここが浄土。それから、死んだ後に赴く霊山浄土もまたここにあります。同時です。現在と未来は同時です。我々はどうしても唯物的な視点で考えますから、今ここと死んだ後の浄土とは違うのではないかと考えるのですけれども、仏様は常に私達と共にいて、現在、過去、未来という時の流れを超えて、常に私達のそばに寄り添っておられる。生きていても共にある。死んでも共にある。それが霊山浄土。
霊山浄土というのは、言葉の意味では、法華経を仏様がお説きになった場所のことを言っているのです。信仰上でもインドの霊鷲山というお山というように思うけれども、そういう限定された場所ではありません。法華経をお説きになった霊鷲山という所が、法華経の信仰者の永遠の安らぎの場所であると信仰的に認識をしているのです。ですから、歴史上、地図上、ここだとは限定はできないのです。我々がいるこの場所がそのまま仏様のまします霊山浄土であると考えています。だから、生きていても死後であろうと、我々は常に仏様の浄土にいる。
仏様の浄土にいるとか救われているということの実感は、信仰のありようによって違いが生じるだろうと思うのです。ですから、自分の信心を仏様にお尋ねし、仏様からその証をいただくということを、常に繰り返していくことがなければ、救いと浄土の実現も、なかなか困難だと思うのでございます。
8、お題目を唱えることと自身の生き方
その次に8、お題目を唱えることと自身の生き方。お題目に自己を実現する。すなわち、お題目を唱えることは自身の真実の顕現、自分自身が真なる自己であるということを露わにすること。これがお題目を唱えることであると思うのです。お題目を唱えることは真の自分に目覚めるということです。真の自分に目覚めるということは、仏様の心に抱かれた、お題目の信仰に抱かれた自分自身の本当の姿に目覚めていくということだと思うのです。お題目の信仰に最高の価値を見出すことができた者は、まさしく、お題目そのものの中に自身の真実を顕現するのです。
先ほどの立正安国ということもまた、立正安国という運動を通して自身の真実をそこに顕現していく。
お題目を唱えることが自己実現であるということがどういう事を意味するのかと言いますと、仏様と信仰者とがお題目を通して一体化していくことです。お題目は、今日の冒頭でお話した寿量品で説くところの良薬であり、如来神力品で説くところの要法ですから、お題目は仏様が我々に提示して下さっている教え、お薬です。、それに対し私達が信仰します、それが唱題ということ、言葉をかえれば題目を受持するということになります。仏様と私どもとの間にはどういう関係が成り立っているのかというと、仏様は我々を救おうとなさいます。これが慈悲です。我々は仏様に対して信心を捧げます。仏様と我々とが、慈悲と信心の交流をすることによって、そこにお題目五字七字の世界が現出します。ですから、お題目を唱えるということは、お題目の世界に自己を実現する。すなわち、言葉を換えて言えば、それは私がお題目を唱えているのではなくて、お題目の中に身をゆだねて生きている自分がいる。これはさらに突き詰めていけば、お題目がただそこにあるというそういう世界です。仏様と自己とが一体化して、お題目の中に自己がうごめいているというか、ゆらゆらしているというか、そういう世界です。これが私達がお題目を唱えているという究極の世界です。仏様と自己とが一体化している世界です。そういう境地であると思います。
我々はまだまだです。例えば御宝前に奉安された仏様にお題目を唱える。奉安されている仏様と自分とが相対化していれば、それはまだお題目と一体化していることにはならない。形式は相対化しているのですが、その相対化した仏さまと自己とが一体化したところにお題目の信仰がある。それが大曼荼羅の世界でありご本尊の世界であります。
向こうに仏様がおられて拝むというのは相対化した本尊です。本尊と私とが慈悲と信心とによって一体化している、円融している。その円融した世界が、信心の世界であり本尊の世界であり救いの世界であるということになると思います。それは、理屈では言いますが、その境地に入っていくのはなかなか難しいと思いますけれども、入って行かれた人はおそらく先師には何人もおられると思います。まさしく無心、自身を忘れてしまって、自身を忘却してしまって、お題目の世界に身をゆだねていった方は先師の中にはおられたと思います。
鎌倉時代というのはたいへんな時代です。偉大な宗祖と呼ばれる方たちを輩出した時代です。その後、どうしてそういう偉大な人が出ないのかなと思うのです。現在、伝統教団と言われている宗教、例えば浄土宗、法然上人です、浄土真宗、親鸞聖人、或いは、曹洞宗、道元禅師、或いは時宗の一遍聖人、そして、日蓮宗の日蓮聖人とか、そういう方達が輩出した時代です。そういう時代には、どうしてこのような、深い宗教哲学、宗教理念が提示されたのでしょう。提示されただけではなくて実践されたのです。その教えが、日蓮宗なら七五〇年ということですが、営々として今日伝えられ、大勢の人達に信仰されているわけです。これは本当に不思議としか言いようがないですね。そういう境地に入ったのは、日蓮聖人だけではない。道元禅師は心身脱落。これは有名な言葉ですね。身と心が落ちるというのはまさしくこの世界のことですね。自分が無くなった。自分が無くなるということは自身と仏様の世界とが一体化して、私という実体はどこにもない、仏様の中にまさしく円融した。そういう境地を道元禅師も仰っています。それから、法然上人にしても親鸞聖人にしても一遍聖人にしても、念仏信仰を通して弥陀の世界に自己を没入していった。そういう宗教です。そういう教えが人々の心を打って、今日の伝統教団として残っていると言えるのではないかと思うのです。
日蓮宗で、日蓮聖人の教えを追求している専門職の人はどのくらいいるのでしょうか。広く言えばお坊さんは皆専門職ですけれども、日蓮聖人の教えを日々追いかけて生活している人は、現在、どのくらいいるのでしょうか。例えば立正大学に何人いるか、身延山大学に、或いはその他宗門系の教育研究機関、現宗研もそうです。或いはその関連の人たちがどのくらいいるのでしょうか。寂しい限りだと思います。それに対して、一番多いのは、もしかすると浄土真宗ですね。お東さんとお西さんがあります。膨大な人たちが、毎日毎日、親鸞聖人を追い求めているのです。どのくらいの数でしょうか。今こうしてる間にも、親鸞聖人のご文章を読んで勉強している人たちがどのくらいいるのでしょうか。大変な人数ですよ。
鎌倉の先師方は皆深い境地に入っていかれた。それが今日の私達の大きな財産であると思います。仏教、そして日本の伝統教団の教えというものはそうそうには乗り越えることができない。それほど深い教えを秘めていると思います。
9、お題目系他教団との違い
それでは次に9、お題目系他教団との違い。
(1)主たるお題目系教団の概要
主たるお題目系教団の概要として別紙を参照して下さい。資料には専門的なことが書いてあります。宗派名、創設者、本尊、教典、それから教義について分類したものです。これが宗派の全てではありません。もっとたくさんあります。時間がないのでお話できません。資料は参考としてご覧になってください。
(2)主な題目系新宗教教団の教え
主な題目系新宗教教団の教えについて極簡単にご紹介いたします。
①霊友会
在家主義の教団です。先祖供養を重視します。導きを通して心の交流をはかり、仏子の自覚をもって仏様の世界を実現することを目指します。
②立正佼成会
霊友会から分立した在家主義の教団です。相手を敬う仏性礼拝、慈悲の実践としての菩薩行、自己反省としての懺悔、先祖や親を敬う先祖供養、会員間の対話と学習の場としての法座、家庭や社会の平和の実現などを目指します。
③創価学会
元は日蓮正宗の信者団体でしたが、後に日蓮正宗から分立した在家主義の教団です。日蓮大聖人の仏法を標榜し、日蓮大聖人を本仏と仰ぎます。
(3)主な題目系新宗教教団の特色
主な題目系新宗教教団の特色について総論的に概説いたします。
教えを単純化し理解し易いものとなっています。先祖供養を通して先祖への畏敬や崇拝を重んじます。日常の倫理を説き道徳・平和・孝養を大切にします。人間精神の陶冶を目指し、目覚め・反省・人間性・人格の向上を重視します。個人の救いを説き願望の充足・悩みの解決・心の救いを目指します。社会への対応としては社会奉仕・平和運動に力を入れています。時代への対応としては環境・生命・教育・家庭・倫理・医療などの日常生活にそくした現代社会の諸問題に取り組んでいます。導き・法座などをとおして相互交流をはかり連帯意識を高めています。
このような教団の活動を日蓮宗の信仰の視点から吟味検討し、長所と思われる点は大いに見習い活用すべきでしょう。
おわりに
今日おいでになっているのは、寺庭婦人の方が多いと思います。中には課題をもってお見えになっている方もあるでしょう。むしろ寺庭婦人の方のほうが最前線かも知れません。ご住職はお葬儀とかご法事とかご祈願とか、それから月経だとか、そういうようなことに忙殺されている。或いは宗務所の仕事、中には、地域社会で役員をしたり、何かの活動をなさっている。そうすると、実際に檀信徒の皆様や地域の人々の相談相手、悩みの相手、心を開いて色々お話を聞く、それをなさっているのは寺族の方たちです。そういう人たちが、本当にきちんと日蓮聖人の教えに基づいて対応できるかどうか、信念を持ってお話できるかどうか、ということが大切なことです。寺族の方々の資質の向上が、日蓮宗の充実に直結しています。多忙であることはわかりますが、時間をやりくりして、こういう研修の場に身を置いていただけば、自分の視野が広がるし友達もできるし、そしてこういう問題がある時はどうしたらよいかということをお互いに情報交換できる。そういうことが必要であると思うのでございます。
そのようなことを申し上げて、私のお話を終わりにさせていただきます。不足の部分は質問の時間にお尋ねいただきたく思います。ご清聴頂きありがとうございました。南無妙法蓮華経
(これは、平成十八年九月二十八日に大阪府高槻市・高槻現代劇場市民会館での日蓮宗現代宗教研究所主催、大阪府三島宗務所共催講演を収録したものです。)