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現代宗教研究第41号 2007年03月 発行

明治維新の神仏分離政策

 

明治維新の神仏分離政策
(明治大学名誉教授) 圭 室 文 雄  
 はじめに
 日蓮宗宗務院伊藤主任さんからご紹介頂きました圭室です。私も曹洞宗の寺の生まれですが、大学を卒業して以来教員をしておりましたため僧籍はとらずにきてしまいました。しかし日本仏教史の研究は続けております。本日は表題のようなテーマで話をさせて頂きます。
江戸時代の日蓮宗寺院の地域分布
 まず日蓮宗寺院を全国的に見渡した場合の地域分布を検討します。江戸時代初期の史料としては国立公文書館内閣文庫に所蔵されている「諸宗寺院本末帳」の中から日蓮宗の本末帳を拾い出してみますと、いずれも寛永十年(一六三三)一月から十二月にかけて日蓮宗の各本山寺院から幕府に提出されています。以下その表題のみ書き上げてみますとつぎの通りです。「法華宗諸寺目録」(身延山久遠寺)・「洛陽二条寺町要法寺末寺帳」・「京都本隆寺末寺帳」・「京都妙蓮寺末寺帳」・「京都本満寺末寺帳」・「京都立本寺末寺帳」・「京都本国寺末寺帳」・「京都妙満寺末寺帳」・「京都妙顕寺末寺帳」・「洛陽本禅寺末寺帳」・「京都本能寺末寺帳」・「京都本法寺末寺帳」・「京都妙傳寺末寺帳」・「京都妙覚寺末寺帳」・「京都頂妙寺末寺帳」などです。
 しかし幕府の布達から一年足らずで寺院本末帳を提出したため、充分な調査は出来ず、不備が多かったようです。たとえば京都妙満寺末寺帳の巻末には次のように記されています。(原文は漢文の白文ですが、かな混じりに改めました。以下同じ)
  当寺の諸末寺の儀、寺中存知の通り、去春(寛永九年)書き立て調進せしめ候、そのご国々へ使者をもって相尋ねいだし、去春の帳面の末寺号に加え添え仕り、挙達いたしおわんぬ
とあり、前年の寛永九年三月までに一応寺院本末帳を作成したが、その後全国の末寺に確かめて、今回提出した、と記しています。
 京都妙覚寺末寺帳の巻末には次のように記されています。
  前代より末寺の記録これあるべく候といえども、このたび住持かわりの砌、歴代相傳の什物・章疎以下まで、納所など私曲いたし、あまた取り散らし候ゆえ、帳・記録紛失いたし候、末寺・宿坊大形退出し候の間、只今相残る在住の僧、覚えの通り書きたて進上し候、但し右書き出し候内に、あるいは退転の寺、あるいは門派改変の寺、あるいは書き落とし候寺、これあるべきといえども、覚え分まずはかくのごとく候、
と、前代までの記録が残っていないこと、多くの不受不施の僧侶が寺を退出してしまったことを理由にあげて、不案内の様子を記しています。現在残っている僧侶の覚えを頼りに、末寺を書き上げた、としています。しかしこれ等の末寺の内、廃寺になった寺、改派した寺、書き落とした寺などがあると記しています。なお妙覚寺末寺帳を詳細に検討してみますと、「壱ケ寺、寺号失念申し候」「右三か寺、寺号失念申し候」「くらしきに壱ケ寺、寺号失念申し候」などと記され、寺名の記述のない寺が合計二十一か寺書き上げられています。
 このほか妙満寺末寺帳の上総国の項では、多くの末寺名が書き上げられていますが、その様な末寺名の間には、一行で「同国(上総国)八十一之寺」と書かれている箇所もあります。これはいちいちの寺名が確認できなかったため寺数のみを記しています。
 以上のようなことから寛永十年段階での寺院本末帳では本寺が末寺を充分に把握していたとは言いがたいと思います。しかし現存する寛永十年段階の史料はこれだけですので、とりあえずこの史料を分析してみたいと思います。
 まずは第一表を説明します。北は松前(北海道)から南は薩摩(鹿児島)にいたる地域の日蓮宗寺院の分布状況について表示してみました。
 寛永十年の日蓮宗寺院本末帳によると、所収されている寺院数は二四一〇か寺です。地域別にみますと、末寺が最も集中しているのは関東地方の九七九か寺です。全体の約四〇・六%に及びます。日蓮上人活躍の舞台が関東であったことから、所謂霊跡寺院が多く、このことから中世後期以降日蓮宗寺院が数多く成立したものと思われます。これにつぐのが甲・信・北陸地方です。この地域には身延山久遠寺がある甲斐国をふくんでいるので、末寺数が多く、五五七か寺で、全体の約二三・一%を占めます。第三位は中国地方で、二八〇か寺、約一一・六%です。第四位は近畿地方で、二六九か寺で一一・二%です。
 一方日蓮宗の寺院が少ない地域を見ますと、まず四国地方を挙げることが出来ます。二〇か寺で、全体の約〇・八%にすぎません。特にこの地域は弘法大師信仰が盛んなところで、各宗派ともなかなか浸透できないところです。ついで少ないのは北海道・東北地方で、合わせて二二か寺、全体の約〇・九%です。この地域は曹洞宗が積極的に教線を伸ばしたところですので、日蓮宗が展開しにくかったといえます。三番目には九州です。全体で六二か寺で、約二・六%です。この地域は一向宗の西本願寺派・興正寺派が圧倒的に強いところでしたので、日蓮宗の教線はそれほど伸びていません。
 次に第二表でもう少し詳しく国単位で日蓮宗寺院の様子をみてみましょう。
 日蓮宗寺院は全国六五か国に分布しています。先述のようにやはり関東地方に日蓮宗の拠点があったことが読み取れます。全体の第一位は上総国で、四五二か寺あります。さらに現在の千葉県である上総・下総(一部は茨城県)・安房の三か国でみますと、五九八か寺を数え、全国の合計の約二五%を占め、日蓮宗の寺の四分の一が集中していることがわかります。第二位は甲斐国二三八か寺です。ここは身延山久遠寺のお膝元です。第三位は相模国です。一七七か寺で、日蓮上人活躍の場であった鎌倉を含んでいます。第四位は武蔵国一七二か寺です。ここは江戸を含んでいます。以下順番に挙げますと、第五位は下総国一三五か寺、第六位は大坂を含む攝津国一〇三か寺です。第七位は越前国九五か寺、第八位は越後国と山城国の八〇か寺、です。第十位は駿河国の七七か寺です。
 以上ベストテンを見てきましたが、日蓮宗末寺分布の特色は、まず一つは日蓮上人が活躍した地域、二つ目には大都市を抱えた地域などが上げられます。これに対していわゆる農村部への教線の展開は上総国や甲斐国を別とすると、他の地域は寛永十年段階では一向宗・曹洞宗・臨済宗妙心寺派に遅れをとったといえます。次に、少し時代は下がりますが天明年間の寺院本末帳について検討します。
 天明年間日蓮宗の寺院本末帳 史料は水戸彰考館文庫が大量に所蔵している「寺院本末帳」です。作成の時期は天明六年〜七年(一七八六〜七)で各宗派の寺院本末帳が残っています。幕府はこの時期仏教各宗派の本山に対して寺院本末帳の提出を命じています。これに対して日蓮宗寺院から提出されたのがこの寺院本末帳です。なおこの史料の原本は残っておらず写本です。この史料を利用して表を作成してみました。第三表がそれです。
 日蓮宗寺院は表示の如く全国六七か国に存在しています。地域によりかなり寺院数の偏りがありますが、まずは寺院数の多い順に検討してみます。表でみますと末寺数とあるのは日蓮宗の末寺を示したものです。これに対して塔頭とありますのは有力寺院の境内にある寺中の寺院をさします。これ等の塔頭は有力寺院を政治的・経済的に運営する役割を担っており、小末寺よりははるかに力を持っている場合が多かったので、ここでは末寺同様に表示しました。なおまた有力寺院や大寺が所在しない場合は塔頭も存在しない地域があります。
 そこで一応全国の末寺を北から南に配列し、末寺数と塔頭数を表示し、各国単位でこの両者を合計して寺院数をだしてみました。さて寺院数のベストテンは次の通りです。
 第一位は前回同様上総国で、六六四か寺あります。この地域で有力な寺は妙光寺・妙覚寺・正法寺・鷲山寺などです。この地域の寺数はきわめて多いのが特色です。「七里法華」と言われるだけのことはあります。
 第二位は武蔵国です。先述のように日蓮宗寺院が展開する特色は都市の民衆の葬祭に早くから手をつけたことです。その意味で城下町江戸には多くの日蓮宗寺院が存在していました。また政治的な意味で言えば日蓮宗各派の本山の触頭寺院が数多く江戸にあったのもその宗勢を伸ばす要因でした。特に池上本門寺をかかえていましたので、その末寺が一大勢力でした。
 第三位は下総国です。ここは日蓮宗の有力本山があり、とくに中山法華経寺や真間の弘法寺や平賀の本土寺などがあります。
 第四位は甲斐国です。身延山久遠寺のお膝元でもあり、日蓮宗寺院が非常に多いところです。
 第五位は山城国です。京都はいわゆる十六本山といわれたように日蓮宗の有力寺院が多い所です。
 第六位は相模国です。鎌倉に日蓮宗の寺が多く、その末寺が幅広く展開しています。
 第七位は駿河国で、第八位は越後国と肥前国、第十位は伊豆国となります。これ等の地域はいずれも大寺があり、その末寺がその数を引き上げています。
 第四表は全国を八つの地域に区分してその比較をしてみました。天明六〜七年(一七八六〜七)の寺院本末帳の数字です。先述の寛永十年(一六三三)の数字が総数で二四一〇か寺であったのに対して、天明年間は四七四九か寺です。この約一五〇年の間に日蓮宗の寺院が約二倍に増加していることが分かります。勿論これは日蓮宗だけのことではなく、諸宗派においてもいえます。
 寛永十五年(一六三八)二月、島原の乱が終結すると、幕府は半年後に全国の寺院に対して寺請証文の案文を渡し、それにそって各寺院がその周辺の民衆の寺請証文を作成し、幕府に提出しています。これが寺請制度の始まりです。しかし全国に村数約六万五千か村あったと言われるこの時期にこれ等の村々に対応出来る寺数はありませんでした。そこで民衆は寺請証文を作成してくれる寺の創設を積極的にはかるようになりました。勿論自分たちの身分保証(つまりキリシタンではないとの住職が書く身分保証)が必要であったからです。この時期全国の町や村には多くの堂宇がありました。堂宇の名前も様々で、持仏堂・阿弥陀堂・法華堂・釈迦堂・観音堂・大日堂・不動堂・地蔵堂などです。これ等の堂宇を寺に昇格させ、そこへ僧侶に定住してもらい、寺請証文を書いてもらうことを人々はのぞみました。一方で各宗派は教線の拡大をはかるため自宗の僧侶を昇格可能な堂宇に派遣し、堂宇を寺に昇格させる動きを見せています。このように近世における寺請寺院は民衆の要望と寺院側の思惑が一致し、続々と創設されることになりました。これが寺請制度の始まりの時期の寺の実態です。やや間をおいて強固な檀家制度に発展することになりました。簡単に言えば、この日蓮宗寺院本末帳を見る限り、そのほぼ半数は寺請制度施行後に成立した寺院と言えます。勿論他宗派においても同様の条件でした。割合史料が揃っている一向宗の場合は約八割の寺院が、曹洞宗においても約七割の寺院がそれぞれ寺請制度成立後即ち一六四〇年以後に成立しています。次に明治政府がおこなった神仏分離令について検討します。
 神仏分離令 明治政府が江戸時代の仏教中心の思想から神道中心の思想に転換したのは明治元年(一八六八)のことです。三月十三日神祇官を復興し、「王政復古は神武創業の始めに基づき、祭政一致を復活」するとしています。三月十七日には「諸国大小の神社において僧形で別当・社僧と称する者は復飾させる」としています。実は江戸時代までは神仏習合が普通でした。神社はほとんどと言ってよいほど寺院の境内に守護神としてか、地主神として勧請されていました。幾つか例を挙げてみますと、日光の輪王寺には東照宮と二荒山神社を、鎌倉の真言宗八幡宮寺には鶴岡八幡を、奈良の興福寺には春日明神を、山城の神応寺には石清水八幡宮、近江の延暦寺には日吉神社などです。それぞれの神社の司祭権は別当・社僧といわれた僧侶が握っているのが一般的でした。地方の有力神社も同様でした。神社の祭神も本地垂迹の名のもとにほとんどの場合神体は仏像でした。
 明治政府はこのような現状にかんがみとりあえずは神と仏を分離して、ついで仏教を排斥し神道を中心とする宗教制度をめざすことになりました。そのため明治政府は明治元年(一八六八)矢継ぎ早に神仏分離の法令をだしています。三月二十八日には太政官は次のようなことを布達しています。
一、神社名の権現・牛頭天王などの仏教語を神号に変えること
二、仏像を神体としているものは取り除き、神体は幣か鏡に取り替えること
三、神社にある鰐口・梵鐘・懸け仏などは取り除くことなどです。第一は、たとえば徳川家康の墓所は東照大権現としていましたが、この時から東照宮と称しています。そのほかでは熊野大権現を熊野神社、金毘羅大権現が琴平宮、日吉大権現を日吉神社などとしています。第二の神体は、全国の神社で幣や鏡に改められ多くの仏像が破却・焼却されました。第三の金属製品はいずれも寺から取り除き、焼却されています。しかし時代の古いものについては地元や近くの寺で保存されている例もあります。
 四月一日には全国に数多く散在していた八幡社の神名を、これまでの八幡大菩薩から八幡大神や八幡宮に変えるように命じています。その理由としては、大菩薩は仏より低い位階であるということでした。つまり神を仏の風下に置いてはいけないということでした。全国ではこの時期から神名が八幡大神あるいは八幡宮に変更されています。
 また尊王思想を持ち天皇を擁護しながら非業の死をとげた人たちの神格化の政策が取られたのもこの年からでした。明治元年四月には南朝の忠臣楠正成が湊川神社に、七月には菊池武時が菊池神社に、同二年には護良親王が鎌倉宮にそれぞれ祭られました。また一方反徳川家康の武将豊臣秀吉が明治元年閏四月に豊国神社に、同七月に加藤清正が加藤神社に祭られています。つまりこの時期にはきわめて政治性のつよい神社が建てられていることがわかります。
 明治元年閏四月神官の身分についての布達が出されていますが、別当・社僧を還俗させ、あらためて神主・社人と称するように命じています。また同月これまで神職の葬式は寺院において仏式で行っていましたが、この時神主並びに家族に至るまで神葬祭にしてよろしいと布達しています。
 ともあれこれまで寺院の付属物であった神社の独立をはかり、神社の神官を僧侶から神職に交代させていたことがわかります。しかし神社の経営はこのままでは不可能でした。そこで神社の経営を安定させるため民衆に新しい簡素な葬式の方法として、仏葬祭から神葬祭に転換することを奨励しました。
 明治三年(一八七〇)には寺院の檀家制度に匹敵するものとして、全国各地の神社に氏子帳を作成させ氏子組織をつくらせています。明治五年(一七八二)の壬申戸籍では家ごとに氏寺と氏神(産土神)を記入させ、村単位での氏子組織を作らせています。この段階で初めて村の鎮守の経営基盤が確立されることになり、江戸時代の寺院の檀家制度にかわって神社を軸とした氏子制度が確立することになりました。
 つぎに日蓮宗への太政官布達をみてみたいと思います。
 日蓮宗への太政官布達 明治元年(一八六八)十月十八日、太政官は有力寺院に対して布達をだしています。この場合布達の宛先の有力寺院とはまず京都の十六本寺である頂妙寺・立本寺・本隆寺・妙蓮寺・本法寺・妙顕寺・妙覚寺・本満寺・本禅寺・妙傳寺・寂光寺・妙泉寺・要法寺・妙満寺・本能寺・本圀寺です。
 地方の有力寺院の宛先は陸奥妙法寺、常陸久昌寺、上総妙覚寺・妙光寺・正法寺・鷲山寺、下総弘法寺・本土寺・日本寺・法華経寺、安房誕生寺・鏡忍寺、武蔵本門寺・妙顕寺、相模龍口寺・妙本寺、甲斐久遠寺・妙法寺・本遠寺・立正寺、伊豆妙法華寺・仏現寺、駿河久遠寺・大石寺・妙蓮寺・本門寺・光長寺・実相寺・蓮永寺、遠江玄妙寺、越後妙法寺・本成寺、佐渡妙宣寺・根本寺、能登妙成寺、山城満願寺、和泉妙国寺、紀伊報恩寺・養珠寺、攝津本興寺、安芸国前寺、肥前勝光寺等です。
 太政官の布達内容はつぎの通りです。
  王政復古更に維新をはじめるおりから、神仏混淆の儀、御廃止仰せい出され候のところ、その宗においては、従来三十番神と称し、皇祖太神をはじめ奉り、その他の神祇を配祠し、かつ曼荼羅と唱え候うちに、天照皇太神・八幡大神などの御神号を書き加え、あまつさえ死体に相着せ候経帷子などにも、神号を相認候こと、実にいわれざる次第につき、向後禁止仰せいだされ候間、全て神祇の称号決して相混じり申さざるよう、きっと相心得、宗派末々まで洩れざるよう相達すべき旨御沙汰のこと、
としています。神祇官は第一に神仏混淆を廃止すること、第二に日蓮宗では三十番神信仰として伊勢神宮をはじめその他の神を配していることはまかりならぬとして禁止を命じています。第三に曼荼羅本尊の中に天照大神・八幡大神などの神号を書き、経帷子などにし、それを遺体に懸けることは禁止する、としています。以上のことを速やかに実施するようにと、先述の有力寺院を通じて全国の末寺に命じています。このほかでは日蓮宗寺院が古来所持していた神像などは焼却するよう命じています。
 しかしながら明治政府のこのような布達に対して、日蓮宗寺院がこれまでの江戸時代以来の信仰を簡単に捨て去ることは出来ず、各地の末寺で混乱があったことは指摘せねばなりません。
 明治政府はさらに追い討ちをかけるように神仏分離・廃仏毀釈の実態を調査するため寺院明細帳の提出を命じました。
 寺院明細帳の提出 明治三年(一八七〇)七月二十八日「太政官布告」において「本末寺号其他明細帳」の提出を命じています。この帳面を寺院明細帳と通称しています。形式は二つあります。一つは各府藩県単位での提出を命じたもの、もう一つは各宗本山・触頭に宗派単位での提出を命じたものです。
 内容はいずれも同様です。内容について示しますと、寺名・現住所・住職名・宗派・本山・境内坪数・滅罪檀家軒数・朱印地の有無・持高(山林・屋敷地・田畑)・境内の堂宇名・塔頭名・末寺名などです。以上の寺院明細帳が明治政府に提出されたのは明治三〜四年でした。現存するものの多くは国立国会図書館に保存されています。総冊数は三一七冊あり『社寺取調類纂』に所収されています。この史料は全国ほとんどの地域を網羅しています。
 寺院明細帳は神仏分離政策がどの程度貫徹したかを追跡調査するのが目的でした。また一方では神道国教化政策を展開していくための予備調査でもありました。特にこの寺院明細帳では無住(住職の居ない寺)と無檀(滅罪檀家がない寺)をかならず記入させています。そしてこれ等の寺は明治五年以降改めて廃寺として整理されることになりました。
 明治五年十月二十九日、明治政府はつぎの如く布達しています。
  諸宗寺院の内、無檀にして無住のむきなど、多くは
   他寺より兼職し、あるいは地方村持ちと相成り、将来営繕相続などの目途これなきは勿論、すでに堂宇廃頽し、寺号のみ存し候むきこれあるべき趣に相聞こえ、百度維新の今日に当たり、前よりのまま差し置かれ候ては、名実に違不都合のすじにつき、総本寺・本山を除くのほか、右などは全て廃絶仰せいだされたく、(下略)
と、諸宗寺院の内で、無住・無檀の寺院については、多くは他寺が兼帯したり、村持ちで管理したりしているが、これ等の寺は将来にわたって修理・修復して相続させる目途がたたないこと、また堂宇がすでに廃れ、寺号だけ残っている寺もあると聞くが、明治維新のときにあたり、そのまま捨て置いては名目がたたないので、本山境内に存在する無住・無檀寺院以外はすべて廃寺とすべきである、としています。
 しからば無檀・有住の寺院(檀家はないが僧侶がすんでいる寺)の扱いはどうなのか、という問題がのこりますが、これについても明治政府は三月四日布達を出し、「無檀・無住寺院」と同様の扱いにする、とし、これまた廃寺と命じています。
 以上のように寺院明細帳提出以後の明治五年から小寺院は次々に廃寺とされ全国では数多くの寺が潰されました。ところで廃寺とした寺の事後処理はどうなったかについてつぎに検討します。明治政府は実に細かい指示を出しています。幾つかのケースについて記していますが、「廃寺は無檀・無住」「廃寺は無檀・有住」「合寺は無檀・無住」「合寺は無檀・有住」「合寺は有檀・無住」の五つのケースです。合寺とあるのは二つの寺のうち一つを廃寺とし、他の寺へ併合する寺のことです。つぎにこの五つのケースのうち「廃寺は無檀・無住」の例をあげてみます。
 ㈰領主の保護でつくられた堂宇の建物は官に没収すること、檀家(祈祷檀家)が建てた物はこの扱いは檀家にまかせること、また寺院・僧侶の資金で建てたものは官に没収する。
 ㈪境内地の場合、農民の名請地で年貢を払っていたものは名請人に渡すこと、寺院か僧侶の名請地ならば官に没収する。
 ㈫朱印・黒印・除地の田畑・山林の場合は、寺院か僧侶の名請地ならば官に没収する。
 ㈬農民が寺院に田畑を寄付した土地の場合、寺付きの地面であるので官へ没収、但し寄付人の子孫が再び所有したいと思うならば、官が相当の代価で払い下げる。なおまた仏像・什器は本寺・法類寺のうち、もよりの寺院に渡すべきこと。
などとしています。ここで強調されているのはこれまで領主から寺院・僧侶がもらっていたものは当然官が没収する、とし、また土地を買得し寺院や僧侶名義でもっていたものはこれまた官が取り上げることとし、わずかに檀家が建てた堂宇のみはその檀家の意思を認めていますが、檀家が寄進した土地については相当の代価で払い下げるとしています。以上は五つのケースの一つの例に過ぎませんが、ここで強調しているように廃寺・合寺とした後の土地の利用、山林・境内地・付属田畑のいずれも官有地として明治政府が没収しょうとしている姿勢が明らかです。これは他の四つのケースについても同様です。
 明治政府は全国各地の都市や農村で莫大な土地をこの時官有地として没収することに成功しました。とりわけ全国の城下町にあった寺町を官有地にとりあげたことはその後県庁や郡役所などの公的機関・学校などの敷地として活用することが可能となりました。
 明治政府の神仏分離・廃仏毀釈政策は第一段階が明治元年〜二年とすると、第二段階は明治五年からだったといえます。この政策により明治政府の官有地は急増し、経済的効果はきわめて高く評価されることになりました。このことにより滅罪檀家(葬式檀家)を持たなかった全国の多くの寺院は壊滅的打撃を受けることになり、葬式檀家を経営の中核とする寺院のみが生き残れることになりました。
 つぎに明治政府の中核となった薩摩藩の寺院整理の実態を検討してみます。
 薩摩藩の神仏分離政策 つぎの第五表は江戸時代の薩摩・大隅・日向地方における仏教諸宗派の分布の様子を寺院本末帳から表示してみました。
 第五表の出典は表の下に示した通りです。一つだけお断りしておかなければならないのは、薩摩藩領は薩摩国・大隅国全郡と日向国諸縣郡一郡のみですが、ここに記したのは日向国全体の寺院数です。何故ならば寺院本末帳には日向国の郡以下の記載がないものが多いからです。それゆえ薩摩藩領の総寺院数は実質では一三五七か寺よりもかなり減少するものと思います。また寺院本末帳が各宗派同一時代のものがそろえばいいのですが、宗派によって作成年代が異なっていることも指摘しておきたいと思います。ともあれ、この三か国の、江戸時代中期の諸宗派の分布を再現してみました。
 三か国でみるかぎり、寺院数が最も多いのは日向国で、ついで薩摩国、最も少ないのが大隅国です。寺院数でみますと、第一位は曹洞宗で、六一六か寺あり、全体の約四四・五%を占めています。じつはこの地域の中本寺である鹿児島福昌寺が鎌倉時代以来薩摩藩主島津氏の菩提寺であったことによると思われます。特に曹洞宗寺院数のうち、三七一か寺が福昌寺の末寺で、曹洞宗末寺の約六〇%を占めています。福昌寺がいかに島津氏と強い繋がりを持ち、その政治力で勢力を伸ばしていったかがわかります。第二位は新義真言宗、第三位は臨済宗、第四位は時宗、第五位は日蓮宗です。日蓮宗の宗勢をみますと、大隅国に集中しています。それについで薩摩国は僅か五か寺、日向国は三か寺に過ぎません。第六位は古義真言宗、以下天台宗、浄土宗の順です。江戸時代の薩摩藩領の諸宗派の現状はおおよそこのようなものでした。
 薩摩藩では江戸時代の末期慶応元年(一八六五)島津久光が領内の寺院を調査した史料が残っています。それで作成したのが第六表です。
 薩摩藩は既に明治維新の前から廃仏政策に着手していました。藩主島津忠義の父である島津久光が積極的な提言をしたのは慶応元年のことでした。島津久光は後期水戸学の思想的影響をうけ、特に天保一三〜一五年(一八四二〜四)徳川斉昭が行った水戸藩の廃仏毀釈政策を模範とし、薩摩藩でも実施しょうと計画をしていました。この時島津久光は寺社奉行などを使って領内の寺院調査をしています。これ表示したものが第六表です。
 薩摩藩領内の寺院総数は一〇六六か寺です。第五表とは異なりここでは日向国諸縣郡と記していますので、ここでは薩摩藩の領域だけの書き上げであることがわかります。鹿児島城下にかなり寺が集中している様子がうかがえます。次に堂宇数ですが、全体で四二八六堂宇です。堂宇の管理者は三つのタイプがあります。㈰寺院の管理、㈪村の管理、㈫個人持ちなど、です。堂宇の数は寺の約四倍の数字です。この堂宇にもかならず仏像が安置されていましたので、仏像数もほぼ同数と考えられます。寺院と堂宇を合計しますと五三五二か所になります。島津久光はこれを全て破却・焼却すべし、としています。つまり仏像もこの時破却されることになります。
 また寺院や堂宇にあった梵鐘・仏像・仏具などの金属製品はいずれも武器の材料にする、としています。そして領内寺院・堂宇の金属製品の代価は約一〇万両と見積もっています。
 一方で寺院が存在することによる無駄な出費は、寺院伽藍・堂宇の修復費並びに朱印地・除地・寺領・境内地などの優遇措置を含めれば、約一〇万石の出費に匹敵するとしています。薩摩藩の年間収入は総石高が七三万石ですので、年貢率三割と見積もって約二二万石です。先述の寺院の金属製品の代価一〇万両(米約一〇万石)、それに寺院に対する出費を合計すると約二〇万石になり、薩摩藩の一年分の収入に相当する、としています。島津久光はまず廃仏毀釈に着手して藩財政を立て直そうとしました。
 また僧侶の処分についても彼は言及しています。僧侶は全員で二七四四名いましたが、全て還俗させるべき、としました。僧侶の身の振り方については、全員を四分野に均等に分け、一分野六八六名ずつとしました。第一に一八歳〜四〇歳で健康な者は兵隊にすること、第二に学識ある者は教員(寺子屋)にすること、第三には農民・職人・商人に転職させること、第四に老僧は養育料を与えて生活を保証すること、などを提言しています。
 明治元年三月には藩主島津忠義夫人照子の葬儀はこれまでの島津氏歴代の菩提寺曹洞宗福昌寺では執り行わず、神葬祭に変更しています。
 同月には薩摩藩は「僧侶は遊民なり、宜しく還俗して本貫に復すべし、梵鐘・仏具は改鋳して大砲をつくり、海防に役立てるべし」と布達しています。
 明治元年四月、明治政府が神仏分離令を布達すると、薩摩藩は先述の島津久光の提言どおり領内の全ての寺を廃寺とする旨通達しています。領内至る所でこの時から寺院・堂宇や仏像の破却・焼却が行われました。
 明治元年六月にはこれまで仏教寺院でおこなっていた盂蘭盆会を禁止し、村の鎮守社(産土社)で祖先祭りを行うように命じています。
 明治元年十一月には再度領内の全寺院(一〇六六か寺)、全堂宇(四二八六堂)の廃止を命じ、また一方では全僧侶の還俗を命じています。
 特に大寺も例外なく廃寺にする、と強調しています。たとえば藩主の菩提寺である城下の曹洞宗福昌寺は、九州各地はもとより広範囲に末寺一四五四か寺を持ち、寺領も一三五〇石ありましたが、これも廃寺としました。この他の城下の大寺では新義真言宗大乗院(末寺二四九か寺・寺領千石)、時宗浄光明寺(末寺九四か寺・寺領五百石)、この二か寺とも廃寺となり、島津氏の縁ある寺も例外なく潰されています。同年十二月には歴代藩主やその家族の墓がある寺院は全て神社に変更されました。境内にあった墓域の五輪塔は破壊され、墓碑には全て神名が付与されました。さらに墓碑の前には石鳥居が新たに建てられました。
 明治三年までに薩摩藩では廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、領内から全ての寺院がなくなり、僧侶も全員追放されました。薩摩藩は明治政府の中核であるという意識のためかとりわけ寺院への弾圧政策は激烈でした。長州藩・土佐藩・肥前藩などの明治政府の中核をなした藩でも廃仏毀釈政策は行われましたが、藩主の菩提寺まで破却し、五輪塔の墓碑まで破却するということはありませんでした。それぞれの城下にあった藩主の菩提寺や有力寺院も現存しています。薩摩藩のような大藩で寺院をこのように一掃したのは全国でも唯一といえます。なお藩主の菩提寺を破却し、墓碑の前に鳥居を建て、神葬祭に変えた藩としては隣接の肥後藩細川氏の場合も同様でしたが、領内の寺院を思い切った廃仏毀釈政策で整理することはありませんでした。
 薩摩藩では寺院を破却し僧侶を追放しましたが、民衆の仏教的行事や墓参などに至る信仰に立ち入ってまで変更することは出来ませんでした。このため廃仏毀釈の嵐がおさまると、薩摩藩(鹿児島県)にたいする批判が各宗派本山からも出され、明治政府に批判書が提出されています。このような動きに対して政府も捨てておけず、鹿児島県に対して警告を出しています。
 明治九年(一八七六年)九月、鹿児島県参事田畑常秋は寺院の復活を認め「人民各自の信仰にまかせる」としました。このため同年九月〜十一月にかけて各宗派の開教使が続々と鹿児島に入りました。天台宗伊集院俊徳、真言宗佐伯旭雅、浄土宗千葉観州、臨済宗妙心寺派柏州・三関天恵、同宗相国派荻野独園、曹洞宗滝団泥・島田魏堂、本派本願寺(西)大洲鉄然・小田仏乗・暉峻普瑞・滝川賢流、大谷派本願寺(東)光瑩法主・渥美契識・細川千巌・連枝勝縁・白川慈弁・渥美契誠、興正寺派攝信法主・連枝信暁・真田黙雷・佐々木諦聴、時宗島田恵徹などです。
 特に積極的であったのは江戸時代島津藩が禁止していた浄土真宗各派でした。法主をはじめとして有力な論客の僧侶を送り込み、教団ぐるみで布教運動を展開しました。勿論これ以外の宗派も寺院の復活につとめ、寺の復興をはかりました。ところが翌明治十年西南戦争が始まり、鹿児島は戦場と化し。開教使の活動も一時頓挫することになりました。その後各宗の寺院が再建されるようになるのは明治二十年代のことです。
 現在の鹿児島の宗勢 第七表は現在の鹿児島の各宗派の分布表です。
 慶応元年(一八六五)のときと比べると今回は日向国諸縣郡が抜けていますが、全体として見れば寺数が約四割に激減していることがわかりますし、各宗派の宗勢はがらりと変わっています。江戸時代最も勢力が強かった曹洞宗は一四か寺しか存在せず、約二%の復活にしか過ぎません。同様のことは真言宗も三五一か寺あったものが一六か寺と、約四・六%、臨済宗は一八七か寺あったものが二九か寺で約一五・五%、時宗は九四か寺あったものが一か寺のみで約一%、日蓮宗は六三か寺あったものが二か寺、約三・二%と、軒並み激減していることがわかります。これに対して浄土真宗は江戸時代には零であったものが。各派合わせると二七四か寺とまさに一人勝ちの感があります。現在の寺院総数の約六三・四%を占めています。このほかで目につくのは臨済宗相国寺派二九か寺、法華宗(本門流)二三か寺あたりです。
 以上の事からやはり教団ぐるみで支援した浄土真宗の躍進が注目できます。浄土真宗は江戸時代には薩摩藩が一向宗を禁制し、その後隠れ念仏として生き残った門徒達も徹底的に弾圧を受けました。明治以後浄土真宗はこれまでの薩摩藩の政策を逆手にとり「念仏信仰不毛の地に念仏を」というスローガンを掲げ、法主が直接乗り込み、教団挙げての支援が功を奏したといえます。これに対して他の仏教諸宗派はかなり後れを取ったことが伺えます。その後単立として諸宗派から独立した寺の数を加えたとしてもたいした数字にはなりません。寺院零からスタートしたのは北海道とほぼ同じ条件でしたがそれに比べて見ますと浄土真宗教団以外の諸宗派の伸びは極めて少なかったといえます。これは各宗派が北海道のように積極的な布教を展開しなかったものによると思われます。
 むすび 以下箇条書きにしてみますと、
 第一に江戸時代の日蓮宗寺院の展開は、寛永十年(一六六三)は二四一〇か寺であったものが、天明六年(一七八六)には四六九一か寺と、約二倍に増加しています。地域的にみますといずれの時期も関東地方に四割をこえる寺院が集中しています。
 第二に明治政府は江戸幕府の仏教保護政策から転じて、神道保護政策に軸足を移し、徹底的な廃仏毀釈政策を推進し、且つ神道国教化を進めていることがわかります。
 第三に明治政府の太政官は日蓮宗に対して神仏分離を名目にして曼荼羅本尊に神名を入れること、三十番神を祭ること、などを禁止していますが、長く続いてきた日蓮宗の信仰をかえることは出来ませんでした。
 第四に明治政府の寺院整理政策は、明治元年(一八六八)〜二年と、明治五年(一八七二)以降の二段階で行われました。明治政府が標榜する神仏分離政策ではなく廃仏毀釈政策であったことが明らかです。寺院はわずかに先祖の菩提を供養するもののみの存在を許していますが、特に祈祷的な信仰は非科学的であるとの理由で廃寺として切り捨てたことが注目できます。
 第五に明治政府の中核であった薩摩藩は藩主の菩提寺はもとより、領内の寺院・堂宇を全て破却・焼却し、僧侶を追放しました。また一方で仏教行事も廃止しましたが、鹿児島のこのような政策は各宗本山の抵抗にあい、明治九年には寺院の復活を認めています。
 第六には、一度潰された寺を復活することは容易ではなく、わずかの寺の復活に終わっています。しかしこの機に乗じ、江戸時代一か寺も無かった浄土真宗が本山ぐるみの布教活動で総寺院数の六五%に及ぶ寺院を新たに建立したことは注目すべきことです。
 第七には、明治政府は薩摩藩をモデルとして全国で廃仏毀釈政策を断行しました。日本の近代宗教史の大きな問題点です。
 

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