宗教法人の公益性を考える 2008年10月 発行
宗教法人の公益性を考える
目次
巻頭言 日蓮宗現代宗教研究所所長 田澤元泰 1
宗教法人にとって公益性とは何か 東京大学文学部教授 島薗進 3
一、宗教の公益性が問われる背景
二、宗教は私事なのか
三、宗教の公的性格の再認識
四、現代における宗教の公益性
公益法人制度改革の現状と展望 日蓮宗顧問弁護士 長谷川正浩 39
一、はじめに
二、公益法人改革の動き
三、公益法人制度改革三法の問題点と今後の対応
四、宗教法人の公益性の内容
五、宗教(法人)の公益性を担保する制度
六、「啓蒙活動」の不足と「布教」の重要性
七、総合財団・育英財団をどうするか
後記 日蓮宗現代宗教研究所主任 髙佐宣長 63
参考資料
宗教法人の公益性を考える i
公益法人改革の動き その1 iii
公益法人改革の動き その2 iv
公益法人改革の動き その3 v
新社団・財団法における公益認定法人への手順 vi
公益法人制度改革3法の問題点是正と今後の対応 vii
政令制定における新たな問題発生とそれへの対応 viii
宗教関連法人の公益性とこれを担保する制度(公益性の位置づけ) ix
宗教(法人・団体)の公益性の内容 x
宗教(法人)の公益性を担保する制度 xi
宗教法人にとって公益性とは何か 東京大学文学部教授 島薗進
みなさんおはようございます。ご紹介いただきましたが、宗教学をやっておりまして、家は浄土宗でございますが、幼稚園はプロテスタントの幼稚園に行きまして、結婚式は神道でやりまして、普通の日本人というふうな経歴でありまして、自分教かなあと、自分の宗教とそういうようなことであります。しかし、天理教とか金光教というような宗教について最初に勉強しまして、そういう団体の方から色々教えていただいたり、それから霊友会系の教団ですね、立正佼成会とか妙智会とかいうふうな団体にもだいぶ親しみを持っております。
ですのでいわゆる新宗教の研究ということをやってまいりましたのですが、そういう研究を基礎にしまして、現代の世界の中での日本の宗教の特徴を考えるというふうなことも今やっております。たとえば、国家神道ということをどう考えたらいいのか、ということをやっておりまして、その際に日本の仏教の伝統と国家神道がどう関わっているか、これは法華、日蓮系の団体というものがひとつ鍵になる。もちろん浄土教というものも重要ですし、日本の仏教全体を考えながら整理していかなくてはならないと思いますが、そういう意味で日蓮宗には大変な関心がございます。そういうことを今日のお話でも少し交えてお話できればいいかなと思っています。
一、宗教の公益性が問われる背景
公益性というととりあえず税制の問題というのが気になるのでありまして、宗教法人は税制優遇されていると、それは公益性があるからということでありますが、そういうことが当然のごとく受け入れられていた戦後の体制、宗教法人法、一九五一年ですね、それから五、六十年経っておりまして、その間の環境の変化というのは非常に大きなものがあります。まず大事なポイントとしましては、要するに近代化というものがごく当然の進む道だと思われていた時代にできた制度であろうと。そしてそれはアメリカというものがモデルになり、アメリカという国は宗教を以て近代というものを成し遂げるという理念をもっている。宗教こそが近代を支えるんだという考え方が非常に強かったということですね。
そこで信教の自由とか政教分離だということを非常に高々と掲げて、日本はそれに従ってきた。国家神道の体制を反省しながらアメリカ的な信教の自由に基づいて進んできた。しかしどうもアメリカ的な体制あるいは政教分離ということで言えば、フランスもそうなんですが、アメリカとフランスこそ世界の進む道であるというふうには思えなくなってきた。近代というものを最も的確に正しく体現した国々、その方向に段々我々も向かっていくのだ、世界の多くの国々もまだそうではないが段々そういうふうに向かっていくのだ。これが私が生まれた頃の日本の感覚であったと思います。一九四八年生まれです。アメリカは一種理想でありまして、ああいう国になりたいなということであった。
しかしそれから何十年か経まして、どうもその近代というものはそれほど優れたものであろうか、そういうことが思われるようになってきた。近代の制度ってそんなに納得できるものなのだろうか、むしろ沢山欠陥を持っているのではないだろうか。近代的なもの、例えば民主主義であるとか政教分離ということを守るとしても、その含まれている欠点というものを良く自覚しながら進んでいかなくてはならないと、こういうふうに変ってきた。これは大きく思想的な流れで言うと、近代から脱近代へといいますか、近代というものを相対化する時代になった。私達は近代というものを理想とする時代から、もう近代を経験しつつその欠点を嫌というほど自覚しています。従ってその後はどうなるの、ということを考えている、そういうことではないかなと思うのですね。
そういう中で戦後の制度というものに社会は色々疑いを持っている。これでいいのかと問うている。信教の自由というけどオウム真理教みたいなものが出てきて、この制度で良かったのと。あるいは創価学会がここまで政治的に強い力を振るっている、宗教団体の利点を十二分に活用しながらあれだけの政治力を持っている。それでいいのかしらということを疑っている。こういう状況で宗教法人の公益性とうのも考え直す時代に来ているというふうに思います。環境が変化した。五、六十年経ったということは、その間に機能してきたのだから何かそれなりの有効性があるということと同時に、やっぱり変ったではないかと、そのままの体制で良いのか、この間に積もった我々の経験というものを反映して制度を変えなくてはならないのではないか、こういうことが背景にあると思うのです。
その変化ですが、いま近代から脱近代ということを言いましたが、別の言葉で言うと例えばグローバル化ということでもあります。世界を見渡してみて一応、経済的にはアメリカの資本主義が世界を席巻しています。しかし政治的には世界の多くの国はアメリカを真似したいとは思わない。政治と宗教の関係についてもアメリカの体制がいいのかどうか、信教の自由といっているけども、そして政教分離といっているけども、実際はキリスト教を弘めるような十字軍というふうな意識を持った政権ができてしまう。イスラム圏を始めとして、あるいはヨーロッパでも今ではそうですね。アメリカ的な生き方でいいのかというふうに疑っている。
日本は何となくアメリカの後を付いていけばいいという、アメリカのヘゲモニーの下で沢山の利益を享受してきたので、一応はそう言っているけども、グローバル化、これから中国の影響が大きくなりますし、インドの影響も大きくなりますし、世界は多極化してまいります。その中でどういうポジションを取ればいいのか、私達の歴史を反省しながら的確な位置を定めていかなければならない、そういう背景がある。
仏教ということで言うと、日本の仏教が世界の仏教の中でどういう位置を持つのかということを考え直さざるを得ないところへ来ています。今までのところ経済的にいっても学問的にいっても日本の仏教は非常に堅固な地盤を持っていた。従ってインドで始まった仏教が小乗仏教に過ぎなかったと、そこから大乗仏教が出てきて、東アジアへ来て本来の仏陀の教えが十全なものになり、しかも鎌倉仏教においてこそ最も優れた大乗仏教の達成ができたというような意識があった。これは日本中心的な仏教観でありまして、そういう仏教観に基づいて宗祖を中心とした宗門体制ができてきた。しかし世界の仏教を見るともうそういう宗派ということで押していく時代なのだろうかと疑われる。仏教全体として考えていかなくてはならないことがどんどん出ている。そういう中で日本の仏教というものを振り返ってみるとどうなるか。
例えば、そもそも日本の仏教の非常に大きな特徴は僧侶が肉食妻帯している。つまり、出家の戒律というものを否定してきた。これは長い歴史の中で色んな契機を経ながらそうなってきたわけですが、そういう日本の仏教の特徴というのを世界の仏教の中でどういうふうに理解して、それを決して引け目に感じるのではなく、だからこそこういうタイプの仏教から世界の仏教にどういう貢献ができ、そして世界の仏教が人類のために貢献する際どの辺のビジョンを提起していくのか、そういうことが問われるようになった。そういうふうな大きな変化があると思います。
ローカルな日本の仏教をグローバルな視点から考えなくてはならない。そしてそれは世界の仏教という観点から考えなくてはならない。そういうことを全部踏まえて、戦後の宗教制度、アメリカの強い影響を受けてできた体制というものを考えなければならないということだろうと思います。
一つの手がかりとしてこういう問題を考えてみたらどうだろうか。なぜ宗教団体は公益性があるのかということですが。宗教というのは人を育てるものである、そういう観点から見ることができると思います。そういう意味では教育と非常に近い。宗教団体は学校、宗教法人と学校法人は色んな面で比べてみることができるということがあると思います。国立大学はもちろんであります、我々国立大学の教員は運営交付金というものをいただいて、研究費やら生活費も、まあ身を立てているわけですね。私立大学は教育を受ける受益者がかなりの負担をしておりますが、それでも国家からかなりの補助をいただいているわけですね。その私立大学の補助金についても色々と議論はあるかもしれませんが、充分な基準を満たさなければ当然これはカットされる。しかし今のところ教育、学校法人の優遇ということについてはそれほど議論が起こらないですね。同じく人を育てる機関であるところの学校と宗教法人、宗教団体、教育と宗教というものがどうしてこういうふうに分化してきているのだろうか。国民から見て学校、教育は公益というものをあまり疑わないですね。それに対して宗教は公益というと、本当にそうなのというふうに疑う人が増えてきている。こういうことを考えてみなくてはいけないと思います。
制度的にいうと学校法人は認可制でありますから、一定の基準を満たさなくてはいけないので厳しい審査があります。これに対して宗教法人は認証性と、これはほとんど届け出制に近いので宗教団体であるということを示せば、宗教法人と認められる。これが戦後の、非常にアメリカに近い、宗教について国家は干渉しないと、従ってどんな宗教団体でも自由に認めると、こういう制度でありました。しかし当然そうすれば質が落ちたものも出てくるんじゃないだろうか。単に勢力を拡充できるそういう基準で団体ができてくるというのはないだろうか、とまあこういう問題が出てきていると思うんですね。
日本は最も自由に宗教団体が設立できます。一昨年エジプトに一ヶ月ほど、六週間ほどカイロ大学というところで日本の宗教について講義をして参りました。日本学科です。宗教学科というのはないので、日本学科でそういう話をして参りました。しかしエジプトでは仏教というカテゴリーはないので、仏教が仏教として布教するというのは今できないんではないだろうかと思います。バハイー教というのがありますが、これがごく最近禁止されました。イスラエルとの関係とか色んなこともあるんですが。ともかくイスラム圏では、イスラムとユダヤ教とキリスト教が正しい宗教であって、それ以外の宗教というのは基本的に認められないので、私が仏教について拙い説明をいたしますと、あ、それなら仏陀も預言者に違いないと。モーゼからイエスに至る様々な預言者がいて最後にムハマンド、最後の預言者がいると。そのシリーズの中に今のところ記録されていないけれども、仏陀ならば充分優れた預言者なんであろうと、そういうふうに思っている。従ってエジプトの感覚では、当然信教の自由というのは大きな制限があるわけであって、正しい宗教でなきゃいけないんですね。その代わり宗教が公益的なものであるということは大前提でありまして、宗教に拠ってこそ正しい国家を運営できるという考え方できているわけですね。
世界の中でそういう国が沢山ある、そしてそれはアメリカやフランス、フランスもそんなに信教の自由が無制限だということはないので、アメリカやイギリスですね、あるいはオランダ、それと並んで日本、あるいはブラジルとかいくつかそういう国がありますが、そういう国ばかりじゃない。そしてある程度信仰の自由に枠をはめている国々が将来大きく変るということが、今はそんなに展望できない。そういうところへきているということが背景にあると思います。
これが宗教の公益性が問われる背景、国々が様々だということです。しかも今度は別の方面からいうと、エジプトのように宗教はまさに公益の源であると考えている国もある。宗教と関係のない公益というものはむしろ少ないであろうというような国もある。他方、世界の認識としては、いやいや宗教は危ないぞと、宗教は人々を分断させる元なのではないか、国家の団結を宗教が支える場合にはむしろ他の国との間に対立を生じさせる。こういうふうな見方も強まってきた。ですから日本人にとってはオウム真理教というのが事件を起こして、これは無制限な信教の自由というのは問題だという話でした。オウム真理教の事件、地下鉄サリン事件は九十五年でしたが、二〇〇一年には九・一一のニューヨークの同時多発テロがありました。
これが典型的にそうなのですが、宗教は人類の共存にとってプラスであるのかどうかということを寧ろ疑う声が強まってきた。そういう世界的な次元でものを考えていくと、宗教を色んな意味で抑えなければならない。それは寧ろ世俗国家の方がいいんだという考えがあります。これは今ヨーロッパとイスラム圏が対立している争点ですが、世俗的な国家が宗教の権限を一定程度に制限する、公益は寧ろ世俗の方から来る、世俗社会の方が公益の源だと。それに合致する範囲で宗教団体の公益性も認めましょうと。こういう立場も一方では強くなっている。一方でアメリカやフランス風の信教の自由、世俗主義という方向が疑われ、近代的な価値で社会は精神的なもの良きものを保存できるんだろうか。もう一回、精神的な伝統を取り戻すべきじゃないのかという声があると同時に、他方で、いやいや宗教というものを野放しにするとといいますか、宗教の権威を高めていくとかえって人類の分断というものが起こってしまう、こういうふうな非常に判断が分かれるというか迷うような状況にきているわけです。
宗教に頼らなきゃならないという声、益々頼らなきゃならないという声が出てきている。他方で宗教を抑えなきゃならない、そういう声も出てきている。日本はどっちかというと宗教を抑えなければならないという声が強すぎるくらい強い国ではないかと思いますが、そういうことを背景にして宗教の公益性ということを考えていく必要がある。これが第一に申し上げたいことであります。
二、宗教は私事なのか
そこで二番目に取り上げたいのは、そもそも宗教は私事なのか。宗教の公益性というと宗教は公的じゃない、個人のこと、いや私的なことなんだと。一人一人の利益、人生観、死生観、その範囲のことであって、広く社会共通のこと、もちろん政治も含めてですが、そういうことには関わりがないんだと。こういう考え方ですね。これこそ近代の宗教制度の基礎にある考えです。これは西洋社会で宗教改革が起こり、宗教は個人のものだという考え方が非常に強く打ち出されまして、教会というものが信仰というものを牛耳っていたことに対して、ルターは宗教というのは聖書を通して個人一人一人が直接神に向き合う。だから全ての人が聖職者なんだと。万人司祭と申しますが。そして心の中で悔い改めて神と向き合うという、これこそ宗教の根本であり、そこから宗教は出発しなければいけないと唱えた。このプロテスタントの考えというのは、信教の自由ということがいわれる一つの基礎になっておりますね。
しかも今度はプロテスタントが起こってきて宗教戦争になった。信教の自由が起こってくると、宗教勢力同士の争いがコントロールできない状況になってきた。これが十六世紀十七世紀の西洋で、難しい事件が沢山起こりまして、その結果、宗教には枠をはめる。これはプロテスタントに近い方向で、個人の内面のこととして宗教というものを考える。こういう体制ができた。
これはそもそもキリスト教というものにそういう性格があります。キリスト教はユダヤ人が非常に厳しい状況にある中でそのユダヤ人全体を救うメシアというものを待望していた、そこにこの人こそメシアではないかというキリストが現れた、イエスが現れた。しかしそのイエスの改革は潰されて、イエスは十字架につけられた。この失敗した反抗の中から、いやいやそのイエスが本当に説こうとしたものは心の中の神との交わりであって、そして政治的共同体などを越えた人類共通の信仰というものが成り立つんだと。それこそ本来の信仰だと主張した。ユダヤ人の世界の狭い神ではなくて、人類全体の神ということを唱えた。
個人と人類という基準で宗教は成り立つ。こういうことがキリスト教の一つの特徴でありまして、ローマ帝国の中でもまずは個人がキリスト教を信仰してマイノリティの集団ができて、それが広がって国家の宗教になった。まずは個人の宗教だったわけです。イスラムやユダヤ教と比べると、あるいはヒンドゥー教などもそうでしょうが、イスラムやユダヤ教やヒンドゥー教は政治的な共同体と宗教とが重なり合っている。政教分離とはなかなかいえないですね。それに対してキリスト教は元々政教分離的な特徴を持っている。
それが近代になりまして、近代というか宗教改革以降、そちらの側面が強調されて世俗社会の中でこそ個人の宗教は正しい位置を持つ。そして個人としての宗教が発展すると、世俗社会も良き人類の未来の為に発展する。これがまあ非常にアメリカ的な理念ですね。信教の自由を束縛されたヨーロッパから逃れて理想のアメリカ大陸、理想の国を造るために神が与えくれた天地ですね、アメリカ大陸、そこでこそ本来の宗教を実現する。そしてそれは民主主義を実現することと同義なので、民主主義を実現するには個人の信仰が確立してなきゃならない。また本来の宗教を尊ぶような人達は民主主義をつくる。こういう理念を押し出そうとするので、他のタイプの文化から見るとちょっと始末が悪いとなるわけですが、そういう民主主義の理想と個人の宗教が一致する。
ですからまずは宗教というのは個人のこと。その人自身が罪を悔い改めて、神と直接に交わる、それで個人の魂の救いを得る。それはとりあえずは政治的共同体には変わりはない。このように宗教は私事であるという考え方、これが近代的な考え方であったということですね。おそらく仏教はあまりその辺のことについて充分考えない内に、日本の仏教はですね、何となくそのアメリカ的な考え方に影響されながら、あるいは西洋の仏教観というものに影響されながら、仏教というものはまず個人のものであると、そういう考え方をとってきたのではないかと思うんですね。
これはしかし現在の世界を見れば決してそうではない。現在の傾向は、例えばロシアは社会主義革命が終わりまして、ロシア正教の方へどんどん回帰していっております。学校などでも宗教教育、ロシア正教を中心とした教育をするというふうな意見がどんどん強くなってきている。西洋でも、例えばドイツは相変わらず教会税というものを徴収しやすい体制になっている。聖職者は公務員に近いような地位を持っているわけでありまして、ドイツ人は基本的にはキリスト教と他にもまあイスラム教徒やユダヤ教徒もいるけれども、そして東ドイツは無神論の人が多いわけですが、それでもキリスト教的な価値観というものが、色んなところで現れてくる。こういうふうな体制になっているわけです。もちろんタイのような国は一応信教の自由はあるけれども、王様が仏教徒であるということは当然のことであり、仏教国であるということは合意されている。従って仏教が公益の元であるということはほとんど疑われていないような国じゃないかと思います。
このように宗教が公的地位をもっている国も多いのですが、しかし、そうではないアメリカ的な体制をただ単に日本は真似をしたのかというとそうでもない。それなりの必然性があっただろうと思います。一つには近代社会が発展してくると、宗教ではない知識の意義が高まってくる。物を作ったり社会制度を上手に運営したり、さまざまな文化のことを幅広く知識を持ったり、いま大学で普通に教えているような知識、これは特定宗教とは関わりなしに学ぶことができる。ですからタイのような国でも、子供の時は仏教を中心とした人間作りが行われているけど、大学教育となると仏教というものがあまり入ってこないかもしれませんね。そういうふうに宗教の知識が相対化されざるを得ない。科学的な知識を身に付けることのほうが社会で有益な活動をするために必要だという認識を持っている。国家を運営する人達、あるいはエリート達はそういうイメージを持っている。そういうことがある。
それから宗教の多元性というのをやはり認識せざるを得ない。これは国々によって違いますが、宗教こそ人間を育てるために大事だといっても、それぞれの宗教で主張が違うという場合に、どれを基準にしていいのか。そういうことは常に問われるようになってきた。自分の立場は沢山の中の一つに過ぎない。仏教こそが永遠の真理を代表する、これしかないとすると、まあ今でもイスラム圏はそういう考えが強いと思いますが、世界の多くの地域ではこれしかないとはなかなか思えない。西洋社会ではおそらくそれはもう非常に進んでいると思うわけですね。従って宗教が相変わらず公益の元であると考えられていても、それは限定せざるを得ない、精神的価値の意義は限定されざるを得ない。まず私的な領域に限定してくださいと、こういうふうになるわけですね。
しかしこれは国々によって地域によって様々な違いがありまして、そういう考え方がどこまで広まったか、つまり宗教は私事であるという考え方が社会にどのくらい広まったかというのは、非常に違う。たぶんアメリカと日本は非常にそれは進んでいる国ではないだろうかと。これは宗教集団が非常にばらけて、社会で支配的な宗教集団というものがなくなった国の代表でもあります。宗教集団が非常に自由に発展して、数えきれないくらいあるという点で代表的な国はアメリカであり、日本もそれに次ぐ。韓国もいくらかそうですが、日本ほどじゃないですね。ブラジルもどうもかなりそういう傾向があります。アフリカのいくつかの国もある、もちろんイギリスやオランダもそうですけれども、西洋の国々でもフランスやドイツはなかなか保守的で、新しい宗教団体を受け入れない。これは制度的にもそうだし、民心、人々の気持ちでも、どうもこの仏教のように伝統のある宗教は受け入れるけれども、日本の新宗教が出かけていくとこれはあんまり受け入れられない。アメリカ発の二十世紀にできた宗教なんていうのは何か怪しげだということで、ある程度浸透はできても、かなりバッシングがありますね。
そういうことからいうと、日本は非常に宗教が多元化している。じゃあなぜそうなったのかということですね。これは宗教集団が自由競争化している、そのことと宗教は私事であるという考え方が重なり合っているということがあるのではないかと思います。カルト問題というのも世界中であるのですが、日本はかなりのカルト大国かもしれません。それからオウム事件が起こったということからもわかるし、新宗教というものの中には、まともな宗教ではないと多くの人達が思っている団体がしばしばある。そういう団体が比較的発展しやすい国だということがある。
キリスト教の中で一番外れている、多くのキリスト教徒はキリスト教ではないと考えるのが、統一教会とエホバの証人でしょうけれども、エホバの証人はもちろんアメリカで百何十年の歴史を持っているので、アメリカが最も信徒は多いのですが、日本やブラジルやナイジェリア、メキシコなんて国が追っかけていますね。要するにエホバの証人は一番、アメリカではカルトっぽい宗教の一つですが、そういうものが発展しやすい国の一つに日本はなっているといえます。宗教が自由競争だとみなされる、そういう素地があって、そうすると信徒を集める、勢力を拡張するためには色んな手段をとることを認めやすい。そうすると悪い競争も起こってしまう、新しいテクニックはお互いにどんどん真似をする。自由競争の悪い面、資本主義の経済の中にも沢山そういうことは出てきますが、宗教がそういうものに近づいているというのが、日本の一つの特徴ではないかと思います。
しかしではどうしてそういうふうに日本の宗教は自由競争になったのか、あるいは私的な団体というふうになったのか、ですね。国家からコントロールされない、あるいは国家的な責任を担っていない、従って、人々のニーズに合わせて色んなことをやる。良いようだけれども、ある意味では人々のニーズに則して宗教の力を最大限に発揮してはいるけれども、公的な責任とか公益性ということになると怪しい。そういうようなことが起こってくる。
そうしますと、日本の宗教集団がばらけてきたのはいつかというと、一つは鎌倉仏教ですね。これは法然上人が専修念仏というのを唱えた時に、南都北嶺のエスタブリッシュメントの仏教団体はこれを厳しく批判したわけで、あれは日本の仏教団体が分裂していく宗派仏教になっていく、非常に大きなきっかけを法然上人は作ったといえると思います。だからこそ日本の仏教は本末関係の下に国土の隅々まで入って布教をして、信徒を得た、一向一揆なども起こる体制を得た。それに反発するようにして、日蓮の教団も興ってきた。あるいは律宗の運動なども起こった。様々な運動が起こって、禅と浄土では中心的な実践が非常に違うので、共通の広場がない。同じ仏教であるはずですが、相当違う、そういうことが起こってきた。
これは日本の仏教の一つの特徴ではないかと思います。宗派仏教になり、従って檀越を、本当の庶民にまで、一人一人に広げていった。その代わり、私事化していく傾向が強まった。自由競争化していく傾向が強まった。もちろん徳川幕府はこういう競争に制限を加えまして、新しいお寺を建ててはいけないということで、いったん固定化したわけですが、また明治維新になりまして開放されます。それからもう一つは江戸時代の体制の下でも宗派以外の宗教集団はかなり自由に活動したんですね。例えば富士講とかですね、山岳宗教はこの時代に非常に発達を致しまして、大体神仏習合の運動というものが、これもまた非常に庶民化して、これがまあ明治以降の新宗教の基礎になっていくわけですね。あるいは仏教教団の中でも在家の講が沢山できてきて、これが後に明治時代になると独立していく。
日蓮系の在家運動というのは、近代日本の仏教の非常に大きな特徴を作っておりますが、これは江戸時代にある程度基礎ができております。しかしそれは遡れば、鎌倉仏教の中で起きた民衆へ民衆へと向っていく運動に源流がある。大乗仏教の根本の精神でもありますが、菩薩の仏教、利他の仏教、そして誰もが参加する仏教です。法華経というのは日本で最も人気がある。中国でももちろん人気があると思いますが、おそらく誰もが参加する仏教の理念が法華経を通して広まった。これが日本の仏教の非常に大きな特徴ではないかと思います。法華経の中には誰もがあなたこそが本来の仏教の担い手なんだということを呼びかけています。地涌の菩薩などが創価学会などで好まれるのですが、一般大衆こそ地面から涌き起こってくるように法華経の信仰に従って、それで国家社会を支えるのだと、こういうことでありました。
こういうふうに仏教が多元化してくるということと民衆化してくるということ、そして宗派化してくるということですね。これは当然在家化してくる、在家の仏教という性格を強めてくるということでもあったと思います。それからもう一つは特に江戸時代になって顕著になりましたが、社会体制を支える宗教は、まあ仏教もそういう役割を果たしていたんですが、武士は儒教を学ぶべきだということになった。まあ江戸時代の始めには武士は儒教などほとんど何にも知らなかった。しかし江戸時代の二百数十年の間に武士は戦争をすることはなくなり、代わりに学問をすることになった。つまり統治階級としての責任を担うためには学問をしなければならないということになったわけですね。これは中国的な考え方に従っている。その学問というのはまず儒学だったということですから、江戸時代を経る間に、儒教こそ社会体制の根本の教えだという考え方が広まった。つまりそれだけ仏教は下々のものだという見方になったので、ますます仏教が公的な存在から私的な存在と見なされる傾向を作ったということもあると思います。
今述べてますことは宗教は私事なのかということで、日本の仏教では比較的そのことが当然のことのように受け入れられていた。キリスト教と同じように仏教は個人の宗教だと、だからこそ仏教は進んだ宗教なんだと、そういうことにもなる。鎌倉仏教こそそういう個人の宗教を確立したとされる。親鸞のように、親鸞は決して利他行なんて私にはできませんということで、極楽往生してその後のことでしょうとこういうことになるんですね。還相回向ということになります。従って浄土真宗はなかなかそういう公益的なことにすぐに取り掛かる考え方が出てき難い、これが法華、日蓮系と違うところであります。それはまただからこそ親鸞の教えは近代の知識人にも人気があったのであって、まずは個人として魂の自覚を得なきゃならない、実存的な自覚を得なきゃならない。その為にはいかに自分が罪深いかということを意識して、そこで阿弥陀仏の慈悲というものを自覚すると。これは非常にキリスト教に近い考え方です。仏教にそういう側面があるというのは当然のことでありますが、非常に個人主義的な宗教観ということになりますね。浄土教がそもそも末法の時代なのでこういう乱れた社会には正しい仏法は行われない、従ってまずは個人の救いだと、こういうふうに展開した。要するに公的な秩序から撤退することで、本当の悟りといいますか、末法の凡夫にふさわしい悟りを得るというのが日本の浄土教の一つの特徴だったと思います。
それに対して日蓮聖人はいやいやということで、国家が宗教的な価値をもっと主張するといいますか、仏教に基づいた国家、法華経に基づいた仏法国家というものを打ち立てるということが大切なんだ、ということを主張したということですね。日本の仏教の中にはそのように浄土教に最も典型的に見られるように、仏教をまずは個人のことだと見なす、それこそが進んだ宗教なんだと、そういう考え方があったのではないかと思います。これが宗教は私事なのかということに関連して私が言いたいことで、もちろん宗教は個人の魂に訴えるから大事なのですが、そもそも公的な存在としても見なきゃならないのではないだろうかと考えます。これはあとでまた触れたいと思います。
三、宗教の公的性格の再認識
ですから、宗教の公的性格の再認識ということが必要だ、というのが三つ目に述べたいことであります。これはそういうふうに政教分離、宗教は個人のものだという考え方でやってきたけれども、気がついてみると全く公的な次元に宗教がない社会というのは有り得ない、というか、もしあるとしても非常に住みにくい、欠陥を持っているのではないだろうか。こういうことが色んなところで見えるようになってきた。
例えば、日本の病院にはチャプレンというのがいないですね。そもそも仏教の病院というのが非常に少ない。人がとても苦しみ悩んで何とかして欲しいとか思う時に、近代科学に基づく医療施設に入る。そこには科学的な方法について十二分に修練を積んだ医師がいる。医師を中心としたスタッフが人々の苦しみの手当てをする、ケアをする。しかし考えてみればそれだけで苦しんでいる人のケアになっているのだろうか。これは欧米に行けば当然そこに心の問題、魂の問題をケアするスタッフがいるはずの所でありまして、それがチャプレンであります。
とりわけこれが深刻になってくるのが、死に行く患者さんの問題でありまして、益々いま癌などになりますと大体死期が分かってくる。そして病院で行うケアは、病気を治すことをもちろん第一目標とはしているのですが、そうではない目標を掲げざるを得ない。死に行く人がいかに人間らしく死んでいくのか、ということです。これがまあ緩和ケア、ホスピスケアの大きな役割だと思います。これはしかし学校で教える医学では、全然そういうことはカリキュラムに入っていないですね。まさに宗教の出番でありまして、だからこそビハーラのような運動が盛んに起こってくる。
しかし考えてみればこれは病院だけの話ではないのであって、社会のあらゆるところで、公的な次元で宗教が介入する必要があるところに宗教的なものが欠けている、そういうことが目立つ。日本の刑務所では教誨師という制度がございますが、なぜ刑務所だけなのでしょうかね。軍隊にもないし病院にもない。これは大きな問題だと思います。教誨師という制度を作るとすればどんな宗教家でもいいわけではなくて、やはりある資格を持った、おそらく公益性を持ったそういう宗教が人を育てる、あるいは魂の安らぎを与える為の役割を担う、そういうことになる。是非今後日本の病院も変って欲しいし、宗教界もそういう領域に関わっていかなければならない。
学校もそうなのですが、偏差値中心の現代の社会で成功する為の知識を与える、そういうことをやっていくと一番肝心な人間としての成長の部分がない。それをどうするんだろうということで、教育の議論になると必ずそこが出てくるわけですよね。徳育とか、その部分をどうしたらいいのだろうか。多くの国では宗教教育がそれを担当すると思われているんですね。そうじゃないとすればどうすればいいのか。これは日本の場合は戦前に修身教育というものができ、これはやはり儒教の影響を受けながら、近世に儒教の体制が確立したのでそれを受けて、道徳こそ社会秩序の元だと、そういう考え方だった。だからちょっと宗教を排除したわけですね。それで教育勅語というようなものができて、国家神道の体制になったわけですが、それでいいのだろうか。
今また道徳を復興する、道徳教育を復興すればいいといわれますが、そうすると結局は儒教主義的なものに戻るようなことになる。あるいは国家神道的なものに戻る。そうではないような宗教教育は、あるいは宗教教育と必ずしもいわなくていもいいのですが、人間的な成長を助ける為の教育は何なのだろうかと考える人は多いです。実際に学校の先生は色んな努力をしておりまして、例えばいのちの教育というふうなことをやっておられる先生方もいる。これは道徳教育とは非常に違う。例えば、癌の患者さん、あるいは非常に難しい病気を持った患者さんを教室に呼んできて、その体験、話をしてもらう。あるいはその助けている人を呼んできて話をしてもらう。そういうことが子供にとっては非常に大きな力になる。こんなことも行われているわけですが、そういうものに当然宗教は関わっていいはずのところであります。
世界的にいうとここはもう当然宗教の出番ということになりまして、チャプレンなどに大きな役割がある。ところが、アメリカなどでもチャプレンといえば当然聖職者がなるものだったんですが、今ではどの宗派にも属していないチャプレンというものを考える時代になっている。というのは、受益者のほうは特定の宗派に属しているわけでは必ずしもないわけであって、これはビハーラ、ホスピスなどもそうですが、魂のケアをする、スピリチュアルケアをするという時は、宗派の教えをそこへ持ち出すことはあまり意味がないわけですね。その人の悩みをただ聴く、傾聴といいますが、そういうことから始まって、その人の立場に立って魂の糧になるものを提供する。こういうふうなことが必要と考えられます。そういうふうに宗教の役割が展開していますが、それはやはり宗教団体というものが出ていけるところだろうと思われます。
また公的行事、これは戦死者の慰霊みたいのことになると、西洋の多くの諸国ではキリスト教式にやっているんじゃないかという話になりますが、ダイアナ妃が亡くなった時に有名な歌手が歌ったりしておりましたが、あれはしかしキリスト教の教会の中でそういう歌を歌っているわけでありまして、イギリスの宗教社会学者は、いやいや本当はもし教会でやるとしてもヒンドゥー教やイスラム、イギリスにはかなりそういう人達がいるので、そういう人達も参加できる形にするべきではなかったんだろうか、というふうな議論もしておりました。しかしこれを無宗教でやりましょうという声にはなかなかならない。
ところが日本では靖国に代わる宗教施設をというので、当時の福田官房長官の下に懇談会ができまして、答申が出ましたが、無宗教の施設を造りましょうと。あれは無宗教という言葉をやや軽率に使っているんではないだろうかなと。特定宗教に拠らない、とすべきではないかと、少なくともですね。そういう議論がありました。これに対して神社神道界の人達は、いやいや何で靖国でいけないんだと。一昔前なら、いやいやそれは近代的じゃないよと。近代的というのは、特定宗教を抜け出して世俗的な制度に変っていくことなんだと、政教分離なんだと。しかしその基準がもう当てはまらなくなると、それじゃあどの宗教でやったらいいのと論じる。なぜ神道じゃいけないのか、国家神道じゃいけないのかと。こういう議論になってくるというわけですね。
この辺は宗教の公益性ということと深い関係がある問題だと思っております。宗教集団が政治活動をすることの問題、これもある時期までは、いやいやそれも既に問題なんだということでしたが、世界を見れば決して宗教団体が政治的な活動をするということを認めていないという国が多いわけではない。今の創価学会と公明党のような関係が適切かどうかというのは非常に問題があります。しかし平和、福祉、人権、弱者擁護の為に宗教団体が政治活動行うというようなことでしたら、多くの人々は納得するかも知れませんですね。これも宗教団体の公益活動の一つとして政治的な活動も入るということも当然あり得るのではないかと思います。どういう意味で創価学会の政治活動は問題なのかということは、まだこれも決着が付いていません。自民党と公明党が連立になったので、創価学会は攻撃を受けなくなった。公明党と自民党が離れると創価学会は攻撃されるという状態ですが、これは要するに世論がそこのところでまだ落ち着いていないわけであって、一体どのような宗教団体の政治活動が適切なのか、ということを考えなくてはなりません。
インドは政教分離の国です。さっきフランスとアメリカといいましたが、いくつかの国は政教分離、世俗主義、セキュラリズムといいますが、これを国是に掲げている。トルコもそうですが。トルコの場合は、イスラム国家の理念と世俗主義の理念がいつもせめぎ合っている。インドはイスラムとヒンドゥー教の激しい対立の中から国ができてきたので、宗教対立を和解する為に国民会議派は政教分離、世俗主義というのを国是に掲げてきた。しかしその国民会議派に対して、いまインド人民党というヒンドゥー政党が出てきまして、政権交代を繰り返しています。インド人民党はヒンドゥー教的な国家を作りたい。こういうふうなことが世界で起こってきています。世俗主義の国でこそ宗教集団、宗教政党が非常に活発な活動を行うということも見られる状態になっています。
こういうことは要するに西洋流の政教分離、キリスト教的な教会制度に基づいた宗教観というものを見直していく必要がある。日本のように宗教集団が多元化して、独立したお寺が割拠している、乱立しているというかこういう世界はある意味でアメリカに近いので、キリスト教のある種の理念と非常に近い。アメリカに行きますとほんとにあらゆる所に教会がある。どんな人でも教会を始められる。それはちょっと言い過ぎですが、インスピレーションがあれば自分なりの聖書の勉強で教会を始められる。そういう人のところにこそ困った人が、苦しい立場の人が集まって教会が立ち上がっていくと、そういうふうな国ですが、日本の新宗教というものもそれに近いところがあります。それは鎌倉仏教以来の日本の仏教教団の集団の多元化の中でそうした体制になってきたわけです。
しかしそのように多元的な集団が宗教の基礎をなしているということを、宗教制度の大前提として考えていいかというと、そうではない。例えばイスラム圏は、モスクというのがありますが、モスクというのは別に宗教団体ではないので、誰でもどこのモスクに行っていいわけであります。もちろん宗教教団的なものもありますが、それは規範ではないですね。社会全体がイスラム的に動いていくことが大事なのであって、もちろん法学者とか、あるいはイマームという人達がいますが、その人達が、集団を指導するということにはなっていない。
ですから宗教の公益性ということを考える時に、キリスト教風に宗教集団の公益性ということを考えていいのか、宗教法人の公益性というのを考えるときには、宗教そのものの公益性、宗教は必ずしも集団がなくとも成り立つところがありますので、仏教でいうとお寺があり宗門があるわけですが、それとは別に私は仏教を信奉していますという人が沢山いまして、そういう人達が本を書くと良く売れたりする。そういうものを読んで仏教に入門する人もどんどん増えているわけですね。そのように社会の中で宗教がどういうふうに存在していて、どういうふうに公的な役割を果たしているのか、そういうあり方を見ながら、じゃあ宗教法人や宗教集団はその中でどういう役割を果たすのか、そういうふうに考えていく必要があろうかと思います。
そういうふうに考えますと、日本の社会の中で仏教が果たしている公的な役割というのは非常に大きいですね。日本人が日本の文化に誇りを持つ時に、もし仏教の遺産がなかったらどんなに寂しい思いをするでしょうか。それこそ世界遺産に登録されようとしているもののかなりの部分は仏教と関係しています。日本の芸術を見れば仏教と関わりの多いものが非常に多い。そういうものは日本の公的社会に欠かせないものなんですね。それを実は宗門、宗派が支えている面はある。宗門大学があって、そこで仏教文化についての素養を養い、仏教文化遺産を現代に伝えている。もちろんこれは宗門大学だけがやっているわけではなくて、国文学科や国史学科もやっていると思いますが、宗教に重きを置きつつ日本の文化の伝統を伝えている。そういうことは非常に大きな仏教団体の役割だと思います。
個々の寺院で行われていることと、仏教団体として行われていること、そしてそれが日本の社会の中で仏教そのものの公的次元としてどういう役割を果たしているのか。そういうことを分けながら考えていっていいんじゃないだろうかと思います。ですから公益性を考える時に、あまり集団のことだけを考えない。今の現代人、新しい世代の人達の考え方はとにかく集団嫌いなので、宗教嫌い、宗教離れというと、要するに集団に拘束されるのが嫌だということですね。何で集団のためにこんなことをしなくてはいけないのかと考える。しかし個人の心としては宗教に非常に関わりがある、関心がある。そういう人達に納得がいくような宗教の公益性の説明というのが必要であろうと思います。
四、現代における宗教の公益性
四番目の論点ですが、現代における宗教集団の公益性、あるいは宗教者のめざす公益性ということですが、後で長谷川先生から立ち入った話があると思いますが、宗教法人法の体制の下で宗教法人は優遇を受けている。それについては公益性は何かということについてこれまで色んな議論がなされてまいりました。井上惠行というかたが、文部省宗務課におられこの法制の第一人者だったわけですが、こういうふうに説明していらっしゃいます。これは今私が説明したみたいな非常に広い意味での宗教の公益性というものに近い話しかと思います。
「そもそも、宗教(もちろん人心を毒し公共の福祉を害するような宗教は別として)というものは、一般に公益を目的とするといわれるものとは本質上異なり、直接、人間の心の奥底につらなり、霊魂にふれ、いのちにかようもの、人をして安心立命、常楽法悦の妙境に住せしむるものであり、それは国民の個人生活をゆたかにし、社会生活を浄化して、文化国家の向上に大きな役割を演ずるものである」
この話の中には広い意味での公益を問題にしているのですが、しかしまずは個人ということが強調されている。これはいかにも戦後、アメリカ的な制度の中で宗教法人というものを考えいている見方ではないかと思います。ここまで個人ということをいわないと公益ということが出てこないのだろうか。人を育てる、社会に良い価値を保持し養う、人間が生き甲斐のある生活を行っていくための社会環境を整える。そういうふうな立場からこういう議論をしてもいいのではないだろうかと思います。
長谷川先生のお話では、「一宗教的使命感により、不特定多数の人々の利益に寄与する。平和運動、同和運動、災害救助活動、発展途上国援助活動など、二宗教的文化財や行動様式が不特定多数の人々に寄与している、たとえば、宗教的な絵画・仏像・建物・音楽など、三価値の創造の機能により、不特定多数の者の利益に奉仕する」ここでは長谷川先生は宗教法人の訴訟問題については長い経験をお持ちでらっしゃいますので、法廷でどういうことが争われるかということを十二分に熟知されたうえでこういう議論をしておられますが、不特定多数ということを非常に強調されております。信者さんだけではない。これは法的には非常に重要ではないかと思いますが、これは宗教集団に属した人がいる、そしてそうではない人がいる。宗教集団の人でない人にも利益があるのを公益というと、こういう考え方になっていると思います。
こういう考えを土台としながら今私が述べて参りましたような、そもそも宗教というものは公的なものであり、伝統的には公益は宗教から出てくると考えられていたと、こういう考え方を加味していくとどうなるだろうかということですね。そもそも人の魂に安らぎを与えるということ自信は公益ではないだろうかと。そういうふうにいえると思うんですね。別にボランティア活動やら平和運動やら社会福祉やらしなくても、社会が安定する、人々の心が慰む本来の教えを人々に伝えているということが公的な価値を持っているんだと。しかもそれは長く続いてきた伝統に根ざしながらということですね。こういうことが一つある。ここでですから価値の創造の機能というと、ややこの何か新しいことをしなきゃならないということですが、むしろ宗教というのは古来あるものを伝えていくというようなところにも価値があるということもあるので、社会を成り立たせている公的な価値を保持する役割というか、そういうところに基礎があるんではないだろうかと思います。
ここで例えばタイのような国と日本を比べてみてもよい。タイはおそらくごく自然にそれが信じられている。とすると、今日本で考えなきゃならないことの一つは、先程最初のほうで申しましたことなんですが、戒律というものがタイなどでは非常に大きな媒介になっている。つまり僧侶こそその社会の道徳の根本を保持している。あるいはその社会が乱れない為の戒律を守っている。それに習って在家も、在家として守れる戒を実践すると考えられている。この理念は日本では色んな理由でなくなった。ですから戒律こそが公的な秩序に仏教が繋がっていく媒介である。個人が悟りを求めるというだけではなくて、戒律を守りその高い精神性を社会に広げる役割を果たしている、そのことを示す基礎に戒律があったと。戒律というのは肉食妻帯というと非常に特別なことに見えるかもしれませんけれども、基本的には不殺生、人を傷つけないということを厳密に守りたいという意思の表明、そういうことであろうと思うんですね。
それでは今日本の仏教はどういう形でそういう意思を示そうとするのか。それは私が理解するところの仏教の社会倫理の根本、不殺生、慈悲というようなことです。それが伝統的な仏教では戒律ということで実現されるということで社会は納得していた。そうではない方向へ展開してきた日本。そしてもしかしたら世界の仏教はそういう方向へ展開せざるを得ない、どんどん在家の仏教になってくれば、厳密な戒律という、僧院での戒律というようなものはかえって桎梏になる。むしろ肉食妻帯をしてこそ民衆に近づいていけるという日本仏教的な理念にも一理あるのです。ある意味では全てが在家仏教者だという考え方ですね。これは法華経の中にそういう理念がないでもないと思います。そういう観点から仏教的な社会倫理というものを考えてもよいのではないか。
これは仏教はあまりに私的なものと考えないで、そもそも仏教は社会に、皆が穏やかに暮らしていける、お互いに尊敬し合いながら、弱い者が痛めつけられないようなそういう社会を作っていく。戦争などが起これば、政治家は勝つ為に努力しなければならないですね。そういう政治家であることを、王であることやめて修業なさったのが釈尊です。あるいはアショーカ王のような人がなぜ仏教を尊んだのかというのは、まさにその政治が伴うところの暴力というものを和らげるということを仏教に頼らざるを得なかった。そこにこそ仏教の価値を考えたんですね。
私の考えるところでは、仏教の公益性の根本は一人一人の人が悟りを求めること、その生き方が暴力を克服するような社会を実現する模範になる。そういうふうな理念です。こういう精神をどうやったら今の日本の社会の中で実現していけるのだろうか。ある意味では法華系の団体は色んなリソースを持っている。浄土教系の方が、あるいは禅もそうですね、社会から撤退するという、社会から撤退することによってこそ本来の救いに近づくという傾向があった。それを社会に参加することで仏教の理念を実現していくと、日蓮仏教はそういう理念を持ってきた。そういう実践者を沢山出してきたのです。そういうところが顧みられるべきところです。
ただこれも最初のほうで申しましたことですが、宗教がそういうふうに公的なものだということの中に、今では一つ新しい側面が出てきた。つまり宗教は本来、善を実現するはずであったわけですね、公的利益を実現するはずだったわけですが、宗教こそが暴力の元になる、多くの人に被害を与えるということが目立つ。あるいは人々の分断をもたらす。そういうことが現代の新しい認識ではないかと思います。これは冷戦以降といっていいかもしれません。
冷戦時代というのは民主主義の方に宗教は向かっていると考えられた、これは非常にアメリカ的な考えですが。西洋諸国もヨーロッパでもそういう考えがある程度通用していた。危ないのは全体主義のイデオロギーであって、非宗教的なイデオロギーが社会を破壊的な方向に向けていく。宗教を否定するから個人の心も軽んじられて、それが暴力をもたらすと考えられていました。全体主義や共産主義を抑えることによって、宗教が発展し民主主義がもたらされる。だからアメリカはアフガニスタンでイスラム教徒を応援したり、あちこちでイスラム教徒を応援したわけです。
ところが、冷戦時代が終わってみると軍事大国であるところのアメリカが利益を追求しようとすると、宗教に基づく勢力が抵抗する。そしてアメリカのほうも宗教にとってニュートラルではない、キリスト教という特定宗教が背景にあるということは、あちこちで馬脚を露わすというか、そういうふうになってきた。そういう状況の下では世間の人達が宗教は危ないとか、宗教は自分の仲間を増やすことに一生懸命で外の人のことは考えないとかですね、そういうことが無碍には否定できない。
今までの歴史を見ると、帝国を担ってきた宗教というのは、帝国を担ってきたという意味は、世界の諸文明を支えてきた宗教ということですが、それらの宗教は拡張主義的であるからこそそれができた。あるいは拡張主義的な政治とうまく波長を合わせることによってその社会の精神的な価値を担ってきた。そういうことがいえます。旧約聖書には、「産めよ殖やせよ」と書いてあるのです。「地を支配せよ」とある。正しい神の下に勢力を増やしていく、そうすると実際に仲の良い団結ができるのですが、それはじつはその団結に入らない人は排除されてしまう。
仏教はそういうものから本当に自由だったかというと、大きな問題があると思います。先程申しましたように仏教は戒律を重視するということは、国家の支えなくしてはむずかしい。仏教は多くの国で国家と結びついて発展したと思うんですね。これは仏教は本来国家を嫌うものだという考え方があると思うんですけれども、まさに仏陀は王であることを辞めたわけですが、しかし仏教徒は公的な秩序に関心を持つのですね。そして非常に広い範囲のローカルな団結を越えた団結を作るような精神的価値を示す、ということを仏教はやってきた。
そして大乗仏教の中には明らかに横に拡がっていこうとする精神がある。私は水平的連帯といいますが、人々の横の連帯を広げる、同じ仲間だという意識を持って支え合っていく。人のつながりを拡充してこれはまさに菩薩行の理念ですが、法華経の魅力の非常に大きな部分はそういう横の連帯をもって、横の連帯があるから今あるさまざまな嫌なことを克服できる。しかし横の連帯を広げていくということは、しばしば排除することになる。法華系の団体、これは日蓮の中にあり、創価学会が顕著にそうなんですが、排他主義、他の流派は認めないというところがあります。そちらの方が本当の日蓮の教えなんだという考え方は今でも強いと思いますが、それは宗門あるいはその教えが素晴らしいと思う人以外から見ると、やはり大いに問題がある。
これはここで宗教の公害性、公益性をいうとすれば公害性も問題にせざるを得なくなる。これは本当に新しい、元々そうだったのでしょうが、人々の意識の中に宗教は社会の団結の為の欠かせない資源であると同時に、分裂の為の、社会を分裂させる、特に国際次元で見ればですね、そういう要因にもなり得るという、そういうことが強く意識されるようになってきています。宗教の公益性を理解する時に、今は公害性ということも考えなければならない。その中には明らかに被害者を生んでいる、あるいは暴力的な対立を生んでいるというようなことが見えやすいのですが、また閉じこもっている、集団の外部には殆ど関心を示さない。典型的にはエホバの証人ですが。できるだけ集団の外部の人とは関わりを持たないように…。これは攻撃的には見えないんだけども、実際には非常にエゴイスティックな、集団のエゴと関わりがあることではないかと思います。
オウム真理教なども明らかに、全く公害的な団体でありました。しかしあれは宗教が持っているある種の可能性を非常にグロテスクに表したので、新宗教の中にある嫌なもの、そしてタントリズムの中にある危ういものがああいうふうに出てきたということではないかと思います。こういうふうに考えてみると宗教の公益性といってもどういうふうに議論を整理していいのか、とりあえず長谷川先生の整理に則して言えば、宗教独自の基礎的な機能とは、とにかく人々に、ある意味では私的な機能なのですが、私的に人々に安心を与えるということが公的なものの基礎であると。これはまあ一面の真実ではないかと思います。しかしそれはしばしば自分勝手な議論へ展開していくので、仲間にだけ通用する慰めということになる。
したがって、公共善への寄与が問われることになる。この中には色んな利他的な活動をすると、集団外へ理念を及ぼしていくと、集団の理想、公的にも通用する集団の理想ですね、私はやはり非暴力、不殺生、そういうものが慈悲とか利他という理念に込められて、日本の社会、日本の歴史を担ってきた、そういうことがあると思うのですけれども、そういうふうな理念に基づく様々な活動を行っていく。
三番目に文化の維持。人類が保持してきた様々な価値ですね、これは宗教と共にあった。世俗社会というのはしばしばそれをキャンセルしてしまうところがあったので、近代の見直しということの中には近代的な合理的な知識こそ人間の問題を解決できるんだといったけれども、それではとても慰めがえられない。精神的な価値というものを見失ってしまうことになる。これは長谷川先生の整理で言うと、価値創造の機能ということになるかもしれません。大学を持っていたり、様々な文化活動を行う。小説を書こうと思えば仏教的なアイデアが入ってくると、そのためには仏教文化の伝承を社会に向けて発進していくと。そういうふうなことがむしろ文化の維持、保持と言っていいんじゃないかなと思います。
こういうことを公益性と考えていいのではなかろうかと。非常に大きな議論で整理はごく当たり前のことになるかと思いますが、大体時間が参りましたので、粗っぽい話でありましたが、以上をもちまして終わらせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。
司会:島薗先生どうもありがとうございました。それでは質疑応答に移らせていただきたいと存じます。皆さん大変関心のある問題であろうと存じましたので、少し長めに質疑応答の時間を取らせていただいております。ご質問のある方は挙手をしていただきましてご所属のセンター乃至管区名、ご氏名などをおっしゃっていただいてからご質問をお願い致します。では、望月先生。
質問1:色々な角度から宗教法人の公益性というものに切り込んでいただいて、色んなことが言えるんだなあと改めて認識させられまして、ただ頭が混乱しておるんですけれども、島薗先生のおっしゃる全体的な方向性はどうもこういうことではないかと理解できるかどうか。つまり日本では公とか私とかいいますと、日本社会の伝統の中にどうしても公というのはお上あるいは国家という理解が多いと思うんですね。では公益性というのは国家の役に立つ、国家にとって有意義な宗教というふうな形に、極端にいうとなりがちなんですが、そういう方向に必ずしもべったりすべきであると言っているわけではないわけですよね、島薗先生は。思い起こしますと、ご存じの通りドイツの哲学者のハーバーマスという人が公共性というものに国家的な公共性と市民的公共性という二つの次元を区別しております。私が考えるのは、宗教団体、宗教法人というのは国家的公共性どうのこうのというよりは、市民的公共性の非常に重要な担い手であると、そういう宗教団体の位置、役割というものがどうも日本人の場合充分自覚が無い、そのことを自覚することが大切だというふうに理解する方向で島薗先生のお話を見た方がよりすっきりするのかなという気がしたんですけれども、市民的公共性という言い方ではちょっと漏れるものがありますでしょうか。
島薗:ハーバーマスというドイツの哲学者は非常に優れた人ですが、ずっと宗教には無関心といいますか、否定的な立場だったんですが、最近は宗教の方へ近づいているようです。というのはEUも一昔前は、EUというのは世俗的合理主義の社会だと、世界のリーダーとしてのヨーロッパはもう宗教ではない次元で社会を形作っていくということだったのですが、どうもEUというのは全体としてみると西方キリスト教、カトリックとプロテスタントの文明の枠からなかなか出られないというか、結局その中だったんだと自覚するようになって、ですからやっぱりカトリック教会の遺産というものをある意味では重んじるというか、それにプロテスタントもかわっていく、そういうふうな方向に変ってきたのではないかという印象を持っています。これはもうちょっと言いますと、国家と市民社会を対比するのは、一つの国の中では納得しやすい。そして国家がしばしば市民の自由にマイナスの働きをすると、日本の戦争中なんて本当に酷いものだったのですが、ドイツなんかも酷い経験をしているわけですから、しかもそのドイツだと国家は疑似宗教的な、日本もそうでしょうね、国家神道みたいなものを背負ってきたのです。しかしアメリカの覇権の下にグローバル社会となりますとどんどん小さな国家になってきている。国家が今までになってきたものをどんどん減らしていって、できるだけ資本主義のシステムに任せてしまう。とするともっと国家に大きな役割を果たしてもらってもいいんじゃないか、こういう声もあると思うんですよね。その国家というのは単にその国家だけではなくて、国家がいくつか連合しながら勢力を作ったりして、そういう時にまた宗教が役に立つと。これはもちろんグローバルな社会の中で、結局はグローバルな社会というのは国際社会なんですが、国際社会の中にはルールがあるようで無いですね。結局国連総会なんて何決めても通用しないので、安保理事会で拒否権で決まってしまってアメリカの利益は大体通ってしまう。だから無政府というか、強いもの勝ちの世界になるところもあるわけです。そういうグローバル社会の中で宗教は非常に大きな市民社会のメンバーとしての役割を果たしている。NGOなんて見ても、宗教関係のNGOは非常に多いですよね。そして宗教の非常に大きな特徴は、国境を越えて展開する。そういう意味で新たにグローバルな市民社会の担い手として、宗教が大きな役割を果たしている、そういうことがあると思います。ただその場合に、国家というものをそれほど敵対視しなくてもいいんじゃないだろうかと。国家が危うい、市民の自由を脅かすということを充分に視野に入れながら、しかし例えば国際社会の中で日本の国家はどういう役割を果たせるかと、その時に宗教の理念がどういうふうにそこに働くかと、こういうふうな時は国家単位で考えていいこともあるのではないかと思うのですね。なので、公共性というのをただ市民的公共性というところだけに限定していいのかしらと思います。例えばタイのような国でそれを言うと、なかなかこれは通用しない。タイ社会の仏教教団は、まず国家次元での公共性で活動しているわけなので、もちろん国家の枠とは自由に福祉活動とかやっているお坊さんもいるわけですが、あまり先進国的な国家対市民社会という基準だけでいくと、発展途上国の状況からはずれてしまうこともないかなと、そんなことも思っておりますが。いかがでしょうか。
司会:よろしゅうございましょうか。では他にご質問は。はい、では、原上人。
質問2:北海道南部の原顕彰と申します。先生の今のこの宗教と宗教法人という言葉で考えたんですけども、論理の展開の中で宗教と宗教法人とをちょっと混同されているのかなと、感じたんですが。宗教はあくまでも個人のものであり、また精神的なものですから普遍的であり、全て公益性を持っていると思います。それを宗教集団とか宗教法人という、人数を多くした一つの形にしてしまうから、公益か公益でないかというような問題が起きてくるのではないでしょうか。宗教はあくまでも個々的であり個人的なものでなければならないし、だからこそ公益性も持っていると思います。特に日蓮聖人のお言葉ですと、一宗の祖にあらずというそういう集団の長になるということを目的としているんじゃないんだと。そういう集団そのものも作らないということで、日蓮宗という名前もそういう宗派の名前も付けてこなかったというのが、日蓮宗の本質でないかなと思います。そういった意味で宗教ということは公益性を充分持ってますし、それが私たちの一番大事なことであって、宗教法人とか宗教集団ということにあまり重点を置かないほうが私たち宗教家にとってはいいものではないのかなと。いかがなものでしょうか。
島薗:信徒というか檀徒というか、市民とお話しになって仏教に導くという時には、当然そういうことになると思うんですが、宗教法人というものを基盤として活動が成り立っているわけなので、社会的責任ということが当然出てくる。なぜ集団を作るのか。もし日蓮聖人がそうおっしゃったとしてもお弟子さんたちがそういう仲間を作った、そして日蓮の典籍を読み込んで、共同の教えや規範を作ってきた、そのことにどういう意味があったんだろうかと。これは当然説明しなくてはならないし、説明できるはずのことであろうと思うんですね。その次元でも公益性が問われている。宗教の理念的な優れた部分だけで公益性ということを言うのでは、社会は納得しないし公共的な説明にはならないのではないだろうかと思います。我々の言葉の使い方の中に、宗教というとそういう理念的なものを指したり集団を指したりするので、私の話の中でも混乱しているかもしれません。ですので、おっしゃるように分けて考えたい。分けて考えたいのですが、公益性というようなことをいう時には、集団のほうで問われている。そちらの側面も大事なのではないだろうかと思います。よろしゅうございましょうか。
質問2:あくまでも、宗教法人・集団のほうが大事なんですね。
島薗:いや、ですから、両面ですね、両面。両面が必要なので。そして集団という時は日本の場合、こういう特定の集団という形をとってきているけども、これは必ずしも普遍的なものではないと、つまり多数の集団が並び立つような。したがって公的な役割がはっきりしなくなるようなタイプの宗教集団のあり方に日本はなっていると。そのことを自覚しながら公益性ということを説明していかなきゃならないということだと思います。
司会:はい、他にいかがでございましょうか。長谷川先生。
質問3:私が質問するのもおかしいかと思いますが、なかなか島薗先生にお会いする機会もございませんので、是非質問をさせていただきたいと思います。レジュメの中に私の所報を引用していただいて誠に光栄でございますが、この頃は全くこういうものがございませんで、私が大学生の頃に勉強した、東大の岸本先生の宗教学の創価性宗教的価値体というものを、参考にさせていただいたというようなことでございます。「寺門興隆」という雑誌がございまして、これに先生がこれから連載をされるというようなことで、非常に期待をしておるわけですけれども、その中に宗門を越えた現代思想としての実践教学が求められているとかですね、これは表題ですので編集者が付けたのかもしれませんが、文章の中に宗派教義の弁証を旨とする宗学や実証主義的歴史学の枠を越えて、現代日本の仏教やスピリチュアリティの課題を照らし出すような問題意識をもっと強めて世界に発進していかなければならない、ということおっしゃっておるわけです。私は全く両手をもって賛成するんでございますが、ここで先生がちょっとお書きになりましたようなことを私のイメージでは宗教の価値を創造する機能だと言っていたわけでございますが、この「寺門興隆」にお書きになっているようなことは先生の分類から言いますと、価値の維持機能というところに入るのかなあと思ったわけですが、それでよろしいでしょうかということが第一点。もう一つは最近特に公共宗教とかいうようなことで、宗教学会ですか、私参加したことないんですけれども、本で読ませていただいております。その時の公共宗教というものの公共と、今お話しいただきました公益性の公益というものは、概念が若干違うのか一緒と考えていいのか、ということ。もし違うとすればどういうような所に違いがあるのかということを教えていただきたい。この二つでございます。
島薗:まず第一のことですが、岸本英夫というちょうど宗教法人法ができるころに東大の宗教学の先生だったかたの『宗教学』という本が長らく使われておりまして、そこに創価性宗教ということが出ていたということじゃないかと思いますが、やはり進歩主義の時代だったので創造して新しく前へ進むという考え方が非常に多かった。これは創価学会も価値創造という名前がついておりますが、牧口常三郎という人が『創価教育学体系』という本を昭和五年に出しましたんですが、これは近代教育学から出てきた本で、人間が物事を一つ一つ作り替えて進歩していくところに人間の幸せはあるんだという考え方でした。我々は常に新しい状況に直面していますから、常に新しい創造的な対応をしていかなければいけないのですが、それはいつも後ろへ帰りながらというか、我々が何を受け取ってきたか、過去の人達から何を受け継いできたかということを自覚しながらであるはずだと思います。それを忘れると新しいものに飛びつくというか、物珍しいものにどんどん目が移っていくというか、これは近代文明の一つの病理でもなかろうかと思うのです。そういうことで保守主義というものにある種の意義があるとすると、伝えられてきたものからしか新しい価値は生まれないということもある。ですから価値創造という言い方でもそんなに間違っていないと思うんですが、新しくならなきゃいけないという雰囲気を少し減らしたほうがいいのではないだろうかとそういうことです。現代の人心は、それこそ世界遺産でもそうですが、古いものに立ち返ることで自分の帰っていける場所を見いだすというふうなこともあり、まさに宗教というものに人の気持ちが向かう時は、そういう役割が期待されていますね。スピリチュアリティ、スピリチュアルと、これは宗教がもっていた嫌な面を無くしてスピリチュアルへというわけですが、このスピリチュアリティというのは今度は根がない。まさに伝統が欠けているということが問題になってくるので、そういう意味では伝統から生まれてくるものをもっと重視するというか、そういう表現でも良いのではないだろうかというのが一点目ですね。公共宗教というのは、宗教社会学のレベルで、ホセ・カサノヴァというスペイン人の神父だったけれども社会学者になった人です。この人が唱え出したことで、まさに今日述べたことと関わりがあるわけですが、社会は益々世俗化していく、そうすると公的な領域は宗教の影響が無くなって世俗的になる、宗教は個人的なものになっていく、公的な領域から撤退していくと。こういうふうに考えていったら、いやそうでもないぞと、宗教が多元化して国教制度が無くなっていく、そういうふうにして一端政治、国家から切り離された宗教団体がかえって積極的に公的な次元に発言できるぞと。まさにその各国のカトリック教会はそうだというのです。国教時代には国家に縛られてある方面で機能し過ぎていた。国家との関係が切れることによってかえって積極的な活動を色々できるようになった。平和活動とか貧しい人の為の活動とかです。たとえば今の前の教皇、ヨハネ・パウロ二世ですね。非常に政治的に活発だった。中には中絶の禁止とか女性司祭の禁止とか抑圧的と批判されるような面もあったんですが、先進国の横暴に対してかなり厳しい批判をしたりした面もあった。こういうのが公共宗教の働きで、私が考えている現代の宗教の公益性というのはかなりこれと近い話だろうと思っています。ただカサノヴァの議論は、キリスト教の伝統が強い国、とりわけ、主にカトリックの国の話なんですね。それにアメリカが加わっているんです。もうちょっと世界を比較しながら考えなければいけないですね。そうするとまだ国家と宗教の関係が切れてない国が多いわけです。イスラム圏とか東方教会、ロシアなどもそういう方向に向かっている。その辺の関係をどういうふうに見ていったらいいのか。今世界的に議論しているところだと思います。例えばイスラム圏の多くの国ではイスラム法が基本なので、今でも一夫多妻制であるわけですが、そういうふうな宗教の公的な機能のあり方に対して西洋諸国から見るとそれはもう近代的な人権と対立すると。一端近代的な人権を受け入れなければ公共宗教になれないんだという考えた方もあるし、いやいやイスラムの伝統の中にはイスラム的な公共宗教のあり方があるんだという考え方もある。では、日本はどうなのかということを考えていく必要があると思います。今日お話ししたのは日本では宗教があまりに私的な、個人的なものと考え過ぎてきたのではないだろうかということです。そして仏教もそういうふうに考えられ過ぎてきた。仏教はもっと公共宗教として考えていきましょうと、まあこういう話ですね。
司会:まだご質問がつきないかと存じますが予定の時間を若干超過いたしましたので、これをもちまして島薗先生のご講演を閉じさせていただきます。どうも島薗先生大変ありがとうございました。
公益法人制度改革の現状と展望 日蓮宗顧問弁護士 長谷川正浩
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
一、はじめに
皆さんこんにちは。ただいまは身に余るご紹介を頂きましてありがとうございます。今から五、六年前までは宗教(法人)の公益性について発言される大学の先生とか、お坊さんだとかはほとんどいらっしゃいませんでした。そこで私なりに勉強させて頂きました。今日これから私がお話し申し上げるのは、公益法人制度改革の現状と展望ということで、演題はえらい大きな事なんですけども中身はそう大したことではございません。
公益法人の制度改革の法律が一応出揃いまして、今年の十二月一日から施行されることになっています。公益法人の制度改革と申しますと皆さんなにをイメージされるでしょうか。日蓮宗にあります総合財団ですね、あれに課税されるのかされないのか。公益認定されるのか、されないのかということです。それから育英財団もあります。京都の本法寺にも財団があると聞いておりますし、中山の法華経寺にも財団がございますが、こういった財団がこれから一体どういうふうになるか、ということなわけです。そしてこの財団の問題に決着がつきますと、今度は特別法による公益法人ですね。労働組合だとか学校法人、社会福祉法人といった法人が議論に登るかもしれません。そして行き着くところ宗教法人が議論に登るかもしれない。我々は無関心ではいられないということです。しかし、私共にとっては良いチャンスだと思います。日蓮教学の現代化にとって良いチャンスだということです。その理由は追々申し上げます。
二、公益法人改革の動き
平成十二年の十二月一日に行政改革大綱が閣議決定されました。公益法人の改革だけでなくて行政改革全般にわたる改革でした。元を正しますと、大平内閣の頃に遡ります。当時十七兆円の国債発行高がありました。この国債は将来日本の為にならない、何とかしなければならないと大平総理は考えられました。国債を発行して予算をたて始めたのは今の福田総理のお父さんが総理大臣のときだったわけですが、大平総理はなんとかしなきゃいけないということで、今でいう消費税を掲げて、増税で国債を返済することを公約にして選挙を戦ったわけです。ところが自民党は惨敗で、半数を切ってしまいました。新自由クラブと連立してようやく政権を維持したということです。それ以来、増税ということはタブーになってしまいました。ですから、本宗の熱心なご信者である土光敏夫先生が行財政改革委員会の委員長になって、メザシの土光といわれたこともございました。中曽根元総理が行革大臣であった頃のことであります。その頃は増税はタブーでありますので、増税なき財政再建といわれておりました。ところが、増税なき財政再建は全然実を結びませんでした。政府は節約をして小さい内閣を作ろうとしたわけですけれども、実を結びません。ようやく実を結びかけたのは橋本内閣の頃でありますが、結びかけると橋本内閣も自民党惨敗で辞職ということになりました。その結果、国債は今いくらになっているのか、新聞の数字を見るたびに違っていますので、正確にはかわからないですけれども、おおむね八八〇兆円あるといわれております。そして国債以外の国の借金や地方公共団体の借金を全部ひっくるめると、一〇〇〇兆円はあるだろうといわれております。昨日、大阪市で橋下知事が初めて登庁して大阪府は破産会社だという訓示をしたそうでありますが、大阪府も大変なんですね。橋本内閣の時に具体化しておりました財政再建、行政改革、財政改革というものを小泉総理が本格的に受け継いだ。というわけです。その少し前の平成十二年、行政改革大綱で公益法人に対する行政の関与のあり方の改革を閣議決定しました。対象になったのは天下り法人です。行政委託型公益法人の改革です。ですから本宗の総合財団とか育英財団は改革の対象に入っていませんでした。本来ならば国家や地方公共団体が行うべき仕事を、公益法人を設立して、その公益法人に行わせる、国が委託をするわけです。委託をうける法人を行政委託型公益法人といいます。もちろんタダではありません。高い委託料を払うわけですね。そしてこの公益法人の理事とか常務理事とか理事長はどういう人がなるかというと、高級官僚のOBです。日本の高級官僚は自分より同期以下の者には使われないという慣行があるそうです。例えば財務省で一〇〇人の新人を採りますね、国家公務員の試験に受かってきたキャリアの人です。局長になるのは五名から六名です。一〇〇名採った年度の人が局長になると、同期の人は五、六人の局長だけ残って、あとの人は定年前に全員転職をしていくわけです。だからこういう人達の行く先を考えなくてはいけない。局長が五人いますと、その中の一人が事務次官になります。あとの四人はその場で辞職をするわけです。定年前ですから辞職する局長の就職先を考えなければならない。行政委託型法人を思いついたのは田中角栄総理だといわれております。本当かどうかは知りませんが、ものの本によるとそういうふうに書かれています。田中総理大臣は、国家のことを四六時中考えておる官僚がわずかな公務員の給料では、わずかな退職金では、あまりにも可哀相だ。これでは国家の為に一生懸命働いてもらえないということで、行政委託型公益法人を考えられたそうです。しかし、誰もがおかしいじゃないかと批判をする。当然です。そこで、行政委託型公益法人を改革しようということが閣議決定されたわけです。ところがその翌年になりましたら、行政委託型の公益法人とは別に、公益法人全体を抜本的に改革しなければいけないという考え方が出てまいりました。平成十三年七月十三日には「公益法人制度について問題意識、抜本的改革に向けて」というのが政府から出されます。そして平成十四年には三月二十九日に「公益法人制度の抜本的改革に向けた取組みについて(論点整理)」という閣議決定がされるわけです。ここではじめて日蓮宗の総合財団や育英財団も対象になる議論がされるようになったわけです。行政委託型の公益法人の改革については、平成十四年の三月二十九日に閣議決定された後どうなったのかわからないままであります。結論は出ているんでしょうけども、省庁のお役人がよそへ天下りするという問題は今でも時々新聞に載っていて、天下り先を決めるのに各省庁に任せておいてはいけないから、内閣府でやろうとか色々なことがいわれていますが、未まだ解決しておりません。しかしあとから出発した公益法人全般の改革については、去年の六月二日に新社団財団法が公布され、今年の十二月一日に施行されることによって、一応の結論は出たわけです。この間、平成十五年の六月二十七日に閣議決定がされています。このように何回も何回も閣議決定しながら進めて行くわけですね。閣議決定というのはおそらく議論が、後戻りしないように、後に戻って議論をすることを封ずるために行われるのではないかと思います。この閣議決定は本来なら三月三十一日までに行なう予定だったんです。なぜ遅れたかというと、公明党が反対したからでした。公明党がこの公益法人制度改革は将来宗教法人に及ぶものであるということを感じ取ったわけですね。ところが六月二十七日の約一ヶ月前、五月三十日だったと思いますが、与党三党の合意事項でこれを推進することが決まりました。与党三党というのは、保守党と公明党と自由民主党です。
その後、平成十五年の十一月二十八日から有識者会議がもたれて、翌年の十一月十六日までに合計二十六回の会合が開かれています。有識者会議の議事録は政府のホームページで全て公開されています。この段階では非常に透明性が高い議論がなされておったわけです。もちろん透明性が高い議論がなされておったといいましても、有識者会議のメンバーになる方は皆賛成の方ばかりです。有識者会議の前に反対の方がおられました。NPO法人の堀田力弁護士です。さわやか財団の理事長ですが、以前は特捜検事をされていました。堀田力弁護士は有識者会議のメンバーからはずされてしまいました。それでも有識者会議では透明性の高い議論がされて、平成十五年の十一月十九日に有識者会議は「有識者会議報告書」を出しました。これに基づいて十二月十五日に政府としての基本的枠組みを具体化したうえで、暮れの十二月二十四日に閣議決定がされています。
平成十七年になりますと、政府の税制調査会で「新たな非営利法人に関する課税及び寄付金 税制についての基本的な考え方」というのが公表されて、そして十二月二十六日に新制度の概要が公表されました。この一年間、内閣府は何をやっていたかというと、新しい法律を起案していたわけです。しかし起案の経過は国民の目に触ることはありませんでした。そしてようやく十二月二十六日に法律案の概要が公表されたのです。全日本仏教会の役職者に知れわたったのは、翌年、平成十八年の一月の下旬頃でした。そして二月になって、これは大変なことだということが多くの人達に分かってきたわけです。
三、公益法人制度改革三法の問題点と今後の対応
どういうふうに大変かといいますと、一番目は「祭祀と宗教」を、公益性の例からはずしてしまうということです。民法三十四条から「祭祀・宗教」を削除しまうと、宗教法人が公益法人であるという法律上の根拠が無くなってしまいます。それから二番目は、新しく作る社団法、財団法の中で「公益目的事業」の例示があがっているわけですが、この例示のなかに宗教に関するものが除かれていたということです。公益法人と認定してもらう為には「公益目的事業」を行っていなければなりません。「公益目的事業」とは何かという中に、福祉の向上だとか、国民の健康の保護だとか、環境の保全だとかということが例示されていましたけれども、この中に宗教に関することが全く無いということです。「公益目的事業」の例示として宗教文化の振興や宗教団体の維持活動、宗教の調査研究活動などを明記すべきである、というふうに我々は考えるんですけれども、全くその規定がなかったというのが二番目の大問題。
それから三番目はですね、社団や財団が清算されますと残余財産がどこかへ処分されるわけですけれども、宗教法人が持っている社団や財団の残余財産は元を正せばほとんど宗教法人のものであったと思われます。この残余財産を宗教法人へ戻すことについては規定がない。言い換えれば、宗教法人に社団や財団の残余財産を戻すようにすると公益性の認定はされないということでありました。これが三つ目の大問題。
そこで全日本仏教会は、文化庁の宗務課とか、日本宗教連盟と協同して獅子奮迅の活躍をされるわけであります。結果的にこの三つはOKということになりました。まず民法における祭祀、宗教という文言は残ることになりました。それから二番目の公益目的事業の例示として「信教の自由の尊重又は擁護を目的とする事業」、という文言が付け加えられました。一昨日(平成二十年二月五日)、全日本仏教会の構成団体、各都道府県仏教会や各御宗門の顧問弁護士団会議がありましてそこでも議論されたことではありますけども、信教の自由が存在しなければ宗教活動は万全に行えない、ということから見ますと、宗教活動そのものを「公益目的事業」に入れてもいいのではないかなと、私は思うんです。ところがこのことについてはまだ一般社会の合意が得られていないと思います。そこで宗教活動が本質的にもっている福祉の向上だとか国民の健康の保護だとか公共の安全の確保だとか文化の発展だとかというようなものを、宗教団体がもっている社団、財団の目的の中に入れて、この目的に沿った活動をすれば公益認定されるというわく組みになってしまったということです。その一つに「信教の自由の尊重又は擁護を目的とする事業」が加わったということです。それから三番目は、残余財産を宗教法人に戻すということについては、これは政令で規定をします、保証をしますということを内閣府のお役人が自由民主党の委員会で約束をしました。こういう約束というのはどういう法的効力を持つのか分かりませんけれども、お役人が自由民主党の委員会でそういう約束をしたら、それはそれで信用できるのではないかと思っていたわけです、この約束をしたのが平成十八年三月六日でした。そして三月十日に衆議院へ法案が提出され、五月二十六日に参議院を通過して成立し、この法律は平成十八年六月二日に公布されました。そして平成二十年の十二月一日に施行されるということになりました。施行する前に、政令で、細かいことを決めておかなければなりません。その細かいことは、公益認定等委員会を政府で作りまして、そこで最終的に決めました。この公益認定等委員会ができる前に新たな公益法人制度への準備に関する研究会を発足させて、ここで作った政令の案文が自民党に提出されたのです。平成十九年三月十五日お昼頃、衆議院議員の加藤勝信先生から、岡山選出の代議士ですけれども、私にファックスが入りました。それを見ると、宗教法人に残余財産が行くように定款で決めた社団や財団は公益認定を申請する資格が無い、と書かれていたわけであります。公益認定社団とか公益認定財団は、公益目的に使ってくださいといって個人や会社から寄付をうけます。すると寄付した人の税金が安くなる。大学へ寄付するのと一緒ですね。一〇〇万円立正大学に寄付しますと、今では九十九万五千円を自分の所得から控除してもらえますから、それだけ税金が安くなります。それから会社が立正大学に一〇〇万円寄付しますと一定の金額の範囲内で損金算入してもらえるわけです。利益がそれだけ圧縮されますから、法人税が少なくなる。利益を出している会社は大学へ寄付しやすくなるわけですね。こういうシステムを今度、公益認定法人にも適用しようというわけです。ところが総合財団が解散の時にこの財産は日蓮宗に帰属する、と書いてあったら日蓮宗の総合財団は公益認定になりませんよというのがファックスの内容だったんです。そういうことが平成十九年三月十五日に分かりましたので、さっそく全日本仏教会、日本宗教連盟の方たちに知らせました。日本宗教連盟、全日本仏教会の方たちが内閣府と、公益認定等委員会とか新たな公益法人の準備に関する研究会の担当のお役人と交渉をしたわけです。宗教法人が解散した時に残余財産を住職個人のものにすると規則で定めても宗教法人法上はかまわないとなっています。日蓮宗に包括されておる皆様方のお寺は、解散すると日蓮宗に帰属するとなっています。ところが例えば浄土真宗系では、解散をすると住職個人のものになる寺院があります。そうするとせっかく公益目的の為に使ってくださいといって公益財団へ寄付した財産が、その公益財団が解散してしまうと残余財産をうけついだ宗教法人を経由して住職個人のものになってしまうということになります。それでは寄付した人の意思が尊重されないことになるというわけです。それから寄付した財産には、寄付した時に税金がかかっていません。あるいは優遇されています。その財産が巡り巡って個人にいくと、本来課税すべきであった税金が課税されないことになっておかしいではないかという考え方です。
公益目的財産は、公益認定財団が解散したときに、国もしくは地方公共団体、学校法人、社会福祉法人、更生保護法人等へ残余財産がいくということになっておれば、それはOKだけれども、宗教法人はダメですよとなっていたのでした。しかし、全日本仏教会などの交渉により宗教法人でもよいことに変更させたということです。ただしどんな宗教法人でもいいということではなくて、租税特別保持法四十条に似たような枠組みを作って、一族支配ができないような宗教法人に残余財産を帰属させる場合には、公益認定が可能となったわけです。
日蓮宗でいえば、大型法人の規則であれば可能となりました。
四、宗教法人の公益性の内容
宗教(法人・団体)の公益性の内容につきましては、先ほど島薗先生がおっしゃいました。私と意見が違うところがあったのかなと思いましたので質問させて頂きましたが、お答えを聞いて一緒だと思いました。私は島薗先生のレジュメに私の事務所報を引用いただいて誠に恐縮なんですけれども、平成十五年の頃のことでした。宗教法人の公益性に関する文献を一生懸命探しました。そのころ公益性の源は宗教活動にある、と漠然と考えておりました。ところがそういうことを書いた本というのはありませんでした。そこで宗教学の本を一生懸命読みました。東大の岸本英夫先生の「宗教学」(昭和三六年六月、大明堂出版)に帯価性宗教的価値帯とか蓄価性宗教的価値帯とか創価性宗教的価値帯のことが書かれておりました。それを参考にして考えたのが、私が申し上げる宗教の公益性です。この宗教的使命感とか宗教的文化財、行動様式については島薗先生のおっしゃることと同じ趣旨です。価値の生成ということを申し上げており、これを価値の抽出と価値の創造の二つに分けました。価値の抽出というのは、お釈迦様や日蓮聖人の頃にいわれていたこと、例えば不殺生戒でいえば現代の不殺生戒とはどういうものかということです。価値の創造とは、お釈迦様や日蓮聖人の時代には考えもつかなかった現代的な問題があります。典型的なのが脳死の問題。脳死というのはお釈迦様や日蓮聖人の頃は起きなかった。なぜなら人工呼吸器が発明されて初めて脳死という現象が起きたのです。人工呼吸器が発明されていないわけですから、脳死についてお釈迦様や日蓮聖人は述べておられないわけです。ところが私たちは日蓮聖人やお釈迦様の考え方を敷衍しながら脳死をどういうように考えたらいいかということを社会に示さなければいけない、という意味で価値の創造といったわけです。大学の先生方が研究されている分野は、過去の事実の研究、過去の教義の研究、それから現在の事実の研究、この三つの分野がほとんどだと思います。全日本仏教会が立正大学の考古学の先生方の協力を得ましてルンビーニの摩耶堂の側から石を発見しました。アショカ王がお釈迦様の生まれた所であるとして特別な石をここへ運んで置いたということが分かりました。これは過去の事実の研究ですね。それから過去の教義の研究。お釈迦様が説かれた、仏説ではないといわれておりますけれども、法華経の教義の内容はどういうものかとか、日蓮聖人の教えはどういうものかということが研究されています。読み切れないほど沢山ありますね。ほとんどは戦後の研究成果でます。文献学だとか教学史といった学問を通して明らかにされています。それから現代の事実の認識作業としては、宗教社会学だとか民族学だといった学問の成果があります。ところが現代の行動規範の抽出だとか創造だとかの分野はあまり成果がありません。「寺門興隆」という雑誌に島薗先生が連載を始められました。現代の仏教は世界に向かって現代の価値観を発信しなければならないのではないかといわれています。それに関連して、価値創造について島園先生に先きほどもう少し詳しくお聞きしたかったんですが時間が来てしまって残念でした。私が価値の生成と名付けたところ、例えば不殺生戒についていえば、現代の不殺生戒は何かと論ずる時に、過去の仏様の教え、法華経の教えや日蓮聖人の教えと全く切り離してしまって結論をだしてしまうことはできないと思います。それから脳死は人の死かという問題についても仏様の教えやお経に書かれていること、それから日蓮聖人等の教義と全く関係なく結論を出すことは、宗教者あるいは日蓮宗の教師としてはおかしいわけですね。お釈迦様や日蓮聖人の教義と関係なく結論を出すならば、それはお医者さんとしての結論とかあるいは評論家としての結論と変わりがないわけです。そういった過去の事実、過去の教義、それから現代の事実を総合して現在の行動規範を作らなくてはいけない、ということを申し上げたかったのです。妻帯は実質的な公益性の根拠を弱めるのではないかと考えていましたが、島薗先生の午前中のお話で、肉食妻帯の在家主義から新しい仏教の理論を発信できるのではないかとおっしゃっておられました。私も見方を変えて、在家主義を現在の行動規範の積極的なものとして捉える必要があるのかなあと思ったことです。
五、宗教(法人)の公益性を担保する制度
宗教法人の公益性を担保する制度について説明させて頂きます。宗教法人法に宗教の公益性を担保する制度としてどういうものがあるかということです。ガバナンス(管理・運営)としては、責任役員制度があり、役員の善管義務、法令遵守ということが十八条に規定されております。問題は聖俗の分離です。代表役員と住職を一人の人がやっているわけで、観念的に頭の中だけで分離をさせておくということでいいのかどうかという問題はあろうかと思います。それから利益相反行為の禁止です。住職個人と法人が取引する場合には、仮代表役員を選ばなければなりません。それから任意機関設置によるガバナンス(管理・運営)の強化です。任意機関というのは日蓮宗でいえば宗会です。宗会をなくしてしまっても、宗教法人法上は大丈夫なんですけれども、宗会を設けることによってガバナンス(管理・運営)を強化しているわけですね。問題になるのは監事を置かなくてもいいということです。また一族支配を排除するような制度が宗教法人法には無いということです。住職が代表役員兼責任役員で、その奥さんが責任役員、住職の息子が責任役員とういう宗教法人も多々あるわけですから、これは今後問題になります。説明責任とか情報開示ということについては、ご承知のように公告制度が採られております。最近こういう相談がありました。立派な庫裡客殿を再建をされたお寺がありました。一億円くらいかかった立派な庫裡客殿なんです。保存登記するというときに登録免許税がかかります。所轄庁にいって、宗教活動に使う施設であるという証明をしてもらうと登録免許税がかかりません。証明書をもらいに行ったところ「公告」はやりましたか、規則には宗派の代表役員の承認を得るというふうに書いてありますがやってありますか、その証明書を持ってきてください、といわれたとのことです。やっていないから大急ぎで遡って、宗派のほうに頼み込んで承認してもらうということになりました。意識的に守らないわけじゃないんですね、忘れているわけでもない、要するに無視するといいますか、規則や宗制上の手続に気づいていないわけです。そういうお寺が、本宗だけじゃありません、他の宗派にも沢山あります。気をつけなければなりません。それから公告制度には登記があります。江戸時代に建てた本堂や庫裡、あるいは大正時代に建てた本堂や庫裡は保存登記や表示登記をしていないところが多いと思われます。登記する必要に迫られないから登記していない、本堂や庫裡を担保に提供してローンを組むわけではありませんから。ただ法律上は二週間以内に登記しなければいけないことになっています。だから不動産の登記簿謄本を見ただけでは財産目録の内、建物目録が書けないというようなお寺も、本宗だけでなく沢山あります。そういうことでいいのかどうかといことです。それから備え付け書類の閲覧制度があります。平成七年に宗教法人法が改正され、寺院規則、議事録、財産目録といった備付書類は、信者その他の利害関係人から閲覧の請求があると、正当な利益があり不当な目的がない限り、その信者、檀家に見せてあげなくてはならないということになりました。結構見せない人がいるものですから裁判になっています。裁判になったらまずお寺が負けると考えてよいと思います。見せるということを前提として書類を作成する必要があります。見せるということを前提にするということは嘘を書いてもいいということですかという質問がありましたけれども、嘘を書いちゃいけませんね。議事録だとか財産目録というものは人に見せるために作成するものです。そういう前提で作る必要があるということです。宗教法人は、住職と関係のない他人だということですね。宗教法人という他人の財産を預かっているわけですから、財産目録も作っておかなきゃならないし、議事録もつくらなきゃならないということです。法燈継承のときに過去帳だとか払子だとかいうものを受け継ぐかたは沢山いらっしゃるんですけれども、寺院規則を法燈継承式のときに受け継ぐということはまだ聞いたことがない。皆さんあまり関心が無いわけですが、これからは紛争が起きると市民社会のルールで解決することになります。市民社会のルールというのは今までの慣習とか慣行とかいうものではなくて、裁判所に行くと適用される法規範であります。規則や宗教法人法をきちんと守っておれば公益性を担保する制度は守られているといってもいいかと思います。行政の関与については、収益事業の停止命令、認証の取消、解散命令の請求、求報告・質問権とこの四つだけです。公益認定法人はもっと沢山の監督を受けるわけですが、宗教法人は必要最小限になっています。なぜかというと、憲法に信教の自由・政教分離の原則があるからです。こういった議論は宗教法人の制度改革の時に議論されるであろうと思われます。
六、「啓蒙活動」の不足と「布教」の重要性
「宗教法人制度の運用等に関する調査研究」という報告書が、去年の三月に発表されました。文化庁の宗務課で来るべく宗教法人の制度改革の為に資料を作ったということであります。今後の議論の為に是非お読み頂きたいと思います。文化庁の宗務課は我々の味方だと思います。そんな権力寄りのことをいっていていいのかとおっしゃる方がおられるかもしれませんが、社団、財団の制度改革の時、それから保険法の改正の時の活躍ぶりを見て、文化庁の宗務課はわれわれの味方だと思いました。具体的に申し上げますと、日蓮宗に共済制度がありますね。共済金といったって大したお金がもらえるわけじゃないけれど、それでも何十万円かのお金がもらえる。それから住職がお亡くなりになると幾ばくかのお見舞金がくるという共済制度があります。この共済制度が保険の対象になりかけたことがあります。保険の対象になりますと規模を大きくしなければなりません。金融庁の監督を受けなければなりません。保険の対象にしないとオレンジ共済のように国民に被害をもたらすということで共済制度も保険に組み込むということです。しかし日蓮宗をはじめとする教団の共済にはそのようなおそれはありません。だから宗教法人の共済は保険の対象にすべきではないという運動をしたわけです。このときに文化庁の宗務課には本当に一生懸命になっていただいたわけです。もちろん各ご宗派ご宗門、日蓮宗の内局なんかも一生懸命になっていただいた結果、保険の対象から免れたわけです。宗務課には、新社団・財団法制定のときにも宗教関係の事業が公益事業の中に入るように努力をしていただいたわけです。お役人と雑談しておりましたら、何で文化庁の宗務課の人はあんなに一生懸命になるんですかね、宗務課の人は宗教界に天下りを考えているんですかねなんていってるんですよ(笑い)。それを聞いて私つくづく思ったんですが、それほど宗教界のことを知らないんですね、内閣府の人達は。しかし、これはお役人の怠慢とまではいえないと思います。保険業法の時も説明に行きました。宗教法人が包括法人と被包括法人という二重構造になっているということもご存じないわけです。だから宗教法人の共済、日蓮宗の共済、各宗門の共済というのはどういう制度になっているのか、資料を持ってきてくださいということで、資料を大急ぎで集めて金融庁に持って行きました。お役人の中で宗教界に関することを知っておられるのは、文化庁の宗務課の方ぐらいです。今お布施には消費税かかりませんね。消費税が設けられたとき文化庁の宗務課のお役人が時の大蔵省へ説得に行かれたということです。最近聞きました。いま皇学館大学にいらっしゃる河野先生という宗教学の先生が、宗務課に専門官としておられました。大蔵省のお役人は、お布施は宗教的サービスの対価だと思っておられたようです。お経を読んでもらうからお布施を払うのだ。お塔婆を建ててもらうからお布施を払うのだという考え方です。しかし布施というのは、六波羅蜜の一つで、布施行という在家の人達がお坊さんやサンガに金銭あるいは食べ物を贈るという、宗教活動そのものです。その為に三輪清浄ということがあって、貰う人の心も清浄、差し上げる人の心も清浄、差し上げるもの自体が清浄でなければならない。こういう理論に基づいてお布施というものはあるんですよと説明をしてくださって、その結果布施には消費税はかからない、不課税ということになったということを聞きました。ところが今、一般の社会の人達はどういうふうに思っているでしょうか。回向院の犬猫の葬祭を行う建物には固定資産税はかけてはいけないという判決が東京高等裁判所で出されました。回向院は固定資産税をかけるかかけないかということでありますが、愛知県の春日井市の天台宗の慈妙院でやっている犬猫の供養は、収益事業と認定されて高裁まで争ったけれどもお寺が負けました。今最高裁判所で争っています。その理由は料金表がありますね、お寺の方は料金表があってもこれは一つの基準ですと、別に料金表にこだわっているつもりはありませんと返答しました。税務署のほうは料金表があればこれはお布施ではない、といったようです。裁判所はどう判断したかというと、例えば一頭五万円と書いてあれば五万円払わなければ葬儀をやっていただけないという心理的強制を受ける、だから五万円とお経を読んでもらう行為との間には対価関係があるからこれは請負業だというわけです。年間三万円でお骨を預かれば、その三万円はお骨を保管してもらう為の三万円なんだからこれは倉庫業であるというわけです。じゃあ人間の場合はそれと似たようなことやってませんか、居士を付けるといくら、院号はいくら。あるいはお坊さんがそんなことをいわなくても、気の利いた総代さんがいて、あんたのところは代々こういうふうだからまあこれぐらいのお金をお寺へ包んで行きなさいよ。それでうまくいってるんですね。私はそれでいいと思うんです。基準があってもいいと思うんです。基準があるのはみんなお布施じゃない、そんなことをいうつもりはありません。しかし我々は布施行というものが、お布施というものがどういうものかということを檀信徒にあまりにも知らせて来なかったのではないでしょうか。布教が足りなかった。だから檀信徒のほとんどはお布施というのはお経を読んでもらうから出すものだと思っています。私の実家でもたまに農家の人が野菜を届けてくれます。玄関の前に誰が置いて行ったのか分かりません。しかし、檀家さんはそれをお布施だとは思っていないんです。お布施というのは月参りに来てもらったときに幾ばくか包んで置いておく、これがお布施だと思っている。だから私も誠に怠慢なわけですけども、これから気をつけなければいけない。それからもう一つ、収益事業がこれから政府や与党の税調で議論されると思います。三十三種類ありました。これを増やそうということで労働者派遣業が加わりました。三十三種類を三十四種類とか三十五種類とか五十種類にするなんてのは生温いことだ、対価関係のあるものは全部収益事業にしましょうという意見の人も多いんです(平成十七年六月十七日に政府税制調査会基準問題小委員会、非営利法人課税ワーキンググループが公表した「新たな非営利法人に関する課税及び寄付金税制についての基本的考え方」参照)。そうすると仏教の理論ではお布施には対価関係がないけれども、社会一般の意識においては対価関係があるからこれを収益事業にしましょう、という議論が起こるとも限らない。しかしこのような事態は我々の姿勢を正す良いチャンスと捉えて布教活動に専念しなければならない。我々の教師としての姿勢を改めなければならないと思うわけです。
七、総合財団・育英財団をどうするか
宗教系社団・財団はこれからどうするかということです。例えば、日蓮宗の総合財団、財団法人、日蓮宗布教助成会といいますが、この財団をこれからどうしようかということです。日蓮宗総合財団で今おやりになっている最大の仕事は、総合財団賞を贈呈するということです。総合財団賞を贈呈するということは、不特定かつ多数の者の利益増進に寄与することを目的とする事業に入るかどうか、という問題があります。それから日蓮宗の育英財団、財団法人立正育英会です。これもそうです。この財団は建て前上は宗門の子弟に限らずとされていますが、おそらく日蓮宗の子弟のみに事実上限られておると思います。そうすると日蓮宗の子弟に限る育英事業というのは、不特定多数の者の利益に寄与することを目的とする事業に入るか、という問題があります。結論的にいえば、私は入ると思います。日蓮宗の布教に専念することは、不特定かつ多数の人の利益の増進にに寄与する、と私は思います。従って日蓮宗の子弟に対する育英事業は公益事業だといえると思いますが、なかなかこれが一般社会の人に認めてもらえません。なぜかというと、日蓮宗の坊さんの布教活動が不特定多数の人の利益になっているという印象が薄いからだと思います。一生懸命やればそういった印象を持って頂けるだろうと思います。浄土宗は、浄土宗の子弟の育英事業であったのを全日本仏教会傘下の教団の子弟に育英金を出せるように規則を変更したそうであります。宗教団体が持っている社団や財団の事業で宗教法人でやれることがあるならば、その社団や財団を解散して宗教法人でやればいいと思うんですね。苦労をして公益認定をしてもらっても、行政からの監督を免れることはできません。宗教法人でやれば監督は受けませんから、今の総合財団は解散するというと怒られちゃうかもわかりませんが、解散して日蓮宗に残余財産を帰属させて、日蓮宗の特別会計でやればいいと思うわけです。もっとも立正平和運動を総合財団でやろうということであれば話は別であります。しかし立正平和運動は別に財団でやらなくてもいい、日蓮宗でやればいいわけですから。日蓮宗でできることは、日蓮宗でやる。どうしても日蓮宗でできないことは別です。いずれにしてもそのことの議論は関係者の会通を得なくてはいけません。中山法華経寺の財団、本法寺の財団、その他日蓮宗のお寺に所属する財団。これから議論を深めていかなければならないと思います。
ということで私の説明を終わらせて頂きたいと思います。ご質問をお受けいたします。
司会:長谷川先生ありがとうございました。では、質疑応答の時間に入らせて頂きたいと存じます。どなたかご質問がございましたらどうぞ、挙手をお願いいたします。望月先生。
質問1:色々と詳しい説明ありがとうございました。簡単な、ちょっと初歩的な、周辺的な話かもしれませんけれども、先ほど平成十三年の七月二十三日に公益法人制度の抜本的改革に向けてということが方向付けられて、閣議決定に至ったと。その前の行政委託型の公益法人についてならば、行財政改革という動機から出ているのはわかるんですけれども、公益法人の抜本的改革にそれが移行していったというその事情がよく分からない。公益法人の抜本的改革も行財政改革に大きく寄与するんですか、ということ、それが一つです。もう一つは日蓮宗の中の財団とか社団とかそういうものを念頭に置いてお話しされたと思いますけども、この公益法人か、あるいは非営利法人かといういわば選択を迫られるような法人というのは、宗教界以外では例えば代表的なものはどんなものがあるんでしょうか。色んな文化活動とか公共的な活動をやっているそういう団体が多数あると思うんですけれども、文化、音楽、芸術、先ほど武道という話もありましたけれども、スポーツ、そういう関係の団体で、こういう選択を迫られるような代表的な団体はどういうものがあるのか、ちょっと例を挙げて頂きたいと思います。
長谷川:最初は、公益法人の制度改革、抜本的改革に向けてといった方向に移動していったというか、新しい問題が増えたというのが行政改革とどのような関係があるのかということですね。これは行財政改革、特に財政改革と関係があります。来年度の予算も大体八十三兆円です。予算が組まれてこれから議論されるわけですが、その内税収は約五十三兆円です。差額の約三十兆円を国債を発行して調達してくるわけです。その八十三兆円の中の使い道、歳出のうち約二十兆円強は、国債費というものに使われています。国債費というのは国債の利息と新たな国債の償還です。八十三兆円の内二十兆円を国債費に使いますので、残りは六十三兆円ですね。六十三兆円使うのに税収は五十三兆円しかないわけです。この十兆円の差額をゼロにしようというのがプライマリーバランスといわれております基礎的財政収支の均衡をはかるということであります。六十三兆円をなるべく節約をしなければならないということです。節約をする為には三位一体改革で地方公共団体に税金を回すのを少なくしようとか、公共事業を少なくしようとか、あるいは毎年一兆円ずつ増える社会保障費を抑制しよう、どうやって抑制するかというと、社会保険と年金ですね、年金に回るお金を少なくしようとか、医療保険を安く節約しようとか、節約だけでは足りないから医療保険の保険料を上げようとか、そういうことがいわれております。その中の一つに公務員の改革があります。公務員改革ということは、公務員の人数を減らすということと公務員の給料を減らすということです。それを毎年何パーセントか減らそうということになっている。公務員の給料や数を減らす為には、公務員が行う仕事を減らさなければなりません、公務員の仕事を減らす為には─ここのところです関係があるのは─許可に関する事務を極力少なくしようということです。公益法人の設立は許可制でした。許可をするというのは、許可基準にあっていても、なお許可するかしないかは行政の自由です。ですから公務員には困難な問題が与えられます。しかし、新しい社団法、財団法では登記だけで設立することができるようになりました。設立のときはお役人は関与しません。会社を設立するときと同じですね。このようにして公務員の仕事を減らそうということだったのです。ところが、登記だけで設立をさせると、とんでもない社団や財団ができる可能性がある。ちょうど宗教法人令のときに、なんとか教八百屋教会、なんとか教呉服屋教会というものができました。宗教法人になると節税になりますよといって吹聴したわけです。それでとんでもない宗教法人ができちゃった。そこで宗教法人令では登記だけで設立できたんですけれども、宗教法人法では、認証制度を設けたわけです。認証制度とは、法律に従っているかどうかを検討して、法律に従っておれば認証するということです。今回の新社団、財団法でもお役人が関与しないととんでもない社団や財団ができる可能性があるからということで、二段構えにしましょうといって、登記だけでできる原則の非営利法人は原則課税にして条件を備えた法人だけ公益認定をして免税にするということを考えたわけです。これによってまたお役人の仕事が増えました。ですから、新社団・財団法は、財政改革の趣旨に沿って改正されたのですけれど、結果はかえって公務員の仕事を増やしてしまったということだと思います。宗教法人にも同じような議論がされるときがくるでしょう。宗教法人は十八万あるわけです。十八万ある宗教法人のうち、八万は神社で八万は仏教寺院です。二万がその他キリスト教だとか新宗教ということですが、八万の神社、八万の仏教寺院というのは、なかなか公益性を認められる条件を具備することが難しいですね。公益性が認められる宗教法人は、創価学会だとか立正佼成会だとか日蓮宗だとか池上本門寺だとか身延山久遠寺だとかという大きな宗教団体です。檀家五十軒の私が生まれたお寺なんかはなかなか公益性を具備することが難しい。そうすると大きいお寺は免税になる。小さいお寺は課税される。しかし、小さいお寺は剰余金がありません。住職が働いてその収入で本堂や庫裡を修繕しているというお寺が多いですね。そうすると弱小の法人からは税金が取れない、大きい宗教法人は免税となるということになります。お役人が沢山の時間をかけて免税制度を維持しても、それに耐えうるだけの税収が入ってこない。だから損得勘定だけからいうと、今までのように宗教法人は非課税にしておいたほうがいい、ということになるかもしれません。ただし、この制度を利用して国家権力が宗教界に何らかの力を及ぼそうと考えるならば、いくらお金がかかってもやらなくちゃいけないということになるかも知れません。しかも国家権力が免税制度を利用して宗教をコントロールするというようなことは憲法で禁じられておりますから、こっそりやらなければいけませんね。表に出てきませんから我々には分りません。以上のように考えますと九割方は安心してもいいと思いますが、安心しきっておってもいけないということでございます。それから二番目の質問は。
質問1:宗教関係以外の団体で何か他に例が。
長谷川:網羅的に全部申し上げられませんが、学術、宗教、文化、色んな財団があります。例えばサントリー財団、あれは実業家が個人的に趣味で集められた絵画等を沢山持っておられるわけですね。これを相続すると相当な相続税がかかってきますから、財団を作って趣味で集めた高価な絵画等を保存して後世に伝えるという目的で集められた財団が沢山ありますね。学術会議というような学会で財団構成になっておるようなところもありますし、社団法人公益法人協会というような公益法人ばかりを集めた法人もあります。宗教関係の社団や財団がどれくらいあるかというのもインターネットでみると出てくるそうです。これも結構あります。こんなことくらいしかいえません。すみません。
司会:他にいかがでございましょうか。はい。
質問2:失礼いたします。私たちは特定の檀家制度自体随分変わってきているんですけれども、お檀家さんという特定の方々に対する対応に追われているのが現状な訳なんですけれども、これでは全く公益性に欠けているという状況になるわけだと思うんですが、やはり特に地方の一寺院とかが公共性をちゃんと持った、公益性を持ったお寺である為にはこれからどのような姿であれば、色んな情報を不特定多数の方に発信していくとかそういうことは心がけたいと思うんですが、田舎の地域社会の中で一つの寺が公益性を持ってこれから存在して行く為にはどのような心がけというか、ことをしていったらいいのかご教示いただければ。
長谷川:不特定多数の利益といいますけれども、例えば立正大学で教育活動をやっています。立正大学の学生にならないと授業を受けさせてもらえませんね。そこのところだけ見ると不特定ではなく特定多数ということになります。だけれども教育活動は不特定多数の利益をもたらす公益事業だといわれています。人間の行う活動には限度があります。立正大学の行う活動にも限度があります。せいぜい一万人の学生くらいしかキャパシティがないわけです。ですから対象をしぼり込む選択が合理的なものであればいい、と説明されています。立正大学では入学試験をやって一万名の学生におさえています。三万人くらい希望者がいるんだけれどもこれを一万人に減らしてしまうというのは試験を行っているからです。試験が合理的な制限かどうかということですが、入学試験は合理的だと一般にされています。しかし、不合理な方法であってはいけないということです。例えば、病院で午前中に一〇〇人しか患者を診ることができないとします。お金を沢山払う人から一〇〇人というようなことをやると、これは不合理な制限ということになって公益事業に反する。日曜日は法事で忙しい。午前中三件、午後三件くらいしかだめだとします。六人しか法事はできませんからお布施を沢山払う人から六人を選ぶ。こういうことはいけないというわけです。しかし合理的な制限をすればいいということです。あらゆる人を対象にしてやらなくちゃいけないかというと、そういうことはないと思います。手の届く範囲でやればいい。人数が多すぎたときは合理的な基準を持って制限することも許されると思います。そんな回答でよろしいでしょうか。
司会:少し残り時間が短くなって参りましたので、あとお一人ということにさせていただければと存じます。いかがでしょう。はい、川名上人。
質問3:今最後のほうのご説明で、例えば小さなお寺のほうに課税対象になるような制度にしても実情として国に税金はほとんど入らないと。逆に私は宗教法人法の改正はお寺から税金を取りたい為に考えているのかなと思ったんですが、今のご説明でちょっと認識が変わってはきたんですけども、その前に対価のお話があって、先ほどおっしゃったお塔婆とか、お守りに税金がかかるようになるかもしれないんだよという話も聞いたことがあるんですけども、私も商売をしたことがあるので全体の申告的なものをやれば赤字になりますから、法人としての税金は払わなくていいと思うんですが、その一つ一つに消費税的にお檀家さんから貰わなきゃならないと、そういうようなことが発生する可能性というのはまだ残っているのでしょうか。
長谷川:消費税ですか。
質問3:要するに対価と思われるような、お塔婆料とかお守りとかそういったものに消費税的な課税がかかってくるというような話は、まだ可能性としてはあるんでしょうか
長谷川:今ある三十三種類の収益事業は全部対価関係がありますね。収益事業に該当すれば法人税の対象になるし、対価関係があれば消費税の対象になるわけです。何が対価関係にあるかということが問題になるわけです。宗教行為から入ってくる布施収入については、今は理論的な理由で対価関係にないといわれているわけですね。理論でなくて実態、社会の一般の人の意識が対価関係にあれば、対価関係ありといえると解釈されてそれが収益事業になったり、あるいは消費税の対象になったりする可能性はあると思います。その先鞭をつけたのが名古屋高裁の判決で、犬猫のお葬式、料金表はこうなっておるから心理的強制を受ける。心理的強制を受けるからこれは対価関係にあるといったわけですね。だけど料金表があろうとなかろうと、お布施を出す人がお葬式をしていただくのを機会にお坊さんの修行を助けるためにお寺を維持するために布施行としてお布施を差し上げますと、そういうふうに証言してくれる人が沢山いれば、免れるかもしれませんね。その為にはこれはお経料ではありませんよ、あなたが持ってきた一万円の意味はこういうことですよと、特に葬儀法事を機会によく説明をしていかなければいけないのではないかと思います。そういうことが結果的に課税の対象にならないわけです。しかしながら、税金を払いたくないからそういうことをやれといっているわけではありません。我々が仏教の基本である布施について檀信徒に理解してもらう。このことが今の教師に不足しているとおもいます。
日蓮宗だけだはありません。八万ヶ寺のお寺の姿勢を正す、そういうことが重要だと申し上げているわけです。
司会:はい、ありがとうございました。十四時五十分になりましたので、これをもちまして公開講座部分の終了とさせていただきたいと存じます。長谷川先生どうもありがとございました。
後記 日蓮宗現代宗教研究所主任 佐 宣長
平成二十年二月七日、「宗教法人の公益性を考える」をテーマに、第十八回法華経・日蓮聖人・日蓮教団論研究セミナー(以下「教団論セミナー」と略記します)を開催いたしました。
本冊子は、当日の講演ならびに質疑応答部分を収録したものです。
周知のことかと存じますが、平成十八年五月、公益法人制度改革三法が成立し、平成二十年十二月一日より完全施行される運びとなっております。
現宗研といたしましても、現代教学、新宗教、過疎地寺院対策、環境問題、生命倫理等々様々なテーマでの研究調査を幾つかのプロジェクト・チームを組みながら進めるに当たり、ここ数年は「寺院の公益性を念頭に置いて」を共通テーマとして掲げつつ、それに取り組んで来ています。
しかしながら、この問題については、宗内、あるいは、佛教界、宗教界に於いて、必ずしも確とした共通認識が持たれていないようにも思われましたし、現宗研メンバー内でも、充分な理解がなされていないようでもありましたので(何のことはない、筆者自身、今般の講演を拝聴して、自身の余りの勉強不足に、我ながら呆れてしまったのですけれども)、教団論セミナーとして取り上げるべき格好のテーマではないかと考えたのでした。
そこで、近現代日本宗教研究の第一人者であり、この問題についても造詣の深い東京大学教授の島薗進先生と、宗内のみならず、この問題に関する宗教関係者のオピニオン・リーダーとして活躍されておられる本宗顧問弁護士の長谷川正浩先生を講師としてお招きし、宗教法人の公益性の何たるか、公益法人改革によって何がどう変わるのか、そして向後の展望如何、といった問題について御講演いただき、今後私たちが採るべき方途を考えてみる機会とすることを目的として、このセミナーを開催いたしました。
このセミナーを企画するに当たって、事前に筆者が持っていたイメージや考え方は、次のようなものでした。
宗教には本来的な公益性があると見做される。その公益性の理念について、島薗先生に御講義して頂こう。しかしながら、政府は、その宗教の公益性に対する本来的な理念を充分には理解せず、公益法人制度改革の中で、言わば、制度の改悪を進めようとしている。その現状と将来の展望について、長谷川先生に御教授願おう。二つの講演によって、理念が必ずしも現実化されない現状を確認し、それに対応すべき教団の在り方について考えよう、と。
ところが、両先生の御講演を拝聴しているうちに、どうも自分が前提としていた考え方は、根本的に間違っているのではないかと思われ出しました。
島薗先生には、「宗教法人にとって公益性とは何か」というタイトルでの講演を御依頼したのではありますが、どちらかと言うと、「宗教法人」と言うよりは、「宗教」の持つ本来的な公益性の理念について御教示いただくつもりでおりました。
「宗教法人の公益性」と言えば、法制、制度の問題となりますが、それを裏付けるのは「宗教の公益性」という理念であろうと考えていました。
そして、今思うと、どうやら筆者は、その理念は、宗教そのものの公益性という普遍妥当する真理のようなものであるかのように思い込んでいたのです。
が、さにあらず。
既に島薗先生の御講演に御座いますように、公益性の淵源については宗教にあるとする考え方と世俗にあるとする考え方があり、宗教に公益性があるとするのは、米国をモデルとした近代化が当然視された時代のものの見方なのであって、近代に於いては宗教の「個人性」が基本とされ、現代では寧ろその「公害性」に留意が必要で……。
要するに「宗教の公益性」は真理などではあり得ないのであり、世間一般の宗教観によってどうとでも解釈され得るものなのです。
「宗教法人の公益性」は、制度上の問題ですが、その制度の問題を決定するのは、畢竟ずるに世間の常識の中の「宗教の公益性」です。
世間一般の宗教に対する見方が「公益性」ならぬ「公害性」に重きを置くようにでもなるならば、「宗教法人の公益性」など、認められなくなるやもしれません。
要は「宗教の公益性」であろうが「宗教法人の公益性」であろうが、事は真理の問題ではなく、世間が宗教を(ということことは、宗教者を)どう見ているか、ということになりましょう。
長谷川先生の御講演を拝聴して、本当に驚きました。
民法の公益の例示から「祭祀・宗教」が削除されようとまでされていたことを、筆者は迂闊にも知らなかったのです。
宗教法人の公益性に関する、法文上の根拠となる最も重要な規定が危うく失われようとしていたとは。
ここまでの危機に直面していたとは思いもよりませんでした。
想像してみれば、公益法人改革を担当していた行革事務局の官僚が、根本となる民法の規定を見直そうとした際に、「どうして宗教が公益の例に入ってるんだ?こんなの必要ない」と考えたのでありましょう。彼には、「宗教の公益性」など認められなかったのに違いありません。
今般は、長谷川先生や全日本佛教会によって、事態を未然に防げましたけれども、島薗先生の御指摘の如く、環境は変化しているのであり、「宗教の公益性」ということに疑いを持つ人が増えていることは否めないでしょうから、やがてまた、宗教法人を公益法人として認定するのか否か、宗教は公益の例示として相応しいのかどうか、ということについての議論が起こることは避けられないかもしれません。
そうならないようにする為に、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
宗教のイメージアップ、などという言葉もチラリと浮かびますが、やはり、未信徒教化という課題に如何に取り組むのか、ということになるのではないかと思われます。
平成十九年の第九十五定期宗会で、元現宗研研究員でもある中井本秀師が、この「公益性」の問題を取り上げて、通告質問をされておられますが、これに対し、藤岡総務部長が「檀信徒だけではなく、不特定多数の人に対し布教活動や宗門運動を日常的にきちんと行っていくことが重要」であると答弁されておられるのは、正鵠を得ているのではないでしょうか。
本冊子が、長谷川先生の所謂「現在の教義の研究」の、現宗研らしく申し上げれば「教化学の構築」の、一助とならんこと。