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現宗研ブックレット 2011年07月 発行

葬儀の心〜青年僧のために

 

葬儀の心 青年僧のために
日蓮宗現代宗教研究所
 
 
はじめに
 
 葬儀離れ、墓離れ、寺離れの三離れが言われ始めて、どれほど経つでしょうか。
 ことに葬儀については、近時、マスコミなどでも取り上げられる機会が増えて来ています。
 平成22年は、某宗教学者の『葬式は、要らない』という書物がベストセラーになったこと、大手流通業者が葬祭業に進出して、葬儀の際の僧侶の斡旋サービスを開始し、お布施の「目安」を提示したこと、などを契機として、葬儀論ブームが沸き起こった感がありました。
 宗教学者の葬儀不要論にせよ、流通業者によるお布施の目安の開示にせよ、首肯しがたいところはありますが、葬儀にまつわる現代の空気を表しているのも確かであり、これらに拒否反応を示しているだけでは、ことは済みません。
 十数年前、戒名を取り巻く問題が注目され、平成13年には全日本仏教会がリーフレットを作成し、この問題に対する指針を出したことがありました。
 戒名料という表現を用いないこと、布教伝道を通して社会の苦悩を解消するための努力を充分に果たしていない現状を仏教会全体として反省すべきこと、などが掲げられましたが、「現場」は余り変わらなかったようです。
 三離れは、結局の所、僧侶離れである、と言われています。
 仏教の妨げになっているのは僧侶である、と言う人までいます。
 私たちが、日蓮宗の真の伝道者であるために、葬儀をどう捉え、どう執(と) り行うのか。この小冊子を一つの手掛かりとして、特に青年僧侶の方々に考えて頂ければと思います。
 
葬儀の意義
 
「なぜ葬儀をしなくてはならないのですか?」と問われたら、どのように答えますか? 
 
①葬儀とは
 「死者を葬る儀式」と『広辞苑』にはあります。
 これですと、まるで埋葬の際の儀式を言うように誤解されかねませんが、もちろんそうではありません(墓埋法では、死体を土中に葬ることを「埋葬」としていますが、本冊子では、遺骨を墳墓に納骨することを含めて、この語を用います)。
 広く言えば、死に直面している人を看取ることから埋葬するまでのプロセスの総体のことですし、狭く言えば、埋葬に先立って死者の冥福を祈る儀式です。
 
②日蓮宗における葬儀
 「日蓮が弟子檀那等の中に日蓮より後に来たり給ひ候はば、梵天・帝釈・四大天王・閻魔法王の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮房が弟子檀那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては燈となり、霊山へ参る橋也。霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給へ、必ず待ち奉るべく候。」
 霊山往詣の安心を示す文として「引導文」によく用いられる『波木井殿御書』の一節です。
 日蓮宗の葬儀は、このように死者を安らかに霊山浄土へ旅立たせる厳粛な儀式です。
 私たち僧侶は、この神聖なる儀式の執行者、死者の導き手なのです。
 故人の成仏を真摯に祈り死者を導くとともに、会葬者全員に亡き人の冥福を祈るための導き手ともなること、それが私たちのつとめです。
 
 
葬儀の今
 
①社会の変化
 日本は、高度経済成長期以降の、平均寿命の大幅な伸長と出生率の低下により、昭和45年(1970)に高齢化社会(65歳以上人口比率が7%超)、平成6年(1994)に高齢社会(同14%超)になり、世界で最も早く高齢化が進んでいます。
 その結果、日本の人口は平成16年(2004)をピークに減少に転じました。経済的には、生産年齢人口(15歳〜64歳)の減少に伴い、長期的に低成長時代が継続するものと予想されます。
 
②葬儀の変化
 かつて、主体となって葬儀を運営したのは、地域共同体でした。しかし、現在は、地域の絆が薄れ、家族が葬儀を主催するのが一般となりました。そして、地域共同体に代わり、葬祭業者がビジネスとしてサポートするようになっています。
 つまり、遺族は葬儀サービスの「消費者」と化しています。
 高度経済成長期、葬儀は大型化し、会葬者を多く集めるイベントのようになりました。同時に、死者を弔う宗教儀礼としての意味合いが希薄化し、社会儀礼としての告別式が主になりつつあります(葬儀の告別式化)。
 バブル崩壊後は、不況が長く続き、経済格差の拡大していること、或いは、死者の高齢化に伴う故人の縁者の減少などを背景として、葬儀が小型化しています。
 その結果、親族のみで行う「家族葬」、火葬のみの「直葬」などが増
えています。
 死亡者数は平成52年(2040)頃まで増加が予想され、当面は葬儀の件数は増えるものと思われますが、上述のような状況から、中長期的には寺院(寺院・教会・結社)の存続を危うからしめるような事態が生ずるものとも予想されています。
 
③葬儀の現状 
 葬儀は長らく仏式が 95%前後を占めていましたが、平成19年(2007)に初めて90%を下回りました。
 信仰の形骸化、個人所得の減少などにより、特に信仰・葬儀に関わる支出が減少傾向にあります。
 大手流通業者が葬祭業に進出し、葬儀のお布施の全国一律の「目安」が提示されたり、大都市圏での葬祭業者の下請けとして派遣型の僧侶の活動が広がっているなど、「葬儀の商品化」が進行しています。
 「葬儀離れ」が加速し、無宗教葬や直葬などが増加していることは、死者に向き合い、死者を悼むというより、単に死体を処理するという方向に向かっているとも言え、人間的な心の喪失が懸念されます。
 
④一人称の葬儀、二人称の葬儀
 葬儀は、もともと大切な人と死別した際に、亡き人の尊厳を守り、その冥福を祈るとともに、自らの喪失感を癒す営みとして生まれたものと思われます。
 つまり、葬儀の本質は、「二人称の葬儀」=「わたしの大切な人の葬儀」にあると言えましょう。
 近時、リビング・ウイル(生前の意思)を尊重する考え方が広まり、「一人称の葬儀」=「わたしの葬儀」を想定することも増えて来ており、なかには自らの葬儀のみを考えて葬儀不要を言う人もいるようですが、一人称の葬儀と二人称の葬儀では、考え方が大きく異なるという研究調査結果も明らかにされています。
 
⑤グリーフケアとしての葬儀(1)
 現代の葬儀は、死者を供養するための形式は整えているとしても、遺族の心を慰めることに充分に留意されていると言えるでしょうか。
 「グリーフワーク」の観点からも、葬儀の重要性が見直されています。
 人は、愛する人、大切な人と死別する際に「悲嘆(グリーフ)」を感じます。この悲嘆を乗り越え、立ち直るまでの営みを、「グリーフワーク(喪の仕事)」と呼びます。
 そして、グリーフワークのプロセスを支え、見守ることをグリーフケアと言います。
 グリーフケアの担い手として、宗教者の果たすべき役割が改めて期待され、注目され
ているのです。
 しかし、これは、葬儀という儀式を営めば解決するというものではありません。常日頃、生前から、檀信徒に寄り添い、人間的な関わりを深めて行く中で、信頼関係が構築されるのであり、そうした心の繋がりの上に初めて本当の死者の供養と遺族のグリーフワークへの援助、すなわちグリーフケアが可能になるのです。
 日常においては、檀信徒の良き相談相手となれるように心掛けなければなりません。
 檀信徒が亡くなった時には、駆けつけて枕経をあげて看取ることが肝要です。枕経の時は、死亡直後ということもあり遺族は動揺しているものです。その時に一緒にいて、思いを共にするのはとても大切なことです。
 また、納棺の時もなるべく僧侶は立ち会うべきであるとの考えもあります。納棺というのは、言わば、遺族が死の事実を強制的に納得させられる時なのであるから、僧侶に一緒にいて貰いたい、というのです。
 かつて、僧侶は、枕経、納棺、通夜、葬儀、火葬、埋葬というプロセスを通し、死者や遺族にずっと寄り添っていたとも言われます。
 こうした姿勢を取り戻すことが、今、私たちに最も求められているところではないでしょうか。
 そして、グリーフワークのプロセスを支え、見守ることをグリーフケアと言います。
 グリーフケアの担い手として、宗教者の果たすべき役割が改めて期待され、注目され
ているのです。
 しかし、これは、葬儀という儀式を営めば解決するというものではありません。常日頃、生前から、檀信徒に寄り添い、人間的な関わりを深めて行く中で、信頼関係が構築されるのであり、そうした心の繋がりの上に初めて本当の死者の供養と遺族のグリーフワークへの援助、すなわちグリーフケアが可能になるのです。
 日常においては、檀信徒の良き相談相手となれるように心掛けなければなりません。
 檀信徒が亡くなった時には、駆けつけて枕経をあげて看取ることが肝要です。枕経の時は、死亡直後ということもあり遺族は動揺しているものです。その時に一緒にいて、思いを共にするのはとても大切なことです。
 また、納棺の時もなるべく僧侶は立ち会うべきであるとの考えもあります。納棺というのは、言わば、遺族が死の事実を強制的に納得させられる時なのであるから、僧侶に一緒にいて貰いたい、というのです。
 かつて、僧侶は、枕経、納棺、通夜、葬儀、火葬、埋葬というプロセスを通し、死者や遺族にずっと寄り添っていたとも言われます。
 こうした姿勢を取り戻すことが、今、私たちに最も求められているところではないでしょうか。
 
⑥グリーフケアとしての葬儀(2)
 一方、近年指摘されている事象に、「悲しくない葬儀」があります。
 高齢で亡くなる方が増え、医師から余命を宣告される事例が増えています。家族は、その人がまだ生きているうちに、遠からずこの人と別れなければならない、という悲しみを受けます(予期悲嘆)。
 現代のグリーフケアは、死後よりもむしろ生前になされねばならないことが多いのであり、この予期悲嘆の段階で、私たちに何が出来るかが、問われています。 
 告知を受けた家族は、やがて死を受容し、予期悲嘆を克服して行くものですが、それ以後も患者の余命がある、というケースが増加しています。
 すると、誤解を恐れずに言えば、「死を待つ」とでもいうような状況がやって来ると言います。検査や苦しい闘病生活から解放してあげたいという思いを抱き、そして、自分たちも介護や看護の生活から解放されたいという気持ちになるのです。
 実際に亡くなったときには、あまり悲しみを持たないということも多いと言われています。
 こうした家族に、私たちはどう接して行ったらよいのでしょうか。
 さらには、このように、死の直後にはあまり悲しいと思わなかったのに、死後半年ほどを過ぎた頃(百箇日忌と一周忌の半ばの時期)に、遺族が大きな喪失感に襲われる事例が数多く報告されています。
 こうした時こそ、私たちの果たすべき役割があると考えなくてはなりません。
 要するに、葬儀をルーチンワークとするのではなく、真剣に一人ひとりのいのちと向き合うことが肝要です。
 つまり、「いのちに合掌」です。そこから全てが始まるのです。
 
⑦あなたは懇ろな葬儀を行っていますか?
 近年、地域によっては、初七日忌法要を葬儀の中に組み込んで行うような簡略化が見られます。
 これは、遺族、葬祭業者、そして私たち僧侶にとっても、時間の短縮になり、効率的であるかのように思われがちです。
 しかし、亡き人の冥福を祈るのに、効率を優先するというような考え方で良いはずはありません。実際、遺族にとっては、グリーフワークのための大切なプロセスを逸することになっているとも言えましょう。
 私たち青年僧侶は、効率第一という現代の価値観に流されることなく、丁寧な葬儀を心掛けなければなりません。
 以下、試みにチェックリストを用意してみました。
 参考に御自身の行っている葬儀を振り返ってみて下さい。 
 
□ 故人の人柄をよく知っている □ 火葬場へ同行している 
□ 枕経を行っている □ 骨あげのお経をしている 
□ 納棺に立ち会っている □ 中陰忌(初七日忌から四十九日忌)の
□ 通夜の後、法話をしている  法要をしている 
□ 法号の意味を説明している □ 埋葬の時、墓地で読経している
□ 葬儀には本尊を掲げている 
 
 
法号〔戒名〕
 
「お戒名は要りません」
「簡単なお戒名でいいので、安くお願いします」。
こんな申し出を受けたことはありませんか?
 
 葬儀を巡る最も大きな問題の一つがこの法号(戒名)です(日蓮宗では「法号」を正式な呼び名と定めていますので、以下「法号」で統一します)。
 
①法号は「要らない」?
 そもそも法号とは、仏弟子としての戒めを守り、仏法に生きる者の名として授けられるものです。
 法華経には、釈尊が舎利弗はじめ多くの弟子たちに「記別」と称する号を授与する「授記」の場面が描かれています。「記別」を受けるとは、修行(布施、持戒等の六波羅蜜)を積んで成仏することが保証されることですから、言わば、仏教徒の目標がここにあるのです。
 祖師は、「ただ法華経を持つを持戒と為す」(『守護国家論』)、「この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(『観心本尊抄』)と仰せられ、妙法五字を受持することが戒律を持つことに通ずる修行の根幹であり、成仏につながることを示されています。
 また本宗において、法号は「妙戒受持の導師の立場にある本宗僧侶の重要かつ基本的責務であり、お題目
受持の目的、因果の功徳を指し示し、唱題修行の実行を誓わせ、生前没後にわたって霊山浄土に導いていく
教訣を与えるときに授けるもの」(第68定期宗会)とされています。
 これらのことと「授記」の意義とを考え合わせると、法号が、宗祖の教えを守り、仏教徒の究極的な目的で
ある成仏への要件として、不可欠なものであることが解ります。 
 本来、「法号」は生前に授受されるべきものと言われていますが、葬儀の場を受戒の場とするのが一般です。
 これは、日本的な仏教受容から生じて来た慣行ですが、こうした事情も踏まえ、葬儀における法号授与の意義についてしっかり自覚し、その重要性を伝えて行きましょう。
 
②「簡単」、「安い」??
 大手流通業者が葬祭業に進出し、お布施の「目安」として、 法号の「ランク」毎に、全国一律の具体的な金額を提示して話題を呼びました。
 お布施については別項に譲りますが、そもそも法号の「ランク」とはどういう意味合いのもので、それがどうして具体的な金額と結びつけて考えられるのでしょうか。
 冒頭に書いた檀徒の申し出も、経済的な理由などにより、「ランクの低い法号ならばお布施も安く済むだろう」という発想からのものと思われます。しかしそれで良いのでしょうか?
 直弟子、孫弟子の日号は勿論のこと、多くの祖書に見られる檀越の法号など、祖師が法号を大切にされ、弟子檀越に授与されたことは明らかです。また、ご両親に対しては「妙日」、「妙蓮」の法号を授与されたと伝えられています。
 それらは比較的簡素なものでしたが、現在は、「院号」、「道号」、「位号」そして「日号」など、字数も増え、形式に留意するようになっています。
 これは、格式が重んじられるようになったり、法号に名誉が反映されるようになったりといった歴史的な経緯をへて、寺への貢献度や信仰の深さ等を鑑みて授与されるようになったものです。
 どのような法号を授与するかは、それぞれの寺院毎の伝統もあり、また、個々の僧侶の見識にもよるものですので、一概に「かくあるべし」と言えるものではありません。
 大切なことは、法号の「ランク」付け、その「対価」としてのお布施、といったような在り方、いわゆる「戒名料」と誤解され、「信仰の商品化」を招くようなことのないように、法号を授与する意義、授与した法号の意味を、丁寧に伝えることであろうと思われます。
 
 
布施
 
①布施の意義
 布施というのは、要するに、施すことです。
あるとされます。「布」も施しのことであるとされます。
 貪りを離れて他に与えること。単に他に与えるだけではなく、貪りを離れる、というのが肝心です。名聞利養のための布施は「不清浄施」、すなわち清くない布施として、しりぞけられます。「喜捨」ということばにも示されるように、心の持ち方こそが大切なのです。
 一般には、単に、金品を施すこと、すなわち「財施」だけが布施と考えられている向きがありますが、そうではありません。例えば、他者に対する親切な良い行いや、人を苦難から救うことも布施になります(「無畏施」)。また、僧侶が信徒のために法を説き、教えを施すことを「法施」と言います。一般に、この三つが布施の基本とされ、「三施」と呼ばれます。
 布施は六波羅蜜(菩薩の行う六つの実践徳目)の最初の項目です。これは、仏道修行の第一歩という意味であり、仏道修行のなかでも、誰でもがなしやすいものこそ布施であるとされているのです。
 繰り返しになりますが、布施は仏道修行であり、サービスに対する対価ではありません。
 葬儀などの法要の際に、檀徒は財施を行い、僧侶は法施・無畏施という仏道修行をおこなうのです。
 布施に対するクレームが増えている昨今、私たちは、自身が布施の意義をよく理解するとともに、檀信徒にも布施の意義をきちんと説明しなくてはなりません。 
 
②僧侶・寺院と布施
 ところで、寺院は檀信徒の布施(財施)により成り立つのが本来の在り方であると言えます。
 釈尊も宗祖も、檀越の布施により、衣食を得ておられました。
 そして、檀信徒からの布施は、葬儀や、年回忌法要の際になされるのが一般ですから、どうしても、そこに対価関係があるかのような誤解が生じがちです。
 しかし、これは、「宗教の商品化」であるとか、経済原則とか、そういったこととは別次元のことなのです。
 そのことを、檀信徒に、よく理解して頂くことが必要です。
 こうした理解を得た上のことであれば、いわゆる「目安」というようなものも有り得ることでしょう。とは言え、これは料金表のようなものであってはなりませんので、よくよく注意して下さい。
 布施は、僧侶と檀信徒を結ぶ絆があって始めて成り立つものであり、僧侶・寺院に対する信頼が絶対的に必要なものといえます。
 故に、私たち僧侶の姿勢が問われます。檀信徒の模範となるような生活態度・立ち居振る舞いが求められているのです。
 さらに、僧侶・寺院は、社会に対して、自らが布施する態度が期待されます。それにより、僧侶・寺院を支える意義を、檀信徒に感じて貰えるようにならなければなりません。
 具体的には、個々の僧侶の見識や個性にも依りますが、寺報の発行、民生委員や教誨師といった社会貢献活動、地域社会への寺院の開放など、諸々の方法が存在すると思われます。活動報告の一端として、寺院の会計を公開するという方法もあるかもしれません。
 いずれにせよ、寺院は檀信徒の布施によって成り立っているのですから、現代的に言えば、檀信徒に対する説明責任を有しているのです。
 布施の原語は「ダーナ」であり、これが檀越、檀那と音訳され、檀家という語が生まれました。
 檀信徒に、真の「檀越」となって貰うためにも、先ず私たち青年僧侶が、自らが為すべき布施行を心掛けたいものです。 
 
 
あとがきに代えて
 
  葬儀を取り巻く環境の変化は、大都市圏を中心に進んでいますが、地方における人口減少と地域経済の疲弊、或いは、現代の情報伝達速度の高まりを考えると、地方圏にも、今後急速に広がっていくことが予想されます。
 そして、この背景には、僧侶・寺院に対する不信感が横たわっています。
 葬儀の宗教的な意義はもちろん、「無縁社会」と言われる社会状況の中で「仏縁」を再構築する上でも、葬儀の社会的、文化的な意義を伝えることは、私たち青年僧侶の義務であるとも言えます。
 私たちは、僧侶としての在るべき姿を守るとともに、葬儀の在り方を見つめ直し、伝え直すべき時に来ているのです。
 また、宗教法人への課税の検討が伝えられ、その公益性が問われる中、私たちは、襟を正し、寺院会計の明朗化や、僧侶個人の生活態度の見直しを進める必要があるのではないでしょうか?
言われなくても解っている、でも、その通りにして来ていない…人間とは往々にしてそうした存在です。
 しかし、解っていることを、その通りに実行することが、今、私たち青年僧侶に求められていることなのです。
 葬儀もその例外ではありません。
 社会の変化、家族の変容を傍観者として嘆くのではなく、日頃から葬儀の意義をきちんと伝え、家族、親族、地域の結びつきの大切さを説き、寺院がその核となるよう努めなければなりません。
 
「宗教は必要だが僧侶は不要」
 種々の調査によって、現代でも多くの方が宗教の大切さを認めていることが伝えられています。
 しかし、同時に、僧侶に対して強い不信を抱いていることも報じられています。
 
 「布施」の項にも記した通り、誤解をとき、多くの方に寺院に足を運んでもらうためには、様々な機会を設け、寺院や宗門の活動を伝え、貴重な浄財である布施がそのために「活かされている」ことを伝えることが肝要です (単純な経理公開ではなく、活動をアピールしましょう)。
 そしてこれも繰り返しになりますが、私たち青年僧侶自身も自らを省み、奢侈・贅沢であると言ったような指摘を受けないような生活態度を心掛けなければなりません。
 
通夜説教を心掛けましょう、でも…
 通夜説教をしない僧侶が増えている、と言います。
 葬儀は、檀徒のみならず、未信徒も多数参列する場であり、最高の布施の機会であるとも言われます。読経以外は無言、というようなことのないようにしたいものです。
 一方、独りよがりの法話に困惑した、という声が多いのも事実です。
 通夜や葬儀は本来、故人の成仏の為の儀式であり、布教のために用意された時間ではありません。遺族の心情を思いやりながら、独善的な物言いにならないよう心がけ、教えの押し付けにならないように配慮しましょう。
 
葬祭業者とのパートナーシップ
 一部僧侶の、葬祭業者に対する高圧的な振る舞いが伝えられています。葬儀の際、思い遣るべきは言うまでもなく遺族です。だとすれば、私たちが求められる態度は自ずから決まって来ます。
 葬祭業者とは、互いの立場を尊重し、葬儀に際し、共同作業を心掛けることが求められていると言えましょう。
 また、現代の葬儀は、葬祭業者の発想がハードの充実からソフト面への進出にシフトしてきています。
 僧侶が遺族の悲しみに充分に寄り添っていない現状から、むしろ葬祭業者が遺族のグリーフケアの担い手となりはじめているのです。
 霊山往詣を託される導師は、言うまでもなく私たちです。檀信徒に寄り添い、導師としての信頼を得るように努めなくてはなりません。 
 
 
現宗研ブックレット
『葬儀の心〜青年僧のために』
発行日   平成23年7月16日
編著者   日蓮宗現代宗教研究所
発行者   日蓮宗宗務院
      〒146-8544 東京都大田区池上1-32-15
      電話 03-3751-7181(代)
印刷所   ティケイ ヘンデル アート
      
 
 

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