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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

久住謙是師を偲ぶ

 

久住謙是師を偲ぶ
 
伊 藤 立 教
 
 平成十九(二〇〇七)年四月十一日、日蓮宗現代宗教研究所前所長にして顧問の久住謙是(くすみけんぜ)師が、急逝されました。
 宗門史跡神奈川県横浜市名瀬・経王山妙法寺第四十六世・一誠院日諦(いちじょういんにったい)上人、旧姓名飛田省三(とびたしょうぞう)、昭和十四(一九三九)年八月二十二日茨城県ひたちなか市(旧那珂湊市)生まれ、出家師範田中謙周龍口寺貫首、満六十七歳でのご遷化。
 久住師より十一歳後輩の私に追悼文のご下命がございましたのも、立正大学大学院からのご縁、そして何よりも、昭和五十年に日蓮宗現代宗教研究所(以下、現宗研)研究員になりまして以来のご縁によるものと心得、師を偲ばせていただきます。 
 
 久住師は、立正大学大学院博士課程在籍中の昭和四十七年に現宗研研究員ご就任以来、昭和五十六年に主任、昭和六十年に嘱託、平成八年に顧問、平成十五年に所長(第十一代、在位一年三ヶ月)ご就任後、平成十六年にふたたび顧問となられました。久住師を研究員に推薦された石川教張主任(当時、のち第九代所長)は、久住師が立正大学地理学科(夜間部)で身につけられた調査能力を評価しておられました。その力量を発揮されたのが、過疎地寺院問題でした。久住師が伝統仏教教団のなかで最も早く着目し、昭和五十八年に調査を開始、平成元年に報告書を全寺院に配布しておられます。これについては、平成十八年一月十四日のNHKテレビETV特集番組「お寺ルネサンスをめざして」で現宗研が紹介されたなかで、久住師が過疎地寺院の実情を話しておられます。
 過疎地対策に続いて、過密地都市開教にも着目されました。調査だけでなく、自坊での霊園開発、信行会の充実、農村地域との子供会交流、スローライフの提唱など、都市開教の可能性に取り組まれました。
 自坊整備も布教の一環ととらえ、開創七百年を機に寺観を一新されました。これと相俟って、六老僧日昭上人ゆかりの寺として、日蓮宗に宗門史跡指定を申請、平成九年に認定されました。
 教師養成を宗門興隆の第一と考え、子弟教育を重視されました。在家出身者の発心を支援するため、ミトラサンガ(日蓮宗在家出身僧侶の会)発足に初代事務局長として加わり、代表幹事在位でのご遷化でした。書類の上だけの師匠、師匠たらざる師匠に対する目は厳しく、「師弟教育の必要性を、平成十五年の日蓮教学研究発表大会で発表されました。
 一七九センチ・七六キロの体躯から出る言葉はやさしく、物腰はていねいでした。しかし、信仰信条は譲らず、祖道に忠実であろうとする外柔内剛の人でありました。
 自著『日蓮聖人補処位の人日昭』で自坊開創日昭上人を、終生日蓮聖人のサポート役に徹した人、と位置づけておられます。その法統に連なる誇りが、久住師を久住師たらしめていたのでしょう。
 全国布教師会連合会(以下、全布連)会長就任時に私を事務局長に指名された久住師は、提言する布教師会、を明言され、全布連全国大会で折伏正意の『立正安国論』を講演されました。当時の摂受折伏論争に一石を投じ、現在の宗門「立正安国・お題目結縁運動」を予見させるものでした。
 因みに、私が平成十三年に全布連事務局長から現宗研主任となりました後、久住師が平成十五年に全布連会長から現宗研所長に就任されました。それから一年三ヶ月、現宗研発足の原点に返るべく、ご尽力くださいました。
 檀信徒教化も、いきいきと取り組んでおられました。宗門の檀信徒研修道場に講師でご一緒したとき、道場主任の久住師は本当に楽しそうでした。私を宗務院月例金曜講話講師にご推挙くださった時も、とても熱心な聴衆で勉強になるから、とおっしゃいました。自坊での教化が一番大切、は口癖でした。
 平成四年ご就任の教誨師についても、未信徒教化の好機だから一緒にがんばろう、と言ってくださいました。
 サイパン島・パラオ・ペリリウ島・ロシア連邦サハリン州(樺太島・千島列島)での遺骨収集と戦没者慰霊参加は、不戦を願う同苦の慈悲行。
 中濃教篤師(第五代所長)本葬儀式副導師の折、歴史認識は少し違ったけれど高い識見と有言実行の指導者であられた、と追悼されました。
 声明師歴二十七年・社会教導師歴二十年と教化一筋のなかで、特筆すべきは、全国日蓮宗青年会(以下、全日青)のことです。伊東隆司委員長のもとで事務局長となられた三十九歳の久住師は、全国縦断唱題行脚主催をめぐって、宗務院当局と対立。僧籍剥奪とまで言われたそうですが、全日青主催を貫かれました。日蓮聖人第七百遠忌御正当の昭和五十六年、三重日青事務局長の私も、宗門史上初の大行脚隊と共に池上本門寺に結集した感激は忘れられません。
 お題目総弘通運動推進本部企画会議委員として宗門運動に関わられた時も、発案者石川教張師の思いを胸に、是々非々の姿勢を通されました。
 現宗研所長を退かれた後、総本山身延山久遠寺の初代法務部長や身延山大学講師をつとめられました。
 駆け抜けるような今生の最後が、「地涌塾」活動でございました。法友片岡邦雄・岡元錬城・宮川了篤・星光喩各師と、「こころ」も「ことば」も「ふるまい」も日蓮聖人の生き方に学ぶ仲間づくりを始めよう、とされました。その発会十八日前、千葉市で準備段階最後の打ち合わせを終え、最終バスを自坊門前で降りた時、交通事故に遭われ、翌日亡くなられたのでした。
 主なき書斎には、執筆中の『立正安国論』に関する原稿が残されていました。
 
 発足から四十四年を経た現宗研は、育ての親とも言うべき石川教張師が平成十四年四月二十四日に急逝、生みの親とも言うべき中濃教篤師が平成十五年四月三十日に遷化、加えて昨年(平成十九年)、三十五年関わられた久住師を失いました。その後の八月三十一日には、全布連でも久住師と名コンビであられた顧問井本学雄師が亡くなられました。願わくは遷化諸師、厳しい世情のなかで立正安国世界平和を研究調査し続ける現宗研に冥加賜らんことを。
合掌

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