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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

『正しさ』の不可能性と現代宗教—現代における宗教の存在意義と宗教者の役割—

 

『正しさ』の不可能性と現代宗教
 —現代における宗教の存在意義と宗教者の役割—
 
宮 台 真 司
 
         目次
第一部
【『エヴァンゲリオン』と「救済の神学」】
【『銀河鉄道の夜』と世直しのリグレット】
【教義学と組織防衛の重ね焼きという定番】
【原罪=分別の恣意性+人知を超えた摂理】
第二部
【原罪からイエスへの「未規定性」の移転】
【奨励されるが認められない、という捩れ】
【島田裕巳の中沢新一批判は間違っている】
【問題は中沢新一のステージの低さである】
第三部
【『エヴァンゲリオン』にみる神学的構造】
【『幼年期の終わり』と『エヴァ』の類似】
【未開の思考と全体性の思考に共通の退廃】
【社会システム理論家が宗教をかたる意義】
 
第一部
【『エヴァンゲリオン』と「救済の神学」】
 おはようございます。ご紹介にあずかりました宮台真司と申します。昨年に続いて、お話させていただく機会をいただいたことは、大変光栄に存じます。「『正しさ』の不可能性と現代宗教」というタイトルで今日はお話をさせていただきます。
 お話する内容はタイトルの通りのことです。しかしタイトル通りのことをお話するのはなかなか難しいことです。実は社会学、或いは人文諸科学の中でも、ポストモダンと呼ばれる時代が始まる一九七〇年代から、真理性についての懐疑が非常に広がっているのですね。
 であるが故に、真理性への懐疑の中で宗教や宗教者が果たすべき役割は何なのかについての問題意識も高まってきています。一九七〇年代後半のドイツでは社会学者と神学者の間での論争もなされていますし、そこでかなり実りのある議論もなされてきているわけです。
 残念ながら日本は、欧米のようなキリスト教文化圏がない、或いは世界宗教が社会を覆いませんので、神学的な素養、すなわち宗教を反省的かつ論理的に徹底分析する伝統がなく、そうした議論に参加する資格がないどころか、理解する学者もいないという状況です。
 今日は時間がありませんので、できるだけ具体的なお話をしていきます。切り口になるエピソードを幾つか出します。『エヴァンゲリオン』という九五年の十月から放映されたテレビシリーズがあります。本日は同世代の方々も多いでしょうから、おそらくご存知でしょう。
 九七年に劇場版映画が作られた後、その十年後に再び、再編集・再構成版がこれから四回にわたって劇場公開されることになっています。第一弾が九月一日から公開されたのを記念して、九月二日の深夜に三時間近くの特集番組を竹熊健太郎さんと二人でやりました。
 このアニメは、僕自身の研究経歴をご理解いただくのに都合がいい題材なんですね。僕は二十代後半からキリスト教神学を勉強しまして、旧約聖書やその周辺の外典、新約聖書やその周辺の外典まで含めて、勉強してまいりました。それを若干披露させてもらいます。
 『エヴァンゲリオン』というアニメには、「救済とは何か」を巡る少なくとも三つの対立的な立場が描き込まれています。一方に、ユダヤ教の原罪論的な救済観が存在します。他方に、グノーシズム(グノーシス主義)的な全知(ソフィア)に近づくという救済観があります。
 過去を背負う一神教と、未来を追求する一神教と言ってもいい。未来を追求する一神教という意味で、アメリカのエヴァンジェリカルズ(福音諸派)的な新教に似る面もあります。こうした二種類の一神教的な救済観に、これらを拒絶する主人公の救済観が対峙します。
 グノーシズムを若干説明しますと、ルシファへの解釈が旧約正典と真逆です。ルシファは「光の人」という意味で、ギリシア神話のプロメテウス(火をもたらす者)に相当します。土俗のルーツにおいては「悪魔」という意味ではなかったのではないか、と推測されています。
 しかし、ユダヤ教の正統神学やキリスト教の正統神学の立場では「悪魔」です。アダムとイブを唆して「禁断の実」を食べさせたからです。それで人間に知恵がついたことが原罪で、原罪に向けて唆したのでルシファは悪魔だ、という話になっているわけですね。
 ところがグノーシズムでは──ちなみにキリスト教の異端派だとされますが由来はそれ以前からの流れがあります──人間を動物としてエデンの園につなぎ止めるヤーウェから解放し、全知の神ソフィアに近づくチャンスを与えたのがルシファだ、と善玉扱いなのです。
 『エヴァンゲリオン』では、ルシファを悪玉扱いし、人間に原罪の償いを要求するユダヤ教に近い役割が、ゼーレの神学です。他方、ルシファを善玉扱いし、人間に全知への飛翔を要求するグノーシズムに近い役割が、ゲンドウの神学です。両者を拒絶するのがシンジの神学です。
 因みに外典的には、原罪とは「知恵の実」を食べたこと自体ではなく、それがきっかけで「生命の樹」(セフィロト)を入手して自ら絶対神になろうとしたことです。これを阻止すべくヤーウェが「生命の樹」を守る「使い」を配置する。つまり『エヴァンゲリオン』のシトですね。
 『エヴァンゲリオン』では、人間が自然科学の発達の末に生命科学に手を出して、神にかわって死をコントロールしたり生命を作り出したりするようになったことが、「生命の樹」の入手の暗喩(メタファ)です。だからシト(使徒)が襲来するようになったという話になります。
 ゼーレは、シトの襲来を、原罪を贖うために必須のプロセスだと捉え、この贖いを「人類補完計画」と呼びます。ゲンドウは、シトの襲来を、「生命の樹」を最終的に入手することで人類が全知全能化させるチャンスだと捉え、これを「人類補完計画」と同じ名前で呼びます。
 この二つの「人類補完計画」、すなわち救済を、一言でいえば「他者性の不在」「全体性の誤謬」だとして却けるのが、主人公シンジの神学です。因みに神学的には、原罪の贖いをも、千年王国をも、双方あり得ないとして拒絶するのがユダヤ教だ、とするレヴィナス的な理解もあります。
 とすると、シンジの神学こそがユダヤ教的だとする立場もあり得ます。ここでは、シンジの神学が、人間が人為で救済をもたらす(計画する!)──たかが人間が全体に言及しようとする──という事態の論理的=倫理的なあり得なさに照準していることに、注目すれば足ります。
 人間は全体を知ることはできないから、人為は必謬的です。人為が必謬的だから、救済が要求されます。でも、救済観が数多あるということ自体、救済観が人為であることを示します。我々は何の権利があって、数多の救済観の中でソレこそが真実だと名指すのか、というわけです。
 
【『銀河鉄道の夜』と世直しのリグレット】
 実は、こうしたシンジの問題設定は、宮沢賢治的だと言えます。それを賢治の『銀河鉄道の夜』を導きとして紹介するのが本日のもう一つの切り口です。賢治は法華経の信者でして、石原莞爾も心酔する田中智學が創設した国柱会の、メンバーになろうとしたことは、有名です。
 田中智學は、日蓮の本懐を遂げるとは、勅命による国立戒壇の建設を通じて世界の霊的統一(五族協和)へと向かうことだとして、これを国柱会の目標に据えました。この目標を、日本書紀の神武天皇に関する記述から造語した「八紘一宇」で表したことは、皆様もご存知でしょう。
 賢治が、世直し宗教である法華経を通じて何を見ていたのか。それを知るための手がかりが、彼が一九二四年から十年間、死の直前まで改稿を重ねた『銀河鉄道の夜』です。この童話は未完でした。完成した暁にどういう形になったのか、分からないということが、実は大切なのです。
 原稿は広告の裏紙などを使ったメモ書きのような形で残っていて、順序不明な原稿を、弟の宮沢清六さんや編集者が「たぶんこんな順序の話だったんじゃないか」という具合に編集したものが、『銀河鉄道の夜』という童話として今まで出版されてきたわけです。
 ところで、僕が小学校低学年で読んだ『銀河鉄道の夜』と、小学校高学年で読んだ『銀河鉄道の夜』とは、話の順序も内容もかなり違います。当時の僕は、話が変わってしまったことに驚いた記憶があります。僕と同世代の方はご存知でしょうが、あえて説明させていただきます。
 現在読める『銀河鉄道の夜』は、主人公ジョバンニがカムパネルラと銀河鉄道を旅する夢を見た後、丘で目覚めて母親のために牧場に牛乳をとりに行った帰りに、カムパネルラの溺死に遭遇し、夢がカムパネルラによる「お別れ」だったのだと知る、という順序になっています。
 僕が小さい頃に読んだのは逆順でした。最初にカムパネルラが死ぬのです。牧場に寄った帰りにカムパネルラの死に遭遇し、涙にくれるジョバンニが丘でんでカムパネルラと銀河鉄道で旅する夢を見、目が覚めた後に夢の意味をリコンファームして帰路につくのです。
 そういうバージョンの違いをご存知の方どれくらいいらっしゃいますか。驚きました。結構いらっしゃいますね。僕は小学生の頃から元のバージョンのほうがいいんじゃないかと思ってきました。むろん馴れもあります。親しんで何回も読んだのが、元のバージョンだったからですね。
 ところが、長じて何度読み返しても、やはり同じように感じるのです。何故なのか。初期版と後期版と呼びましょうか。最初にカムパネルラが死ぬのが初期版。最期にカムパネルラが死ぬのが後期版です。僕の考えでは、初期版のほうが、ずっとニュアンスが深くなるのですね。
 理由は、死んだカムパネルラに対するリグレットとしての夢が展開しているように、読めるからです。リグレットとは「慚愧の念」ということです。僕の個人的な解釈では、カムパネルラの死は、主人公ジョバンニによる殺害ではないか、というふうに読めさえもするのです。
 カムパネルラの死が描かれる前の段階で、ジョバンニの不在の父は漁に出ているのではなく入獄しているのだと囃すザネリといういじめっ子が、カムパネルラの溺死に遭遇する直前、《ラッコの上着が来るよ》(獄中だから上着は来ないよ)とジョバンニをからかいます。
 ところが何と、カムパネルラがザネリとつるんでいるのですね。重要なので引用します。
 
《そのなかにカムパネルラが居たのです。カムパネルラは氣の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうにジヨバンニの方を見てゐました。ジヨバンニは、遁げるやうにその眼を避け、…間もなく、みんなはてんでに口笛を吹きました。…カムパネルラもまた、高く口笛を吹いて、向うにぼんやり見えてゐる橋の方へ歩いて行つてしまつたのでした。ジヨバンニはなんとも云へずさびしくなつて、いきなり走り出しました》
 
 続いてモノローグが括弧入りで綴られます。ここにはカムパネルラが本当の友達ではなかったことが、はっきりと示されているのです。
 
《(ぼくはもう、遠くへ行つてしまひたい。…ぼくは、どんなに友だちがほしいだらう。ぼくはもう、カムパネルラが、ほんたうにぼくの友だちになつて、決してうそをつかないなら、ぼくは命でもやつてもいい。けれどもさう云はうと思つても、いまはぼくはそれをカムパネルラに云へなくなつてしまつた。…)》
 
 ジョバンニとカムパネルラは、お父さん同士も友達だという幼馴染みですが、二人の境遇は対照的です。ジョバンニは病気の母親と二人暮らし。学校帰りに活字拾いをして生計を立てます。ところが、カムパネルラの父親は書斎に立派な本を揃える、貧乏とは無縁の学者先生なのです。
 ここには酷薄な階級落差が明示されています。その結果、「イジメを見て見ぬふりのカムパネルラ」と「ジョバンニの断念のモノローグ」に引き続いて「カムパネルラの溺死が描かれるとき、「ジョバンニによるカムパネルラの階級的殺害」という印象が必然的に生まれるのですね。
 もう一度申しますと、後期版では、物語全体に漂うジョバンニのリグレット[慚愧の念]が、暗喩であれ、「階級的殺害へのリグレット」として読めるのです。そう読むと、世直し的実践と宗教的教理との結びつきについて、賢治がとても深いことを考えていたことが分かるのです。
 世直しが体制転覆を伴えば、犠牲者を生みます。だから「救済される人が多勢いるから良いのだ」とする「殺害と贖いの相殺勘定」の構図を伴います。この構図は不遜です。でもこの構図なくして世直しは不可能です。ゆえに世直しへの踏み出しは、慚愧の念を伴うべきなのです。
 ですから、『銀河鉄道の夜』は、初期版に限って、世直しの宗教的正しさをめぐる「割り切れなさ」に深く切り込んだ作品として、読むことができるのです。そういうふうに賢治の『銀河鉄道の夜』を読み込むという僕の視座こそが、実は、本日の僕の問題設定を集約しています。
 分かりやすく言えば、「宗教者が世直しに乗り出すことは肯定されるか、肯定されるとすれば如何なる意味でか」という問題設定です。最初に答えを言えば、「宗教者が世直しに乗り出すことは、否定されるが、しかし奨励される」という決定不能な二重性を免れられないのです。
 
【教義学と組織防衛の重ね焼きという定番】
 ベネディクト十六世という現ローマ教皇がいます。ヨハネ・パウロ二世の後継ぎですね。本名をヨセフ・ライツィンガーといい、昔は改革派神父として知られていました。それがある時期から、厳格で知られる異端審問官になり、「怒れる神父たち」を数多く処罰してきました。
 これが単なる変節かどうかが議論の的になっています。巷には変節だと言われてきましたが、そうでないことを示す資料が二〇〇〇年に生まれました。ユルゲン・ハバーマスというドイツの左派リベラルの代表的思想家との対談『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』(岩波書店)です。
 この中でライツィンガーは「ラツィオ(理性)の限界」に言及します。世直しに限らず、何かを正しいと規定したり、マトモだと規定した瞬間、僕たちは必ず何かを切り捨てます。でも何がマトモか、何が正しいかは、所詮は人が決めたこと。だから時が変われば移ろうものなのです。
 僕たちは、時が変われば移ろう程度のカテゴライゼーションに基づいて、コイツが正しく、アイツが間違っているのだ、と「二元論的図式」に基づいて世直しを行い、先の「贖いの図式」で正当化します。でもこれは所詮、神の御手になるものでなく、飽くまで人の為すことなのです。
 そうした営みを宗教的な観点から正当化できるはずがない──これがまずベネディクト十六世の立場です。これには「戒律に従うことが、果たして戒律に従うことなのか」というイエスの問い掛けに通底する神学的な意味がありますが、同時に、教団防衛の組織論的意味もあるのです。
 まず後者から説明します。時代が変われば、「二元論的図式」の線引きが変わるのと同じように統治権力もシフトします。特定の権力を肯定して別の権力を否定することが、教団の生き残りに資すると見えて、しかし時代が変わって権力がシフトすれば、それがかえって徒になり得ます。
 つまり、権力の善と悪を具体的に論定することは、組織論的には最大の愚策になり得ます。愚策を採って教会が滅んでしまえば、神の子イエスの言葉を宣べ伝えることもできなくなります。ですからローマ正統教会としては、世俗権力の善悪に言及しないことが「吉」となるわけです。
 このあたりはいずれ別の機会にカール・バルトに即しながら考えてみたいと思っています。ここではパウロの教義学が、教義学的な「真理」であり、かつ、組織防衛的な「戦略」でもある、という両義性を踏まえておきたいのです。カール・バルトも、このパウロの教義学的両義性を踏まえて議論を展開するのです。
 例えば前回ご紹介しましたように、パウロによるカリタス(隣人愛)の教義が典型です。パウロはご存知の通り元々ユダヤ教徒だったのが、回心を遂げた後、異境のローマでの布教に一身を捧げました。その際に、福音書(イエスの言行録)からカリタスの教義を「取り出す」のです。
 ローマ人からはキリスト教徒が「社会の外」を生きているように見えます。というか、キリスト教のような「中世的宗教」──信仰を軸とする個人化された宗教──では、信仰者は実際にそうした存在なのです。これがキリスト教徒を攻撃されやすくします。
 そこでパウロは、キリスト教徒が、社会を生きる非信仰者の誰よりも社会に貢献する生き様を見せるべきだと説いたのです。「あなたはどうしてあんなに社会のために頑張れるのですか?」「それは私がキリスト教徒だからなのです」といった問答を、社会に満たそうとしたわけです。
 現在でも、世界中のアクティブなNGOのリーダーには、キリスト教徒──とりわけ米国のエヴァンジェリカルズ(福音諸派)──が目立ちます。日本で一番有名なNGOペシャワール会の中村哲さんも日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンの癩病棟に一九八四年に派遣されました。
 「社会の外」を生きる信仰者こそむしろ最も社会的に振る舞える──これはパウロ自身によるイエスという存在に対する炯眼な理解です。「社会の外」を生きることを命じる教義学に内在する危険を、組織防衛の観点を入り口にして、中和したのだとも言えます。
 その意味で、キリスト教が今日生き残っているのは、カリタスの教義によってキリスト教徒のパブリックイメージを制御してきたからという面と、それそもそうした制御が可能だったのも、カリタスの教義によって実際に教義学に内在する危険を中和できたからという面が、あります。
 私は、教義学における意味論的な境界設定と、社会における組織論的な境界設定とを、重ね焼きにした点に、パウロの教義学が真に強力である所以を見出します。こうした理解は社会学者の視座を象徴しますが、宗教者が自らの行為を制御するための視座をも提供してくれるでしょう。
 そうした視座からすれば、成立の経緯ゆえに本来「社会の外」を生きることを推奨するキリスト教の、教義学的な意味論の危険を中和するべく、とりわけカール・バルト以降のローマ正統教会が「世直し宗教」を禁じて、霊的救済を本義に据えるのは、極めて有効な選択だと言えます。
 
【原罪=分別の恣意性+人知を超えた摂理】
 有効だというのは、「脱社会的な教義学の本質を脱社会性の中和に用いる」ことで、教義学と教団組織とをともに生き残らせることができる、という意味です。実は、そうした一見すると逆説的な展開が可能であるのは、キリスト教が原罪譚を核とするユダヤ教に発しているからです。
 境界設定という概念を中核に据える社会システム理論の視座から見ると、原罪概念は境界設定の恣意性が不可避であることに言及したもので、二つの側面──空間面と時間面──があります。取り敢えず[分別の恣意性/人知を超えた摂理]としておきましょうか。
 「分別の恣意性」とは「我らとは、これ誰ぞ」の謂いです。我が我を捨てて「我ら全て」を救おうとするとき、「我らならざる者」を軽んじ踏みつけつつ、しかもそれに気付かない傾きがあります。恣意的に区別して踏みつける──それはあたかも造物主であるが如き振る舞いです。
 何ゆえにそこまでして「我ら」のみ生き延びたがるのか。これは宮崎駿『風の谷のナウシカ』とりわけ連載版の最終的な主題になっています。自明だと思えた「我々/非我々」の区別が過去の「賢人たち」によって周到に設計されだと気付いたナウシカが、全てを破壊して終わります。
 紀里谷和明監督『CASSHERN』(')は、バプテスマや復活などの記号を明示的に用いて背理を描きます。人類を滅ぼす悪魔と対峙する主人公が、かつて彼が仲間を救うべく射殺した女を最愛の妻とする男の、怨念ゆえに変わり果てた姿こそが眼前の悪魔だと知り、苦悶するのです。
 両方とも、自明だと思えた境界設定が、浅はかな人為ゆえの恣意性のなせるワザだと知り、かつその境界設定が、激烈な排除を伴う事実を知った主人公が、誠実さゆえに境界設定の融解を経験するがゆえにこそ死に直面する、という境界設定の酷薄な背理を、印象的に描いています。
 原罪を構成する境界設定の第二背理は時間性に関わります。「世の摂理は人知を超える」の謂いです。たかだか人のなす区別(知恵)は、神のなす区別(摂理)とは異ならざるを得ません。だから「究極の善意」が「究極の悪」をもたらし得ます。意図せざる帰結のオンパレードです。
 浦沢直樹『Monster』のモチーフが好例です。これは手塚治虫『鉄腕アトム』の外典です。天馬博士がアトムを瀕死の傷から救うのと同じく、ドクター天馬が瀕死の子供を救うのですが、子供は長じて恐ろしい殺人鬼となり、責任を感じた天馬が命がけで世界の綻びを収拾するのです。
 その過程でドクター天馬は、その子供がいわば感情の天才であったがゆえにこそ──究極の善人だったからこそ──、想像を絶した絶対悪へと翻身したという事実を知り、二重に苦悶します。まさに「世の摂理は人知を超える」。人は「良きこと」が何を引き起こすのか見通せないのです。
 むろん人は「悪しきこと」が何を引き起こすのかも見通せない。いわば「人間(じんかん)万事塞翁が馬」「終わり良ければ全て良し」。しかし人間にはどこが「終わり」なのかも見通せません。まさにヘーゲルの世界精神の概念そのもの。実際に原罪譚を下敷きにしているのですね。
 米国のフランシス・フクヤマというネオコン学者が、ヘーゲルを下敷きにしたつもりで「歴史の終わり」を喧伝していましたが、お笑いです。人知によって見通せる程度の「終わり」が「歴史の終わり=世界の目的」であるはずがありません。米国ならではの「原罪譚の忘却」です。
 「我らとはこれ誰ぞ」という「分別の恣意性」にせよ、「世の摂理は人知を超える」という「人知を超えた摂理」にせよ、これらをモチーフとした表現は必ず「メシア未だ現れず」ともいうべき悲劇の意味論に接近することで、ユダヤ教の原罪譚を髣髴させることになります。
 
第二部
【原罪からイエスへの「未規定性」の移転】
 キリスト教の誠実な信仰者は、原罪を贖った(人類全体から免罪した)がゆえにメシアだと称されるイエスによる、この「原罪の贖い」とは何を意味するのかを、真剣に考えざるを得ません。「贖われる」とはどんな状態をいうのか。なぜイエス一人だけが「贖う」ことができたか。
 宗教とは、前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にする装置の総体です。超越的な唯一神を立てる宗教では、〈世界〉の根源的未規定性を唯一神という〈世界〉の特異点に帰属させることで、残余を規定可能化する戦略をとります。キリスト教も例外ではありません。
 キリスト教においては、あまねく原罪──人知の恣意性──という根源的未規定性を、イエスという存在の根源的未規定性に移転させるやり方をします。従って、イエスという存在を規定可能化しようとする振る舞いは、必ず〈世界〉の根源的未規定性を噴出させる帰結をもたらします。
 実際、原始キリスト教以降のキリスト教は、なぜイエス一人だけが「贖う」ことができたかについて、イエスの存在をどう規定するかで四分五裂します。具体的にいえば、イエスは人間なのか。それとも神それ自身なのか。はたまた神でも人間でもあるのか。精霊との関係はどうか。
 単純な見取り図ですが、イエスは人間だと考えるのがネストリウス派、即ちイラク地方に拡がるアッシリア教会です。対照的にイエスは神だと考えるのが単性派、即ちエチオピア教会、エジプトのコプト教会、アルメニアのアルメニア教会、シリアとインドのヤコブ教会に当たります。
 いまや全滅したものまで含めると、単性派以外に、ボゴミール派、カタリ派、パウロス派など二元論諸派もイエスを神だとします。イエスに人性のみ見出すネストリウス派も、神性のみ見出す単性派と二元論諸派も、偶像崇拝を禁じます。二元論諸派は十字架の破壊で知られています。
 なぜ二元論諸派と呼ぶかというと、アポロン対ディオニッソスという初期ギリシア的二元論の影響を受けて、神と悪魔の闘争という図式を描くからです。この場合、二元図式に何をどう配置するかを巡っても宗派は分岐します。グノーシス派などは神と悪魔の善悪を逆転してしまいます。
 実は上に述べた全てを合わせてもキリスト教徒の一割です。今日キリスト教徒の九割以上は、単性派を追放したカルケドン公会議(四五一年)で正統とされた、三位一体説を唱えるカルケドン派で、カトリック、プロテスタント、ギリシア正教の母体になっているのはご存知の通りです。(因みにネストリウス派を異端として追放したのがエフェソス公会議(四四九年))。
 三位一体説の特徴は、イエスという身体の根源的未規定性を敢えて未規定のまま残す所にあります。巷間語られる理由は分派闘争を回避するためです。カトリックにおけるフス派やカタリ派や、正教におけるボゴミール派のようなものの出現を回避するためだというふうに言われます。
 宗教改革でカトリックから分岐したルター派やカルヴァン派(長老派)、英国王室とローマ教皇との確執から分岐した聖公会も、カトリックにおけるイエスの未規定性にさわらない構えを継承しますが、そこでも同じ理由──分派闘争や二元論化による弱体化の回避──が語られます。
 これは間違いではありませんが、イエスを規定可能化する試みが分派を量産する理由に注目する必要があります。イエスを規定可能化しようとすると、先に述べた論理的必然性によって直ちに、原罪とは何か、贖罪とは何か、を巡る規定不能性が噴出して、収拾がつかなくなるからです。
 従って、三位一体のカルケドン派の流れに立つということは、イエスの根源的未規定性を敢えて護持することで、原罪を巡る根源的未規定性ならびに贖罪を巡る根源的未規定性に関する危険な論議に、慎重にフタをするという意味合いがあります。社会システム理論はそう考えます。
 実はここにも、組織論的な存続の追求──巷間の議論──と、教義学的な真理の追求──今紹介した社会システム理論の議論──とが、貼り合わさった実態を見て取れます。さて、以上を踏まえて、ライツィンガーが、なぜ「世直し宗教」の肯定から否定へと「転向」したのかを、考えてみます。
 
【奨励されるが認められない、という捩れ】
 ライツィンガーの、ハーバマスとの共著『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』における構えから、僕たちが能動的に汲み取るべきメッセージは、一口でいえば「「世直しの不可能性と不可避性」ということになります。黙示的なメッセージなので能動的に汲み取る必要があります。
 彼の出発点は原罪論的な問題設定です。即ち「分別の恣意性」ならびに「人知を超えた摂理」ゆえに、たかだか浅はかな人為に過ぎない宗教的世直し──中南米の「怒れる神父」など──を教会が正当化することはできません。それを正当化することは原罪論を踏まえないことを意味してしまう。
 ここには一つ重要な踏み込みがあるように思います。イエスが贖ったのは飽くまで僕たちの〈過去〉の罪業であって、〈未来〉の罪業については、それを回避することが不可能であるにしても、イエスによる贖いに思いを致すことで、原罪を自覚しながら注意深く前に進め、ということです。
 もちろん先に紹介したように、たかだか人為に過ぎぬ宗教的世直しを教会が正当化することで、結果として体制反体制を問わず特定の政治勢力に加担した結果、社会のまさに人知を超えた転変ゆえに、教会の存続が危うくなってしまうというカール・バルト的な問題設定もあることでしょう。
 だから、宗教的世直しに乗り出す「怒れる神父」の類は、異端審問を通じて教会から放逐される以外にはありません。霊的救済以外の宗教的救済は、原罪論的にも組織論的にも不可能です。教会は世直しに手を染めない。ところが「不作為もまた作為なり」というもう一つの真理があります。
 眼前に展開する悲劇を前に、霊的救済とカリタスの実践以外には社会に手をつけない──まして政治権力には触らない──という不作為。しかしこれも酷薄なる政治権力の温存に手を貸すという作為の一つに過ぎないという面があります。加えて実はそうした消極的加担を越えた問題もあります。
 古来言われてきた通り──日本では日蓮上人が親鸞の浄土真宗を念仏宗教として批判する場合に語るように──、霊的救済は、単なる不作為を越えて、現世ではないものに希望を託させることで問題のある社会的事実への対処の必要から目を背けさせるという積極的加担を果たさざるを得ません。
 かくして、原罪論的・組織論的に尤もな理由によって社会的救済よりも霊的救済を重視することは、世俗権力による恣意的な排除と選別による悲惨に、消極的・積極的に加担することを意味します。宗教者であれこそ、人為に基づくこうした理不尽な悲惨に、目をつぶることはできません。
 ゆえに宗教者が宗教的世直しに乗り出すことは当然のことなのです。ですが宗教的世直しは宗教的に正当化できないのです。こうした「宗教的世直しの不可能性と不可避性」というアンビバレンスに耐えるしかないというのが、ベネディクト十六世ことライツィンガーが採用する構えなのです。
 彼は明示はしませんが、キリスト教的社会革命を断固異端として却けつつ心の中でエールを送るという二重性しかあり得ないという立場であると思われます。敢えて言えば、正当化不可能(異端)を覚悟で宗教的世直しに乗り出せ、という決断主義を擁護しているのではないでしょうか。
 つまり、こういうことです。宗教者であれば、現世救済に乗り出すことは、当然のことだ。しかし、乗り出した瞬間、正統教義を独占する教団は、直ちに彼を破門しなければいけない。逆にいえば、破門されるからといって現世救済に誰一人乗り出さない教団は、死んでいるということです。
 先に「心の中でエールを送る」という誤解されやすい表現を、わざとしました。言い直せば、ライツィンガーは異端審問官として躊躇なく「怒れる神父」を処断しながら、絶え間なくカトリックから「怒れる神父」が出て来る事実を、カトリックの息吹きとして理解していたということです。
 認めることと奨励することとの差異。奨励されるけれども認められないこと。ここが面白いところです。カトリックは世直し宗教ではありませんが、もともと法華経を掲げて世直し宗教を標榜してきた日蓮宗の皆さんにとっても看過すべからざる問題が提起されているのではないでしょうか。
 
【島田裕巳の中沢新一批判は間違っている】
 復習します。世直し宗教の正しさを考えるための補助線を二本引きました。一本目は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の初期版に描かれた「世直しのリグレット」。二本目はベネディクト十六世の改革派神父から異端審問官への翻身の背後に見通せる「禁じつつ奨励する態度」。三本目を引きます。
 三本目の補助線は「島田裕巳の中沢新一批判は間違っている」という問題です。オウム真理教の地下鉄サリン事件などが起った一九九五年に、犯罪者集団オウム真理教を擁護し、或いは正当化したとして、同じ東大宗教学は柳川啓一門下の中沢新一氏と島田裕巳氏が一旦は論壇を追われました。
 その島田氏が今年(二〇〇七年)『中沢新一批判、或いは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房)を上梓しました。結論を言えば、中沢氏の非倫理性に対する批判には同感できますが、肝腎のポイントを外しています。一言でいえば「密教的断念を巡る神学的問題」にナイーブなのですね。
 本題に入る前に紹介すると、同じ咎で処断された二人ですが、対照的な運命を辿ります。島田氏は大学を辞めざるを得ない状況に陥って苦境をなめますが、中沢氏はそうならなかった。社会的批判は浴びましたが、うまく生き残ったわけです。その島田氏が、中沢氏を批判する本なのですね。
 そこに書かれていることは一部の人たちが既によく知る内容です。まず、オウム真理教の教義の殆どは中沢新一氏が作ったものであること。例えば『虹の階梯』という中沢氏の本が麻原を含めた幹部のバイブルで、彼らが逮捕された後にも繰り返し差し入れを求めてきたことから分かります。
 ある時期まで中沢氏がそのことを人に隠していなかったので一部の人は知っています。加えて島田氏の言うように、ポア(相手の救済の為の殺害)を含めた教義形成に大きな役割を果たしたのに、元信者との対話を通じて事件後もオウムを擁護する言説を績いでいました。確かに問題です。
 更に島田氏は言います。中沢氏は、教義学的側面において「全ての世直しには切り捨てられる者がいる事実」を確認した上、心理的側面において「この事実を乗り越えるための作法(この世ではなく霊性へのコミット)」を推奨するが、この密教的メッセージが反社会的で誤っているのだと。
 要は、誤った宗教的メッセージを社会的に流布された咎があるくせに責任を取らないのは許せないと。チベット密教の修行者でもある中沢氏が、そこで学んだタントラバジラヤーナの教義を元に、社会から見れば犯罪でも宗教から見れば許されるのだと繰り返し述べてきたではないかと。
 「社会の視座から否定されることが、宗教的世直しの視座からは肯定される」というような図式を中沢氏が反復したことが、オウムをテロ教団へと育て上げたんじゃないか、そうした因果関係は確実なんじゃないかと。僕の読後感ですが、まず、この指摘は完全に正しいだろうと思いました。
 中沢氏が作り上げた──正確には伝達した──タントラバジラヤーナの教義に、オウム真理教の反社会性をエンカレッジする側面が存在したことは間違いないという意味です。ところが同意できない指摘があります。中沢氏がオウム真理教に伝えた内容が間違っていたとの指摘です。そうなのか。
 中沢氏が伝達した密教の教義は間違いか。違うでしょう。こういうことです。僕自身「社会の視座から肯定されないことを肯定するのが宗教だ」と述べてきました。これは価値観というより事実の問題です。そもそも宗教的空間はアジールと呼ばれる、世俗権力や世俗法が及ばない領域です。
 皆さんご存知のように、ビクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読みますと、社会が許さない犯罪者ジャン・バルジャンをミリエル司教が受け入れた上、彼が司教の教会から盗んだ銀の燭台を、彼を捕まえた憲兵に対して「私があげたものだ」と嘘をつき、彼を放免させるわけです。
 当たり前ですが、宗教は社会よりも大きいことで、初めて機能を果たします。なぜならば、宗教の機能とは、既に述べてきた通り、前提を欠いた偶発性の馴致──無害化して受容させること──だからです。社会が必然的に孕む社会が解決できない理不尽を、受け入れ可能にすることだからです。
 だから、社会が許さないことを宗教が許すのは、宗教者の恣意というより、宗教が宗教として機能するために必須です。だからこそ社会を生きられなかった人が宗教に救われるのです。霊的救済とはそのことを指します。中沢氏が世直しの理不尽を霊性で乗り越えると語るのもその延長です。
 中沢氏の発言には大切なことが含まれています。宗教が社会よりも大きいことによって、社会で救われない人が宗教で救われるという霊的救済機能がもたらされると同時に、社会的に見合わない──社会的合理性に還元できない──世直しへと人を促す社会的救済機能も、もたらされるのです。
 宗教が社会よりも大きいということを手放ししてしまっては、宗教は宗教でなくなるということを、僕は繰り返し言ってきました。だったら社会が許さないことも何でもありなのかという疑念については後で主題化しますが、それを保留すれば、中沢氏が言うことは、間違いではありません。
 保留含みのまま言いますが、場合によっては、社会から犯罪視されようが、宗教的救済を──霊的救済であれ社会的救済であれ──目標とする観点からソレをなすことが奨励されることがあり得ると思います。『レ・ミゼラブル』におけるミリエル司教の「大嘘」は、宗教的には許されるのです。
 
【問題は中沢新一のステージの低さである】
 実は中沢新一氏はそれ以上のことを言っています。『銀河鉄道の夜』の言葉を使えば、中沢氏のメッセージは、《まことのみんなの幸》に、不可能と知りつつ殉じる態度を奨励するものである点で、賢治が『銀河鉄道の夜』で示した宗教的意味論との間に、大きな違いを認められません。
 私は『銀河鉄道の夜』の意味論を──中沢氏のメッセージを──誤りとは思いません。それどころか、ユダヤ教ないしキリスト教的な原罪観念を含めて、「人に帰せられる咎がどこまであるのか」をめぐる古代にまで遡る宗教的意味論の「核心」として宗派を越えて語り継がれてきたものです。
 その「核心」を一言でいえば、僕たちがヒトとして存在することに含まれる本質的限界ゆえに、ヒトによる能動は、目標や帰結がどうあれ、本質的に正当化できないということです。目標については「分別の恣意性」が、帰結については「人知を超えた世の摂理」が、問題になるからです。
 それを理解することは、僕たちの日常的信念を丸ごと否定するので「心理的抵抗」を伴います。それもあって、半端な理解では、悪と知りつつ悪を行う「恣意性への居直り」が帰結されます。だからこそチベット密教では、長期間寝食を共にした弟子にだけグルがメッセージを授けるのです。
 グルイズムの本質は、「分別の恣意性(空間性)」にせよ「人知を超えた世の摂理(時間性)」にせよ〈世界〉の根源的未規定性に関わる問題だけに、規定可能な形では伝達できない所にあります。仏陀が法華経の冒頭で「人を見て法を説け」と一部の弟子だけに語る所以もそこにあります。
 仏陀は、退屈な説法を延々続けて、それでも残った者にだけ本当のことを語るという仕方で、一部の弟子を選別しています。その上で火事のエピソードを通じて、衆生を救うためには大嘘をつくことも仕方ないというメッセージを伝えます。「嘘も方便」という言葉はここから来ています。
 因みにそこに見られる説法の仕方を──中沢氏を通じてかもしれませんが──学んでいるのが、「果たしてこれは善か悪か」と問い詰める麻原彰晃でした。実はそこに私が語りたい問題の本質があります。なぜ、麻原彰晃程度のレベルの男が、仏陀と相似形のメッセージを語るのでしょうか。
 ことほどさように弟子の選別は問題を孕みがちです。仏陀による選別のエピソードは単なる暗喩ですから、選別の方法が稚拙であることを批判しても仕方ありません。むしろ選別が不可能であることを示すエピソードだと見るべきです。何を以て弟子の資格となすべきかは、規定不可能です。
 それどころか、弟子に資格付与する者の資格もまた、規定不可能なのです。規定不可能な規準によって選別された弟子がグルになるのですから、論理的必然です。グルたり得る資格はグルによって認定されますが、認定するグルもまた先行するグルによって認定されたに過ぎないわけです。
 中沢氏の咎は、島田裕巳氏の指摘とは違って、間違ったことを語った点にあるのではなく、グルでもないくせに麻原彰晃という似而非グルに資格付与してヴァジラヤーナを伝えた浅はかさにあります。というか、麻原程度の男に伝えたということが中沢氏のステージの低さを証明しています。
 チベットのダライラマ以下のお坊様方は、オウム真理教の事件について相当困惑しているだろうと思います。チベット密教の教義自体に疑念が持たれることを惧れたはずです。現に島田氏のような指摘が出てきてしまった。でも問題は、グルイズムを履き違えた中沢氏個人の能力にあります。
 要は、人を見て法を説くべきなのに人を見ずに法を説いたことから誤りが生じたのですが、規準が規定不可能なので人を見るのは容易ではないということです。因みに、島田氏は誠実ですが、宗教的センスがなく、中沢氏はセンスはありますが、倫理を欠くというよりは単に頭が悪いのです。
 ここで「未規定性」と並んで「不可能性」というキーワードを掲げましょう。原罪譚によって暗喩される〈世界〉の根源的未規定性ゆえに、正しい世直しと誤った世直しを先験的に識別することは不可能なのです。全ては「終わり良ければ全て良し」というアポステリオリでしかありません。
 この不可能性に対処すべく、ベネディクト十六世は、異端審問官として「怒れる神父」を処断しつつ心の中でエールを送る構えに立ちました。宗教的救済として、霊的救済ならざる社会的救済こそ奨励されるが、それに乗り出した宗教者は直ちに破門されるべし、という規定不可能な構えです。
 法華経での暗喩にルーツがあるグルイズムは、この規定不可能な構えの機能的等価物です。完全に正当化されたグルが次のグルを完全に正当な手続きで選別するんじゃありません。事実グルだとされる者が、寝食共にした後で決断主義的に資格を付与する、という規定不可能性な手順です。
 僕自身、米国で手法が洗練されたアウェアネストレーニング──エンカウンター・ゲシュタルト療法・交流分析・神経言語プログラミング──を受けてきた者ですから、この規定不可能な手順が、そうは言ってもそれなりに合理的に機能するのは知っています。それでも事の本質は変わりません。
 こうした「未規定性」に由来する「不可能性」に対処するための「規定された方法」はあり得ません。今まで述べてきた通り、それは論理的にあり得ないのです。ですから一般的な解決法はありません。単に語り継がれた「知恵」だけが機能します。だからこそ「倫理」が要求されるのです。
 中沢氏のステージが低いことは、麻原にヴァジラヤーナを伝達してしまったことで事実として証明されていますが、論理的に言えば、今述べた論理的必然を理解するだけの頭の良さがなく、ゆえに事実的に乗り越えることを志向する倫理的意欲を欠き、ゆえに知恵に乏しいということです。
 
第三部
【『エヴァンゲリオン』にみる神学的構造】
 話を先に進めて、世直し宗教の正しさ(の不可能性)を考えるための第四の補助線を引きます。冒頭で紹介した『新世紀エヴァンゲリオン』につなげてお話ししてみたいと思います。この中に若いお坊さん方もいらっしゃるので、『エヴァ』テレビシリーズの視聴経験をお尋ねいたします。
 三分の一くらいがご覧ですね。このテレビシリーズはご存知のように事実上未完で終わっています。未完の二十五話と二十六話の相当部分を、九十七年春と夏に映画として作り直し、暫定的に完結させた形になっています(『DEATH & REBIRTH シト新生』&『Air/まごころを、君に』)。
 先に申しました通り、三つの神学が描かれています。第一が「ゼーレの神学」です。ゼーレは世界の有力者たちが支持する秘密結社でフリーメイソンを思わせます。ゼーレはユダヤ教の原罪観に基づく救済(人類補完計画)を目標とします。ここに、キリスト教的な贖罪観が接ぎ木されます。
 創世記によると、「知恵の実」を手にした人が「生命の樹」を入手して自ら神(全能者=知恵+永遠の生命)になるのを妨害すべく、神が使いを配備します。キリスト教によれば、贖罪「神の子」を「生命の樹=十字架」に磔にする必要があるので、使い(使徒)を倒す必要があります。
 「ゼーレの神学」に対抗するのが「ゲンドウの神学」。碇ゲンドウはゼーレの下で人類補完計画を遂行する組織のチーフです。ゲンドウの目標は、「生命の樹」を手にして人類が全能なる一者として合一化を遂げることで、真の全能者ソフィアとの合一をめざすグノーシズムを思わせます。
 ゼーレは、イエスの贖罪が不発だったので、再度贖罪することを目指しています。そうしたゼーレにとっては、ユダヤ教やキリスト教と同じく、「知恵の実」を食べたのは原罪で、それを誘惑したルシファ(外典ではリリス)は、神ヤーウェの意に叛く悪魔だという話になっているのですね。
 因みに、ユダヤ教とキリスト教の違いは、イエスによる原罪の贖罪があったか否かという差異にあります。イエスの贖罪が不発に終わったという観念はユダヤ教のものです。でもゼーレが追求する贖罪形式はキリスト教のものです。その意味で現実には存在しない宗教的意味論を体現します。
 実際にキリスト教では、イエスの贖罪の意味を徹底して理解する者だけが、将来の「最後の審判」の裁きを通り、永遠の生命(生命の樹)を得るとします。原罪ゆえの受難に耐えるべく戒律を励行する「過去志向」のユダヤ教。贖罪の理解に基く能動を奨励する「未来志向」のキリスト教。
 ゼーレの過去志向はユダヤ教的で、キリスト教的ではありません。他方、ゲンドウはグノーシズムなので反キリスト教的ですが、「人為の不可能性を意味する原罪譚を完全に忘却する」点で、悪魔に勝てば永遠の生命(千年王国)が得られるとする米国のキリスト教原理主義者を思わせます。
 勘のいい方々は僕の言いたいことが判ってしまったかも知れませんね。先に原罪とは何かを話しました。ゼーレの過去志向は、「分別の恣意性/人知を超えた摂理」に基づく人為の不可能性、つまり原罪に、打ちひしがれて、全能者の許しを請うという、ヘブライズム的な構えにあたります。
 ゲンドウの未来志向は、こうした構えの不自由から離脱するべく人為の不可能性(原罪)に頓着せずに、人為の可能性つまり全能化や完全化を素朴に信じる構えです。「ITや生命技術が進めば個人個人がバラバラであるがゆえに不合理な社会を克服できる」という暗喩さえ匂わせています。
 今回のタイトルに含まれる「不可能性と不可避性」という文言は、どちらの立場もダメということを意味します。冒頭に述べた通り「ゼーレの神学」「ゲンドウの神学」の双方を否定するのが葛城ミサトと碇シンジです。彼らが何を否定しているのかが、ここからの議論のヒントになります。
 これも冒頭に述べましたが、彼らが否定するのは「ゼーレの神学」「ゲンドウの神学」の双方を含めた「全体性の神学」です。先に紹介した映画版のラストは「みんなの救済という全体性を願いながら、しかし全体性という観念を断念する」という決意表明(気持ち悪い!)で終わります。
 「全体性という観念は気持ち悪い」という立場も思想史に詳しい方ならお分かりのように既に知られたものです。全体性を可能なものとして構想する「後期ロマン派」がナチスをもたらしたとして、全体性を不可能なものと知りつつ志向する「初期ロマン派」を奨励した批判理論の系譜です。
 批判理論はフランクフルト学派とも呼ばれますが、通俗的にはマルクス主義とフロイト主義を合体した左翼思想だとされます。でも「初期ギリシア」の主意主義・を憧憬する「初期ロマン派」の不可能性の思考・を憧憬する批判理論は、不可能性にコミットする美学を奨励する右翼思想です。
 
[参考資料]
^tヒト^t=アダムから逃げたリリスと、ルシファの間の子(悪魔リリン)
^tシト^t=アダム(両性具有)の子(分身)、ただし天から降ってくる
 
^tエヴァ^t=アダム(両性具有)の子(分身)、ヒトが作り出した(アダム計画)
^tエヴァ^t=リリス(単性具有)の子(分身)、ヒトが作り出した(E計画)
^t^t^tリリスは単性なので、ヒトが乗り込む必要がある
^t^t^tルシファとはリリスだとの外典があるので両性具有性もある
^t^t^tだからエヴァが暴走(自走)することもある
 
^tゼーレの目的^t=始源(リリスの卵)への帰還(贖罪):勝利と見えてシンジに敗北
^t^t 贖罪のため神の子と使徒(エヴァ)を再生
^t^t 生命の樹は贖罪のための十字架
 
^tゲンドウの目的^t=生命の樹(永遠の生命)の入手による全能化(合一):ゼーレに敗北
^t^t 生命の樹の入手のため12使徒(エヴァ)を再生
 
^tシンジの役割^t=エヴァごと磔刑にされてゼーレの目的がいったんは達成
^t^t 磔刑に処される神の子の暗喩
^t^t だが生命の樹との合一で全能化し〈世界〉の将来を決定:勝利
 
【『幼年期の終わり』と『エヴァ』の類似】
 今は時間がないので、分かりやすい話を一ついたします。一九五三年にアーサー・C・クラークが『幼年期の終わり』という有名なSFを書きました。庵野秀明『エヴァンゲリオン』の母体になった作品ですが、誤解に晒され続けてきました。
 この作品は共産主義思想のプロパガンダだとして当時は大バッシングを浴びたものです。しかし今日ではSFの中の最高傑作として絶えず参照されています。『エヴァ』を含めた多数の作品がオマージュを捧げています。グレッグベア『ブラッドミュージック』という有名なSFもそうです。
 この作品はネクストジェネレーションものの元祖であり、かつニュータイプものの元祖です。因みに『エヴァ』の正式欧文タイトルは「Neon Genesis」つまり「新・創世記」が冠になっていますが、この作品が『幼年期の終わり』へのオマージュである以上、当然のことではあります。
 地球にエイリアンが降ってきます。高度文明を持つエイリアンは上帝たちと呼ばれ、人類のテクノロジーや社会制度の不全部分をどんどん補完した結果、人類文明は五十年間で数百年分進みます。史上初めての理想郷が実現します。でもそれは上帝たちの「手段」に過ぎませんでした。
 上帝たちの目的は、文明進化の袋小路(飽和状態)に人類を追い込むことで、ネクストステージへと進化するニュータイプを自然発生させるためでした。新たに発生したネクストジェネレーションは個体性を持ちません。個々の知的精神は癒合し、全体が一つの宇宙精神体に合一化します。
 因みにこれはまさに碇ゲンドウが目的としていたことです。とにかく、せっかく理想郷を実現した人類──オールドタイプ──は、数時間のうちにニュータイプによって滅ぼされ、地球をニュータイプに明け渡すことになります。滅ぼされる側の一人の男の目撃譚のような形で、物語が終ります。
 この作品はSF史上の画期の前哨とされます。一九五〇年代前半はSFの黄金時代と呼ばれますが、その方向性はヒューマニスティックです。進んだ科学技術が人類を本当に幸せにするのかという問題設定です。ところがニューウェイブを標榜するJ・G・バラードが異議を申し立てます。
 従来のSFは、三〇〇年後の未来を描きながら、それを西部劇時代から変わらない感受性をベースに批判している。あり得ない。三〇〇年後には三〇〇年後の感受性があるはず。三〇〇年後の環境破壊を今日の視座で批判したところで、三〇〇年後の子孫がそれに同感するかどうか分からない──云々。
 バラードは、技術と社会のインターフェイスといった考え方を拒絶します。テクノロジカル・ランズケープという彼の有名な概念がありますが、僕たちの感受性自体が既に技術によって浸透されている以上、技術を批判する作業自体が、意識するしないに関係なく利益相反なのだと言います。
 因みにこの考え方は、チェルノブイリ原発事故を受けて社会学で生まれたリスク社会論に継承されます。U・ベックによれば今日のリスク社会は、⑴高度技術がもたらす予測不能・計測不能・収拾不能な事故の蓋然性と、⑵これら技術抜きには社会生活を想像できないことで、定義されます。
 分かりやすく言えば、熱いシャワーを浴びた後、クーラーの効いた部屋で、大型ディスプレイの前に寝転がって『不都合な真実』を視聴するような社会では、ある技術について善悪を単純に論じるような二元論的世界観はもはや全く通用しない、という考え方です。極めて妥当な思考です。
 ヒューマニタリアンが技術による社会の破壊を憂うるという黄金時代のSF作品と対比すると、バラードらニューウェイブのSF作品は、同時代のミッシェル・フーコーの議論などと共振するかのようにアンチ・ヒューマニタリアンの匂いを醸し出します。さて『幼年期の終わり』の話です。
 『幼年期の終わり』はニューウェイブの前哨です。ネクストジェネレーションはもはや異なる感受性や実存形式を持つ者たちであり、彼らニュータイプの振る舞いをオールドタイプがヒューマニスティックに批判したところで、オールドタイプの自慰の域を出ないことが宣言されています。
 こうした抽象的な問題設定自体、今日振り返ると極めて先験的です。それを踏まえていえば、ニュータイプの非個体的な存在様式という設定は、別の問題を指し示しています。救済の意味論の問題です。実際、地球を越えた宇宙の最高存在との合一という観念は、明白にグノーシス的です。
 こうしたグノーシズム的な「上昇=合一」の観念が、同時代の赤狩り(マッカーシズム)の中では共産主義思想の礼賛ではないかと中傷されたわけです。でも、よく読めば誤解だと分かります。作者のクラークがこうした「全体性との合一」の観念を肯定しているようには、読めないのです。
 むしろ逆です。こうした観念を救済だと見做すニュータイプがネクストジェネレーションに支配的になったら僕たちはどうしたらいいのか(どうにもできない)、という「仕方なさ」を描いています。グノーシズム的なものの恐ろしさを「東方的なもの」を踏まえて描いているとも言えます。
 『幼年期の終わり』のこの否定を『エヴァンゲリオン』も受け継いでいます。葛城ミサトと碇シンジが「ゼーレの神学」と「ゲンドウの神学」を拒絶するのは、始源への回帰=子宮回帰にせよ、全能者への上昇=崇高な合一にせよ、他者性の忌避というモメントを共有しているからです。
 
【未開の思考と全体性の思考に共通の退廃】
 といった物言いは巷間すでにあふれていますので、哲学史の角度からお話ししましょう。皆さん、ネオテニー図式について耳にしたことがあるでしょう。僕たち人間が「幼態成熟」という不完全さに留まるがゆえに、自然の欠落を埋め合わせるべく文化を発達させたのだという発想です。
 この発想はソクラテスに遡ります。ソクラテスは、知識やエクリチュールや神を頼る態度を「エジプト的なもの」として拒絶しますが、その際に、「欠落の埋め合わせとしての超越への依存」という図式を提示するのは有名です。後の形而上学批判につながる初期ギリシア的なものですよね。
 分かりやすく言うと、この世界は神様が作った以上ちゃんとしているはずだから、不条理こそが説明されるべきことだというのが「エジプト的なもの」。この世界はそもそも不条理にできているから、善や秩序に向けた意思こそがありそうもないことだというのが「ギリシア的なもの」です。
 〈世界〉がちゃんとしているかどうかは応報観念が通用するかどうかで計られます。応報観念とはバランスのことです。〈世界〉は陰と陽とのバランスがとれていて、善と悪とがゼロサム関係にあると考える、二元論的な思考のことです。しかし、実際〈世界〉はそうなっているでしょうか。
 社会システム理論が注目するのは、こうした二元論的思考は、原初的社会──部族段階の未開社会──に普通に見られると同時に、高度文化社会──部族段階を越えた階層的社会──にも見られることです。ただし後者においては、自然の応報が信じられないかわりに超越神が持ち出されるのです。
 複雑性ゆえに〈世界〉の対称性が破れたように体験される社会で、応報原理を──それを破ることを含めて──主催する超越神が志向されるのは、機能的には合理的です。〈世界〉の根源的未規定性を、単一の特異点へと集約して、残余を規定可能化(脱魔術化)するような社会のことです。
 ところが、初期ギリシアの社会は、唯一神への信仰を拒絶し、飽くまでパンテオン(多神教的世界)を保全します。巷間誤解されているのとは違って、多神教的なものは、曖昧さとは何の関係ありません。現に初期ギリシアでも古代インドでも、世界に先駆けて論理的な思考が発達しました。
 パンテオンの保全は、日本浪漫派や折口信夫が注目したように、〈世界〉はちゃんとしていないという発想を自覚的に維持するためのものです。どんな社会システムがこうした観念にこだわろうとするのかは興味深いところです。ギリシアの場合は以下に述べるような二つの事情があります。
 第一はポリスの成立史です。ギリシアには紀元前十五世紀頃からアカイア人が住んでいましたが、紀元前十二世紀からのドーリア人の侵入で──両方とも黒海周辺から移住してきました──「暗黒の四百年」を経験します。虐殺・放火・略奪・強姦のオンパレードで社会はめちゃくちゃになりました。
 その後シノイキスモス──アカイア人とドーリア人のポリス的集住──が進んで、動乱期を終えます。因みにアテネはアカイア人のポリス、スパルタはドーリア人のポリスです。彼らは「暗黒の四百年」を忘れないために、パンテオンのギリシア神話を共有して、ギリシア意識を抱きました。
 皆さんがご存知のホメーロスの叙事詩も、「暗黒の四百年」を忘れずにギリシア意識を共有するためのものです。紀元前五世紀前半を生きたソポクレスのギリシア悲劇もまた、「暗黒の四百年」を忘れぬための──「世の摂理は人知を超える」ことを忘れぬための──ものだったと言えます。
 超越神のいないカオティックな社会における「ありそうもない屹立」にこだわる「初期ギリシア的なもの」を支えた第二の背景は、ファランクス(集団密集戦法)という独特の戦闘形式です。戦略の巧拙は因より、理屈を越えたトランスを身に帯び得る者だけが、英雄となり得たわけですね。
 僕は映画批評家でもありますが、僕たちの社会における映画や小説や漫画の表現においても、〈世界〉はちゃんとしているという前提に立つものと、〈世界〉はちゃんとしていないという前提に立つものとがあります。僕は前者を「抒情的なもの」、後者を「叙事詩的なもの」と呼びます。
 一部の書物では前者を「サリンジャー的なもの」、後者を「アービング的なもの」と呼んだこともあります。呼び方はどうでもいいのです。今日のポストモダンな社会システムを前提とした場合、超越神を持ち出すか否かに関係なく、〈世界〉のバランスを信じる発想は「抒情的」です。
 この言葉に抵抗があるのなら、こう申し上げても構いません。単なる主観の投射に過ぎないということ。あるいは、実存の問題を社会の問題と取り違えているに過ぎないということ。見田宗介氏や中沢新一氏はご自身は狡猾な近代主義者ですが、彼らの著作に傾倒する方々が抱える問題です。
 僕は『サイファ 覚醒せよ!』(二〇〇〇年)以降、数多くの著作で「初期ギリシア的なもの」を「叙事詩的なもの」「主意主義的なもの」などと呼びながら擁護してきました。しかし、これは、僕たちの社会が、初期ギリシア社会のような条件を備えていないことを、弁えた上でのことです。
 とりわけアテネがスパルタに敗北したペロポネソス戦争以降、先に述べたような社会的文脈が変わってしまい、統治性の観点からいえばもはや「初期ギリシア的なもの」にこだわるわけにいかなくなりました。かくしてプラトンは、かつては否定していた「超越」を持ち出すようになります。
 僕たちの社会が初期ギリシアのような社会的条件を備えることは永久にないでしょう。でも、だからこそ「〈世界〉には(大きく見れば)バランスが成り立つ」という観念が──未開の思考への憧れであれ超越への同一化要求であれ──社会システムの分泌物であることを弁える必要があります。
 「初期ギリシア的なもの」を否定して以降のプラトンのメタ万物学(形而上学)をルーツとする近代哲学の伝統に、「初期ギリシア的なもの」である万物学(自然学)をルーツとする現代哲学を対置する、ニーチェ・ハイデガー・ポストモダン哲学の流れも、そのことを意識したものです。
 僕たちは近代の社会システムを生きていて、そのことから遁れることは永久にあり得ませんが、しかし社会システムの分泌物を食らわせられた状態に無自覚に甘んじるべきかどうかは別問題です。そのことを一九六〇年代後半に唱導したのが哲学者フーコーであり、社会学者ルーマンでした。
 僕の考えでは、『幼年期の終わり』と『エヴァンゲリオン』に共通する全体性批判──「気持ち悪い!」という感受性──は、単なる他者性欠如批判というより、〈世界〉のバランスという観念への依存を戒めて「カオスの中での屹立」を擁護する感受性においてこそ、理解されるべきものです。
 
【社会システム理論家が宗教をかたる意義】
 宗教的世直しを志す者とは──因より世直しを志す者とは──〈世界〉のバランスを回復しようと意志する者の謂いです。ですが、その事実と、〈世界〉がそもそも(少なくとも大枠で)バランスを保つはずである──対称性や応報性を示すはずだ──と考えるべきかどうかは、完全に別の問題です。
 ここにはアイロニーがあります。アイロニーとは全体が部分に対応することを指します。原初的社会における「野生の思考」(レヴィストロース)や「気流の鳴る音」(見田宗介)を志向して「対称性」(中沢新一)を信仰することは、〈社会〉の外を思考すると見えて、実は内側です。
 誤解されやすいのですが、もっとうまくやれば〈社会〉の外に出られると申し上げているわけではありません。一九六六年のフーコー・サルトル論争で主体や自由の観念が〈社会〉の分泌物であると指摘するフーコーが、あなたは〈社会〉の外に出られるのかと問われて、明確に否定しています。
 そこでフーコーが述べているように、フーコーの言説が存在しなかったシステムが、束の間システムの外側にフーコーの言説が出現したと思った次の瞬間に、フーコーの言説が存在するシステムへとシフトするだけです。即ち、システムの外、〈社会〉の外は、いつも陽炎でしかないのです。
 「どのみち外に出られないのであれば同じことではないか」と言うわけにはいきません。なぜなら、それは社会システムに由来する力──フーコーは権力と呼びます──に無自覚になることを意味するからです。僕たちは権力から逃れられませんが、それを自覚するかしないかは大違いなのです。
 先に「宗教は社会よりも大きい」という言い方をしました。前提を欠いた偶発性を馴致するという宗教の機能からして、それが不可欠だとも言いました。しかしそれは、世俗の法、世俗の権力、世俗の制度の、外を志向するということです。そうした宗教を含んだ〈社会〉があるわけです。
 しかし、そうした〈社会〉──可能なコミュニケーションの総体──の中で、何が「現にある社会」──蓋然的なコミュニケーションの総体──なのかという社会システムの自己観察──境界設定──は絶えず揺れ動きます。この揺動に自覚的に棹さそうとする再帰的な態度こそが要求されています。
 ここで、微妙なことを言わなければなりません。こうした揺動を有効に実現するために、言表においては敢えて〈社会〉の外を指し示すという態度も、あり得るということです。「見田宗介氏や中沢新一氏が狡猾な近代主義者だ」と申し上げたのは、彼らがそのことを自覚しているからです。
 ここに「宗教的エリート主義」という主題が浮上します。広い意味でのヴァジラヤーナ(密教)の問題です。「〈世界〉のバランスを回復せよ」と唱導する宗教者が、「〈世界〉はそもそもバランスしているものだ」と動員的に説法しつつ、自身は説法の内容を信じていないという形式です。
 こうした形式は許容されるべきでしょうか。敢えてイエスだと申し上げます。正確には、許容されるべきかどうかという問いは無意味です。なぜなら「宗教的世直しの不可能性と不可避性」という主題が、既に紹介した通り、古今東西、最高の宗教者らによって反復されてきているからです。
 今回は、『銀河鉄道の夜』に描かれたリグレット(慚愧の念)、ベネディクト十六世の「転向」、グルイズムの法華経的ルーツ(嘘も方便)、『エヴァンゲリオン』における救済拒絶、〈世界〉の非対称性といった切り口から、「宗教的世直しの不可能性と不可避性」の主題を反復しました。
 この主題は従来「分かる人には分かる」という形で陰伏的に述べ伝えられてきました。その意味でヴァジラヤーナなのです。そうである以上は仏陀が法華経で述べているように「誰にどう伝えるか」を吟味しないわけにいきません。さもないと宗教的世直しを台無しにする現実が起るのです。
 そのような現実として、僕たちは、オウム真理教の弁護士一家殺害事件・松本サリン事件・地下鉄サリン事件を含む一連の出来事を取り出せますし、・11以降のネオコン──ニューヨーク・トロツキストからの転向ユダヤ人──の虚偽の理由によるイラク攻撃などの一連の所業を取り出せます。
 しかし、今回の僕は、「宗教的世直しの不可能性と不可避性」という逆説を、陰伏的にではなく陽表的に語ってしまっています。これは語るべき相手を選べという仏陀の教えに反していないか。皆さんは教義学に極めて関心の高いお坊さま方です。だから、決断主義的にOKだと考えました。
 本当ならばもっと吟味が必要なことでしょうが、宗教的世直しが宗教的世直しを台無しにする現実が多発している以上、仕方ありません。話の内容も難解だったでしょうが、それも敢えて意図したことです。僕の話を聞いてあんまり頭に入らなかった方々には、理解してほしくはありません。
 そういう方々には、本日のお話は、宗教者が宗教的世直しに乗り出すことの否定だと受け取っていただいてかまいません。しかし、僕の目の前にいらっしゃる皆さんの全員がそのように受け取って帰られるならば、本日の僕のお話は失敗に終わったことになります。そういうお話の内容です。
 先の話を繰り返しますと、世直し神父を異端として排斥することでローマ教皇庁は生き残ってきましたが、しかし都度都度そうした異端の神父たちが生まれることでローマ正統教会(カトリック)への信頼もまた継続してきたという逆説的な構造が、現に歴史的に存在してきています。
 宗教的救済が、社会的救済ならざる霊的救済のみを志向するならば、それは「必然的に」、救済を必要とする理不尽な社会に積極的に加担していることを意味します。マルクスが宗教が阿片だと述べるのはまさにそのことです。そうした振る舞いは果たして「正しい」と言えるのでしょうか。
 しかし宗教者が社会的救済──宗教的世直し──を志向する場合、僕たちはこれまた「必然的に」、原罪──分別の恣意性/人知を超える世の摂理──によって裏切られ、なおかつ救済を述べ伝える教団自体の存続を危うくします。こうした両義性が「宗教的世直しの不可能性と不可避性」なのです。
 宗教者が関わるかどうかにかかわらず、社会的救済はキレイゴトでは済みません。必ず泥にまみれることになります。場合によっては、法を破る人たちとも結託をしなければなりません。或いは自ら法を破らなければいけない場合もでてきます。それは根源的な意味で「仕方ない」ことです。
 そうした覚悟がなけれは、目の前にいる困窮した人々を、方便としてすら救済することが覚束なくなります。でも「仕方ない」は「何でもあり」とは違います。やり方を間違えれば、救済者は破壊者に──天使が堕天使に──瞬時に変貌します。それでは、一体どこに線引きできるのでしょうか。
 残念ながら先験的な線引きはできません。葛藤を強いられつつ前に進むしかありません。それ以外にありません。なぜならば、問題は〈世界〉の根源的未規定性に関わるものだからです。ローマ正統教会やルター派や長老派は、原罪譚や復活譚や三位一体説の規定可能化を放棄する所以です。
 先に述べた通り、これらカルケドン派(の一部)は、〈世界〉の根源的未規定性をイエスという特権的身体に濃縮して移転しました。そのことで、なぜイエスだけが贖罪できたのか、復活できたのか、神との契約を更め得たのか(新約)、という「資格付与」に関わる問題だけが残りました。
 これは、ヴァジラヤーナのグルイズムにおける「資格付与」が規定不可能であるのと、本質的にまったく同じ意味で規定不可能なのです。キリスト教における規定可能化の放棄は、分派闘争の回避というよく知られた理由よりも、宗教的意味論の本質に関わる理由こそが理解されるべきです。
 最後になりますが、社会システム理論家が宗教を論じる意義について申し上げます。第一に、社会システム理論家は、パフォーマティブな動員を狙うナラティブ・アプローチを採りません。それに関連して第二に、社会システム理論家は唯一性よりも類型性(入れ替え可能性)に注目します。
 詩よりも散文。抒情よりも叙事。実存よりも社会。超越よりも内在。そういうふうに申し上げられるかもしれません。そこではひたすら数多ある宗教的救済に関わるパターン認識の能力だけが問われます。従って宗教者から見れば、社会システム理論家の振る舞いは不遜以外の何物でもない。
 こうしたパターン認識から明らかになるのは、宗教的な超越に関わる事柄も全て人のなす内在に過ぎないということです。神がいるのでなく、神がいると信じる人たちがいる。真理があるのでなく、真理があると信じる人たちがいる。「真理」の前に「社会学の」と付けることもできます。
 僕は公式には宗教者ではありませんから、こうした不遜な言説を述べることにためらいがありません。でも、ためらわない理由がもう一つあります。僕の見るところ、世直しを手放さない優秀な宗教者らは、古今東西例外なく、申し上げてきたような逆説に敏感な目差しを内蔵するからです。

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