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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

宮崎県の富士門流について

 

宮崎県の富士門流について
 
黒 木 報 源
 
 ただいまご紹介にあずかりました、宮崎県の妙国寺の黒木報源と申します、よろしくお願い致します。
 宮崎県は、日蓮宗寺院の非常に少ない所です、その殆どが富士門流のお寺です。宮崎、鹿児島、沖縄をひとつの管区として三十ヶ寺、宮崎県内は二十五ヶ寺くらいです。その中の半分くらいが、旧本門宗のお寺です。現在の宗務所長、伝道担当事務長、宗務担当事務長も、みんな富士門流のお寺の方です。
 昭和十六年の三派合同で日蓮宗になったのですが、その三派合同の時に、色々と揉めていたようです。やはり、宮崎としては三派合同反対、富士門流、本門宗としていく、という声があったようですけれども、時代の流れに押されて合併したわけです。
 富士門流と十把一絡げで言いますが、富士門流には八本山ございまして、八本山それぞれが、うちこそ正統だという正嫡意識が非常に強く、富士門流が明治維新の後に、八本山合同して本門宗になったわけですけれども、管長を決めるのに、つまり総本山を決めるのにかなり揉めた話があります。任期制にして、順番で管長を決めていったわけですけれども、特に大石寺は非常に正嫡意識が強かったので、僅か数年で本門宗を離脱し、日蓮正宗を名乗りました。大石寺の檀信徒や末寺からすると、大石寺以外のお寺を総本山として仰ぐことはできなかった、それで離脱したと思われます。多かれ少なかれ他のお寺にも、そういう意識はありました。それで今も、八本山のうちの数ヶ寺は単立寺院です。ちなみに、北山本門寺と小泉の久遠寺は、日蓮宗に属しています。
 宮崎の本門宗寺院は、八本山のうちの小泉久遠寺と保田妙本寺の系列です。保田妙本寺は現在単立ですけれども、保田と小泉はずっと両山一貫主制をとっていまして、そこの末寺が多い地域が宮崎県です。ですから富士門流といっても、北山本門寺とはまた違う系統になります。とはいえ、今、日蓮宗に属している旧本門宗は、興統法縁という形でまとまっておりまして、事実上の門頭寺院は北山本門寺です。昭和三十年前後だと思いますが、戸田城聖さんが創価学会の会長の頃、創価学会や日蓮正宗大石寺が非常に元気のいい時代がありまして、宮崎県内の数ヶ寺が折伏され、日蓮宗から日蓮正宗に改宗してしまいました。特に私のお寺がある日向市は、日蓮宗寺院が三ヶ寺あったのですが、三ヶ寺とも正宗に改宗してしまいました。細島妙国寺、竹ノ上本善寺、財光寺定善寺の三ヶ寺です。三ヶ寺とも示し合わせたかのように、いや実際示し合わせたんでしょうけれども、日蓮宗を離脱し日蓮正宗に改宗してしまった歴史があります。日向市から日蓮宗のお寺がなくなってしまいました。
 その後、細島妙国寺は檀信徒が揉めて、また、近くの日本山妙本寺仏舎利塔の庵主様が住職に直談判をしたりして、一年ほど日蓮正宗に在籍し、すぐに日蓮正宗を離脱致しました。その後、日蓮宗にも戻らず、しばらく単立のままだったのです。竹ノ上本善寺の檀信徒は特に揉めなかったようで、そのまま日蓮正宗に所属しております。財光寺の定善寺は、これは大きなお寺なんですけれども、檀信徒が非常に揉めて、お寺に詰め寄ったんです。ところが、お寺のご住職が、そんなに日蓮正宗が嫌なら日蓮宗に改宗したらいいじゃないか、ということで、檀信徒を門前払いにしてしまったそうです。怒った檀信徒は日蓮宗に改宗したくても、当時日向市内には日蓮宗のお寺がなかったので、離脱する決意をして一寺建立しました。住職を延岡市本東寺からお招きし、寺号を本光寺と申します。定善寺のほぼ隣にございます。
 そういった一連の出来事のなかで、宮崎市上行寺、延岡市本東寺といった旧本門宗寺院が日蓮宗宗務院に救いを求めたのです。宮崎の日蓮宗寺院が創価学会に切り取られている、なんとかしてくれと。創価学会に切り取られた寺院は日向市だけではなく他にも何ヶ寺かあったのです。しかし宗務院は相手にしませんでした。創価学会が何を言ってきても無視するように、ただそれだけです。法論の許可も与えなかったそうです。当時は小樽問答があり、宗務院にしてみれば、学会なんてまともに相手するだけ無駄だと考えていたのでしょう。
 しかしお寺が改宗するということは一大事です。しかも一ヶ寺や二ヶ寺ではありません。特に定善寺は大きなお寺で、重要な地位にあったお寺です。そこが改宗してしまった。これは一大事なのですが、当時、中央の宗務院からしてみたら、地方の些細なことに過ぎなかったのかも知れません。あまりいい対応をしてもらえなかったのです。
 そこで立ち上がったのが、当時の宮崎上行寺住職の工藤海道上人です。この上行寺というお寺は、保田妙本寺の前身に当たるといっても過言ではない古いお寺です。日蓮大聖人は、小湊、清澄からずっと陸路で鎌倉へ来たわけではなく、千葉県保田の港から三浦半島まで海路を利用したと言われています。千葉県側で海の状態を見ながら宿泊していた場所が保田・吉浜と呼ばれる港です。そこに上行寺というお寺があったのです。恐らく、日蓮大聖人に関係するお寺では一番古いお堂ではないかと思いますが、そこを顕彰するためにお堂があったようです。しかし、津波で無くなり随分長い間放置されていたようです。そのお堂を移転再興させて出来たのが、宮崎市の上行寺です。ですから、成立は保田の妙本寺よりは古いはずです。ただ、空白の時代が長いので、今の住職さんでたしか四世か五世ですね。一三三〇年代の開山ですが、復興してからは百数年です。
 上行寺の工藤海道上人は、昭和十六年の三派合同にも反対をしていたほど熱烈な富士門流の方で、身延系の教団は日興上人に対して偏見を持っている、という意識がどうしても拭い切れなかったのではないかと思います。ただ時代の波に押されて合併しただけということもあって、あまり日蓮宗に属していることに意義を感じていなかったことも元々あったのかも知れません。とにかく日蓮宗に籍を置いたままだと、創価学会と法論ができない、つまり、日蓮正宗に奪われたお寺を取り返すことはできないと考えたのです。延岡の本東寺は開山一三三五年ですから、建武の新政が終わった頃、室町幕府が始まるちょっと前ですから、非常に古いお寺です。上行寺、本東寺を始めとする有力寺院が、九ヶ寺ほど引っ張って日蓮宗を離脱して作った宗派が、大日蓮宗です。日蓮正宗からお寺を取り戻すため、日蓮正宗や創価学会に対抗するために大日蓮宗を立宗したのです。大日蓮宗は、宮崎の上行寺を総本山としました。それ以来三十数年、大日蓮宗は独立した宗派だったのです。
 ちなみに、日向市の定善寺は日蓮正宗に改宗した途端、日蓮正宗の本山になりました。日蓮正宗の総本山は大石寺で、四ヶ寺の本山があるんですけれども、そのうちの一ヶ寺が九州にあり、日蓮正宗の九州本山となっています。日向定善寺が日蓮正宗の九州本山になったのです。当時妙国寺は単立、元定善寺檀家が創立した本光寺は大日蓮宗、竹ノ上本善寺は日蓮正宗、つまり、日向市には日蓮宗のお寺が一ヶ寺もない状態がずっと続いたのです。
 妙国寺の先々代の住職、中林智観上人は日蓮正宗に改宗する際に、自分の弟子である黒木海源師を正宗に引っ張りませんでした。当時学生だった海源師は、台東区長昌寺に預けられたのです。保田妙本寺が日蓮宗本山だった頃、執事長をしていた片寄海照上人が、保田の正宗改宗に伴い、保田妙本寺を辞し、長昌寺に勤めていたのです。片寄海照上人と親交のあった上行寺の工藤海道上人の口利きで、海源師は長昌寺に預けられました。黒木海源師は長昌寺にいる間に、当時の長昌寺住職高橋海定上人の弟子になり、身延の信行道場を修了し、日蓮宗僧籍を取得しました。海源師在学中に妙国寺の住職が亡くなり、大学卒業後すぐに妙国寺住職に就任したわけですけれども、妙国寺は日蓮宗寺院ではなく、単立寺院です。日蓮宗東京長昌寺に僧籍を持ったまま、宮崎県日向市妙国寺住職をしていたのです。ですから、妙国寺は日蓮宗のお寺ではないんですけれども、日向市内で日蓮宗のお坊さんが住職をしていたのは妙国寺だけだったんです。
 宮崎県内は九ヶ寺が宗門から離脱していましたので、日蓮宗は非常に少ない状態がずっと続いていました。妙国寺住職の黒木海源師が身延加行所に入行して、再行の時に、檀家さん達が成満会にお迎えにいったのですが、その時、張り出しに妙国寺が無かったわけですね。よく見たら、東京都長昌寺修徒として、自分達のお寺の住職の名前があった。妙国寺の檀家さん達が、これはどういうことなんだと、日蓮宗復帰運動が起こりまして、妙国寺は昭和五十一年に日蓮宗に復帰しました。妙国寺は日蓮宗に復帰したのですが、本光寺は大日蓮宗、定善寺、本善寺は日蓮正宗という状態がずっと続きました。あと本源寺というお寺もあるんですけれども、こちらは本門仏立宗で、比較的新しいお寺です。ほとんど交流がありません。
 妙国寺は細島という港町にあるんですが、細島に大火事がおこり、妙国寺のお檀家さん達が、他の港町や漁村に移住し、移住先に妙国寺の別院ができ、智浄寺、龍雲寺になりました。妙国寺が日蓮正宗に改宗した時に、智浄寺は日蓮宗に残り、龍雲寺は大日蓮宗になりました。しばらくして龍雲寺は大日蓮宗を離脱し、単立になります。大日蓮宗は平成になって、日蓮宗と合同しましたが九ヶ寺全部ではありません。九ヶ寺のうち二ヶ寺は無住職です。実質七ヶ寺の大日蓮宗寺院のうち、二ヶ寺は合同しませんでした。宮崎市の青島にある龍福寺と、都農町の龍雲寺です。龍雲寺は大日蓮宗自体を離脱していたので、日蓮宗に合同しませんでした。その龍雲寺も、作年、吉田憲由上人が入寺し日蓮宗に復帰しました。ですから、青島龍福寺だけが、現在も大日蓮宗ということになります。
 大日蓮宗は宮崎県内のローカルな宗派だったので、弟子育成が難しかったのだと思います。大日蓮宗総本山の上行寺の跡継ぎとして迎え入れたお上人が、日蓮本宗総本山、京都要法寺(興門八本山の一つ)の貫主様のご子息でしたので、京都要法寺と非常に繋がりが強くなり、要法寺で一年ないし二年の随身をすれば大日蓮宗の僧侶として認める、若しくは日蓮宗寺院に、形式上弟子として入り、身延の信行道場を修了すれば大日蓮宗僧侶として認める、など色々な形で弟子育成をしていたとのことです。
 ちなみに妙国寺は、先々代住職中林智観上人が大日蓮宗になるという約束をしていたということで、中林智観上人が遷化した際に本葬儀をしているのは大日蓮宗寺院です。私の師父、黒木海源師は、工藤海道上人から大日蓮宗になれと言われていたそうです。中林智観上人が遷化したとき、海源師はまだ学生でした。本葬儀の大導師は大日蓮宗管長工藤海道上人が勤めたそうです。本葬儀の後、工藤海道上人は妙国寺総代の前で、「海源はまだ若いから住職になる資格がない、だから暫くは私の弟子を妙国寺に住職として置く」と発表したのですが、海源師が「住職の資格って何ですか?」と尋ねた所、身延の信行道場を修了しなきゃ駄目だ、身延の信行道場を出てれば住職の資格がある、と言われたそうです。工藤上人はまさか海源師が信行道場修了しているとは思っていなかったのですが、当時、海源師はすでに東京長昌寺修徒として信行道場を修了しておりましたので、海源師を妙国寺住職として認めざるを得なかったのです。大日蓮宗は大日蓮宗という別の宗教法人ですので、身延の信行道場に行きたくても行けなかったり、京都の要法寺に行けばいいのかというとそれも難しかったり。それで工藤海道上人も、晩年、色々悩みながらも日蓮宗に復帰したのだと思います。事実、上行寺も本東寺もお弟子さん達が学んだのは、谷中学寮、もしくは身延の行学寮で、日蓮宗僧侶として修行しておられました。お弟子さん達は、自分のお寺は日蓮宗という感覚をお持ちだったと思います。そういう若い力の影響もあり、大日蓮宗の管長をされていた工藤海道上人は、英断をもって、日蓮宗に復帰されたのだと思います。宮崎上行寺、延岡本東寺、高岡本永寺、日向本光寺、高鍋妙本寺の五ヶ寺が日蓮宗に復帰し、宮崎の日蓮宗は賑やかになりました。日蓮宗に復帰しても富士門流は富士門流です。今も富士門流の繋がりは非常に強く、今年は興統法縁の全国大会が、延岡の本東寺さんで開催されることになっております。
 以上が、宮崎での大日蓮宗の流れです。
 
 先日自坊に、正宗の学生さんがみえました。渋谷の富士学林の学生さんです。昔は大石寺の学生も立正大学で学んでいたんですけれども、今は、富士学林で学んでいるそうです。その学生さんは佐賀出身の方で、九州には定善寺という本山があることを知り、九州本山定善寺に興味を持ち、学んでいたら、妙国寺も知ったので、妙国寺のお話も聞かせてくださいとのことでした。その学生さんは、日郷上人を呼び捨てにするんです。我々の門祖の日郷上人を呼び捨てにするんです。大石寺では、日郷上人は悪者になっているようです。
 日郷上人という方は、日興上人の弟子の日目上人のお弟子です。私達は、日蓮聖人の真意を継いだのは日興上人、日興上人の真意を継いだのは日目上人、日目上人の真意を継いだのは日郷上人だと考えています。大石寺の住職をしていたのは、日目上人のお弟子さんの日道上人です。日道上人と日郷上人は仲違いを起こしてしまい、日道上人の流れを汲む大石寺の中では、日郷上人は異端呼ばわりをされてしまい、呼び捨てなんです。日郷上人は日目上人の弟子ですが、日興上人に新六に指名されているので、日興上人の弟子でもあります。また日目上人は大聖人在世中、身延で常随給仕されていましたので、大聖人のお弟子のようなものです。つまり日郷上人は非常に大聖人に近い方なのです。日郷上人のお弟子の日叡上人が作ったお寺が妙国寺、定善寺、本東寺です。妙国寺は、日郷上人が開山となっております。実際は、妙国寺は、日郷上人の弟子の日叡上人が改宗させたのですが開山は日郷上人になっています。日叡上人は延岡出身で、真言宗の山伏の頭領でございました。本東寺も定善寺も妙国寺も、元は真言宗のお寺です。日叡上人は改宗前は薩摩法印と呼ばれていて、鎌倉の本国土妙寺の日能上人、この方がどういう存在の方なのか分からないんですが、二人が船の中かどこかで知り合い、非常に法華経に興味をお持ちになられた。そして、法華経を学ぶようになり、鎌倉で学び、そして富士で学び、大石寺の塔頭で学び、大石寺貫主日道上人の弟子になります。ですから日叡上人は大石寺の直系ではあるんですけれども、その頃、仙代問答という方便品読不読論が北山本門寺で起こり、これがゆくゆくは北山、西山、讃岐、と本門寺が分かれていく原因にもなります。これが文献によって、どっちが勝ちでどっちが負けかよく分からない、どっちが方便品を読まなくていいと言ってるのかよく分からないような所があるんですが、その仲裁をしたのが大石寺の日道上人だったのです。日叡上人は最初日仙上人のお弟子さんになって、真言宗から法華宗に改宗しています。仙代問答の時の大石寺の日道上人の仲裁ぶりを見て、日道上人に心酔し師匠を日道上人に変えています。日叡上人は、九州に法華経を広めようと、九州日向の真言道場を法華道場に変えていくのです。日叡上人は向学心に燃え、法華経を学びに大石寺に詣でるのですが、その時の日道上人の講義に異流儀を感じたそうです。どうも違うことを言っている、今までとは違う、と日道上人に疑問を感じ、日道上人と兄弟弟子に当たる日郷上人に相談に行きました。当時日郷上人は保田にお堂を作っておりまして、富士を離れておりました。わざわざ保田まで日郷上人を尋ねて行ったのです。あの日道上人がそんなことを言う筈はないだろうと、日郷上人も大石寺まで行きます。その時に、日郷上人と、日道上人の問答が起こって、相容れなかったらしいのです。
 日郷上人は大石寺と縁を切り、小泉の久遠寺を創立します。大聖人在世中に身延久遠寺を支えていた小泉檀那衆が、興師の身延離山とともに身延を離れ大石寺の檀那衆になり、大石寺を離れ、久遠の宗祖棲神の聖地として、小泉に久遠寺を復興させたのです。つまり、宗祖在世中身延を支えていた檀那衆は、日道上人ではなく日郷上人を正嫡と認めたということではないかと思います。日郷上人は正しい教えが大石寺で曲がってしまわないように、小泉久遠寺、保田妙本寺を創立しました。その時に日叡上人は日道上人を離れて、日郷上人の弟子になりました。宮崎の殆どは、日郷上人や日叡上人の流れですので、大石寺ではなく小泉久遠寺、保田妙本寺の流れの寺院です。日叡上人は、保田で西国唱導師の称号を日郷上人から与えられて、九州に法華経を広めなさいと、日郷上人から直接附属を受け、九州に帰り妙国寺、定善寺、本東寺を九州布教の拠点としたのです。日向の国が、日に向かう国ということで、日向の国を選んだと言われています。
 定善寺は九州最初の法華の霊場となっています。日蓮正宗は、郷師はおかしい、郷師の教えは間違っていると、九州最初のお題目と言ってもそれは本物じゃない、大石寺のお題目が本物なんだ、日蓮正宗以外のお題目は偽者なんだと攻撃をして、さんざん、法論をし掛けてきたわけです。定善寺との間にどんな密約があったのか分かりません、改宗すれば本山にするなどという話があったのかも知れませんが、定善寺は日蓮正宗に改宗してすぐ本山になります。それまでずっと定善寺、妙国寺に伝わっていたお題目は、散々偽者だと言っておきながら、定善寺が日蓮正宗に変わった途端、七〇〇年の歴史があるとか、六五〇年間ずっとお題目を守ってきたお寺だとか、九州根本法華の道場という看板も出ています。そして、開山日郷上人と仰いでいるわけですけれども、今でも、大石寺では日郷上人は良く言われないそうです。しかし、定善寺が改宗した途端、それまでのお題目は恰も正しかったかのような、また、日郷上人がずっと開山であるかのような、本当だったら、それまでのことを否定して改宗させたわけですから、改宗した時が開山の日になって、改宗させたお上人を開祖としなければならないはずです。改宗させる前までは嘘のお題目と言っていたのに、改宗したらお題目六五〇年の伝統とか言ってます。そして日郷上人を宗門では非難しつつ、定善寺では讃えるというような変な現象が起きております。それに気づいた若い学生さんが、話を聞きに来たのです。
 その学生さんは、日郷上人は富士の方なんだし、富士の中での仲違いはしょうがないとして、せめて小泉久遠寺も保田妙本寺のように単立でいて欲しかった、身延や池上とかと一緒になって欲しくなかったと言っていました。さらに、妙国寺も日蓮宗に復帰して欲しくなかった、他の大日蓮宗寺院も大石寺の末寺になれとは言わないまでも、せめて富士門流の意地を通して単立でいて欲しかったと、しみじみ言っておりました。
 妙国寺は、純粋培養の富士門流かというと、そうとも言い切れないところがありまして、京都の六条門流の流れが少し入っています。それを危惧したお上人が中世にいらっしゃいました。細島出身の方で、日要上人といいます。宮崎市高岡に本永寺という寺院があり、元禄年間所化三〇〇人と言われた大寺院です。大学のようなお寺の本永寺は、明治期に廃仏毀釈で残らず壊されました。お曼荼羅も破壊されてしまい、現在、寺院は復興しておりますが宝物は残っていないそうです。本永寺の開山は日朝上人です。有名な行学院日朝上人ではありません。本永寺を整備したのは本永寺二世、細島出身の日要上人です。その後、日要上人は小泉、保田の両山の貫主をされています。戦国時代始め、応仁の乱の頃の方です。この方が、本永寺を大学として形を整えているんですけれども、その時に書物を残しておられます。その書物の中に、郷師が日向の細島港にやってきて、真言宗の山伏で妙国寺住職をしていた薩摩法印を法論の末、法華宗に改宗させたと出てきます。私も師父からその話を聞いていて、それが史実だと思っていました。最近になって、色々と話を聞き、これは史実ではないと知りました。富士や保田の文献には、郷師が日向に行った史実は無いそうです。では要師が何故そういう書物を残したかというと、港町である細島に京都の文化が入ってきて、細島近辺の寺院、妙国寺・定善寺あたりが富士門流を離れ京都六条系に偏っていくのを危惧した日要上人が、細島は郷師と縁が深いんだと強調したかったのだと思います。おそらく教学の偏りとかではなくて人脈の繋がりだと思うんですけれども、富士門流のはずの定善寺、妙国寺が、小泉保田よりも六条の本圀寺に重きを置き始めるのを危惧した日朝上人や日要上人など生粋の富士門流の先師が、そうならないために書物を残したものと思われます。
 しかし、日要上人自体の足跡は、本能寺の日隆上人とも非常に交流があり、また大石寺とも非常に交流があったようです。日要上人自体は、非常に広い視野のお上人でございました。実際、コチコチの富士門流の当時のお坊さんは日要上人を批判しています。
「要師は隆門の誉れなれども興門の恥なり」。隆門の誉れかも知れないけれども、興門の恥だと。富士門流の教学が隆門、日隆上人の教学に取り込まれるのは、日隆門下にしてみたらこれは名誉なことかも知れないけれども、富士門流にしてみれば、日隆門流とくっついていくのは恥なんだ、そういう言葉が残っております。ちなみにこの日要上人という方は、朝廷に三回ほど、法華経じゃないと駄目なんだ、天皇陛下が法華経を信仰していないから世の中が乱れるんだ、というような直訴をしておりまして、綸旨を三回、貴方こそ本物のお坊さんだ、みたいのを頂いているような方です。一回目二回目に院号を賜りながらも辞退し、三回目に御所への出入り自由、菊の御紋の使用許可を頂いたそうです。それで妙国寺の御厨子には菊の御紋があります。
 日要上人は、晩年故郷が懐かしくなって、本山の貫主を辞め、日向の細島に帰り、細島で遷化されました。細島にお墓がございます。その日要上人の弟子に当たる方で、日我上人という方がいます。要師とは五〇年くらい間が空いています。その日我上人が、日蓮本仏論を最初に言ったと言われています。京都要法寺の日辰上人が言い始めたとも言われているんですけれども、京都要法寺の日辰上人は日我上人の影響で、日蓮本仏論を言い始めたのではないかと思います。その日我上人も宮崎出身の方で、非常に宮崎と縁が深いんです。保田、小泉の貫主をされて、特に保田は、南総の里見家がバックアップをしていたんですけど、里見家と北条家のいざこざに巻き込まれたりして、戦国時代の非常に困難な世の中を切り抜けた方でございます。先日、うちの総代さんのお母様の枕経に行きましたら、古いお曼荼羅が掛かっておりました。その古いお曼荼羅を、よく見たところ、永禄六年と書いてありました。そして、「日我」と書いてあるんです。間違いなく日我上人の直筆で、横には本永寺と書かれておりました。本永寺というのは前述した大学を兼ねたお寺で、学生所化が三〇〇人くらい居たお寺です。廃仏毀釈の頃に、全部燃やされたはずだったんですけれども、隠し持っていた人物がいたのでしょう。その総代さんの自宅は島津家の宿泊所だったのです。そこにある我師の御本尊は、島津家の家臣の中で壊すように命令を受けていても壊せずに、持っていた人物が持ち出して、細島の旧家に預けたんじゃなかろうかと思います。妙国寺に預けても、妙国寺も廃仏毀釈で壊されるかも知れないということで総代宅に預けたのですね。そこに預けた御本尊が一五〇年経って出てきたわけです。本永寺の今のご住職さんも非常に感激されておりました。これは元々本永寺の宝物なのでお返ししますよ、とはなかなか言ってもらえなくて、今もその総代さんの所にあります。
 日蓮本佛論の影響で、妙国寺の祖師像には白毫があります。日蓮本佛論といっても釈尊を否定しているわけではありません。宗祖を本化上行菩薩と考えています。本化上行菩薩の師匠は久遠実成の釈尊です。師弟不二なので、釈尊が本仏ならば弟子の上行菩薩も本仏だという考えです。釈尊本佛論を否定してしまうと、日蓮本佛論も成り立ちません。
 話が色々脱線してしまいまして申し訳ございません。私の稚拙な話術では伝わりづらい部分も多々あったことと存じます。本日はありがとうございました。

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