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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

宗教者が平和運動を行う意味—グローバル化と善悪の不透明化—

 

宗教者が平和運動を行う意味
 —グローバル化と善悪の不透明化—
 
宮 台 真 司
 
                     目次
第一部「宗教とは何か」
      【社会学という学問の三つの伝統】
      【社会システム理論からする宗教の機能的定義】
      【かつて私がオウム真理教について語ったこと】
第二部「宗教の両義性」
      【教義の深さ・狡猾な戦略・意図せざる結果の、三位一体】
      【アメリカの宗教的原理主義と二元論】
      【アメリカ的な社会批判が覆い隠すもの】
第三部「善行の推奨がもたらす悪」
      【グローバル化の地獄または「合成の誤謬」】
      【「沖縄の美風」が帰結する醜悪なるもの】
      【不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度】
第四部「宗教的構えとソーシャル・デザインとの関係」
      【コミットメントの不可欠性、または主知主義から主意主義へ】
      【宗教的世直しとソーシャル・デザインとの関係】
      【社会学者か宗教研究からますます遠ざかる理由】
 
第一部「宗教とは何か」
【社会学という学問の三つの伝統】
 初めまして、宮台真司と申します。ご紹介に与りました通り社会学者です。元々は数理や理論の研究で博士号を取りました。数理や理論と言っても、国家権力の構造を形式的に記述するとどうなるかといったことですから、政治学に近い、かなり生臭い領域の研究です。
 ところが私は昭和三十四年生まれ。いわゆる新人類世代です。ある種、軽薄短小な七〜八十年時代の文化を存分に浴びてきていて、若者のサブカルチャーについても元々造詣が深い。だから、引き続く研究では戦後サブカルチャー史を扱いました。
 そうしたところから、単なるサブカルチャーを超えて、若い人達の買売春や暴力や薬をめぐる生態をフィールドワークするようなりました。といってもセンセーショナリズムが目的でなく、現代の日本社会がどんな在り方をしているのかを探るリトマス試験紙でした。
 だから私は「現場主義批判」と呼んでいましたが、「こんなに凄い現場がある」という話じゃなく、現場的な「現象」の記述のみならず、システム理論的な「背景」を探り、問題があれば「処方箋」を出すという形で、全体性と実践性を失わないようにしてきました。
 社会学は、十九世紀末のフランス革命から十九世紀半ばにかけて、理想に燃えた革命のギロチン政治やナポレオン帝政やボナパルティズムといった意図せざる顛末を反省する中から、個人が社会を見通せることを前提とした社会契約思想を批判する学問として、出発しました。
 十九世紀末から二〇世紀初頭にかけて「近代社会学の父」と呼ばれるエミール・デュルケーム、ゲオルク・ジンメル、マックス・ウェーバーという巨人が活躍しました。それぞれ現代まで続く社会学の主要な三本の流れを作ってきています。それぞれ簡単に説明します。
 デュルケームは、「社会的事実」という有名な概念に代表されるように、「人間が作ったものであるにもかかわらず人間にはどうにもできないもの」に注目しました。彼はそうしたものの典型として、『宗教生活の原初形態』という書物で、宗教や神様を挙げております。
 本日は宗教者の方々がお集まりなので、人間が作ったものという言い方に引っ掛かるでしょうが、例えば神という概念にしても、これは人間が作ったものに違いないが、一回作られてしまえば入の手に負えない、何かしようとすると冒涜になってしまう、というわけです。
 ご紹介にあったとおり、私はグローバリゼーション研究もしていますが、似た契機があります。後で詳述しますが、どの人達も、良かれと思って自分や周囲が幸いになるように行動した結果、「合成の誤謬」ゆえに、全体としては地獄がもたらされることがあり得るのです。
 ここで一般の常識とデュルケームの議論とが違ってくる。自然と人為という二項図式があります。人為というと、人がもたらしたものだから人が何とかできると思われがちです。ところが彼は、人為であっても人がどうにもできないものに注目し、社会的事実と呼びました。
 それとは別にウェーバーは、「正統性(レジテマシー)」という概念に代表されるように、「人々の自発的な服従が、秩序を織り上げる現象」に注目しました。通念としては、「自由が増えれば秩序が減る」というゼロサム的関係が想像されるのですが、これを否定しました。
 正統性は正当性(ジャスティファイアビリティ)とは違います。正当性は内容的に正しいことです。正統性は自発的服従契機です。内容的に正しい決定も自発的に従われやすいので、正当性も正統性に含まれます。でも特に重要なのは、正統性が正当性を超えていることです。
 人は内容が正しいと信じているからでなく、「伝統だから従う」とか「凄い人が言うことだから従う」とか「合法的決定だから従う」とかがあり得ます。ウェーバーはそれぞれ、伝統的支配・カリスマ的支配・合法的支配、と類型化しました。自発的服従契機の類型ですね。
 また、ジンメルは、「社会化の形式」という概念に代表されるように、社会的なものの機軸が、二人関係ではなく三人関係にあることを喝破しました。例えば人は「みんなの圧力」に拘束されがちですが、二人関係と違って三人関係で初めて「みんな」の概念が生まれます。
 彼の考えは、多くの社会学者や心理学者に影響を与えました。例えばジョージ・ハーバード・ミードは、子供が、「みんな」がどう書動するのかを想像できるように成長することが、大人になることだと考えました。こうした発想はフロイトや後のラカンとも共通しています。
 ちなみに、社会学と精神医学の概念は密接に関係します。「みんな」がどう言動するのかについての確固とした期待の領域を、ラカンなら「象徴界」と言うでしょう。相手がどう言動するのかについてのその都度の不定形な期待の領域を、同じく「想像界」と言うでしょう。
 ラカンにおいても、「象徴界」は社会に関係し、「想像界」は双対的関係に関係するとされていますが、これは、ジンメルが、二人関係ではなく三人関係だけを、社会を織りなす原型的な要素だと見做すことと、ちょうど並行するとらえ方だと言うことができるでしょう。
 今日の私の話も、この三者の伝統に棹さす話になるでしょう。自己紹介を続けると、私の研究は、著作の順序では、数理から出発し、サブカルチャー研究とフィールドワークを経て、宗教、犯罪、教育、国家と展開するけど、数理をやる前は宗教学を独学していたんですね。
 吉本隆明の影響もあって、八木誠一や田川建三を経て、ルドルフ・カール・ブルトマンの実存神学を研究していました。そういう経緯で、オウム真理教の事件があった直後に一冊、私の読者が自殺したことを調べた本を出した直後に一冊、計二冊の宗教関連書を出しました。
 
【社会システム理論からする宗教の機能的定義】
 社会学者が宗教を扱う手付きは、マルクス主義者が宗教を扱う仕方—宗教は阿片云云—とは少し違います。ちなみに阿片だとは、苦しむ者たちが宗教によって鎮痛された結果、革命から遠ざけられてしまうという意味で、麻薬だから悪いという意味じゃありません。
 むしろ、宗教が本質的問題を覆い隠す鎮痛剤だから排除せよといった物言いが無効なのは、なぜか。人が宗教を作り出したことは間違いないのに—現に時代や文化によって宗教は異なりますね—人にとってどうにもならない性質を帯びるのはなぜか。それがまず焦点です。
 この焦点はデュルケーム的ですね、もう一つ焦点があります。宗教が鎮痛剤として機能するにせよ何にせよ、宗教なくして社会が回らないことを証明しようとすること。それが第二の焦点です。これは正統性論(自発的服従論)に直結するので、ウェーバー的間題設定です。
 オウム真理教をはじめとする新々宗教やカルト宗教が引き起こす社会問題が喧伝される昨今であればこそ、マルクス主義的な手付きでなく、社会学的手付きが重要になるというふうに、私は考えています。では、私の立場から宗教がどう定義されるのかを、説明してみます。
 ありとあらゆる全体を〈世界〉と呼びましょう。人間は生存時間も意識容量も限定されているので、〈世界〉の全体性を知りません。だから皆さんが主観的にどんなに合理的に振舞っても、どうにもならない不条理な問題に、思いもかけず出会わないでは済まないのですね。
 等身大レベルでは、学問成就に繋がる出会いにせよ、結婚に繋がる出会いにせよ、誰と出会えるかを自分で操縦できません。せいぜい出会ってから後にその人間関係をどうするかについて自発性を発揮できるだけです。出会いの偶然性は圧倒的で、それが人生を左右します。
 同じく等身大レベルでは不慮の事故や病があります。誰よりも健康に気を使っていたにもかかわらず誰よりも早く癌で死んだりするわけです。誰よりも用心深く運転していた人が、対向車の居眠り運転で正面衝突死したりします。どう見ても当人の責任ではない災難です。
 可能なコミュニケーションの全体を〈社会〉と呼びます。我々の個々の〕コミュニケーションは不透明な非自然的前提に満ちています。この不透明な非自然的前提は可能なコミュニケーションの全体、即ち〈社会〉によって与えられます。我々は〈社会〉の全体性も知りません。
 我々にとって〈世界〉も〈社会〉も偶発的です。我々は〈世界〉の中で〈社会〉の中で様々な偶発事に出会います。我々はその偶発性を制御しようとします。一生懸命に健康に気を使えば病気にならないんではないか、一生懸命勉強をすれば合格するんではないか、とね。
 宗教的行為では、信心深くお勤めすれば救われるのではないか、といった具合に。結果のコントロールを目的として、目的合理的な手段の選択に努力するわけです。むろんそれで制御できる結果もあります。現に我々の行為の多くはこうした手段性を意識したものですよね。
 でも、偶然の出会いとか不慮の事故や病のように、そうした操縦がハナから無理なものが沢山あるでしょう。むしろ人生の重大事の多くはそうしたものです。私はこうしたものを「前提を欠いた偶発性」と呼びます。前提の操縦によってどうにもならないものという意味です。
 別の言い方をすれば、「不合格になったのは勉強しなかったからだ」という具合に前提供給によって納得することが、不可能であることを「前提を欠いた偶発性」と言います。私の考えでは、「前提を欠いた偶発性」を受け入れ可能にする機能をもつ意味的装置が宗教です。
 先の例では「前提を欠いた偶発性」は「個人にとっての出来事」でした。でも宗教のオリジンを遡ってみると、疫病や飢饉や天変地異や気の触れた人間の出現といった具合に、人々を驚倒させる「共同体にとっての出来事」が、専ら「前提を欠いた偶発性」を構成しました。
 そうした「共同体にとってどうにもならない現象」を無書化するため、即ち、自分たちの日常の生活を脅かさない枠内へと馴致(テイム)するために、宗教が始まったのだという風に私は考えています。だから初期の宗教は、呪術的な儀式と切っても切れないものでした。
 儀式は元々何かを実現するためのマジナイというより、問題のある事柄を日常的因果律の外側に隔離する「聖化」が最重要の機能でした。「聖化」の儀式の失敗—言葉を間違えたとか別のことを考えていた奴がいたとか—ゆえに更なる災厄が起こると理解されたのです。
 このように、「前提を欠いた偶発性」が「共同体にとっての出来事」という形で現れ、「共同体の儀式」によって無害化しようとするのが、最も古い「原初的宗教」です。ところが、これに続く「古代的宗教」では、馴致の対象は「出来事」ではなく「枠組」になります。
 どういうことか。なぜあの〈世界〉でなくこの〈世界〉があるのでしょうか。本来〈世界〉はどうとでもあり得たはずだというのは、「前提を欠いた偶発性」の中でも大ボスみたいなものでして、これに対処するために「神が〈世界〉を作った」とする創世譚があります。
 要は、他であっても良いのにこの〈世界〉が存在するのは神の意志によるのだ、と前提を欠いた偶発性」の中で最も重大なものを、神の主意に帰属させているわけです。そして「この〈世界〉」というとき、人は出来事」よりも掟や法則や摂理など「枠組」をさすのです。
 スコラ神学で繰り返し話題になる弁神論もそうですね。神が全能であるならこの〈世界〉に悪が存在するのはなぜか。合理的な意味のある「神の計画」か(主知主義)。神は端的に何でも意思し得るのか(主意主義)。これも「出来事」でなく「枠組」を問題にしています。
 例が高尚すぎるので、もう少しブレイクダウンすると、なぜこの〈世界〉の物理法則はE=MC2(二乗)であってE=MC3(三乗)でないのか。なぜこの〈社会〉が、そうした法や戒律を持っていて、別な法や戒律ではないのか。なぜ私が彼でなく、彼が私でないのか…。
 このように「出来事」も「どうにもならない偶発性」を構成しますが、「枠組」も「どうにもならない偶発性」を構成します。こうした「枠組」に関わる「前提を欠いた偶発性」を無害化するために、「枠組」は神の意志によるのだ、と無害化するのが「古代的宗教」です。
 すなわち「前提を欠いた偶発性」が「共同体にとっての枠組」という形で現れ、「神の意志」という観念によって無害化しようとするのが「古代的宗教」です。ユダヤ教を含めて古代セム族系の宗教が典型ですが、「原初的宗教」よりも複雑な社会で展開するものですね。
 この段階では個別の期待外れな「出来事」に共同体がパニックを起こすことはありません。社会は「善/悪」 「美/醜」といった二元図式を持ち、個別の期待外れは「悪」や「醜」という形で予め用意された「否定の図式」に回収されます。だから社会が複雑になれるのです。
 問題は、なぜ他でなくその「否定の図式」なのかという「どうにもならなさ」です。即ち、ここでは「前提を欠いた偶発性」が「出来事」から「枠組」に移転し、その馴致の仕方が、共同体的な〈儀式化〉から、神の意志の共同体的な重要という〈戒律化〉に変じています。
 この「戒律化」段階の「古代的宗教」になると、ただ一人の神の意志に全てが帰属されるようになるので、神やその意志の存在資格を巡る「神学」が生じ、教義学的変異から様々な異端が分岐するようになります。唯一絶対神を戴く「古代的宗教」の宿命みたいなものです。
 スコラ神学では、〈世界〉を作る神が〈世界〉の中にいるのか外にいるのかが、繰り返し議論されました。〈世界〉はありとあらゆる全体だから神も含みます。でも〈世界〉の中に神がいたらく世界〉を作れません。ならば神は〈世界〉の外にいることになります。
 でも〈世界〉の外にいるなら〈世界〉の定義に反するし、その外も含めて拡張された〈世界〉が思い描けて、なぜあの神でなくその神なのかという偶発性が新たに問題になります。古代ユダヤ教でも、ヤーウェを〈世界〉の内に登録する所から、グノーシズムが生まれます。
 神が〈世界〉の外にいるとすると—難しい言い方では唯一神が超越神だとすると —我々は〈世界〉の内しか生きられないので、神は端的に我々とは無関連になるはずです。祈りをしても通じるはずがありません。だって神は〈世界〉の外にいるのですからね。
 こうした理解から、「どんなに善行を積んでも神は応えない」という「超越神のコミュニケーション不可能性」の表象が生まれ、ユダヤ教の「原罪」の観念や、カルヴァン的なキリスト教の「予定説」の観念や「召命」の観念につながったことは、ご存じのとおりでしょう。
 さて古代ユダヤ教からキリスト教が分岐しますが、「中世的宗教」への移行を意味します。「枠組」が「前提を欠いた偶発性」を構成することは変わりませんが、「枠組」が共同体にとってのものだという観念から、信仰する個人にとってのものだという観念にシフトします。
 背景には古代イスラエル社会の複雑化があります。階層分化したイスラエルで、戒律に従えるのは金持ちや権力者ばかり。イエスは、戒律に従った者だけが救われるとすれば、初めから救われた者が救われるというトートロジーで、神はこんな不合理を許容しないとします。
 マルコ福音書が主題化するマグダラのマリアのエピソードが象徴的ですが、「たとえ戒律に従って姦淫せずとも目で姦淫する者は救われない」という具合に戒律の意味を喩的にズラし、「戒律を守ったからどうだと言うんだ」という風に「行為の型」に照準しなくなります。
 ここには二つの意味があります。一つは、吉本隆明が「喩としてのマルコ伝」で書いたように、共同体のルールに従っているか否かから、個人ごとに異なる内面へと、照準点をシフトしたことです。これによってキリスト教は、共同体宗教から個人宗教へと進化しました。
 もう一つは、ブルトマンの影響が強い八木誠一が強調するところですが、「目で姦淫しない」ことは不可能ですから、救済の条件を不可能なものへとシフトしだということです。可能な行為をしても救われないという宣言によって「信仰による救済」へと道が開かれました。
 「中世的宗教」では、「枠組のどうにもならなさ」が共同体にとってのものから個人にとってのものへと〈個人化〉すると同時に、この「どうにもならなさ」即ち「前提を欠いた偶発性」を受容可能なものに変異させる契機が〈戒律化〉からく信仰化〉へとシフトします。
 今日でもキリスト教が続いていますが、「中世的宗教」ではなくなっています。「どうにもならなさ」が個人にとってのものであらざるを得ないという〈個人化〉は変わりませんが、「どうにもならなさ」を摂理や法といった「枠組」に見出すことはなくなったからです。
 「なぜこの〈世界〉はこうなのか」という問題設定が難しくなり、再び「なぜこうした目に遭うのか」という具合に「出来事」に照準した問題設定へと回帰しているのです。世俗の中でハンドリングできる事柄が増えるという「世俗化」が背景にあるだろうと思います。
 つまり「枠組」が自分を縛りつけているという観念が、個人に帰属される選択が増えることで薄れたのです。でも「原初的宗教」が「共同体にとっての出来事」を主題化したのとは違って、あくまで「個人にとっての出来事」つまり個人を襲う理不尽を主題化しています。
 このように、「前提を欠いた偶発性」が個人にとってのものだという性質は「中世的宗教」と変わらないものの、 「枠組」よりも専ら出来事」が—不慮の事故や病気が—「どうにもならなさ」を構成するようになっています。これを私は「現代的宗教」と呼ぶのです。
 「原初的宗教」の馴致様式は〈儀式化〉で、「古代的宗教」の馴致様式は〈戒律化〉で、「中世的宗教」の馴致様式は〈信仰化〉だと言いましたが、世俗化—宗教的なものと無関連に社会が回ること—が進んだ段階での「現代的宗教」には一律の馴致様式はありません。
 一方に、「原初的宗教」同様に個別の「出来事」をその都度無書化すべく、〈儀式化〉的な馴致様式に関心を寄せる〈浮遊系〉があります。他方に、「なぜ〈世界〉はこうなのか」ならざる「なぜ自分はこうなのか」という具合に局域的な「枠組」に照準する人々もいます。
 こうした人々には更に、自分の不遇の原因は「それを苦痛だと感じる自己」にあるとして自己修養による体験枠組の変容を目指す〈修養系〉と、全ては〈世界〉に由来する宿命だから宿命やそれに基づく使命を理解することが救いにつながるとする〈黙示録系〉があります。
 〈浮遊系〉〈修養系〉〈黙示録系〉の三分類は私たちが反復してきた若者対象の統計調査から浮かび上がってきた類型です。世俗化した今日では、こうした類型が、所属教団の教義というよりも、人格類型—体験傾向や行為傾向の類型—に極めて強く結びついています。
 こうした諸個人を相手にマーケティングせざるを得ない今日では、キリスト教や仏教やイスラム教の一部も含めてたいていの宗教教団が〈浮遊系〉〈修養系〉〈黙示録系〉の要求に応えられるように馴致様式をキメラ化させていることが、フィールドワークで分かるのです。
 こうした分析を宗教進化論と言います。私は社会学者として宗教を捉えています。宗教も神様も人が作ったものですから、社会の形が変われば、宗教も一定のパターンで変わります。「前提を欠いた偶発性」「どうにもならなさ」の現れ方と馴致様式の組合せが変わるのです。
 でも、宗教は人が作ったものだとはいえ、デュルケーム的に言えば「社会的事実としての集合表象」です。歴史的な社会の形に対応した宗教的形式から、個人が自由に逃れられるということはありません。個人にとってはそれこそ「どうにもなりません」。お分かりですね。
 社会が変化すれば、少し前の社会で問題になった「どうにもならなさ」とは別の新しいタイプの「どうにもならなさ」が出てくるわけです。加えて、古いタイプの「どうにもならなさ」の馴致に役立った装置が用済みになって新しい装置が要求されることもあり得るのです。
 
【かつて私がオウム真理教について語ったこと】
 今から七年前ですが、二○○○年には『サイファ』という本を出しました。暗号という意味です。九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件の直後に出版した『終わりなき日常を生きろ』の続編です。『サイファ』では今申し上げた問題意識をもっと深く展開しました。
 そもそも宗教が何故に社会システムにとって不可欠なのか。なぜ宗教なしの社会システムが (ごく短期は例外として)あり得ないのか。この問いに、「前提を欠いた偶発性」と外延的に包括する「〈世界〉の根源的未規定性」という概念を用いて深いレベルで回答しました。
 そこでは例えば「〈世界〉はなぜ存在するのか」という問いや、「なぜ私が彼で、彼が私でないのか」という問いが、回答の仕方にかかわらず「〈世界〉の根源的未規定性」への扉になり得ることを切り口にしました。前者の問いについては先ほど少し触れましたよね。
 より一般的にいえば、神を持ち出すか否かにかかわらず 「〈世界〉はなぜ存在するのか」という問いに対する回答が存在するなら—〈世界〉の内にあるなら—、その回答をも含んだ〈世界〉が存在する理由を問うているのですから、論理的には直ちに背理になります。
 回答が〈世界〉の外にある—回答が存在しない—場合でも、「〈世界〉はなぜ存在するのか」という問いは誰でも意味が分かります。このことから〈世界〉には完全に有意味なのに回答不可能な問いがあることが分かります。つまり〈世界〉は根源的に未規定なのです。
 後者の問いは、固有名や固定指示子(私とか彼とかコレとかアレとか)とは何かに直結するもので、ソール・A・クリプキが徹底討究しました。彼の答えは、「なぜ私が彼で、彼で私でないのか」という間いは、「なぜ〈世界〉があるのか」という間いと完全に重なります。
 なぜなら「もし君が宮台だったら」という反実仮想(可能世界の想像)が有意味であるには、どんな可能世界においても宮台真司が指すものが同一である必要があるからです。これは可能世界を含めたありとあらゆる全体としての〈世界〉が一つしかないことに対応します。
 ちなみに〈世界〉が一つしかないのは当たり前です。もし二つあったら、その二つをまとめたものが、ありとあらゆる全体としての〈世界〉になるからです。「あくまでその意味で」〈世界〉が一つしかないということと、固有名や固定指示子の同一性とが、等価なのですね。
 『サイファ』では、「前提を欠いた偶発性」を受け入れ可能にする宗教という装置の本質を、“「〈世界〉の根源的未規定性」を特異点に集約することで〈世界〉の残余領域を規定可能にする営み”として捉えました。その上でこの特異点を「サイファ」と呼んだのです。
 例えば超越神の概念が典型です。超越神は、〈世界〉の内にあると言っても外にあると言っても背理を来たす特殊な形象です。だから名前がなかったり偶像化が禁止されたりします。でもこの超越神が「ある」とすることで、数多の未規定性をそこに帰属させられるわけです。
 「サイファ」は、それ自体ヤーウェやアッラーがそうであるように明確に指示できますが、それは「〈世界〉の根源的未規定性」をエンコードして規定可能な指示対象にしただけです。デコードすれば直ちに「〈世界〉の根源的未規定性」に通じます。だから暗号と呼びました。
 こうして社会システム理論の立場から宗教を規定することでカルトを含めた全ての宗教を機能主義的に比較可能化できます。これはある種の相対化ですが、異なる宗教間の対話を可能にするツールになるし、カルトの危険ゆえに宗教全体を否定する暴挙からも逃れられます。
 というとカルトに甘く感じるかもしれませんが、逆に、虚仮威しのカルトと、教義学的に深い宗教とを、物差し上に並べて区別するのにも役立ちます。例えばユングという精神分析学者、神秘体験(超常体験)の存在と、神秘現象(超常現象)の存在とを、峻別しています。
 彼の峻別を『終わりなき日常を生きろ』でも踏襲しました。神秘体験の存在は神秘現象の存在を少しも意味しません。誰でも少し訓練すれば一私も訓練しましたが一神秘体験の類を他人に簡単に与えられます。これはナンパツールであっても、宗教とは全く無関連です。
 ところが『終わりなき日常を生きろ』で述べたように、人は「神秘体験というフック」に簡単に引っ掛かって相手をグルだと見做してしまいます。先日お話しする機会があった上祐史裕さんも、それがきっかけになってオウム真理教に深くはまり込んだと告白していました。
 社会システム理論からする宗教研究は、宗教を鎮痛剤視して否定するマルクス主義と違い、宗教を否定するのでなく、むしろ宗教の必然性を論理的に証明します。但し、宗教を思考停止的に肯定せず、「〈世界〉の根源的未規定性」についての思考の深さを計測するのですね。
 ちなみに、公安警察に頼まれてオウム信者の脱洗脳プログラムに関わっていた苫米地英人さんは、私と同世代で知り合いでもありますが、『洗脳原論』という書物でアンカーとトリガーという概念を使っています。神経言語プログラミング(NLP)が体系化した概念ですね。
 苫米地さんもNLPの訓練を受けた方ですが、実は私も受けています。簡単に言えば催眠誘導の決定版的な方法論で、他人に使えば洗脳になるし、自分に使えば無意識まで使った自己制御になります。私も自分にアンカーを幾つか埋め込んで、トリガーと結合させています。
 具体的には、右手の親指に「意思」を、人差し指に「滑稽」を、中指に「中毒(酩酊)」を、薬指に「愛」を、小指に「脱力」を埋め込んで、左手で触った瞬間にモードが切り替わるようになっています。埋め込まれたものがアンカーで、切替えスイッチがトリガーです。
 実は苫米地さんや私は八十年代には「新人類世代」、七十年代には『シラケ世代」と呼ばれました。私の世代の特徴ですが、七十年代後半のポスト・カウンターカルチャーの影響を深く受けています。マンコンや、バックパッカーや、自己啓発セミナーのブームも、その一環です。
 島田裕巳氏のように「中沢新一の『虹の階梯』の影響でオウム真理教がブームになった」と言う前に、『終わりなき日常を生きろ』で詳述した「ポストモダン社会における未来の消滅」と、六十年代の「祭り」に後続したポスト・カウンターカルチャーを踏まえるべきです。
 ポスト・カウンターカルチャーの象徴がドラツクレス・ハイ・ムーブメントです。ドラッグカルチャーの挫折から、LSDを使わずにオルタナティブな世界感覚にシフトするための方法が模索され、そこから後のバックパッカーにつながるサバイバル・ブームが生まれました。
 私が『サブカルチャー神話解体』で詳述したカタログ文化もそうです。サバイバル・ブームとも結びついた米国の『Made in USA Catalog』がルーツですが、カタログを手に街を歩けば、のっぺらぼーな日常とは異なるオルタナティブな街の相貌が姿を現すというわけです。
 後のシアトルのシリコン・バレー隆盛につながるマイコン・ブームも、私らよりも少し上の世代から始まったポスト・カウンターカルチャーでした。いちばん象徴的なのが、東海岸のIBM的なものに対抗するものとしての、西海岸のアップルコンピューターということでしょう。
 日本でこれに平行していたのが、大規模なものとしては七十年代半ばから後半にかけての「アングラ的なもの」だというのが私の分析です。「ここではないどこか」を現実に求める政治運動の挫折から、「ここではないどこか」を知覚や感覚に求める文化運動にシフトしました。
 米国に話を戻すと、ベトナム帰還兵のメンタル・メディケーション・プログラムに国策的にお金が使われたことから、エンカウンター療法や、ゲシュタルト療法や、交流分析などが隆盛となり、これらを組み合わせた研修プログラムで儲ける企業が現れるようになります。
 日本で自己啓発セミナーと呼ばれるのがそれです。私の周囲でも、カウンターカルチャー的なインドブームから、バグワン・シュリ・ラジニーシのカルトに横滑りし、そこから更に自己啓発セミナーに横滑り連中が大勢いました。まさにポスト・カウンターカルチャーです。
 苫米地英人さんも私も、ポスト・カウンターカルチャーの大きな流れの中で、マインド・コントロールに興味を持つようになりました。実際に八十年代前半、苦光地さんは脳機能科学の研究を、私はマインド・コントロールの一環としてマーケティングの仕事をやりました。
 自己啓発セミナーでも、催眠誘導の定番である変成意識化を使います。ステップ・バイ・ステップで脳にかかってる鍵を順番に外していくと変成意識(トランス)に陥ります。これは何でも受け入れてしまう精神状態です。NLPであればここでアンカーを埋め込むのです。
 あるいは新興宗教の一部であれば、そこにもう一つステップを加えることで、簡単に「神の声」を体験させられます。こうしたメソッドは各国で開発されましたが、アメリカで整理され、自己啓発セミナーに取り入れられました。当時の新々宗教の多くも採用していました。
 神秘体験を提供することで、相手をグルだと信じさせたり、神の存在を信じさせたりするためです。お分かりのように、ここには神秘体験がありますが、神秘現象とは何の関係もありません。だからユングは、UFOの分析に先立って超常体験と超常現象を区別したのです。
 ユングはUFOが存在するかどうかに関心がありません。ただ一つ確実なのは、人々がUFOを体験してしまうという事実です。この体験頻度は、時代によって、同時代でも社会によって変わります。すると超常体験を心理的な現象として取り扱える可能性が見えてきます。
 『眩暈系』を自称する私は小さい頃から数多くの神秘体験を経験してきました。柳田国男のいう「神隠しに遭いやすい子」でした。でも職業上、神秘現象の有無について発言したことはありません。私はあくまで社会的現象としてだけ、UFO体験の分布を扱ってきました。
 これでだいたい、社会学者というものが宗教にどういう風に関わるのか、私なら私が宗教とに公式的にどんなスタンスを取るのか、お分かりいただけたのではないかと思います。もう一つ別の筋から、私が社会学者として宗教に興味を持つ理由をお話ししてみましょう。
 
第二部「宗教の両義性」
 
【教義の深さ・狡猾な戦略・意図せざる結果の、三位一体】
 なぜキリスト教がこれほど世界中に拡がったかのでしょうか。結論を言えばパウロの布教戦路が勝利した結果です。具体的にはパウロが洗練した隣人愛の教義のおかげです。隣人愛の教義には、不可能性の推奨という側面と、教団組織の防衛という側面と、二つあるのです。
 「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。塞翁にとって馬が逃げたことが災難に思えたが、次のステージでは僥倖に思え、更に次のステージに入るとやっぱり災難に思え、最終ステージではやはり僥倖だったという話。ものの良し悪しが人智を越えることの譬えですね。
 これは「終わりよければすべてよし」とも言い替えられます。でも大切なことは、どこが終わりであるのか、何が終わりであるなのかが、我々にはよく分からないということです。これは「歴史の終着点から振り返る」というへーゲル的発想が、嘘臭い部分でもあります。
 実はパウロの布教戦略の勝利も「人間万事塞翁が馬」現象の一つです。パウロは元々ローマ帝国に仕えるユダヤ人で、異教徒であるキリスト教狩りの先兵だったわけですけれども、パウロの回心と言われる出来事をきっかけにして、イエスの教説に従うようになるのですね。
 初期のローマ帝国ではキリスト教は異端として弾圧をされていました。そこでのパウロの布教戦略は、私の考えでは、社会的に弾圧される宗教が生き延びるために使う典型的なものでした。でも現実には、ローマ教皇庁以外にはちゃんと意識して用いてこなかった方法です。
 隣人愛はラテン語でカリタスと言い、英語のチャリティの語源です。「家族を捨てよ、故郷を捨てよ」や「汝の敵を愛せよ」という福音書の言葉からパウロが抽出したものです。近しいものを愛する自然感情ではなく、無関係な者を愛するという不可能な愛が、隣人愛です。
 家族が大切だから家族のために何かする。故郷が大切だから故郷のために何かする。仲間が大切だから仲間のために何かをする。そうした振る舞いはさして気高くないということです。むしろ自ら石つぶてを投げる者、自らを突き転ばそうとする者を愛することが大切だと。
 これがイエスが示した愛だとされます。イエスを殺そうとした人々も含めた数多の人々の原罪を贖うべく敢えて十字架に架かったイエスが体現していたと。イエスを神の子だと信じるなら、そうしたありそうもない愛の存在を信じねばならず実践できなければならない…。
 これは非常に良くできた教義です。どこがでしょうか。多くの宗教は社会の中で迫害されます。理由は反社会的だからです。例えば統治権力が国民に出すメッセージと正反対のメッセージを出す。統治権力を支える正統性をなきものにするが如き新たなメッセージを出す。
 当然統治権力にとっては目障りです。だから統治権力が宗教を迫害するわけです。統治権力だけではない。日本社会でも「家族を大切にしよう」という道徳が語られます。そういう人々にとって「家族を愛するのはエゴだ」というメッセージは道徳を蔑ろにするものです、
 危険なメッセージを所有しつつ、それでも迫害されないためにはどうすればいいか。答えは、教団の人々が教団の外の人々よりも社会的であることを実践として示すこと。例えば困った人を助けることは社会で良さこととされます。それを誰よりも真摯に実践するのです。
 社会があるべきものとして期待している行為を、非キリスト教徒よりもキリスト教徒のほうが実践できることを現実に見せる。社会的存在だという証拠を積み重ねて、キリスト教が反社会的ではないことを人々に納得させる。それがパウロの布教戦略だったということです。
 隣人愛の教義は、一方では不可能な愛を実践せよと推奨する気高いもので、不可能性の推奨によって罪の意識と宗教的信仰を高める力がありますが、他方で、この隣人愛の教義が社会的実践の推奨を通じてキリスト教を今日まで生き延びさせてきたのだと考えられるのです。
 ユダヤ教にもイスラム教にも仏教にも宣教概念はありません。キリスト教だけが組織的に宣教してきました。なぜ童教師が未開の地域に行って文化的文物を受け渡すのか。とりわけ西インド(中南米)では宣教師が開発の先兵として機能してきた、という批判さえあります。
 まず宣教師が来て共同体の外に目を開かされ、次に宣教師が持ち込んだ近代的道具に目を見開かされ、そうした近代的道具を得るには貨幣が必要だと学び、貨幣を獲得するために共同体の外に産品を売ったり労働力を提供したりする営みに怒濤のように乗り出すという具合。
 これも元はと言えば隣人愛の教義のなせる技で、こうしたキリスト教徒の振る舞いによって近代的開発という意味での文明化が進んできました。自給自足経済ではなく、より便利でエンジョイナブルな生活ができるように、共同体を国際市場に引き込んでいったわけですね。
 これも「人間万事塞翁が馬」。バナキュラな土俗的社会が文明化されることは短期的には幸せの増大であることが間違いなくても、暫く時間が経つと、相対的に不利な条件で〈システム〉に依存しないと生きられない従属的ポジションヘと堕したことが明かになったりする。
 実際これがスーザン・ジョージ的なグローバル化批判の基本的な発想です。『なぜ世界の半分が飢えるのか』という有名な書物の著者ですよね。こうしたグローバル化批判の批判対象を遡ると、隣人愛に基づくキリスト教の宣教師たちの振る舞いがでてくるわけです。
 その意味で、社会学者がパウロの布教戦略に注目をするのは、単に教団が社会の中で生き残るための戦略として有効だったからでなく、その結果、隣人愛的な実践の波及効果としての文明化と、文明化の果てに訪れたグローバル化の事態に、一定の責めを負うからなのです。
 宗教者さえ遁れることができない「意図せざる帰結」や「人間万事塞翁が馬」を、宗教者の方々に広く見ていただきたい。それが社会学者としての私の願いです。だから私は、こうした話を東京カトリック教区の司教様の集まりでも真宗の集まりでも、お話ししてきました、
 ここまでの話で、私が注目する今日的な宗教問題が何であるか、どんな視座からどこを見ようとするのか、お分かりいただけたと思います。今日では〈社会〉も〈世界〉も極めて複雑で、生存時間も知的容量も限られた人間には全体性を見通せません。宗教者とて同じこと。
 善かれと思ってやったことが、想像もしなかった地獄をもたらす。しかもそれが真に地獄なのかどうかは、「人間万事塞翁が馬」で人間にはよく分からないのです。帝国や文明が滅びてしまう悲劇が、後の帝国や文明の一里塚や橋頭堡になることもあり得るのからですね。
 しかし他方、「塞翁が馬」を持ち出して、善かれと思ってやったことがもたらした地獄を正当化することもできます。ユダヤ系左翼がルーツのアメリカ的ネオコンも、ユダヤ的「塞翁が馬」観念と、ポップス的「自然状態」観念を結合し、冒険主義を正当化してきたのです。
 今日では今私が申し上げたようなことが「聡明な人々」に気付かれています。それが宗教というものの立ち位置の困難を招きます。例えば、宗教は統治権力にとって利用可能なツールです。ブッシュ政権が典型です。福音派によって支えられたネオコン政権なのですからね。
 
【アメリカの宗教的原理主義と二元論】
 九・一一以前からアメリカはイスラムの宗教的原理主義者がテロを企んでいると喧伝しています。これは出鱈目です。宗教的原理主義は元々根本主義と訳され、聖書に書かれたことを文字通り信じる立場を言います。進化論を教室で教えることに反対する福音派が典型です。
 ところがアメリカは七○年代末のイラン革命からイランイラク戦争にかけて用法を転じました。イラン革命はホメイニに付き従う原理主義者=宗教的狂信者たちが反キリスト教文明的な活動をしているのだと。これは少しでも歴史に知識のある方は大嘘だと分かるはずです。
 イラン革命の原因は宗教的狂信でなく政治的怨念です。イランの石油をアメリカの石油メジャーが支配してましたが、国民主義的なモザデク政権が誕生して石油国有化をしたので、アメリカがClAを使ってクーデターを起こし、パーレビ王朝という傀儡王権を作りました。
 この傀儡王権の下で政治腐敗が蔓延し、貧富の差が広がります。これに怒ったイラン人が引き起こしたのがイラン革命です。イラン人は確かにムスリムですが、イラン革命のべースは宗教的狂信ではなく政治的怨念です。宗教的パッケージは正統性論を使った自己鼓舞です。
 アメリカが宗教的原理主義と名指し、テロリスト扱いする者の全てが、これに当たります。笑劇こはアメリカのいう原理主義者は、政治的怨念を抱く相手に、宗教精神に鼓舞されつつ立ち向かう者のことです。非合理な宗教的狂信者どころか、合理的な近代主義者なのです。
 宗教的狂信者扱いすることで、第一に、政治的怨念の責任が自らにあることを誤魔化し、第二に、キリスト教対イスラム教という虚構の文明的対立を偏って自らを正当化できます。こうした誤魔化しと正当化は、統治権力が宗教を利用する形でなされているわけですね。
 アメリカのいう原理主義という転義を使いますと、政治的動機で宗教を合理的に利用するという点では、アメリカも、アメリカのいうイスラム原理主義者も、同様に原理主義的です。これは学問的に常識化した発想ですが、未だにアメリカの情報宣伝に乗せられる人がいます。
 日本人は情報宣伝に乗せられるべきじゃありません。我が日本においてはアジア主義者と呼ばれる者たちがいました。大川周明らはアジア的なものの良さを人々に説く際に「イスラーム的」という言葉をよく使いました。イスラム的とは即ち平和主義的ということなんですね。
 イスラム教が拡がるまで、部族間で対立する遊牧民たちの間でのジェノサイド—赤ちやんから老人まで含めた皆殺し—が当たり前でした。遊牧民の世界に平和と文明をもたらした最も平和的かつ高度な宗教という意味で、戦前はイスラム的という言葉が使われたのです。
 これも戦前日本思想史上の常識です。なのに日本人がアメリカの情報宣伝によって「イスラム教の狂信者が文明の対立を仕掛けている」などと受け取るのは恥ずかしい。それを踏まえれば、ネオコンであるハンチントンが「文明の衝突」論を唱える意味も分かろうものです。
 こうした、宗教と宗教の対立イメージを作り出すことで、アメリカの統治権力には選択肢がもの凄く増えます。動機づけと正当性を同時に供給できるからです。だからそうした選択肢の豊かさをもたらすための情報宣伝として、宗教を利用することは極めて合理的なのです。
 もちろん、宗教が動機づけ(鼓舞)と正当性(正しさ)の供給においてどれだけ有効かどうかは、それぞれの社会の歴史的性質によります。一部のイスラム社会と同様に、アメリカという世界に稀なる宗教国家では、統治権力による宗教の利用が極めて有効に機能します。
 その意味でアメリカはヨーロッパとは全く違う国です。社会にとって宗教が大切かどうかを尋ねたメリーランド大の調査があります。ヨーロッパはどの国も大体四割台がイエス。キリスト教徒が多いと言われる韓国もそうです。アメリカだけが突出していて七割台がイエスと答えます。イスラム教国に比べてもアメリカのほうが宗教的狂信者が多いかもしれません。
 相手に自分の像を投影することを精神医学で自己投射と言います。アメリカで「宗教的原理主義」という虚構の喧伝が機能するのは、宗教的狂信者が多いアメリカがイスラム勢力に自らの姿を自己投射するからです。ことほどさように宗教は政治的に利用されがちなのです。
 アメリカのキリスト教は、バプテストが一番多く、次にメソジストが多いのですが、これらの新教は、ヨーロッパの旧教とも新教とも全く違います。原罪論が弱く、千年王国論が強い。即ち、二元論的で勧善懲悪的な救済観が覆います。このあたりは機会を改めて述べます。
 ここでは、キリスト教でも特殊な宗派に属するピルグリム・ファーザーズたちが、アングリカン・チャーチの迫害を逃れて作った、キリスト教徒同士の協和を約したメイフラワー協約の精神に基づく、キリスト教に限った範囲での宗教的共和国であることを知れば十分です。
 教養入を含めて日本入の多くはアメリカが宗教国家であることを知らなかったでしょうが、九・一一以降のブッシュ政権が分かりやすい行動をとってくれたせいで、多くの日本人にも、アメリカという国家の「宗教の政治的利用が生じやすい構造」が分かるようになりました。
 もちろん宗教に本気でコミットする人たちの多くは善意です。でも宗教的な人たちが多いがゆえにアメリカという国家が世界に地獄をもたらすということがあり得るのです。今に始まったことじゃなく、善意の宗教性を逆手に取る形で政治的権益の追求がなされてきました。
 ところが皮肉なことがあります。そうしたアメリカ的なのもの、例えばネオリベ的グローバル化の犠牲になる各国の人々の所にわざわざ出かけて何かをしようとする人々も大勢います。NGOとして戦地近くに入って医療活動や民生品の補給活動などをしている方々です。
 なぜ皮肉が。国籍を超えた人々が活動しますが、多くがアメリカのキリスト教徒だからです。ロバート・ベラーが政府とは別に市民的活動を通じて公的貢献をなすことへの情熱をアメリカの「市民宗教」のなせる業だと言います。これもアメリカ的宗教性の一側面なのです。
 海外で危険を冒して活動するNGOメンバーこはバプテストの比率が高い。ご存じの通りアメリカでの最大宗派がバプテストです。韓国のNGOも相当アクティブですが、この国の最大宗派もバプテストです。ここには「善悪二元論×未来志向」の宗教性の肯定面が見られます。
 海外援助活動の主体としてNGO以外にも国家が活動していますが、国家が戦闘地域に食料や配給物資を届ける場合、パラシュート投下以外は無理です。その場合、下で受け取るNGOがいて初めてこうした援助が可能になります。NGO抜きで政府援助もあり得ないのです。
 ネグリ&ハートの『〈帝国〉』が話題です。この本ではグローバル化に対抗するための、国境を越えた雑民(マルチチュード)のネットワークに期待が寄せられます。私の観点から見ると、グローバル化も、雑民化も、両方ともアメリカ的「市民宗教」が生み出すものです。
 その意味で、「善悪二元論×未来志向」(千年王国志向)が特徴的なアメリカ的新教が不適切で、「非二元論×非未来志向」(原罪志向)が特徴的な旧教やヨーロッパ的新教が適切だ、といったそれこそ「善悪二元論」的な裁断は簡単には通用しません。強調しておきますね。
 準拠枠をアメリカより広くとっても同じことが言えます。一般にキリスト教の隣人愛の教義に基づく宣教が、諸地域を近代的開発へと包摂する先兵だったことを申しましたが、同じ隣人愛に基づく政府外活動が、開発において生じた問題を手当する動機付けを与えるのです。
 日本で最もリスキーな海外援助活動をやっている日本緊急援助隊のケン・ジョセフさんも、アフガンでの井戸掘りで有名になった医師の中村哲さんも、敬虔なクリスチャンです。日本国内でもNPOネットワークが広がりつつありますが、多くがキリスト教信者なのですよ。
 キリスト教が隣人愛の観念ゆえに宣教を通じてグローバル化を推進したからダメで、イスラム教や仏教は隣人愛的な宣教概念がないから良い、といった「二元論」も、願い下げです。グローバル化のもたらす害悪を誰よりも真撃に手当てしているのは確実にキリスト教徒です。
 このように宗教は難しい。とんでもないことの原因にもなるし、とんでもなさを生み出す弱点こそがそのまま利点に転じて、とんでもなさを埋め合わせます。宗教を、社会統合に資する機能に引き倒すことも、社会統合を破壊する機能に引き倒すことも、できない相談です。
 既に紹介したように、宗教とは、根源的未規定性をサイファヘと縮約することで、前提を欠いた偶発性を馴致する機能を持つ、社会的装置の総体です。機能的な共通性はそこだけで、そうした機能的装置がどんな波及効果を伴うかは、社会的文脈によって異なってくるのです。
 宗教は幸いをもたらすこともあれば災いをもたらすこともあります。社会学者である私は、機能的フレームを用いることで数多の宗教の共通性を括り出すと同時に、フレームの抽象性を維持することで宗教を特定の具体的機能に引き倒して評価する態度に拭おうとしています。
 私の考えでは、宗教に対して素朴に肯定的態度をとる人々は、簡単に政治利用されますが、宗教に対して素朴に否定的態度をとる人々も、簡単に政治利用されてしまいます。社会システムがどう回っているかを理解しないで宗教に一方的に不安を抱く態度は、馬鹿げています。
 ここまではキリスト教の隣人愛の教義を切り口に、第一に、今日騒がれる現象の背後に宗教があることを述べつつ、第二に、だから宗教はダメだとかイイとかいう「二元論」の罠に陥ってはいけないと言いました。宗教者の社会活動の是非を考える際に、不可欠の思考です。
 人間万事塞翁が馬。隣人愛による文明化が構造的貧困をもたらせば、同じ隣人愛が構造的貧困を埋め合わせる市民活動をもたらします。その隣人愛の教義はイエスの贖罪に見出された不可能性を参照する教義学的深さを見せつつ、教団防衛の機能を狙ったものでもあります。
 キリスト教一つとっても、考慮する文脈次第で、果たす機能は如何ようにもなります。弱点と見えたものが長所にもなり、長所にも見えたものが弱点にもなります。ところが人は何か事件が起こると、事件という文脈との兼ね合いで宗教を見て、二元論的に裁断するのです。
 こうした私の分析をもたらす社会学ないし宗教社会学的な理論も大切ですが、そうした理論の立場から「世の中の連中は宗教を分かってねえな」と高見の見物を決め込むのでなく、何かというと宗教に関する短絡的な裁断に陥りがちな現実に、効果的に抗う必要があります。
 現実に効果的に抗うには、現実をよく知った上で、しかし現実にべタに巻き込まれずに、たえず機能的に等価な別様の在り方を模索的に想像するような、距離化した態度が不可欠です。参照する準拠枠次第で、機能的等価性の比較領域が、全く別方向に開かれるからです。
 
【アメリカ的な社会批判が覆い隠すもの】
 次にお話ししたいのは、今日の社会が少し前の社会と違った様相を示すがゆえに、善行の推奨ではどうにもならない問題が溢れていることです。一般に、素朴に善行を推奨すれば地獄がもたらされる可能性があることを、述べました。どんな社会でもその点はほぼ同じです。
 同様に、素朴に悪を懲罰すればかえって地獄がもたらされる可能性もあります。ブッシュ政権の顛末は象徴的でした。市民的善意の声に促された暴力団新法による組織暴力団の壊滅で、管理されなくなった銃器が巷に溢れて市民が殺傷されるようになった昨今も象徴的です。
 つまりどんな社会も「人間万事塞翁が馬」は変わりません。「塞翁が馬」はサイファによって覆い隠されがちな、〈世界〉の根源的未規定性の現れたとも言えます。〈世界〉の根源的未規定性の現れ方が社会や時代ごとに異なってくることは、第一部で申しあげた通りです。
 今日特有の「塞翁が馬」的な問題の現れ方とは何でしょう。答えから言えば、グローバル化とその派生的帰結です。ちなみに昨今はドキュメンタリー映画ブームで、グローバル化に照準した数多くのドキュメンタリーが作られています。それらを切り口にしてみましょうか。
 二〇〇〇年の大統領選挙でブッシュに僅差で敗れたアル・ゴアが主人公のドキュメンタリー『不都合な真実』 (An lnconvenient Truth)が公開されます。二〇〇五年十一月に公開されるはずでしたが、試写会が大行列で、急遽全国拡大上映をすることになり、公開時期が遅れています。
 この映画はかなりの観客を動員するであろうと予想されるので、様々な政治家さんたちが、その動きをうまく利用して、自分たちの票田を耕すことに使おうという具合に計画を立てているというのが今の状況でして、その一部に私も関わっているところです(笑)。
 『不都合な真実』の試写会が回ってるので、見られた方いらっしやるでしようか。お手を挙げていただけませんか。少数ですね。これはアル・ゴアが選挙に負けて暫くの放心状態を経た後に再起して、地球温暖化に警鐘を鳴らす活動をするを追ったドキュメンタリーです。
 地球温暖化はこれからの危機というより既に起こっている危機です。沈みつつある島ツバル、ハリケーンの大型化、北極圏の氷の融解などが既に知られていますよね。他にもヘミングウェイの小説で知られるキリマンジャロの雪がなくなっていることなどが描かれています。
 新間を見ると「地球温暖化の原因が、人間活動に由来する二酸化炭素かどうかについては異論もある」と書かれていますよね。アメリカの学者にはそういう人もいる。背後にいろんな利権があります。あれだけカトリーヌにやられてまだ言うのかと思うかも知れませんが。
 実際、気象学者の中で人間活動が排出する二酸化炭素が地球温暖化の最大原因であることを否定する人は殆どいません。九十九%は肯定派。でも一%でも異論を唱える人がいれば「異論もある」と紹介するのがメディアです。「あくまで自然現象だという主張も存在する」とね。
 さて、私にとってそのことはどうでもいい。私は『不都合な真実』というタイトルにアメリカらしい虚偽を感じました(笑)。映画を観る前からどんな映画かが分かります。大企業の権益を背景になされるプロパガンダが大企業にとって不都合な真実を覆い隠しているぞと。
 映画を観る前からこの映画がプロパガンダに対するカウンタープロパガンダであることが分かります。「温暖化の原因が二酸化炭素だというのは一学説に過ぎぬ」「何を言うか、この悲惨な現実を見よ、今や殆どの気象学者が悲惨の原因が二酸化炭素だと考えているぞ」と。
 カウンタープロパガンダだからいけないというんじゃない。しかもゴアのカウンタープロパガンダは嘘じゃありません。温暖化の原因は二酸化炭素でしょう。ただ、歴史を知る者はこのプロパガンダ合戦の背後にあるものを知っているということです。どういうことなのか、
 ゴアの言うことは「正しいけど眉唾」です。世界の中で最初に地球温暖化を言い出したのはどの国ですか。アメリカです。七十年代後半からです。でもこれは『キッシンジャー回顧録』を読んでも分かるように、冷戦体制の終焉を見越したキャンペーンだった可能性が高い。
 私は八十年代後半に東大助手をしていた頃、東大の理科系の人たちと共同プロジェクトで研究をしていました。中には七十二年のストックホルム国連人間環境会議に出ていた人もいて、このとき以降のアメリカ政府の行動について、会議の場で議論になったこともありました。
 どこの資本主義国も財政政策の一環として有効需要をコントロールする公共事業をする必要があります。日本ではコンクリートをぶち込んでダムやトンネルや道路を造ってます。アメリカのコンクリート云々は日本の半分以下ですね。アメリカの公共事業は、軍需産業です。
 公共事業とは何ですか。税金を投資して事業を興し、生産財や消費財や労働カベの需要を生み出し、乗数効果で国民経済の規模を維持拡大する政策です。分かりやすくいえば、日本であれば「政府がダムを買う」のが、アメリカであれば「政府が兵器を買う」わけです。
 七十年代後半に入ると、政治学者や社会学者の間では冷戦体制はもうすぐ終わるという観測が広がります。政治社会学者の小室直樹先生—私の師匠—は一九八〇年になると『ソビエト帝国の崩壊』という本を書いて大ヒットになります。ベルリンの壁の崩壊の十年も前です。
 このあたり専門家と一般大衆の感覚とはズレがありました。専門家が新たな認識を持つようになった理由は、ソルジェニーツィンが一九七三年に出した『収容所群島』で描くノーメンクラツーラを含めて、東側のでたらめな末期的状況がどんどん明らかになってきたことです。
 冷戦体制が終わると、困ることが一つ出てきます。公共事業をどうしたらいいか、ですね。専門家の一部は、コングロマリット(軍産複合体)が、冷戦体制終焉を見越して、公共事業の新たな投資先として幾つかの選択肢を用意しようとしている、と語るようになりました。
 その一つが『キッシンジャー回顧録』にも出てくる「UFO着陸作戦」ですね(笑)。これは冗談ではありません。アイディアの本体は一九八四年に当選したレーガンがSDl計画に引き継がれています。大陸間弾道弾ミサイルをレーザー光線で撃墜するというアレですね。
 八十年代に入るとアメリカから「地球温暖化説」が出てきます。覚えているでしょう。それまでは専門家を除くと、大衆的に知られていたのは「地球寒冷化」説でした。大衆規模で「温暖化説」が知られたきっかけが、公聴会でのJ・ハンセンによる「温暖化による猛暑説」です。
 冷戦体制終了直前にハンセンの公聴会証言があったことに象徴されるように、コングロマリットにとって、冷戦終焉後の公共事業的な投資オプションは、初期には「大気圏外レーザー光線兵器」だったのが、後に「地球温暖化」オプションになったのではないかという話です。
 この説が必ず参照するのが、一九七二年のストックホルム国際人間環境会議でのアメリカ政府の策動です。ベトナム戦争でのアメリカによる「枯葉作戦」が議題になるはずだったのに、蓋をあけてみるとなぜか「捕鯨問題」オンリー。大掛かりな抱き込みがあったと言われます。
 「大気圏外レーザー兵器」から「地球温暖化」へ。これは共和党政権なら軍需オプション、民主党政権なら気象オプションというだけで、機能的に等価な選択肢でしょう。但し、冷戦体制後、「温暖化」よりも「テロの恐怖」の方がコストパフォーマンスが良くなりました。
 二〇〇一年の大統領選挙に勝ったブッシュが軍事オプションを旗印にアフガン&イラクの泥沼に突っ込み、負けたゴアが環境オプションを旗印に『不都合な真実』で世界行脚をする。次回の大統領選挙では、二十年前からの想定通り、後者に舵を切ることになるということです。
 私が幾つかの場所でお話しし続けてきたように、アメリカは一定のクリティカルポイントないしシュレショールド(閾域)を超えたら、軍事オプションから気象オプションヘと、公共事業の宛先を変えるでしょう。そんな流れの中に『不都合な真実』が置かれているのです。
 誤解を避けるべく言えば、これはアル・ゴアが何を意図しているかどうかということとは関係ありません。ゴアが善意のかたまりで、地球温暖化を心底憂えているのだとしても—いやむしろそうであればこそ—合申し上げた社会的文脈の中に組み込まれているのですね。
 こうした文脈を参照できれば、『不都合な真実』でのブッシュ周辺の大企業に対するフィンガーポインティングも話半分に受け取れます。さて『不都合な真実』は、もう一つ重要な問題を覆い隠しています。今までの話は枕で、それこそが今日特にお話したいことなのです。
 
第三部「善行の推奨がもたらす悪」
 
【グローバル化の地獄または「合成の誤謬」】
 京都議定書は一九九七年に開かれた第三回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)で議決されたもので、一九九二年に開催されたリオの地球サミットにおいて採択された気候変動枠組条約で定められた温室効果ガスの抑制という目標の、数値目標を含めた実施細目を決めたものです。
 この会議をゴアを中心としてアメリカが主導したきたのですが、アメリカの経済界の意向を受けた議会の反対で批准できず、後にブッシュ大統領によって反故にされました。一九九二年の枠組条約から数えて十五年、国際社会はずっと地球温暖化の話を繰り返してきている訳です。
 国際社会には温室効果ガスによる温暖化が重要じゃないという勢力はいないでしょう。ただプライオリティ(優先順位)がどの程度のものかについて議論があるのです。優先順位が高くないとする勢力には、先進各国の経済界の一部に加えて、低開発国の国々があります。
 低開発諸国からの異議申し立ては、リオの地球サミットの十年後に催されたヨハネスブルグの環境開発サミット(第二回地球サミット)で広く知られるようになりました。低開発諸国の主張によれば、地球温暖化問題よりも優先順位が高いのは、構造的貧困問題なのです。
 つまり「温暖化の抑止」よりも「貧困の撲滅」が緊要な課題だと言うのです。なぜかというと、第一に、今の所、地球温暖化で死ぬ人はいないが、構造的貧困で死ぬ人は沢山いること。第二に、貧困の撲滅に成功できれば、同じスキームで温暖化の抑止にも成功できること。
 こういうことです。構造的貧困も地球温暖化も両方ともグローバル資本のコントロールを通じてしか解決しない。温暖化問題でグローバル資本を動かせるのなら、構造的貧困問題でグローバル資本をまず動かすべきだ。それができれば温暖化間題解決などお茶の子さいさい。
 断っておくと私の立場はこれではありませんが、今日は重要でないのでスキップします。ちなみに構造的貧困とは、近代化が必要→外貨が必要→一次産品化→国際市場で買い叩かれて貧困化→元に戻ろうにも自生的経済秩序を支えるインフラの崩壊、といったサイクルです。
 こうした構造的貧困問題の図式を最初に提示したのがスーザン・ジョージの一九七六年の著作なぜ世界の半分は飢えるのか』です。今日我々がグローバル化を問題にする際には、知ると知らざるとにかかわらず、彼女のいう構造的貧困の図式を必ず使っていることになります。
 構造的貧困の図式は何を意味しているのでしょうか。〈生活世界〉を幸せにしようとして〈システム〉に出かけてコミットしてみたところが、〈システム〉抜きに〈生活世界〉が回らなくなり、やがて〈生活世界〉が〈システム〉に取り込まれて空洞化するということです。
 こうして構造的貧困の「貧困」を、「〈生活世界〉の空洞化」として抽象的に理解すると、構造的貧困は、第一に、グローバル(地球的)なフェイズでもドメスティック(国内的)なフェイズでも使え、第二に、前者に無防備なら必ず後者が帰結されるという関係にあります。
 実は来月(二〇〇五年十二月)からオーストリアのフーベルト・ザウパー監督の『ダーウィンの悪夢』というドキュメンタリー映画が日本公開されます。来年一月からの『不都合な真実』を見る前に、是非『ダーウィンの悪夢』を見ていただき、比べていただいきたいんですね。
 タイトルでいう「ダーウィン」には二重の意味があります。第一に、映画の舞台であるビクトリア湖周辺は人類発祥の地として知られていますが、その進化論的な事実にダーウィン進化論の自然淘汰や適者生存の概念をかけて「ダーウィン」という言葉を用いています。
 第二に、そのビクトリア湖周辺は、二〇〇〇年のタンザニア飢饉で知られていますが、今では食肉加工業が大変盛んです。ナイルパーチというスズキの一種を加工してEUと日本に輸出しています。国別で最大の消費国は日本。日本ではスズキっていう名前で売られてきました。
 飢饉の教訓もあり、「金銭的援助からノウハウの援助へ」という図式に従って世界食糧計画などの国連機関も加わり、新しいタンザニアの外貨獲得源をできるだけ発展させようとしています。ところがそれこそが今日的なグローバル化がもたらす問題を象徴しているのです。
 五十年前にバケツ一杯分ナイルパーチがビクトリア湖に放流され、それが大増殖しました。白身の美味しい魚で、加工魚肉として売れるということで、ビクトリア湖周辺に現地資本の魚肉加工工場が多数できました。もはや唯一と言っていいほどの、重要な外貨の獲得源です。
 景気の恩劇こ預かろうと多数がビクトリア湖周辺に集まります。地球温暖化という背景も指摘される飢饉で離農者が増えたのもある。ところが魚肉加工は世界食糧計画も参加した近代設備の工場。人手はいらない。ナイルパーチ漁も近代設備の漁船。高価なので買えない。
 ちなみに昔は先進国からの援助といえば借款。北側が南側に物や金をばらまく。でもこれだと南側の権力層がインマイポケットするだけだから駄目だという話になる。そこで国際市場で戦える近代的な製造や加工のマネージメント・ノウハウを教えるという話になりました。
 ビクトリア湖周辺での魚肉加工業の大展開はその結果なのです。ところが今述べた通り、魚肉加工景気にあずかれるのは僅かな人だけ。集まった人は食うに困ってスラム化します。女は売春婦になってエイズが蔓延します。男は周辺諸国の紛争に傭兵として雇われて戦う。
 女はエイズに顛れて死に、男は戦場で顛れて死にます。親を失った子供たちはストリートチルドレン化して、麻薬売りなどの悪事に手を染め、飢えと苦痛から遁れるために日常的に麻薬を吸飲しています。地獄絵図という他ないムチャクチャな状況が生じている訳です。
 これは、素材がナイルパーチじゃなく、ダイヤモンドであれ、石油であれ、バナナであれ、いわゆるモノカルチャー化した経済で外貨を稼ぐようになった所には、多かれ少なかれあります。先ほど紹介したスーザン・ジョージの「構造的貧困」の今日的形態がそこにあります。
 「ダーウィン」というタイトルの言葉は、こうしたビクトリア湖周辺の状況を適者生存・自然淘汰といった概念で正当化できるのか、といったこともさることながら、適者生存・自然淘汰がこうした帰結をもたらすような、生態系的な意味での全体システムを指しています。
 『ダーウィンの悪夢』が興味深いのは、経営者、労働者、兵隊として働く男、娼婦として働く女、ストリートチルドしン、欧州にナイルパーチを輸送した帰りに武器を満載して帰って来ている疑いのある飛行機のパイロット、国連職員など、全ての当事者に喋らせる所です。
 彼らは、与えられた場所で自分や周辺が幸せになれるよう最善を尽くしています。でもその結果「合成の誤謬」で地獄絵図がもたらされます。彼らはそれを知っています。自分がどんな悪循環に巻き込まれているのかを知っています。知っていてもどうにもできないのです。
 砂漠化した農地での農業に戻ることはもうできません。唯一の外貨獲得源はナイルパーチの加工です。タンザニアがこの魚肉加工を放棄することはできません。安価で衛生的でなければ売れませんから国連職員が近代的ノウハウを提供します。その結果、人があぶれます。
 ここには「グローバル化の背景には悪の大ボスとしてのグローバル資本がある」といった善悪二元論はありません。加えて、観客の誰もが自分たちも当事者であることを突きつけられます。美味しい西京焼きを子供に提供しようとして、地獄絵図への悪循環を回すのです。
 構造的貧困の今日的形態だと言いました。構造的貧困と呼ぶのはなぜか。構造を変えない限り、人々の善意が「合成の誤謬」を帰結するからです。その意味で、グローバル化においては、グローバル資本という悪役よりも、グローバル化したシステム自体が問題なのです。
 さて、どうしたらいいのか。システム自体が問題だとして、どんなシステムに変えればいいのか。オルタナティブなシステムが構想できたとして、上から下まで既得権益者が貼り付く今のシステムからそのシステムにどうやって移行したらいいのか。簡単に答えが出ません。
 グローバルシステムで生き残ろうとする限り、構造的貧困化も温室効果ガス排出も二の次にする以外ない—そうしたシステムを変えることこそ重要だという南側の指摘は一理ある。但しグローバル化資本は最大既得権益者ですが、我々もそれにぶら下がって生きています。
 さて宗教の話に戻します。こうした問題を前にすると、「悪を戒め善を行なえ」という宗教者の呼びかけはいかにも霞んで聞こえます。みんな一所懸命に善きことをしようとした結果、地獄絵図になっちゃう。ここでは、善行の呼掛けではなく、世直しこそが必要なのです。
 世直しは善行の呼掛けとは違います。世直しは既得権益からの引き剥がしを含みます。引き剥がされるのはグローバル資本のような大ボスだけじゃありません。我々が既得権益から引き剥がされるのです。そこでは痛みどころか出血が不可避です。局所的にはそれは悪です。
 全域的な善のために局所的な悪を甘受せよといった正当化がなされるでしょう。でもそれ—システムの改変—が全域的な善につながる保証はありません。保守主義を思い出しましょう。〈社会〉の一部しか知らない我々が〈社会〉の全体をいじろうとするのは不遜です。
 だから踏み固められた地面を踏む。でも踏み固められた地面がスポイルされている場合はどうか、特殊利害と共同利害の複雑性です。労働者を虐げる企業でも、それが潰れれば飯の種を失う労働者は困ります。企業は資本家の特殊利害とは別に、共同利害も体現しています。
 世直しをめぐる問題系は極めて複雑です。その複雑さは宗教と社会の関係をめぐる数多の考察にも反映しています。その中には宗教的世直しの是非を問うものも含まれます。それらを、具体的な神学や宗教的意味論にそって分析する必要がありますが、別の機会に譲ります。
 
【「沖縄の美風」が帰結する醜悪なるもの】
 構造的貧困の問題系はグローバルにもドメスティックにも適用可能だと言いました。グローバルな構造的貧困が必ずドメスティックな構造的貧困を招くことも言いました。噛み砕げば、南北間題は、外貨の分配を巡って、南側の国の内部に国内的な南北問題を必ず生み出します。
 日本のドメスティックな問題として沖縄を持ち出せます。沖縄知事選で、昔の言い方では「革新陣営」の糸数慶子が負けました。保守陣営が革新陣営の数十倍の選挙資金を使ったとか、当日投票では糸数が勝っていたのに不透明な期日前投票で負けたとか取り沙汰されます。
 実は私は沖縄に縁の深い人間です。私に言わせれば、選挙資金がどうたら、期日前投票がどうたらは、本質的じゃない。本質は何か。経済界が動員できるのに、組合側が動員できないこと。補助金や交付金による土木で動員できるのに、基地反対では動員できないことです。
 沖縄が本土の二倍の失業率で、生活水準も低い。一国内ではあり得ないような地域格差に甘んじている。だから本土からの補助金や交付金が土建につぎ込まれています。前の大田昌秀知事の「呼び水理論」は絵に描いた餅。本土からの金なしには回らない島になっています。
 前以て言えば沖縄の失業率や離婚率の高さを単にアノミーの指標だと見做してはいけません。ムンチュウ(門中)で知られる血縁主義の沖縄。結婚しようが就職しようが「嫌になったらいつでも帰って来い」という引力が働き、帰れば当たり前に受容する包摂力が働きます。
 だから、失業率や離婚率の低下が、悪い意味での「本土並み化」—相互扶助的引力や包摂力の低下—の表れであり得ます。ここに、良い意味での「本土並み化」—富裕化—があれば、悪い意味での「本土並み化」は仕方ないと考えるべきかという大問題があります。
 一九七二年の本土復帰からの十年毎の三次にわたる沖縄振興計画での—その間一九七五年には沖縄海洋博、二〇〇〇年には私も取材した沖縄サミットがある—三十年以上の金のつぎ込みは、公共事業として見た場合、掴み金を与えるようなもの。あり得ないローリターンです。
 マクロ経済学でいう乗数効果が極めて乏しいのです。補助金や交付金の投入を契機として経済循環が回り、巡り巡ってこれだけ豊かになった、ということがないのです。掴み金を与えるという意味で福祉政策ではあっても、財政政策としては砂場に水撤くようなものです。
 その結果、途中で行き止まりになる舗装道路とか、数十秒しか短縮しないような無意味なバイパスとか、誰も通らない林道やトンネルが作られています。しかも、経済的インフラとして無意味な、乗数効果が乏しい事業だということを、沖縄の人々はみんな知っています。
 それでも公共事業を断たれたら困る人々が沢山いる。本土からの補助金・交付斜に土木の利権ボスがぶら下がり、利権ボスそれぞれのムンチュウがぶら下がる。そうやって飯を食っているので、つぎ込みを止めてもらっちゃ困る。それに基地の存在が正当性を与える訳です。
 面白いことに、本土は沖縄に対して過去三十年以上つぎ込んできましたが、紐付きではなく、全て真水です。どう使ってもいいという風に沖縄に投げ与えてきた。でもその金を沖縄は乗数効果が乏しく、自立的経済圏を回す工夫とは無関係な土木事業につぎ込んできました。
 離島によっては土建関連に従業する人が三割を超えるようなあり得ない現状を、このまま継続してくれと主張する仲井真弘多が、知事に選ばれました。これは沖縄の民衆の選択です。現状とは、「基地の存在ゆえに本土からの真水がつぎ込まれるような構造」という意味です。
 これで基地に反対していることになるのか。笑えます。私が一緒に勉強会をする国土交通省の役人たちも爆笑しています。いいですか。真水をつぎ込む所までは、歴史的経緯ゆえの本土の責任。でも真水をどう使うかは、沖縄の責任。基地依存経済の半分は沖縄の責任です。
 だから、基地の存在ゆえに沖縄を免罪するような甘やかしはいけません。沖縄にも私のような意見を持つパトリオット(愛郷主義者)はいます。でもそうした意見を喋るのは無理です。沖縄は血縁社会です。沖縄人がそういう発言をしたらムウンチュウが大迷惑を被ります。
 相互扶助に満ちた温かいムンチュウ。本土の映画やテレビはそう描く。それは一面的です。沖縄はハンセン氏病差別が最も厳しかった所。理由は血縁社会だからです。自分たちムンチュウにハンセン氏病患者が出たとなればムンチュウ全体が不利益を被ると意識されるのです。
 ムンチュウの土木関係者がいない所はありません。共産党議員も自民党議員も等しく土木コネクションというのは当たり前です。そんな中で「本土が基地の代償に真水をつぎ込み、沖縄が真水を土木につぎ込む」という「広義の基地依存経済」に異論など言えないのです。
 自分ら家族親族を守るために、ハンセン氏病だと分かったら直ちに隔離施設にぶち込んで縁を断つ。自分ら家族親族を守るために、沖縄の足腰を弱めて風景を本土並み化するだけの「広義の基地依存経済」に文句を言わない。これが「温かいムンチュウ」で済む問題ですか。
 「だからムンチュウはダメ」と言いたいんじゃありません。それでは先ほど批判した二元論そのものです。そうしたムンチュウの包摂性が、離婚率や失業率の高さにもかかわらず感情的安全を保証する(から率が高くなる)、という沖縄の状況を、先ほど紹介しましたよね。
 琉球大学の就職率が五割だと聞くと仰天する人がいる。でも仰天には当たりません。シャカリキに就職活動をする学生が本土に比べて圧倒的少数だからです。本土なら縛られたくないとかですが、沖縄は違う。真剣に働かなくっても相互扶助ネットワーク故に食えるのです。
 こうしたいい加減さを許す包摂性はムンチュウならでは。それが本土との圧倒的な経済格差にもかかわらず感情的安全を保証します。それに憧れて—大京観光の広告に煽られて(笑)—本土から多数が移住する。でも美徳と悪徳は表裏一体。脳天気な移住者は知りません。
 
【不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度】
 私は社会学者です。ソーシャルデザインを考えることを仕事の一つにしています。今申し上げたことは私にとっては若い頃から極く当たり前です。そうした私から見れば、今申し上げた沖縄的状況を踏まえた上でも、現実的に取り得る選択肢が、実際に数多存在しています。
 でも、そうした選択肢が客観的に存在しても、民意が主観的にそれを意識して支持しなければ、それが政策的に選択されることはありません。親族の土建屋からのアガリで食ってる、基地からのアガリで食ってる場合、反対すると食えなくなっちゃうというレベルで投票する。
 吉本隆明じゃないが、食うためにやることを、食うに困らない奴が責めることはできません。たぶん私が沖縄の人間だったら、間違いなく食うための選択をするからです。ここでも、今日的な不幸が、分かりやすい悪意によってもたらされている訳ではないことが分かります。
 私が第三部で申し上げたいのはそのことです。今申し上げた「合成の誤謬」にせよ「醜悪な美風」にせよ、個別の善が集合的な悪を帰結し、善をもたらす習俗が悪を帰結するのです。アメリカ流の—と言っておきますが—善悪二元論の枠内に収まらない問題こそ今日的です。
 噛み砕けば、善意のネットワークや、善意を支えるプラットフォームが、激烈な不幸や悲劇をもたらし得るということです。それは、タンザニアの世論が何をもたらすか、アメリカの世論が何をもたらすか、沖縄の世論が何をもたらすかを見れば、よく分かることだと思います。
 つまり、人は自分や周囲の幸いを望んで振る舞うだけでは、巡り巡って自分や周囲の幸いをもたらせないのです。先の言い方に擬えれば、善意そのものではなく、善意の「ネットワーク」や「プラットフォーム」をいじらない限り、善意は空回りするしかないということです。
 部分ではなく全体をいじるしかない。これを私は「世直し」と言います。でも先に述べた通り我々は時空的に制約された存在です。全体を見通すことはできません。だから全体を思い通りいじることはできません。それをどんな理屈で正当化しようが「世直し」は賭けなのです。
 単に「善行の推奨」からは「世直し」を導けません。そこには必ず決断主義が入ります。法華経に親しんでおられる皆さんはお分かりの筈。オウム真理教の事件以降は、法華経ないし法華系新宗教(創価学会)の影響を受けたオウムのあり方を通じて、多くの人が知った筈です。
 社会学者としての私は、「善行の推奨」ではカバーできない社会的問題が数多あることに、より多くの人たちが気付いて欲しいと活動しています。「世直し」に不可避な決断主義的要素は危険ですが、危険に対処するためにも、今申し上げたことに気付いて貰うしかないのです。
 或いは今少し踏み込んで言えば、「世直し」が決断主義的要素を含むこと、即ち自明な「世直し」が不可能であることは、とりわけ九・一一以降の転変する国際情勢から、多くの人に気付かれて行きます。そこで「だったら何でもアリだぜ」とならないためには何が必要なのか。
 私が宗教者に望むらくは、そこで役割を果たせる存在であって欲しい。話が難しいでしょうか。言いたいことは単純です。「善きことをせよ」では足りないのです。むろん書きことをしたいという善意は一〇〇%肯定されてきます。問題は何が書きことかが自明でないことなのです。
 サリン事件後からオウム信者たちを取材しましたが、彼らの多くは異口同音に話していました。「自分は善いことをしたい。でもこの社会は複雑すぎて何が善いことなのか分からない」と。だからこそ、善行と悪行の区別の非自明性をフックにする麻原の説法が効いたのです。
 皆さんには釈迦に説法ですが、善行と悪行の境界線の非自明性をフックにすると言えば、法華経に於ける釈迦の説法です。ただし釈迦はこの種の説法はそれこそ「人を見て法を説く」べきものであることを強調していました。釈迦こそは「そこで役割を果たせる存在」でした。
 麻原は「人を見て法を説か」なかった。ということは、麻原には、善行と悪行の境界線の非自明性を説法する資格がなかったのです。なのに、麻原は何者かによって、この法を説かれています。「人を見て法を説か」なかった者、資格のない麻原に法を説いた者が、いる訳です。
 それが誰かは今回横に置きます。強調したいのは、オウム真理教で麻原彰晃と出会うことで初めて、「見悪しきことに見えることが実はいいことなんだ」という自分の感覚にフィットする、複雑な社会での善行の逆説的な在り方を、教えて貰ったと感じた者がいたことです。
 オウムの幹部に理屈の分かるエリートたちが多かった理由が幾つか取り沙汰されています。むろん、近代成熟期の訪れが何が幸いかを巡る分岐を生み、いわゆる弱者が最後に宗教に縋るという図式が通用しなくなったこともあります。二流エリートという挫折感もあるでしょう。
 私がここで注目したいのは、「良いとされていることが本当に良いことなのか」という自明性への疑いを持つ程度には物を考える力を持つ人たちが、麻原の説教に吸引されたのではないかということです。それが実際オウム信者たちを取材して、私が抱くようになった印象です。
 私や我々世代の多くがオウム信者に返しさを感じた理由がそこにあるだろうと推測します。むろん、先程触れた「神秘体験というフック」への免疫があれば事情は違ったでしょう。でもフックは引き金です。火薬に当たる要因は良きことをしたいがゆえの抑欝だろうと思います。
 ちなみに「神秘体験というフック」を補足すると、技術さえ習得すれば誰でも他人に神秘体験を引き起こせると言いましたが、それを知らないが故に麻原彰晃の「神秘体験というフック」に引っ掛かかったと正直に告白したのが、先日お話しする機会があった上祐史浩氏です。
 話を戻すと、「善行の推奨」からは「世直し」を導けず、「世直し」に決断主義が入り込むことを言いました。これを私は一口で〈世直しの不可能性〉と呼びます。そのことに免疫のない者が「救済(世直し)の善意ゆえにサリンをばらまく」という悲喜劇を生み出したのです。
 〈世直しの不可能性〉の自覚は、フランス革命後の恐怖政治や帝政の顛末ゆえに生まれた三つの思想の一つ保守主義の認識と重なります。後の二つは無政府主義とマルクス主義です。その意味で私は保守主義者ですが、しかし〈不可能を知りつつ世直しせよ〉と唱導する者です。
 私の考えではそういう立場も含むものが保守主義ですが、それはともかく、こうした矛盾した構えに免疫のない入は「だったら何でもありだ!」と反社会的振舞いを正当化しがちです。原罪感ゆえに人間の必謬性を前提とするユダヤ教徒の一部に、実際に見出される態度です。
 〈世直しの不可能性〉を熟知しつつ、しかし〈不可能と知りつつ世直しする〉ものの、とはいえ「だったら何でもありだ!」に陷らずに、自らの世直しが排除したものの回復に永久に取り組むような態度こそが、ステージき高い宗教者に要求されるのではないかと私は思います。
 そうしたステージの高さは、修業がどうのこうのというより、コミットしなくても良いはずのものへのコミットという事実性の存在です。正確にいえば、よく考えれば考えるほどコミットしなくても良い筈なのに、にも拘らずコミットする(せざるを得ない)という内発性です。
 そのことを踏まえてオウム信者に戻ると、一部の信者がこう語っていました、誰よりも宗教的に見える存在が、頭ぶち割ると自分の権益にだけ関心を寄せる俗物であり得るのと同様、誰よりも俗物に見える存在が、誰よりも宗教的な存在であることがあり得るのではないか、と。
 神秘体験と神秘現象が違うのと同じように、宗教的に見えることと宗教的であることとは違うのではないかという訳です。そういう彼は、私が「麻原は宗教的に見える俗物ではないか」と訊ねたのに対し、逆に「俗物に見える宗教的存在なのだ」と私に反論したのですね。
 私はこう答えました。理屈的にはあり得るが、それが規定不可能な問題に属することを弁えるべきだ、と。どんな理屈も自己防衛に使えます。神秘体験と神秘現象は違う。宗教的に見えることと宗教的であることは違う。どちらの認識も、見抜くためにも騙すためにも使えます。
 私に反問した信者がもしかするとそうであるように、こうした知識を持つ者に騙された人が、いや実は騙されていないのだと自己弁護するためにも使えます。そのことを知っておくことが「免疫を付ける」ことです。私と同世代の多くが、理屈は使えるものの免疫がなかった。
 要は分かってなかったんですね。宗教的ステージっていうものの中身を。教団の中で位の高い人の宗教的ステージが高いとは言えないのと同様、「俗物に見えて宗教的だ」とか「宗教的に見えて俗物だ」という理屈を使えることも宗教的なステージの高さとは関係ありませんね。
 〈世直しの不可能性〉とも関連しますが、誰が宗教的にステージが高いのかは究極的には分からない。規定不可能という他ない。それが私の立場です。その意味では、教団の外に極めて宗教的ステージが高い存在があり得るのです。そのことに開かれた宗教者であって欲しい。
 そのことを私は、仲正昌樹との共著『日常・共同性・アイロニー』で〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉として賞揚し、ユダヤ教の原罪論的伝統を踏まえたデリダの脱構築概念も、そうしたものとして理解すべきだと言いました。宗教割こは脱構築的であって欲しい。
 
第四部「宗教的構えとソーシャル・デザインとの関係」
 
【コミットメントの不可欠性、または主知主義から主意主義へ】
 かく言う不遜な私は、宗教者である皆様方に、いったい何を推奨したことになるのでしょう。自分が幸いになりたいと望み、他人を幸いにしたいと望むこと。自分にとって、他人にとって、正しいことをしたいと望むこと。そのことが否定されるべき謂われはありません。
 単なる幸いでなく本当の幸い。単なる真実でなくまっさらな真実。もっと深い幸いや真実に向かおうという意欲も、否定されるべきではない。問題は、何が幸いなのか、真実なのか、についての現実場面での評価です。それが誰かに截然と分かるという不遜さを話題にしました。
 更に、社会学や経済学の基礎概念「合成の誤謬」を通じて、人が自分や周囲の幸いを目指して最善を尽くすことで地獄がもたらされ得ることを述べました。これを回避するには、局域での〈善行の推奨〉から、全域を改める〈世直し〉に踏み出す必要があるのだとも申しました。
 加えて、一見すると〈世直し〉が〈善行の推奨〉の延長線上にあるように見えても、実は〈世直し〉には〈善行の推奨〉によっては飛び越えられない決断主義の壁があることを述べ、〈世直しの不可能性〉と表現しました。にもかかわらず私は断固〈世直し〉を推奨します。
 最後に、〈不可能と知りつつ前に進む〉態度は、「ならば何でもありだ!」的な反社会性を帰結し得ることを述べ(反ユダヤ主義の根拠)、これを回避するには、原罪論的な免疫化に加え、頭で考えても理由がないものへの強烈なコミットという内発性が必要だと言いました。
 神学的に言えば、私は不可知論を語りましたが、とはいえ私はニヒリズムを説いていません。むしろ逆です。不可知論を説くことで、端的な意志をもたらす内発性を擁護するのです。難しい言葉で言えば、私は「主知主義」を拒絶し、「主意主義」を推奨したことになります。
 オウムが取り入れたとされるチベット仏教的なグルイズムの本質も、この端的な意志や内発性の確認にあります。こうした端的な内発性を確認するにはその人の行動を何年も見続ける必要があります。それをせずに〈不可能と知りつつ前に進め〉と麻原に説いた男がいるのです。
 以上が今回のスピーチで皆さんに伝えようとして私が用意したお話です。私は政治家や官僚を相手にソーシャル・デザインの問題について語るのが日常の仕事でして、宗教者に語る機会は三年に一回ぐらいです。なので、今回こうした機会を与えていただいたことに感謝します。
【宗教的世直しとソーシャル・デザインとの関係】
 ここからは蛇足ですが、かく言う私はソーシャル・デザインの現場で次のように推奨します。先の沖縄振興開発のプランを例に取ると、基地の存在を正当根拠とした集権的再配分に依存する土建屋的プランを否定したとき、どんなオルタナティブな沖縄振興計画があり得るか。
 複数のプランを横に並べて項目別の星取り表を書き、無理に総計するしかありません。項目一ではプランAが七点でプランBが三点。項目二ではプランAが三点でプランBが七点。一長一短になるのが普通ですから、項目に優先順位(重みづけ)を付して総計するしかない。
 かくしてプランAで行くと結論される。でもそれはプランAが正しくプランBが誤りという訳じやない。ソーシャル・デザインはそのようには評価できません。プランAとBの違いは優劣の捩れを含む微妙なもので、Aが駄目と思ったらすぐにBに切り換える柔軟性が要ります。
 先ほど優先順位(重みづけ)を付すと言いましたが、細かいシミュレーションの正確さが大切なのは言うまでもありませんが、最後に決定を左右するのは重みづけです。この重みづけは多くの場合感情的なもので、文脈が若干変わったり時が経つだけで容易に変わるのです。
 それに関連しますが、民意が大切かどうかにも疑いを挟む必要があります。今申し上げた「民意の文脈依存性」もあります。先の「合成の誤謬」もあります。民意はこれらを多かれ少なかれ呼び込みます。民意に従うことで民が滅びることが論理的にも現実的にもあり得ます。
 例えば、沖縄にはムンチュウを大切にする血縁主義があります。民意を取れば、血縁集団の権益を護持するべく、従来型の基地を口実とした土建屋的再配分が温存されるでしょう。しかしそれが沖縄の本土依存度をますます高め、基地と本土に依存しない経済があり得なくなる。
 本土にも似たことが幾らでもあります。臨教審で答申された教育の市場化がそうです。教育の市場化は教育を民劇こ任せることです。その結果が各地で今も続く未履修問題です。国が画一化を押し付け、民は多様性を求めるというのは神話です。民意が教育をダメにするのです。
 ちなみに寺脇研と親しい私の主張はこうです(『学校が自由になる日』)。教育の多様化にとって必要なのは、早急な分権化や市場化じゃない。まず中央から多様性を強制して、それで民度が上がってから、次に分権化や市場化をする。さもないと民意が地獄をもたらし得ると。
 沖縄についても処方箋は同形です。現状を打破するオルタティブなプランを走らせようとすると、いきなり県民の意思に任せたのでは駄目で、彼らの血縁主義的保守主義を打ち破るような上ないし中央からの集合的決定が必要でしょう。こうした言い方は当然にも不人気です。
 だから、上や中央からの操縦が民意を蔑ろにするとは感じられないようにする工夫が要求されます。むろん上や中央のエリートの思考をできるだけ多くの民に伝える努力も含まれます。さて、私のこうしたやり方に、〈世直し〉が〈善意の推奨〉を超えることが反映しています。
 お分かりのように、私の戦略には「お前にとって何が良きことかはお前よりも俺が分かっている」というパターリナズム(父性的温情主義)が含まれます。でも世の摂理は人知を超える。お前よりも俺の方が本当に幸せへの道を知っているか否かは、究極には証明できません。
 ここには決断主義が入り込むしかありません。全体をいじるソーシャル・デザインには必ず痛みが伴います。痛みが最終的に贖われるだろうとの思惑で全体枠組が改変されます。でも贖われるかどうか本当は不確かです。その不確かさを、民意に依らぬ決断で乗り越えるのです。
 むろん不確かさは民意を怖気づかせます。むき出しの決断主義を回避すべく、あたかも不確かさがないかのような印象操作が多かれ少なかれなされるでしょう。皆さんは原発立地問題を思い出しませんか。そう。余りに問題がある。だから一定時間過ぎたら情報公開が必須です。
 誤解され易いのですが、民意を蔑ろにするのではない。沖縄の人々を含めて民意が大切だと教わっています。民意に逆らう政策決定はまずい。だからこそ政策決定にそう民意形成に努力する。私が言うのは、最初に民意ありきではあり得ないということ。「ただそれだけ」です。
 例えば沖縄について言えば、我々の側からでなく、沖縄の側から出てきたアイディアであるように装う必要があります。このあたり、長野県の田中康夫元知事は下手でした。実際はトップダウンでも、官僚からボトムアップで出てきたと装えば、官僚の顔は潰れなかったのです。
 実は糸数さんが知事になればそういう風に持って行こうという計画が我々の側にありました。でも糸数さんは知事になれなかった。沖縄では金力の差が喧伝されてるけど、違う。先にも述べた通り、今は組合の動員力が、ムンチュウの動員力よりも、情けないほど弱いのです。
 こうしたソーシャル・デザインの実行は宗教的な〈世直し〉とどこが違うか。皆に〈善行を推奨〉するだけでは救われない、むしろ地獄になる、だから警慧が報われるよう全体を変える。そこは同じです。〈善行の推奨〉と〈世直し〉の隙間を決断主義で埋めるのも同じです。
 決断主義で埋めるのですが、正統性を調達するために、民意を興そうとするのも同じです。片やプロパダンダを行います。片や宣教を行います。大きな違いは、〈世直し〉に必然的に含まれる不確かさ(根源的未規定性)を帰属させる特異点(サイファ)を持ち出すか否かです。
 宗教的特異点ー例えば神の意志— を持ち出した方が、〈善行の推奨〉と〈世直し〉の間の深い空隙を橋渡しし易いでしょう。だからこそ、神の意志を持ちだすがゆえの思考停止に階りやすく、〈世直しの不可能性〉についての宗教者側の吟味も不完全なものになりがちです。
 神を持ち出す危険はもう一つある。〈世直しの不可能性〉は論理的に解決できず決断で乗り越えられるしかないと言いました。〈不可能と知りつつ、それを引き受けて前に進め〉と。でもそれが「何でもあり」をもたらさないためにはコミットメントが必要だもと言いました。
 いわば「皆の本当の幸い」へのコミットメント。原初的社会(部族段階)の宗教的形象は共同体的でしたが、原初的段階を脱した社会での宗教的形象はやがて信仰化=脱共同体化します。個人が信仰する神へのコミットが、「皆の幸い」へのコミットと必ずしも重なりません。
 オウムの教訓がそこにあります。麻原が俗物のくせに聖者を気取ったのなら、前述の通り、宗教者に見える俗物や、俗物に見える宗教者がいるという教訓が重要です。加えて、信割ことづて麻原が神だったのなら、神が脱共同体的だったらどうなるかという教訓も引出せます。
 原初的な段階を脱した宗教は、多かれ少なかれ脱共同体的です。別言すれば、脱共同体的段階に達した複雑な社会は、脱共同体的な宗教が拡がり易くなります。そうした社会は共同体ではありませんから、共同体へのコミットと同じやり方で社会へのコミットを生みだせません。
 論理的帰結として、脱共同体的な宗教と脱共同体的な社会とのコンパチピリティ(両立可能性)は自明ではありません。せいぜい古来続いてきた、それゆえ教祖よりも組織への依存度が高い宗教は、社会との両立可能性を歴史的に確からしく思えるという程度でしかないのです。
 
【社会学者が宗教研究からますます遠ざかる理由】
 私が宗教に関心を抱いた最初のきっかけは、中学二年の時、麻布中学の氷上信廣先生(現校長)に勧められて読んだ高橋和巳の小説『邪宗門』でした。千葉潔という主人公が出てきますが、彼は若き北一輝と同じく、澎湃として沸き上がる国民の声を背景とした革命を志します。
 しかし「現実の国民」は「理想の国民」から遠い。民衆は愚かなのです。双方のギャップを埋めるべく北一輝なら「国民の天皇」を持ち出しますが、それもいない。そこで自らが「国民の天皇」たらんとして勃つ。新興宗教の教祖となり、世直しに邁進し、覚悟の自滅をします。
 なぜ私が感情移入をしたのか。敗戦直後の山科が舞台なので、山科で育った私が親近感を抱いたのもあります。それよりも、「現実の国民」と「理想の国民」の間の超えられないギャップをコミュニタス(聖なるカオス)で乗り越えんとする主人公の「散華」にハマったのです。
 散華する者。それは自覚的なロマン主義者の謂いです。ロマン主義者とは元々—初期ロマン派の意味では—〈不可能な全体性に、不可能と知りつつコミットする者〉の謂いです。たぶん中学生の私は、ロマン主義者の「散華」に、 「全体性への自由」を見出したんですね。
 こうした感受性は思春期的です。スコープもスパンも限られた人間の必謬性ゆえの〈世直しの不可能性〉は「全体が部分に対応してしまうアイロニー」と同義です。触知不可能であるはずの全体性が一瞬姿を現す瞬間があります。それがV・ターナーの言うコミュニタスです。
 国民が天皇と共にあるときにのみ「現実の国民」が「理想の国民」であるかの如く現れると考えた北一輝も、コミュニタス的です。古典社会学が想定する、カリスマ(ウェーバー)や集合的沸騰(デュルケーム)を通じた全体性に関わる正統性の樹立も、コミュニタス的です。
 かかる発想は古くは、個人にとって社会が手段ではなく目的として現れた瞬間に出現する、エゴの集積を超えた一般意志というルソーの概念に見出されます。祝祭的な共同身体性の成立という一瞬への言及があって初めて「人々が全体だと思うもの」への予期が成立するのです。
 『邪宗門』に感情移入した中学生の私は実存主義的でしたが、長じて社会システム理論の専門家になった私は、〈世直し〉がこうした実存と表裏一体にならざるを得ない機制を学びました。不可能な全体性が祝祭において触知可能になる瞬間も、中学高校紛争で経験しました。
 「現実の国民」に落胆しつつ「理想の国民」を先取りして〈世直し〉を志す『邪宗門』の千葉潔は、思えばまさに〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉を体現しています。その彼は宗教者のフリをする革命家でしたが、その彼が最後には誰よりも宗教的に見えるのです。
 理由は、一つには今回お話しして来た〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉それ自体が与える印象でもありますが、加えて〈不可能な全体性がかたちをなす奇蹟的瞬間〉を、社会的には悲劇にしか見えない「聖なるカオス=コムニタス」に見出すこともポイントです。
 そうした読書経験と現実経験があったから、大学院生の時に宗教社会学に強い興味を抱いたのでしょう。その意味で、特定の神や聖性に関心がある訳でなく、神や聖性が呼び出されざるを得ない機制に関心があります。同じ理由で、全体性概念と〈世直し〉にも関心があります。
 気づいてみると、政治学の最前線では、民主政について〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉を奨励するラディカル・デモクラシーが話題になり、社会学では、百年前から変わらず〈不可能な全体性が形をなす奇蹟的瞬間〉が正統性の源泉として注目されています。
 宗教に関心を抱いた大学院生時代、私はまだ社会学や政治学が「そうした学問」であることをー不可能性に言及するイマシテリー(虚数的・想像的)な要素を持つことを—自覚していませんでした。今の私はむろん宗教と社会学に同時に関心を寄せるのは当然だと感じます。
 でも日本では、私のような問題意識を持つ社会学者や政治学者は殆どいません。〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉にも〈不可能な全体性が形をなす奇蹟的瞬間〉にも関心を寄せません。だぶん通常性の中だけで生きてきたがゆえの経験の乏しさのせいでしょう。
 政治家や官僚にも言えます。敗戦後の零からの立ち上がりを知る世代が退場するにつれ、後続世代はますます〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉とも〈不可能な全体性が形をなす奇蹟的瞬間〉とも無縁になり、全体性を統制概念とすることがなくなりました。
 その結果、ますます通り一遍の奇麗事に騙され易くなり、枝葉末節に不安を抱き易くなります。まさに企業社会にも共通する「オリジネーター(創業者)/サクセサー(後継者)問題」です。カオスという原点を知らざるがゆえの醜い右往左往が、各所で目立つようになります。
 かくして、かりそめの自明性(部分)がべ夕な自明性(全体)だと勘違いされるようになります。日米関係についても、憲法についても、宗教についても、天皇についても、それが言えます。宗教と社会学に同時に関心を寄せるような構えを取らない限り克服できないでしょう。
 ところが、宗教と社会学に同時に関心を寄せるような構えは社会学徒から完全に脱落しました。十余年前のオウムの事件を契機に巻き直しが図られるのではないかと期待しましたが、期待外れでした。宗教について社会学者が書く本は、ますます貧しいものになりつつあります。
 今回の講演で述べたことからも明らかですが、たとえ後知恵であれ、オウム事件からの学びを徹底的に深める営みを通じて、宗教者にとっても社会学者にとっても重要な視座を獲得できたはずなのです。私はそうして来たつもりです。だからここで話をさせていただいています。
 善悪二元論をべースにして善行を説く営みを「方便」と見做し、〈不可能と知りつつ引き受けて前に進む態度〉と〈不可能な全体性が形をなす奇蹟的瞬間〉を「根本」と見做して世直しを志向せよ。この社会学的認識は宗教者の宗教的ステージを上げることにも役立つでしょう。
 人々を幸いにすることを目的とした世直し。でもどんな世直しも善悪二元論では正当化できない。なのに善悪二元論を世直しの動員の「方便」として使わざるを得ない。しかるに善悪二元論も元々は人々の幸いを志向したもの。善悪二元論自体に人々を幸せにする力があります。
 七世紀に成立した、密教と後期大乗をつなぐ蝶番である大日教教典では、如来が大悲によって衆生を救済しつづけるための「方便」こそが「根本」だ—手段が同時に目的だ—とします。これは単なる手段の自己目的化とは違います。私の認識ではまったく逆だと思います。
 むしろ、人々を幸いにするという目的の視座からは、どんな世直しも手段として正当化しきることができないこと。このことを踏まえた上での、手段が単に目的に役立つことを超えて、手段そのものの内に目的が内在するような事態を目指せという定言命令ではないでしょうか。
 要は、世直しに内在せざるを得ない決断主義的なファクターを、同じく決断主義的な手段を用いて緩和するべく、前期大乗と後期大乗に挟まれた密教に於て、方便と根本との合一という教義が提示されたのではないか。社会システム理論を背景にするとそうした解釈になります。
 なお、本日紹介した、社会システム理論を背景とした宗教社会学のお話は、あくまで私一人の認識に基づくものです。社会学者の多くがそう考えていることを意味しません。むしろ逆です。今日の社会学者からは宗教的問題に対する関心はどんどん脱落しつつあるのが実情です。
 私の見立てでは、社会学からの全体性の脱落と、社会学からの宗教的関心の脱落とは、軌を一にしています。一つには、世代交代があるでしょう。マルクス主義を初めとする全体性に直接言及する思想に馴染んだ世代が、引退しつつあることがあります。まあ二〇〇七年間題です。
 そこで問題になるのは、なぜ若年世代になるほど全体性への関心や全体性の参照という振舞いが消えるのかです。映画批評の仕事をしていて気づいたことは、全体性への希求が、社会的なアノミー(前提空洞化)の埋め合わせとして存在している、というある種の普遍原理です。
 例えば多くの表現者が証言する一九六〇年代後半の輝き。一つの解釈は、不自由だった者たちにとっての自由の輝きだとするもの。不自由であるほど自由が輝くというこの図式は、当時を知らない若い表現者にとってわかりやすい。でも私の考えでは、むしろ間違いだと思います。
 私の解釈はこうです。「都市の空気は自由にする」じゃないが、急速な都市化や郊外化によって自由を得たがゆえにアノミー(前提空洞化)状況に陥った若い世代が、空洞を埋め合わせるべく全体性を希求したことが六十年代カウンターカルチャーの輝きをもたらしたのです。
 例えば、田舎に集住していた頃の地域的共同性から「解放された=見放された」がゆえに、二次的集住(若林幹夫)が作り出す都市において世代的共同性を、埋め合わせとして追求したわけです。言うまでもなく、フランクフルト学派—とりわけフロム—的な解釈でしょう。
 ただし重要なのは微分係数です。私の言葉でいえば「島宇宙化」した現在の方が、1960年代当時よりも前提空洞化が進んでいます。ところが微分係数すなわち変化率から見ると、前提空洞化の速度は1960年代の方が圧倒的に大きい。アノミーは微分概念のコロラリーです。
 一九六〇年代に限らず、十九世紀初頭から先進各国を襲った、近代黎明期(軽工業段階)から近代過渡期(重化学工業段階)にかけての、急激な都市化と郊外化は、〈生活世界〉を〈システム〉が侵食する微分的なプロセスであり、継続して全体性への志向を生み続けてきました。
 近代成熟期(サービス&情報産業段階)になると微分的プロセスが終了します。なぜなら近代成熟期とは、〈システム〉の全域化によって〈生活世界〉が空洞化した状況に対応するからです。そもそもサービス&情報への需要とばく生活世界〉の空洞化と表裏一体のものでした。
 その結果、近代を通じて長らく存在し続けてきた全体性への希求が緩和されたのだ、と私は考えます。いわば全体性の不在が当たり前の状況になった結果、全体性という観念自体が脱落してしまう。その結果、宗教は、全体性に関する意味論というより単なる趣味に堕します。
 言い換えれば、宗教の意味論(意味の編み物)が個人化されてしまうのです。個人化された意味論すなわち実存の問題として宗教や宗教者や宗教現象を見ると、「誰にとっても〈世界〉は思い通りにならないのだな」といった具合に、とても暗い世界観になってきます(笑)。
 今日の宗教研究者は、実存の視座からするそうした暗い〈世界〉の見え方を通過せずには、宗教をいささかも研究できないということです。それは、我々の〈生活世界〉が空洞化し、過剰流動的な〈システム〉が、単なる根拠なき事実性としてしか現れないことに、関連します。
 こうした暗い〈世界〉の見え方に耐える力がないことも、若い研究者が宗教に向き合えなくなる理由でしょう。でも、その暗さを通過し、〈世界〉の全体性についての思考のパターンに—パタ—ンを支える〈社会〉という文脈に—思考を伸ばす。それが宗教社会学なのです。

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