現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
納得できる平和運動とは何か?—立正平和運動の再生に向けて—
納得できる平和運動とは何か?
─立正平和運動の再生に向けて─
三 好 龍 孝
1.はじめに
「平和運動」に関わろうとする時、「先の『戦争協力の問題を反省』することが前提条件」としてまず常識とされています。「平和」であることは私たちの誰もが望むことで、それを実現してゆく「平和運動」には関わってみたいと思う。しかしその「平和運動」の仲間に入ろうとして入口に立った時に、まず『反省』を迫られてしまうのにはどうにも違和感があるのです。「平和運動の常識」を否定したくなる、その違和感の理由をまず説明して行きたいと思います。
冒頭に紹介するのは、先の日中戦争開戦初期における三好逹治という詩人の、いわゆる「英霊」のことを扱った、当時有名であった『戦争協力』の詩作品です。
冒頭に紹介するのは、先の日中戦争開戦初期における三好逹治という詩人の、いわゆる「英霊」のことを扱った、当時有名であった『戦争協力』の詩作品です。
おんたまを故山に迎ふ 三好逹治
ふたつなき祖國のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかの兵ものは つゆほども
かへる日をたのみたまはでありけらし
はるばると海山こえて
げに
還る日もなくいでましし
かのつはものは
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかの兵ものは つゆほども
かへる日をたのみたまはでありけらし
はるばると海山こえて
げに
還る日もなくいでましし
かのつはものは
この日あきのかぜ蕭々と黝みふく
ふるさとの海べのまちに
おんたまのかへりたまふを
よるふけてむかへまつると
ともしびの黄なるたづさへ
まちびとら しぐれふる闇のさなかに
まつほどし 潮騒のこゑとほどほに
雲はやく
月もまたひとすぢにとびさるかたゆ瑟々と樂の音きこゆ
ふるさとの海べのまちに
おんたまのかへりたまふを
よるふけてむかへまつると
ともしびの黄なるたづさへ
まちびとら しぐれふる闇のさなかに
まつほどし 潮騒のこゑとほどほに
雲はやく
月もまたひとすぢにとびさるかたゆ瑟々と樂の音きこゆ
旅びとのたびのひと日を
ゆくりなく^t※ゆくりなく=偶然に
われもまたひとにまじらひ
うばたまのいま夜のうち
樂の音はたえなんとして
しぬびかにうたひつぎつつ^t※しぬびかに=目立たず、ひそかに
すずろかにちかづくものの^t※すずろかに=何となく
荘厳のきはみのまへに
こころたへ
つつしみて
うなじうなだれ
ゆくりなく^t※ゆくりなく=偶然に
われもまたひとにまじらひ
うばたまのいま夜のうち
樂の音はたえなんとして
しぬびかにうたひつぎつつ^t※しぬびかに=目立たず、ひそかに
すずろかにちかづくものの^t※すずろかに=何となく
荘厳のきはみのまへに
こころたへ
つつしみて
うなじうなだれ
國のしづめと今はなきひともうなゐの^t※うなゐ=幼い子供
遠き日はこの樹のかげに 鬨つくり
讐うつといさみたまひて
いくさあそびもしたまひけむ
おい松が根に
つらつらとものをこそおもへ
遠き日はこの樹のかげに 鬨つくり
讐うつといさみたまひて
いくさあそびもしたまひけむ
おい松が根に
つらつらとものをこそおもへ
月また雲のたえまを驅け
さとおつる影のはだらに^t※影のはだら=はらはらと雪の降る
ひるがへるしろきおん旌^t そのような月影
われらがうたの ほめうたのいざなくもがな^t※いざなくもがな→いざ無くもがな
ひとひらのものいはぬぬの
いみじくも ふるさとの夜かぜにおどる
うへなきまひのてぶりかな^tうへなきまひのてぶり→上なき舞の手振
さとおつる影のはだらに^t※影のはだら=はらはらと雪の降る
ひるがへるしろきおん旌^t そのような月影
われらがうたの ほめうたのいざなくもがな^t※いざなくもがな→いざ無くもがな
ひとひらのものいはぬぬの
いみじくも ふるさとの夜かぜにおどる
うへなきまひのてぶりかな^tうへなきまひのてぶり→上なき舞の手振
かへらじといでましし日の
ちかひもせめもはたされて
なにをかあます
のこりなく身はなげうちて
おん骨はかへりたまひぬ
ちかひもせめもはたされて
なにをかあます
のこりなく身はなげうちて
おん骨はかへりたまひぬ
ふたつなき祖國のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかのつはものの
しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
以上、長い詩でありますが、「つゆほどもかへる日をたのみたまはでありけらし 妻も子もうからもすてていでまししかの兵もの」を、「ものいはぬひとひらの白い旌」が「ふるさとの夜かぜにおどる うへなきまひのてぶり」で出迎えているのです。「妻も子もうからもすてて」という言葉が、また印象的に記憶されます。その同じ言葉が、日蓮大聖人の御遺文中にもあるのです。
大蒙古國の襲来に際して門下に出された『弟子檀那中御書』、その中に「……定めて日蓮が弟子檀那の流罪死罪は一定ならんのみ。……少しも妻子眷属を憶うこと莫れ。権威を恐れること莫れ。今度生死の縛を切って佛果を遂げしめ給え。……」というものです。七百年の歳を隔てて、同じく隣国中国との戦争という命懸けの状況に対して書かれた文章の中に、「妻も子もうからもすてて」「少しも妻子眷属を憶うこと莫れ」と同じ言葉が出てくるのは、両者が心情において同様な境地に立っていることを思わせます。
日蓮大聖人は当時の武断的な権力者である鎌倉幕府と対峙されていました。一方三好逹治の詩は、中国とその背後にある西洋諸国に対峙したのです。西洋諸国が世界を植民地として圧倒的に支配し、たとえば仏教発祥の地のインドも英国の植民地と化していたからです。帝国主義的戦争を計画し実行した日本の指導者集団とは別に、宗教的文化的立場からこの戦争に協力した者の立場というものがあって、その戦争協力者のこれほどまでの真面目な命懸けの立場に向けて、今日の立場からなおさらに『反省』を迫るのは、通常は無理と思えるのです。
彼らが時流に流されてなおさら易きに就いてしまったのならともかく、年は進んで日中戦争からやがて日米英開戦となる昭和十六年十二月八日、その年の「文学界・八月号」に詩人三好逹治は次の詩を発表しています。戦争が際限もなく拡大してゆく、さらに厳しいこの時期に発表されているのは、盛夏「八月号」なのに「冬の日」という題名の、真珠湾攻撃を予言したような、だからこそ言っておきたいという「平和」の詩です。これも長い詩作品ですが引用します。
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかのつはものの
しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
以上、長い詩でありますが、「つゆほどもかへる日をたのみたまはでありけらし 妻も子もうからもすてていでまししかの兵もの」を、「ものいはぬひとひらの白い旌」が「ふるさとの夜かぜにおどる うへなきまひのてぶり」で出迎えているのです。「妻も子もうからもすてて」という言葉が、また印象的に記憶されます。その同じ言葉が、日蓮大聖人の御遺文中にもあるのです。
大蒙古國の襲来に際して門下に出された『弟子檀那中御書』、その中に「……定めて日蓮が弟子檀那の流罪死罪は一定ならんのみ。……少しも妻子眷属を憶うこと莫れ。権威を恐れること莫れ。今度生死の縛を切って佛果を遂げしめ給え。……」というものです。七百年の歳を隔てて、同じく隣国中国との戦争という命懸けの状況に対して書かれた文章の中に、「妻も子もうからもすてて」「少しも妻子眷属を憶うこと莫れ」と同じ言葉が出てくるのは、両者が心情において同様な境地に立っていることを思わせます。
日蓮大聖人は当時の武断的な権力者である鎌倉幕府と対峙されていました。一方三好逹治の詩は、中国とその背後にある西洋諸国に対峙したのです。西洋諸国が世界を植民地として圧倒的に支配し、たとえば仏教発祥の地のインドも英国の植民地と化していたからです。帝国主義的戦争を計画し実行した日本の指導者集団とは別に、宗教的文化的立場からこの戦争に協力した者の立場というものがあって、その戦争協力者のこれほどまでの真面目な命懸けの立場に向けて、今日の立場からなおさらに『反省』を迫るのは、通常は無理と思えるのです。
彼らが時流に流されてなおさら易きに就いてしまったのならともかく、年は進んで日中戦争からやがて日米英開戦となる昭和十六年十二月八日、その年の「文学界・八月号」に詩人三好逹治は次の詩を発表しています。戦争が際限もなく拡大してゆく、さらに厳しいこの時期に発表されているのは、盛夏「八月号」なのに「冬の日」という題名の、真珠湾攻撃を予言したような、だからこそ言っておきたいという「平和」の詩です。これも長い詩作品ですが引用します。
冬の日 三好逹治
─慶州佛國寺畔にて
ああ智慧は かかる靜かな冬の日に
それはふと思いがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寳が世にあらう」
─慶州佛國寺畔にて
ああ智慧は かかる靜かな冬の日に
それはふと思いがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寳が世にあらう」
秋は来り 秋は更け その秋は已にかなたに歩み去る
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでいた
それは今日この新らしい冬のはじまる一日だった
さうして日が昏れ 夜半に及んでからも 私の心は落ちつかなかつた
短い夢がいく度か斷れ いく度かまたはじまった
孤獨な旅の空にゐて かかる客舎の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことに懊んでゐた
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでいた
それは今日この新らしい冬のはじまる一日だった
さうして日が昏れ 夜半に及んでからも 私の心は落ちつかなかつた
短い夢がいく度か斷れ いく度かまたはじまった
孤獨な旅の空にゐて かかる客舎の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことに懊んでゐた
さうして今朝は何といふ靜かな朝だらう
樹木はすっかり裸になつて
鵲の巣も二つ三つそこの梢にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきつて
それらの間に遠い山脈の波うつて見える
紫霞門の風雨に曝れた圓柱には
それこそはまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ陽ざし
裾の方はけぢめもなく靉靆として霞に消えた それら遙かな
巓の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊とした奥ゆきで
空間(エスペース)てふ 一曲の悠久の樂を奏しながら
いま地上の現(うつつ)を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる
樹木はすっかり裸になつて
鵲の巣も二つ三つそこの梢にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきつて
それらの間に遠い山脈の波うつて見える
紫霞門の風雨に曝れた圓柱には
それこそはまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ陽ざし
裾の方はけぢめもなく靉靆として霞に消えた それら遙かな
巓の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊とした奥ゆきで
空間(エスペース)てふ 一曲の悠久の樂を奏しながら
いま地上の現(うつつ)を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる
その軒端に雀の群れの喧いでゐるの甍のうへ
さらに彼方疎林の梢に見え隠れして
そのまた先のささやかな聚落の藁家の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
どこまでも遠くはてしなく
靜寂をもつて相應へ 寂寞をもつて相呼びながら連つてゐる
そのこの朝の 何といふ蕭條とした
これは平和な 靜謐な眺望だらう
さらに彼方疎林の梢に見え隠れして
そのまた先のささやかな聚落の藁家の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
どこまでも遠くはてしなく
靜寂をもつて相應へ 寂寞をもつて相呼びながら連つてゐる
そのこの朝の 何といふ蕭條とした
これは平和な 靜謐な眺望だらう
さうして私はいまこの精舎の中心 大雄殿の縁側に
七彩の垂木の下に蹲まり
くだらない昨夜の惡夢の蟻地獄からみじめに疲れて歸つてきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりでない私の心を眺めてゐる
眺めてゐる―
今は空しいそこここの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石燈の灯袋にもありなしのほのかな陽炎のもえてゐるのを
七彩の垂木の下に蹲まり
くだらない昨夜の惡夢の蟻地獄からみじめに疲れて歸つてきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりでない私の心を眺めてゐる
眺めてゐる―
今は空しいそこここの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石燈の灯袋にもありなしのほのかな陽炎のもえてゐるのを
ああ智慧は かかる靜かな冬の日に
それはふと思いがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寳が世にあらう」
それはふと思いがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寳が世にあらう」
先に「おんたまを故山に迎ふ」といういわゆる「英霊」の詩を書いた詩人が、真珠湾攻撃を数カ月後にひかえて、この「平和」の詩を書いている。しかもそれは、日本国内の仏教寺院で発想されたものではなく、当時は植民地であって一段低く見られていた朝鮮の慶州佛國寺においてこの詩想を得ているのです。朝鮮の広々とした「平和」な空間が語られています。これが戦争に協力した日本人の精神の真髄でしょう。
日中戦争から日米英戦争へと進み、戦争の進展に比例して時流は確実に思想弾圧が強まったであろう中で、時流に比例して流されるのではなく、極めつきの「英霊」の詩を書いた詩人がここで反比例して「平和」の詩を書くのです。
この二篇の詩に基づいて私は、真に平和を希求して命懸けでその任務を果たして来た戦争協力者たちに対して、訳も分からずに『反省』を求め続けることの愚を、すなわち「平和運動の常識の誤り」を指摘したい。
『反省をしなくても、そのままの心と姿で平和運動に取り組むことはできる』のです。
日中戦争から日米英戦争へと進み、戦争の進展に比例して時流は確実に思想弾圧が強まったであろう中で、時流に比例して流されるのではなく、極めつきの「英霊」の詩を書いた詩人がここで反比例して「平和」の詩を書くのです。
この二篇の詩に基づいて私は、真に平和を希求して命懸けでその任務を果たして来た戦争協力者たちに対して、訳も分からずに『反省』を求め続けることの愚を、すなわち「平和運動の常識の誤り」を指摘したい。
『反省をしなくても、そのままの心と姿で平和運動に取り組むことはできる』のです。
2.特攻隊と平和憲法 ―A級戦犯・白鳥元イタリア大使の進言―
民間人大量虐殺・婦女暴行・外国人従軍慰安婦・連行外国人強制労働・強制的集団自決・払暁突撃・玉砕・捕虜虐待・原爆投下・無差別戦略爆撃など、戦争に関してはその犯罪的行為を我々は詳細に語り尽くさねばなりません。
しかし中でもここは「特攻隊」に限って、先の戦争の進展を見ていきたいと思います。再々に三好達治の詩です。
しかし中でもここは「特攻隊」に限って、先の戦争の進展を見ていきたいと思います。再々に三好達治の詩です。
神風隊てふ 三好達治
昭和十九晩秋神風萬朶外諸隊敢死の士挺身
玉碎して征く者すべて歸らず、頻りに敵艦
船舟艇を南溟に屠るなり、寇虜侵攻日に急
なるの秋その報旁午一億の肺腑に徹す。
昭和十九晩秋神風萬朶外諸隊敢死の士挺身
玉碎して征く者すべて歸らず、頻りに敵艦
船舟艇を南溟に屠るなり、寇虜侵攻日に急
なるの秋その報旁午一億の肺腑に徹す。
十機ゆき十機かへらず
百機ゆき百機かへらじ
神風隊てふ
百機ゆき百機かへらじ
神風隊てふ
この日ゆく空のはやをら
明日ゆかん伴もかへらじ
神風隊てふ
明日ゆかん伴もかへらじ
神風隊てふ
さきゆくはゆきてかへらず
のちゆくもただにかへらじ
神風隊てふ
のちゆくもただにかへらじ
神風隊てふ
あなあたらうらわかき身を
さけくだけかげもとどめず
神風隊てふ
さけくだけかげもとどめず
神風隊てふ
日の本はいかしき國や
大君のしこのみたてら
みなかへりこず
大君のしこのみたてら
みなかへりこず
ゆきむかふ鐵板かたし
ますらをのやたけごころは
まさりてかたし
ますらをのやたけごころは
まさりてかたし
砲しげく舷のあつきを
うらわかきたぢからあはれ
さきはふりたり
うらわかきたぢからあはれ
さきはふりたり
四つに裂き八つに碎きてはふりたる
艦よりさきに
あらずますらを
艦よりさきに
あらずますらを
いさぎよき報にはあれど
ゆけるみなうらわかけれぱ
わがいたむまづ
ゆけるみなうらわかけれぱ
わがいたむまづ
いさをしはみづからしらず
ゆけるみなうらわかければ
なみだおつまづ
「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは(万葉集巻二十)」という防人の歌があって、この詩の第五連はその「大君の醜の御楯」を踏まえて、「日の本はいかしき國や」「みなかへりこず」と率直に戦争の現実を述べています。戦争批判とも読める三好逹治のこの詩は、詩集『干戈永言』に収載されて、戦争末期の昭和二十年六月二十八日付けで刊行されています。いよいよ本土決戦という重大な時期に、当局の検閲はどうなっていたのでしょうか。日本はとうとう人類史上比類のない「特攻」戦法に行き着いたのです。国家軍部の要請に応じ、その枠組みの中で、戦争に協力せざるを得ない真面目極まりない若者たちが立ったのです。この危険で困難な任務は、敏捷な若者の能力においてしかまた達成出来なかったからです。
ここに「艦よりさきに あらずますらを」「いさをしはみづからしらず」と、敵艦の轟沈するよりも、轟沈の功績を皆が讃えるよりも、まず真先に最初に本人が死ぬと決められているのが、人類史上比類のないこの「特攻」の本質です。万が一にも生き残ることが無いのです。万が一に生き残ったら、それは失敗であって、「特攻」は死ぬまで出撃を繰り返すのです。西洋の米国英国ではこういう「特攻」はないでしょう。西洋的な一神教であってもおそらくは東洋的なイスラム世界で、いま現に「自爆という特攻」が続いているのは、とても他人事とは思えません。
自ら「特攻」にまで突き進む戦いをして、一億玉砕のつもりが、昭和二十年八月十五日に突然に敗戦と決まった日本人が何を考えたか。ここに資料があって、平成十七年八月十四日付の朝日新聞の第一面です。「憲法に戦争放棄を進言」したのはA級戦犯の「白鳥元イタリア大使」であったというのです。この新聞記事を辿ると、次のような経過が浮かび上がって来ます。白鳥敏夫は巣鴨拘置所に入所する直前の十一月二十六日に吉田茂外相と会見し、「新憲法を如何に制定すべきか」「戦争放棄の問題等について口頭で意見を述べ、時の幣原首相にも伝達方を申し出た」。吉田がこれに興味関心を示したので、白鳥は十二月十日に巣鴨拘置所から吉田宛に改めて書面にしたものを送った。この書面は検閲のために長くマッカーサー司令部に留め置かれたが、英文で書かれたこの書面は、マッカーサー司合部がまた内容を十分に把握する仕組みにもなっていた。そして翌年一月二十日頃になって書面は吉田宛に届けられた。吉田は「白鳥氏の要請を容れ当時首相にも写を一部手交」した。一月二十四日にマッカーサー司令官・幣原首相会談が行われ、この時に「戦争放棄を新憲法に盛り込む発想」が表面化した。もしも日本側の幣原首相から発想の提案が出たとしたら、その出所は白鳥の書面なのです。それがマッカーサー司令部からの提案だったとしても、マッカーサー司令部は検閲により白鳥の書面の内容を十二分に承知していたのです。
白鳥は書面で「将来この国民をして、再び外戦に赴かしめずとの天皇の厳たる確約、如何なる事態、如何なる政府の下においても、(略)国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきことなどの条項は、新日本根本法典の礎石」「憲法史上全く新機軸を打ち出すもの」「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ(略)憲法のこの部分をして(略)将来とも修正不能ならしむることに依りてのみ此の国民に恒久平和を保証し得べき」と述べているそうです.。
イタリア大使の時、戦争の元凶の日独伊三国同盟を作ったA級戦犯の張本人の白鳥なればこそ、戦争と外交の実際を熟慮しての提案と思われます。そしてここに白鳥が「此の国民に恒久平和を保証し得べき」と言うからには、「静かな眼 平和な心 その外に何の寳が世にあらう」という三好達治の詩「冬の日」と同じ発想が、この時の白鳥には「それはふと思いがけない時に来」ていたのです。彼はそれまでの戦争主導を『反省』してこの提案の発想をしたのでは無いでしょう。敗戦からまだわずか三カ月目のことです。彼がその間に別人に生まれ変わったとはとうてい考えられない。犯罪者であっても、否、犯罪者なればこそ「平和運動」が出来るのです。
国際法学者の指摘によれば、「憲法第九条・第一項の戦争放棄条項」は実は古く一九二八年に成立した国際法の「不戦条約第一条」とそっくり同じなのだそうです。白鳥はそれを引用した。ですから彼が「憲法史上全く新機軸を打ち出すもの」と誇らしく言うのは「戦力不保持と交戦権否定の憲法第九条・第二項」の方なのであって、ここまで自ら宣言をしてしまうのは、とてもとても、西洋人の発想ではないと私は思います。
アメリカは日本を非武装無力化しておきたい本音はあったとしても、紳士を装う民主主義の国だから、それを日本に押しつけることは躊躇したにちがいない。しかし日本が自ら「戦力不保持と交戦権否定の憲法第九条・第二項」を言いだしたら、全く渡りに船と大喜びで承認しただろう。同じ敗戦国のドイツにもイタリアにも平和憲法はありません。これは白鳥の外交手腕の勝利で、『平和憲法』は日本人の手で出来た、と私は思います。
ゆけるみなうらわかければ
なみだおつまづ
「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つわれは(万葉集巻二十)」という防人の歌があって、この詩の第五連はその「大君の醜の御楯」を踏まえて、「日の本はいかしき國や」「みなかへりこず」と率直に戦争の現実を述べています。戦争批判とも読める三好逹治のこの詩は、詩集『干戈永言』に収載されて、戦争末期の昭和二十年六月二十八日付けで刊行されています。いよいよ本土決戦という重大な時期に、当局の検閲はどうなっていたのでしょうか。日本はとうとう人類史上比類のない「特攻」戦法に行き着いたのです。国家軍部の要請に応じ、その枠組みの中で、戦争に協力せざるを得ない真面目極まりない若者たちが立ったのです。この危険で困難な任務は、敏捷な若者の能力においてしかまた達成出来なかったからです。
ここに「艦よりさきに あらずますらを」「いさをしはみづからしらず」と、敵艦の轟沈するよりも、轟沈の功績を皆が讃えるよりも、まず真先に最初に本人が死ぬと決められているのが、人類史上比類のないこの「特攻」の本質です。万が一にも生き残ることが無いのです。万が一に生き残ったら、それは失敗であって、「特攻」は死ぬまで出撃を繰り返すのです。西洋の米国英国ではこういう「特攻」はないでしょう。西洋的な一神教であってもおそらくは東洋的なイスラム世界で、いま現に「自爆という特攻」が続いているのは、とても他人事とは思えません。
自ら「特攻」にまで突き進む戦いをして、一億玉砕のつもりが、昭和二十年八月十五日に突然に敗戦と決まった日本人が何を考えたか。ここに資料があって、平成十七年八月十四日付の朝日新聞の第一面です。「憲法に戦争放棄を進言」したのはA級戦犯の「白鳥元イタリア大使」であったというのです。この新聞記事を辿ると、次のような経過が浮かび上がって来ます。白鳥敏夫は巣鴨拘置所に入所する直前の十一月二十六日に吉田茂外相と会見し、「新憲法を如何に制定すべきか」「戦争放棄の問題等について口頭で意見を述べ、時の幣原首相にも伝達方を申し出た」。吉田がこれに興味関心を示したので、白鳥は十二月十日に巣鴨拘置所から吉田宛に改めて書面にしたものを送った。この書面は検閲のために長くマッカーサー司令部に留め置かれたが、英文で書かれたこの書面は、マッカーサー司合部がまた内容を十分に把握する仕組みにもなっていた。そして翌年一月二十日頃になって書面は吉田宛に届けられた。吉田は「白鳥氏の要請を容れ当時首相にも写を一部手交」した。一月二十四日にマッカーサー司令官・幣原首相会談が行われ、この時に「戦争放棄を新憲法に盛り込む発想」が表面化した。もしも日本側の幣原首相から発想の提案が出たとしたら、その出所は白鳥の書面なのです。それがマッカーサー司令部からの提案だったとしても、マッカーサー司令部は検閲により白鳥の書面の内容を十二分に承知していたのです。
白鳥は書面で「将来この国民をして、再び外戦に赴かしめずとの天皇の厳たる確約、如何なる事態、如何なる政府の下においても、(略)国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきことなどの条項は、新日本根本法典の礎石」「憲法史上全く新機軸を打ち出すもの」「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ(略)憲法のこの部分をして(略)将来とも修正不能ならしむることに依りてのみ此の国民に恒久平和を保証し得べき」と述べているそうです.。
イタリア大使の時、戦争の元凶の日独伊三国同盟を作ったA級戦犯の張本人の白鳥なればこそ、戦争と外交の実際を熟慮しての提案と思われます。そしてここに白鳥が「此の国民に恒久平和を保証し得べき」と言うからには、「静かな眼 平和な心 その外に何の寳が世にあらう」という三好達治の詩「冬の日」と同じ発想が、この時の白鳥には「それはふと思いがけない時に来」ていたのです。彼はそれまでの戦争主導を『反省』してこの提案の発想をしたのでは無いでしょう。敗戦からまだわずか三カ月目のことです。彼がその間に別人に生まれ変わったとはとうてい考えられない。犯罪者であっても、否、犯罪者なればこそ「平和運動」が出来るのです。
国際法学者の指摘によれば、「憲法第九条・第一項の戦争放棄条項」は実は古く一九二八年に成立した国際法の「不戦条約第一条」とそっくり同じなのだそうです。白鳥はそれを引用した。ですから彼が「憲法史上全く新機軸を打ち出すもの」と誇らしく言うのは「戦力不保持と交戦権否定の憲法第九条・第二項」の方なのであって、ここまで自ら宣言をしてしまうのは、とてもとても、西洋人の発想ではないと私は思います。
アメリカは日本を非武装無力化しておきたい本音はあったとしても、紳士を装う民主主義の国だから、それを日本に押しつけることは躊躇したにちがいない。しかし日本が自ら「戦力不保持と交戦権否定の憲法第九条・第二項」を言いだしたら、全く渡りに船と大喜びで承認しただろう。同じ敗戦国のドイツにもイタリアにも平和憲法はありません。これは白鳥の外交手腕の勝利で、『平和憲法』は日本人の手で出来た、と私は思います。
3.立正平和運動について
『平和憲法』は出来ても、当初は勿論アメリカの占領下でしたから平和運動が自主的にできるはずはなく、敗戦により誇りを無くしたことで「戦後の良いものは皆アメリカによりもたらされた」という一般的な誤解により、「平和憲法もアメリカによりもたらされた」という事実誤認の常識が成立してしまいました。それでも「平和運動」すなわち日蓮宗では「立正平和運動」が大きく盛り上がりを見せたのは、無差別爆撃と原爆投下で敗戦させられた日本が、昭和二十九(一九五四)年のビキニ水爆実験で第五福竜丸がさらに被爆させられて死者が出た、それでこれ以上無茶苦茶にされてたまるかと原水爆禁止運動が湧き上がったのです。それがどうして急速に衰退してしまって、今日に至っているのでしょうか。
ここで再び、先に三篇の詩を引用した詩人の三好達治が、昭和三十五年五月三日の六十年安保改定の渦中の時期に朝日新聞に、どのように意見を述べているかを見ていきたいと思います。
ここで再び、先に三篇の詩を引用した詩人の三好達治が、昭和三十五年五月三日の六十年安保改定の渦中の時期に朝日新聞に、どのように意見を述べているかを見ていきたいと思います。
陽春某日(一部抜粋) 三好達治
「戦争放棄と軍備の撤廃は、敗戦の大きな犠牲のあとで、それででもなければ決してふんぎりのつかなかつただらう新しい国民的理念への発足、その指標といふよりはそのこと自身を事実に具現しただいじな心棒であつた。あったはずだ――といはなければならないとただ今も考えたくはないところの、いさぎよい啓示であった。……前途の険難なくらゐは、私のやうな愚か者にも想像はできたが、想像において張り合いがあつたから、私ごとき末人の世すぎた者にとつても「五月三日」はよき日であつた。」
「戦争放棄と軍備の撤廃は、敗戦の大きな犠牲のあとで、それででもなければ決してふんぎりのつかなかつただらう新しい国民的理念への発足、その指標といふよりはそのこと自身を事実に具現しただいじな心棒であつた。あったはずだ――といはなければならないとただ今も考えたくはないところの、いさぎよい啓示であった。……前途の険難なくらゐは、私のやうな愚か者にも想像はできたが、想像において張り合いがあつたから、私ごとき末人の世すぎた者にとつても「五月三日」はよき日であつた。」
「陽春」とは「陰暦の正月」を言います。その日から日本国憲法が施行された昭和二十二年の「五月三日」が、今日では大型連休ゴールデンウィークの真ん中の日ですが、 「前途の険難」を踏まえて敢えてまだ「陽春、正月の某日」であるというのです。「平和憲法」が立派に堅持されるならば、五月三日は「初夏」のまことによき日になるのです。
ここで詩人の三好逹治は、『おんたまを故山に迎ふ』から『神風隊てふ』をへて、どこまでもその延長上にと「それででもなければ決してふんぎりのつかなかつただらう」と「戦争放棄と軍備の撤廃」の「平和憲法第九条」に至っています。その間に『反省』ということが全く乏しい。しかし「平和憲法第九条」を的確に捉えています。私はこの姿を日蓮宗の姿だと思いたい。
ところで、安保改定の渦中の時期に朝日新聞という天下のマスメディアにこれほどの意見を表明しながら、三好達治という詩人が社会的に動いた形跡が無いのはなぜか。当時の日本は米国とソ連という二大超大国の冷戦構造に挟まれて、何らかの動きをすれば必ず米ソいずれかの陣営に色分けされてしまう。いずれかの陣営と誤解されてしまう。日本独自の動きが出来ない。当時に原水爆禁止運動を中心に活動していた日蓮宗の立正平和運動も、大局的には世界の冷戦構造に挟まれて、同じ理由で停滞せざるを得なかったのが昭和三十年代のことで、立正平和運動のその停滞は五十年間近く経った今日までも続いているのです。
のち昭和四十四年に結成された日蓮宗の「立正平和の会」の中濃教篤師によれば(日蓮宗現代宗教研究所昭和六十一年三月一日発行の「現代宗教研究・第二十号」の論文中)、そういう冷戦構造の困難のなかで、昭和三十九年二月に茂田井教亨立正平和運動本部長の諮問により日蓮宗内の平和委員会から「平和憲法擁護の見解」が発表されたということです。茂田井教亨先生の責任において発表されたその見解には、次のように書かれています。その一部を引用します。茂田井教亨先生は日蓮教学の重鎮で立正大学教授でした。
ここで詩人の三好逹治は、『おんたまを故山に迎ふ』から『神風隊てふ』をへて、どこまでもその延長上にと「それででもなければ決してふんぎりのつかなかつただらう」と「戦争放棄と軍備の撤廃」の「平和憲法第九条」に至っています。その間に『反省』ということが全く乏しい。しかし「平和憲法第九条」を的確に捉えています。私はこの姿を日蓮宗の姿だと思いたい。
ところで、安保改定の渦中の時期に朝日新聞という天下のマスメディアにこれほどの意見を表明しながら、三好達治という詩人が社会的に動いた形跡が無いのはなぜか。当時の日本は米国とソ連という二大超大国の冷戦構造に挟まれて、何らかの動きをすれば必ず米ソいずれかの陣営に色分けされてしまう。いずれかの陣営と誤解されてしまう。日本独自の動きが出来ない。当時に原水爆禁止運動を中心に活動していた日蓮宗の立正平和運動も、大局的には世界の冷戦構造に挟まれて、同じ理由で停滞せざるを得なかったのが昭和三十年代のことで、立正平和運動のその停滞は五十年間近く経った今日までも続いているのです。
のち昭和四十四年に結成された日蓮宗の「立正平和の会」の中濃教篤師によれば(日蓮宗現代宗教研究所昭和六十一年三月一日発行の「現代宗教研究・第二十号」の論文中)、そういう冷戦構造の困難のなかで、昭和三十九年二月に茂田井教亨立正平和運動本部長の諮問により日蓮宗内の平和委員会から「平和憲法擁護の見解」が発表されたということです。茂田井教亨先生の責任において発表されたその見解には、次のように書かれています。その一部を引用します。茂田井教亨先生は日蓮教学の重鎮で立正大学教授でした。
平和憲法擁護の見解 茂田井教亨立正平和運動本部長の諮問による
「最近、内閣憲法調査会は最終答申案をまとめつつあるが、新聞紙その他の報道によれば、現行憲法を改定すべしとの意見が多く、政府もその方向に沿った改定を考慮しているとのことである。……現段階での改定は憲法第九条の戦争放棄の規定を変更する方向に沿って行われるのであろうことは明白である。不戦平和の現行憲法は、核兵器競争、核戦争の準備が依然として続けられている今日の国際政局の中で、国家エゴイズムによる武力の保持とその行使を否定する高い精神的立場を内外に宣明しているものであり、われわれ仏教徒は、「汝、殺すなかれ」と叫ばれた仏陀の教えにかなったものとして心からこれを支持しているのである。現行憲法に若干の不便があろうとも、憲法改定が必然的にこの不戦平和の基調を掘り崩すものである以上、われわれは、現行憲法は改定されるべきでなく、擁護されなければならないとの見解に立つものである。日蓮聖人の立正安国のご主張は、世界の平和なくして人間一人一人の安心はあり得ないことを明らかにしており、この祖意にしたがわんとするわれわれは、わが国が自前の利害によって平和憲法を改定し、末法の闘諍堅固の様相に自ら拍車をかけるがごときことは否定されねばならないと信ずるものである。」
「最近、内閣憲法調査会は最終答申案をまとめつつあるが、新聞紙その他の報道によれば、現行憲法を改定すべしとの意見が多く、政府もその方向に沿った改定を考慮しているとのことである。……現段階での改定は憲法第九条の戦争放棄の規定を変更する方向に沿って行われるのであろうことは明白である。不戦平和の現行憲法は、核兵器競争、核戦争の準備が依然として続けられている今日の国際政局の中で、国家エゴイズムによる武力の保持とその行使を否定する高い精神的立場を内外に宣明しているものであり、われわれ仏教徒は、「汝、殺すなかれ」と叫ばれた仏陀の教えにかなったものとして心からこれを支持しているのである。現行憲法に若干の不便があろうとも、憲法改定が必然的にこの不戦平和の基調を掘り崩すものである以上、われわれは、現行憲法は改定されるべきでなく、擁護されなければならないとの見解に立つものである。日蓮聖人の立正安国のご主張は、世界の平和なくして人間一人一人の安心はあり得ないことを明らかにしており、この祖意にしたがわんとするわれわれは、わが国が自前の利害によって平和憲法を改定し、末法の闘諍堅固の様相に自ら拍車をかけるがごときことは否定されねばならないと信ずるものである。」
「今日の国際政局の中で、国家エゴイズムによる武力の保持とその行使を否定する高い精神的立場を内外に宣明しているもの(注・憲法第九条の第二項のこと)」「日蓮聖人の立正安国のご主張は、世界の平和なくして人間一人一人の安心はあり得ないことを明らかにしており、……わが国が自前の利害によって平和憲法を改定し、末法の闘諍堅固の様相に自ら拍車をかけるがごときことは否定されねばならないと信ずるものである。」と、長年の停滞の中にも、なお今日の日蓮宗の「立正安国・お題目結縁運動」にも指針を与え続ける内容が示されているのです。
そして「この見解について、湯川日淳師は、「……今日平和共存が世界の人々の声になっているのは、『時』が広宣流布に向かって動いているのである。わが国の憲法に戦争放棄がうたわれているのは有力な広宣流布の立場であることを銘記すべきである。今や軍備全廃が世界の世論になりつつあるが、これは性得の仏性が修得の仏性として開顕しつつある時代ともいい得るのである。自衛のための武装という理由から憲法を変えようというのは時代逆行である。政治家がそのような
そして「この見解について、湯川日淳師は、「……今日平和共存が世界の人々の声になっているのは、『時』が広宣流布に向かって動いているのである。わが国の憲法に戦争放棄がうたわれているのは有力な広宣流布の立場であることを銘記すべきである。今や軍備全廃が世界の世論になりつつあるが、これは性得の仏性が修得の仏性として開顕しつつある時代ともいい得るのである。自衛のための武装という理由から憲法を変えようというのは時代逆行である。政治家がそのような
倒の考えにおちいっておる時は宗教者がこれを啓蒙せねばならぬ」と全面的支持の談話を「日蓮宗新聞」紙上に掲載している。」と中濃教篤師は論文中に続けて示しておられます。
唱題行の「求道同願会」で有名な湯川日淳師がこれほどはっきり「自衛のための武装という理由から憲法を変えようというのは時代逆行である。政治家がそのような倒の考えにおちいっておる時は宗教者がこれを啓蒙せねばならぬ」と発言されています。茂田井教亨先生も湯川日淳師も、冷戦構造の時代にこれほどはっきりと発表され発言されています。それから四十余年を経て、その間にソ連邦が崩壊して冷戦構造が無くなってからでも既に久しいのです。米ソいずれかの陣営に色分けされてしまうようなかつての誤解は、もはや世界の構造としては存在しないのです。今日の日蓮宗の「環境・平和・いのち」を掲げる「立正安国・お題目結縁運動」が、もはや誤解を怖れることなく、「平和憲法第九条の旗」を高く鮮明に掲げなくて何でありましょう。
4.戦犯裁判から見た平和憲法第九条の意義
日蓮宗の教誌“正法”(二〇〇七年・秋)に、B級戦犯・岡田資陸軍中将のことが出ています。そこでの紹介文に「一般市民に対する無差別爆撃をした兵士は、捕虜ではなく戦争犯罪人であるから処刑したと、自分の行為に言い訳もせず正々堂々と裁判で主張する岡田中将」とあります。彼の著作“毒箭”には「何も彼も悪いことは皆敗戦国が負うのか。何故、堂々と国家の正義を説き、国際情勢、民衆の要求、さては戦勝国の圧迫も、また重大なる戦因なりし事を明らかにしようとしないのか。」とあるそうです。
ここに戦犯裁判の争点とは、「東京大空襲等の無差別爆撃や原爆投下の国際法違反を鋭く突いて、国家の正義が日本とアメリカのどちらにあるのかを説くこと」なのであって、そこで「国家の正義」の究極のあり方として、A級戦犯・白鳥元イタリア大使において『平和憲法第九条・第二項』が登場してきたというわけです。
すなわち我々の『平和憲法第九条』は、敗戦国日本がその名誉を回復し進路を切り開こうとする時に、そこに発想された理念なのです。それは日蓮宗で言うところの積極的な『佛の正法』なのであり、仏教界一般に言われている「佛の不殺生戒」というような、「……してはいけません」という消極的性格のものではない、と私は思います。
ここに戦犯裁判の争点とは、「東京大空襲等の無差別爆撃や原爆投下の国際法違反を鋭く突いて、国家の正義が日本とアメリカのどちらにあるのかを説くこと」なのであって、そこで「国家の正義」の究極のあり方として、A級戦犯・白鳥元イタリア大使において『平和憲法第九条・第二項』が登場してきたというわけです。
すなわち我々の『平和憲法第九条』は、敗戦国日本がその名誉を回復し進路を切り開こうとする時に、そこに発想された理念なのです。それは日蓮宗で言うところの積極的な『佛の正法』なのであり、仏教界一般に言われている「佛の不殺生戒」というような、「……してはいけません」という消極的性格のものではない、と私は思います。
5.平和憲法第九条の源流は江戸時代以前に
そもそも歴史を振り返れば、日本の江戸時代の二六〇年間は平和な時代でした。嘉永六(一八五三)年にアメリカのペリーの黒船が来航して砲艦外交で威圧して来た。それに対抗するために日本は初めて近代的軍事力を持ち、軍国主義の道を選択し、昭和二〇(一九四五)年の敗戦に至った。降伏調印式の戦艦ミズーリ号の艦上に、かつてのペリーの黒船の軍艦旗をアメリカがわざわざ持って来て飾っていたことは有名な話です。
百年単位の視点で見れば、日本が明治維新以来の九十二年間の軍国主義の道を捨てて、かつての江戸時代の平和主義を継ぎ直すということが、戦後の日本が「平和憲法第九条」で再出発するということの意味なのです。
さらにその江戸時代の二六〇年間の平和主義がどこから出て来たかといえば、その前に百年間以上続いた戦国時代をいかに終わらせるかという、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下統一の問題のひとつの大きな答えなのです。国家を再統一して「平和」をもたらすという大きな目標、信長・秀吉・家康のその主題に全面的に協力した日蓮門下の中での大きな流れ、『受・不施派』と呼ばれる脈々としたその流れの本体が今日の日蓮宗に至っているのは、我々の宗門史の語るところでしょう。
信長が“本能寺の変”で討たれた時、接待を受けた後に堺の地にいた家康を無事に東国へ逃がした堺の勢力、その堺の日蓮門下の学問所から『受・不施派』は発祥して、やがて家康と共に大きな流れとなります。
京都の大本山・本國寺の『本圀寺年譜(三十五世日陵筆)』の文禄元年の項に、「秀吉が本圀寺大檀越の加藤清正に朝鮮出兵の総大将を命ずる時、南無妙法蓮華経の題目旗を授けた」と出ています。なぜこんなことが起こったのかと言うと「この題目旗は、“本能寺の変”の直前に信長が秀吉に毛利攻めの総大将を命じた時、信長から秀吉に授けられていたものである。今これをさらに清正に授ける、と秀吉から言われて感激した加藤清正は、屋敷に帰らずに本圀寺に参じて十六世日禛に報告した」というのです。織田の一門は元々が日蓮門下であり、信長・秀吉・家康の流れの「平和」の主題の底に、南無妙法蓮華経の題目旗が見え隠れする。「平和憲法」に繋がるものがここにも見える、と私は思います。
百年単位の視点で見れば、日本が明治維新以来の九十二年間の軍国主義の道を捨てて、かつての江戸時代の平和主義を継ぎ直すということが、戦後の日本が「平和憲法第九条」で再出発するということの意味なのです。
さらにその江戸時代の二六〇年間の平和主義がどこから出て来たかといえば、その前に百年間以上続いた戦国時代をいかに終わらせるかという、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下統一の問題のひとつの大きな答えなのです。国家を再統一して「平和」をもたらすという大きな目標、信長・秀吉・家康のその主題に全面的に協力した日蓮門下の中での大きな流れ、『受・不施派』と呼ばれる脈々としたその流れの本体が今日の日蓮宗に至っているのは、我々の宗門史の語るところでしょう。
信長が“本能寺の変”で討たれた時、接待を受けた後に堺の地にいた家康を無事に東国へ逃がした堺の勢力、その堺の日蓮門下の学問所から『受・不施派』は発祥して、やがて家康と共に大きな流れとなります。
京都の大本山・本國寺の『本圀寺年譜(三十五世日陵筆)』の文禄元年の項に、「秀吉が本圀寺大檀越の加藤清正に朝鮮出兵の総大将を命ずる時、南無妙法蓮華経の題目旗を授けた」と出ています。なぜこんなことが起こったのかと言うと「この題目旗は、“本能寺の変”の直前に信長が秀吉に毛利攻めの総大将を命じた時、信長から秀吉に授けられていたものである。今これをさらに清正に授ける、と秀吉から言われて感激した加藤清正は、屋敷に帰らずに本圀寺に参じて十六世日禛に報告した」というのです。織田の一門は元々が日蓮門下であり、信長・秀吉・家康の流れの「平和」の主題の底に、南無妙法蓮華経の題目旗が見え隠れする。「平和憲法」に繋がるものがここにも見える、と私は思います。
6.平和憲法第九条を「国立戒壇」と見る
帝国主義的戦争を計画し実行した日本の指導者集団のA級戦犯の、悔い改めない部分はひとまず置いて、「平和憲法」がB級・C級戦犯裁判の名誉回復の弁護を考える上で決定的に有力な論理となることや、また『受・不施派』の我々日蓮宗の歴史そのものが実は「平和憲法」の無意識の源流であって、我々の骨肉から「平和憲法」は生まれていると考えることで、「平和運動」すなわち「立正平和運動」の本当の足元が見えてくるというものでしょう。
そして湯川日淳師の「わが国の憲法に戦争放棄がうたわれているのは有力な広宣流布の立場である」という発言は、逆に言えば「我々の法華経広宣流布の立場がすでに我が国の憲法第九条第二項に明記されている」ということでしょう。
『国立戒壇』問題は、創価学会が勢力拡大の人集めのためにその論理を利用したものですが、特定宗教団体の教義が『国立戒壇』として立つことなどは、信教の自由を大原則とする近代憲法の下では荒唐無稽であり言語道断であると、世間から失笑を買い、我々もそれを傍観したものでした。
しかしここで静かに湯川日淳師の発言を観ずれば、信教の自由の大原則からも到底不可能と考えられるはずの、 「我々日蓮宗の『国立戒壇』が平和憲法第九条第二項として既に立っている!」のです。それは簡単に立ったものではありません。その「立つ」までの経過は冒頭より延々と述べてきた通りです。
そして憲法の仕組みというものは、「憲法第九条」の「戦争放棄と戦力不保持の平和の保障」を扇の要として、「主権在民」「社会福祉」「地方自治」「信教の自由」等の諸権利が現実問題として保障され成立してゆくのです。一旦戦争となれば、どんな権利も「戦争のため」と全て制限されてしまうではありませんか。ですから今日の日蓮宗の「環境・平和・いのち」を掲げる「立正安国・お題目結縁運動」が、『国立戒壇』の意識で我々の「平和憲法第九条の旗」を高く鮮明に掲げてこそ、その発展として、日蓮宗はあらゆる社会分野の活動に浸透して行けるでありましょう。
そして湯川日淳師の「わが国の憲法に戦争放棄がうたわれているのは有力な広宣流布の立場である」という発言は、逆に言えば「我々の法華経広宣流布の立場がすでに我が国の憲法第九条第二項に明記されている」ということでしょう。
『国立戒壇』問題は、創価学会が勢力拡大の人集めのためにその論理を利用したものですが、特定宗教団体の教義が『国立戒壇』として立つことなどは、信教の自由を大原則とする近代憲法の下では荒唐無稽であり言語道断であると、世間から失笑を買い、我々もそれを傍観したものでした。
しかしここで静かに湯川日淳師の発言を観ずれば、信教の自由の大原則からも到底不可能と考えられるはずの、 「我々日蓮宗の『国立戒壇』が平和憲法第九条第二項として既に立っている!」のです。それは簡単に立ったものではありません。その「立つ」までの経過は冒頭より延々と述べてきた通りです。
そして憲法の仕組みというものは、「憲法第九条」の「戦争放棄と戦力不保持の平和の保障」を扇の要として、「主権在民」「社会福祉」「地方自治」「信教の自由」等の諸権利が現実問題として保障され成立してゆくのです。一旦戦争となれば、どんな権利も「戦争のため」と全て制限されてしまうではありませんか。ですから今日の日蓮宗の「環境・平和・いのち」を掲げる「立正安国・お題目結縁運動」が、『国立戒壇』の意識で我々の「平和憲法第九条の旗」を高く鮮明に掲げてこそ、その発展として、日蓮宗はあらゆる社会分野の活動に浸透して行けるでありましょう。
7.沖縄からの発信
戦争に協力し、戦争を体験した中からこそ、自ら「平和憲法」が出て来たわけですが、そういう意味では「唯一の地上戦を体験した沖縄」からこそ、この憲法の精神は出て来るのです。しかし沖縄は、ずっと一貫してアメリカ軍の支配下に置かれて、「憲法」を云々出来るような恵まれた立場には無かったのです。
最近の『集団自決強制の教科書書き替え問題』で十一万六千人の沖縄県民集会がありましたが、「「強制が無かった」というほどかつての日本軍は自国の住民を掌握していなかった」のでしょうか。そんな不名誉があったはずは無く、軍民一体で全ては日本軍の統制に従っていた。だから、本土からは「神風特攻隊」が出撃し、地上戦が行われて負け戦となった沖縄では住民の玉砕すなわち「集団自決」が行われたのです。
カミソリ一枚しか持たない者は、それで妻の首を切り、そのあと自分の頸動脈を切って果て、切られた妻は切られ方が不十分で(自分で切ったのではないから)生き長らえてしまった。わら縄一本しか持たない家族は、縄で次々家族の首を締め殺し、最後はわら縄一本では自分の首は締め殺せず。何も持たない家族は、素手で家族の首を締め殺し、自分で自分の首は絞め殺せず、生き残った生き地獄がある。軍隊の強制という枠組みが無ければ、誰がすき好んでこんな「集団自決」をしますか。軍隊が自決用の手榴弾を渡した渡さない、命令した命令しないの問題ではないのです。
沖縄ではこのような「集団自決」が行われた。一方、地上戦にまで至らなかった日本本土では、そういう悲劇はなくて生き残っているではありませんか。誰もそんな家族や肉親に無駄な死に方殺し方をしたいと思わないのです。誰もそんなことはしないのです。
軍隊の統制の下に地上戦の戦闘行為の行われた負け戦の場所で「集団自決」の悲劇は起きたのです。全員が一緒に死のうと「死の方向」へ向かったその地点で、逆に『軍隊も戦争もいらない』と明るい「生の方向」への行進が始まったのが沖縄なのです。それこそが、A級戦犯白鳥の発想とも一致してゆく、「平和憲法第九条第二項」の精神なのです。
創価学会の池田大作は「こんな悲惨な経験をした沖縄が、幸せにならないでよいはずがない」と“人間革命”の冒頭を沖縄で書き出しています。言葉巧みに人心を集めておいてそして今、公明党として「平和憲法第九条第二項」を変質させようと企てています。私たち日蓮宗こそが沖縄の地において「平和憲法第九条第二項の旗」を鮮明にすべきです。
最近の『集団自決強制の教科書書き替え問題』で十一万六千人の沖縄県民集会がありましたが、「「強制が無かった」というほどかつての日本軍は自国の住民を掌握していなかった」のでしょうか。そんな不名誉があったはずは無く、軍民一体で全ては日本軍の統制に従っていた。だから、本土からは「神風特攻隊」が出撃し、地上戦が行われて負け戦となった沖縄では住民の玉砕すなわち「集団自決」が行われたのです。
カミソリ一枚しか持たない者は、それで妻の首を切り、そのあと自分の頸動脈を切って果て、切られた妻は切られ方が不十分で(自分で切ったのではないから)生き長らえてしまった。わら縄一本しか持たない家族は、縄で次々家族の首を締め殺し、最後はわら縄一本では自分の首は締め殺せず。何も持たない家族は、素手で家族の首を締め殺し、自分で自分の首は絞め殺せず、生き残った生き地獄がある。軍隊の強制という枠組みが無ければ、誰がすき好んでこんな「集団自決」をしますか。軍隊が自決用の手榴弾を渡した渡さない、命令した命令しないの問題ではないのです。
沖縄ではこのような「集団自決」が行われた。一方、地上戦にまで至らなかった日本本土では、そういう悲劇はなくて生き残っているではありませんか。誰もそんな家族や肉親に無駄な死に方殺し方をしたいと思わないのです。誰もそんなことはしないのです。
軍隊の統制の下に地上戦の戦闘行為の行われた負け戦の場所で「集団自決」の悲劇は起きたのです。全員が一緒に死のうと「死の方向」へ向かったその地点で、逆に『軍隊も戦争もいらない』と明るい「生の方向」への行進が始まったのが沖縄なのです。それこそが、A級戦犯白鳥の発想とも一致してゆく、「平和憲法第九条第二項」の精神なのです。
創価学会の池田大作は「こんな悲惨な経験をした沖縄が、幸せにならないでよいはずがない」と“人間革命”の冒頭を沖縄で書き出しています。言葉巧みに人心を集めておいてそして今、公明党として「平和憲法第九条第二項」を変質させようと企てています。私たち日蓮宗こそが沖縄の地において「平和憲法第九条第二項の旗」を鮮明にすべきです。
8.ビルマ難民支援のこと
最近にビルマ(ミャンマー)で起きた、軍事政権に対する大規模な反政府デモヘの武力弾圧に対し、この十月一日付けで出された日蓮宗宗務総長声明文(日蓮宗新聞・平成十九年十月十日号に掲載)は、「僧侶や市民に対する軍の武力行使」「僧侶を含む数名が発砲により死亡した事態」に対し「深い懸念と憤り」を表明し、「平和的な解決の方策」と「事態解決の努力」をミャンマー(ビルマ)政府と日本政府及び国連等関係機関に要望しました(直接に面会して文書を提出したのは、首相官邸の官房副長官宛)。
仏教僧侶が民衆と共に立ち上がり血の弾圧を受けたという、今回のビルマの緊急事態に対し、日蓮宗宗務院の即座の声明は素晴らしいものがあると思います。しかし日本政府が「アウンサウン・スーチー女史」他の民主化勢力とミャンマー政府とに等距離の関係を保つことを長年の方針としている以上、弱者の方の民主化勢力等が鎮圧され、短期問にマスコミの表面上は「平和」が回復してしまった今日では、日蓮宗宗務院にはどんな活動が可能でしょうか。一時的武力行使で表面上「平和的な解決」は達成されてしまったのです。
ここにもしも『平和憲法第九条第二項の旗』を日蓮宗の方針として考えるならば、我々の今日の平和で物も豊かで幸福な日本を表象するこの『旗』の種子が、ビルマにおいてどこに宿っているかといえば、それは「アウンサウン・スーチー女史」においてでありましょう。十一年の長きにわたり外部と遮断された軟禁状態におかれ、じっと耐え続けているのです。彼女は非暴力の立場を貫いています。『平和憲法第九条第二項』の精神です。
七年前に軟禁中の「アウンサウン・スーチー女史」に面会した日蓮宗の馬島浄圭上人は、名古屋でビルマ難民の支援に取り組んでいます。ビルマ軍事政権の弾圧で生活を破壊されて日本に避難して来たが、なかなか難民認定を受けられず、不法入国者の扱いを受けて苦しんでいる人々への支援です。日蓮宗はこんな活動にこそ取り組むべきだと思います。
それから、声明文の要望先として「国連」等関係機関とありますが、「国連」はなおむしろ『武力容認』の機関であり、軍事政権に対して本当に決定的な存在ではありません。『平和憲法第九条第二項』の精神で軍事力の愚を諭してこその解決でしょう。
仏教僧侶が民衆と共に立ち上がり血の弾圧を受けたという、今回のビルマの緊急事態に対し、日蓮宗宗務院の即座の声明は素晴らしいものがあると思います。しかし日本政府が「アウンサウン・スーチー女史」他の民主化勢力とミャンマー政府とに等距離の関係を保つことを長年の方針としている以上、弱者の方の民主化勢力等が鎮圧され、短期問にマスコミの表面上は「平和」が回復してしまった今日では、日蓮宗宗務院にはどんな活動が可能でしょうか。一時的武力行使で表面上「平和的な解決」は達成されてしまったのです。
ここにもしも『平和憲法第九条第二項の旗』を日蓮宗の方針として考えるならば、我々の今日の平和で物も豊かで幸福な日本を表象するこの『旗』の種子が、ビルマにおいてどこに宿っているかといえば、それは「アウンサウン・スーチー女史」においてでありましょう。十一年の長きにわたり外部と遮断された軟禁状態におかれ、じっと耐え続けているのです。彼女は非暴力の立場を貫いています。『平和憲法第九条第二項』の精神です。
七年前に軟禁中の「アウンサウン・スーチー女史」に面会した日蓮宗の馬島浄圭上人は、名古屋でビルマ難民の支援に取り組んでいます。ビルマ軍事政権の弾圧で生活を破壊されて日本に避難して来たが、なかなか難民認定を受けられず、不法入国者の扱いを受けて苦しんでいる人々への支援です。日蓮宗はこんな活動にこそ取り組むべきだと思います。
それから、声明文の要望先として「国連」等関係機関とありますが、「国連」はなおむしろ『武力容認』の機関であり、軍事政権に対して本当に決定的な存在ではありません。『平和憲法第九条第二項』の精神で軍事力の愚を諭してこその解決でしょう。
9.結び
戦国時代を統一して江戸時代の平和の世をもたらした精神が、明治以来の軍国主義の体験を経て成立したのが『平和憲法第九条第二項』の精神です。その経過を『反省して捨てる』のではなく、全部を認めるべきです。そして『平和憲法第九条第二項』を拠り所として、日蓮宗は立正平和運動に取り組むべきです。(了)
司会者 少しお時間がございますので質疑を致したいと存じますが、どなたか如何でございましょうか。新間先生如何でございますか。
新間智照師 いいお話をしていただきましてありがとうございます。新間です。立正平和の会の理事長をしております。立正平和運動は、なかなか活発にいかない所がありますが、そういう風に励ましていただきまして、お互いに一緒にやるというところでありがたいと思っております。ありがとうございます。
司会者 他にどなたか如何でございましょう。はい、石川上人。
石川修道師 石川でございます。沖縄からの発信、これはもう沖縄に関しては三好上人以上に詳しい方は本宗にいないと思います。しかしながら、集団自決を軍の命令でしたんだというものを書くならば、曽野綾子さんが調べたことの記事も両方載せてもらいたいと思います(渡嘉敷島における村民の集団自決は、赤松嘉次大尉、つまり軍の自決命令は出されていないという曽野綾子氏の現地調査報告)。それから、集団自決は軍の命令だけじゃなくて、日本人の精神構造として、本丸が焼けた時に日本人はみんな集団自決しているわけです。武士の社会で。白虎隊もそうです。鶴ヶ城が焼けたのを見てて、飯盛山で切腹、自決するわけです。ですから、日本人の精神の中にそういうものがあるということですね。赤穂浪士も、もし大名に預かりがなければ、自分達は、上野介の首を泉岳寺に、供えたあと切腹する予定だったわけですから。ともかく、自決が一方的な力でやられただけじゃなく、日本人の精神構造の中に、一つのものを、責任を果たしたときに自決する精神が武士の中にあった。それが恐らく、島民も日本人である部分あったと思います。
三好師 ですからそういうことを踏まえて、一番の源流は信長・秀吉・家康と、まずそこまでは遡る、もっとほんとは遡ることが必要だと思いますんですけど、そこまで遡って、だからその時それじゃあ日蓮宗の僧侶がその場面に居合わせてどういうね、日蓮宗の檀信徒に赤穂浪士の一人がいればどういう指導をするかという、そういうことに関わってくると思うんですよ。そういう問題であろうかなという風に、思います。だから勿論、沖縄のことで言いましたらもっとちゃんと論じるべきですが、今回は沖縄のことがテーマではございませんので、まあ私の結論としてはそういう立場として、書かせてもらったんですけども。いろんなそういうことを、本当にそれぞれの自坊の歴史を踏まえてやっていくのが、やはり本当の地に足の着いた立正平和運動じゃないかという風に思います。上からなんか時流でこうしないといけないという風な感じでは、やっぱり駄目だったんだろうなと、いう風なことを思うわけです。ですからまずその、他の宗派の方が、宗議会で反省されたり、決議とかして運動されたりというようなことが、あるわけですが、日蓮宗が何故反省の決議をしないのかは、内輪ではよくわかると思いますんです、そういう所。それと、外部のことで言いますとやっぱり、行動することが大事じゃないかと。いろんな現場に行って、今、だから石川修道さんが言われたことは平和運動のそういう現場の所で、言うことは私十分可能だと思うんですよ、どうなんだと。自決のこととか。そういう所で、じゃあみんなで勉強してみようということで議論を深めることが、一番大事なことではないかと思っています。私も実際の運動ではないですけれども、沖縄の戦争体験を伝える映画の上映会というのに関わることで、沖縄のことを色々考えて、それと、憲法九条のこと、いろんな人の論説とか見たり、それから、もう三十五年前から疑問に思ってることなんかを基礎にして今日、一つの提言のつもりで、言わせてもらったんですけども、やはり何か動いていって、私たちの、お寺の存在意義の一つとして、非常に大事なことじゃないかという風に私は考えておるわけでございます。
司会者 その他に如何でございましょうか。はい、どうぞ。
今井正行師 今井と申します。三好達治の詩は戦争協力の詩となっているので私の読み方が足りないのかと思うのですが、読んだ感じでは反戦歌のような気がするんです。
三好師 まあ、それはね。でもだいたい、これは何か広い会場で、詩の朗読会みたいなのがあって、当時の女学生が非常に涙したという、それで兵士を送り出していったという、それから特攻隊で死ななくて帰ってきた人がやっぱりこの詩を読んでまた出撃していったという、そういうことが実際にあった詩でありますから、だからまあ戦後の風潮から言うと、別にその時も戦争協力とかそういうのじゃなくて、みんな、当たり前にみんな各々のように生きていたと思いますんですけど。戦後から見たら戦争協力詩、というようになっていると。
今井師 最後のほうに「妻も子もうからもすてて いでまししかのつはものの しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ」。
三好師 まあ、今日もですね、結局十機いけば十機帰ってこないと。もう、出発時点から実は協力の詩じゃなくって、ほんとは協力じゃなかった面があるから、だから簡単にその、時流に乗って反省と言われても、我々が真面目に受け止めたらどこを反省していいか分からない。
今井師 私はそんな感じがしました。
三好師 はい、その通り、仰有る通りだと思います。
今井師 それからもう一つ。ここに憲法問題で、白鳥元イタリア大使の新聞記事がありますが、先日『日本の青空』という憲法成立の映画を見ましたら、立正大学法学部の先生もなさった鈴木安蔵先生が中心になった憲法調査会というのがあって、そこで色々と練られた草案をGHQの司令部で取り上げていったんだという経緯で、この映画は進んでいました。そのあたりが少し分からないんですが、参考に一言いただけませんか。
三好師 ちょっと専門的には、研究として怠け者の所がありましてですね。
今井師 いえいえ、一言だけでも。
三好師 まあ、大新聞が一面で報じているから、ある程度採用しておいていいだろうという感触でやってますんですけども。あの、それと平和運動、憲法を擁護しようというような人々の議論の中で、あの、憲法9条はこれは外国由来のものじゃないなというふうな論理に向かってきてるような、感じがいたしております。そういう、いろんな大きな枠組みを考えてみますと、例えば、私は戦後生まれで普通に戦後の学校教育で、まあ、国連、国連は調停機関として、非常に公平でいいものであるという風な、平和憲法も大事なものだという。で、今考えると国連というのはですね、武力を行使して調停しようということですから、究極的に。憲法九条国連主義と合ってないという、国連主義を良いものとしていくと憲法改定をしていかなきゃいけないという問題が、間違いなく出てきているわけです、今民主党の小沢さんが言ってるみたいに。小沢さんが苦しんでいるのはその辺の所の読み間違えという、国連主義と憲法九条は全然違う、だから、白鳥が出したというのは非常に象徴的で、松岡洋右、白鳥敏夫という、国際連盟も認めないという風な、そういう筋から憲法九条が出ていると考えたら非常に分かりやすいんじゃないでしょうか。日本の立場というのは何かそういう、特殊な立場、明治からの、そういうようなところから憲法九条が出ているという風な、だからこれを安易に捨てるというのはこれ、ほんとに日本の大事なものだと、あとでいいますとね。平和運動やってる人そのものにとってじゃなくて、我々の精神的な文化のものなんです。先ほどだから石川修道さん言われたように赤穂浪士のような問題に関わってくる、そこの所が、あの、死ぬほうに行くのか、そんなん言わんと生きるほうに行くのかって。それでなおかつちゃんとした精神が立つかどうかということを、やはりそれをちゃんと人に説得してゆくのがやっぱり宗教の恐らく立場だと。そこで我々宗教者が出てきて、そこでまたお寺の存在にも関わることが出てくるんじゃないかと思って、思いがしてますんですけど。まあ、勝手なことを喋りました。
司会者 ありがとうございます。はい、梅森師。
梅森寛誠師 主旨は非常によく理解できました。賛同する部分も多いです。ただちょっと、言葉の定義として、反省という言葉が何というか、受け取りかたによっては、あらぬ誤解を受けてしまう。三好上人の論旨を聞かれて、反省しなくてもいいんだみたいな、そういうように飛躍するようなものが出てきかねないかなと、ちょっと心配になったんですよね。三好達治さんの詩も、先ほどの説明で反戦的な意味合いもあるんじゃないかとある通り、けっして、反省というものは強要されるもんじゃないとか、そういうことも伺えると思うんです。が、実際にそのことを反省した人もいるわけです。それは端的には、「中帰蓮」と呼ばれている人達がです、戦後中国の非常に貧しい中で、自分たちはコーリャンも米も食べないで、そういう戦犯と呼ばれている人達に白米を与えて、文章を書かせる、それはある意味では、一つの宣伝、画策だったという面もあるかも知れませんが、そこで、その当事者達は、加害者としての面を突きつけられるわけですね。そこでもう、全体を知らされていなかったにしても、その罪を心底反省したと思うんです。それが日本に帰ってきたら、これは「アカ」だとかという形で叩かれてしまうという、痛ましい事実も、実際読んだことあるんですけども。例えば、そういうような意味での反省ということは必要だったんだろうと思いますけど、その辺の、反省という問題をどういう風に交通整理したらいいでしょうか。
三好師 私はその人が反省する必要はないと思います。あの、梅森さんがそういうように、仰有ってることで、それもまた色々やっていけばまた、見方が変わってくるんじゃないかと思います。今私が提言しているのは、憲法九条は国内問題だと思います、一つはね。そこで憲法九条というものをまず選んで、考えていく上で次に、外国における戦争犯罪の問題ということ、それはまた考えていく。まず一つ、それを決めた上で次にやってよいことではないかと。だからあの、段々に進んでいけるんじゃないかと思うんですけど。まあ、いっぺんにその両方の状況が出てくるわけですけど。沖縄の問題というのは、日本とちょうど外国の問題との間にあるような、場所、位置づけにあると思います。だから、じっくりと、いろんな今の現在ある、とにかく前に動いていかないと、じっと座ったままでは、あの、何も出てこないんじゃないかと、いろんな平和運動している人の中に入っていくことがまず大事ではないかと思うんです。その時にですね、あの、私反省しました、証文で入れさせてもらいますというんじゃなくて、それは全然関係なしに我々は堂々と入っていけばいいんだと、勿論、迎える方もそんなものはないだろうと思いますけども。今、特にそういうものはないだろうと思います。米ソの冷戦構造の時はいろんなものがあったんだろうけど、政治的なものは特に激しかった。今はそういうものがないから、もっとどんどん、あの、入っていって、率直に思うことを、どんどん、考えていくべきではないかと思います。梅森上人とはあの、鋭く対決しておりますから(笑)。
梅森師 時流に乗って反省を強要されてるというような人もあったかと思うんです。そういったものはまず論外に置いておいて。
三好師 だけど、それじゃね、中国が偉そうに言うけど、武力
梅森師 中国だけに拘ってるわけじゃないんですけども。
三好師 武力を持ってるんですよ、そしてだからあの、あれなんですよ、あんな尖閣列島の所で中国の潜水艦がうろうろするから、平和憲法を変えるべきだという風な、中国の策謀っていうのは平和憲法を守ろうという人達を、苦しめてるんですよ。間違いなく中国はこういう平和憲法の発想を持ってきていないということですよ。中国からは平和憲法の発想は出なかったのです。第九条第二項というものは、第二次世界大戦が終わった国の、終わった場所において、日本でしか出てないということですよ。それは我々は堂々と自信を持っていいんですよ。だからこれでやっぱり私は、荒唐無稽かも知れないけど北朝鮮の拉致問題も、やっぱりこれで押さないと駄目だと思うんです。平和憲法で。お前達は何をちょろちょろやってるか、もう、軍隊もってどうだとか拉致してね、戦争やったりね、日本に攻めていったりとかそんな馬鹿なことやるから、拉致なんてこと考えてね、物を隠したりやってるわけですよ。何を馬鹿な、日本はそんな馬鹿なことはしないっていうような、それをもって、外交の基本にして当たらないと。六カ国協議なんてかつての戦勝国ばっかりじゃないですか、日本以外。同じなんですよ、だからあの、もう拉致の前に、真珠湾で孤立してたわけですよ。だから、真珠湾の思いでもって、武力を持たずに、日本は頑張るべきであるというのが私の、まあ簡単に言えばそういう提言です。だから、文句言われるんだったら、九条で絶対武器も何も持ってないんだから、武器持ってちょろちょろして赤軍持ったりどうのとか、毛沢東の軍と、それから、路軍の中でも林彪の軍隊は酷かった、そういうもののとこで教育されてきて反省とかね、もうそんな細かいことじゃないと思うんですよ。だから九条の第二項を堅持するということの意味というのをものすごく私は、名誉、あらゆる人の名誉を回復していく、そういうものではないかと思う、気がいたしてるわけです。だからあの、そういうとこじゃ勉強させてもらっていっているわけです、平和運動のそういう所でいろんな意味を。
梅森師 反省ということも含めて、きちんと見つめるというか、向き合うということが、基本にあった上で、どうするべきかというのが大事なんだろうと僕は受け取ったんですけれども、そういう理解でいいんですかね。違うんですか。(笑)
三好師 それは、色々あっていいんじゃないかと思いますけども。
司会者 お時間になってまいりましたので、また個人的にお願いを致したいと存じます。どうも三好上人、大変長時間に渡りありがとうございました。(拍手)
新間智照師 いいお話をしていただきましてありがとうございます。新間です。立正平和の会の理事長をしております。立正平和運動は、なかなか活発にいかない所がありますが、そういう風に励ましていただきまして、お互いに一緒にやるというところでありがたいと思っております。ありがとうございます。
司会者 他にどなたか如何でございましょう。はい、石川上人。
石川修道師 石川でございます。沖縄からの発信、これはもう沖縄に関しては三好上人以上に詳しい方は本宗にいないと思います。しかしながら、集団自決を軍の命令でしたんだというものを書くならば、曽野綾子さんが調べたことの記事も両方載せてもらいたいと思います(渡嘉敷島における村民の集団自決は、赤松嘉次大尉、つまり軍の自決命令は出されていないという曽野綾子氏の現地調査報告)。それから、集団自決は軍の命令だけじゃなくて、日本人の精神構造として、本丸が焼けた時に日本人はみんな集団自決しているわけです。武士の社会で。白虎隊もそうです。鶴ヶ城が焼けたのを見てて、飯盛山で切腹、自決するわけです。ですから、日本人の精神の中にそういうものがあるということですね。赤穂浪士も、もし大名に預かりがなければ、自分達は、上野介の首を泉岳寺に、供えたあと切腹する予定だったわけですから。ともかく、自決が一方的な力でやられただけじゃなく、日本人の精神構造の中に、一つのものを、責任を果たしたときに自決する精神が武士の中にあった。それが恐らく、島民も日本人である部分あったと思います。
三好師 ですからそういうことを踏まえて、一番の源流は信長・秀吉・家康と、まずそこまでは遡る、もっとほんとは遡ることが必要だと思いますんですけど、そこまで遡って、だからその時それじゃあ日蓮宗の僧侶がその場面に居合わせてどういうね、日蓮宗の檀信徒に赤穂浪士の一人がいればどういう指導をするかという、そういうことに関わってくると思うんですよ。そういう問題であろうかなという風に、思います。だから勿論、沖縄のことで言いましたらもっとちゃんと論じるべきですが、今回は沖縄のことがテーマではございませんので、まあ私の結論としてはそういう立場として、書かせてもらったんですけども。いろんなそういうことを、本当にそれぞれの自坊の歴史を踏まえてやっていくのが、やはり本当の地に足の着いた立正平和運動じゃないかという風に思います。上からなんか時流でこうしないといけないという風な感じでは、やっぱり駄目だったんだろうなと、いう風なことを思うわけです。ですからまずその、他の宗派の方が、宗議会で反省されたり、決議とかして運動されたりというようなことが、あるわけですが、日蓮宗が何故反省の決議をしないのかは、内輪ではよくわかると思いますんです、そういう所。それと、外部のことで言いますとやっぱり、行動することが大事じゃないかと。いろんな現場に行って、今、だから石川修道さんが言われたことは平和運動のそういう現場の所で、言うことは私十分可能だと思うんですよ、どうなんだと。自決のこととか。そういう所で、じゃあみんなで勉強してみようということで議論を深めることが、一番大事なことではないかと思っています。私も実際の運動ではないですけれども、沖縄の戦争体験を伝える映画の上映会というのに関わることで、沖縄のことを色々考えて、それと、憲法九条のこと、いろんな人の論説とか見たり、それから、もう三十五年前から疑問に思ってることなんかを基礎にして今日、一つの提言のつもりで、言わせてもらったんですけども、やはり何か動いていって、私たちの、お寺の存在意義の一つとして、非常に大事なことじゃないかという風に私は考えておるわけでございます。
司会者 その他に如何でございましょうか。はい、どうぞ。
今井正行師 今井と申します。三好達治の詩は戦争協力の詩となっているので私の読み方が足りないのかと思うのですが、読んだ感じでは反戦歌のような気がするんです。
三好師 まあ、それはね。でもだいたい、これは何か広い会場で、詩の朗読会みたいなのがあって、当時の女学生が非常に涙したという、それで兵士を送り出していったという、それから特攻隊で死ななくて帰ってきた人がやっぱりこの詩を読んでまた出撃していったという、そういうことが実際にあった詩でありますから、だからまあ戦後の風潮から言うと、別にその時も戦争協力とかそういうのじゃなくて、みんな、当たり前にみんな各々のように生きていたと思いますんですけど。戦後から見たら戦争協力詩、というようになっていると。
今井師 最後のほうに「妻も子もうからもすてて いでまししかのつはものの しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ」。
三好師 まあ、今日もですね、結局十機いけば十機帰ってこないと。もう、出発時点から実は協力の詩じゃなくって、ほんとは協力じゃなかった面があるから、だから簡単にその、時流に乗って反省と言われても、我々が真面目に受け止めたらどこを反省していいか分からない。
今井師 私はそんな感じがしました。
三好師 はい、その通り、仰有る通りだと思います。
今井師 それからもう一つ。ここに憲法問題で、白鳥元イタリア大使の新聞記事がありますが、先日『日本の青空』という憲法成立の映画を見ましたら、立正大学法学部の先生もなさった鈴木安蔵先生が中心になった憲法調査会というのがあって、そこで色々と練られた草案をGHQの司令部で取り上げていったんだという経緯で、この映画は進んでいました。そのあたりが少し分からないんですが、参考に一言いただけませんか。
三好師 ちょっと専門的には、研究として怠け者の所がありましてですね。
今井師 いえいえ、一言だけでも。
三好師 まあ、大新聞が一面で報じているから、ある程度採用しておいていいだろうという感触でやってますんですけども。あの、それと平和運動、憲法を擁護しようというような人々の議論の中で、あの、憲法9条はこれは外国由来のものじゃないなというふうな論理に向かってきてるような、感じがいたしております。そういう、いろんな大きな枠組みを考えてみますと、例えば、私は戦後生まれで普通に戦後の学校教育で、まあ、国連、国連は調停機関として、非常に公平でいいものであるという風な、平和憲法も大事なものだという。で、今考えると国連というのはですね、武力を行使して調停しようということですから、究極的に。憲法九条国連主義と合ってないという、国連主義を良いものとしていくと憲法改定をしていかなきゃいけないという問題が、間違いなく出てきているわけです、今民主党の小沢さんが言ってるみたいに。小沢さんが苦しんでいるのはその辺の所の読み間違えという、国連主義と憲法九条は全然違う、だから、白鳥が出したというのは非常に象徴的で、松岡洋右、白鳥敏夫という、国際連盟も認めないという風な、そういう筋から憲法九条が出ていると考えたら非常に分かりやすいんじゃないでしょうか。日本の立場というのは何かそういう、特殊な立場、明治からの、そういうようなところから憲法九条が出ているという風な、だからこれを安易に捨てるというのはこれ、ほんとに日本の大事なものだと、あとでいいますとね。平和運動やってる人そのものにとってじゃなくて、我々の精神的な文化のものなんです。先ほどだから石川修道さん言われたように赤穂浪士のような問題に関わってくる、そこの所が、あの、死ぬほうに行くのか、そんなん言わんと生きるほうに行くのかって。それでなおかつちゃんとした精神が立つかどうかということを、やはりそれをちゃんと人に説得してゆくのがやっぱり宗教の恐らく立場だと。そこで我々宗教者が出てきて、そこでまたお寺の存在にも関わることが出てくるんじゃないかと思って、思いがしてますんですけど。まあ、勝手なことを喋りました。
司会者 ありがとうございます。はい、梅森師。
梅森寛誠師 主旨は非常によく理解できました。賛同する部分も多いです。ただちょっと、言葉の定義として、反省という言葉が何というか、受け取りかたによっては、あらぬ誤解を受けてしまう。三好上人の論旨を聞かれて、反省しなくてもいいんだみたいな、そういうように飛躍するようなものが出てきかねないかなと、ちょっと心配になったんですよね。三好達治さんの詩も、先ほどの説明で反戦的な意味合いもあるんじゃないかとある通り、けっして、反省というものは強要されるもんじゃないとか、そういうことも伺えると思うんです。が、実際にそのことを反省した人もいるわけです。それは端的には、「中帰蓮」と呼ばれている人達がです、戦後中国の非常に貧しい中で、自分たちはコーリャンも米も食べないで、そういう戦犯と呼ばれている人達に白米を与えて、文章を書かせる、それはある意味では、一つの宣伝、画策だったという面もあるかも知れませんが、そこで、その当事者達は、加害者としての面を突きつけられるわけですね。そこでもう、全体を知らされていなかったにしても、その罪を心底反省したと思うんです。それが日本に帰ってきたら、これは「アカ」だとかという形で叩かれてしまうという、痛ましい事実も、実際読んだことあるんですけども。例えば、そういうような意味での反省ということは必要だったんだろうと思いますけど、その辺の、反省という問題をどういう風に交通整理したらいいでしょうか。
三好師 私はその人が反省する必要はないと思います。あの、梅森さんがそういうように、仰有ってることで、それもまた色々やっていけばまた、見方が変わってくるんじゃないかと思います。今私が提言しているのは、憲法九条は国内問題だと思います、一つはね。そこで憲法九条というものをまず選んで、考えていく上で次に、外国における戦争犯罪の問題ということ、それはまた考えていく。まず一つ、それを決めた上で次にやってよいことではないかと。だからあの、段々に進んでいけるんじゃないかと思うんですけど。まあ、いっぺんにその両方の状況が出てくるわけですけど。沖縄の問題というのは、日本とちょうど外国の問題との間にあるような、場所、位置づけにあると思います。だから、じっくりと、いろんな今の現在ある、とにかく前に動いていかないと、じっと座ったままでは、あの、何も出てこないんじゃないかと、いろんな平和運動している人の中に入っていくことがまず大事ではないかと思うんです。その時にですね、あの、私反省しました、証文で入れさせてもらいますというんじゃなくて、それは全然関係なしに我々は堂々と入っていけばいいんだと、勿論、迎える方もそんなものはないだろうと思いますけども。今、特にそういうものはないだろうと思います。米ソの冷戦構造の時はいろんなものがあったんだろうけど、政治的なものは特に激しかった。今はそういうものがないから、もっとどんどん、あの、入っていって、率直に思うことを、どんどん、考えていくべきではないかと思います。梅森上人とはあの、鋭く対決しておりますから(笑)。
梅森師 時流に乗って反省を強要されてるというような人もあったかと思うんです。そういったものはまず論外に置いておいて。
三好師 だけど、それじゃね、中国が偉そうに言うけど、武力
梅森師 中国だけに拘ってるわけじゃないんですけども。
三好師 武力を持ってるんですよ、そしてだからあの、あれなんですよ、あんな尖閣列島の所で中国の潜水艦がうろうろするから、平和憲法を変えるべきだという風な、中国の策謀っていうのは平和憲法を守ろうという人達を、苦しめてるんですよ。間違いなく中国はこういう平和憲法の発想を持ってきていないということですよ。中国からは平和憲法の発想は出なかったのです。第九条第二項というものは、第二次世界大戦が終わった国の、終わった場所において、日本でしか出てないということですよ。それは我々は堂々と自信を持っていいんですよ。だからこれでやっぱり私は、荒唐無稽かも知れないけど北朝鮮の拉致問題も、やっぱりこれで押さないと駄目だと思うんです。平和憲法で。お前達は何をちょろちょろやってるか、もう、軍隊もってどうだとか拉致してね、戦争やったりね、日本に攻めていったりとかそんな馬鹿なことやるから、拉致なんてこと考えてね、物を隠したりやってるわけですよ。何を馬鹿な、日本はそんな馬鹿なことはしないっていうような、それをもって、外交の基本にして当たらないと。六カ国協議なんてかつての戦勝国ばっかりじゃないですか、日本以外。同じなんですよ、だからあの、もう拉致の前に、真珠湾で孤立してたわけですよ。だから、真珠湾の思いでもって、武力を持たずに、日本は頑張るべきであるというのが私の、まあ簡単に言えばそういう提言です。だから、文句言われるんだったら、九条で絶対武器も何も持ってないんだから、武器持ってちょろちょろして赤軍持ったりどうのとか、毛沢東の軍と、それから、路軍の中でも林彪の軍隊は酷かった、そういうもののとこで教育されてきて反省とかね、もうそんな細かいことじゃないと思うんですよ。だから九条の第二項を堅持するということの意味というのをものすごく私は、名誉、あらゆる人の名誉を回復していく、そういうものではないかと思う、気がいたしてるわけです。だからあの、そういうとこじゃ勉強させてもらっていっているわけです、平和運動のそういう所でいろんな意味を。
梅森師 反省ということも含めて、きちんと見つめるというか、向き合うということが、基本にあった上で、どうするべきかというのが大事なんだろうと僕は受け取ったんですけれども、そういう理解でいいんですかね。違うんですか。(笑)
三好師 それは、色々あっていいんじゃないかと思いますけども。
司会者 お時間になってまいりましたので、また個人的にお願いを致したいと存じます。どうも三好上人、大変長時間に渡りありがとうございました。(拍手)