現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
大地動乱の時代を迎えて、原発との「共存」を強いられる私たちは
大地動乱の時代を迎えて、原発との「共存」を強いられる私たちは
梅 森 寛 誠
梅森でございます。「大地動乱の時代を迎えて、原発との『共存』を強いられる私たちは」という長いタイトルですが、まず「大地動乱」というのは、文字通りの意味です。まさに、大地震によって大地が揺れ動く。それがかなり頻繁に起こる時代を迎えるぞ、という。実はこれ、著名な地震学者の著書によるものです。原発との「共存」を強いられる、ということは、今実際に国策として原子力発電が強いられる、という事実に基づいております。二〇〇五年に策定された「原子力政策大綱」の中には、二〇三〇年に向けて原子力発電を、三〇%ないし四〇%、あるいはそれ以上の基幹電源に位置付け、着実に推進していく、と述べられています。私は猛反発しております。この二十年来、私自身はこの問題にずっと関わっておりますが、今回は特に地震との関連について、少々述べたいと思います。
①原発を考える ─番神岬はいま─
本年(二〇〇七年)七月十六日に、原発七基の立地する、新潟の柏崎刈羽に於いて中越沖地震が襲いました。震度六強とか七とか言われておりますが。実際、何とか止まりはしましたが、相当な被害を受けたことが、いろいろ報道されました。必ずしも報道されている通りではないところもありますが。
平成十二年(二〇〇〇年)の『現代宗教研究』第三十四号巻頭言で、石川浩徳現代宗教研究所長(当時)が、現代における問題点として、原発を考える─番神岬はいま─、を述べられています。その中にも触れられていますが、前年の一九九九年に、東海村のJCOという核燃料加工工場で住民被曝させるほどの事故がありました。それを踏まえて私は、宗門教師に呼びかけて、国・科学技術庁(当時)に申し入れを行いました。そうした経緯ややり取りの中で、この記事は大変鮮明に記憶に留めておりました。
そこで述べられる柏崎の番神岬とは、ご承知の通り、日蓮聖人が佐渡から赦免されて漂着した場所です。今、番神堂が建っています。石川元所長は、そこから「目と鼻の先ほどの所にひときわ目立つ建物が見える」柏崎刈羽原発を挙げ「七百年の昔、世の中の不正を法華経の教えによって糺し、人々の幸せを願って法華経を弘通したがために、命に及ぶほどの法難を受けられた日蓮聖人ゆかりの霊跡がある柏崎に、ひとつ間違えば重大な事故につながる原子力発電所が七基も設置されてあるのだ」と、述べられています。
②番神岬より柏崎刈羽原発を臨む
新潟中越沖地震と柏崎刈羽原発の被害
此度の地震で、この番神岬付近も大きな被害を受けたわけですが。前の記述を思い返しまして、今回はじめて、番神堂をお参りし、また柏崎刈羽原発も訪問する機会を、急遽設けました。中越沖地震とその被害を経て、宗祖の漂着地と、世界一集中する原子力発電所、前の記述の場所に立ち、改めてその象徴する意味を自分なりに修めることができました。
実際現地を訪問して、今回の地震では本当に「危機一髪」だったことが知らされました。もっとも、私が行った時は、写真で見たズタズタになった敷地内の道路などはすっかり修復された後でしたが。国や事業者は「止める」「冷やす」「閉じ込める」、この三つが成功したから安全が確認されたんだ、と豪語するんですが。実際は「危機一髪」だった。
今回の発表のタイトルとなった『大地動乱の時代─地震学者は警告する─』を著した石橋克彦氏は、「今回は非常にラッキーだった」「震源が原発直下ではなくて十六キロ離れていた」「マグニチュード六・八で済んだが、六四年の新潟地震のようにマグニチュード七・五だったら、原発震災が起こっていただろう」と述べています。
また、この場所が劣悪な地盤で、かつ活断層がある(東京電力が否定する中で)と、七〇年代はじめから言い続けている人がいます。刈羽村元村議の武本和幸氏で、法廷闘争となり、今は最高裁段階です。今回の地震は、一貫して主張してきたことが、現実となって裏付けられたわけですが。その彼が、この事態に対して結論付けてこう述べています。「中越沖地震というのは『自然の制御は可能だ、原発の耐震設計は充分だ』と奢る人間への、自然からの警鐘だったのではないか」と。その辺りの所を、少なくとも宗教者として関わる立場として、この事態をどう見るべきか、示唆的に受け止めています。
それで、被害がどういう情況だったかというと、たくさん報じられていますが、目立ったものは三号機の変圧器の火災。二時間ほど消火できず放置した、そうせざるを得ない情況だったことが、世界中に広まりました。あるいは、七基の情報が全部詰まっている緊急対策室の扉が歪んで開かない、それでやむなく青空会議を行ったとか、すごい話もNHKの報道等で知ることができました。原発の耐震基準には、旧指針で四ランクあり、炉心部は確かにかなり厳しい基準ではありますが、この変圧器や緊急対策室などはCクラス・一般建築並みのランクでした。とはいえ、これらは一体となったプラントですので、その部分がダメになると、そこから連動して全体的に危険が増す、ということも知らされたわけですね。
それでは炉心部は大丈夫だったかというと、そうではない。十月に入ってからの情報ですが、一部で制御棒が抜けない、不具合な状態だったようです。確かに原子炉自体は、ある振動(加速度)の基準を越えると自動停止するしくみになっていて、それは成功しましたが。ここのBWR(沸騰水)型の原発は、制御に関して重力に反する設計になっていて、下から水圧で制御棒を挿入するんですが、今年発覚した過去の事故例として、石川県の志賀原発などでは、この制御棒が落ちてかなりな時間、臨界という核暴走しかねない事態に立ち至ったことがわかりました。今回の柏崎でもそういうことが心配される事態だったわけです。
また、放射能を「閉じ込める」のも巧くいったかというと、そうではない。六号機で、燃料プールから外に漏れました。七号機では、排気塔から大気へ放射性ヨウ素が漏れました。決して軽微とはいえない事態だったのです。
③地震と原発
甘い耐震設計 基準地震動を超過
そもそも原発が甘い耐震設計だったのではないか、ということが、私の地元の女川原発に於いて、二〇〇五年のさほど大規模でない地震で露呈しました。各原発ごとに基準地震動が設定されていて、起こりそうな最強地震動と起こりそうもないが万一を考えて想定する限界地震動と二つの基準が設けられていますが、その二つとも越える事態になりました。要するに、耐震安全面での前提が崩壊したわけです。実際そうした事態は、本年三月の能登半島地震の志賀原発で、また今回の柏崎刈羽ではさらに甚だしく、その後立て続けに現れることになりました。
それを踏まえて、昨年(二〇〇六年)、新しい耐震指針が決められました。が、これもまだ問題が多いのではないか、とも言われています。前に紹介しました石橋教授は、新指針検討委員だったのですが、「活断層が見つけられなくとも、マグニチュード七・三ぐらいの大きな地震は起こり得る」と委員会内で対立し、検討委員を辞した、と伝えられています。中越沖地震は新指針策定後、十カ月で起こったわけですが、新指針すら早くも綻びが出た、という声もあがっています。そして、国内では老朽化した原発も増えてきていますが、それらはそれ自体の経年劣化に加え、国の設置許可を得た時期が旧指針以前の、地震に対する知見が手探り状態であった頃のもの、という根本問題を抱えたまま、日々稼動しています。
④迫り来る「原発震災」
大地動乱の時代 ─地震学者は警告する─
実は、その石橋教授は、ずっと「地震の静穏期が終わり活動期が来るぞ」と訴えてきています。もちろん、科学的知見による根拠に基づいて主張しています。特にプレート境界型地震の場合、長期的に静穏期と活動期がくり返す、と。そして、首都圏に於いて戦後復興期と高度経済成長を経て一極集中していく時期が関東地方の地震静穏期に重なった、と述べ、来るべき活動期に於いて未曾有の大震災が訪れることを憂慮しています。本発表に拝借した『大地動乱の時代』は、岩波新書で一九九四年発行ですが、その翌年に、兵庫県南部地震すなわち阪神大震災が起こりました。それから大小の地震が頻発しているのではないでしょうか。
また、石橋教授は、東海大地震の切迫性を提唱した学者でもあるのですが。ここはプレート境界型地震で、九〇年から一五〇年周期で、大地震がくり返されてきた、と言います。そして、歴史的にこの東海地震、時には西方の東南海地震、さらには南海地震と連動させながら発生しているようです。今、安政東海地震より約一五〇年の空白、ということです。
資料の中には、最近出されたもので、特に石橋氏が中越沖地震の起こる前に「巨大地震が原発を襲う」と指摘した論文(宝島社)や、『週刊ダイヤモンド』の記事をお入れしました。その中にもある通り、氏は最近「原発震災」について盛んに発言し行動しています。「原発震災」とは、巨大地震と原発苛酷事故が同時に、情況によっては複数(多発)起こる大惨事です。そこでは「通常の」震災であればできる救援活動が放射能によって阻まれます。放射能から逃れるための避難は震災事象によって阻まれます。それ以前に国が情報操作を行い、住民を閉じ込め(救援も封鎖し)見殺しにする可能性もあります。これは荒唐無稽の説ではなく、私たちは既に九九年のJCO事故で疑似体験しています。
実は、このようなことが中部電力・浜岡原発ではいつでも起こり得るのです。なんと、想定する東海大地震のど真ん中に立地しています。首都圏はここから約二百キロ離れていますが、「原発震災」で一機爆発したとして風下の場合、被曝や癌死者は一九一万人、とするシミュレーションがあります。仮に五機全部がドミノ式に爆発した場合、同条件で同じく八三〇万人、という数字が出されています。これでもかなり控えめな数とも思えますが。近隣諸国を巻き添えにした国家破滅であることはもちろん、世界的にも修復不可能な事態となるでしょう。
残念ながら、と言いますか、この十月二十六日に静岡地裁で浜岡原発差し止め訴訟の判決があり、思いもかけぬ全面敗訴に終わりました。公判過程では住民側が優位に進め、「地震と原発」をめぐる情況の推移や柏崎の事態の追い風も受けて、九分九厘「勝利」は疑わなかったのですが。現地の知人は「裁判官が国や最高裁あたりから相当に圧力がかかったのでは」と推察もしています。実際そう思えるほど、判決は中部電力の主張をそのままなぞるだけのひどい内容でした。本当は今回、意気揚々と報告に臨むはずだったのですが。
⑤大地の警告に耳を傾けて
宗祖に於ける正嘉大地震と安国論執筆
さて、ご承知の通り、宗祖も鎌倉で正嘉の大地震(一二五七年)に遭遇し、それが『立正安国論』執筆の契機になるわけです。幕府の記録書『吾妻鏡』にも火災や液状化現象も含めて記述されるこの地震は、一二九三年の関東巨大地震に先立つ首都圏直下の前兆的な地震活動の一つ、とも見られているようです。
ともかく、この体験が宗祖の伝道活動の出発点になったことは『災難対治抄』や『災難興起由来』等の著書でも明らかであります。当時幕府の地震とその対処の仕方について、宗祖は批判したわけです。もちろん、当時と今とでは、時代や思想的背景、情況は全く違いますが。秋彼岸パンフに自前で記した『大地の警告に耳を傾けて』は資料に入れましたが、此度の中越沖地震と柏崎刈羽の事態に立正安国論を重ねて表現したものです。
それで、安国論を拝読しますと、主人の最初の言葉が「独り此の事を愁えて胸臆に憤す」なんですね。憤りの念で胸が張り裂けそうだ、という感じでしょうか。そして「世皆正に背き人悉く悪に帰す」と続きます。今、私自身を含め、そのような思いは共有できるのではないか、と考えます。歴史を経てつながっている地震という共通の基盤に立っていることが、なおその思いを強くさせます。
「大地の動乱」これは「起こるかも知れない」ではなくて「ほぼ確実」なのですね。マグニチュード八クラスの東海大地震の発生確立は三十年間で八七%、と言われています。「未萠をしるを聖人という」(『撰時抄』)とありますが、これは「未萠」ではないんです。これに対して、どう向き合うのか、あるいは逃げ避けるのか、ということが、私たちに問われているのだ、と思います。地震学者が警告する中で、司法は本来の役割を果たさない。メディアも大した関心を示さない。座して破滅を待つような状態に、今置かれているわけです。まさに「独り此の事を愁えて胸臆に憤す」です。
くり返しますが、「原発震災」の事態になったら、甚大な震災被害に加えて、押し寄せる放射能との戦いを余儀なくされます。政府を信用したら助かる命も失うことも考えられるでしょう。たった千分の一グラムのウランがJCO事故を引き起こしました。通常年間一ミリシーベルトが公衆の被曝限度に定められていますが、この時は、百ミリシーベルトを超えても大丈夫と言った、と避難した現地の友人の驚きと嘆きを記憶に留めています。東海大地震で危ぶまれる浜岡原発は、五機で電気出力が約五百万キロワット。全機稼動すれば(現在一、二号機は長期停止中)広島タイプの原爆が年間五千個生み出される計算になります。これらが放出される事態になったら、許容被曝線量をどれだけ「値上げ」するというのでしょうか。
大地震発生が必定という中で、原発との「共存」を強いられる、とはそういうことなのです。総ヒバクの危機がいよいよ視野に入った、ということです。宗門運動では「生命の尊重」を掲げています。これには、議論がいろいろあるようですが、少なくとも「沈黙」はあり得ない、と思います。ありがとうございました。