現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
『六巻抄』の構造と問題点(五)—「依義判文抄」を通して(その一)—
『六巻抄』の構造と問題点(五)
─「依義判文抄」を通して(その一)─
早 坂 鳳 城
一
今回は、『六巻抄』第三章の「依義判文抄」について論じますが、『六巻抄』の目次に、序、一、三大秘法の開合の相を明かす、とありますが、ここは、三秘の文証論であり、堅樹日寛独善の教学であります。二、法師品の「若復有人」等の文から、四、宝塔品の「此経難持」等の文までが、迹門の文証が説かれます。五、寿量品の「此大良薬」等の文から八、神力品の「爾時仏告上行」等の文までが、本門の文証が説かれます。九、本門の因果国の三妙の文から十二、宗教の五箇その義を明かすまでが堅樹日寛独自の見解が説かれますが、ここでは、序、一、三大秘法の開合の相を明かすまでについて論じます。
「依義判文」とは、義によって文を判ず、つまり、一切の経釈を義によって判読していくことであり、祖書の『十章抄』にも出ていますが、「依義判文」を根拠や論拠なく用いますと曲会私情の釈を生み出す危険が伴います。
故に必ず「依文判義」を前提として教証を第一、論証を第二、祖判を第三とするのは言うまでもありません。
二
「依義判文抄」の序では、堅樹日寛は、『撰時抄』を引用して、
「仏の滅後に迦葉・阿難・竜樹・天台・伝教の未だ弘通しましまさぬ最大深秘の大法、経文の面に顕然なり。此の深法今末法の始め後五百歳に一閻浮提に広宣流布す。」等云云。(大石寺版『六巻抄』八十頁・傍線引用者)
とありますが、『撰時抄』を『平成新編日蓮大聖人御書』(八五一頁)、『昭和定本日蓮聖人遺文』(一〇二九頁)の両書に照合しますと
一、「仏の滅後に・・・」の前には、いずれも「但し詮と不審なる事は、仏は説き尽くし給へども」とあり、削除した可能性があります。
二、「迦葉・阿難・竜樹」の後には、いずれも「無著・天親乃至」とあり削除した可能性があります。
三、「最大深秘」では、いずれも「最大の深秘」とあります。
四、「最大深秘」の次に「大法」とありますが、いずれも「正法」とあり、改竄の可能性があります。
五、「経文の面に顕然なり。」とありますが、「顕然」とあるのは、いずれも「現前」とあり、改竄の可能性があります。
六、「後五百歳」とありますが、いずれも「五五百歳」とあります。
七、「一閻浮提に広宣流布す」で終っていますが、いずれもその後に「べきやの事不審無極なり。」とあります。
以上、祖書を改竄、削除させていることが解かります。
また『撰時抄』は、三大秘法の依文でもなく、ここでは「広宣流布することは、不思議なことである」と言っているのみであります。
第一、三大秘法の開合の相を明かす
と目次にありますが、六つの問答よりなっておりまして、①〜③の問答では、三大秘法が何処から出たのかの出処論。④、⑤の問答では、三大秘法の開合論。⑥の問答では、三大秘法の文証を問います。
ではその問答①ですが、問いで、「宗祖何ぞ「最大深秘の大法、経文の面に顕然なり」」(大石寺版『六巻抄』八十頁)と、改竄の文証をそのまま依用しており質問に矛盾があります。
答えでは、「一代聖教は浅きより深きに至り、次第に之を判ずれば実に所門の如し。」(大石寺版『六巻抄』八十頁)これは、始成釈尊の説示の次第を肯定しています。
「若し此の経の謂れを知って立ち還って之れを見る則んば、爾前の諸経すら尚本地の本法を詮せずということ莫し。何に況経の迹本二門をや。」(大石寺版『六巻抄』八十頁)は、顕本であります。本地に立ち還って一切経を見る。久成本仏の見解であり、玄義の文をかりれば、住本用迹顕本であります。
次に、天台大師の玄文の第九に「皆本地の実因実果、種々の本法を用て諸の衆生の為に而も仏事をなす」(大石寺版『六巻抄』八十頁)とある、玄義の文証は、前文と末文を意図的に削除したと思われる文証で住迹用本顕本の文証であり、従って先述の論旨とは矛盾するのであります。
「文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に「経文の面に顕然なり」と云うなり」(大石寺版『六巻抄』八十頁)とありますが、祖文に「顕然」の所は、「現前」とあるので、文底ではなく文上です。よって文底の義とは、矛盾する概念を表し、曲会私情は明らかであります。
問答②では、 問いでは、「この経の謂れを知る」(大石寺版『六巻抄』八十一頁)の「謂れ」とは何かと問うのであるが、「謂れ」とは、因縁・故事・来歴の意味であります。
しかしながら、答えでは、「宗祖の云わく「この経は相伝にあらざれば知り難し」等云云。三重秘伝云云。」(大石寺版『六巻抄』八十一頁)と、もったいぶって三重秘伝「秘密である、秘密である」と解答しているのでありますが、引用している祖書の『一代聖教大意』の云う所の相伝とは、衆生の機根とお経の位をあらわした問答の中で用いられた文証であり、祖師の相伝した法華経観のことで一切衆生皆成仏道の意味で、秘密の相伝のことではありません。
問答③は、三大秘法の依文の一部をあかす問答でありますが、問いでは、「若し爾らばその顕然の文如何。」(大石寺版『六巻抄』八十一頁)と、文底秘沈の義、意味に固執し、答えで「此に開山上人の口決有り、今略して之れを引いて以て綱要を示さん云云。」(大石寺版『六巻抄』八十一頁)と、その経証をあげます。日興書と言われていますが、偽書の『三大秘法口決』と称する文証を挙げて三大秘法を論証します。しかしながら、『三大秘法口決』の図の内容と堅樹日寛の説明があっていません。似たような言葉を持って誤魔化しているようです。
また、三大秘法が、神力品が依文となることは口決だとか、口伝ではなく日蓮門下共通の見解ですが、『三大秘法口決』では、寿量品が依文となって書かれています。
(この原型は、文句、文句記の神力品と法華玄義の略釈五重玄の解釈が底本になっています。その底本を日蓮聖人の立場で解釈したものであり、口決だとか、口伝ではなく日蓮門下共通の見解であります。)
大石寺(以下、石山と略す)では、口決を日興の著述と称しますが、いまだ筆跡鑑定はなされていないのであります。
三
問答④、⑤は、三大秘法の開合論であります。
問答④の問いでは、「更に勘文有りや、若し爾らば聞くこと得べけんや。」(大石寺版『六巻抄』八十一頁)と、「若し別の大事な文証があったら教えて欲しい。」と質問し、
答えでは、「先ず須らく三大秘法の開合の相を了すべし。若し之れを了せずんば経文を引くと雖も、恐らくは解し易からざらんことを云云。」(大石寺版『六巻抄』八十一頁 八十二頁)と、「文証をもって答える前に、三大秘法の開合の相を理解しなさい。」と答えます。
問答⑤では、問いで「若し爾らば三大秘法開合の相如何。」(大石寺版『六巻抄』 八十二頁)と、三大秘法開合の相を尋ねます。答えでは、この答えの中に堅樹日寛の最たる曲会私情の釈が存在します。それは、「一大秘法とは即ち本門の本尊なり」(大石寺版『六巻抄』 八十二頁)と、「一大秘法を本門の本尊」と規定したことにあります。祖意は、「一大秘法は本門の題目」であります。あきらかに祖意に反するのであります。堅樹日寛の最大の誤謬があります。
以下、堅樹日寛の三大秘法の開合を要約整理すると、次の如くであります。
堅樹日寛は、「本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義と成る。」(大石寺版『六巻抄』八十二頁)として、六義、六大秘法を説くのであります。
続いて堅樹日寛は、「高僧伝に「一心は万法の総体なり。分かちて戒定慧と為し、開して六度と為り、散じて万行と為る」」(大石寺版『六巻抄』八十二頁)とあることを引用しますが、一つの心は、戒定慧の三学であり、それを開くと六度であり更にそれを拡大すれば万行であります。しかし、万行は一心ではありません。原文にある末文が削除されています。三秘、六秘の関係と高僧伝の文証は関係がないのであります。三大秘法を六つに分けるのと全く関係がないのであります。
一秘と三秘の関係を整理すると、法体に約せば一大秘法、行体に約せば三大秘法であります。
高僧伝の文証は、行者の己心、一心の中に三学を備え、三学の実践形態が六度であり六度は万行の修行の要約であります。しかし、万行から見れば全ての行は、統一された一心ではなく行者の一心は全て万行に共通するわけではありません。
従って、一心と三学と六度と万行の関係を論じた文証であって三大秘法の開合を論じた文証ではありません。与えて言えば文証不適切、奪って言えば無関係のこじつけです。
「本尊は万法の総体なり」(大石寺版『六巻抄』八十二頁)の「本尊」は、題目の間違えであります。
堅樹日寛は、本尊は万法の総体、一大秘法の南無妙法蓮華経と主張します。法体に約せば、この説も妥当性がありますが、行体に約すと、十界曼荼羅が本尊たりと言えないと言う矛盾が生じます。十界曼荼羅と南無妙法蓮華経の関係が不鮮明です。
次に堅樹日寛の「六大秘法」についてですが、本尊の人法対別論は、爾前迹門の範疇であります。本門以後は人法一箇が常道であります。
戒壇の事と義の弁別は、本門の戒壇と即是道場の戒壇を顕わし祖意に準じています。
題目の信と行の弁別は、爾前経にも存在しない珍説であります。信行の具足は佛教の大前提であり、信に応じて行、行に応じた信は一体でなければ精神分裂、心身分裂をきたすことになります。
故に、本尊の人法の弁別、題目の信行の弁別は無意味であります。従って六大秘法は、成立しません。祖意に反する曲会私情の妄説であります。
四
問答⑥では、問いで「已に開合の相此れを聞くことを得たり、正しく三大秘法の経文如何。」(大石寺版『六巻抄』八十二頁)として、三大秘法の文証を求めるのであります。
答えでは、「三大秘法とは即ち戒定慧なり。一部の文、三学に過ぎたるは莫し。然りと雖も今管見に任せて略して三大秘法具足の文を引かん。」(大石寺版『六巻抄』八十二頁)と、各論して文証を挙げますが謂わば頭としっぽしか言わない、三大秘法と戒定慧の三学の関係の説明なしにいきなり三大秘法=三学を言う粗雑で乱暴な論法で論じています。佛教は三学だけではないのですから、ここでは、台家は諸法実相、当家は題目と言うべきではないでしょうか。
五
こうして、三大秘法の文証論、教証論を説くべき「依義判文抄」の序においても、堅樹日寛の己義、曲会私情の釈であり、「依義判文抄」というより、むしろ「己義判文抄」といえましょう。ご清聴ありがとうございました。