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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

「千の風になって」の教化学的考察—そのスピリチュアリズム的側面

 

「千の風になって」の教化学的考察
 —そのスピリチュアリズム的側面
 
伊 藤 立 教
 
 日蓮宗の《お宝》
 
 現代における教化の方策を考える「教化学」は、日蓮宗現代宗教研究所設立時から石川教張師(第九代所長)が提唱し、教化研究会議・教化センターの実働、各宗教化関係研究機関交流会の発足を主導した。
 日蓮宗現代宗教研究所設立三大目的のひとつである「教学の現代化」につながる「教化学」確立をめざすこの研究発表大会の意義は、大きく深い。
 日蓮聖人滅後の七二六年間、先師は、衆生と時代と場所と政治を分析し、時に先導し、時には従属させられながら、教化活動を展開してきた。それは、工夫と苦悩の歴史でもあった。
 ところが今日、「講」といえば本門仏立宗(講)、「法座」といえば立正佼成会、「折伏」といえば創価学会、といわれ、教化の面で、日蓮宗の《お宝》が他教団にとられてしまった観がある。
 他宗・他教団の人は言う、日蓮宗はお宝をたくさん持っていてうらやましい、と。いわく、臨機応変に諸神を勧請できる文字式曼荼羅本尊、久遠実成の釈迦牟尼仏、日蓮聖人のほとんどの遺文・遺品・霊跡。
 本化正統教団の日蓮宗には、上行所伝のお題目がある、棲神の祖山身延山がある。
 日蓮宗新宗門運動が、お題目結縁をかかげ、祖山総登詣をすすめるのも、当を得ている。というよりも、後がない。
 
 「千の風になって」は宗教者のいない宗教
 
 さらに今日、「霊」といえば『オーラの泉』に取って代わられた観がある。スピリチュアリズム(霊的真理・心霊主義)といわれるものである。
 その現れと思われるのが、「千の風になって」という歌の大流行である。
 今年(平成十九年)二月、ある大きな超宗教団体の大会で、私が、「『千の風になって』の大流行をどう思うか」と質問したところ、某仏教系大学学長が、「あれは宗教者のいない宗教ということで、いいじゃないか」と答えられた。宗教者のいない宗教でいいのなら、仏教などの創唱宗教の意義がなくなるのでは、と考え、直葬や自然葬がふえてきている現状とあわせ、『日蓮宗宗報』四月号に分析記事を書いた。
 
 「千の風になって」はアニミズムの詩
 
  千の風になって(作者不明 日本語詩新井満) 
   私のお墓の前で 泣かないでください
   そこに私はいません 眠ってなんかいません
   千の風に 千の風になって
   あの大きな空を 吹きわたっています
   秋には光になって 畑にふりそそぐ
   冬はダイヤのように きらめく雪になる
   朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
   夜は星になって あなたを見守る
   私のお墓の前で 泣かないでください
   そこに私はいません 死んでなんかいません
   千の風に 千の風になって
   あの大きな空を 吹きわたっています(注1)
 作者不明のこの詩について、日本語訳者の新井満氏は、自著『千の風になって』にこう書いている。
  死者が、実は死んでなんかいないのだ。(四三頁)
  千の風になるとは、大地や地球や宇宙と一体化することなのである。(四八頁)
  要するに作者は、“死と再生の詩”を書こうとしたのだ。(五一頁)
  作者の考え方や感じ方が、アニミズムに近いことは既に書いた。(六三頁)
 
 『日蓮宗宗報』での私の意見
 
 これはアニミズムの詩、と言う新井満氏に対し、私は『日蓮宗宗報』にこう書いた。
   アニミズムとは、「宗教の原初的な超自然観の一。自然界のあらゆる事物は、具体的な形象をもつと同時にそれぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、諸現象はその意志や働きによるものと見なす信仰」(岩波書店『広辞苑』第四版)です。古代の人間が恐れた「死」は、アニミズムでは安心を得られず、創唱宗教の登場をまって、「死」の哲学的意味を得、ようやく落ち着いたのではなかったのでしょうか。創唱宗教である仏教が弘まっているはずの日本で、「千の風になって」が注目されているのは、仏教の教えが理解されていない、支持されていないということでしょうか。仏教は、「死」を徹底的に見つめます。人間にとって「死」は避けがたい事実である、として、生老病死の四苦を認め、そのまま受け入れることから始まります。「死」の苦しみを苦集滅道の四諦で理解し、苦しみから逃れる八正道・十二因縁(縁起)を悟れば、安心を得ることができる、という教えです。さらに法華経は、諸法実相・久遠実成で真理と救済を説き、日蓮聖人は、お題目を唱えることで即身成仏・霊山往詣の安心を得られる、とはっきり教えています。(注2)
 
 「朝日新聞」文化欄の反応
 
 この文章を日蓮宗現代宗教研究所ホームページに載せたところ、朝日新聞東京本社記者から取材を受けた。
   いまや葬儀でも頻繁に流される歌となったが、「私は墓にいない、死んでなんかいない」という表現は、日本人が共有してきた仏教的な死生観とは異なると、違和感を表明する仏教関係者もいる。「千の風になって」が注目されているのは、仏教の教えが理解されていない、支持されていないということでしょうか—日蓮宗現代宗教研究所の主任で、住職でもある伊藤立教さんは最近、機関紙でそう疑問を投げかけた。伊藤さんは、成仏や浄土があることで安心して臨終を迎えられ、のこされた人も葬儀や回向という儀礼を通じて死者と向き合えるのが仏教だという。アニミズムでは「死」に対する安心を得られなかったが、自然宗教を脱した仏教やキリスト教などにより「死」の意味づけが明確にされた。そう伊藤さんは考える。「葬式など儀式をすることに明け暮れ、それらの持つ意味を我々が十分に伝えてきたのか、という反省はある。しかし、亡くなっても生きていて欲しい、という『千の風』に表れる気持ちは、未練がどこまでも残ってしまうように感じてしまう」(中略)東京大の島薗進教授(宗教学)は、「千の風」の世界観を「死者と生者の関係が非常に近く、個人的だ」とみる。これまでは身内が亡くなれば、通夜などに親族や近所の人々が集い、飲食を共にしながら、死者の思い出を語らい、悲しみを癒してきた。さらに先祖を供養し、墓を大事にすることで、「家」というシステムにおいて死者との一体感を維持していた。だが、そうした共同体の機能はどんどん失われている。「死者との交わりが個的になり、痛みや苦しみも個々人で抱え込んでしまっている」と分析する。そうした時代を生きる人たちには、「風になって空を吹きわたっている」死者との交流がストレートに胸に響くのだろう。島薗さんは言う。「『千の風』の世界は、風通しがよくて広々としている。でも同時にさびしさを感じてしまう」(注3)
 記者は、日本人の死生観が変わりつつあるのではないかという点に注目し、この歌の大流行は、仏教者の怠慢、日本仏教を支えてきた共同体機能の喪失と見る向きもある、と紹介している。
 
 「日蓮宗新聞」コラム欄の反応
 
 この記事は全国版に掲載され、多数の多様な反応があった。日蓮宗新聞コラム欄には、次のような反応があった。
   平成十九年六月二十日朝日新聞に「千の風」なぜヒットという記事があった。「私のお墓の前で、泣かないでください」で始まる詩だ。死者が遺された人に語りかけ、悲しみを治してくれる詩とある。変わりつつある日本人の死生観が、このヒットの要因と見る人もいると▼本当にそうだろうか。日蓮聖人は「忘持経事」という富木常忍に与えたお手紙にこう記される。「教主釈尊の御宝前に母上の遺骨を安置し、五体を地に投げその前にひれ伏し、合掌して両眼を開いて教主釈尊の尊容を拝すれば、宗教的な悦びが身体にあふれて、心の苦しみもすぐに消えてしまった。それのみならず、父母への感謝の念が起こり、わが頭は父母の頭わが十指、わが口は父母の口である。それは例えば種子と果実、身と影のようなものだ。あなたの心から親の供養をされた」と教示される▼母親の遺骨を前にして、常忍が、母親を供養する姿に聖人は感動した。母親と常忍の一体の関係をお示しになり、常忍に対しては即身成仏の教えを説かれている。ここに法華経を介しての親子のあり方を簡明に示された▼現代においても、この感覚は少しも変わらない。死者の墓前に立った時、死者から語りかけてくるだけではなく、死者と生者の心の交流がある。この交流こそが大事なポイントである。宗教的な感情はこのようであってこそ本当に心の癒しを与えられるのである。(久)〈筆者注—以上全文、原文のまま〉(注4)
 葬儀をしないで火葬する「直葬」が、首都圏で二割もあるという。直葬の後、宗教法人管理墓地への無断埋骨もあるらしい。墓前での死者と生者の心の交流はある、が、死者の成仏、いずれは死ぬ生者の諦観といったものは、教わらなければわからない。法華経・日蓮聖人のそれは、日蓮宗教師が説かなければ理解されない。「宗教者のいない宗教」が弘まることを懸念し、もっと積極的に教化の方策を練らなければならないのではないか。
 
 「週刊大衆」の反応
 
 「週刊大衆」には、それこそ一般大衆的反応があった。筆者への直接取材はなかった。
   テノール歌手・秋川雅史のCD『千の風になって』が、八月下旬、ついに一〇〇万枚を突破した。(中略)だが、ここにきて、仏教関係者から思わぬ“物言い”がついているという。先陣を切ったのが、日蓮宗現代宗教研究所の主任で、住職でもある伊藤立教氏。六月二十日付の朝日新聞で、〈葬式など儀式をすることに明け暮れ、それらの持つ意味を我々が十分に伝えてきたのか、という反省はある。しかし、亡くなっても生きていて欲しい、という「千の風〜」に表れる気持ちは、未練がどこまでも残ってしまうように感じてしまう〉と疑問を投げかけるや、全国の僧侶から反響が巻き起こったというのだ。「伊藤氏の指摘ももっともですが、それ以上に彼らにとって痛かったのは、死者が、自らを“お墓の中にいない”と表現するフレーズですね。だって、日本の仏教の根幹は、お墓の中のご先祖様を拝むことでしょ?それを否定されてはねえ。今年のお盆の法要はやりにくかったと、グチをこぼすお坊さんもいましたよ」(宗教ジャーナリスト)(中略)「この歌がもっと困るのは、正直、仕事に差し支えるから。歌詞を真に受けて、お墓参りをしない人が増えるのではないかと心配で……」(関西地方の真言宗僧侶《》)実は近頃、僧侶が読経をする従来の葬式スタイルは、減少傾向にあるという。「無宗教の生前葬を行なったり、身内だけで密葬して、後日、ホテルでお別れ会を開くケースが増えてますからね。墓も作らず、海や山で散骨を希望する方も多いですし。昔は、先祖代々が当たり前だった檀家も、最近は“おカネがかかる”と離脱する人も珍しくない。お寺の経営もラクじゃないんですよ」(同)(中略)評論家の小沢遼子さんは、こう分析する。「確かに素敵な歌ではありますが、一時の感傷に浸っている人も多いはず。だから、お坊さんたちも慌てて騒ぎ立てる必要はありませんよ。人々の心はまた、ちゃんとお墓に向くのではないでしょうか」今年を代表する歌となった『千の風になって』。その威力は、“風”どころか、教義を脇に置かせるほどの“嵐”だったというべきか……。(注5)
 この歌が大流行している現象について、「朝日新聞」記事はその原因に注目し、「週刊大衆」記事はその影響に注目しているが、それぞれの記事のサブタイトルは、
  「朝日新聞」記事—「テーマ、中高年の共感誘う」「死者との交わり、個人的に?」
  「週刊大衆」記事—「中高年の涙を絞り上げ(以下略)」「お墓参りをしなくなる恐れも」
である。そう、中高年に注目しているのである。
 中高年といえば、日本人口構成上最多数を占める団塊の世代(昭和二二〜二四年生まれ)が含まれる。七〇歳以上の高齢者が人口の一割を超えた日本は、団塊の世代が七〇歳になる一〇年後に、前例のない超高齢化社会となる。その中高年は、宗教心が希薄だと言われている。敗戦で価値観の一変を経験した世代を親に持つことが、団塊の世代を特徴付けているようだ。その子どもたちは団塊ジュニアと呼ばれ、人口も多い。その特徴の影響も受けているだろう。宗教心の希薄な人たちが多くなるのではないか。中高年への教化対策が必要、と分析できる。
 人々の心はまたお墓に向くのではないかというが、アニミズムも含むスピリチュアリティ(見えない何かにつながる感覚)は無視できない。
 
 教団宗教に対するアレルギー
 
 スピりチュアリズム・スピリチュアリティを考えようとしていた時、興味深い新聞記事が出た。これも、朝日新聞文化欄記事である。
   約十億のカトリック信者を抱えるバチカン(ローマ法王庁)が、教会離れを促す一因とも見られる社会現象「ニューエイジ」に警戒を強めている。日本ではこのほど、法王庁の調査チームが発表した報告書の邦訳が出版された。「教会に対する挑戦」というニューエイジとは。
と書き出す記事は、次のように続く。
   「新しい時代」を意味するニューエイジは、七十年前後から米国で起こった宗教的な潮流。特定の宗教とは関係なく、「本当の自分」を見つけようとする考えや実践の総称で、見えない何かにつながる感覚(スピリチュアリティ)がしばしば重視される。瞑想やヨガ、セラピー、東洋医学、さらには地球を一つの「生命体」と見なす環境運動までさまざまな形をとる。研究者の間では近年、従来の宗教の枠に収まらない宗教意識の表れとして注目されている。(中略)最近、「スピリチュアル」と呼ばれる大衆文化にも、この流れをくむものが多く含まれる。日本のカトリック中央協議会が出したのは『ニューエイジについてのキリスト教的考察』。(中略)興味深いのは「ニューエイジ的宗教性の魅力を見くびってはなりません」と警告し、人々の「心の渇き」に応えてきただろうかと自らを振り返っているくだりだ。「ニューエイジの成功は、教会に対する挑戦ともなっています。人々は、キリスト教が自分たちの本当に必要とするものを与えてくれない(あるいは少なくとも与えてくれなかった)と感じています」。そのうえで、「人々の心の中のしばしば声を発することのない叫び声を理解すること」が必要と説いている。現代は「真の意味での権威」が失われたとも述べている。「人々はさまざまな制度に『帰属』する必要をますます感じなくなりました(にもかかわらず、孤独は現代人の大きな悩みの種です)」。地縁・血縁の共同体が壊れゆく日本では宗教者だけでなく幅広い層の関心を呼びそうな話だ。バチカンは〇四年に各国代表を集め、ニューエイジに関する会議を開くなど情勢分析を進めている。会議に参加したカトリック中央協議会の岩本潤一研究員は個人的な見解として、こう語る。「ニューエイジに吸い寄せられる人には、教団宗教に対するアレルギーがある。その事実を直視しなければいけない。今回の報告書は、自己批判としてのニューエイジ批判と言えるだろう」(注6)
 ニューエイジ批判の中でもスピリチュアリズム・スピリチュアリティに対するキリスト教関係者の警戒心が強いことは、右掲書冒頭で、
   この文書は、司牧活動を行う人々が、ニューエイジのスピリチュアリティを理解し、それに対応する上での導きとなります。そのために、このスピリチュアリティがカトリック信仰と異なる諸点を明るみに出すとともに、ニューエイジ思想家が信じる、キリスト教信仰と対立する諸見解を論駁します。(注7)
と言っていることでもわかる。
   ニューエイジが大流行したのは、それが信仰、セラピー、実践をゆるやかに組み合わせたものだからです。(中略)しばしば、ニューエイジが示すものは、いかなる宗教に帰属することでもなく、ただ「スピリチュアル」だといわれます。けれどもそこには、多くの「消費者」が考える以上に、特定の東洋宗教との密接なつながりが見られます。このことは、だれかが「祈り」の集いへの入会を選択する際にとくに重要です。(注8)
とも分析している。
 キリスト教関係者が、人々の「心の渇き」に応えていない、と自己批判しながら、《新宗教》対策に取り組んでいる。
 
 「千の風になって」に対する経判—本時の娑婆世界は常住の浄土
 
 『妙法蓮華経如来寿量品第一六』にのたまわく、
  衆生 劫盡きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林 諸の堂閣   種種の宝をもって荘厳し 宝樹 華果多くして 衆生の遊楽する所なり(注9)
 日蓮聖人御妙判は「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」にいわく、
  今 本時の娑婆世界は 三災を離れ 四劫を出たる 常住の浄土なり 仏 既に 過去にも滅せず 未来にも生  ぜず 所化 以て同体なり 此れ即ち 己心の三千具足 三種の世間なり(注
 
 「千の風になって」が大流行している今を好機ととらえ、これを反面教師として、即身成仏・霊山往詣の大安心を弘めたいものである。 
 「教学なき現場」とも、「現場なき教学」ともいわれている現代、「教学」と「現場」を結ぶ「教化学」の意義は大きく深い。
 (注1) 新井満著『千の風になって』三五頁 二〇〇三(平成一五)年一一月六日 講談社
 (注2) 『日蓮宗宗報』第二二九号「現宗研の時事ノート」一六五〜七頁 平成一九年四月一五日 日蓮宗宗務院
 (注3) 「朝日新聞」平成一九年六月二〇日付朝刊文化欄「『千の風』なぜヒット」 宮本茂頼記者 
 (注4) 「日蓮宗新聞」平成一九年九月一日号コラム欄「鬼面仏心」
 (注5) 「週刊大衆」平成一九年九月一〇日号「仏教関係者、お坊さんが猛反論する『千の風になって』はここが大間違い!」
 (注6) 「朝日新聞」平成一九年一〇月九日付朝刊文化欄「米国初の社会現象『ニューエイジ』 警戒強めるバチカン」 磯村健太郎記者
 (注7) 教皇庁文化評議会・教皇庁諸宗教対話評議会著『ニューエイジについてのキリスト教的考察』一一頁 二〇〇七(平成一九)年四月二七日 カトリック中央協議会
 (注8) 同右六四頁
 (注9) 法華経普及会編『真訓両読妙法蓮華経並開結』四二九頁 大正一三年九月二八日 平楽寺書店  
 (注) 立正大学日蓮教学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』第一巻七一二頁 昭和二七年一〇月一〇日 総本山身延久遠寺
 
 スピリチュアリズムについて、オウム真理教信者の脱洗脳に関わった脳機能学者苫米地英人氏は、著書『スピリチュアリズム』(二〇〇七—平成一九—年 株式会社にんげん出版)で次のように指摘している。
   スピリチュアリズムという言葉は、江原(啓之—筆者注)さんの著書によると、心霊主義というイメージでは受け容れられづらいという理由で日本向けに選んだカタカナ言葉だそうです。彼の著書の言葉を借りれば、スピリチュアリズムの正式名称は、「霊的真理教」とでも言うべきでしょう。実際、本著で概観したように、シルバーバーチに代表される、江原さんが影響を受けた米国スピリチュアリズム並びに、彼がセミナーに通った英国スピリチュアリズムの中には、アートマンの永続性(霊魂の不滅)、生まれ変わり(輪廻転生)、本人の業(カルマ)による霊的ステージの階層性の三つの基本的教義が共通して存在することは、すでに述べたとおりです。これは、二五〇〇年前に釈迦が否定した当時のバラモン教の教義の核心であり、その後はインドでの仏教の衰退と共に後期密教以降のインド密教で復活し、そしてチベット密教に引き継がれた教義です。インドでは、ヒンドゥー教としてその後もそのまま継続され、人間差別の最たるものとして有名なカースト制度の基本的で哲学的・宗教的な基盤となる考え方です
   江原さんの著書でも同様なことが中心教義のひとつとして書かれています。曰く、現在苦しみを経験しているのは、「魂を磨く」ためであり、私たちは、そのためにこの世に生まれ、その苦しみをしっかりと経験すれば、来世に素晴らしいことがあるというのが、彼の論理における「カルマの法則」というものです。この論理により、一般の仏教宗派、日本神道、その他の日本の宗教・宗派は、現世利益を約束する誤った宗教哲学であるとの批判が彼の著書全般を通して主張されています。「現世利益」の論理が良いか悪いかは別として、彼の「来世利益」の論理が成り立つ大前提が、今述べたアートマンの永続性、輪廻転生、カルマによる霊的ステージという、バラモン教以降のヒンドゥー教、チベット密教の基本的な論理であるわけです。もちろん、アセンションで代表されるニューエイジ系チャネラーの教義でもあります。これらの論理を釈迦はアートマンを否定することで否定し、キリスト教、イスラム教は輪廻を否定することで否定しています。つまり世界の三大宗教が否定しているのには当然理由があると言うことです。それは、これらの論理が、絶対的な差別思想を孕んでいるからにほかなりません。個人に固有な性質が何度生まれ変わっても永続的に個人に帰属し、それにより、階層が異なる個人が固定化されるという論理—江原さんの言う「霊的世界の絶対的差別という真理」は、まさにヒンドゥー教がカースト制度を生み出したように、現在生きている人間存在を、霊的ステージによって、「高い」「低い」と判断できるという絶対的な差別の思想を社会に喧伝しているという事実に、江原さん自身も気がついていないようです。カルマという霊的な論理を持ち出すことで、あの世の論理のように聞こえますが、それが語られている対象は現在生きている生身の人間です。
   歴史的には、この論理がナチズムを生み出したことは、すでに述べたとおりです。チベット密教の超人思想に憧れたヒトラーが、自分の党のシンボルを「卍」のマークとし、バラモン教起源の思想を根拠に優性遺伝の考え方を展開したのは、あまり知られていないことです。もちろん、ナチズムの展開には、現在の聖書原理主義に通じる「ゲルマン人」選民思想が強くはたらいたことは事実ですが、その背景にヒトラーのチベット超人思想に対する強い憧れがあったということを、しっかりと知っておくべきでしょう。その思想の中心教義が、霊魂の不滅、輪廻転生、霊的ステージの三つです。まさに、霊的真理教、アセンションを問わず現在のスピリチュアリズムの教義そのものです。もちろん、一九九五年のサリン事件を引き起こしたオウム真理教の中心教義もまったく同じでした。これは中沢新一が完成させたものです。この論理から、「現在悪業をはたらいている人間はポア(殺人)してあげる方が、本人のためである」というタントラ・ヴァジラヤーナのチベット密教論理が生まれたという事実をオウム事件を風化させないためにも日本人全員がきちんと知っておくべきでしょう。彼らの論理では、殺されるという大きな苦を受けることで、その人の魂は多いに磨かれ、霊的ステージが一気に上がり、来世はすばらしいことがあるので、本人のためになるということです。まさに、スピリチュアリズム、霊的真理教の論理そのものです。(二〇九〜二一二頁)

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